32.彼が彼であるゆえに
左手をハロルドの右腕に添える。硬い二の腕だ。
きっと筋肉のおかげだ、と笑った。
「鍛えてる?」
「毎日欠かしてませんから」
「シャルル様も一緒に」
「最近は頑張ってらっしゃいますよ」
顔を見合わせて、声を立てて笑う。
「ヴィオレット嬢もでしょう?」
「まだまだだよ。こんなに硬くない」
「女性と男性で体付きは違いますから、ヴィオレット嬢の場合は硬くなり過ぎはしないのでは?」
「そっか……」
残念、ともう一度笑ってから。
ハロルドは男の人なんだ、と改めて思う。
今は王太子の秘書で、趣味が筋トレとお菓子作りで、たくさん勉強して、奨学金を得て大学を卒業した人。
彼が彼であるゆえに、恋に落ちたんだ。
「残念がることはないでしょう」
「引き締まっているほうが素敵かなって思ったんだもの」
「確かに、引き締まっているほうが、女性も素敵でしょうね。ただ細いだけというのは――痩せるのは駄目ですよ。運動する分ちゃんと召し上がってください」
「食べるよ。明日からもたくさん」
なんだかウキウキする。
自分で自分も気持ちを知られたのは大収穫だ、秋の実りだ。
だけど、その気持ちをどうしていくのかは、ぱっと分からない。多分また、こうして不意に思いついたりするのかもしれない。
だから今はただウキウキして、穏やかな笑顔に見惚れるだけだ。
「では、今日は晩餐会の場に戻りましょうか」
言われて、歩き出す。
彼が護ってくれるから、前を見ずとも歩ける。
だが、そうしてエスコートしてもらったはいいが、恥ずかしい。
二階から降りていく時間がとてつもなく長くて、あっという間で、終わらせたくないような。
「ドキドキする」
「緊張ですか? まぁ、踊っている間は緊張するでしょうね。今年の成年ということで注目されるのは仕方ありませんし、シャルル様と踊るのでは尚更でしょうね」
「そうでしょう?」
本音を誤魔化してたどり着いた会場は、相変わらずの喧騒。声と熱で溢れている。
だが、出入り口に立った瞬間に、奥の席から母が速足でやってきた。
「何処に行っていたの?」
きゅっと眉を寄せた母に問われて。
「すぐそこよ」
二階を指差す。
「そんなところで何をしていたの」
マリー・テレーズは、娘の手を握って引き寄せながら、ハロルドに冷たい視線を向けた。
彼はわずかに眉を下げて、腰を折る。それでも、マリー・テレーズの視線は凍えたまま。
心臓が跳ねて、考えた。おそらく母はハロルドを知らない。
「シャルル様の秘書なの。お仕事されていたのよ」
告げて。
「ちょっとお手伝いしていたの」
ヴィオレットはにっこりと笑った。
こんなの嘘だ。
だが。
「シャルルのためなら仕方ないわね」
母を黙らせるには効果抜群だった。
「王太子というだけで、この先、どんな場所でも仕事ができてしまうものね」
うんうんと頷く母ににっこりと笑った。
「そうだよ」
「きちんと助けてあげて頂戴。あなたも」
と、マリー・テレーズはヴィオレットを見て、ハロルドを見る。
もう一度頭を下げて。
「かしこまりました、王妹殿下」
彼は言う。マリー・テレーズは眉をひそめたまま、頷いて。
「ほら、戻るわよ」
促して、くるりと体の向きを変えた。
母の視界から外れた瞬間、ペロッと舌を出す。
「悪いご令嬢ですね」
「そんなこと」
ないもの、と引きつった笑みを浮かべると。
「助かりました」
苦笑いを返された。
「ですが、私の相手はほどほどに。ダンスの時間が始まるのはすぐのようですから。楽しんできてくださいね」
ぐっと両手を握って、会場を向く。人の山の向こうから、大きく手を振りながらシャルルが走ってくる。
「……資料を渡すんじゃなかったの?」
「それはダンスの後で大丈夫なことです。さあ、行ってらっしゃい」
背中を押されて、ヴィオレットも走り出す。
お互いに駆け寄る。物語の恋人同士みたいだ。
周囲の注目を浴びているのも分かるけれど、堂々とドレスを翻す。
息が切れる前にシャルルまでたどり着いた。
向かい合った彼は、脂肪でほわほわの顔を赤く染めて。
「何処に行っていたの」
と言った。
またこの質問だ。
「ごめんなさい、席を外して。ちょっとそこまで」
と、母に言ったように、告げる。
「ちょっと、ってなんだよー」
ぶう、とシャルルが頬を揺らして。
「ハロルドといたの?」
さらに問われたことに、ヴィオレットは咄嗟に笑った。
「お手伝いしてましたの」
もう一回嘘。
シャルルは首を捻って。
「何かやることあったかなぁ」
呟いたが、ヴィオレットは聞こえないふりをした。
そうこうしているうちに、弦の音が高く響いた。ヴァイオリンだ。
二本のヴァイオリン、一本ずつのヴィオラ、チェロ。今夜は弦楽四重奏だ。
「ほら、シャルル様、ダンスですよ」
話を変えるのは今しかない。気合で目じりを下げて、口角を上げる。
「マダム・エレーヌに教わったことを完璧にやりませんと」
「そうだね」
へにゃっとシャルルがつられてくれた。それから、コホン、と咳払い。
彼はまっすぐに見つめてきてくれた。
「踊ってくれるかい、ヴィオレット」
彼が向けてくれる笑顔も、穏やかで、温かい。
差し出された掌は脂肪で分厚くて、柔らかくて。相対的に引き締まったとはいえ、絶対的にまんまるな体は、威厳よりも可愛らしさが目立つ。
彼が彼であるゆえに、恋に落ちるというならば。もしかしたら、この脂肪にときめく時が来るかもしれない。
――わたしじゃなくて、他の誰かが?
咄嗟に浮かんだ考えに、ひっそりと苦笑して。 差し出された掌を取って、会場の中央へ。
ちょうどワルツが始まった。
二人一組になった男女が、広間の中央へとぞくぞく集まる。その中にシャルルとヴィオレットで混ざっていく。
一歩目は間違いなく踏み出せた。
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