31.理由の一つではあるだろうけれど
顔が熱い。それを悟られたくない、と身を縮ませる。
幸い、カロリーヌもマルスリーヌも侯爵夫妻を見るのに夢中で、オレリアも別の友人たちに呼ばれているようだ。
だからヴィオレットは、こそこそとその場を後にした。さらにそのまま、会場の外に出てしまった。
晩餐会の会場である王宮の大広間は、ぐるりと回廊に囲まれていた。通常の三階分の高さがある天井に合わせて、回廊は三階ある。その二階へと階段を上ってみた。
見下ろせば会場中が分かる。煌びやかな料理が並び、そこかしこに談笑の輪ができていた。重なり合って響く声は、今は黙っているヴィオレットの耳に、音として届く。
皆、何を喋っているのだろう。
流行りのドレスについて? 今年の作物の実りについて? それとも他人の噂話?
会場に戻れば言葉として聞けるだろうけれど、やっぱり戻りたくない。
ぐるぐると思考はブランドブール侯爵夫妻の周りを巡る。
あの二人の、身分差結婚という判定の中で、恋愛結婚という夢想の中で、見た人は勝手に考えているのだ。
ヴィオレットもそうだ。夫妻を囲む好機の目から、自分がその立場だったら居たたまれないだろうな、と考えるのだ。
勝手にそう思っているだけ。ハロルドという存在にかき回されているだけ。
――そもそも、ハロルドとくっついたとして、身分差ってなるとは限らないじゃん。彼だって貴族の出身なんだし。
ああでも、シャルル様から乗り換えたって言われるのかな。王太子を捨てたって。
しかも、脂肪じゃなくて筋肉を取った、外見を取ったって言われるんだ。
はー、と大きく重たい溜め息を吐き出して。
回廊の手すりに腕を置いた。
「なんか疲れた」
呟くのと同時に。
「ここで何をしているんです?」
肩に手を置かれた。
跳び上がる。
「申し訳ない。驚かせるつもりはなかったんですが」
聞きなれた、穏やかな声。
「ハロルド」
振り向いて、声の主を呼ぶ。
どうしてこうもまた、タイミングよく現れたのだろう。美青年だからか。
どくんどくん喚く心臓を宥めすかして、笑う。
「何をしていたの?」
「仕事ですよ」
訊ねると、ハロルドはすんなりと答えてくれた。
「シャルル様のための?」
「まあ、そうですね」
この食事とダンスの後に、主だった大臣たちと話す可能性があるのだという。関わりが出来そうな人々について資料を揃えてい、その資料をこっそりとシャルルに渡しに行く途中なのだそうだ。
「で、資料を作っていた部屋から会場に来るには、ここを通るのが早かったので」
そう言って。
ハロルドは首を傾げた。
「貴女こそ、こちらで何をしているんですか」
「……休憩です」
嘘ではない。ちょっと食事とダンスの場を抜け出してきているのだから、休憩だ。
だが、ハロルドはわずかに表情を険しくした。
「何かありましたか?」
「何もないよ?」
「休憩を必要とするのは、疲れたからですよね。何にお疲れですか?」
「ええっと。そうね、話疲れちゃった?」
自分が喋るのより、聞くのに疲れたというのが正解か。
首を振って、会場に視線を向けた。
明るい広間。まだまだ盛り上がりは続いている。
奥の座には、女王。彼女はまだブランドブール侯爵夫妻と話しているようで、そこに父と母も加わっていた。
ヴィオレットの視線を追ったからか。
「ブランドブール侯爵ですね」
ハロルドが言った。
「侯爵をご存じなの?」
「直接お話したことはありませんが、議員秘書の仕事をしていたときに噂はいろいろ聞きましたから」
「どんな噂?」
「……そうですね」
とにかく仕事が早い、のだという。これという情報がもたらされてから次の行動を決めるまでが早い。決めた行動をするにも時間をかけない。だから早いのだ、と。
「その分、雑じゃないかという人もいましたけどね」
「それは議員の中で?」
「秘書仲間のうちでもです」
頷いて。はた、と気が付いた。
「議員秘書ってどんなお仕事だったの?」
今の、王太子の秘書というのは公務のサポートだ、と最初に説明してくれたが。何か違うのだろうか。問うと、ハロルドは笑った。
「そんなに変わりませんよ。サポートにつかせていただいた方に資料をご用意することが多いですから。それが何についての資料かという違いです。
大きな違いは、今のように、特定の誰かにつきっきりということがないことですね。議員秘書は何十人といますが、誰がどの議員に着くかは一定の期間で変わります」
「どうして?」
「長く付き合うと、いろいろと面倒なしがらみとか繋がりができたりしますから。汚職に繋がるとも考えたのでしょう。秘書についた者はその理由を叩きこまれていますから、特定の誰かの味方になるということはしません」
「そうなんだ」
へえ、と息を継いで。ヴィオレットはさらに尋ねた。
「じゃあ、もし、その時に付いていた議員が悪いことをしていたら、注意する?」
「場合によっては
「そうなんだね」
「それが王国のためになると判断できれば」
また頷く。
「もう一つ、聞いてもいい?」
「なんでしょうか」
柔らかく目を細めたハロルドを見上げて。
「もし、今、シャルル様がおかしなことを――正義に反することを言い出したらどうする?」
訊くと、彼は一瞬、目を閉じて。
「お諫めします」
と答えた。
「まあ、そういうことを言い出すなんて想像できませんけどね」
からりとハロルドは笑った。
「まずは私がお止めします。それで駄目なら、女王陛下にご報告いたします。王太子が汚職だのなんだのされては、国のためにはなりません。私だって、国はいつまでも豊かに続いてほしいと思いますから、そのためのことをしますよ」
ね、と首を傾げられて。
ヴィオレットも首を傾げる。
「どうしてそう考えるの? あなたも貴族の一員だから?」
「さあ、どうでしょう。モラン家は貴族に名を連ねるとはいえ、落ちぶれていますからね。貴族院の議員の資格だってありません。そうでなきゃ、大学に行ってなんて考えませんし」
うーん、と悩むそぶりを見せてから、ハロルドは笑った。
「議員秘書として鍛えられた部分もあるかもしれませんが…… 単純に今までの暮らしが好きだから、かもしれませんね。王都の暮らしも、田舎で過ごしたことも、総じて悪いことではなかったわけですし」
言葉が重なるほどに、どんどん笑みは深くなっていく。
素敵な笑顔だな、と思った。もとの顔立ちが整っているから、というよりも、考えが見えるから頼もしく見える笑顔だ。
――だから恋をしたんだよ。
ふと、そう思って。ヴィオレットは笑った。
美青年だったから、はきっかけだ。理由の一つではあるだろうけれど、深く深く恋に落ちたのはきっと、筋トレやお菓子の奥に優しさを見つけたから。
仕事に真面目さを感じ取れたから。
そして今、仕事への信念を知って、もっと恋をした。
へへ、とヴィオレットは笑った。
「……どうされましたか?」
「なんでもない」
そっぽを向く。ニヤけた顔は見せられない。先ほどとは違う理由で顔が熱い。
これはどうしたものだろう。
ハロルドに赤い顔を見せるわけにもいかないし、かといってこの顔のまま会場に戻るわけにもいかない。
うーん、と唸ると。
「さて。いつまでも私とお喋りしていてよろしいんですか?」
ハロルドが苦笑いを向けてきた。
「会場に戻りませんと。まもなくダンスの時間です、貴女はあの席にいるべきでしょう?」
「それが侯爵令嬢として正しい?」
まだ聞く。
「場を乱さないという点ではそうでしょうね」
呆れずに、彼は答えてくれる。
その答えのとおりだ。
きっとシャルルは――王太子は最初にヴィオレットを誘いに来るだろう。その時に自分がいなかったら、マリー・テレーズも卒倒するに違いない。
戻らねば、と自分で頬をはたいた。
もう熱くない。大丈夫、今はまだ、侯爵令嬢として振舞える。
だけど、もうすこし、元気がいる。
――怒られちゃうかな。
見上げて。
「ちゃんと、侯爵令嬢としてふるまうわ」
だから、と笑う。
「会場までエスコートしてくださる?」
一瞬だけ、ハロルドは目を見張った。眼鏡の枠からはみ出るほどに大きく見開いた後。
涼しげな目元を緩める。
「喜んで」
と、右手を差し出してくれた。
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