33.理想の恋物語は遠い

 さて、結果で何曲踊っただろう。数えていない。

 ただ単に、シャルルがいつまでもヴィオレットとだけ踊っているわけにはいかないから、手を離してくれた。それでヴィオレットの出番は終了だ。

 その瞬間にどっと令嬢方が押し寄せてきた。しれっとカロリーヌも混ざっている。その後ろに頬を染めたマルスリーヌもいる。オレリアだけは肩を竦めて、会場の端へと歩いて行ってしまった。


 大きく息を吸って、でも、溜め息は我慢する。大勢の集まった会場での溜め息など、侯爵令嬢としてよろしくない。


 ニコニコしたまま、もう一度、会場を抜け出すことにした。

 一度そろっと母を見た。マリー・テレーズは夫と踊ることにしたらしく、弾んだ足取りで広間を横切っていったところだった。

 父と母で踊っている間はすこし自由だ。


 次のワルツが始まって、皆が広間の中心を見ている。


 抜け出して、廊下を見まわす。さすがにもうハロルドはいない。

 だけど、別の人が見つけられた。


 今度は、二階ではなく、庭園に向かう回廊。その開け放たれた窓際には、休憩用にだろう、ソファが並ぶ。

 そこに腰掛けていたのは、黒い髪を結いあげて、オレンジ色のドレスをまとった貴婦人。

「ブランドブール侯爵夫人」

 その人のことを、つい、声に出してしまった。


 はっとした顔を向けられる。近くで見ると、吊り上がった目じりの、すこしきつい印象を受ける顔立ちだ。

 だが、浮かんだ表情はとても心細そうで。

「失礼」

 と小さく言って、席を立たれてしまった。


 そのまま去っていこうとする背中に。

「あの、待って!」

 と叫ぶ。


「驚かせるつもりはないんです。ええっと、その」

 なんと言ったものだろう、ぱくぱく口を動かした後。

「お話しませんか!?」

 とりあえず言った。


 体中がかっかと熱い。緊張だ。

 夫人も同じようで、頬を染めて。

「あたしは…… このとおり、話が下手なんで」

 とそっぽを向いてしまった。なんか悲しい。


「ええっと。面白い話はわたくしもできません」

 必死に言うと、ちょっとだけ笑われた。なんとなく打ち解けた気がする。

「内容じゃなくて、喋り方?」

 夫人は首を傾げた。

「王都じゃなくて…… ヴニーズの下町訛りだから、聞き苦しいでしょう?」

 そう告げられる。

「ヴニーズ!?」

 素っ頓狂な声が出た。

「夫人はヴニーズの出身なんですか?」

 ヴィオレットの声の大きさに、今度は夫人が一歩引く。

 だが、せっかく打ち解けそうなのに、逃げられたくない。


 がっと距離を詰めて、名乗った。

「わたくし、ヴニーズ侯爵の娘で、ヴィオレット・アメリーと申します」

 夫人は瞬きを繰り返して。それからもう一度笑われる。

「それでも、侯爵様と下町じゃあ喋り方が違う」

「同じヴニーズですから!」


 どんな理屈だ、と自分でも内心首を捻ったが、勢いだけが頼りだ。

 ね、ともう一歩詰めると、夫人は苦笑いを浮かべてから、もう一度ソファに座りなおした。

 その隣にヴィオレットもそっと腰を下ろす。


「お邪魔します」

「いいえ……」


 そのまま沈黙が落ちる。

 しまった、と思って。

「ヴニーズ」

 と呟いた。

 会話の切り口はここしかない。


「ご出身がウニーズなんですよね」

「ええ」

 頷いて。

「育ちはヴニーズです」

「それがどうして、東に領地があるブランドブール侯爵と?」

「……大人になってから、王都に出てきて。探した働き口が侯爵の町屋敷タウンハウスだったので」


 そうだ。屋敷のメイドだったという話だ。

 うんうんと頷いて。


「働いたお屋敷のご主人様と恋に落ちたんだ」

 そう言葉にすると、ヴィオレットまで照れ臭かった。

 夫人は顔を真っ赤にして俯く。

「そ、そうね…… そうです」

「どうして、侯爵に」

 恋をしたの?


 最後まで問わなかったのに、夫人は真っ赤な顔のまま。

「あの人は…… あたしの育ちも何もかも知ったうえで、傍に寄ってきてくれたから」

 と言った。


 胸が高鳴る。

 二人もなんだ。夫人が夫人として生きてきた、その中に、侯爵は何かを見つけたんだ。


 両手で頬を抑えて、見つめていると。夫人は小さく震えて、横を向いた。

「おかしいでしょう?」

「そんなことないです!」

 前のめりになって、ついでに夫人の手を取る。

 大きく見開かれた瞳を覗き込んで。


「理想の恋物語だと思います!」


 言うと。

 吹き出された。


「ありがとう…… ございます」

 夫人はくすくす笑う。

「そう言ってもらえると、気が楽」


 笑う夫人に、胸が痛む。

 身分差、などと評されて、気苦労が多いのだろう。


 しょんぼりと肩が落としてしまったのに。

「本当、気が楽になった。ありがとう」

 ぽそぽそと、でも朗らかに告げられて。

「いえ…… こちらこそ」

 ヴィオレットも笑った。


 それから、ヴニーズと王都の違いをお互い話していたら。

「オデット!」

 硬い革靴の音を響かせて、ブランドブール侯爵その人が廊下を走ってきた。


 こちらもまた背の高い男性だ。傍に来られるとなお大きく感じる。その人は髪をかき上げて。

「勝手にいなくならないでくれ。心臓に悪い」

 きつい声を出す。

「悪かったわよ」

 プイっと夫人は横を向く。侯爵も不満気に息を吐いてから。


「大変失礼いたしました」

 とヴィオレットを向いてきてくれた。

「あの」

「存じてますよ、ヴィオレット嬢。ヴニーズ侯爵――あなたの父上と母上にはお世話になっております」

 侯爵はヴィオレットの手を取って、微笑んだ。

「ジェレミー・ベニシュです。今は妻の相手をしてくださったんですね、ありがとう」

 にこやかに礼を言われて、ヴィオレットのほうが居たたまれない。

「わたくしが呼び止めてしまったんです」

 それでも、ブランドブール侯爵は笑っていた。


「妻はヴニーズの育ちなんですよ」

「伺いました」

「なら、尚更。また顔を見たら声をかけてやってくださいますか?」

 侯爵が笑う。その笑顔を見てから夫人を見ると。

 彼女も赤い顔を向けてくれた。


「喜んで」

 かぁっと火照った顔で、笑う。

「こちらこそ嬉しい。是非よろしく」

 では、と会釈をして。侯爵は夫人の肩を抱いた。


「侯爵」

 歩き出そうとした侯爵を呼び止める。ゆったりと笑顔で振り返った侯爵に、一瞬戸惑ってから。

「……結婚して良かったですか?」

 訊いた。

 侯爵はまったく動じることなく。

「勿論」

 と頷いて。今度こそ、夫婦で去っていく。


 その寄り添った背中が羨ましかった。周囲に何を言われようが、二人は二人でいることに後悔がない。

 きっとあの林檎パイの夫婦もそうだ。他には誰がそうだろう。アンリエット女王とクロード伯父様は? 父と母は?


 自分はどうなっていくだろう?


「理想の恋物語は遠いよ」

 胸の奥を震わせて。ヴィオレットも歩き出した。

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