19. これ以上はもう勘弁

 ズキズキずきずき喚き続ける心臓を宥めるために、スクワットをした。10回を3セット。最近ちょっと楽になってきて、その分、太腿の筋がはっきりしてきた気がする。

 毎日寝る前に頑張っている腹筋運動も成果が出ていて、おへその上下にうっすらと筋が走った。

 こうなると背中側も鍛えたいと思うのが世の常人の常。


「背中側の筋肉も鍛えられませんの?」


 ヴィオレットのこの台詞に、シャルルもハロルドも目を丸くした。

「まあ、そういう運動もないわけではないですけど」

「だからって、ねぇ?」

 シャルルがふんわりした掌をヴィオレットの額に添える。

「……熱はないみたいだね」

「どういうことですの!?」


 むう、とヴィオレットは頬を膨らませる。伸びたのは皮膚だ。シャルルの頬では、たぷたぷと、脂肪が横に揺れる。


「なんでヴィオレットが筋トレに熱心なのさ」

「シャルル様も負けていられませんね」

「いや、もう、勝ってるから……」


 全身を部屋の床にぐったり投げ出して、シャルルは嘆息した。


「ねぇ、ハロルド。昨夜は何kgだったっけ?」

「109kgですね、恐れながら」

「あー、また太ったのかあ」

「最高記録を更新していないのが救いでございます」


 なんでそんなに太ったり痩せたりを簡単に繰り返すのか。実はそこも不思議な事態なのではないだろうか。

 ヴィオレットはソファに腰を下ろしたまま、首を傾げた。


「それにしても、本当に熱心ですね」

 寝そべる王太子を見下ろすように立つハロルドが笑う。

「ヴィオレット嬢が筋トレをされるようになるとは、お会いした当初には想像もしませんでした」

 涼しげな目元に宿る親しげな笑みに、心臓がまた喚く。

 それを悟られないように、ゆっくりと、笑った。


「だって、やってみたら楽しかったんですもの」

 これは本当だ。体を動かすとモヤモヤが吹き飛ぶ。体付きが健やかになっていくのが分かる。どれもこれも、やってみなければ気が付かなかったこと。

 そう言うと、ハロルドはもっと笑った。

「何事も挑戦してみないと分からないものですしね」

 また心臓が跳ねる。

「挑戦しなきゃって、母上も行ってたなぁ……」


 ごろんと一回転したシャルルが起き上がって、口を開く。


「挑戦って言えば、ヴィオレット、お菓子作りはどうしたの?」

「え?」

 疑問の声を上げたのは、二人。

 だから同時にお互いを見向く。ヴィオレットの視線とハロルドのそれが真っ正面からかみ合う。

 一瞬見つめ合って。視線を先に逸らしたのはハロルドだった。


 心臓が違う悲鳴を上げる。もう勘弁してほしい。


 気にしていないのはシャルルだけだ。

「ハロルドにお菓子作りを教わるんじゃなかったっけ」

「そんな話、しました?」

「したよー。ほら、この間、母上が叔母さんを巻き込んだお茶会の時に」


 忘れるはずがない。

 あの日からますます、ヴィオレットの心臓が賑やかになったのだから。


 もういい加減認めろということかもしれない。


「でも、お菓子作りはちょっと」

「ちょっと、何?」

「遠慮しますわ」


 教わるのは筋トレだけで良かった。こんなモヤモヤ、知りたくなかった。だから、これ以上はもう勘弁、何も教えてほしくない。


「そうなの? なんで?」

 シャルルだけでなく、ハロルドも目を丸くしている。

「筋トレよりはご令嬢に向いた趣味かと思いますが」

「普通のご令嬢に向いていてもヴィオレットには向いていない、とかそんなことはないでしょ?」

「どうでしょうね」


 緑のドレスの襞を指先でいじりながら、苦笑した。ヴィオレットのその顔を見てから、王太子と秘書は顔を見合わせた。


「ハロルド。無理矢理にでも教えてよ」

「ヴィオレット嬢がお菓子作りを教わるというのは大変結構ですが、教えるのが私というのはおかしくないですか?」

「いいんだよ」

「どうして」

「おまえなら僕が命令できる」

「横暴です」

「そんなことないよ。おまえは僕の秘書なんだから僕の業務命令に従う義務があるんだ」

「秘書の業務に、ご友人に趣味の手ほどきをすることは含まれていません。どうしてもとおっしゃるなら、特別手当を求めます」

「ヴィオレットは友人じゃなくて従妹」

「はいはい」

「で、教えてあげてね?」

「それは……」


 はぁ、と息を吐いて、ハロルドは首を横に振った。

「ヴィオレット嬢が本当に学んでみたいのなら、私よりも、本職のパティシエを呼んだ方が良いと思いますよ」

「どうして」

「そのほうが聞こえが良いからです」


 シャルルが首をひねる。その逃げ方があった、とヴィオレットは吹き出した。


「本職の方に学んだって言ったら、に羨ましがられますわ」

「そうなの?」

「そういうものです」


 このあたりは、ヴィオレットもシャルルも自身の母親に似たのかもしれない。

 貴族の伝統とか、令嬢としての外聞を気にするヴィオレットと。

 そんな枠を飛び越えて良いと思う物を考えてしまうシャルルと。


「だから、ハロルドのいうとおり、パティシエの方をお呼びするのがいいのかもしれません」

「ええ、そうですよ」


 ハロルドは力強く首を振る。だが、はたとヴィオレットは瞬いた。


「でも、お願いするにしても――どんなパティシエの方がいるか、詳しくないわ」

「じゃあ、街まで見に行ってみたら?」


 これまたずいぶん気軽な提案だなぁ、とヴィオレットが思った次の瞬間。

「街の案内こそ、ハロルドにお願いしていいよね?」

 シャルルは実に無邪気な声で言った。


 今度も、二人そろって青ざめた。

「本気でおっしゃっていますか?」

 ハロルドの声が珍しく震えている。

「冗談でなんか言わないよ!」

 シャルルは本当に無邪気だ。


「だって、ヴィオレットもお菓子を作ってくれるようになったら、僕が楽しいし! そういうところに気を配るのは秘書の仕事だろ?」

「えー……」

「文句言うなよ、ハロルド!」

「もはや、どこから突っ込んで良いのか、私には分かりません……」


 まったくだ、とヴィオレットは額を押さえた。



 ハロルドと街に出かける。

 そんな事態に心臓が持つだろうか。


 そもそも、そういう事態に持ち込む前に、障壁がある。


「街に行く?」

 話を告げると、フラヴィが予想通りの形に眉を跳ねさせた。

「侯爵令嬢ともあろう方が何をおっしゃっているんですか」


 ああ、良かった。ヴィオレットは胸を撫で下ろした。

 お目付役の反対という大義名分でもって断ろうと思ったのに。


「行くのなら、このフラヴィもご一緒します」


 どうしてそうなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る