20.一緒にいないことが気楽なのに
二日後、快晴。秋空は青い。
いつもより艶が控えめのドレスを着た。綿のモスリンだ。
ヴィオレットは青緑、フラヴィは濃い葡萄色。ボンネットも付けて、手に小さな鞄を持った。
今日の靴には、細くて高いヒールはついていない。
故に、青空の下、白い石畳の上を、二人は鞄を揺らして闊歩した。
「ヴィオレット様と王都見物だなんて…… ふふふ」
フラヴィの顔からいつもの厳しい表情が消えている。
「そんなに可笑しい?」
ヴィオレットが首を傾げると、フラヴィは声を上げて笑った。
「普段、令嬢とあろうとする方らしからぬ、でしょう?」
「そうだけど…… いつもフラヴィだって、注意してくるじゃない」
「それがわたくしのお役目ですからね。だけど、たまには冒険もよろしいんですよ」
ひとしきり笑って、フラヴィは一瞬だけ表情を引き締めた。
「侯爵令嬢らしくないと言われると、反論できませんので。
シャルルの『街を案内しろ』という指令を、ハロルドは地図と名所の説明書きを寄こすことで乗り切った。
シャルルは一緒に行けと意味で言っただろうし、むしろ普通はそう捉えると思うが、ハロルドは指令すれすれの部分で抜けてきた。さすがはできる美青年。
ヴィオレットはほっとした。いくらフラヴィが一緒に来ると言ったとはいえ、彼と同じ時間を過ごすのが長くなるのは、正直苦しい。
だから、一緒にいないことが気楽なはずのに、結局は彼のことを考えている。筋肉を鍛えても心は強くならないらしい。ヴィオレットは自分の感情の正体から目を背け続けている。
「焼きたて食パンの店、カスタードが絶品のシュークリーム店、トッピングの生クリームに特徴があるパンケーキ、焼きたての林檎パイを振舞ってくれる店――ヴィオレット様は王都食い倒れツアーがご希望ですか」
「違うってば。どんなお菓子が王都で
「食べることは含まれないのですか?」
「それはもちろん、一個くらい食べてみたいけど」
食べてばかりではシャルルのようになってしまう。ヴィオレットは、絶妙な見本を思い出して、口を曲げた。
フラヴィは微笑む。
「あいにく、お店とお店の間が遠いですからね。私たちでは何度も行ったり来たりを繰り返すのは無謀です。ですから、食べたい物を決めておいて、あとのお店は遠目で眺めるだけと致しましょうか」
「お店に入ってはいけないの?」
「買いもしないのに入るものではございませんよ」
そういうものか、と納得して。
「じゃあ、この林檎パイが良いな」
ハロルドが寄こした資料、きっちりと綴られた冊子のうちのページを示す。
林檎とカスタードクリームを閉じたパイを売っているのだそうだ。林檎は一年中収穫できるわけでないのに扱えるのは、ジャムを作っておくからだという。
一日中小分けにして焼いているから、いつ行っても焼きたてが食べられる。そこも売りなのだそうだ。
ジャムの秘訣が聞けないかな、なんてぼんやり夢見る。
「こちらは商店街の中心からは外れていますね、普段は行かないようなところです。冒険ですからね、行かないところにしてみましょうか」
フラヴィが笑ったから、今日の見学コースが決まった。
両手を振って歩く。視線は周囲を見るのに大忙しだ。
案内してもらったお店以外にも、クッキーやクレープといったお菓子が目に入る。色とりどりの花や、細やかな織物が商われているのも。
こういうことも話さなきゃ、と結局、一緒にいないことが気楽なはずの彼の姿を想う。
その果てに、件の店が見えてきた。大行列だった。
店は木漏れ日の揺れる公園の横にあった。芝生の広場では子供が駆け回る。小道を腕を組んだ男女が歩く。並ぶベンチでは新聞を広げた紳士がいた。どの人もきっちりとした身なり。
その堅苦しい服装に人たちが整然と並んだ先頭が露店だ。立てられた幟には「林檎パイ、焼きたて。買ったらすぐに食べることをお勧めします」と書かれている。
行列が進む度、店のほうから人が歩いてくる。その人たちは一様に両手で紙袋をつかんでいて、ふうふう、と息を吐きつけながら食べている。
「これは。どうしましょう、並んででも買いますか?」
「並ばないと買えない?」
「横入りしてどうするんですか。侯爵令嬢ですわ、って威張りますか?」
「それをしたら品がないって怒るでしょ?」
「当然です」
腰に両手を当てて胸を張ったフラヴィに、ヴィオレットは苦笑を見せる。
「並ぶって結構大変?」
「立ちっぱなしになりますからね。そういことされたことがないでしょう?」
「フラヴィはあるの?」
「ございますとも。若い頃にたくさん」
そっか、と笑って。
「並ぼう!」
言うと、フラヴィも頷いてくれた。
では、と歩き出した矢先に。
前を歩いていた女性が転んだ。膝から、地面に落ちていく。ああ、と声が上がる。どすん、という音が響く。
すれ違うところだった壮年が、気をつけろ、と怒鳴って去っていった。女性は地べたに両手をついて、すぐには立ち上がれそうにない。
「大丈夫、ですか?」
追いついてしまったから。フラヴィが声をかけた。
ヴィオレットもその肩越しに覗き込む。
顔を上げた女性が、大丈夫です、と呟いた。
皴だらけの顔の、老婦人だ。彼女はまずフラヴィを見て、それからヴィオレットを見て。
「あら、貴女は」
と言った。
「ヴィオレット様ではないですか」
名前を当てられて、瞬く。
――会ったことのある人?
うーん、と眉間に皴を刻む。唸ること、数秒。思い出して手を打つ。
「どうして此処に?」
「そのセリフはお互い様でしょう」
婦人は、侯爵令嬢であるヴィオレットが街中を歩いていたことを驚いているのだという。
ヴィオレットも、婦人が此処を歩いていることに驚いている。
救貧院は郊外にあった。あの日のヴィオレットだって、馬車に乗って移動した。
だから、お年を召して足腰が弱っているだろうこの婦人が、のこのこと歩いてこられる距離ではないだろうに。
何故ここに、と聞きたくて。
それを汲んでくれたのかどうか、フラヴィが提案した。
「とりあえず、道の真ん中でこうしているのはよろしくないですね。あちらのベンチで休憩しましょうか」
公園の道に並ぶベンチの一つへと、フラヴィは夫人を支えながら歩く。ヴィオレットも付いて行く。
さて、婦人を座らせたはいいが、何をしたらいいのだろう。ここではお茶の一杯も満足に振舞えない。
ただ、フラヴィの後ろでおろおろするだけだ。
むしろ、婦人自身が、肩にかけていた鞄から水筒を取り出して、中身をあおっていた。
「人心地つきました」
ふう、と息を吐いて、彼女はしわくちゃの顔を見せてくる。
「若い頃はどんなに歩いても平気だったんですけどねえ。まさか疲労で転ぶなんて」
信じられない、と肩を竦められた。
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