21.どうして幸せなのかしら
10kmも歩くものじゃなかったわ、とぼやいた婦人に。
「どうして此処に?」
と、当然の質問をした。
「店を見に」
婦人が顔を上げる。視線の先は、例の林檎パイの店だ。
「あのお店が何か?」
「主人が立ち上げた店なのですよ」
並んで座っていたヴィオレットとフラヴィで顔を見合わせた。
「ご主人?」
「ええ。もう、亡くなりましたけれど」
その人が立ち上げて三十年。今、店を切り盛りしているのは息子とその妻なのだと言う。
「ご家族がいらしたんですね……」
この婦人に限って言えば、身寄りがないわけではなかったらしい。そういう場所があるのに、どうして
口にしなかった疑問を先回りして。
「私はね、二人の結婚を反対したんですよ」
婦人は言った。
「うまくいきっこない、と思ったんです」
今こそ妻として息子を支えてくれている人は、さる伯爵家の令嬢なのだという。
深窓の令嬢として育ってきて、世間も知らず、家事をこなすということが分からない彼女と、どうしてか息子は恋に落ちた。そして表から正々堂々、求婚に行ったのだという。
身分が合わない。そう言って、母である婦人は反対した。勿論、令嬢の家族もまともに取り合わなかったのに。
「ただ一人、主人だけが二人の味方でした」
贅沢はできないけれど、日々の暮らしを繋ぐ稼ぎはある。暖かい寝床がある。だから大丈夫だ、と。
その意見の上に先の暮らしと生き方について話し合った結果、最終的にくだんの伯爵も首を縦に振り、二人は結婚したのだという。
結婚した二人は、伯爵家ではなく、菓子店の夫婦として下町で暮らし始めた。父親の起こした店でパティシエとして働いて、いろいろな人と交わって、笑って過ごして、子供にも恵まれた。それでも婦人は、二人の仲に、結婚に納得がいかなかった。
「夫が亡くなった後はもっと関係が悪くなってね。それで家出したんです、わたくしが」
年甲斐もないでしょう、と笑みを消した。
「息子たちは捜しに来てはくれませんでした」
以来、救貧院に世話になっているのだという。
「わたしもね、菓子作りを人並み以上にできるつもりなんですけど。一人で店をやってみようとは思えなくて。やっぱり主人の起こした店がいい。ちゃんとした稼ぎができないから、救貧院にいくしかなかったんです」
もう一度、ヴィオレットとフラヴィは顔を見合わせた。
婦人はこちらを見ていない。質素な、年代を感じさせる佇まいの店を見つめるだけ。
「……息子さんと仲直りしたら、またお店に出られるのはないですか?」
「今更、ですよ。お嬢様」
婦人が苦笑する。
「可愛がって育てた息子とも散々喧嘩しました。息子の妻となった人とは、申しましたとおり最初から価値感が合わなくて、ろくに会話もできていません。それを今更、分かりあおうだなんてねえ。
やっぱり最初から無理だったんですよ、身分違いの恋だなんて」
その言葉が聞こえた瞬間、心臓が跳ねた。
伯爵令嬢と下町の菓子職人、身分違いの恋。令嬢はどうして結婚に踏み出せたのだろう。令嬢として求められていたこととはまったく違うことを、どうしてできた?
ぎゅっと瞑った瞼の裏をちらりと、ハロルドの影が過った。
――ああ、もう、だから。
いい加減、目をそらすな、ということだろうか。だからといって、正面からこの感情を言い当てるには、ヴィオレットにはまだ何かが足りない。
目を開けて、溜め息を吐く。老婦人も口元にだけ穏やかな笑みを浮かべた。
「今の楽しみは、主人の店が残っているのを見ることだけなんです」
二、三ヶ月に一度。こっそりやってきて、眺めているのだという。パイを買ったことはないらしい。
「食べてみたいとか思わないんですか?」
「いいえ、全く」
今話題のパイは伯爵令嬢の発案なのだという。
「主人が残したままなのは、店の構えだけです。中身は息子夫婦が作ったものに差し替わっているでしょう」
好きになれない、と意固地に言った。
「あんなに反対したのに…… どうして幸せなのかしらねえ」
もう一度、溜め息を吐いて。
ヴィオレットは立ち上がり、フラヴィを見た。
「買いに行こう。おばあさまの分まで」
お目付役も頷いて、立ち上がる。
「此処でお待ちくださいね、行っては駄目ですよ」
返事を聞かずに二人で進んで。
行列に並ぶ。ショーケースの向こうにいるのが店主夫婦だろう。パイを受け取る一人一人と話す姿は明るい。
ヴィオレットとフラヴィにも眩しい笑顔を向けてくれた。
「いらっしゃいませ。おいくつですか?」
聞いてきたのは、女性のほう。三個頼むと、すぐに渡してくれた。
テキパキした動きの端々にも幸せが滲む。
これを見たら、反対していたことも忘れてしまうのではないだろうか、と思うけれど。老婦人は見ようとしないのだろう。それが意固地ということなのかもしれない。
身分が合わなくても大丈夫だったのに、と思うと胸の奥がいろいろチクチクする。
ベンチまで戻ると、彼女はちゃんと待っていてくれた。
「一つ、食べてくだい」
ヴィオレットは、先ほどの女性のように、と思いながら笑った。
「お腹空いていると歩くのが大変でしょう?」
「……そうですね」
三人で齧り付く。柔らかな林檎にも、固めのカスタードにも、幸せが滲む。それが伝われば良い。
「焼いたのは息子でしょうね」
と、婦人は苦笑いを浮かべた。
「主人のに、よく似てる」
「サクサクで、美味しいですね」
ヴィオレットが笑うと、フラヴィが頷く。
「甘過ぎなくて、とても品のあるカスタードです。林檎も、歯ごたえを残した煮え方で、食べていて楽しい」
「この中身は…… 主人とは違うわ」
婦人が俯く。それでも三人、食べた。
林檎パイを平らげた婦人は、また歩いて去って行った。
すこし足を引きずるような歩み。それは疲労か、加齢か、どちらのせいなのだろう。
「私たちも帰りましょうか」
フラヴィに促されて立ち上がる。
外の世界は秋、太陽が実りを照らす季節。公園を落葉が飾り始めるまであと少し。夏の名残の芝生を子供が駆け巡り、小道でステッキを鳴らす紳士がいて、手入れの行き届いた花壇を愛でる人たちがいる。誰も彼も楽しそうに笑っている。
ゆっくり見回して、幸せそうだなぁ、と思った。老婦人の溜め息もヴィオレットのモヤモヤも、場違いだ。
「王都見物は満足しましたか?」
「ええ」
先を歩くフラヴィが、良かった、と笑う。
その向こうには腕を組んで歩く男女。やっぱり幸せそうで、羨ましい。
――本当に、もう!
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