22.心から美しくあらねば
腹筋をしても腕立て伏せをしても、モヤモヤは晴れない。ただ体が引き締まるだけだ。
心も鍛えてほしい。喫緊で必要なのは、現実を認められる強靱さだ。多分。
「集中できていませんね?」
マダム・エレーヌに言われて、背中を冷たい汗が伝っていく。
「それは、その」
「今はダンスの練習中ですよ」
臙脂色のドレスを着たマダムがにっこり微笑む。口元も目元も笑っているのに、圧がすごい。教わる側の怠慢を許さない、逃がさないという覚悟の滲む笑顔。教師というのはこういう表情ができる人たちなのか、とここ数日で知った。
「陛下の晩餐会まであと五日しかございません。シャルル殿下もヴィオレット様も集中してレッスンに取り組んでいきましょうね」
はい、と返事しながら、ヴィオレットは胸の中で悪態をついた。
――集中できないのは、壁際に立つ美青年のせいです。
今のレッスンは本来シャルルのためのもので、ヴィオレットはそれに付き合っているわけだから、ハロルドがこの部屋にいるのは当然なのだが。
もういっそ、視界に入らないでいただきたい。
そうはいかないのが現実で、彼はぴしっと背筋を伸ばして立っている。
今日も涼やかな目元に穏やかな口元、皴一つない三揃えを着こなした姿。美青年はいつだって美青年だ。
その向こうには、ヴァイオリンを構えた女性と、ピアノの前に座る女性。二人ともマダムが連れてきた音楽家だ。
先日のレッスンでは、マダムの歌声に合わせて踊ったが、今日はピアノとヴァイオリンの二重奏に合わせてのダンス。日がない、練習の仕上げをするのだという気迫がビシビシ伝わってくる。
だというのに。
「ヴィオレットも集中できないんだし、一度休憩にしようよー!」
シャルルが床の上に転がった。
「ハロルドー。今日のおやつはクッキーだったよねー?」
「マダム・エレーヌのお許しなしに休憩にはできませんよ。お茶もお出しできません」
「そこをなんとか」
涙目を向けられて、マダムは肩を竦めた。
「本当に、ダンスのレッスンがお嫌いですね。良いでしょう、食べながらもう一度理論を復習しましょうか」
「ひぇっ、そう来る!?」
シャルルが蒼褪める。それでも起き上がらない。
溜め息を吐いて、ヴィオレットはシャルルの傍に膝をついた。
「マダムもおっしゃるとおり、本番までもう5日しかないんですよ。頑張って」
「ヴィオレットは優しいなぁ…… マダムに休憩をお願いしてよ」
「だから、お菓子は食べられますわ。お話を伺いながら、ね?」
首を傾げて見せる。自分でもあざといと思う。だが、効果はあった。
「しょうがないなぁ……」
シャルルが起き上がる。ハロルドがさっと動いて、部屋の隅のテーブルにティーセットを広げた。
「マダム。そちらのお二人も、どうぞ」
講師の側から座らせるのは、敬意を示してのこと。だから、三人が座ってから、ヴィオレットたちも席に着く。
「あら素敵なカスタードパイ」
一口食べるなり、マダムは顔を綻ばせた。
「ジャムも添えられたら良かったのですが。カスタードの甘さをお楽しみください」
ハロルドもにこにことストレートティーを注ぐ。
「珍しいね、カスタードなんて」
ぱちぱちと目を瞬かせて、シャルルもかじっている。
「ええ。先日良いヒントを頂きましたので」
と、ハロルドはヴィオレットに視線を送ってきた。
かっと頬が熱くなる。
林檎とカスタードのパイの店に行った話をしたからか。
その微妙な動きに、シャルルは気が付いていない。
「ふうん。こんなところまで勉強熱心だなぁ」
「お褒めに預かり恐縮です」
「僕のおやつ事情がよくなるから、もっとして良いんだよ!」
「我が儘ですね……」
ハロルドもさらりと流していく。
ヴィオレットも静かにしているしかないのだ。だから、パイに噛り付いた。
硬めで、齧ったところから流れ落ちにくくなっているクリームだ。そんなところが行った店に似ている。
だけど、ハロルドの作ったこれは、バニラで香りづけされていた。香りは、クリームを飲み込んだ後も、胸の中に残る。ずきずきと痛みを引き起こす。
ちなみに、王太子の皿には他の四つの皿に乗っているよりも倍の数のパイが乗っていた。もっとも減るスピードも倍だから、食べ終わるタイミングは一緒だ。
「おや、食べるのに夢中でダンスのコツを話しそびれました」
くすっとマダムが吹き出す。
湯気の立つストレートティーを飲みこんで、マダムはシャルルとヴィオレットを順に見た。ぴしっと背筋が伸びる。
「そうそう。姿勢は大事ですわね」
二人を見て、マダムは表情を引き締めた。
「細かい技術の前に、姿勢を整えるべきです。自分の体の真ん中をしっかりさせないとね…… そう、そんな感じ。座っていても気にするべきです」
なるほど、とみぞおちを撫でる。
真ん中を支えるのは腹筋と背筋だ。日々意識している、体の中の動くところ。
「ヴィオレット様、お上手」
手を叩かれて、微笑む。
「何か特別なことをされた?」
「いいえ――強いて言うなら、筋トレですけれど」
言ってから、引かれたかな、と青くなる。
マダムは笑顔だ。
「成程。しっかり成果が出てますわね」
頷いて、そのままシャルルへと視線が動く。動かされたほうは、う、と呻いた。
「まさか、マダムも筋トレをしろ、とかいうの?」
「ええ。基礎的な筋力を得るために、有効ですわ」
でも、とマダムはまた咳をした。
「筋肉だけを鍛えようとしても意味がございません。心から美しくあらねば。ダンスにも出ますのよ」
「心、ねぇ」
「そこは自信を持ってくださいませ。シャルル殿下はお美しい心をお持ちです」
眩しいものを見るかのように、マダムは目を細めた。
「学園での過ごし方を見て、そう信じております。ご友人だけでなく、教師、寮の管理人、警備の人間にまで思いやりを見せてくださいましたから」
今度はシャルルが咳ばらいをした。
「真正面から言われると照れるなぁ」
ぽよぽよの頬を紅くして、そっぽを向く。
「ありがとう」
ふふ、と笑って。顔の向きを変えたら、ヴィオレットとマダムの視線が合った。
笑われる。
「ヴィオレット様もそう思われますでしょう?」
「……ええ」
言われるまでもない。
庭園でエスコートしてくれたこと、王太子として救貧院を訪ねた姿、なんだかんだ言って前向きな姿。
どれをとってもそうだ。
――この脂肪さえなければ理想の王子様、なのに?
ふと思って、首を傾げる。
「さあ、レッスンを続けましょう」
ぱんぱん、と手を打って、マダムが立ち上がる。
シャルルも渋々足を出す。その隣で。足の運びを一つ一つ練習する。
そして最後は、ピアノとヴァイオリンに合わせて、二人で踊った。手と手を組んで、腰を支えてもらっての、ダンス。お腹で脂肪が揺れているのがよく見えた。
ヴァイオリンの音が細く消えていくと、拍手が聞こえた。
ハロルドだ。
「お見事です」
「本当に?」
「ええ。練習の成果が出てらっしゃいましたよ、殿下。この調子でまいりましょう」
ニコニコと手を叩くハロルドを、シャルルはじとっと見遣った。
「そう言って、ハロルドはいつも見てるだけだ」
おや、とハロルドが目を丸くする。
「そうはおっしゃいましても、私は晩餐会で踊る予定はございませんからね」
「ないの? おまえも参加すればいいのに」
「しませんよ。というか、できませんよ」
「踊れないからって逃げようとしてない?」
「してませんって」
ふう、と肩を竦めるハロルドを、シャルルはさらにじーっと見つめて。
「じゃあ、とりあえず、ここで踊ってみてよ」
と言った。
え、と声を上げたのはヴィオレットだ。
「ハロルドが踊るの?」
「まあ、踊れと言われればできますよ、社交ダンスも。マダムに及第点を頂けるかは危ういですが」
「よし、やってみせてよ!」
ハロルドが、名案だ、と笑う。ハロルドが鼻白む。
「ねえ、マダム。やってみよ?」
「そうですね。お手並み拝見といきましょうか」
ふふふ、と。教師の顔でない笑顔で、マダム・エレーヌは言った。
はあ、という溜め息とともに一度顔を伏せて。
「では、お付き合い願えますか、マダム?」
ハロルドが踏み出した。
ハロルドの左手とマダムの右手が繋がる。臙脂色のドレスの腰に手が添えられて、彼の手が骨ばっているのを見た。
緩やかなヴァイオリンの旋律に乗って、一歩目が踏み出される。それからは流れるように、歌うように。
胸の底がチクチクする。だからもう、視界に入らないでほしい。
ピアノの音が高く響いた後。マダムとハロルドが揃って、礼をした。
「すごい、本当に踊れた!」
シャルルが大きく手を叩く。
「さすがだ、ハロルド!」
「お褒めに預かり恐縮です」
わずかに息を切らして、ハロルドが苦笑いを浮かべる。
「ええ。体がしっかりされているし、真面目なお人柄がよく分かる動きで、一緒に踊っていて楽しかったですわ」
マダムは満面の笑みだ。
「見た、見た? ねえ、ヴィオレット!」
シャルルが振り返ってきても。咄嗟に声が出なかった。
だから。
「見惚れてるの、ヴィオレット?」
シャルルに顔を覗き込まれた。
それで、二度、三度と息を吸ってから。
「ええ、先生が素敵なんですもの」
と笑った。誤魔化せてよかった。
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