23.変えてしまったら不幸になるかも
「ダンスを教わっているんですって?」
フラヴィから聞いた、と母は言った。
「うん、ここ何日か」
「そうなの、そうなのね」
ニヤニヤ笑う母に、お目付け役は自分に先んじて何を話していたのやら。肩を竦め、ヴィオレットは紅茶を啜った。
王宮の中には、重鎮たるヴニーズ侯爵に与えられた一室がある。領地から出てきた両親が逗留しているのはその部屋で、ヴィオレットが借りた客室とはまた別の部屋だ。
薔薇の庭園にも近いこの部屋は今、キャラメルの匂いが漂う空間。侯爵夫人でありであるマリー・テレーズと、令嬢ヴィオレットのお茶の時間だ。
紅茶はヴニーズの港に届いたもので、クッキーは王宮の料理人が焼いてくれた。この空間を支配する香りはクッキーから。鼻で受けた印象と違わない、甘い一品だ。
ハロルドだったら、どんな風に焼いてくれるだろう。
食べながら考えて、ひっそり溜め息をこぼす。
そんなヴィオレットに。
「ダンスの練習は大変?」
母は尋ねてきた。娘の溜め息を良く解釈してくれて感謝しかない。
「できていなかったことが沢山あったって分かったわ。それをもう一回教えてもらって上手くなるまで練習してるから、大変は大変だけど。でも、やっぱり教わるのって楽しいなあって思うよ」
技術だけでなく、昨日は、心から美しくないとダメ、と言われました。
たった二カ月弱の筋トレなどでは誤魔化せない。足の運び方などの些細な技術でも繕えないのだ。体型も心ばえも。
ふー、ともう一度息を吐きだすと。
「王都には良い先生が多いでしょうから、誰に習っても安心ね」
母は満足そうに、尋ねてきた。
「なんとおっしゃる方なの?」
「マダム・エレーヌよ。エレーヌ・コンテ」
まず名前を告げる。
「聞いたことがないわね…… 経歴は?」
「それは詳しくは聞いていないけれど。シャルル様が学園でもお世話になった先生ですって」
「学園?」
急に、テレーズの眉が跳ねた。
「学園ってあの学園? 貴族の子女を寮に押し込めて勉学させるっていうあの?」
棘を含んだ言い方だ。ヴィオレットはすこし体を引いた。
「シャルル様が通ってたところ、よ?」
「じゃあ、間違いなくあの学園ね。なんてこと!」
ガタン、と母は立ち上がった。
「前衛的なダンス、とかじゃあないでしょうね!?」
なんのこっちゃ、とヴィオレットは瞬く。その間も、じーっと母は顔を覗き込んできた。
「どう? ステップとかターンとか可笑しなところはない? ヴニーズで踊っていたことと変わりない?」
「ど、どうかしら? あまり変わったことを習っているとは感じないけど」
「そう…… そうなら良いんですけど」
ほぅ、と息を吐いて。母は椅子に座りなおした。胸を撫でおろして、ヴィオレットはまたクッキーを食べる。
それから。
「お母様は、その学園が嫌いなの?」
尋ねると。
「嫌いというか…… そうね、嫌いね」
テレーズは額を抑えた。
「何も無理して、革新とか進歩とか考えなくても良いって思うのよ。なのに、それを考えることを覚えさせるってのがあの学園の喧伝文句でしょう。ああいうのを言われると、背中がムズムズするわ」
ムズムズするのは分からないが、何故自分が学園に通わなかったのかは分かった気がした。シャルルやオレリア、所謂名門貴族と言われる家の子女でも最近は学園に言っているのに、ヴィオレットはそうならなかったのは、母の方針だったのか。
そもそも、ヴィオレットは学校に通うという経験がない。兄は国外の学校に行っているけれど。
「わたくしは保守派なの」
見つめる娘に、テレーズは続ける。
「ベルテールには、歴史ある、誇れるものが沢山在る。それをわざわざ変えることはないわ。だって今、十分に幸せを享受しているのだから、変えてしまったら不幸になるかもしれないでしょう?」
そう言われて、さらに納得した。この母には、令嬢として相応しい在り方ばかりを躾けられた気がする。
服装も、仕草も、何もかも。
それが悪いことばかりだとは思わないけれど。思いたくないのだけれど。
どうして反発するんだろう。王宮に呼び出される前の自分なら頷いていたことを母は言っているのに。
「無理に何かすることはないのにね」
黙ったヴィオレットに気付かないのか、テレーズはまだ喋っている。
「アンリエットはわたくしにまで役目を振ってくるのよ。昨日も病院の慰問とやらに駆り出されたのよ。これだから王都には来たくないわ」
王妹でなくても旧い侯爵家の夫人として、行くべきではないだろうか。でも、それは何故?
理由を思いつかないうちに。
「貴女も駆り出されたんですって?」
テレーズに問われ、はっとなる。
「シャルル様に同行したわ。
そうだ。それでハンカチを貰ったのだ。
あの日、林檎パイの店の傍ででせっかく再会できたのに。老婦人にその御礼を言わなかった。
フラヴィが丁寧にアイロンがけしてくれたハンカチは、大事に仕舞ってある。
言いそびれた御礼は、手紙を書いて伝えてみようか。
「大変だったわね」
ヴィオレットが首を捻る前で、母の声が響く。
「行ってどうしろっていうのかしらね」
顔を上げたら、テレーズは静かに紅茶のティーカップに口を付けていた。
「行く理由って、なんだと思う?」
「何かを変えるためでしょうね。何なのかはその時々だと思うけれど――なんで変えようとするのかしら」
「変えたら、駄目?」
「疲れるわ」
きっぱりとした言い方に瞬く。
「変えるのは疲れるの?」
「そうでしょう? 良いものが悪くなる可能性だってあるのに、わざわざ変えることはないわ」
ティーカップから唇を離して、テレーズは眉を寄せた。
「決まった道筋からは外れないほうがいいのよ。自分が傷付かず、誰も傷付けないためにも、ね」
急に。キャラメルのクッキーから、この間の林檎パイと同じ味がした。
母と、この間の老婦人は根っこで同じことを言っている。立場は違えど、違うからこそ、相容れないとでもいいたげに。
だから、手紙を書こうかな、という気持ちは引っ込んだ。
ぐっと唇を噛む。
「ヴィオレットもそういう生き方をしたほうがいいわ」
ゆっくりと声を出して、テレーズが視線を送ってくる。
「ヴニーズ侯爵令嬢として生まれたんですもの。相応しい振る舞いを続けていれば、落ち着いた立場にいられるはずよ。結婚だって、落ち着くところに落ち着くわ」
言われて思い出すのはシャルルだ。
そうだろう。幼い頃からなんとなく、従兄妹だから、王家と侯爵家だから、そういうものなのだと思わされて育ってきたのだから。
テレーズはそれを分かって言っていた。
「あのアンリエットの息子だってのが悩ましいところだけど」
ふふふ、と笑うのだから、間違いない。
「見慣れれば、あの肥満体も可愛くなるわよ」
「本当に!? 本当にあの体型が可愛く思えるようになるの!?」
思わず立ち上がる。テレーズは素知らぬ顔でクッキーを食べ始めた。
――あのお腹は駄目よ!
たゆんたゆんの脂肪はちょっと駄目だ。引く。再会した時の衝撃を思い出せ。ドン引きしたではないか。
それは変えるべきだ。変革が必要だ。
それなのに、母はあのままで良いというのだろうか。あれが平気なのだろうか。
平気なのか、赦せるのかということを、誰か、母以外の意見を聞いてみたい。
誰だ、と考えた時に真っ先に浮かんだのは、同じ『貴族令嬢』たちの顔だった。
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