06.自分で自分の体を持ち上げられますか?

 瞬間、心臓が大きく跳ねた。


「わたくしも、シャルル様の公務に、ついて行く?」

「そうだよ。行ってみない?」


 シャルルの口調は庭園の散歩に誘ってきた時と変わらない。眩暈がした。


 救貧院の訪問に同行しろ、つまりは、公務に一緒に来いということ。

 言われた内容は理解した。だが、その場に行くこと、そこで何をするかということに、想像がおいつかない。

 そもそも救貧院アルムスハウスとはどんな場所なのだろう? そこから知らない。

 衣装選びを任されたから尋ねたことなのに、予想以上の情報が与えられて、それでいて必要なことは何も知ることができていない気がする。


 ヴィオレットは、ソファの前で棒立ちになってしまった。だから。

「黙ってしまって、どうしたのですか?」

 戻ってきたハロルドが目を丸くしていた。その後ろに立つメイドも然り。


 慌てて振り返る。

「い、いいえ、その」

 言葉はつっかえる。

「明後日の救貧院の訪問にヴィオレットも来てもらおうと思って誘ったところ!」

 シャルルはソファに腰を下ろしたまま、ニコニコしていた。

「そうだったんですね」

 ハロルドは納得した様子で、一礼した。


 ヴィオレットに、だ。その優雅な挨拶はヴィオレットに捧げられたもの。

 顔が熱い。


「是非ご一緒いただけますか」

 右手を胸に当てて、微笑んだハロルドに。

「喜んで」

 頷かないという選択肢はない。


 両手で頬を押さえる。それでは誤魔化せないくらい熱を放つ顔に、頭の中も煮えたつ。


 涼やかな瞳に、穏やかに微笑む口元。すらりと伸びた手足にまっすぐな背筋。今日も灰色に紺色のステッチが入った三揃えを僅かな隙もなく着こなしていて、白いシャツの下には割れた腹筋が隠されているらしい。

 いったい何なのだ、この美青年は。


 ヴィオレットが硬直しているのに構わず、ハロルドはすっとソファに寄ってきて。

 膝をついた。


「さて、殿下。脱いでください」

「え?」

 瞬くシャルルに、ハロルドは手を出す。

「ボタンを付け直すのでしょう? 上着とシャツをください」

「そっか、そうだったなぁ」

 よいしょ、と立ち上がって。躊躇なくシャルルは上着を脱いだ。


 はずみで、ぽよよん、と脂肪が揺れる。そう、脂肪だ。シャルルの腹にうずたかく堆積した、脂肪!

 息を呑んで、両手で顔を覆った。だが指の隙間から見える。

 ぽよよん、ぽよよん、とシャツ越しでも揺れているのが分かる。やわらかな脂肪だ。

 見たくて見ているわけではない。断じて。


 硬直したヴィオレットの横をメイドが通り過ぎる。

 脱いだ上着とシャツを取ろうとしたハロルドを片手で制して、シャルルはメイドに向き直った。

「ボタンをつけ直してもらいたいんだ、よろしくね」

 両手で渡された、絹の衣装。

「かしこまりました」

 笑顔を崩さない王太子に、メイドも朗らかに答える。


 受け取った服をしげしげと眺めた彼女が。

「ボタンをつけるだけでなく、サイズ直しも行ってよろしいですか?」

 言うと、シャルルはぱっと瞳を輝かせた。

「できるの?」

「見頃をあと少し広げることができそうです。それをしたら動きやすくなると思います」

「じゃあ、併せてお願い」

「30分ほど、お時間いただきます」

 頭を下げて、メイドが下がる。


「待っている間、その格好ですか?」

「駄目だよね?」

「駄目ですね」

 見下ろすハロルドに、シャルルは肩を竦めた。

「じゃあ、直してもらっている間に着るものを持ってこようかな」

 お腹を揺らして立ち上がり。彼は手を打った。


「ヴィオレット、ついでに選んでよ」

「ななななななな、なにをでしょう」

「明後日に着る服!」


 ちょいちょい、と手招かれて、頬が引き攣った。

 大変申し上げにくいのですが殿下、今のご自分の姿に自覚はございますか?

 上着とシャツを脱いでしまったから、今は肌着一枚なんですよ。下衣ボトムのベルトの上に脂肪が乗っているのが見えています。なんならヘソの形もわかりそうな勢いですが、その状況で別室に乙女を連れて行くのはいかがかと思います。

 わたくし、一応、嫁入り前なので!


 お願いだから気遣ってほしい。そんなヴィオレットの願いは届かない。とことことシャルルは扉の向こうへと進んでいく。

「ご面倒をおかけしますが、一度見ていただけますか?」

 背中を見送ってから、ハロルドが笑いかけてくれた。

「ヴィオレット嬢の目があれば、すこし緊張するでしょう」

「緊張ですか?」

 ヴィオレットが瞬いて見せると、口元に人差し指を当てて、ハロルドは声を低くした。

「カッコつけ、とも言うのですよ」

 はあ、と間の抜けた声を出す。

 だけど、好青年が一緒ならば、万が一は起こるまい。多分。

 腹を決めて、肌着姿の王太子の後に、ハロルドと続く。


 以前予想したとおり、奥の扉の一つが寝室につながっていて、そこに衣装棚はあった。


 棚には、絹の、毛織物の、高価な衣装が並ぶ。

 どれもこれも身幅が大きめだ。シャルル用なんだから当然だ。

「大きい方が、痩せても着られるし」

 本人も意図して選んでいるらしい、とはいえ。

「じゃあ痩せましょうよ!」

 ヴィオレットは眉を吊り上げた。


「わたくしの知る、人間用の服のサイズではありませんわ」

「嘘!?」

「ご覧ください、このシャツの袖! わたくしの腕が二本入りそうです! こちらの上着の開きも、シャルル様が着たら胸元で止まるでしょうけど、わたくしだったら、お腹まで全開ですわ! 大き過ぎます!」


 まくし立てるヴィオレットに、シャルルは眇めた視線を寄こしてくる。

「じゃあ何さ。熊が着るとでもいいたいの!?」

「目の前にシャルル様がいらっしゃらなかったら、それを信じたかもしれませんわ」


 もう、と息を吐く。

「……痩せましょう?」

 言葉が飛び出る。

「やだよ」

 また即答だ。


「大きめの服を着れば、もちろん動きやすくなるでしょうけれど。体をにすれば、服で窮屈な思いをしないと思いますのよ」


 一つ大きく頷いてから。

「腹筋! やっぱり腹筋をしましょう! 本当に痩せますから!」

 見本はこの腹、とヴィオレットは右手を自分の腹に当てる。

「腹筋ねー」

 シャルルは指を耳に突っ込んだ。

「無理無理、持ち上がらないって」

「じゃあスクワットにしますか?」


 ハロルドが言うのに、二人で振り返った。


「す? なんですって?」

「スクワットです」

「なにそれ」

「膝の曲げ伸ばし、と言えば簡単ですけどね。こうです、こう」


 彼は腕組みをして、その場で足を肩幅に開いた。それから膝を曲げたので、上体が下がる。膝を伸ばすと上がる。その繰り返し。

「これもまた、自分で自分の体を持ち上げられますか、ということです」

 ふふふ、とハロルドは笑い声を立てた。


 ずいぶんと意地の悪い笑い方だ。

「できますか?」

 科白も意地悪だ。

 シャルルは、ふん、と鼻息を出した。

「や、やってみようかな!?」

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