07.みんなでスクワット
腕組みをして、その場で足を肩幅に開く。それから膝を曲げる。
シャルルの肥満体が、ず、ず、ず、と下がる。ヴィオレットの肩より下に頭が下がっていく前に。
「無理だー!」
叫ぶや否や、シャルルはひっくり返った。
毛足の長い絨毯が受け止めてくれたおかげで、音は響かなかったが、それなりに背中を打ったらしい。
いててて、と呻きながら、シャルルは起き上がらない。
「無理だよ無理無理。膝を曲げた状態で止まれない」
「……自分で自分の体を支えられないんですか?」
「無理な姿勢だってことだよぉ」
むーと頬を膨らませたシャルルを見下ろして。
「難しいんですの?」
ヴィオレットが尋ねると、ハロルドは苦笑いを向けてきた。
「まあ…… それなりに」
ふむ、と首を傾げて。
ヴィオレットはドレスをつまんだ。ふわりと広げれば、ペチコートの中に空間ができる。両足を肩幅に広げるだけの空間。
それからゆっくりと膝を曲げる。
「こういうことですわよね?」
ハロルドが目を丸くした。眼鏡のフレームよりも大きく目を見開いている。
「そ、そういうこと、ですよね?」
上擦った声も飛び出してきた。
「貴女もやるんですか」
すぅっと、背中が冷えた。汗のせいではない。ハロルドの声のせいだ。
令嬢として、おかしかっただろうか。問うまでもない。変だろう!?
ヴィオレットは恐る恐る視線を向けた。その視線がかち合った時、ハロルドは相好を崩した。
「楽しんでいただければ、何よりです」
笑っている。優しく、穏やかに。
ヴィオレットを可笑しく思っているのなら、そんな顔にはならないはずだ。だから、つまり。
ヴィオレットもスクワットをやっていいということだ。心臓が跳ねる。
同じく、その柔らかな声が引き金だったのだろうか。
「ま、負けられないじゃないか!」
シャルルが常の三倍の勢いで跳ね起きる。
「体を倒さなければいいんだろう!?」
「そうそう、その調子」
ずしんずしん、ひょいひょい、とシャルルとハロルドがその場で動く。
「曲げたときに膝を出してはいけませんよ」
「え? 何だって?」
「膝が前に付きでないように」
ひょいと手を出して、ハロルドはシャルルの膝を押さえた。
「膝が出てないか気をつけるのには、壁を向いてやるといいんですよね。膝を壁にぶつけないようにやってみてください」
「なるほどねー」
いつもの調子の声を聴いているうちに、心臓も通常運転に戻っていく。
そう、いつもどおりだ、別にドキドキなんかしていない。
壁際に移って上下動し始めた二人をヴィオレットも追いかけた。
「膝を前に出してはいけませんの?」
「ちゃんと動かさないとトレーニングになりませんから。膝が前に出ているときより、出ないほうが太ももに効きます」
「そうなのですね」
ふむ、と頷いて、実践。
後ろ側に体を落とすと、太ももの裏がピリピリした。これが効いているという感触なのだろうか。
そうして気が付けば、みんなでスクワット。三人が並び、壁を向いて、スクワット。
「脚! 脚がいたぁい!」
「頑張ってくださいね」
「僕はムキムキの脚になりたいわけじゃないんだよ!」
「目指せカモシカの脚、ですわ!」
「いやだああああああ!」
だが、楽しい。
うふふ、とヴィオレットは吹き出して。膝を伸ばした。
踵に力がかかる。瞬間、パン、と音を立てて、ヒールが折れた。
「わっ……!」
踏ん張っていたはずの足がぐらついて、体が傾ぐ。床に向かって倒れていく。
「おっと!」
すかさず腕を伸ばしてくれたのはハロルドだった。
おかげで床に転がらずには済んだし、体のどこも痛くないけれど。ヴィオレットの体は今、ハロルドの腕の中だ。視線が噛み合う。
涼やかな瞳の中に、羽目を外した令嬢の姿が映っている。
それに何かを思う前に。
「大丈夫かい?」
シャルルが覗き込んできた。
その顔は真っ赤だ。汗がじんわり滲んで、真っ赤だ。
「大丈夫です」
起き上がって、礼をして。
改めて、シャルルとハロルドの顔を見て、ヴィオレットは吹き出した。
「面白かったです」
三人でスクワットをしていた。そんな事実に、笑いが止まらなくなった。
皆で何かするのが面白い、なんて。
彼がじっと顔をのぞき込まれていることに気づかないくらい、ヴィオレットは笑った。
「そうやって、また壊したのですか」
フラヴィは盛大な溜め息を吐いた。
「王宮に参りましてから、これで二足目でしたわね」
夜、二人きりの王宮の客室。ソファに腰を下ろし、相対する中で。
申し訳なく思っています、との言葉を飲み込む。
鬼の形相が見えたからだ。
「はしたない」
黙った胸の底に、短い言葉が切り込んできた。
あの瞬間、三人で運動をしていた時は、心が躍った。だが、フラヴィの言うとおりだ。あんなにはしゃぐのは、侯爵令嬢として如何なものか。一瞬でもそう感じたのに、何故止まれなかったのだろう。
ちりちりとランプの明かりが揺れる中、フラヴィは立ち上がり。
「こちらは処分しておきますね」
と、ヒールの折れた靴を摘まんだ。
揺られて部屋から出されそうになっている靴を見て、もったいない、と言いかけた。
――もったいない?
記憶を辿る。つい最近聞いた気がするな、と考えて。王宮に来た初日のことだと思い出した。
シャルルが立ち上がる勢いでソファが壊れたのを見て、ハロルドが言ったのだ。もったいない、と。
大事にすればまだ使えたはずのソファが壊れたことへの反応だ。
惜しいとか、悔しいとか、そういう感情なのだろうか。
そういえば、と思考が巡る。
「フラヴィ」
呼ぶと、お目付役は部屋を出る前に止まってくれた。
「前に直してもらった靴は、どうしたの?」
「……せっかく直していただきましたので。もったいないから、一応保管してあります」
ぷっと吹き出した。フラヴィも『もったいない』と言った。
笑われた彼女は眉を吊り上げる。
「ごめんなさい」
ヴィオレットは両手を合わせて、見上げた。
「フラヴィも、もったいない、って言ったから」
怪訝そうな顔のお目付け役を、まっすぐ見つめる。
「もったいない、から。その靴も直したいな」
フラヴィは何も言わない。言わないが視線で問うてくる。何故壊れたものを履こうとするのか、と。
「大事に使いたいなって思えてきて」
「大事?」
やっと返ってきたフラヴィの声は冷たい。
「恥の上塗りのようなことをされますか?」
コツコツと床を鳴らして、彼女はソファに座ったままのヴィオレットの正面へ戻ってきた。
「侯爵令嬢たる方が繕われたドレスなんかを着ると、見た者はどう考えると思いますか? 新しい物を用意することができぬのか、と思われます。
お嬢様のお召し物はお父様の財力を示すものであるのですから、新しいものをお召しください」
見下ろされて、俯く。
気高くあること、気品を保つこと、美しくあること。
それがヴィオレットに――ヴニーズ侯爵令嬢に求められることだ。王国を飾る華であることが必要なのだ。
ヴィオレットは生まれついての美女ではない。腫れぼったい瞼に小さな体と、土台が厳しい。だから尚更、化粧やドレスで理想に近づく努力をするしかないのだ。
それが今までの答えだった。これからも変わらないはずだ。
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