09.おしゃべりの時間はここまで

 馬車が走れば、あっという間に救貧院アルムスハウスは見えなくなった。視界にないから忘れられるということはないけれど。


「次はいつ来るか、決まってったっけ?」

 行きと同じく、一列の座席の真ん中にどっしり座ったシャルルが訊くと。

「決まってはおりますが、しばらく先です」

 ヴィオレットの横で、ハロルドが革張りの手帳のページを繰りながら答えた。

「冬の初めですね」

「ありゃ、そんな先か」


 残念、と眉を下げたシャルルにヴィオレットは微笑んで見せた。この笑みさえ、今のこの感情にそぐわない。

 落ち着かない。

 自分一人でもあの場所に行けば、この気持ちは落ち着く? 行けば、何かが変わる?

 ハンカチを握る指先には力がこもっていくけれど、笑みは崩さない。シャルルもにこっと笑ってくれた。その視線はそれからハロルドに戻る。


「冬までの予定はどうなってるんだっけ?」

「直近の予定では晩餐会があります。例年の、秋の収穫で忙しくなる前に各地のご領主が集まる、女王陛下主催の会でございます。それが終わったら各地を巡っての視察です」

「各地? 旅行じゃないんだよね?」

「ええ、仕事です。収穫の応援と申しましょうか…… ヴニーズも予定に入っておりますよ」

 ヴィオレットを向いて、ハロルドが言い足した。

「そうでしたの」

 声が上擦る。

「ヴニーズの辺りには小麦畑も広がっておりますしね」

 誤魔化すために言い足す。ええ、とハロルドは頷いてくれた。


「収穫の応援って、僕も鎌を持つの?」

「挑戦なさっていいんですよ?」

「うーん」

「鎌もくわすきも、トレーニングになります」

「え?」

「腕の筋肉を鍛えます。腕を動かすための足腰の鍛錬にも繋がります。痩せますよ?」

「またそこ!?」

「わたくしはやってみたいです」

「ヴィオレットが!?」


 シャルルが口をパクパクさせている。ハロルドは眼鏡を押し上げて、ゆっくりと口元に笑みを広げた。

「ヴィオレット嬢は何にでも挑戦される。素晴らしいことです」


 それはどうなのだろう。できないことが多いから、やってみようと気軽に思えるだけかもしれない。

 ヴィオレットは首を捻って、顔を伏せた。

 針も握ってみるべきなのだろうか。何かできるだろうか。


 その間に、ハロルドの視線は外れていく。

「先の予定の話に追加しておきますと」

 シャルルに話している。

「今年は西の方を中心に組まれています。西だと、馬車での移動かと」

「船じゃないのかぁ」

「ダニューブ河は西ではなく北に繋がっていますからね」

「残念。船、乗ってみたかったのに」


 くすくす笑ったまま、シャルルが呼んできた。

「ヴィオレットは船に乗ったことある?」

「いいえ。わたくしは、ヴニーズと王都の間くらいしか移動したことがございませんので」

「そっか」

 頬の肉を揺らし、シャルルがご機嫌だ。

「いずれ、東や北にも行ってみようね」

 その顔に、ちくり、胸が痛む。ヴィオレットに構わず、会話は進む。

「戻ってきてからは女王陛下の同行で、学会への顔出しが中心です」

「うーん。勉強は嫌いじゃないんだけど、大学の学者は好きじゃないんだよねー」

 急に眉間の脂肪を寄せて、シャルルは叫んだ。

「偉そうなんだもん!」


 グサッと胸に刺さった。

 偉そうだったのは自分もではないか。

――侯爵家ってだけで? 何が?


「一応、大学出身の身としては、それは傷つきます」

 ハロルドも苦笑している。

「あ、そう?」

 シャルルはペロッと舌を出す。二人を見比べて、ヴィオレットは口を挟んだ。

「ハロルドは大学を卒業したと言ってましたよね?」

 はい、と彼は頷く。

「奨学金で学ばせていただきました。進学し教育を受けるには資金、本来であればそれを自分で稼ぐか、両親に用意してもらうことになるのですが……」

「ハロルドは優秀だから援助を得られたんだ!」

「そういうことにしておきましょうか」


――奨学金? 援助?


 苦笑いが深くなったハロルドにその先を問おうとした時に、ガタン、と馬車が揺れる。

 御者が王宮に到着したと伝えてくれた。


「部屋にお戻りになりますか」

 ハロルドの問いかけに、シャルルは首を横に振った。

「いいや、先に母上に報告に行ってくるよ。今の時間ならそのまま夕食も一緒に、かな? だから、ハロルド。ヴィオレットを部屋まで送ってあげて」

「かしこまりました」

 ぽよんぽよん背中を揺らして、王太子は宮殿の階段を上っていく。護衛として同行してくれた近衛兵たちも散っていく。


 オレンジ色の夕焼けの中で。

「私がご一緒させていただきますね」

 爽やかに、ハロルドは腰を折った。さすが美青年、様になる。


 今日はずっと彼が近い。きっちり着こなされた淡い灰色の三揃えも、長い脚も、視線を一度和らげる眼鏡も、シャツの袖からのぞく筋張った手首と手の甲も。しっかり見えてしまう。


 聞こえた話にも、彼の思い出が含まれていたような。

「先ほど、大学に奨学金で進んだと話していたわ」

 問うと、ハロルドの表情が一瞬だけ消えた。

「殿下は援助と表現してくださいました。つまるところ、施しです」


 その言葉に、ズキっと胸が軋んだ。ああ、まただ。ヴィオレットの驕慢を抉る感触だ。

 気付いているのかいないのか、きっと気づいていないけれど、ハロルドは元どおり笑みを浮かべて。

「今日尋ねた救貧院アルムスハウスの方々のように、私も家を失ったことがあります」

 寂しそうに続けた。


「育った家を追い出されたのです。借金のために」

「借金?」

「ええ。父が、抱えた負債を返すのに、町屋敷タウンハウスを売ったんです」

 一度息を吸って。ハロルドはまだ言葉を継ぐ。

「モラン家は、領地が北にありまして、一応貴族の末席に座してはおりますが、どうにも貧しくて…… 北は痩せた地が多いから。いいえ、それは言い訳ですね。祖父、父の二代に渡る投資の失敗が原因です」

「それは」

 ヴィオレットは眉を寄せた。

 よく聞く話だ。貴族が一代で、それまでに築かれた財を無くすという話。

 ハロルドの家族に起こったのも、そこに類する話だったのか。


「それでも、私たち一家はだったんですよ」

 彼の声は穏やかだ。

「王都での屋敷は失っても、領地に戻れば雨風を凌ぐ家がありましたから。私が9歳の頃に王都を出て、そちらで暮らすようになりました。威光も何もない、寒い土地の中でも、父と母は笑顔を絶やさず、私や弟妹きょうだいたちを育ててくれました。貴族としては威張れなくても、人として正しくあれ、と。地元の学校に通いましたよ。楽しい暮らしではあったけれど、それでも私は、都の華やかな暮らしを忘れられなかった」


 ふと、彼は廊下の窓から外へと視線を向けた。

 夕日に照らされるのは二百年の間に発展した街並み。ベルテール王国の繫栄だ。そこの暮らしは豊かなのだろうか。


「お菓子作りだって、母と王都を懐かしむために始めたんです。新鮮な卵と牛乳は手に入りましたから。それらを組み合わせたら何が作れるかを考えて動いている間は、現実を忘れられて幸せでした」

 王都を見下ろす瞳が細められる。ヴィオレットも苦笑した。

「筋トレも?」

「ええ。体を動かしている間は、忘れられましたからね」

 クスクスと声を立てるハロルドにつられて、つい吹き出した。

「勉強は?」

「好きではなかったですよ、苦しかったですからねえ。とはいえ、当時の私はそれぐらいしか王都に戻る足掛かりを考えられなかったんですが」

「でも、本当に王都に戻るきっかけになったのでしょう?」

「ええ。大学に進みましたからね――」

 はっと、ハロルドは目を丸くした。それから、ヴィオレットをじっと見つめてきた。


「いらぬことを聞かせましたね」


 正面には客室の扉が見えていて。

 ハロルドは先に進む。

 ノックの音にフラヴィがすぐに顔を出した。


 おしゃべりの時間はここまでだ。

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