10.食事制限を守るのは恋の力

 バキバキバキィ! ……という音で平穏は崩された。


「な、何事ですの?」

「椅子が殿下の体重に耐えられなかったようですね」

「分かってるなら、助けてよ! ハロルド!」


 ヴィオレットが訪れることが日常となった、王太子の部屋。

 その床で、背中から転がったシャルルが叫んでいる。毛足の長い、分厚い絨毯のお蔭で、その白い背中に傷をつけることはなかったようだが、痛いものは痛いらしい。シャルルは涙目だ。

 その彼に、ハロルドはどうぞ、と手を差し伸べた。


 起こされる方は、ぶくぶくぷよぷよと肥えた体。クローゼットから適当に選ばれたと見える服はピチピチで、シャツでも上着でも前袷が左右に引っ張られてボタンが悲鳴を上げている。ズボンの開きも限界目一杯で、そう限界ギリギリなだけで、まだ開いてはいない。大事なところは守られている、かろうじて。

 だから余計に。起こす側、ハロルドが美青年に見えるのだ。背が高く、脚が長い。背筋は伸ばされて、指先もそろった動きも上品で。淡い灰色という地味な色ながら紺色のステッチというところでこだわりを表現した三揃いには、ちゃんとアイロンが当てられていた。


 その背中から、ヴィオレットは視線を逸らした。

 気を抜くと、ハロルドを目で追ってしまう。


 ヴィオレットは侯爵令嬢。そして、王太子シャルルとの婚約が控えている身。よそ見をしてはいけない。


「さあ、支えはございます。起き上がってください」

「……引っ張ってくれないの?」

「ええ。筋トレしていれば、起き上がるための筋力はついていらっしゃるかと」

「筋トレはダイエットのためだけじゃないの!? ねえ、ヴィオレット!」


 呼ばれれば向かざるを得ない。声の主はハロルドだけれど、その傍にいるハロルドは厭でも目に入る。


「何、でしょうか……?」

「ハロルドがいじめる!」

「……はぁ」

 気の抜けた声が出る。


「そうはおっしゃいましても、筋トレで筋力がつくのは本当のことですし、椅子がシャルル様の重さに耐えられなかったのも事実でしょう?」

「椅子が元々壊れてたとか言ってくれないの!?」

「可能性としては低いですね」

 喚くシャルルの横で、ハロルドは首をひねった。

「この椅子、もう数ヶ月はこの部屋で働いていました。……ってことはそうか、徐々に亀裂が入っていた可能性は高いような」

「結局僕が壊したって言いたいんじゃん!」


 あーもう! と叫んで、床に座ったままのシャルルは頭を抱えた。

 その横にまっすぐ立って、ハロルドは手帳をめくる。

「現実を把握してください、殿下。昨夜の体重の記録は112kg。また新しい記録を作りましたね」

「待って」

 ヴィオレットはつい口を挟んだ。


「一度、99kgになったっておっしゃってませんでしたっけ?」

「それが残念なことに一日限りの記録でした。翌日には100kgになりまして、それがショックだった殿下は食べることでストレスを解消しようとなさったようですね。それで昨晩は112kgです」

 ふう、と息を吐いて。ハロルドは眼鏡を押し上げた。

「これは本気で食事制限に励まねばならぬようです」

「嘘でしょ?」

「本気ですよ」


 ですので、とハロルドがヴィオレットへ振り向いた。

 心臓が跳ねる。優しげな視線が、胸の底をつかんで、離さない。


「ヴィオレット嬢にご協力をお願いしたく」

「なにを?」

 声が上ずった。

「殿下の食事に毎回同席いただけませんか?」


 瞬く。どうして、と問うと、ハロルドはすんなり答えてくれた。


「食事制限を守る工夫です。ヴィオレット嬢の前でしたら、決められた目標を破るなんて格好悪いことはできませんよね?」

 ねえ、とハロルドが笑うと。シャルルは頬を染めて横を向いた。

「ヴィオレットがいるんだったら、頑張ろうかな」

「そうそう、その調子です。恋の力は偉大ですね」

「食事制限を守るのは恋の力…… なのか……」

「そうですよ、殿下」

 クスクス笑いながら、ハロルドは目を伏せた。


――恋の力?


 ヴィオレットが瞬いている間に。ではさっそく、とハロルドがベルを鳴らした。

 やってきたメイドにお茶の支度の指示を出す。

「紅茶はストレートで。砂糖は欠片もいれないでくださいね。スコーンは朝方に私がバター控えめのものを焼きましたので、それを用意してください。ジャムは無しです」

 かしこまりました、とお仕着せ姿のメイドが下がっていくと。

「イジメだ」

 シャルルは頬を膨らませた。


「おや、殿下の頬にはまだ膨らむ余地があったんですね」

「あるよ! 失礼だな。そんなに太ってない――いや、体重は新記録なのか。肉は腹についている!」

「ならば尚更ダイエットです」

「ダイエットですわ!」


 ハロルドと声が重なってしまった。

 顔を見合わせる。

 視線がかみ合う。

 頬が熱くなる。

 ハロルドは、一度大きく目を見開いて。それから、溜め息を吐いた。



――わたし、何かした?



 そうこう騒いでいる間に、お茶の席の用意が終わったらしい。


 設えてくれた席は完璧なダイエット仕様だった。

 皿の上にスコーンは一つだけ。


「足りない! 足りないよ!」

 シャルルが目を剥く。

「殿下、ご安心ください。ここにもう一つございます」

 ワゴンの横に立って、ハロルドは喉を震わせた。

「但し、殿下のお皿に乗せるには一つ条件が」

「何だよ……」

「この場でスクワットを十回なさっていただければ」


 にっこりとハロルドが笑う。悪魔の微笑みだ。完璧に飴と鞭を使い分けている、さすが、できる美青年は違う。

 ハロルドの笑顔から逃げるように、そろっとシャルルが視線を動かしてきた。

 その青い瞳をまっすぐ見つめて。

「頑張りましょう。わたくしもお手伝いしますわ」

 ヴィオレットは肩幅に足を開いた。


「それ、手伝いじゃない! 一緒にやるだけじゃん!」

「共に頑張りましょう! さあ、1!」

「ぎゃー! 痛い痛い痛いいいいいぃい!」


 2、3、4、とハロルドが静かにカウントする声が部屋に響く。それを上回るシャルルの絶叫。


「10! はい、よくできました」

「無理…… もう立てない」

 どすん、とシャルルが床に座り込む。

 その隣に立ったまま、ヴィオレットはふう、と息を吐いた。


「ヴィオレットは余裕なの?」

「いいえ、ふくらはぎがまだ震えておりますわ」

 意地でもまっすぐ立つのだ。何の意地だか、今は分からないけれど。


「ヴィオレット嬢もよく頑張りましたね」

「え、ええ……」

「先にお席へどうぞ」

 そう言って、ハロルドが手を引いてくれた。

 右手に左手が乗っている。熱が伝わる。頬が熱いのは、体を動かした後だからだ。


 椅子を引いて、座らせてくれる。ふくらはぎと股と、心臓が震える。指先まで熱い。


「殿下がお席につくまでまだかかりそうですから、先にお茶をどうぞ」

「ハロルドー。僕も飲みたいー」

「はいはい、飲むだけですよ」


 カップをゆっくり持ち上げて、それだけをシャルルの元へと運んでいく。

「スコーンも持ってきて」

「お行儀が悪い。ちゃんと席に進んでください」

「食べてからなら席に向かえると思うんだよねえ」

「ダメです」

「ハロルドのケチぃ。ヴィオレットもそう思うだろ?」

「思いませんわ。ちゃんとテーブルで頂くべきだと思いますの」

「さあ、殿下。格好悪いことはできませんよね?」

「イジメだー!」

「違いますよ。早速目標を破るなんてことのないよう、応援してるんです」

「ホントに!?」


 そうこう喋っている間に。

 扉が開いて、そこに人が立っていたことに三人とも気がついていなかった。

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