11.恋しているという意味で好き

「楽しそうね」

 ゆったりとした声がかかるまで、扉の前に立った影に三人とも気がついていなかった。


 振り向いて。

「母上!」

「陛下!」

 シャルルはカップを取り落とし、ハロルドは直立不動になった。


 ヴィオレットも慌てて立ち上がる。それから、片足を引いて、淑女の礼。

「アンリエット女王陛下」

 呼ぶと、その人は、ふふふと微笑んだ。

「いいのよ、ヴィオレット。そのまま、座ったままで良くってよ? スクワットのお蔭で、まだ足が震えているんでしょう?」


 シャルルと同じ色の髪は、綻び一つなく結い上げられている。肌荒れも皺も少ないと見て取れる顔には、薄化粧が施され、艶然とした笑みが浮かぶ。体を覆うのは、アイボリーの生地に黒のレースが配された典雅なドレス。

 ベルテール王国の現在の君主、アンリエット2世女王だ。


「仲良く運動しているところから見ていたの。気付かなくて?」

 よく通る声に、ハロルドが腰を折った。

「申し訳ございません……」

「それほど楽しかったってことよね。羨ましいわ」

 手にした扇を揺らして、御年45歳の女王は朗らかな笑い声を上げた。

「あまりに楽しそうだから、声をかけるのを躊躇ってしまったのよ。でも、もういいかしら。部屋に入っても?」

「どうぞ、母上……」

 げんなりした顔のシャルルが答えると、女王はしゃなりしゃなりと歩いてきた。


 そのまま、ヴィオレットの向かいの席――シャルルのためだった席に腰を下ろす。

「お茶の時間らしいと聞いたので遊びに来たのよ」

「母上…… 仕事はないのですか?」

「失礼ね、今は休憩なだけよ。時にはゆっくり息子の顔が見たいわ」

 それに、と視線がヴィオレットに向けられる。

「せっかくに王宮に来てくれているヴィオレットとも沢山お喋りしたいのよ」

「……恐れ入ります」

 座ったままでも、ゆったりと腰を折る。今できる最敬礼だ。

 女王は微笑みを崩さない。


「というわけで、私がヴィオレットと話をしているから。もうちょっと運動なさい、シャルル」

「うぇえええ、マジでー!?」

「ええ、マジよ。ハロルド、今少し鍛えてやって」

「かしこまりました、陛下」

 慇懃に頷いたハロルドが、笑みを消して、シャルルに向き直る。

「スクワットはしましたから、腕立て伏せと参りましょうか」

「うえええええええ勘弁してよおおおおおお!」

「そこをなんとか。ヴィオレット嬢に格好悪いところは見せられませんよね? ね?」

「それはそれ!」


 涙目のシャルルは、丸々とした体を両腕で支えるところからチャレンジだ。果たして腕の筋力で上下させられるようになるのだろうか。どれほどの時間がかかるのだろうか。

 それらの答えが出る前に。


「スコーンもいただいちゃいましょう?」

 女王が片目を瞑る。

「ハロルドのお菓子は絶品なのよね。この部屋にくる楽しみの一つよ」

「彼は陛下の分も用意しているのですか?」

「いいえ。いつも不意打ちですから。今日みたいに、息子のを奪って食べるよ」


 頬を染めて、女王はスコーンを頬張り始める。遠慮しているとまた言われそうだ、と判断して、ヴィオレットもスコーンに齧り付いた。

 バター控えめだという今日のスコーンは、ぽろぽろと口の中で崩れる。

「喉が渇くわね。でも、このストレートティーとは相性が良くて、食べやすいわ」

「はい、陛下」


 頷いたのに、アンリエットは眉を下げた。


「あらやだ、寂しいじゃない。昔みたいに伯母様おばさまって呼んで?」

「……アンリエット伯母様おばさま


 言ってはみたものの、この呼び方は難しい。

 世間を知らない子供の頃は、女王のことさえも、気のいい年上の女性、母の姉としか思っていなかった。だから『伯母様おばさま』と呼べた。

 今は違う。侯爵令嬢として弁えているのだ。

 弁えているからこそ、求められれば、呼ぶ。礼節の範囲内で。


 精いっぱいの笑顔で呼んで正解だったらしい。女王の顔にも、親しみのある笑みが浮かぶ。

「王宮は楽しい?」

 声も朗らかに響く。

「急に呼んじゃったから、戸惑ってるんじゃないかしらと心配してるのよ。好きに過ごしてくれて構わないからね。庭園はお散歩してくれて構わないし、お食事も好きな物をリクエストしてね。そうそう、シャルル以外とも会っていらっしゃいのよ。ほら、フロランス公爵んちのカロリーヌは? アミアン伯爵家の……ええっと名前は何と言ったかしら、あの子は? お茶とかしないの?」

「あの、伯母様!」


 両手を振って、流れる言葉を遮る。


「好きに過ごしても、とおっしゃられても、わたくしは判断に迷いますわ。だって、何故呼ばれたのかを伺っていませんもの」

 そう。王宮に来て既に一ヶ月、未だこの問題に答えを得ていないだ。

 まっすぐ見つめる。アンリエットは意地の悪い笑みを浮かべた。


「シャルルのダイエットのためよ」


 え、と声を零す。目は丸くなったまま、戻せない。

 アンリエットは、母親なのか夢見る乙女なのか分からない、恍惚とした表情を浮かべている。


「シャルルはね、昔から貴女が好きなの。恋しているという意味でね。だから、貴女の目があれば、白豚ちゃんを脱却できるかしらと思ったのよ」

「白豚ちゃん」

「そうよ、白豚ちゃんよ! 貴女も見てるでしょう、あの、り出すお腹! 揺れるほっぺ! もともとふっくらしてたけれど、三年であんなになっちゃって、我が子ながら戦慄を覚えたわ」


 両腕で自分の体を抱きしめて。アンリエットはぺろりと舌を出した。


「一国の太子ですから、多少なりとも外見を気にしてもらいたいのだけど。ああいう子だから。何か理由がないと頑張れないと思ったのよ。つまり、貴女は、シャルルが痩せるための理由」

「そ、そうですか……」


 これは想定外だ。

 たしかに、先ほど「食事制限を守らせるのは恋の力」だのなんだのと言われた気がする。そもそも、幼い頃から、将来は結婚するのだ、婚約するのだ、と考えてきたけれど。

 シャルルが既に、自分をそういう風に見ていたなんて。


――わたしは?


 じっと両手を握りしめる。

 アンリエットは優雅に紅茶を啜ってから、でもね、と微笑みかけてきた。


「貴女もシャルルに恋しているとは限らないと、私は分かっています」


 それにヴィオレットも、でも、と返した。それをアンリエットはまだ微笑んで受け止める。


「婚約予定なんて、予定は未定なのよ。親の都合、国の都合なんて無視していいのだからね。男も女も、心の底から惚れた相手と結婚しなきゃだめよ。そして、惚れるのはハートによ。顔にではないわ」


 曖昧に頷く。

 アンリエットは、ふぅ、と息を吐いた。

「とは言え、好みの顔じゃないと見とれていられないのが悩みよねえ」

 はあ、と気の抜けた声が出る。

「伯母様は伯父様おじさまの顔がお好みなの?」

「もちろん」

 女王は満面の笑みだ。

「ストライクだったのよ」

「だった?」

「昔はイケメンだったのにねえ。今じゃただの腹出たオヤジよ。困っちゃうわ」

 困ると言いながらも、女王は幸せそうだ。一個人として夫を惚気る女王を見つめてから、ヴィオレットはシャルルを見た。


 まだ腕立て伏せはできないようだが、そこには目を瞑ろう。努力する姿勢が大事だ。

 そんな人がヴィオレットに恋をしている、らしい。


――恋?


 言葉を心に浮かべると、視線はハロルドへと移ってしまった。


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