12.恋ってなにごと?

 恋ってなんだ。なにごとだ。

 御伽噺のお姫様が王子様とめでたしめでたしとなるために想い合うことだけが恋ではないのか。


――そんなわけない、よね。


 スクワットをしたからというよりも、アンリエット女王と喋ったことがこの疲労感の原因だ。

 王宮の廊下の途中で、ヴィオレットは溜め息を吐き出した。


 背中が丸まる。はっとなって、前を向く。歩いているうちに視線が落ちていって、床を這い、背中が曲がっていく。それに気が付いて、はっとする。

 その繰り返し、七回目で。一度足を止めたところでの溜め息だ。


 下を向いて歩くなど、ヴニーズ侯爵令嬢として、大変みっともない。即刻改めなければいけない姿勢だ。

 だというのに、体が言うことを聞かない。


 それくらいに疲弊している。

 アンリエット女王と喋ったから、違う、言われたことが頭から離れないからだ。喋ったという事態にではなく、喋った内容に疲れている。

「シャルル様が、わたしに恋している?」

 言われた内容は分かる。だが、そうなった理由が分からない。

 心当たりがない。


 衝撃的な再会まで、3年間会わなかった。その前だって、年がら年中顔をつきあわせていたわけではない。

 シャルルはずっと王宮で暮らしていた。ヴィオレットは父に連れられて、ヴニーズと王都を行ったり来たりの生活だった。

 一年の半分しか王都にいない。その半分の中でも、十日に一回会うか否か。会えば、お菓子を食べ、談笑する間柄ではあったけれど。

 それもこれも、二人が従兄妹同士だからだ。

 王妹を母に持つヴィオレットが、王太子の婚約者となるのに一番都合のいい貴族令嬢だというだけだ。


 そう。貴族の、王族の都合だ。


――国の都合なんて無視していいのだからね。


 女王があっさり口にしたほど、ヴィオレットは吹っ切れない。

 それに、自分に恋していると告げられた相手を無碍にするほど、冷淡にもなれない。


 ……なれないだろうか。

 考えてみるといい。あの腹を。揺れる頬を。鼻の穴が埋もれるほどの顔の贅肉を。

 あの顔に見とれていられるか。

 答えは、Non


 見とれるのなら、美青年の方がいい。

 そう考えた時には。


「ハロルド……」


 ぽつり、と。彼の名前を呟いてしまった。

 慌てて両手で口を押さえる。

 視線を左右に。

 幸い、廊下を行き交う人々はヴィオレットに視線を向けてはいない。この呟きも聞こえていなかったと思いたい。


 自分の思考にも物言いを付けたい。

 美青年でハロルドを思い出すというのも、如何なものか。シャルルだって、痩せれば、鼻の穴がちゃんと見えるようになるだろう。ぷくぷくしたその鼻も、すっとした形に変わるかもしれない。

 きっと。多分。


 大きく息を吸って。

 ヴィオレットは歩くことを再開した。

 大股でずんずん進む。優雅さか減少したのはご愛敬だ。今は勢いで進むことが必要だ。


 顔が火照る。

 無意識の呟きに感情を乱されるなど、令嬢に似合わない。



 歩いて、進んで、貸し与えられた客室に辿り着く。

 フラヴィが出迎えてくれたのを笑顔でかわして、寝室に飛び込む。


 両足から、ヒールの高い靴を放り出した。

 ベッドに顔から倒れ込む。羽毛のふとんだから、痛くない。

 顔は痛くなくても、胸の底がジクジク疼く。


 うう、とうめいて。大きく息を吸って。

 吐き出すと同時に、涙が溢れた。



 恋ってなんだ。



 きつく瞑った瞼の裏をちらちらする影は一人しかいない。

 ワゴンの上の紅茶と焼き菓子を振る舞ってくれる、庭園をエスコートしてくれる、スクワットの手本を示す、寂しさを潜ませた顔で思い出を語る、姿だ。


「ハロルド」


 もう一度呼ぶ。

 恋かどうかなんか知らない。ただ、気になるだけだ。


 そう。気になるだけ。

 彼は、シャルルの秘書で、シャルルのダイエットを成功させるために協力する同士だ。


 ダイエットだ。



 むくり、とヴィオレットは起き上がった。

 そっと絨毯の上に降りる。ドレスを着たまま、裸足のまま。


 肩幅に足を開く。ゆっくりと、膝を前に出さないように気をつけて、上体を下ろしていく。

 太股が震える。ふくらはぎもヒリヒリする。

 それは効いている証拠だ。

 上体の上げ下げを十回、3セット。同じ姿勢で繰り返す。


 足腰が強くなれば、心だって強くなるかもしれない。

 こんなことで悩まなくなるかもしれない。


 そう信じて、無心に、動いていたら。


「何をなさっているんです、ヴィオレット様!」

 フラヴィの悲鳴が聞こえた。




 十分くらいでは説教タイムは終わらなかった。


「侯爵令嬢ともあろう方が、筋トレだなんて。体を鍛える必要がどこにあるとおっしゃるんですか。

 それに、いくらトレーニングとは言え、がに股で動くなんて…… 恥ずかしいと思わないのですか? 他人が見てなければ良いというものではないと、口酸っぱくお教えしてまいりましたよね?

 ああ、もう。本当に、はしたない」


 ハンカチで目尻を拭いながら、フラヴィは、真っ赤な目を向けてくる。

 神妙な顔で見つめ返しながら。


――さっき、何回までやったっけ?


 ヴィオレットに運動をやめる気はない。


――腕立て伏せもやってみよう。あとで、フラヴィが寝てから、こっそりと!


「まったく、誰の影響なのやら…… 令嬢は美しくなければならないのですよ。マッチョになる必要はございません。

 それでですね、聞いていますか、ヴィオレット様。お戻りになられたらしようと思っていた話をしても、よろしいですか?」

「ええ、聞こえているわ」


 フラヴィの声という音ならば。内容は――


「お手紙が届いております」

 さすがにまずい、とヴィオレットは背筋を伸ばした。

 お目付役はほっと息を吐いた。


「一通はお父様から」

「読みます」


 中を開くと、ヴニーズから王都に向かう旨が記されていた。今回は母も一緒らしい。

 女王陛下主催の晩餐会への出席が目的だ。収穫を前に、貴族たちが領地に帰る前の集い。王国を建国の時から支える両翼の片割れとして、ヴニーズ侯爵は出席する責務がある。


――ハロルドもシャルル様に予定してるって言ってたよね。付き添って出席するのかな。


 頷いて、その手紙をたたみ直す。

「こちらもどうぞ」

 すかさず、フラヴィが別の封筒を差し出してきた。


 薄紅色の、透かし模様の多い封筒。裏返すと見慣れない封蝋が施されていた。

 わずかに首を傾げる。

「フロランス公爵令嬢カロリーヌ様からです」

 フラヴィが言い添えてくれて、ヴィオレットはポカンとなった。


 先ほどアンリエット女王との会話で触れられていた令嬢だ。

 なんというタイミングだろう。


 そろりと開くと、お茶会へのお誘い、という文字が見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る