03.腹筋は一日で割れません

 翌日。

 ヴィオレットは王宮の客室のひとつで目を覚ました。


 客室といっても、小さな家のような造りだ。

 寝室の横にはシャワールームが備え付けられていて、扉をくぐっても、すぐに王宮の廊下という訳ではなく、居間がある。

 昨日訪れた、王太子の私室と似たようなものだ。違うのは、書斎ではなく、付き人が利用するための寝室がついているところ。

 今回、ヴィオレットは大きい方の寝室を使っていて、小さな方にはヴニーズから一緒に来たお目付役がいる。


 まもなくやってくるだろうな、と寝台の上に体を起こす。うん、と伸びをしたら、扉がノックされた。

「おはようございます、ヴィオレット様」

 どうぞ、と言うと、すでに着替えを済ませている女性が部屋に入ってきた。

「おはよう、フラヴィ」

「お寝坊さんではありませんでしたね。感心感心」

 彼女のおどけた言い方にヴィオレットはつい吹き出した。

 年は今年で三十三。小柄ながら、胸を張り、顎をあげて歩く女性だ。顔立ちは柔らかいのだが、どうしてか濃い色のかっちりした形の服を好む。今日は紺地にクリーム色の襟付ドレスだ。

 カーテンを開け放ち、部屋中を太陽の光で満たしてから、フラヴィは言った。

「今日も王太子殿下とご面会の予定でしたね。朝食のあとにお召し替えしましょう」



 ヴィオレットとシャルルは従兄妹いとこ同士だ。

 婚約者というほど大仰ではないが、将来は二人でこの王国を担うようにと、シャルルの母である女王陛下やヴィオレットの両親に期待されてきたのは疑いがない。

 ヴィオレットが西の港ウニーズの屋敷で家庭教師たちに教えられてきたのは、その時に役立つはずのマナーや、王国の文学と音楽だった。

 結婚は早くて二十歳、その一年前に婚約と言われていたのに、想定より一年早く王宮に呼ばれた。

 何故かは知らされていない。想像もつかない。

 だけど、ウニーズ侯爵令嬢に求められるものだけは分かっていた。


 気高くあること、品良く振る舞うこと、美しくあること。


 その期待に応えるために、今日、フラヴィが用意してくれたのは、若草色のドレスだ。

 昨日のものより襞が少なく、腰から下の膨らみが控えめなもの。ただし、胸元のカットは膨らみのぎりぎりまで迫っている。小さな胸が目立ちそうで厭だな、という感想は飲み込んだ。

 ついでに言えば、フラヴィが施した化粧も、二重まぶたと唇を強調していて、好きではなかった。


 自分の体は好きではないものだらけだ。

 重たげな二重まぶたもぽってりした唇も、えらの張った顔も、美人に繋がるものでない。

 爪は幼い頃の噛み癖の影響で形が変わり、長く伸ばせない。足の指も、歩くのが下手で、曲がっている。

 胸が小さいだけでなく、肩が薄くて腕が細い。太っていると罵られない分、華奢な体躯だったことはまだ幸いだっただろうか。

 唯一、名前と同じViolette色の瞳は、気に入っていた。



 シャルルの私室を、指定された時間に訪れる。

「ごめんね、勝手に時間を決めて」

 シャルルはひょこっと頭を下げた。

「午前中はお母様と一緒に病院訪問だったんだ」

「……アンリエット女王陛下はお元気でいらっしゃいますか?」

「元気元気! 本当、あの人はすごいよね!」

 ヴィオレットを昨日と同じテーブルにエスコートしながら、シャルルは目を輝かせた。


「昨日は議会に缶詰めで、その前は法案の説明をずっと聞いてた、とか。毎日毎日働き詰めなんだよ。それなのに病気ひとつしないんだ。どうしてだろうね」

「自己管理の賜物でしょう」

 お茶と焼き菓子が乗ったワゴンを押してきたハロルドが、眼鏡を直しながら言った。

「起床から就寝まで、活動の時間と休息の時間をきっちり分けて過ごされていると伺います。疲労をためない工夫でしょう。体を整えるために、運動を欠かさないそうですし、食事の内容も専属の栄養士が管理されていると聞きます」

「なるほど」

 ふむふむとシャルルはうなずく。その度に、顎の肉が揺れる。

「この流れで言わせていただきますと」

 眼鏡の奥の、ハロルドの目が光る。

「肥満は自己管理の失敗です」


 え、とシャルルが青くなる。ガタガタと震え出す。シャツのボタンがプツプツと音を立てる。

「揺れただけでボタンの糸が切れるってどういうことですの!?」

「それだけ体が大きいのですよ」

「えー!? 仕方ないじゃないか、僕はこうなんだもの」

 ふん、とシャルルは鼻を鳴らす。またボタンが一つ飛んでいく。


「そういえば、昨日ダイエットって言われたけど。具体的に何をしろって言うのさ」

「まずはお菓子をやめることではありませんの?」

「それは無理」

 秒速で却下された。

「食事制限は基本なんですけどね」

 ハロルドも呆れ顔だ。


「頭を使うとお腹が減るんだよ。ものすごく甘い物が欲しくなるんだ」

 もしゃもしゃとマドレーヌを頬張りながらシャルルは言う。

「ハロルドが僕の秘書になったのは、お菓子作りができるからなんじゃないの?」

「いいえ、違います」

 また即答。それから、ハロルドは一つ咳払いした。


「基本は食事の管理と運動でしょう」

「もうちょっと! 具体的に!」

「そうですね…… 乗馬などが全身の筋肉を使うのでおすすめなんですけどね」

「だめなんですの?」

「馬に乗れるような体重ではないですから」


 その重さにはソファさえ音を上げる。いわんや馬をや。


「だからまず、室内でできる運動でちょっとずつ重さを減らしましょうか」

「まさか、筋トレをさせるつもりじゃあ」

「なんですの、筋トレって」


 ヴィオレットが首を捻ると、シャルルは青ざめた顔を向けてきた。

「いいかい、ヴィオレット。ハロルドはこう見えて、趣味が筋トレなんだ」

「お菓子づくりではなくて?」

「そっちは弟妹や母にせがまれて身についた技術です」

「筋トレは」

「自分のために、ですね。大学に進学する前、何か目に見えて成果を得られるものをしたいと考えた結果、筋トレをしておりました」


 その理屈はよく分からない。


「一人で静かにできるという点では、お菓子作りも筋トレも変わりませんが」


 もっと分からない。


 ヴィオレットの戸惑いをよそに。

「一人でやるの?」

「お付き合いしましょうか?」

 王太子と秘書は筋トレを始める気になったらしい。


 床に並んで座り、両膝を立てる。上体を後ろに倒し、背中がぴったり床に付いたところから、持ち上げる。


「なんですの!?」

「腹筋運動ですね。ヴィオレット嬢もいかがですか?」

「やりません!」


 ヴィオレットが叫び、ハロルドがせっせと体を起こすと倒すを繰り返す横で。


「無理だ」

 シャルルが震えた。

「体を折り曲げると腹の脂肪がつっかえる」

「なんてこと」

「やめだ、止め止め!」


 シャルルはあぐらをかいて、むくれた。

「こんなことやってたら、ムキムキのマッチョになっちゃうよ。僕、ガチガチのマッチョはちょっとねー、趣味じゃないんだよねー」

「大丈夫ですよ、一日で腹筋は割れません」

「なんだよ。自分は割れてるとでもいいたいの?」

「ご覧になりますか」

「ちょっと見たい」

「では後ほど。ご令嬢がいる場で脱ぐわけにはいきませんから」


 ねえ、と視線を送られて。

 ヴィオレットの顔から火が噴いた。


 ちょっと見たい。見たいかもしれない。

 中年ビール腹の父とは違うのかもと思うと、とっても興味がある。

 いいえ、そんなはずはない。


 一人混乱した頭を抱える。

 その向こうで、ハロルドに励まされたシャルルがどうにか上体をあげようと呻いていた。

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