02.見た目が逆だったら良かったのに

 はぁはぁ、と。ヴィオレットの息と気持ちは荒れ続けているのに、シャルルはすぐに立ち直った。


「靴が壊れちゃったね、ヴィオレット」

「ええ、ヒールが折れる音がしました」

 美青年が受ける。

「靴はもちろん、ソファの修繕を考えねばなりませんね。人を呼んで参りましょう」

 一歩踏み出した彼の肩を、ぽんぽんとシャルルが叩いた。


「僕が行ってくるよ」

「殿下を行かせるわけには」

「いいんだよ。僕がソファを壊したことは確かだからね」

 シャルルは笑う。

「だから、僕が呼んでくる。その間、君はヴィオレットにお茶とお菓子を振る舞ってあげてくれる?」

「かしこまりました」

 一礼。青年は背筋を伸ばして、部屋を出て行く。


 その背中を視線で追うと、ゆらり体が揺れた。

 先ほど床を蹴った時、本当にヒールが折れたらしい。かろうじて靴底と繋がっているという有様なのだろう。右足の床を踏みしめる感触がふわふわしている。

 姿勢を必死で保つヴィオレットに、シャルルは穏やかに言った。

「立っているのは大変だろう? こちらへどうぞ」

 王太子が手を差し出してくる。その脂肪で膨れた手に、恐る恐る自分の手を乗せた。温かく、柔らかい手に導かれて、窓際のテーブルへ。

 椅子を引いて座らせてくれるところまで、シャルルはエスコートしてくれた。

 目が丸くなる。くすっと彼は笑った。


「ヴィオレット、期待していいよ。ハロルドはお菓子作りが趣味なんだ。一流のパティシエもびっくりのお菓子が出てくるよ」

「そうですか……」

 驚いたのはそこじゃないんだけどな、と思ったところに。

「多分、今朝焼いていたフィナンシェとマドレーヌを持ってきてくれるんじゃないかな? 本当に、期待して待っていてよ」

 重ねて言い置いて、王太子は部屋を出て行った。扉の向こうに消えた背中は丸い。先ほどの青年とは大違いのシルエットだ。


 部屋にはヴィオレット一人。改めて、室内を見回した。


 ここは王宮の中。王太子の私室だ。

 彼が日常生活を送るための部屋といっても、訪れる友人たちをもてなすための空間でもある。今ヴィオレットがいるのも、いわゆる応接間だ。

 王宮の廊下に繋がる扉から見て、右手に扉が二つ。一つは寝室で、もう一つは書斎か何かに通じるのかもしれない。

 テーブル席は入り口の正面奥、大きな窓の側だ。


 眼下に王都ル・キャトル・ヴァンの街が広がる。王宮を中心に開けた街、建物の壁は栗色の煉瓦レンガが多い。ところどころに青や紫の屋根。街路樹の緑が、夏の日差しをまぶしく弾く。

 東西を貫くのはこの二十年弱で建設された鉄道とダニューブ河。そこを走る汽車と川船が、浮かぶ煙が、人々が生きていると伝えてくれる。

 戦火で焼けた後の二百年で整えられた街は美しい。


 そう。たいへん見目麗しい。


 視線を外へと向けたままでいると。

「お待たせいたしました」

 声がかかった。

 きっかり三歩の位置に美青年が戻ってきている。そのすぐ横にはティーセットの乗ったワゴン。

「シャルル殿下がお戻りになるまで、こちらをお楽しみください」

 ふわり湯気の立つティーカップと、焼き菓子が並んだ皿がテーブルへと移った。


 指先をそろえて、カップを持ち上げる。くん、と匂いを嗅ぐ。柑橘の匂いだ。

「オレンジティーです」

 美青年が告げた。

「フィナンシェの甘さとバランスをとりました」

 手のひら全体で焼き菓子の皿を示されて。

「あ、ありがとう」

 顔を上げる。視線が合うと、頬が熱い。


 誤魔化すためにフィナンシェを咀嚼して飲み込む。飲み込むのを待って。

「ヴィオレット嬢」

 テーブルの側に立ったままの彼は微笑んだ。


「申し遅れました。ハロルド・モランと申します。シャルル王太子殿下の秘書を務めさせていただいております」

「秘書?」

 聞き慣れない単語にまた瞬く。

「ええ」

 従者ではないのか。執事とも異なるのだろうか。瞬きにそんな意味を込めて繰り返したら。

「ご公務のサポートが主な仕事です」

 答えがあった。


「公務?」

「はい。成年と認められる年齢に達せられましたので、シャルル殿下には王族内で独自のお役目が与えられています。慈善事業へのご参加が当面の主立ったお役目となるでしょう」

「それにサポートが必要なのですか?」

「視察に必要な準備のお手伝いをします。また、いつ何処に向かうかなどのご予定の調整も私の勤めです」

「なんだかとても難しそうなお仕事ですね。凄いわ」

 素直な感心を口にすると。

「ありがとうございます」

 彼は微笑んだ。

「やり甲斐のある仕事ですが、まさか王太子殿下の秘書に引き立てていただくとは夢にも思っていませんでした。王立大学を卒業してから三年、議員秘書の仕事を勤めて――」

「大学を卒業してるんですか!?」

 つい、素っ頓狂な声を出してしまった。


 まだこの国でも、大学という機関で学んだ人は多くない。十五で卒業する中学校コレージュまでは国民全員が通うことになっているが、そのあとの高等学校リセまでに通う者は多くない。大学まで進むとなると、ほんの一握りだ。

 ヴィオレットに至っては学校に通った経験がない。侯爵邸に雇われていた家庭教師に読み書きを教わったくらいだから。


「……勉強家でいらっしゃるんですね」

 驚きを溜め息に乗せたら、首を振られた。

「運が良かったのです」

 そう言って、彼はまた、唇に笑みを浮かべた。


 その笑みには気品がある。見惚れそうになった気持ちを、ヴィオレットは紅茶と一緒に飲み込んだ。


 フィナンシェにまた齧り付く。焦がしバターの甘みがしつこくなく広がって、いくつでも食べられそうだ。

「美味しい」

 呟くと。

「そうだろう!」

 いつの間にか戻ってきていたシャルルが叫んだ。


「おかえりなさいませ、殿下。修繕の手筈はどうなりましたか?」

「ソファは明日。靴の修理は、できる人がすぐ来てくれるって」

 良かったね、と言って、シャルルはヴィオレットの向かいの椅子にぽすっと座った。

「ハロルドのお菓子は美味しいって言っただろう? ちなみに僕の分も用意はあるかい?」

「はい、こちらに」

 シャルルの前にも、ハロルドはティーセットと焼き菓子の皿を置いた。

 焼き菓子の量が、ヴィオレットの倍はある。だけど。

「これだけ?」

 シャルルは不満げだ。

「いつもと同じ量を焼いて、ヴィオレット嬢と分けましたので」

「あー、いつもはこっちとそっちを足した量なのか」

 ふむ、とうなずいて、シャルルはまだ頬を膨らませた。

 また膨らむ余地があったのか、とヴィオレットはシャルルの頬を見つめた。

「なに、ヴィオレット」

 視線に気がついたシャルルが首を傾げる。

「僕の顔に何かついている?」

「いいえ、何も」

「お肉はたっぷり付いていらっしゃいますが」

「うるさいよ、ハロルド!」

 ヴィオレットはつい吹き出した。

「そうですわね…… お肉はたっぷりですわね」

「ヴィオレットまで言う?」

 シャルルも、怒っているような口ぶりでいながら、笑っている。


 三年ぶりの再会を果たした、将来夫になるかもしれない人は、規格外の重さを持つ肥満体でありながら、笑顔を絶やさない。非を認める強さと、他人を気遣う優しさを忘れない人だとほっとした。

 そんな王太子の横で、秘書だという青年も穏やかに笑んでいる。


 二人を見比べて。

――シャルルとハロルドの見た目が逆だったら良かったのに。

 ヴィオレットは思ってしまった。

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