17.貴女のために用意しました
王太子の部屋。公務の準備などに利用される、ヴィオレットが毎日訪れている部屋だ。そこに戻ってくるなり、ハロルドはシャルルを寝室に押し込んだ。
「さあ、シャワーを浴びて! 着替えて!」
「あのー、おやつはないのかなー?」
「食べていたら遅刻しますよ、さあ早く!」
秘書に急き立てられた王太子がシャワールームに消えたらすぐに、ヴィオレットの出番だ。クローゼットの中から『友人との会食』に相応しいだろう一式を取りそろえる。
今回は、明るめの紺色の三揃えだ。クラヴァットには葡萄色。ちょっと背伸びした感じになるかもしれないが、同年代の友人ばかりなのだからご愛敬だ。
その大きめの上下を着て。
「お腹すいたなー」
シャルルはぼやく。
「はいはい、お食事は何でしょうね」
「ステーキかなー」
「たらふく召し上がってきてください」
「そうする!」
がばっと立ち上がったシャルルのクラヴァットの結び目を確認して、ハロルドは笑った。
「準備は完璧です。お気を付けて、行ってらしてください」
「うん。あ、二人の打ち合わせだったら、この部屋使っていいからね!」
シャルルが弾んで出ていく。
結果は、先ほどの予想どおり、ヴィオレットとハロルドの二人きりだ。
「お許しを頂いたので、こちらの部屋でいいですか?」
ハロルドが振り返ってきた。
「大丈夫です……」
ヴィオレットはわずかに視線を横にずらして。頷く。
打ち合わせ、とは何だろう。
立ち話ではいけないのだろうか、と思ったのに。
「どうぞ、おかけになってください」
ハロルドが椅子を引いてくれたので、窓際の席に着かざるを得なかった。おまけに。
「今、お茶の用意をしてきますね」
と、彼は部屋を出ていこうとする。
「どうぞお気遣いなく!」
叫ぶと。
「そうはいきません」
ね、とウインクを返された。さすが美青年、そういうところが様になっている。
置いていかれて、ヴィオレットはそわそわと指先を動かした。
窓際のここは、いつもならシャルルと午後のお茶(おやつ)を楽しむ席だ。一人きりにされるのは、落ち着かない。
はらはらと、視線は部屋のうちから窓の外へと移る。
大きな窓からは王都が一望できる。まもなく初秋の夕陽に照らされるだろう街が。
二百年前に戦火で焼け落ちてから、コツコツと積み上げられた歴史ある街。其処では今日も人々が暮らしている。声は聞こえないし、小さな動きは見えないけれど、確かに暮らしているのだろう。
――見に行くことはできないのかなぁ。
「お待たせしました」
ハロルドがワゴンを押して戻ってくる。完全に午後のお茶の構えだ。
まず置かれたのは、白磁の器。中には透き通った紅茶が湛えられている。
「今日はアップルティー?」
「ええ。カモミールも合わせました」
「いい匂い」
持ち上げて、くん、と鼻を鳴らす。飲み込めば、爽やかな感触が喉を通り過ぎる。
ヴィオレットが器を下ろすのを見計らって、テーブルには白いプレートが置かれた。
「これは?」
「栗のケーキです」
生地に栗がまるごと練りこまれて、焼かれたケーキだ。栗が断面に何個も見えて、胡桃も表に飾られている。さらに、プレートの端に白いクリームとミントの葉が添えられていた。
「どうぞ、お召し上がりください。私が焼きました。お口に合うとよろしいのですが」
「私一人で食べていいの? シャルル様は?」
「殿下はいいんですよ。今日はお友達と会食ですから、おやつは抜きです」
「シャルル様が抜きなら、わたしにも」
要らなかったのではないか、と口にする前に。
ハロルドが穏やかな笑みを顔中に広げた。
「貴女のために用意しました」
ヴィオレットはまず、ぽかん、となって。それから顔中から火を噴いた。
「わたしの?」
「ええ、貴女のケーキです。だからどうか、遠慮なく召し上がってください」
瞬いても瞬いても、ハロルドの笑みが消えることはない。
だから、プレートに向き直る。フォークを指しても、ケーキは簡単には崩れなかった。
そのまま、最初の一欠片を口に含む。しっとりと焼きあがったケーキだ。歯ごたえは胡桃が、甘みは生地に含まれるバターと砂糖と栗が運んでくれる。
「美味しい」
「光栄です」
クリームも載せると、甘みの雰囲気が変わる。途中で含んだミントも、濃いめのケーキの中でいいアクセントだ。
最後、アップルティーを飲む。ケーキはすとんとお腹に収まってくれた。
口元をナフキンで拭ってからハロルドに向き直った。
にっこり笑って。彼はもう一杯紅茶を注いでくれた。
「シャルル様のダイエットにお付き合いくださっている御礼です」
「付き合っていると言っても、お食事のお相手しているだけよ?」
「ええ。そちらが食べ過ぎ防止に最高の策でした」
笑みを意地悪な形に変えた彼に、ヴィオレットはつい吹き出した。
「他にどんなお手伝いをしていたかしら。運動はそんな手助けになっていないんじゃないの?」
「それがですね。ヴィオレット嬢が筋トレをやっているとおっしゃったから、殿下もこっそりとがんばっていらっしゃるんですよ」
「本当に!?」
「ええ。私が夜こっそり呼び出されて、スクワットやら腕立て伏せやらに付き合わせられてるんですよ。その甲斐あって、一番太っていた時より5kgも痩せたんじゃないですか」
つい吹き出す。ハロルドも喉を鳴らしていたのに。
途中で、でも、と表情を消した。
「貴女も痩せたのではないですか?」
言われて。
「わたし?」
何度目かの瞬きをして見せる。
「ええ」
ハロルドは首を縦に振った。
「頬が痩せたように見えます。失礼ながら、首元もそう見えます」
彼は自分の襟元を指さして、目を細めた。ヴィオレットも同じように指を自分の鎖骨に当てる。
「そう…… かしら」
「ええ。殿下の運動に付き合っていて痩せた、というのでは私が困ってしまいます。だから、それが原因でしたらそうおっしゃっていただきたい」
「そんなことはないと思うけど」
腹筋運動とスクワットはついついやってしまっているけれど。それぐらいで痩せるだろうか。
ううむ、と唸る。
「殿下のダイエットに限らず。お困りのことがあったらおっしゃってください。私でお力になれることなら、致しますので」
まっすぐに見つめられて。ヴィオレットは息を詰めた。
今ここにいるあなたで困っているんですよ、とはさすがに言えない。だから見つめ返すだけ。
それを彼はどうとらえたのか。
「慣れない場所で暮らすと疲れますしね」
苦笑した。
「だから、睡眠と食事はきちんと取ってください。おやつは補助的なものですが、食べられるならお腹いっぱい召し上がるのもアリです」
ね、と首を傾げて、ワゴンの上を示す。
「ケーキはまだありますよ」
「そんなに入らないよ!」
つい、声を上げる。
「ああ、そういう話し方もされるんですね」
知らなかった、とハロルドは笑う。もう、とヴィオレットは横を向いた。
「気にかけてくれて、ありがとうございます」
ぽつん、と声を絞り出す。とんでもない、とハロルドは言ってくれた。
「それで……打ち合わせって、これのこと?」
ヴィオレットが空のプレートを指差すと。
「ええ、ぜひ召し上がっていただきたかったので」
ハロルドが笑う。
彼の笑顔が眩しく見える。
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