16.あっちでもこっちでも眼鏡が光る
導かれて進んだ先で。
「だましたな、ハロルドー!」
シャルルの絶叫が響いた。
王太子は、青ざめて、太い指をぷるぷる震わせた(脂肪だけでない、骨から揺れていた)。その示す先を見つめながら、ハロルドは涼しい顔で。
「ダンスの練習をしましょうと申し上げたじゃないですか」
と言った。
部屋を出るまでの口ぶりだと、予想外に時間が空いたから練習を組み込んだ、ようだった。
だが、今の状況を見ると、最初からそのつもりで予定が組まれていたとしか思えない。ヴィオレットでさえ思うのだから、シャルルは当然そう感じているだろう。
練習のために、という部屋は板敷きの本格的な練習場だった。
奥には深緑のドレスにべっ甲の縁の眼鏡をかけた女性が立っている。
女性の前に進み出て、一礼。それからハロルドは振り返って、口を開いた。
「こちら、ダンスの先生――」
「知ってるよ! 学園で散々お世話になったし!」
シャルルはついに、体中で震え始めた。指先はその年かさの女性に向いたままだ。
「ご無沙汰してございます、シャルル殿下」
慌てることなく、指さされた彼女は、ゆったりとした淑女の礼をした。
それから、まっすぐにシャルルを見つめる。
「お変わりなさそうで何よりです、と申し上げたいのですが…… 変わりなくて哀しくなります。その体型は踊りに向いていないと散々申し上げたではないですか」
「仕方ない。ごはんが美味しいんだ」
「食べた分運動なさればよろしいのです」
「えー。無理です」
ふう、と息をはいて、老婦人は天を仰ぐ。
ハロルドは肩を竦めた。
「食事制限にも筋トレにも、努力いただいているんですけれど。どうにも痩せる気配がないんですよね。あ、昨夜の記録は107kgでした」
「ずいぶん肥え――増えましたね」
「ええ、肥えたんです」
ハロルドが眼鏡を押し上げて、女性も眼鏡の蔓を支えた。
「かくなる上はマダム・エレーヌのご指導も受けた方がよろしいかと思いまして、お呼びしました」
「その期待に応えられるよう、頑張りますわ」
あっちでもこっちでも眼鏡が光る。怖い。
責められているのが自分でなくて良かった、とヴィオレットは胸をなで下ろした。
「……マダム・エレーヌのレッスンを受ければ良いの?」
「はい。ご会食の予定まで2時間みっちり。ダイエットは副次的に狙っている効果で、主目的は晩餐会を乗り切るだけの社交ダンスの手法を覚えることですからね。よろしくお願いします」
「う、うん……」
シャルルは肩を落として、そのまましゃがみ込んでしまった。
後ろに寄って、声をかける。
「頑張りましょう、シャルル様」
「うう、ここでの味方はヴィオレットだけだよぉ……」
すんすんと鼻を鳴らし続けるシャルルの背中を撫でながら、ダンスの先生だという女性に視線を向ける。
彼女はヴィオレットに目礼を返してくれた。
「ハロルドさん。そちらのご令嬢は?」
「殿下のご友人です」
「従妹!」
「ダンスの練習のお相手をお願いしようと思いまして」
「なるほど」
婦人は微笑んで。
「お初にお目にかかります、エレーヌ・コンテと申します。ダンスの講師をしてございますの」
と名乗った。
「ヴィオレット・アメリーです。よろしくお願いします」
年上の、師匠だ。失礼がないように、と指の先爪先まで神経を行き渡らせて礼をする。
「では、早速始めましょう。殿下の成績は目を見張るものがございましたからね、基礎からみっちり参りますよ」
そう言って、マダム・エレーヌは立ち方から見せてくれた。
シャルルだけでなく、ヴィオレットも、ハロルドまで混ざって、指導を受ける。
続いて、足の運び方、腕の運び方。ヴニーズの屋敷でも学んだが、改めて教わると、なかなか楽しい。
シャルルは青い顔だが、ヴィオレットは笑えている。
「最後に、一曲、実践してみましょうか」
殿下、とマダム・エレーヌに言われて、シャルルがピンを背中を伸ばす。
「さあ、女性を誘うところからですよ」
微笑んだ師匠の視線がヴィオレットに移る。
「え、ヴィオレットを誘うの!?」
シャルルが素っ頓狂な声を上げた。それに、ハロルドが吹き出す。
「このためにご同行をお願いしたんじゃないですか」
「あ、うん、そうか。そうだったんだね」
「そうですよ。どうしても厭だというなら、私と踊りますか?」
「厭だよ! さっきも言ったけど、僕はゴリゴリのがちマッチョと踊るつもりはないんだよ! それに、おまえは僕より身長が高いじゃないか!」
「182cmございます。ちなみに体重は殿下より少ないですよ」
「うるさいっ!」
もー、とシャルルは叫ぶ。
「踊ろう! 踊って、ヴィオレット!」
「ちゃんとロマンチックにお誘いください」
「まったくです」
ハロルドとマダム・エレーヌのツッコミにめげずに、シャルルが正面にやって来る。
深呼吸。それから、彼は静かに礼をした。
「僕と踊っていただけますか、ヴィオレット」
もちろん、という言葉が喉につかえる。
差し出された、脂肪で分厚い掌に自分の指先を乗せることに一瞬躊躇した。
どうにか触れた手は柔らかくて温かくて、敵意など微塵もないのに。
マダム・エレーヌの歌声に合わせて、三拍子のステップを踏む。動悸が走るのは、緊張のせい。
歌が終われば、踊りも終わる。パチパチと拍手をしたのはハロルドだ。
「お上手でしたよ」
「ええ、よく頑張りました」
二人の眼鏡が光る。今度は怖くない。
「ううう、お腹減った」
シャルルがぺたん、とその場に腰を下ろした。
「これでご友人との会食も心置きなく食べられますね」
ハロルドが笑いながら歩み寄ってくる。シャルルも吹き出した。
「本気で思ってる?」
「どうでしょうね」
荒かった息を落ち着かせてから、シャルルは立ち上がった。
それから、マダム・エレーヌに振り向く。
「先生も良かったら、顔を出してくださいよ」
「良いのですか?」
「皆喜びます」
「では、すこしだけご挨拶にお邪魔しましょう」
シャルルが場所と時間を告げると先生はゆったり頷いて。それでは、と部屋を出て行った。
「さて。殿下も着替えてから向かわれた方がよろしいですよ」
「だよねぇ」
三人も部屋を出る。
「ヴィオレット。友人たちとの会食にはどんな衣装が良いと思う?」
「それは……」
首を傾げてから、ヴィオレットは言った。
「すこし大きめをお召しになった方がよろしいんじゃないですか?」
「お腹いっぱい食べても目立たないしね」
「ええ」
自分で言っておいて、シャルルはむくれた。たしかにちょっと意地悪だったかもしれない。反省。
「まあ、今夜ばかりは食べ過ぎても怒りませんよ。たまには、ですからね」
自身が毒舌だからか、ハロルドは気にしていなさそうだ。彼はそのまま、シャルルからヴィオレットに視線を移してきた。
目が合うと、また動悸がする。
「ヴィオレット嬢のこの後のご予定は?」
「いいえ、特別には」
素直に答える。彼は頷いて、では、と続けた。
「この先のご相談をさせてください」
「ダイエット?」
「衣装決めもございますよ」
「ああ、そうか」
シャルルとヴィオレットで頷く。
「ダンスしやすくて、お腹が目立たない衣装を選ばないといけませんからね」
「ハ、ロ、ル、ド?」
「殿下がお痩せになればいいんですよ」
「あー、もう。僕がいなくなったところでも、そうやって僕の意地悪を言うつもりなんだね」
「さあ、どうでしょうね」
くすくす笑う美青年に、もしかしてこの後は二人きりになるのだろうか、と気がついた。
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