第8話「初めてのお弁当」


 朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。カーテンと窓を開けて太陽の光と外からの風を部屋に入れる。今日は晴天だ。


 俺はすぐに自分の部屋から出て、洗面所で顔を洗い、朝ごはんを食べた。母さんが何か不思議なものを見るような目をしていたが気にしない。


 制服に着替えて身支度を整え、鏡の前に立った。鏡にはいつもよりはしゃんとしている俺が映っている。両手で軽く頬を叩き気合を入れる。


 玄関で靴を履いて立ち上がる。少し緊張していて肩に力が入っているのが分かる。こんなに緊張をしているのは、中学三年生最後の県大会以来だろうか。バドミントンの個人でエントリーされていた俺は全国大会出場できるどうかのギリギリの実力だったから、あの日の朝は今日みたいに緊張していた。


 結局、その時は勝てば全国へ行けるという試合で負けてしまった。悔しさはあったが、できるだけの事は全てやってその結果だったから素直に受け止められた。その時の事を思い出すと、少し肩の力が抜けた気がする。


 俺は玄関を出て学校に向かった。





 今日は先輩手作りのお弁当をもらえる日だ。





***




 せっかく先輩にお弁当を作ってもらうから一緒にお昼を食べようということになっていた。ただお互いのクラスでは食べづらいため、こっそり家庭科室を使わせてもらうことになった。


 実は先輩、家庭科の皇すめらぎ 涼風すずか先生と仲が良くて、なんとか家庭科室を使わせてくれないかと相談しに行ってくれたらしい。先生も少し悩んだが先輩の性格や普段の態度を信頼してくれて、他の生徒には秘密という条件で家庭科室の許可を出してくれた。


 弁当も教室もこんなにも俺のために準備してくれた先輩に何か恩返ししたい。いやしなければいけない。そう思いながら俺は自分の鞄のカバー部分を触った。



 昼休みになり、俺たちは家庭科室の前で待ち合わせした。丁度俺が着く頃に先輩も到着した。


「あ、後輩君。ちょっと待ってね。すーちゃん先生から家庭科室のカギ借りてるから開けるね」


 先輩はポケットからカギを取り出して、家庭科室の扉を開けた。無人の家庭科室に俺と先輩の二人だけが入っていく。それはなんとも不思議な空間だった。


 いつも図書館で先輩と二人で話をしている。他の人が会話に混ざってこない二人だけの空間。しかし、実際には図書委員がいるし他の図書館利用者がいる。厳密には二人っきりではない。


 しかし、ここは違う。完全に俺と先輩の二人だけ。他の生徒が入ってこないように俺たちが入ったあとは家庭科室の扉の鍵は閉め直している。そう、密室。


 なんだかいつものように先輩と二人でいるだけなのに、不思議な緊張感に包まれている。この感覚は俺だけなのだろうかと先輩の方を盗み見ると、先輩もどこかぎこちない感じがする。緊張が伝わる。


「そ、それじゃ、手を洗って早速食べようか」


 若干上ずった声で先輩がそう促したので、俺たちは無言で手を洗い向かいテーブルに向かい合って座った。先輩は持ってきた手提げ袋から小さな弁当箱とその三倍ぐらいはありそうな大きな弁当箱を取り出した。用意の良い先輩は水筒もバッチリ用意してくれていた。


 大きい方の弁当箱を俺の方に渡してくれた先輩。


「はい、これがお弁当になります。傾かないように持ってきたんだけど、もしおかずが寄ってたりしたらごめんね!」


「いや、こっちの方こそ色々ありがとう。ここも準備してもらってお弁当まで用意してくれて本当にありがとう。弁当が傾いてようが何があっても俺は文句なんかないし感謝しかないよ」


 そんなやり取りをしていると少しお互いの緊張している空気が和らいできた気がする。だんだんいつもの感じに近づいてきたようだ。


 俺はお弁当を受け取った。木目調で重箱まではいかないがそれなりに大きい二段のお弁当箱だった。


 まずは上段のふたを開けると、美味しそうなおかずが目に飛び込んできた。野菜サラダ、卵焼き、焼き鮭の切り身、ハンバーグ、唐揚げ、きんぴらごぼう。彩りが豊かでどれも本当に美味しそう。


 メニューについては前の土曜日の午前中に先輩からメッセージが来ていて、ハンバーグときんぴらごぼうをリクエストした。ちなみに俺はアレルギーは無いし、好き嫌いも無い。それに先輩が作ってくれたものであれば何でも食べることができる確信があった。


 次に上段自体を横にずらすと、下段のご飯が見えてきた。恐らく梅とワカメの炊き込みご飯でさっぱりしていそうで美味しそうだ。


「めっちゃ美味しそうだ、この弁当。彩りも綺麗だしさすがだな。料理すごく上手なんだな」


「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいな。あ、飲み物はお茶だけど用意したから飲んでね」


 水筒からコップにお茶を次いで俺に渡してくれた先輩。


 もう我慢できない。俺は心の中で叫ぶ。






 ああああ、すきだあああああああ、けっこんしたいいいいいいいいい。なんでこんなに献身的なの? やっぱり女神なの? こんなん完全に俺を完全に仕留めににきてやがる。そして、一瞬で仕留められる自信がある。すきだあああああああ。






 脳内に広がる先輩幸福成分と暴走状態。それでも顔には出さないようにコップを受けとった。


「ありがとう。それじゃ、いただきます」


「はい、どうぞ召し上がれ」


 そんな一つ一つのやり取りでもう幸せでお腹いっぱいになってしまいそうな俺。いや、お弁当は食べるけど。


 まずはきめの細かい色めがきれいな卵焼きを食べる。ふわっふわで柔らかく程よい甘さの卵焼きだ。しかもすごく俺好みの味だ。きんぴらごぼうも白ゴマがのっていていい香りがする。食べてみると良い触感と味付けが最高だ。そこから箸が止まらない。


 料理に箸をつけ始めてから先輩がちょっと緊張気味に質問してきた。


「後輩君、味付けはどうかな? 美味しい? ダメなものとかなかった?」


「全部最高だ。すごく美味しい。ありがとう、先輩。こんなに美味しいお弁当食べたの初めてだ」


 俺の言葉を聞いて安心した表情と照れ混じった表情を見せてくれた先輩。


「ちなみにこのすごくきめの細かい卵焼きはどうやって作ってんだ?」


「あ、これはね一度溶いた後に何回かこすと滑らかになるんだ。それでね……」


 そこから先輩と料理を食べながら色々とお弁当の話をしていると、いつの間にかお弁当は空っぽになっていた。ボリュームは結構あったが、先輩との話が楽しいし何より美味しくてすぐに食べきってしまった。


「いや、本当に美味しかった。お世辞抜きで。俺のためにわざわざ用意してくれてありがとう」


「いえいえ、喜んでもらえたのであれば良かったよ。綺麗に全部食べてくれてありがとうね」


 こっちが感謝しないといけないのに先輩の方が感謝をしていた。こんな相手の事を心から思える人だから俺はこの人を好きになったんだろう。胸が痛い。


 不意に自分と先輩を比べてしまった。こんな人と俺なんかが釣り合うとは思わない。それでも先輩が好きだ。複雑でいて単純なような想いが俺の中でグルグルと回っている。


 空のお弁当箱を受け取った先輩が手提げ袋にお弁当を片づけていく。


 このままではお昼休みが終わってここを出て、いつもの日常に戻ってしまう。決していつもの日常がいやというわけじゃない。先輩とゆっくりとした時間を過ごすのは本当に好きだ。ただ、俺は先輩にもう一歩近づきたい。


 その時、持ってきていた鞄に手が触れた。そうだ、俺にはこれがある。これを使って……。一瞬力が入るが、そこまで思っていても体が動いてくれない。


 くそっ、何で俺はこんな時にも動けないんだ。自分の情けなさに格好悪さに押しつぶされそうになる。やっぱりダメなのか。




 そんな時、ふと、アイツの言葉を思い出した。




『犬はさー、技術とかテクニックとかはピカイチなんだけど、ここぞとっていう時はビビッて押し切れないんだよな。俺にはわかんねーけどさ、そんなに失敗することにビビんなよ。失敗するとチョーはずいし、笑われるかもしんねーけど、勝負しねーヤツには絶対勝利はこねーから。んで、どんな失敗しても、俺が超スーパーなカバーしてやっから、どんとぶつかってこいや』


 いつもアホで大したことは考えていない猫宮の言葉。悔しいが力が湧いてきた。というか、アイツに一方的に言われんのは癪だし、俺はビビッてないし勝負できる。


 俺はお弁当箱を片付け終わった先輩の方を向いた。




「先輩、あ、あのさ……」




***




「おい、猫」


 珍しく犬宮の方から声をかけてきた。なんだろとそっちを見ると、犬宮は何かを投げてきて俺は慌ててキャッチした。


「お、おい、って、ん? これ、俺の好きな超スーパー天然なお水じゃん! どうしたんだよ、犬!」


「別に」


 そのまま犬宮はどっかに行ってしまった。なんだ、アイツ? まあいっか。俺は丁度喉が渇いていたからそのまま飲んだ。これをもらっていいのかとか聞いていないが、まあいっか。飲んじゃダメだったら買って返そう。


 良く分からん犬宮の行動に困惑しながらも、美味しく水を飲んだ。




 やっぱいいヤツだな、犬。



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