第18話「天上のそれ」


 綺麗な音色が耳に届く。その音色はゆっくりとそしてじんわり俺を優しく包んでくれる。その包まれる感じはまるで柔らかい雲のベッドで横になって休んでいるような気持ちにしてくれる。


 果たしてどんな楽器を奏でればこんなに綺麗な音を響かせることができるのだろう。とても良い素材でできた楽器だろうか。世界中に名が知られている有名な楽器職人が作った一品だろうか。昔に作られて受け継がれてきた歴史あるものだろうか。


 いや、全部違う。これはそれらのどれよりも気高く純粋であり優しく全世界の人たちを虜にするもの。






 そう、天上の音色、先輩の鼻歌だ。






 先輩は良く鼻歌を歌っている。そのことに俺は最近気が付いた。


 あの土曜日以来、俺たちはたまに休みの日に一緒に出掛けたり、たまに学校からの帰り道を先輩の家の途中まで一緒に帰ったりしている。もちろん何かしらの理由をつけてだが。だから頻度はそんなに多くはないのだけれど、俺にとっては至福の時間である。人生今まで生きてきて本当に良かった。


 ちなみに"帰り道ハザード"も無事にできた。あまりに二人で盛り上がりながら帰れたからか、先輩から早く第二回もやろうというお誘いもあった。あのゲームを思いついて良かった。過去の俺、ナイス。


 そのお出かけや帰り道の途中での寄り道で気がついたのだが、先輩はたまに歩きながら鼻歌を歌っている。詳しくは分からないが歌っている曲は有名なクラシックの曲だろう。俺もそのメロディは聞いたことがある。


 よくよく考えると今まではずっと図書館でしか会っていなかった俺たち。もちろん図書館で音を立てない方がいいから、先輩も鼻歌を歌う事はなかったのだろう。


 しかし、外出時であまり大きな音でないならある程度自由に音を出しても迷惑をかけないから音を出せる。そういうこともあり、先輩の鼻歌を歌う癖を俺は見つけた。


 最近は、そんな先輩の鼻歌を聞くことがすごく好きで幸せな気分になるし、それにその鼻歌がとても上手いので聞いていて飽きることがない。俺はその先輩の鼻歌を聞くこと自体が癖になってしまった。


 それだけでなく、今まで知らなかった先輩の一面を知ることができて嬉しい。近づくことで新しい先輩を見つけられたことが本当に幸福だ。こういう一つ一つを大事にしていきたい。




 そんなゆっくりでわずかだけど少しずつ二人の距離を縮めているある日、今日も先輩と一緒に帰りたい俺は図書館で先輩に切り出した。


「あー、そういえば、駅前の『adorable and sweet』って店で今週からシュークリームがセールで安くなるんだって」


「あっ、それ私も聞いたよ! あのお店のシュークリームってすっごく美味しい大好きなんだよね! レパートリーも豊富だし」


 やはり先輩も知っていたか。むしろこういう情報はすぐに学校を駆け巡るので、みんな知っているものだろう。話の切り出しに成功した俺は、次の段階に進む。


「最近あの店のシュークリーム食べていないから食べたいなー」


 ちょっと棒読み過ぎただろうか。まぁ、しょうがない。先輩はこっちを見ている。もうやるしかない、一歩踏み込め。


「でも、あのお店男一人で入りずらいからなー。あ、そうだ。なぁ、もし良かったら一緒に帰りに買いに行かないか?」


 心の中で叫ぶ。言ってしまった。というか、露骨すぎるか。あまりに大根役者過ぎて何か感じ取られたかもしれない。なんでこう俺はスムーズに誘えないのだろうか。……まぁごちゃごちゃ考えるよりも、誘えるようになっただけでも前進としておこう。


 誘った後の返事を待つ間は少し緊張する。でも、今回は不思議と自信がある。ここ最近の俺と先輩の関係は順調に前進しているはずだから、ここで返って来る返事も良い方向だと期待できるはず。


 若干ウザい自信を持って俺は先輩の方を見た。







「んー、どうしようかなー」







 うん、もう、ダメだ。土に埋まりたい。


 さっきまで調子に乗っていた自分を早く亡き者にしたい。恥ずかしいを通り越して埋まりたい。土に。そして土を食べよう。


 必死に崩れ落ちそうになる体をわずかに残った精神力で抑える。どうもここ最近あまりにも上手く行き過ぎていて足元がちゃんと見えていなかったみたいだ。……あー、この図書館にいる時で初めて早く帰りたいと思った。先輩は何も悪くはないんだが、俺が恥ずかしすぎて耐えられない。消え去りたい。


 先輩は優しいから優しい断り方を考えているのであろう。一人でさっさと尻尾を巻いて逃げ帰りたい。


 ……といってもすぐに帰ることもいやなので、さっきみたいな大根役者なダメ演技で話を流すことにしよう。


「あー、そうだよなー。急に誘って悪かった。ま、気にしないでくれ」


 心の中で漢泣きをしながら、一切表面には出さないでそう告げた。決めた。今日は久しぶりに映画を見よう。なんかスッキリする映画を見たい。そうして感動で溢れた自分の涙で溺れたい。あー、泣きてー。


 俺の言葉を聞いて一瞬キョトンとした先輩。その後何かに気が付いたのか俺の制服の袖口を掴んだ。






「ち、違うよ! 行くかどうかで悩んでいたんじゃなくて、どのシュークリームを食べようかで悩んでて……。私は絶対翔くんと一緒に行きたいの! ……って、あっ!」


 口が滑ったと言わんばかりに口に手を当てて顔を赤くしてうつむく先輩。






 ぐはぁぁぁっ! 向かいの席に座る世界一可愛い天使が俺の服の袖をお掴みになられた。やべぇ、聖遺物が生まれたよ。二度と洗わない。神棚に飾って末代まで受け継がせ飾らせないといけない!






 袖をくいっとされて、完全に俺の心というか脳内は幸せお花畑になってしまった。


 ……というか、今先輩はなんて言った? 俺と一緒に行きたいって言ってなかったか? ドッキリじゃないよな。じわじわと脳が先輩の言ったセリフを理解し始めて、俺の体温が急激に上がってきた気がする。鏡で見ていないが、先輩の顔と同じぐらい赤くなっているはず。もうそれだけでさっきまでの落ち込んでいた気持ちが嘘のように消えて、また熱い気持ちが心に宿る。


 ここが正念場と見極めた俺。


「も、もちろん、咲先輩が良いなら一緒に行こう」


 若干噛んでしまったが返事が出来た。ちょっとキモい俺。それでも先輩は気にしない。


「うん、一緒に行こうね!」


 先輩の笑顔という一輪の大きな花が咲いた。




 誘って良かった!!!!!!!




 ちなみに先輩と行くことが楽しいし緊張するしで、シュークリームの味は全く分からなかった。




***




 お土産のシュークリームも買って家に帰ってきた。冷蔵庫にシュークリームを片付けているとお姉ちゃんがやってきた。


「あら、嬉しそうね。何か良いことあったの?」


 私はセールで安くなっていた『adorable and sweet』のシュークリームを買ってきたことを伝えた。


 伝えた直後、お姉ちゃんの言葉が気になった。


「ところでなんで私が嬉しそうって思ったの? 冷蔵庫で顔があまり見えなかったと思うんだけど」


 それを聞いたお姉ちゃんは何でもない事のように言った。


「だって、あなたお得意の鼻歌を歌ってたじゃない。昔からすごくいい事がある時だけついつい歌っちゃう癖が出てたわよ」


 それを言われてからやっと自分が鼻歌を歌っていたことに気がついた。昔から私はすごく嬉しいことなどがあると無意識に鼻歌を歌ってしまう。もちろん公共の場や静かな場所ではしないように気をつけているけど。


 それでもとても楽しい事があるとついつい鼻歌を歌ってしまうみたいだ。さすがにそんなに多く鼻歌を歌うことはないと思うのだけど、周りから変な子だと思われないように気をつけないと。


 そんな風に思っていると、今日の事をまた思い出した。翔くんとのお買い物楽しかった。また行きたいな。早く会いたい。




「ふふっ、あの子また歌ってる。本当に無意識なのね」

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