第13話「翔くん」


 先輩は何度か深呼吸をして、どうにか落ち着いたようだ。それにしてもあんなに大きな声を出している先輩を今まで見た事なかった。


 ただ、驚いているのは俺だけでなく本人もらしく、声を出した直後に自分の行動に驚いた顔を浮かべていた。


 それから少し間をおいて、先輩は俺の方をしっかり見た。


「さっきはごめんね。後輩君に名前を呼ばれて、ちょっと驚いちゃった。それで、その、自分の気持ちを整理していたらあっという間に一周まわってて……。でもちゃんとゆっくり後輩君と話したかったからもう一周無理矢理頼んじゃった。本当にごめんね」


 先輩は頭を下げた。


「いや、こっとこそ急に名前を呼んで悪かった。嫌な思いをさせてしまって、悪かった」


 俺が一方的に距離を詰めようとして、先輩を困らせたことを謝る。自分が進む事ばかり考えて相手の気持ちを考えていなかった。俺は本当にバカ野郎だ。


 そんな風に俺が思っていると、先輩は前のめりに俺の言葉を否定した。


「嫌な思いなんてしてないよ! それに嫌な思いをさせちゃったのは私の方だよね。さっき観覧車を降りようとしていた時の後輩君の顔……。やっぱり私が何も言わなかったからだよね。本当にごめん。さっきは上手く整理できてなくて何も言えなかったの」


 先輩は真摯に謝ってくれる。その言葉を聞いて、俺はこの人を好きになって良かったと改めて感じた。こんな人だから俺は必死になれたんだ。その温かい思いが胸に広がる。


「いや、それは大丈夫だ。気にするな。それよりも落ち着いたか」


「うん、ありがとう。ちゃんと落ち着けたよ」


 そう返してくれた先輩。


 恐らくここからが本番。俺は先輩の言葉を聞き洩らさないように集中した。観覧車から見える景色がまるで目に入ってこず、俺の世界は先輩だけで満たされた。


「それで、名前の事だけど提案があります」


 先輩から切り出された言葉。提案? てっきり拒否されると思っていたから、提案というのは驚いた。


「どんな提案なんだ?」


 俺は喉を鳴らしながら先輩の提案を尋ねた。ただ、どんな提案であろうとも俺は受け入れて達成するつもりだ。


「私も後輩君と同じように後輩君と仲良くなりたい。でも私もどうやって男の子と仲良くなればいいか分からないのが本音なところなの」


 先輩は一呼吸置いた。






「だから、私も後輩君の事を名前で呼んでいいかな? これでおあいこだよね」






 女神は天上界ではなく、この観覧車の中に居た。俺の向かいに。


 あああああああああああああああああ、先輩いいいいいいいいいいいいい。大大大大だいすきだあああああああああああああああああああああ!!!


 先輩は俺の一方的なお願いを受け止めてくれただけでなく、こちらにも一歩あゆみ寄ってくれた。もう満たされた。そう思っていた俺の耳を更なる衝撃が襲う。






「しょう、くん……」






 なまええええええええええええええええええええええええええええ! お、お、おれの名前をよんでくれたあああああああ!


 恥ずかしがりながら先輩が俺の名前を呼んでくれた。体に走るこのなんとも言えないムズムズとしたもの。好きな人に名前を呼んでもらえるのってこんなに良いもんなんだ。もう俺の頭は限界を超えていた。


「ね、ねぇ、翔くん。私の名前ももう一回呼んで?」


 さらに上目遣いでお願いしてくる先輩。




 かわあああああああああああああああああ。なんだこれええええええええええええええええ。先輩からの怒涛の攻めに耐えられない。だが自分のHPが切れる前に、先輩のお願いを叶えなければいけない。




「さ、咲先輩」


「うん、翔くん!」


 俺はこの日を名前記念日として生涯の大切な記念日とすることにした。その記念日設立とともに丁度また一周していた観覧車。どうも時間があっという間に過ぎてしまったようだ。


 先ほど俺たちのワガママを聞いてくれたスタッフにはお礼を言って観覧車から降りる。俺は先輩が降りる時に手を貸して、怪我をしないように降りてもらった。



 大観覧車からで出た後、夕日はもうだいぶ沈みかけていた。この後は調べておいた美味しいお店に先輩を誘おうと決めた。今の俺であれば行けると不思議な感覚があった。ランナーズハイのような、ゾーンに入ったような、全てが俺に味方してくれているみたいな感覚だ。


 だから俺は今までより自信を持って先輩を誘う。


「あのさ、さ、咲先輩! 夕飯の時間だしさ、もし良かったら一緒に夕飯をたべ」


 その瞬間、元気な女の子の声がこちらに響いてきた。





「あっ、もしかして、しょー先輩っすか? え、え、本当にしょー先輩っすか? え、! しょー先輩!!!」





 その直後、小さくて良い匂いのする何かが俺の懐に飛び込んできた。とっさのタックルで俺はなすすべなくその何かに抱き着かれる。


「な、なんだお前!」


「しょー先輩だあああ! うえええええええええん、しょー先輩! しょー先輩! ずっと、ずーっと会いたかったっす!!」


 その何かは泣きながら俺に抱き着くとても可愛い女の子だった。


 ただ、俺はこの女の子を知らない。というかなぜこの子は俺に抱き着いているんだ。恐らく俺を誰かと間違えているんじゃないだろうか。テンパる俺。


「お、おい、誰か知らないけど俺はお前を知らないんだが。だれだお前。というか離れろ」


 その子は俺に抱き着いたままの状態で、俺の方に笑顔を向けた。




「私は冬藤ふゆふじ 楓かえでっす! それにしょー先輩の後輩っすよ!」




***




 今日は翔くんと一日お出かけをした。男の子と遊んだのなんて初めてだったけど、本当にどの時間も楽しかった。


 それに観覧車の中で過ごした時間は翔くんにもっと近づいて仲良くなることができた素敵な時間だった。それに『咲先輩』って名前で呼ばれちゃった。


 そんな風に今日の事を思い出して、ベットでゴロゴロとしてしまう。温かい何かが胸の奥を満たしてくれている。幸せに包まれる。


 だけど、それと同時に思い出すあの女の子。冬藤 楓ちゃん。翔くんの後輩でものすごく可愛い女の子。




 なんだかあの子の事が気になる。モヤモヤする。翔くんとの関係が気になる。あの後、どうしたのかな。あの時、なんで私は帰っちゃったんだろう。


 今まで感じた事の無い気持ちが私の中に渦巻く。




 胸が苦しい。



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