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  • 壬申の乱③ 大乱の勃発への応援コメント

    応援しています! こういうの好きです。

    作者からの返信

    ありがとうございます。

  • 非常に面白いです。沙本毘賣からオナリ神の話が紹介され、玉作から子名必母名の習慣にまで言及されています。

    玉作というのは、弥生時代だけでなく縄文時代にまでさかのぼる技術かと思いますが、アミニズム的な宗教世界で「玉」というものが重要視されていたのでしょう。この呪術的な世界では、女性の存在が特徴的だと感じます。卑弥呼にしてもそうですが、女性が社会を統べている例が散見されます。

    特定の文献は無いのですが、古代では子供を産むという女性の機能が、超自然的な奇跡として受け止められていたようです。女神信仰的な風習としてオナリ神信仰もあったのかなと思いました。

    古代において女性は、現代よりもリスペクトされていたのかもしれません。沙本毘賣に対して、垂仁天皇の対応はとても誠実です。愛情が深かったからともいえますが、沙本毘賣の想いを汲みながら交渉に当たります。子名必母名の習慣の重要性については、全く気付いていなかったので新鮮でした。

    卑弥呼もそうでしたが、古代において巫女は重要なファクターだったと思いますが、意外に巫女に関する資料が少ないように感じます。聖徳太子の母である穴穂部間人皇女や推古天皇となる豊御食炊屋姫尊は神饌において巫女の役割を担っていたのでは、との記述を読んだことがあります。

    推古天皇の姉である磐隈皇女が、伊勢神宮の斎宮になったという記述はありますが、具体的に巫女としての役割や存在の尊さについてはイメージできる資料がない。それどころか、腹違いの兄妹である茨城皇子と密通した事績が特徴的に残されています。

    まだまだ勉強しきれていない分野ではあるのですが、巫女について関心があります。今回の記事はとても参考になりました。ありがとうございます。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。本エッセイの読者の方からこの悲話が好きだという話をお伺いして本稿を書いたという経緯もあるので、そう言って下さって嬉しいです。

     手元に無いので、ちょっと記憶が曖昧で申し訳ありませんが、吉田敦彦氏の『縄文の神話』(青土社)などでも言われていれる様に、土偶が女神であることから、オホゲツヒメのような女神の起源を縄文時代に見出す見解もある様に、有史以前から女神信仰は存在したことから、女性の、特に神々とリンクが出来る巫女の地位は高かった様ですね。

     神武~神功皇后紀まで天皇と対立する女首長がしばしば登場するのはヒコヒメ(或いはヒメヒコ)制の名残なのかなと思います。魏志倭人伝の卑弥呼が祭祀を司り、政治は弟が行うような体勢、つまり女性が祭祀を司り、男性が政治を行うような体制をヒコヒメ制と言います。

     垂仁天皇が『上宮記』にも登場する実在性の高い天皇とはいえ、旧辞的逸話から史実性を追求するのは危険ではありますが、サボヒコ・サボヒメの逸話も正しくヒコヒメ制と男系王権の対立の図式で語られ、『上代説話辞典』(雄山閣)によれば二人の死はヒコヒメ制の終焉を意味していると言います。大和の初期の王墓では箸墓古墳、西殿塚古墳ではその副葬品から女性が葬られた可能性が高く、外山茶臼山古墳以降は逆に男性が葬られた可能性が高いのは、ヒコヒメ性から男系の王権に政権交代が行われた証左であり、本話が語るのはヒコヒメ制の頃に実際行われていた可能性がある兄妹婚(神聖な血筋を残す為?)を想定し、これを悪しき者として排除する行為を正当化する意図でもあったのかも知れませんね。

     只、ヒコヒメ制終焉後も、例えば神功皇后紀で神功が神がかりする巫女であることなどは、ある意味先祖返りな気がしますが、卑弥呼程でなくても巫女の高い社会的地位は王権に組み込まれる事で保証されていたようで、仰るように後の穴穂部間人皇女や豊御食炊屋姫尊に繋がっていったのかも知れませんね。

     玉に関しては朝鮮半島への輸出品として利用されるなど、信仰以外にも利権的な絡みがあったのか、後に出雲以外で生産されなくなるなど、どうやら大和王権が時代によって制約したり自由化していたようですね。

     豊御食炊屋姫尊に関しては『日本古語大辞典』によれば、確かに御饌に豊御饌を炊くという解釈もあるようですね。あまり和風諡号の方は気にしたことが無かったので参考になりました。ありがとうございました。
    https://dl.ndl.go.jp/pid/1870643/1/474

  • 面白い。
    有働智奘氏の「排仏崇仏論争の虚構」の原稿を因数分解して、それぞれに反証と立証を繰り返す。しかも、観念ではなく参考資料を交えながらの展開には驚きました。よくそれだけの資料が用意できたものだと、本質ではない部分にもビックリです。

    私は聖徳太子の物語を綴ることを目標にしています。そうした意味では、今回の記事は僕にとってドストライクなテーマであり、とても参考になりました。黒船が浦賀にやってきたことで、日本は江戸から明治への転換を迫られました。その衝撃と同等か、それ以上の事件が仏教公伝だったと考えています。

    麗玲様も取り上げていますが、この仏教公伝の衝撃を更に加速させたのが疫病でした。大王ですら薨去されるこの一大事に、仏教と神道は試されたと思います。それは観念的なものではなく、具体的な権力闘争として発展しました。このドラマを、聖徳太子の視線で語っていきたい。

    私が崇神天皇に関心があるのは崇神天応が疫病と対峙したからです。この時に、アミニズム的な原始宗教に祟り神という概念が付加された。この祟り神を祀るという行為が、強い宗教的権威を生み出したのではないかと考えています。300年近くこの原始神道が大和王権の根幹をなしていた。その根幹を揺るがした思想的概念が仏教になります。

    仏教を思想的にどのように捉えるかは、非常に難しい問題です。現代の仏教観で読み解くことは出来ません。なぜなら、変容しすぎているからです。当時の仏教観を感じるためには、聖徳太子が著した法華義疏を始めとする資料を読み解く必要があります。

    私は、まだこの段階までは至っておりませんが、神道と仏教を比較することで当時のカルチャーショックを感じたい。そのように考えております。
    ありがとうございました。

    作者からの返信

     ありがとうございます。少しでもお役に立てたようであれば冥利につきます。
     物部氏の本拠地から渋川廃寺が発掘され、物部氏が仏教を崇拝していたという説は、津田学徒で古代史家の大権威の方でした直木孝次郎氏にゴマすりをしていたという個人的にあまり好きでない学者さん(有働氏ではありません)が主張していた説だった為、気合を入れて叩くつもりでした(マテ)

     中日新聞の記事では渋川廃寺に関して飛鳥時代初期と書いてましたが、実際の調査報告書(「渋川廃寺 第2次調査・第3次調査」)を読めば、発掘されたのは再建されたものであり、奈良時代後半、即ち物部守屋が戦死してから200年程後のものだったのに、有働氏含め、この説の支持者の方達は誰も調査報告書を確認していないんですよね……。後から知ったのですが、平林章仁氏はこの調査報告書から、物部守屋の時代に物部氏が仏教を信仰していた証拠にはならないと批判なさっているのは流石と思いました。先代旧事本紀で廃仏の主張が見受けられないと言った誤った主張といい、例え学者の方の言うことでも鵜呑みせず、自分でも一次文献を確認するのが如何に大事なのか分からされた出来事でもありました。

     崇神天皇、そして疫病と関わりのあるオオモノヌシですが、個人的には天照大神以前にメインで祀られていた神だったのではないかと思います。残存する『風土記』ではオオアナムチ、或いはオオモノヌシの神が至る国々で登場するのに対し、天照大神は殆どその名が登場せず、御膝元の伊勢でもイセツヒコやサルタヒコと言った別の太陽神の名がみえるからです。その為、天照大神を皇祖神とし、令制で整理化された後の祭祀や、延喜式祝詞などから原始神道を見出すのは難しそうですが、逆に言えば風土記と言った中央の正史以外の資料からヒントになる内容も見いだせるかも知れませんね。参考になるか分かりませんが、例えば以下の内容など。

    ・小ネタ 八百万の神は実は三千万以上の神だった?
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330656621695575

     あと、ご存じかも知れませんが、古神道は江戸時代に出来たものなので、これを原始神道と混同しない様にくれぐれもご注意を。(孔〇王という漫画ではその辺を混同していましたので……。)

     変容しすぎている為、現代の仏教観で読み解くことは出来ないのは同意します。蘇我氏も導入直後は尼僧を巫女的なものと勘違いしていたり、紆余曲折もあった様ですが、そこから神道を超越し、ある意味日本の国教に近い立場を固める行程を描くのは想像するだけで困難窮まりますが、頑張ってください。

     法華義疏……そう言えば読んだ事がありませんでした(滝)。忘れていました。ありがとうございます! 聖徳太子と言えば『上宮聖徳法王帝説』というイメージばかりでしたが、自分もまだまだでしたね。
     

    編集済
  • 何度も読み返しているのですが、あまりにも情報量が多くて整理しきれません。どれだけの時間を使って研究されてきたのか、驚くばかりです。

    まず、邪馬台国と大和王権に連続性を認めないとする主張は、とても納得させられました。多くの情報に晒される中、記紀の内容と邪馬台国を無理にでも関連付けようとする視座に固定されていたようです。その呪縛から離れることで、視野が広がりました。

    景行天皇紀・神功皇后紀の九州の情勢については、全くの勉強不足です。知りませんでした。熊襲に関しては、手塚治虫の「火の鳥」の情報くらいしか思い出せません。これらの情報を消化するにはまだまだ時間がかかりますが、新しい視座が開けて、とても良かったです。ありがとうございました。

    作者からの返信

     景行天皇や神功皇后は津田史観・王朝交代説により抹殺されてしまった天皇・皇后であり、特に景行に関しましては、日本書紀の記述を架空のものとして古事記のみを参考にして、ヤマトタケルを遠征で死に追いやった天皇ぐらいしか思われていない爲、一般的に興味が抱かれていないのは仕方がないのかなと思いますが、渋谷向山古墳の規模や、同時期に九州に前方後円墳が造営され始めること等から考慮すると、日本をほぼ統一(と言っても北九州から関東までですが)した最初の天皇であり、これを土台に神功皇后以降の朝鮮遠征が可能になったのかと思います。

     言わば後の日本の基盤を作った、古代史上きわめて重要な天皇であったのではないかと思いますが、その分、力を入れ過ぎたのか、今読むと確かに情報過多で、せめて景行天皇紀と神功皇后紀で分割した方が良かったかなと反省しております……。

     本稿で取り上げた以外にも、景行天皇に関しましては、『肥前国風土記』神埼郡の記事が3世紀末から4世紀の初め頃、吉野ケ里の集落が突如途絶えたことと関連するのかな? と推定し、かなり大胆な仮説を立てたりしました。

    ・吉野ケ里遺跡⑵ 『肥前国風土記』に見える遺跡付近の伝承と景行天皇の実在性について
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330659484533629

     神功皇后も一般的に実在性が低いとされていますが、その一方で、神功皇后紀を朝鮮文献と比較して、史実性が認められる記事が登場しだします。又、最近の研究では少しずつですが、神功皇后の実在性を認め得る見解も出てきており、それに関しましては後日投稿したいと思います。

    編集済
  • 麗玲様の幅広い知見に、ただただ驚いています。これまで手探り状態で調べていたのですが、断片的な情報をどんなに頭に詰め込んでも、頭の中でうまく纏めるのは難しい。年のせいか忘れるということもしばしば。麗玲様のこの膨大な情報を読むだけで、僕の頭の中が整理されていきます。素晴らしい業績です。

    邪馬台国論争の難しいところは、比較する文献の成立年代がそもそも違うことです。更には、お互いの言語が違うので認識の違いは避けられない。例えば、邪馬台国=大和国、卑弥呼=姫巫女、という話はよく語られることですが、これですらその認識で正しいのかは分からない。仮説の上に仮説を積み上げていく作業の繰り返しなので、前提条件が間違っていると、全てが崩れてしまう。

    黛弘道氏から大和の範囲について言及されていました。(黛弘道氏の書籍は僕も何冊か読み進めているのですが、とても実直な研究者だと感じました)当時の大和の勢力範囲について大和神社を中心にして語られていましたが、魏志倭人伝が理解している大和の定義はもっと大きな括りだったかもしれません。当時は、大和を中心とする豪族連合だったと認識しているのですが、その連合を指しているとしたら畿内説にも光が当たるような気がします。

    昨年、ハラリ著作の「サピエンス全史」を読みました。前半部分で、人類最初の大きな革命として「認知革命」の記述があります。

    第34話 認知革命
    https://kakuyomu.jp/my/works/16817330652866198637/episodes/16817330667960782046

    要は、目に見えない「神」を多くの人々が認識し合うことで原始人類はコミュニティーを形成していきました。この「神」を信じる行為は、現代でいうところの「法律」を守らせることで国家が機能していることと同じで、社会的な秩序と団結を生み出します。「神」や「法律」は、パソコンでいうところのOSでした。

    大和王権は、水田稲作の技術を国家的な事業として機内の人々に啓蒙できたから国家の中心になりえた。でもインフラの技術だけでは国家は生まれません。代々の天皇(大王)を中心とした宗教的なつながりが強固だったと考えます。

    卑弥呼が魏志倭人伝で紹介されたということは、大陸に伝わるほどに大きな影響力を持った宗教組織だったのでしょう。小さな一勢力だったとは考えられません。戸数七万戸という数字をどこまで信用して良いのかは分かりませんが、それに比類する大きな勢力だったことは間違いありません。42万人という人口が、米を食べて生活が出来る地域といえば、状況証拠を並べていくとやっぱり機内なのかなと、僕は想像してしまいます。

    卑弥呼が誰かということはあまり関心がないのですが、崇神天皇と倭迹迹日百襲姫命はとても関心があります。日本の基礎を作ったと思うからです。

    作者からの返信

    黛氏の著書をご覧であるとしたら、緻密に北九州と大和を比較し、『肥後国誌』という後世の文献になりますが、北九州の肥後北部と筑後を併せた地域は生産力が大和を大きく上回るということをご覧になられたこともあるかと思いますが……。これは後世の比較なので、参考になり得ないとしても、地形的には大きく変わらないハズで、橋本増吉氏の名著『東洋史上より観たる日本上古史研究 第1 (邪馬台国論考)』によれば殆どの地域が海没していたというトンデモ説もあったらしいですが、このトンデモの如き大規模な地殻変動でもない限り、耕作可能な面積の絶対値がそこまで変わらないのではないかと素人的には思いますが……。それに、何も畿内だけ水田技術があった訳でないですし、技術者の数という面では大陸や半島と面する北九州の方が元々は多かったハズですし、大和に連合政権があったとすれば、何故唐古鍵遺跡が環濠をつくっていたのか、これはヤマト、あるいは纏向など近隣の周辺勢力と敵対していたとしか思えません。

     こう考えると黛氏が他勢力との関係で原初大和の地域を絞ったのは的を得ているのではないかと思います。恐らく、箸墓古墳の特殊器台といった吉備との考古学的な繋がりから推測して、邪馬台国とは無縁の吉備の勢力が大和に遷移し、記紀でも伝わっているような、この頃珍しくも無かった女首長が2代(箸墓古墳、西殿塚古墳の被葬者)が続いた後、大和王権の初の男系の王(外山茶臼山古墳の被葬者。神武帝のモデル)にとって代わられたのかと推察されます。

     また、魏志が戸数にしても方角にしても全く信用ならない記事であることから、日本書紀も参考にすべきであり、信頼性の低い旧辞を参考資料とする崇神天皇紀のみでは何故邪馬台国が消滅したのか、理解し得ません。景行天皇紀・神功皇后紀の九州の情勢を見る限り、この頃に邪馬台国と狗奴国(熊襲國)が滅びたと推定されます。大和よりも先に発展した筈の邪馬台国が大和に遅れをとった理由は、魏志でも伝えられる狗奴国との争いで衰退した為であり、それが景行天皇紀・神功皇后紀にも反映されているのかと思います。

    ・景行天皇紀と神功皇后摂政前紀は邪馬台国末期の状況の反映か?
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330661616902616

     認知革命に関しましては、ご提示のURLがリンク切れ(恐らく編集の方のURLかと)なので、申し訳ありませんが確認出来ていませんが、コメント内で仰る内容に関しては同意します。政治を「まつりごと」と称するのは神事が政治と一体であったからだと思うので、例えば物部氏と蘇我氏の崇仏廃仏論争は政治闘争であって虚構とする、近年有力な説などはマルクス等の唯物史観の悪影響か、宗教を軽く見る昨今の日本人の現代的な考え方であり、実際は仏教の受容は生き死にをかけた宗教闘争であり、同時に政治闘争でもあり、両者は切っても切り離せないものであったのかと思います。

    ・「排仏崇仏論争の虚構」の批判
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700428325598278

     只、信仰に関して申し上げれば、弥生時代と大和王権以降の政権で繫がりを見出すのは難しいと言わざるを得ません。『風土記』では発見された銅剣と思しき剣を燃やして蛇の様に変わったという記事や、『続日本紀』銅鐸が発掘されますが、これらの描写から奈良時代には弥生時代の信仰が忘れ去られており、即ちある意味弥生時代の象徴である邪馬台国と大和王権の連続性は認められず、前方後円墳は寧ろ弥生時代から続く信仰に対する排斥行為の様に思えます。オホアナムチがヒヒラギノヤヒロホコをフツヌシ、タケミカヅチの二柱に譲るというのは、もしかすると弥生時代の祭器である銅矛の終焉を伝えているかのように思えますが、記紀からはこのようなうっすらとした形でしか過去の祭祀が伝わってきません。すなわち、実証主義的立場に立てば勝手にアレコレ推測しても断片的にしか肯定内容を見いだせず、考古学者G・チャイルドが語る様に考古学にも限界があるということです。

    ・考古学について① 西郷信綱の考古学に対する批判論
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330653270767699

     西郷信綱氏は古事記の内容を「現代社会」即ち奈良時代の内容の反映であると言います。この考え方には流石に抵抗がありますが、歴史学や考古学では少なくても神武天皇の頃を推察するのは限界があります。例えば、歴史学や考古学的な視点では、何故神武が「日向」を起点として東征を行うのか、否定論以外で解答を見出すのは難しいかと思いますが、西郷氏の発想が解答への鍵となります。この事に関しては過去にご紹介させて頂いた「神武天皇東征の史実性と英雄時代論」に書いてあります。

     崇神天皇と倭迹迹日百襲姫命については、そもそも推定される被葬地が奈良盆地東南部の初代王墓である箸墓古墳(3世紀中頃~後半)と5代目の行燈山古墳(4世紀前半)では大きく世代が離れています。即ち、同一時代の人物ではないことは明らかですし、6世紀に書かれた旧辞を参考にした記紀の記述もアテにならないのは言うまでもありません。又、記紀を遡る古い文献、例えば『上宮記』、或いは鉄剣や鏡の銘文などにもその名が登場しない事から、実在性のみでいえば、『上宮記』にも名を連ねる垂仁天皇の方が高いのかなと思います。

    編集済
  • 興味深く読ませていただきました。
    邪馬台国が北九州か奈良かという論争ですが、僕なりにはこの視点にこだわり過ぎると本質を見失ってしまうような気がします。記紀に示される天皇の系譜がすべて正しいとは思いませんが、大きな時代の流れを考えるととても重要な文献だと考えています。

    鉄の扱いや稲作の技術は、当然ながら九州から機内へと伝播しました。ただ、鉄と稲作の伝播のルートは違います。鉄の交易は主に日本海側で行われました。輸送には船を使います。船は構造的に空では走れません。鉄を載せることで安定します。日本に渡ってきた鉄は北九州や出雲で取引されますが、船が朝鮮に帰る時は、代わりの荷物がないと走れません。対価として、翡翠を始めとする玉が使われたようです。翡翠は能登半島から北側に流れている糸魚川で産出されます。つまり、鉄と翡翠を経済的なバックボーンにした出雲という国が形成されたと考えます。

    対して米の伝播は、水田稲作とセットが考える必要があります。麗玲様に読んでいただきましたが、僕は神武東征は水田稲作に最適な奈良盆地を見つける旅だったと解釈しています。さらには、この水田稲作と前方後円墳を関連付けて考え始めています。

    第39話 前方後円墳ー再考
    https://kakuyomu.jp/works/16817330652866198637/episodes/16818023212179529637

    この大きな二大勢力である出雲と大和が連合した。記紀の大きな概要はこれに尽きると思います。ただ、記紀には明確に示されていないもう一つの一大勢力があります。それが、崇神天皇の弟にあたる彦坐王(ひこいますのみこ)です。

    琵琶湖を中心とする淡海から奈良盆地の北部にまで勢力を持っていたのではないかと考えています。奈良盆地と琵琶湖周辺の共通点は、稲作に最適な土地ということです。広大な土地と流れる川、それらの条件が合わさり巨大な経済圏を形成しました。

    大和王権は日本全国に屯倉を設置していきますが、淡海に設置されるのは正確な年代は今は思い出すことが出来ませんが、かなり後です。彦坐王にはじまった淡海は、大和王権と独立した形で国を形成していたと考えます。継体天皇は、この淡海方面から誕生しました。

    この大きな流れの中で、邪馬台国は何処かということですが、遺跡の発掘や時代考証から類推すると箸墓古墳が誕生した奈良の桜井市周辺が、僕は妥当だと考えています。記紀と照らし合わせると、卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメが順当ではないでしょうか。ヤマトトトヒモモソヒメは巫女であるし、日本の神道の起源にもなったと考えています。

    第31話 崇神天皇の宗教改革
    https://kakuyomu.jp/works/16817330652866198637/episodes/16817330667548158499

    神道という宗教の特徴は、祟り神をまつるという儀式です。祟り神が誕生した切っ掛けは疫病でした。この疫病とどのように対峙するかで、ヤマトトトヒモモソヒメと崇神天皇は苦労します。このことから、儀式的な産物として前方後円墳が誕生したのではないかと考えています。

    この疫病との戦いは、後の欽明天皇や敏達天皇をも悩ませ、仏教公伝を切っ掛けとして物部と蘇我の争いにまで発展します。僕なりには、崇神天皇から続く祟り神を祀ってきた旧大和王権と、大陸からやって来た仏教をバックボーンにした新大和王権である蘇我一族の衝突を描きたい。まだまだ勉強中ですが、ざっくりとそのように俯瞰しています。

    写真は整理したのち、アップしたいと考えています。
    とても参考にしています。ありがとうございます。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。

     時間の関係で、ご提示頂いたURLには後程お伺いいたしますが、先ず基本的な話として、記紀共通の資料として、『旧辞』『帝紀』というものがあったと言われており、『旧辞』は宮廷に伝わった物語や歌謡。『帝紀』は天皇家の系譜・陵(簡単な事績も含めるという説もあり)などと言われており、『日本書紀』では旧辞的な伝承が武烈天皇紀で終わっていることから、旧辞はこの頃から然程下らない継体・欽明朝の頃に作られ、帝紀もこの頃から作られたというのが津田左右吉氏以来の説です。その後、稲荷山古墳鉄剣の発見により、その銘文から地方豪族でも家系譜が伝わっているのだから大王家にも系譜が伝わっていなかった訳が無いという考えから、5世紀頃には帝紀の原型があったとも言われています。

     つまり、記紀の特に伝承(旧辞)部分の原型は6世紀頃に作られたものであり、それ以前の記事はアテにならないというのが主流の考え方です。これは津田史観の極論だとしても、応神天皇の時代に和邇吉師が字を伝えたというのが伝承だとしても、考古学的にも5世紀以前の文献資料が極端に少ないことから、系譜程度であるのならばとにかく、旧辞的内容までは記紀が何処まで事実を伝えられているのか怪しいのは言うまでもありません。

     崇神天皇紀の祟り神に関する記述も、記紀ではオオタネコの子孫について「三輪君」と書かれて「大三輪」以前の古い表記である事は指摘されていますが、これはこの伝承が天武朝以前に存在していたということを示し、旧辞迄遡る事は想定されるものの、三輪山周辺の祭祀遺跡群から出土する遺物は四世紀後半のものが数点含まれるものの、五世紀後半から増加し始め、六世紀がピークであることから、(『日本古代氏族叢書④大神氏の研究』鈴木正信)史実性が認められるのは早くても雄略天皇紀以降の様に思います。

     又、邪馬台国畿内説の批判論に関しては、本稿以外にも「卑弥呼は記紀に登場する人物か?」でも取り上げており、自分の結論としては記紀に卑弥呼にあたる人物は描かれていないと判断しました。そして、『日本書紀』の景行天皇紀が古事記の内容と大きく異なることから、景行の九州遠征が史実性のアテにならない旧辞以外の文献(恐らく履中天皇紀にある「四方志」)を基にしていると判断し、景行天皇紀や神功皇后紀には邪馬台国や狗奴国の末日が描かれているのかと思います。

    ・卑弥呼は記紀に登場する人物か?
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330660819887192
    ・景行天皇紀と神功皇后摂政前紀は邪馬台国末期の状況の反映か?
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330661616902616

    編集済
  • 崇神以前の王墓があったところで大和王権(天皇家)との繋がりが証明できなかったら初代天皇を崇神以前に遡るのはできないのでは。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。

     考古学者の白石太一郎氏は外山茶臼山古墳あるいはメスリ山古墳が鳥見山の地、即ち磐余の地にある事からイワレビコ、つまり神武天皇の墳墓である可能性を指摘しています。(「考古学からみた応神以前の王統譜」白石太一郎)

     奈良県立橿原考古学研究所によれば、外山茶臼山古墳から、最新の研究成果に基づいて出土した銅鏡の推定枚数を103面以上と発表し、古墳の被葬者を「他の古墳の追随を許さない隔絶した王権の地位にあった人物」とし、「王権内には一級の銅鏡が大量にストックされ、被葬者は各勢力への配布をコントロールできた人物」という見解を示していること等から、初期ヤマト王権の大王墓である可能性が高まっているそうです。

     又、箸墓古墳、西殿塚古墳は発掘された副葬品から、被葬者が女性であった可能性が高いらしいですが、外山茶臼山古墳からは多数の武器・武具と呪術的な石製品の副葬品が発掘されたことから、聖・俗の王権を兼ね備えた男王の墓と想定され、崇神以前の大和の最初の王であった可能性が高いのではないでしょうか。

  • こんにちは。
    私はプロを学術論文掲載をなりわいとしている人と考えていますが、古代史(に限らず史学)の場合、プロでも荒唐無稽な主張が多いと思います。プロとシロウトは知識量の差が大きいと思うのですが、それが見識の差にはなっていないと思うのです。その一因は、おっしゃるようにイデオロギーなんじゃないですかね‥‥‥

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。

     仰ることはよくわかります。

     文鳥亮さまの分類でいうプロで荒唐無稽な方の名が何人か頭に浮かびましたが、個人名を上げることは取り合えず控えておきます(苦笑)

     又、プロでも一般向けの書籍ばかり書いていてめったに学術論文を書かない方(或いは評価が低く、他の専門家から全く引用されない)もいますよね。

     只、イデオロギーについては本稿で引用した内容などは個人的に腹立たしい例ではありますが、時代の流れによりイデオロギー的な影響が研究を推し進めるというプラスの面も無い訳ではありません。

     大正デモクラシーの自由主義的な雰囲気が津田左右吉氏の研究を生み出したと言われていますし、それは現在からみれば容易く否定出来る内容ですが、それまでの非科学的な記紀研究を実証主義により打破するきっかけとなったとも言われていますし、戦後にイデオロギー的な反発も含めて津田批判を行っていた石母田正氏の著書、特に『日本の古代国家』(岩波文庫)で見られるような圧倒的な知見から語る古代国家観を論駁し得る国家論を、果たして保守陣営が今まで語る事が出来ていたのかというと甚だ疑問ですし、西郷信綱氏の歴史学や考古学的な解釈ばかりを求めると中々辿り着けない結論へと導く手法は、思想的には当方と相反するものとは言え感服せしめるものであるのに対し、「古事記に馬が出てこない」などと言っている竹田何某などが古事記の解説本を書いている現状に溜息をつかざるを得ないと思っています。

     あとアマチュアの著作では感銘を受けたのは八木荘司氏の『古代天皇はなぜ殺されたのか』(角川書店)ぐらいで、(これも今から見ればツッコミどころは満載ですが)大抵の著書は結論を急ぎ過ぎたり、西郷信綱氏が『古事記研究』(未来社)で言う「点と点を結びつける」手法や、拙稿「小ネタ 怨霊となった蘇我入鹿?(たまには在野の研究者を斬ってみた)」で指摘した様な姑息な手法が目につくので、こういったところではやはりプロとは差があるのかなと思わざるを得ません。だからと言って、御存命の歴史学者の中で、現在信用できる方は平林章仁氏ぐらいしかいないとも感じているのですけれどね……。

    編集済
  • 兵庫県下において、長田・生田・廣田の三神社は現在も別格扱いです(地元民は敬意を持って「さん」付けて呼んでます・笑)
    生田と廣田の間に挟まれるようにして、本住吉神社も鎮座していますが、この四社を線で結ぶように中央に据えて、山側にも浜側にも若宮(応神天皇)と神功皇后を祀る衛星のような末社が点在していて、地理的にも非常に興味深いです。
    祭祀もちょっと独特で、それこそ記紀に名前を連ねる祖人たちの末裔とされるご一族と縁の庄が代々氏子として現存して神事に携わっていて、ガチガチの地域色が濃くて楽しいですよ。

    実在したか否かは、何せ古い話なのでアレですが、大阪湾から瀬戸内を含めていわゆる海賊が覇権を握っていたような土地柄なので、モデルとなった荒くれお姫様がいたとしても不思議じゃないなぁとは思います(笑)

    作者からの返信

     コメントありがとうございます!
     地元の方の情報は参考になります! こういうお話を聞くと自分がフレーザーの様に19世紀的な腰掛け学者、いや、学者ですらないので、腰かけ似非歴史家と揶揄されなければならない存在になったようで、反省しないといけないなぁと思います
    (;一_一)

     神事の民俗学的な調査とかしたら面白そうですね。いつかはフィールドワークしてみたいです。
     荒くれ姫……成程、確かに他国迄行って海賊の所業っぽくはありますねw

     現在執筆中のヤマトタケル特集(?)が終わったら、神功皇后に関しては非実在説と実在説を比較して、両説の妥当性を検討しようと思っています。

  • 作者のプロフィールって大事なんですね。

    自分はこれまで、わかりやすさや読みやすさを重視していました。

    作者からの返信

     はじめまして。コメント及び☆様をありがとうございます!

     確かに入口としては、わかりやすいものでも良いかと思います。

     但し、専門家じゃない方が書いた本もかなり多いので、間違った知識を掴まされると中々思い込みから抜けられないという事にもなりかねません。人目を引くようなキャッチコピーの著書は特に注意が必要な様ですね。

     古代史を学習する場合、現在入門者向けとして平均的な知識を得るなら(本エッセイでは取り扱っていませんが)瀧音能之氏の著書辺りが良いかなと思いますが、本エッセイでは専門的な論文を多数取り扱っていますので宜しければご覧ください。

    編集済
  • はじめまして。

    自主企画に参加して頂き、ありがとうございます。

    ゆっくりですが、読ませてもらいますね。

    作者からの返信

     るしあんさま。
     
     はじめまして。

     こちらこそ企画に参加する機会を下さり、ありがとうございます。

     本エッセイでは多くの資料、学説を取り上げていますので本気で古代史を学習しようという方には参考になる部分もあるかと思います。

     もし、最初の方の内容が物足りなければ章題に難易度が設けてあるので、そちらを参考にして好きなエピソードからご覧頂ければと思います。

    編集済

  • 編集済

    記紀周辺の文献(国内)への応援コメント

    私が歴史の授業を受けていたとき、古代史はまともな書物がない、歴史家にとってはぺんぺん草も生えない不毛の地、なんて教わりましたが、こうして資料を並べられるとあるにはあるんですねー

    古事記、日本書紀、風土記なんて一問一答集でしか単語を知らなかったので、今になって知るのは興味深いです。

    読むなら古事記からなんて仰っていたので、ここで紹介されていた書籍も読んでみようかなと思います!

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。

     失礼ながら、その先生がどうやって教師になられたのか不思議です……歴史を学んだことがあるのであれば最低限、津田左右吉氏や井上光貞氏の著書ぐらいなら読んだ事あると思いますし、それらを読んでいればその様な感想は出てこないと思いますが……。まぁ本エッセイで槍玉に挙げられている津田氏は記紀批判の第一人者ではありますが、批判を行うにしても内部考証の外に外部考証で多数の文献を用いており、それら全ての文献を読みこなす事は私にも出来ていません。

     他の時代に比べ、資料が少ないのは確かであり、それは当たり前のことなのですが、「ぺんぺん草も生えない不毛の地」などとの言い草は記紀の様な千三百年以上も前の人が語り残した資料の希少性を無視した、何もかも情報が得られる現代人の傲慢ではないでしょうか?

     古代史に限らないと思うのですが、研究者の都合がいいように資料が転がっている訳ではないので、それを外部考証から見出すのも歴史学の務めではないかと思います。

     なお、大分先の稿でデジタルコレクションで読めるものが中心なので古いものが多いですが、本格的に研究をしたい方のために他にも多数の資料や辞典・注釈書も紹介してあります。

    ・本格的な研究をしたい方へ。評価が高い記紀の注釈書・個人的お勧めの解説書・辞典(事典)など
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330656592766249

    ・記紀周辺の書の注釈・研究書
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330657337393343

    ・評価が高い風土記の注釈書・解説書など
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330657239324513

    ・万葉集の辞典・注釈書
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330658539104443

    ・古代朝鮮・中国史料
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330659134061353


  • 編集済

    兄妹愛であり同族愛であり、当時のサホは、やはり独特の祭祀風習が根強かったのかなと偲ばれますね。
    (異母はセーフでも同母はアウトの禁忌とはいえ、精神的繋がりと肉体的繋がりは別と言われたら何も言えない・苦笑い)
    おそらくは一族の巫女姫(あるいは神事としての女王)的な立場の女性を新興勢力にとられているわけで、サホ一族にしてみればクニを蹂躙されたも等しいことだったのかなと思います。
    サホヒコの「ほな、トコトンやったるわ!(ブチギレ)」行動にも、ちょっと短気で愚直な性格が垣間見えてきそうです(策を練りに練って素知らぬ顔してジワジワいくとか苦手そう)

    そして、イクメの大王の執着心の凄まじさ……サラッと書いてあっても怖いです(笑)
    「俺のヨメは俺のもの、お前のヨメも俺のもの」って言ってるのと変わらない……(そういう時代ですが)。

    追記:
    勉強不足だったなぁと改めて思ったのが、「八塩折」の紐小刀の部分、柔剛複層の鉄を何度も折り返して強度を出す玉鋼を連想するのですが、この当時から日本刀の原型が完成していたのかと驚きました。
    この頃ってまだ大陸由来の鋳型が主流だと思っていたので、改めて刀剣についても調べ直さないと、と思いました。

    作者からの返信

     本稿でも少し取り上げた様に、この兄妹の行いをヒメヒコ制と捉える向きが有力の様ですね。魏志倭人伝の卑弥呼が祭祀を司り、政治は弟が行うような体勢、つまり女性が祭祀を司り、男性が政治を行うような体制をヒメヒコ制と言いますが、この体勢を取っていたと思われる記述が、神武天皇~神功皇后紀で討伐される皇族・豪族にしばしばみられます。ヒメヒコ制の豪族が討伐される側にある事は、即ち弥生時代の名残であるヒメヒコ制の終焉を示唆するとも言いますね。

     「八塩折」に関しては古事記諸本の注釈書を参考に訳しましたが、他にも染物や酒にも使われる言葉で、折口信夫の万葉集辞典によれば「手のこんだ染め方。濃紺染めの色合い」「手のこんだ容子を表す体現」とも言うらしいですね。考古学的に妥当なのか、確認してみようと思いますが、その手の内容に詳しい本(『増補版 古代刀と鉄の化学』石井正國・佐々木稔 雄山閣)がちょっと散らかってて見当たらないので、確認できたら追記します。

    編集済
  • 中国の古い文献では、「たくさん」の意で三百とか三千とかよく使うそうですが、三千万の神々というのも、もしかしたら大陸由来の「数えきれないほどたくさん」というくらいの意味だった可能性もあるかもしれないですね。
    日本の場合は、末広がりで「どこまでも広がるくらいたくさん=八百万」というくらいの表現が定型化したのかもと考えると、数字とオトの相関って面白いなと思います。

    全然関係ないですが、子供がよく使う「一億兆万円」みたいな表現も広義的には同類かもしれないと思うと楽しいです。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます!

     成程、中国では三の単位が沢山という意味なのですね。だとすれば、天神千五百万、地祇千五百万の神々は三千万から半分になったという可能性も考慮できますね。勉強になりました!

     「一億兆万円」みたいな表現も広義的には同類かもしれない。そうですね確かに上古の文化ともしかして繋がっているんじゃないかってたまに思う事がありますよね。例えば、過去に取り上げた武埴安彦の妻の吾田媛が密ひそかに来て倭の香山の土を取って、倭国の物実と言って、大和の地の土を取る呪術的行為が、甲子園児が敗退した時に土を持って帰る様な行為と繋がっているんじゃないかとか。だとしたら、ちょっと怖いですけどねw

    *追記
     後で気付いて本文にも追記させて頂きましたが、岩波文庫版『日本書紀』によれば、『日本書紀』一巻神代条第四段の記事にある「千五百秋」について「千五百は極めて多い数の意。千五百秋で永久という程の意」とあります。又、『日本書紀通釈』巻之五にも『日本書紀』一巻神代条第五段の記事にある「千五百頭」について「千五百はたた多き大方を云言なり」と、実数ではなく多い数の意味であるとしています。つまり、本稿で取り上げた「天神千五百萬。地祇千五百萬。」も実数ではなく、多数を比喩した古い表現のようですね。

    編集済
  • 挙げられた図書も含めて非常に参考になります
    私も騎馬民族征服王朝説やその亜流説には強い疑念があり、方々のコメント欄で見かけるとよくツッコミ入れたりするのですがまるで事実かのように流布してますね
    少し考えれば不自然な事は分かりそうなものですが
    日本の考古学でも今はナショナリズム抜きで支持されていませんし
    例えば松木武彦という考古学者は、朝鮮半島の地理的なリスクから日本へ侵攻する事はできないと論じていますね
    以下の論文がその趣旨で書かれています
    https://rci.nanzan-u.ac.jp/jinruiken/publication-new/item/nenpo12_09_matsugi.pdf

    作者からの返信

     コメント及び論文のご紹介ありがとうございます!

     そうですよね。当方も同じ気持ちで、前稿「騎馬民族説の諸問題」の他、「書評 名著『騎馬民族は来た!? 来ない!?』(江上波夫・佐原真)について」、「オワコントンデモ学説。王朝交代説の趣旨と批判」、「考古学について① 西郷信綱の考古学に対する批判論」、「神武天皇と崇神天皇。二人の「ハツクニシラススメラミコト」は同一人物か?」などで騎馬民族説やその亜種の王朝交代説を批判しています。

     仰るように上記の稿に書いた種々の理由により考古学的には否定的に見られていますが、神話学的にはまだまだ影響力が根深そうなのは何とかならないものかと思い、前稿を書いた次第です。

     早速論文を拝見させて頂きました。
     松木武彦氏ならば著書『古墳とはなにか 認知考古学からみる古代』(角川選書)の一部内容を過去の稿「神武天皇東征の史実性と英雄時代論」で引用させて頂いた事があったので、松木氏の論文をご紹介下さり嬉しいです。

     引用して下さった部分はまさしくその通りだと思います。自説を補強できる内容なので、とても助かります。

     本稿とは趣旨が異なりますが、松木氏の引用した佐原氏の研究を付け加えると、吉野ケ里遺跡の戦いの犠牲者を『魏志倭人伝』の「倭国大乱(倭国大いに乱る)」に対応する可能性を指摘しています(『騎馬民族は来た!? 来ない!?』)が、現在の考古学的な知見では弥生時代の戦闘は紀元前にはじまり、激化していったので、その発端において「倭国大乱」は関係無かった事が明かされており、後程佐原氏はこの説を撤回なさった(『倭人争乱』田中椓 集英社)ということもあったそうです。

     あと本文中の「政治的連合」に関しては、かつて英雄時代論が議論された時に井上光貞氏等が唱えた発想なので、英雄時代論が否定されている今となっては田中椓氏等、否定的な見解もしばしば見ます。私はどちらかといえば英雄時代肯定派なので、別に問題ないかと思いますが、その根拠は何れ取り上げますが。

    編集済
  • 最近よく見かけるのは「継体大王」ですね
    なんやねんそれと思うけど
    大王(オオキミ)ならオホドかオオドでは

    作者からの返信

     コメントありがとうございます!
     記紀よりも古い文献で確実と思われる継体天皇の記述を取り上げると、『釈日本紀』引用の『上宮記』逸文では確かに「乎富等大公王(おほどのおほきみ)」なので、仰るように厳密に言えば、オホキミならばオホド、あるいは現代語のオオドが適切なのかと思います。

    以下『釈日本紀』引用『上宮記』逸文の画像↓
    https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16817330657541657512

     継体「大王」表現者の意図としては、『上宮記』逸文では「オホキミ」だから、この時点ではまだオホキミという意識が念頭にあって、この様に表現しているのかも知れませんね。

  • 動かしようのない巨大墳墓を基準に仮説を立てていく手法は、とても理に叶っているなぁと改めて思いました。
    問題は、宮内庁管轄とかで未だに「墳墓であることは確かだけど、誰のものかを確定させる調査の許可がなかなか降りない(だから推測しかできない)。なぜなら天皇陵(仮)とされているから墓暴きは不敬に当たる」的な考え方が現在も根強いことかなぁと。

    仁徳天皇陵だって未だにカッコ仮状態ですからね……あげく、大山古墳に名前変わるて何やねん……と畿内の一市民としてツッコミを入れざるを得ないという(苦笑い)

    邪馬台国論争に決着つける必要はないと思っていますが(両大学派閥のラップバトル(違)面白いので)、
    中国と交易するなら九州の方が地の利が良いし、力をつけて下関渡って、山陰や中国地方を経て畿内にやって来たら、エエ感じの集落規模を展開してるエエ感じの土地があったから小競り合いの末、腰を落ち着けたって流れの方が自然に感じるのです。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます!

     そうですよねぇ……森浩一先生も生前に天皇陵(?)の発掘の許可を宮内庁に強く求めておられ、一時期は上手く話が纏まりそうにもなったことがあるらしいですが、未だに発掘が許可されないのが浮かばれないといいますか、個人的にも残念に思います。不敬に当たるというのであれば、神道的な儀式で鎮め賜う(伊勢神宮の新造の宮に神宝をお遷しする時に唱える祝詞などありますし)か、かつて石上神宮がフツノミタマと思しき古代剣(というか鎌みたいな刃ですが)を発掘した時に再び埋め戻したように、調査を終えた遺物を元に戻すといったことを行えば良いかとは思いますが、こんな考え方では素人的過ぎますかね……。

     邪馬台国についてはどうでしょうか……白黒はっきりさせて欲しいという気持ちもありますし、ハッキリしないからこそあれこれ想像する楽しみもあるという気持ちもありますしね(笑)なお、この稿を書いた時点では冷めていましたが、吉野ケ里で石棺発見のニュースをみて以来、時流に乗って邪馬台国ネタを何回もぶち込んでいます(変わり身の早さよw)

     後の稿(「神武天皇東征の史実性と英雄時代論」)でも触れますが、仰るように、北九州から日本の中心が畿内に移っていったのは考古学的にも認められるようで(『古墳とはなにか 認知考古学からみる古代』松木武彦 角川選書)、神武天皇の東征がこれを示すんじゃないかという説もありますよね。古いものではかつて考古学者にも多大な影響を与えた和辻哲郎氏も同様の主張をなさっておられましたね。
    ・『新稿日本古代文化』和辻哲郎 岩波書店
    https://dl.ndl.go.jp/pid/2983658/1/46

  • 武埴安彦王の反乱も、題材として好きなんです。
    そして、京都山崎(阪急)、大阪樟葉(現在はくずは読みですが)も京阪電車(通称、おケイハン)で訪れたりする親近感の湧く土地なので、あのあたりで古代人がわちゃわちゃ戦して、武埴安彦王軍が「すんませんっしたぁ——!」って土下座したのかと思うと、妙なおかしさが込み上げてきます。(いや、凄惨な現場だったはずなんですけどね)

    邪馬台国近畿説は、私もどうなんだろう? と思いますが、
    後世「邪馬台国」と呼ばれている規模の大きなクニが畿内にあったというのはその通りだと思います(≠邪馬台国)

    記紀の編纂にあたり、過去の大国の功績を意図的に混ぜるということもあったかもしれませんし、その辺りが近畿説や九州説を混乱させる原因の一つかもしれないな、と思っています。

    作者からの返信

     いつもコメントありがとうございます!

     大和初期の動乱の記事はどれも面白いんですよね。いや、確かに当事者たちが実在したとすれば凄惨でそれどころじゃないでしょうが(;^_^A

     津田左右吉氏や井上光貞氏以来、歴史学的には旧辞的内容は全て虚構という事になりますが、仮に邪馬台国畿内説を取ればある程度重なる部分もあるのかなと想像して書きました。多分大学などでこんなレポートだしたら赤点でしょうねw

     邪馬台国に関しては次稿をはじめ、何回か登場しますので、具体的な話はそれらをご覧頂ければと思いますが、次稿でご紹介させて頂いている考古学者の白石太一郎氏の説にはかなり心を揺さぶられて、あやうく畿内派に転じるところでした(苦笑)

     あと、この稿を書いた頃は無知で知らなかったのですが、黛弘道氏によれば畿内の原初ヤマトに関してはかなり狭い地域だったんじゃないかという説を提示なさっていました。詳細は少し後の回の「卑弥呼は記紀に登場する人物か?」で書きましたが、こういう考え方もできるのだなと、反省したことは有ります。(ツッコミどころもありましたが)

  • 佐保彦の乱、佐保姫のエピソードは個人的にもとてもドラマティックでいつか書いてみたいなあと思う古代史の題材です。
    垂仁天皇の女好きかつ美醜エコ贔屓がはっきりしている性格(あくまでも私がそう感じただけ)があまり好きではないので、今一つ起承転結のある物語としてはまとめきれませんが(笑)
    佐保彦の乱も、「元はと言えばアンタ(垂仁天皇)のせいでは……?」と多感なお年頃だった当時は勝手に憤慨してました。
    現代人の感覚で記紀を解釈しようとしちゃいけないと頭では理解してるつもりなんですが……汗。

    作者からの返信

     他の方からも佐保彦の乱、佐保姫のエピソードが好きというコメントを頂いた事がありますが、人気ありますよね。
     まぁ、世継ぎが必要ですからね。当時は幼児の死亡率が高かったハズなことと、よく言われているのが服従させた豪族に対する政略結婚的な面もありますし、必然的に嫁さんが増えてしまうでしょうね。
     まぁそれは正当化で本当に単なる女好きだったかもしれないですが、景行天皇よりはマシと言う事で(苦笑)

     ある意味、記紀(というか旧辞)は天皇の恋愛物語的な部分もあって、垂仁天皇や仁徳天皇等の情けない部分も結構描かれていて、それが神の血を引くと伝えられている為政者としては、随分と人間的に感じさせられるんですよね。まぁ神々からして相当人間的ですがw

     大分先になりますが、このエピソードに関して詳しく紹介してありますので、もし小説をお書きになられるとしたら参考にならないと思いますが(苦笑)宜しければ何時かご覧頂ければと思います。
    「大和王権初期の争乱③ 兄妹愛の悲話。沙本毘古王の乱」
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330655641004354

    編集済
  • トイレの神様……(違う)
    でも、まさかご本人も死してトイレの道案内をすることになろうとは思いもしなかったでしょうね……「臣不知罪」← 今も言ってそう……

    作者からの返信

    厠神と言えば加牟波理入道(がんばりにゅうどう)ですかね(違)

  • 金春秋=天智天皇はトンデモすぎて苦笑いですが、
    後世の人々がイメージを借りる意味で逸話を踏襲する——という線は有り得たりするのかな、と思います。
    なんと言えば良いのか、一種の肩書きにハクを付ける、みたいな感じでしょうか?

    まあ、実際どうだったか分かりませんが、似たような思考回路を持った似たような立場の人たちの趣味趣向も似通っている——ということかもしれませんが。
    (某IT企業の社長さん同士、なぜかサウナで経営方針語り始める……みたいなシチュエーションとか?)

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。

     仰る通りかと思います。例えば本文で取り上げた武烈天皇紀が殷の紂王そっくりの行いをしていた記述の様に、過去の人物のイメージを投影して大悪人のハク付けした例もありますしね。

     現在では失われてしまった文献(に登場する天智に似た人物)をヒントに蹴鞠のエピソードが生まれた可能性はあるかも知れません。その文献に金春秋の逸話が既に存在し、モチーフとしたという「推理」までは許容範囲なのかも知れませんが、だとしても流石に金春秋=天智天皇と断定するのは「推理」の上に「推理」を重ねた「妄想」という物ですよね(苦笑)


     あと今更で大変恐縮ですが、過去に素敵なレビューを下さり誠にありがとうございました!
     
     拙作には過分なことに、古博かん様からレビューを頂いてから徐々に★やレビュー、読者の方が増えていったかと思います。

     今後も素人なりにではありますが、多少なりとも古代史に関心を持つ方々が参考にして下さるものを目指して頑張りたいと思いますので、何卒宜しくお願い致します。

  • 最近バズった卑屈な奈良県民botさんのツイートによりますと、首塚とトイレが同等の扱いを受けているようで、まことに不憫な…
    https://twitter.com/nntnarabot/status/1681984277674860544?t=CYk6cMokU-emXnlprBqNjA&s=19

    作者からの返信

     これは酷いですね(;一_一)

     蘇我氏擁護派ではない私からみても一寸冒涜じみてるなと思います……。

  • 祇園祭は神功皇后の三韓征伐と深い関わりがあり、占出山は鮎を釣って征伐の成否を占う神功皇后の姿(宵山のアナウンスが三韓征伐を衆知の故事のようにしれっと述べてるあたりが京都人らしくて笑えます)、前祭ラストは船鉾(三韓征伐に出かける船)、後祭ラストは大船鉾(凱旋の船)です。なんでこんなテーマなのかと考えるに、八坂神社のホームページに、「牛頭天王は元々新羅の牛頭山で祀られていた神で」と書かれていて、だから朝鮮半島絡みのネタが多いのかなと愚考しました。時折、祇園祭は韓国起源と喜ぶ韓国人がいますが、本当にお前それでいいのかと。祭祀を引き継ぐとは正統性の主張であり、元は朝鮮半島の神として、それを祀っていいのは日本という話になるぞと。先日前祭見物をしてきまして、それを思い出しました。

    作者からの返信

     おお、祇園祭に行かれたのですね!
     良いですね~楽しまれたようで何よりです。私も一度は見てみたいです。

     牛頭天王に関しては大昔に川村湊氏の著書を読んだ程度(今だったら絶対にこの方の本は読みませんが)で、記憶も殆どありませんが、後世に習合する素戔嗚尊も一時期朝鮮半島に居た描写がありますから(確か平田篤胤か本居宣長あたりはこの話を基にした素戔嗚尊朝鮮起源説に対して激怒して否定しました。自分も『出雲国風土記』に描写されている牧歌的な伝承が本来の素戔嗚尊の姿であり、半島由来ではないと思いますが)牛頭天王も朝鮮半島経由と考えられたのか、あるいは事実その通りなのかも知れませんね。記紀の時代には既に幾つかの渡来神が伝えられていますし。

     しかし、感想はそれぞれとはいえ、確かに仰るように日本で祀る正統性を認める事になるにもかかわらず、韓国起源だとしたら何故嬉しがるんでしょうかね?

     例えば津堅島のマータンコーの伝承が本土の八岐大蛇由来だとしても全然嬉しくないですけどね。(何故か民俗学者は逆に解釈してますが源氏が関わって来る辺り、どう考えても本土の影響下で近世に出来た伝承としか思えません)

     それに日本の神々が朝鮮半島だけでなく、中国江南や東南アジア、果てはギリシアや、ウガリット、ケルトと言った遥か彼方の地にまで神話に類似性がみられますし、何も朝鮮だけが特別だった訳でもありませんしね……。

     牛頭天王よりも以前、日本に伝わった古い朝鮮文化は葛城ソツヒコが朝鮮半島から連れ去った人々によるものとも言われていますし、騎馬民族文化は神功皇后が新羅王を「馬飼」とした史実の反映という私見からすると、寧ろ起源説は不名誉なものと思うんですけどね……。

  • 武術はあまり詳しくありませんが、二人の相撲(勝負)で私はカポエラをイメージしました。(あれも、脚技をデフォルメした踊りだって聞いた記憶が)
    やはり、腕での殴り合いよりも脚の方が間合いも広いし一撃が重たい攻撃になるという認識でしょうか。
    ある意味、体幹さえしっかりしていれば、非常に理に適った戦闘方法なんですね。

    私の知人にも日ユ同祖論信者(笑)がいるので、この手の話をよく聞かされます。
    古代のヘブライ語と現代日本語を比べるのは如何なものか、と思いつつ受け流しています。(この当時の日本語と現代日本語もだいぶ隔たるのに……)

    作者からの返信

     カポエラは仰るように踊り的な要素が強いイメージなので実戦的には如何なのかな? という疑問があるんですよね。(格闘技的には無駄な動きが多いので。。。あと足技のみの格闘技は足払いや、現代だとローキックやカーフキックに脆いイメージです)

     確かに脚力は腕力の三倍か四倍と言われており(どうやって測定して比較するのか疑問はありますが)一撃が突きよりは重いのは間違いないです。只、手の方が器用なので色々な攻撃が可能な為、どちらも一長一短あります。

     現代の話ですが、少し前までの総合格闘技ならば、蹴りはキャッチされやすく、片足立ちになる事でテイクダウンされやすいのであまり使わないのが普通でしたが、寝技が得意であればテイクダウンされても問題ないので近年は積極的に蹴りを使う選手も増えていますね。

     最もこれは現代の話で古代の格闘がどの様なレベルであったのか、本文から判断するとあまり発達していなかったのかな? と想像しています。

     これならば相手の正面に立たず、サイドステップして攻撃を躱しつつ蹴り足を取り、足払いでコカして上からマウントポジションを取れば、あとは好きに料理できるのではないかと。まぁ現代格闘技の知識で語っても仕方ないですが(笑)


     相撲に関してですが、初見は以下の記事になります
    ・『国史大系 第1巻 日本書紀』252ページ左端
    https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/134

     この様に相撲は「スマヒ」と古訓がふられており、少なくても「スモウ」読みとは関係無いんですよね。

     日ユ道祖論は何故か保守系の方が唱えている場合が多いのですが、萬葉集が朝鮮語で読めるというトンデモと発想が同じなんですよね。(それ以前に保守なら原文かせめて訓読文ぐらい読めと文句の一つも言いたくなりますが)

     仰るように古代のヘブライ語と現代日本語、そして現代日本語と古代日本語では大きく異なります。

     それに現代の字母数が50音ですが、奈良時代には濁音節を含めて88音節存在した事が言語学者の橋本進吉により証明されているので、軽々しく外国語の発音で比較できないものですけどね……。

     コメントありがとうございました!

    編集済
  • はじめまして。
    知っててやらないのと、知らないでできないのは大きな隔たりがありますよね。

    歴史関連は好きなのですが体系だった勉強はしてません。
    特に著者判別をしないで乱読したので、そういう意見もあるのだなという印象で、知っていることが知識であるか怪しいところです。

    他にも小説で見知ったこともあるので、きっと正しくない事もボロボロ出てきそうで怖い^_^;

    何より義経→モンゴルとか光秀=天海とか浪漫を楽しむ小説があって、検証による学術的事実を論じた書籍もあって。
    明確な線引きを認識している事が大事なんですね。

    作者からの返信

     はじめまして。コメントありがとうございます。

     大抵の場合、歴史に興味を持つ入り口は小説、あるいはドラマなどの創作だと思うので、それ自体は悪くないと思いますが、それらの印象に引きずられてしまう事は多いかも知れませんね。

     ポイントとしてはやはり本稿で取り上げた様に在野の研究家ではなく、大学教授のような専門家の知見のみを参考にする事でしょうか。
     ですが、専門性が高い専門家の論文を読むのは困難なので、まずは本エッセイで取り上げている様な論文を参考にすると理解の助けになるかも知れません。

     後程取り上げています「初学者が先ず参考にすべき論文・井上光貞『帝紀からみた葛城氏』」は古い論文を対象にしていますが、基本的な調べ方・考え方は今でも参考になるかと思います。

    編集済
  • 目弱王のお話は、古事記の中でもかなり印象深かったですね。

    ちなみに私は、沙本毘売命の話が好きです。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。
     
     狭穂姫に関しては、後日、上毛野氏に関する日本書紀の伝承を取り上げる予定ですが、その一部に狭穂彦の乱も含まれており、少し紹介する予定です。まぁ、上毛野氏研究がメインになる予定なのであまり関係ないのですが……。

  • このあたり、漫画などを鵜呑みにして真似て書いてる人もいるだろうな〜と思うこともあったり。
    まだ現代人に馴染みやすい〇〇天皇表記の方が納得は行くんですが、「ありふれた書き方はイヤ」という理由だけで奇を衒ってしっちゃかめっちゃかな書き方する人もいるのが創作界隈なので(´;ω;`)

    作者からの返信

     小説や漫画ならまだしも、一応専門家を装った人の研究書に神武大王と書かれていたのでビックリしましたね。

     個人的な分類としては、創作物であれば時代にあった表記(これは別稿「文献から見る「大王」から「天皇」への変遷」でヒントを出しています。)。論文であれば天皇表記にするのが無難かなとは思います。まぁ、講談社学術文庫や中公クラシックスの『日本書紀』の現代語訳では本文中に漢風諡号を使っているので、現代語訳しか読んだ事の無い方は漢風諡号を創作に使用してしまう場合もあるのかな? とも感じますが。

     私の場合、創作では例えば万葉集風に
    ・地名+(漢風諡号)
    例:泊瀬朝倉朝御代(雄略天皇)
     あるいは
    ・尊号又は和風諡号+(漢風諡号)
    例:大泊瀬幼武(雄略天皇)
     みたいに()内に漢風諡号も表記してました。

     記紀以前の時代の創作を行う場合、表記もなるべく記紀以前の物、例えば「武蔵」は「无耶志」といった用字を使うなどしていたのですが、これも分かりずらそうなので、これらも後ろに()をつけて日本書紀の表記を付け足すか、別所で解説を加えていましたが、だったら氏やカバネを表記するのはまだ先の時代に物部連やら大伴連やら書いていいのか? と言うところは都合よく『日本書紀』に準拠して表現したりしてました。(苦笑・まぁ氏を省略すると誰だか分かりずらいのも確かなので)

     余談ですが、垂仁天皇の和風諡号の活目入彦を『上宮記』風に伊久牟尼利比古と表記してしまう癖があって、ある方のレビューでもつい「イクムニリヒコ」と書いてしまった事があるのですが、誤字と間違えられないかちょっと不安です。

    編集済
  • この「歴史的に見ておかしいのだけれども、正しい情報は読者(ユーザー)の大半が知らない・馴染みがない」というものは扱いが難しいですよね(´;ω;`)

    少し前の大河ドラマでも源義経のキャラクターを平家物語や吾妻鏡に準拠したものにしたらクレームが殺到したという話もありますし……

    結局異世界に逃げてしまうチキンな私( ̄▽ ̄;)

    作者からの返信

     コメントありがとうございます!

    >この「歴史的に見ておかしいのだけれども、正しい情報は読者(ユーザー)の大半が知らない・馴染みがない」というものは扱いが難しいですよね(´;ω;`)

     全くその通りで、私も個人サイトで雄略即位前紀を舞台にした二次小説を書いた時、例えば大和国は半分が葛城国だったので、マヨワの王等が逃げた込んだ地域(後の所謂「葛城高宮」辺り)を葛城国と表記すべきか迷ったりした事もありますが、そんな事余程詳しい人じゃないと知らないのが普通ですし、他にも一般読者に通じるか分からない事で妥協したシーンが幾つもありましたね。

    >少し前の大河ドラマでも源義経のキャラクターを平家物語や吾妻鏡に準拠したものにしたらクレームが殺到したという話もありますし……

     そうだったんですか? 知らなかったです……。という事は義経記に出てくるようなキャラにしないとウケないという事なんですかね……。

     大河ドラマと言えば、秀吉関連の作品などで弾圧されたキリスト教にやたらと同情的だったりするのですが、当時のキリスト教国による非道で世界中が欧州の植民地化された状況や、大友宗麟等キリシタン大名が日本人を海外に奴隷として輸出していた事実を知っていれば秀吉等による弾圧は当然なのに、そういうシナリオを見かけないのは、取りあえず権力者は叩いておけという安易な製作者の意識によるものか、それともキリスト教関連団体のクレームでも恐れているのかと思った事がありますね。

    編集済
  • 「上代説話辞典」は実家に置いて来ちゃったな~
    「謎解き日本神話」は読み物としても面白いですね。久しぶりに引っ張り出してきて読みたくなりました。

    作者からの返信

     「上代説話辞典」は勿体ないですね~小説をお書きの場合はネタの宝庫なので。御実家にお帰りの際は是非とも回収してくださいませ。

     神話学に関しては、松前健先生の影響を結構受けてます。天照大神の原型が尾張氏のアマテル神という考え方は、成程、考えてみれば風土記に天照大神って殆ど出てこないから結構新しい神なのかな、という自分の憶測も相まって納得した覚えがあります。

    編集済
  • 必読文献リスト、本当にありがとうございます。
    知識を投げ与えるのではなく、学び方や考え方を提示していただけるのが自分で論文読み漁るタイプの人間には本当にありがたいです。

    作者からの返信

     こちらこそそう言って頂けて嬉しいです!
     近年はネットで調べれば解った気にはなれるかも知れませんが、やはり専門の論文を読み解いて思考を辿る事により真の理解に繋がるのかなと思いますので、
    論文を読み漁る姿勢は素晴らしいと思います。

  • 記紀周辺の文献(国内)への応援コメント

    こういった文献リストは本当に助かります。
    昔読んだけれどもうろ覚えのものばかり(;'∀')
    恥ずかしながら未読もありますね。
    まだまだ勉強が足りないなぁ……

    作者からの返信

     いえいえ。
     現役の学生や専門家でもない限り、数年も読まなければ記憶から抜けていってしまうものかと思います。
     私も昔書いた小説の解説などでこんな事書いたっけ? という事がよくありますので(;^_^A

  • 「通説を知らないと通説に対する反論や反証もできない」というのは古代史に限らず世の真理ですね。
    「分野を問わず、単純でわかりやすく断言の多いものほど疑ってかかった方が良い」という基本を教えてくださったのは義江彰夫先生だったような。(学生の頃、学部も違うのに研究室に入り浸っていました)
    たまに「日本史の集大成」と言わんばかりの宣伝のされ方をして皆さん持ち上げまくっているけれども、出版コードを見てみるとジャンルが「一般文芸」となっているものもあるので要注意ですね。

    もっとも、創作をする際は「トンでも」とわかったうえであえて取り入れることもありますが。

    作者からの返信

    >「通説を知らないと通説に対する反論や反証もできない」というのは古代史に限らず世の真理ですね。
     仰るとおり、例えば近年のコロナ騒動などでも専門家かどうかよく分からん人が書いたSNSの内容を良い歳の大人が真に受けたりするのか? と言った感じですよね。

     なんと義江彰夫先生に師事された事があるのですか。羨ましいです。
     歴史学なら井上光貞先生、民俗学なら谷川健一先生に教わりたかった……という願望も今となっては叶いませんが、せめて大学に入りなおしてキチンと歴史学学びなおしたいと、たまにそんな夢を見ます(苦笑

    >もっとも、創作をする際は「トンでも」とわかったうえであえて取り入れることもありますが。
     小説ではアリかと思います。私も昔個人サイトに書いたのは物部王朝説を取り入れ、呪術の類も登場するファンタジーですから(苦笑)

     只、例えば手塚治虫の『火の鳥』みたいな影響力があると困ったものです。
     手塚の影響を受けたっぽい荻野真の『孔雀王退魔聖伝』などは絶対作者が古事記読んだ事無いでしょ? というレベルの間違えをしていましたが……。
     あと古代では無いですが、大河ドラマ『麒麟が来る』で明智光秀=天海説らしきものが登場したらしいですが、いやいやNHKがトンデモ取り上げてどうするんだ? と呆れましたが、大正時代には既にコケにされていた様な説を未だに信じている人が多いことに愕然とした事があります。

    編集済
  • 初めまして。
    「野生の編集」企画から参りました。
    「騎馬民族国家説」、小学生の頃に夢中で読んだ記憶があります。
    そして大学に入ってとっくに否定されていることを知り、がっかりした記憶も(笑)
    こういった極端でセンセーショナルで、少し浪漫を感じるような珍説は物語としては面白いので一般受けしやすいですよね。
    逆に言えば面白さや表面的な辻褄合わせだけを追い求めるとだまされることになるのだと痛感したものです。

    作者からの返信

     歌川ピロシキ 様
     初めまして。
     コメントありがとうございます!

     私は子供の頃は戦国マニアで、古代史には興味が無かったのですが手塚治の『火の鳥』でみた卑弥呼が天照を準えてていたり、神武が騎馬民族の首長という設定の話をみて何と無く信じてしまっていた事があります……。

     以前の職場でもおばちゃん社員が「天皇さんって海外からやって来たんでしょ?」とか、イギリス人上司も「何処の国も海外から侵略者がやってきて占領して国を作った」云々。いや、アンタの国が一部占領しているアイルランドの神話『侵略の書』とかそうかもしれないけど、日本じゃそんな記録ないし、そもそも佐原眞が30年も前に日本で去勢習慣が無かった事を証明して歴史学的に否定されているという話をしても分からないだろうなと思って聞き流した事があります。

    >こういった極端でセンセーショナルで、少し浪漫を感じるような珍説は物語としては面白いので一般受けしやすいですよね。

     そうなんですよね……聖徳太子が居なかった、あるいは蘇我馬子などに当てる説等はその最たるものですが、騎馬民族説の亡霊で応神が渡来人やら、日本書紀で都合の悪い事実は藤原不比等が全て隠しているだの、ブッ〇オフに並んでいる本はそんなのばっかりでしたね。
     偉人や有名人を貶める事にカタルシスを感じる人はどの時代にも居るのでしょうし、自分がそうではないとも言い切れませんが、それを厚顔にも飯のネタにするのは週刊誌の類と変わらないのかなと思ったりしています。

    >逆に言えば面白さや表面的な辻褄合わせだけを追い求めるとだまされることになるのだと痛感したものです。

     全くその通りですよね。小林惠子の説が奇想天外と言って賞賛している方が居ましたが、奇想天外って事はそれだけ事実から遠いって事かと思うんですよね。(いや、皮肉だとしたらセンスがあるのですがw)

     入り口としては面白い説(私の場合は鳥越憲三郎氏等が唱えた物部王朝説でした。今では全く信じてませんがw)でも良いとは思いますが、そこでとどまっていてはいけないという事でしょうね。

    編集済
  • 学識がある層は天皇を使い、学のない庶民は従来通りのおおきみを使う…というルールを設けると、武勲をあげて庶民から出世した近衛がついおおきみという単語を使ってしまい、貴族からバカにされる…というフレーバー描写ができそうですね。

    作者からの返信

     成程、その発想は無かったですね。参考になります。
     只、万葉集を見る限り、山部赤人あたりならとにかく、持統天皇や大伴家持等、身分が高い人物も使っているので、大分後世になってから「時代遅れ」っぽくディスる表現にする必要がありそうですが。

  • 後に人代に遡っておくられた漢風諡号に基づき○○天皇ならわかる…いわゆる公式表現だし、何より短いし、誰か把握しやすいという利点はある。
    ○○大王ってどういう感覚やねん…やまとことばか漢語表現かどっちかに統一しろ…
    あ、この気持ち悪さ、いわゆるルー語だ…

    作者からの返信

     〇〇大王と書きたがる学者の意図はまぁ察しますよね。
     仰るように一般的には〇〇天皇の方が理解されやすいですよね。

     只、漢風諡号が使われる以前の天皇が登場する創作などでは、うっかり漢風諡号を使わない様に注意しないといけませんね。ある漫画で、ヤマトタケルの時代の話で作中の人物が「景行天皇」と語るのが違和感ありまくりでした……。

  • 騎馬民族「出身の移民/流民」ならいてもおかしくないけど、日本史そのものが狩猟採集、後に農耕、圧倒的農耕…であって、騎馬民族の生き方…全財産と一族抱えて移動、が全くないんですよね…「支配者層には」。

    作者からの返信

    @taaaaaaah様

     コメントありがとうございます。

     江上波夫は「ミマキイリヒコ」が本来は任那の名を付けたからという紀の解釈を曲解し、任那から来た人というトンデモ解釈に結びつけてますが、敗戦時のGHQ支配下に置かれた時から似たものと妄想してしまったようですね。他にも神話学者が天孫降臨神話を騎馬民族の神話に似ている事で結びつけることで無理やり天皇家を騎馬民族と結びつける様な姑息な手法も行われましたが、日本神話は何も朝鮮、中国だけでなく東南アジアの神話がモチーフのものもあるので、それらの模倣神話の一つに過ぎないので、それを以って民族のルーツを探るのは無理がありますよね。

     考古学的には騎馬民族がもたらしたであろう馬具や装具は見つかっていますが、広開土王碑文にあるように高句麗に敗北した理由が高句麗の騎馬軍団によるものであり、以降、倭国が騎馬による戦闘手段を得る為に騎馬文化も取り込んだと言われてますね。応神紀あたりから渡来人の記事が増えてきますし、新羅王を「馬飼」としたのは新羅から馬を得る意図もあったのではないかと思っています。


  • 編集済

    捜神記といえば、これをもとにした『千年狐』というマンガを最近読みました。知性とユーモアに溢れていて凄く面白いです。

    鬼ごっこにはそんな由来があったのですね。確かに理に適っているようなと思う話です。

    作者からの返信

     情報のご提供ありがとうございます。『千年狐』は知りませんでした。今度試し読みしてみます。
     
     まさか『捜神記』の漫画があるとは……自分が小説のネタにしようとしていた作品があるかも?

  • 先ほどこちらにコメントしたのですが、追記するつもりが消してしまったので再度失礼します。

    「広開土王碑文」は馬の研究でよく見かけるのですが、このようなことがあったとは知りませんでした。

    ところで先ほどは詳しく書いていただき、ありがとうございます。
    丁度隼人と古墳に関する本を読んでいたので、良い補足になりました。

    ただ先ほど「南九州」と書いてしまったのですが、正確には熊本県北部(阿蘇や菊池川周辺)です。誤解を招いたようでしたら申し訳ありません。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。

     「広開土王碑文」は記紀の補足・批判資料として海外文献が限られる4世紀末から5世紀初頭期の貴重な資料として必ず取り扱われるものですが、もしかすると2005年以降の研究本では李進熙のトンデモは蓋されているかも知れませんね(笑)

     実は水狗丸様の作品も少し覗かせて頂き、個人的に大変興味深いテーマだったのでちゃんとした感想を書きたいのですが、時間が無いので後日感想を書かせて頂きますね。
     

  • はじめまして、水狗丸です。
    此度は「今更ながら『古事記』編纂1310年記念企画⑴」に参加させていただきました。

    最近日本古代史(特に主に南九州や馬関連)の勉強を始めたので、参考にさせていただきたく思います。

    作者からの返信

     水狗丸様。
     コメントありがとうございます。

     この度は自主企画に御参加下さり誠にありがとうございました。

     南九州や馬関係となると申し訳ありませんが当エッセイではあまり触れていません。
     昔個人サイトで隼人に関して若干小説を書いたことぐらいはありますが……。

     その為、コメント欄での説明となりますが少しでもお役に立てればと思います。

     九州というか隼人に関する所見ですが、井上光貞氏等の古い歴史学者の見解で、隼人に関する記事で史実とするのは天武天皇紀十一年(六八二)七月 甲午《三日》の記事の隼人が方物を持って貢し、大隅隼人と阿多隼人が相撲をして大隅隼人が勝った記事からとしており、それ以前の記事に関しては事実ではないという見方が一般的にされていますね。

     この考え方を取ると記紀に記された隼人の古い記事から事実を読み取るのは不可能と言う事になりますが、2015年に宮崎県えびの市島内字杉ノ原の島内139号地下式横穴墓で発掘された副葬品に衝角付冑・短甲のような大和王権との関りの深さを示す五世紀末~六世紀初頭頃の遺物が見つかっていて、この地域を支配していた日向諸県君《ひむかのもろあがたきみ》が大隅隼人等を服属させていたと思われるので、例えば以下のURLの稿で取り上げた敏達天皇紀に登場する三輪君逆が隼人を使って殯の宮を守らせた逸話なども事実だったのではないかと思っています。


    ・『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(12) 最後の大連 物部守屋①
    (『日本書紀』巻二十敏達天皇十四年(五八五)八月 己亥)
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700428210184598

     南九州というか隼人に関しての資料ですが、『延喜式』卷二十八兵部省 隼人司が詳しいかと思うので以下が参考になるかと思います。
    ・延喜式 : 校訂. 下巻(近代デジタルコレクションより)
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442231/133


     馬に関しても詳しい話……というかそもそも取り上げていないのですが(苦笑)、本稿と関わるネタで言えば、かつて江上波夫の唱えた天皇家の祖が大陸からやってきたという所謂「騎馬民族説」に関しては、佐原眞氏が日本の馬が騎馬民族の行うような去勢が行われなかった事実を指摘したことにより否定されています。

     これ以上はコメント欄としては余りにも長文になってしまうので控えますが、ご参考になれば幸いです。

    編集済
  • こうして本の名前や出版社やをご紹介いただけるのは大変ありがたいです
    ありがとうございます
    因みに、本屋で立ち読みするよく解らない歴史本は、個人の思想や考えが出ているものが多いので、お硬い目の人物設定の参考にしたり、歴史参考以外の楽しみ方と参考に使っています。
    自分じゃない人の脳味噌って解らないし高圧的だったり支配的な人とは直接会ったり話したりするのはリスキーなので都合よく使ってますよ

    作者からの返信

     コメントありがとうございます。
     勉強を進めていくと大体、どの説は誰が唱えたのか? 何という著作あるいは論文に乗っていた話なのか、通説か゚仮説か、大体分かる様になってくるのですが、歴史学も国文学も専攻した訳でもないので、最初はどんな本を読めば分からず、トンデモ本だと分からずに読んでいた時期もありました。
     そんな過去の自分に対する反省も込めて、他の方も同じような回り道をしない様に書籍の紹介と注意点、実際に文献資料の説明など行わせて頂いております。

  • 企画ご参加ありがとうございます。

    一部拝読しましたが、大変よく調べられており、もはや学術的に価値のある水準ではないかと感じました。
    資料の紹介やリンクが揃っているのは特に有用で、調べたい事が出来たときにどこを探せばよいか迷わないで済む、というのは非常に有益な事だと思います。

    世間では、割と根拠に欠ける話でも通用してしまいます。
    そもそも確認が面倒だから、というのが当然大きな理由なんでしょうが、間違った情報に基づいて、正しいはずのほうの意見が間違っていると批評を浴びる事もしばしばあって、とても残念に思う常日頃です。
    自分もそこそこ無精なのでつい確認を怠ってしまう事はありますが、せめて間違いと指摘された部分についてはちゃんと精査をして、その通りだったなら受容していくようにはありたいものです。

    作者からの返信

     当方、歴史学科を専攻したした専門家でもない只のITエンジニアですが、その様に言って下さり光栄です。

     仰るように面倒だし、そもそも何を調べれば良いのかわからず、人の話でも少しでも自分の考え方に近ければ、確認もせずに鵜呑みにしてしまうという事もあるのでしょうね。これは歴史分野に限らず、例えば近年のコロナ騒動などでも見受けられますよね。当エッセイはせめて古代史という割と情報が限られている分野で基本的に何を調べれば良いのか、程度の助けになればと思っています。

     歴史学者の通説を取り上げつつ別の根拠で批判をするという事も行っているので、当エッセイの全てが正しいとは限りませんし、典拠など情報がしっかりしている指摘であれば、私としても取り入れていきたいと思います。

     企画を立てて下さり、誠にありがとうございました。

  • また遊びに来ます!

  • ……
    津田左右吉
    小林行雄
    柳田國男
    位しか読んだことない><
    トンデモ本ならたくさんある!
    引用文献がないものは信用はしませんが。
    情けないなぁと思う今日この頃。。。

    作者からの返信

     天のまにまに 様
     コメントありがとうございます!

     私も昔、トンデモ本に騙されて創作をして今から考えると恥ずかしかった事があるので、反省を踏まえて本稿を書いた面もあります。基本的スタンスとしては通説を踏まえた上で歴史学者の批判あるいは支持という形を取っています。

     また、当エッセイでは有料・無料で閲覧できる基本文献のご紹介の他、最近はテキストのご紹介を重視していますので、何か一つでも参考になる事があればと思います。

     ☆及びレビューまで下さり、誠にありがとうございました!

  • 歴史好き企画から来ました。
    勉強させていただきます!

  • ここで書かれている心構えは、自分なりに大切にします。
    コメントを書くか躊躇ったのですが、自分に言い聞かせるつもりで書きました。
    お目汚し失礼しました。

    作者からの返信

     山支路亜紀 様
     コメントありがとうございます。

     この様な偉そうな事を言っている私自身も歴史学科に通った訳でもない素人なので(社会学科卒)、全くの独学なので専門家でも無いのですが、記紀の研究に関しては十数年程行っており、一つでも参考になる事があればと思い、本稿を書きました。

     いえいえ。お気づきの点などございましたら遠慮なさらずにコメントをして頂ければと思います。

     また、俵藤太草子につきましても☆を下さり、誠にありがとうございました。

  • また読みにきます

    作者からの返信

     みお様

     中々一度にすべてを読むのは大変かと思いますので、お時間がある時に少しずつでもご覧いただけたら嬉しいです。

     コメントありがとうございました!

  • 興味深く拝読しています。
    私はこのような厳密なエッセイは書けていませんので敬服します。

    作者からの返信

     吾妻栄子 様

     独学の素人が書いたエッセイでまだまだだとは思いますが、その様に言って下さりとても嬉しいです。

     プロフィールを拝見させて頂きました。「吾妻」がご出身地からおつけになられた名なのですね。
     奇しくも記紀では日本武尊が自分の身代わりとなって死んだ妃の弟橘媛を忍んで「あづまはや」と言った地名由来譚が伝えられていますね。

     コメントありがとうございました!

  • 武内宿禰は、存在が疑問視されていますね。
    もしかしたら、何人も何代にも渡って名前が受け継がれていたのかな、何て思います。そんな説も読んだことがありますので(*^^*)

    作者からの返信

     長月そら葉さま

     コメントありがとうございます。

     過去のコメントでも書いた事がありますが、恐らくその主張は宝賀寿男氏によるものでは無いかと思いますが、この方は所謂歴史学者とは違う在野の方なので残念ながら通説とは言い難いのですよね……。

     歴史学会の通説では別稿で述べましたように津田左右吉の七世紀に蘇我氏の影響で創作されたという説が有力で、(これに関しては本稿に書きましたように旧辞には既に武内宿禰の名は存在していたというのが私の持論です)他にも七世後半に活躍した「内臣」の中臣鎌足との関係を見るべきという岸俊男による説(こちらは無理があると個人的には思います)がよく言われており、いずれにせよ歴史学会では武内宿禰は実在の人物とは見られて居ないのが現状のようです。

     特に津田史観の方々は仲哀天皇以前を認めていないぐらいですから、家臣である武内宿禰も認めないのは彼らからすれば当然の姿勢と言えますが、神功皇后紀までは比較的日本書紀に好意的な解釈をしているように見える平林章二氏ですら実在を疑われているようですしね……。

     只、本稿で取り上げましたように実在性が高い葛城襲津彦以前の時代の遺構と想定される秋津遺跡の様な遺跡もある事と、過去に私が行った紀年の計算と時代が重なる可能性もあるので、葛城氏の祖と何らかの関係がある伝承が育まれる土台位はあったのかなと思っています。

    編集済
  • 長月さんと同じく、この辺りは「天上の虹」で読んで流れをだいたい掴んだという感じです。
    作者の里中満智子氏はこの話を「日本書紀」をベースにして描いておりますので、その隙間にどんなことがあったのか、は想像としても出来事等は忠実です。
    そしてまあ、あまりにあの作品のあの辺りのそれぞれの感情の動きが上手く描かれているので、持統天皇が仕組んだとはあまり考えにくい方に自分は偏ってしまっています(笑)。
    また長岡良子氏も「古代幻想シリーズ」で描いておりますが、こっちは人ならざるものもある世界ですので、行人が悪霊的なものに突き動かされている+新羅が大津に亡命を勧める等生臭さもあります。
    何にしてもあの辺りは面白いですね。

    作者からの返信

     成程、色々な作品で取り扱われているんですね。
     「古代幻想シリーズ」の新羅が大津の亡命を薦めるという発想はありませんでした!
     そういう解釈も出来るとなると面白いかも知れませんね。

     因みにNHKで放送された「100分de名著」にも登場した大津皇子を主人公とした折口信夫の「死者の書」ならデジタルライブラリでも閲覧できるようですね。
    https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1134872

    ・松岡正剛氏の紹介。
    https://1000ya.isis.ne.jp/0143.html

  • そう言えば「日出処の天子」は大王を使っていましたね……
    「大王」もですが、「大后(オオキサキ)」も持統天皇以来見なくなった様な気がするのですが、やはりこの辺りに制度が変わったせいですかね……

    作者からの返信

     「日出処の天子」は知らなかったのでWikiで調べてみましたが、1980年代の作品なのですね。
     「大津皇(子)」木簡が発見される少し前に連載が終了したようですが、その頃から「大王」説が有力だったのですかね。

     「大后」に関しましては律令制度が整うと後宮の制度も整い、儀制令・後宮職員令では天皇の妻は「皇后・妃・夫人・嬪」の身分に分けられたそうで、それが日本書紀にも影響を与えたかも知れません。

  • 本当に、これなら確かに現実的な統治年数ですね!

    作者からの返信

     ありがとうございます!

     長月そら葉様へのコメントでも申し上げましたように、神功の時代の記事が120年ずれているという定説と倭の五王の時代などは今回の計算で海外の文献と矛盾しないのが分かっただけでも自分にとって大きな成果だったと思います。

     只、清寧即位を起点とする根拠が薄弱なことと神功以前の史実性についての検証も今後の課題かと思っています。

  • 上代の年代の推測方法への応援コメント

    自分は竹田氏の番組を楽しく見ている方なのですが(笑)、そう言えば彼もこの春秋一年ずつ歳を数える説のことを言っていたことを思い出しました。
    なるほどそれならつじつまが合うよなー、と。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます!
     私が参考にしたのは参考文献にもあげている『古代天皇はなぜ殺されたのか』(八木荘司 角川書店)と言う著書で、多分保守系の方にはよく読まれている書籍なのかも知れませんが、自分が知る限りでは八木氏が一番古い主張だったかと思います。
     日本書紀でも「歳」の事を「春秋」と表記しているので割と事実に近いのではないかと思います。
     只、保守系の方々が実際にこの説で計算して、具体的に誰の治世がどの年代に当たるか、紀年を当てているのを見た事が無いんですよね……。

     竹田氏は騎馬民族説の否定をする際に余程佐原真の名前を出したくないんですかね……「古事記に馬が出てこない」じゃなくて保守系の方が良く主張している「古事記には馬に乗っている天皇の描写が出てこない」と間違えてるんですよね。
     でも履中天皇記に墨江中王が謀叛を起こした時、阿智直が天皇を助けて馬に乗せる描写があるんですよね……。(これを騎馬民族と結びつけるのは流石に無理がありますが、保守系の方も読み込みが足りないと思うので……。)

    編集済
  • 自分は原文+注釈型が好きなので岩波の茶表紙の古事記と緑の日本書紀を揃えております。あの辺り面白いですね!

    作者からの返信

     江戸川ばた散歩 様

     コメントありがとうございます!

     そうですよね。面白いですよね。(^^♪

     特に岩波日本書紀は毎回読むたびに新しい発見があります(苦笑

     一時期は毎日日本書紀を読んでから寝ないと落ち着かないという日々がありまして、2巻が家の中で見当たらなくなった翌日に同じ巻を買った直後、同じ巻が家の中で見つけたと言うアホな経験がありますw

     もしかするとご覧になられたこともあるかも知れませんが、岩波日本書紀を嗜まれる程でしたら、西郷信綱の『古事記注釈』辺りがお勧めかも知れません。
     考古学的な視点が欠落していたり思想的な偏りが見られるので読んでいて抵抗もありますが、古事記関連の解説書では最も詳しいかと思いますので、宜しければご覧ください。

     あと講談社から50年ぶりに新釈全訳の日本書紀が発刊されたそうです。
    https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000321148

     『本居宣長「古事記伝」を読む』の著者、神野志隆光氏等が関わっている著書ですが、岩波版日本書紀の編集メンバーに比べると正直ウーンという感じで、何より1~7巻の内容で4500円は高いですが読んでみたいですね。

  • 大津皇子の逸話のほとんどを何となくは知っていて、どうして知ったんだっけと思い直してみれば、マンガ『天井の虹』が実家にあったことが原因だと思い出しました。
    丁度、大津の謀反も描かれていましたからね。

    わたしは大津は持統天皇によって嵌められて殺されたんだと思っています。拙作でもその道筋は変えずに行こうと思っていますし。
    あまりに有能な人がそこまででもない正統後継者と共にいると、何かが起こるのは仕方のないことなのかな、と残念に思います。

    作者からの返信

    長月そら葉 様

     コメントありがとうございます!

     たまたま書き溜めていたテーマ(過去に創作の為に日本武尊の研究をしていたらやたら大津皇子に重ねたがる学者が居るので大津をテーマにしました)と御作が被ってしまったようですし、御作についてもまだすべて読んだわけでは無いのですが、「小説」における表現は各人の自由かと思いますので特に人様の作品の書評についてこちらで触れる事はありませんのでご了承ください。(あくまでこちらの批評は研究者や論文、典籍、市販の書籍等が対象なので)

     まぁ、結局のところ誰のせいなのか分からないと言うのが本稿の結論なので人様の作品に口を挟む余地も無いのですが……。

     『天井の虹』は知りませんでした。大津が描かれている漫画もあるのですね。情報ありがとうございます。

     大津が主人公の作品と言えば、民俗学者で万葉集の研究でも著名な折口信夫の『死者の書』が家にあったのですが、片付けで大して読まないうちに処分してしまいました(滝)

    編集済
  • 成程。どちらも使われていた例があるのですね。
    統一されて「おおきみ」が使われなくなるのは、もう少し先の様。ちょっと安心しました(;^ω^)
    お調べいただき、ありがとうございますm(__)m

    作者からの返信

    長月そら葉様

     コメントありがとうございます!

     前回返信からもう少し早く今回の投稿が出来れば良かったのですが、中々投稿出来なくてスイマセンでした。

     いえいえ! こちらこそ、良いテーマが書けたので良かったです(^^♪

     因みに次回投稿予定のテーマは大津皇子となります。(笑)

     宜しければご覧ください。

  • 「天皇」の称号についてへの応援コメント

    そういえば、天武朝にて天皇号が使われ始めたとの説が有力者でしたね。
    ……ということは、拙作にては大王(おおきみ)よりも天皇と称した方がより史実に近いことになります……ね?
    不確定要素でしたので、より古い言い回しであろう大王を使っておりましたが(^_^;)

    作者からの返信

     長月そら葉 様

     コメントありがとうございます!

     良い質問ですね~(池上彰風)

     御作の『春待防人物語―今と過去、ふたつの約束―』事かと思いますが、結論から言えば大王が無難です。

     只、物語の舞台が丁度大王から天皇へ称号が変化する過渡期なので判断が難しい(律令制定前か後か等)のは確かでしょうね。

     文献を元に何時頃からか判断するとしたら『日本書紀』では神武天皇紀には既に「天皇」の用例がある為、当てにならないのですが、『万葉集』が参考になるかと思います。

     という事で次稿のテーマが決まりました(笑)

     今回のエッセイがあまりにも教科書的で面白くない内容だったので、次回に繋がる良いネタになりました。ありがとうございますm(__)m

     詳細は次稿でご説明致しますので宜しければご覧ください。 

  • 目弱王のお話、最初に読んだ時は彼が大人の寝首をかけることに驚いた記憶があります。結構骨って固いと思うのですが、頸動脈さえ切ればいけるのかなと。

    わたしは『古事記』全体が好きですが、特に弟橘姫と月読が好きです。
    弟橘は日本武尊の為に海に身を投げ死んでしまいますが、彼女の背景に興味があります。
    月読に関しては話が少なすぎ、反対に「何かあったのではないか?」と勘繰ってしまうのです(笑)

    作者からの返信

    長月そら葉さま

     コメントありがとうございます!

     『古事記』だと首を切って、『日本書紀』だと刺し殺しています。この表現の違いに何か意味があるのか分かりませんが、いずれにせよ7歳の子供には難しい気がしますよね。

     只、極楽寺ヒビキ遺跡で焼けた建物の跡が発掘されて、それが『日本書紀』で焼き殺される描写があったマヨワやツブラノオホミが焼き殺された場所じゃないかと言われていて、少なくてもマヨワの皇子の叛逆が史実だったんじゃないかという説もありますよね。詳細は以下の小説の補説部分に書いてます。
    http://aoishiro.html.xdomain.jp/akaiito_ss/kurenaitumugi_uduki_gaidenn6.html

     彼の有名な『古事記注釈』で西郷信綱は散々ディスってましたが、私はこの逸話のツブラノオホミが大好きですね。


     さねさし さがむのをのに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも

     上記弟橘姫の歌は古事記で好きな歌ですね。実は過去に弟橘姫が登場する二次ゲームを作成した事もありますw

    https://www.youtube.com/playlist?list=PLzp5ofQVULfNz-fHdzmINNZ0B6Pnj52fx

     月読に関する考察でしたら松前健の『謎解き日本神話』(大和書房)が詳しいかと思います。

     私が過去に調べた月読関連ネタなら以下にありました。

    http://aoishiro.html.xdomain.jp/motoneta/wotimizu.html

     万葉集の歌なので一寸神話と関係ないですが、宜しければご覧ください。

    編集済
  • 紀年についての纏めへの応援コメント

     はじめまして。
     珍しいなと拝見したのですが、熱の入った解説ぶりにワクワクしました。
     こうエネルギッシュで、真剣に資料を集めて考察、解説されていて、読んでて心地よかったです。

    作者からの返信

     上野文 様

     はじめまして。
     コメント及び☆を下さりありがとうございます!

     古代史関連の小説はカクヨムにも多いようですが、文献や書籍紹介、考察は確かに少ないかも知れませんね。

     専門家ではないので手探りなのですが、その様に評価して下さり嬉しいです。

     どうしても私の興味の向くままのテーマになりがちですが、今後も興味を持っていただけるようなエッセイを書けるように頑張りたいと思います!

  • 計算、お疲れ様でした……m(__)m
    なんていう、簡単な言葉しか出てこないのですが。

    武内宿禰は何代目武内宿禰みたいな人がたくさんいたのかな、と思っています。そうでないと、300年の半分の150年すら怪しさ満点ですから(^_^;)

    作者からの返信

     長月そら葉 様

     コメントありがとうございます!

     疲れましたが、神功の時代の記事が120年ずれているという定説と倭の五王の時代などは今回の計算で海外の文献と矛盾しない事が分かっただけでもやった甲斐があったと思います。

     まぁ神功非実在説どころか、仲哀以前も認めない歴史学会の定説や津田史観に縛られ、こんな事しても中々受け入れられる方は少ないかも知れませんけどね(苦笑)

    >武内宿禰は何代目武内宿禰みたいな人がたくさんいたのかな
     現在手元に無いのでうろ覚えですが、宝賀寿男という方が確か葛城氏に関する書籍で同じことをおっしゃられてました。
     私も歴史学会に対する疑問は宝賀氏と大体同じ想いなのですが、アプローチの仕方は違いますけどね。

    編集済
  • 上代の年代の推測方法への応援コメント

    確かに160歳やら200歳越えやらと、人間の年齢ではありえないような年齢で亡くなる天皇が何人も記載されていますよね。
    それでも、2倍の年齢だと言われれば「確かに、それなら」と納得できそうです。
    人間は125歳を越えると脳が溶けてしまうから生きられない、と以前テレビで聞いたことがあるので疑わしく思っていましたから(^_^;)

    作者からの返信

     長月そら葉さま

     コメントありがとうございます!

     『古事記』の最長寿は崇神天皇の168歳、『日本書紀』の最長寿は140歳の垂仁天皇、あるいは『日本書紀』の計算ミス(本文参照)で景行天皇が実際は143歳崩御のようですね。
     まぁ天皇じゃありませんが武内宿禰の300歳オーバーだけはどうやっても説明が付きませんけどね(個人的には葛城氏数代に渡る伝承が一人の人物に纏められたのではないかと思ってます)

     脳が溶けるんですかΣ(・□・;)
     125歳生きた人間が有史上に存在したのか分かりませんが、そういう事が分るという事は実例があるのですかね
    (;一_一)

     歴史学会でも無視されているので、魏略の注釈の内容はあまり知られていないのですが、次稿では計算の結果、海外の文献と比較してかなり史実に近そうな年表を割り出しましたので、宜しければ次稿もご覧ください。

    編集済
  • このたびは当方の企画〝歴史好き集まれ〟にご参加下さり誠にありがとうございます。古事記、日本書紀読んでみます。やっぱり歴史好きとしてはそこからですよね

    作者からの返信

     アサシン様。

     コメントありがとうございます!

     日本の歴史書は記紀から始まるので仰るように始めは記紀から読むのが良いのかも知れませんね。

     他にも当エッセイには創作者の方向けの書籍や用語解説もございますので、宜しければ参考にして頂ければ幸いです。

     こちらこそ素敵な企画を立てて下さり、誠にありがとうございました。

    編集済
  • 神武大王は違和感ですね……。
    ですが、色々と間違えていることはありそうなので、今後気を付けていきたいと思います(>_<)

    作者からの返信

     長月そら葉 様

     コメントありがとうございます!

     本当に神武大王って誰って感じですよねw

     私も今までのエッセイで間違えているところがあるかも知れないので(笑)
     因みに大学は社会学科出身で統計学やら国際関係論、政治学やらが専門で、歴史学は完全独学です。

     趣味で元々歴史は好きでしたが、記紀については大学出てから勉強を開始した感じです。

     なので、エラソーな事も書いてますが、軽く参考程度にして頂ければと思います。(*_*)

  • 記紀周辺の文献(国内)への応援コメント

    すごい!!

    私は戦国オタクです。
    当時の皆様は記紀を必須で学ばれているため、軍記や日記ではさりげない引用が多く、知識がないと奥の意味が取れないようで、悪戦苦闘中です。

    参考にさせて頂きます!
    資金の問題で、なかなか思うように揃えられないので、次回の休みには図書館で借りれるものは借りたいなと思いました!

    ありがとうございます!

    作者からの返信

     麒麟屋郁丸さま

     コメントありがとうございます。

     かつて身分が高い西欧人がホメロスの『イリアス』を読んでいたように、戦国武将の方も記紀を必須で学ばれていたのですね。納得です。

     歴史学者の武光誠氏は『古代史入門ハンドブック』(雄山閣)と言う著書の中で「日本古代史は、日本の歴史の流れの中の一部である事を忘れてはならない」「古代の史料と、中世・近世・近代の史料とを較べる事によって、古代人の発想の特性がより明らかになってくるはずである」と述べられています様に、研究している時代(戦国時代等の人)の目を通した記紀と現代人の見方は違ってくると思うので、麒麟屋郁丸さまのような視点は重要かと思います。(例えば当時は『先代旧事本紀』が『古事記』より古い時代のものと信じられ、重宝されていたこと等)私も昔は戦国ヲタクでしたが、近年は古代史に知識を全振りしておりましてもっと広い時代の史料も読むべきだと思っていましたので、幅広い分野を柔軟に学ばれる姿勢は素晴らしいと思います。

     本稿でご紹介させて頂いている書籍は割と図書館で読めるかと思いますので、少しでもお役に立てればと思います。

     また、既にご存じかも知れませんが「お金が無い! そんな場合、無料で典籍を読む方法」でご紹介させて頂きました国立国会図書館デジタルライブラリを使用すれば江戸時代辺りの古い資料も閲覧可能なので、きっと戦国史の史料を探すのにもお役に立てるのではないかと思います。

    編集済
  • こんにちは!
    参考になります!ありがとうございます😊
    続けて読ませて頂きたいと思います!

    それから、拙作にコメントありがとうございます…で、あの、ごめんなさい。
    私、レビューの強要みたいになってしまって…ブクマのお礼のつもりが…
    ほんとごめんなさい。お恥ずかしいです。

    作者からの返信

     麒麟屋郁丸さま

     コメントありがとうございます!

     私も専門家ではないのですが、何か一つでもお役に立てる情報があれば嬉しいです。

     いえいえ、お気になさらないでください。

     御作レビューにつきましてはコメント関係なしにもう少し読み進めた後に何れするつもりでしたので、お星さまの方が予定より少し早くついたぐらいに思って頂ければと思います(^^♪

    編集済