編集済
兄妹愛であり同族愛であり、当時のサホは、やはり独特の祭祀風習が根強かったのかなと偲ばれますね。
(異母はセーフでも同母はアウトの禁忌とはいえ、精神的繋がりと肉体的繋がりは別と言われたら何も言えない・苦笑い)
おそらくは一族の巫女姫(あるいは神事としての女王)的な立場の女性を新興勢力にとられているわけで、サホ一族にしてみればクニを蹂躙されたも等しいことだったのかなと思います。
サホヒコの「ほな、トコトンやったるわ!(ブチギレ)」行動にも、ちょっと短気で愚直な性格が垣間見えてきそうです(策を練りに練って素知らぬ顔してジワジワいくとか苦手そう)
そして、イクメの大王の執着心の凄まじさ……サラッと書いてあっても怖いです(笑)
「俺のヨメは俺のもの、お前のヨメも俺のもの」って言ってるのと変わらない……(そういう時代ですが)。
追記:
勉強不足だったなぁと改めて思ったのが、「八塩折」の紐小刀の部分、柔剛複層の鉄を何度も折り返して強度を出す玉鋼を連想するのですが、この当時から日本刀の原型が完成していたのかと驚きました。
この頃ってまだ大陸由来の鋳型が主流だと思っていたので、改めて刀剣についても調べ直さないと、と思いました。
作者からの返信
本稿でも少し取り上げた様に、この兄妹の行いをヒメヒコ制と捉える向きが有力の様ですね。魏志倭人伝の卑弥呼が祭祀を司り、政治は弟が行うような体勢、つまり女性が祭祀を司り、男性が政治を行うような体制をヒメヒコ制と言いますが、この体勢を取っていたと思われる記述が、神武天皇~神功皇后紀で討伐される皇族・豪族にしばしばみられます。ヒメヒコ制の豪族が討伐される側にある事は、即ち弥生時代の名残であるヒメヒコ制の終焉を示唆するとも言いますね。
「八塩折」に関しては古事記諸本の注釈書を参考に訳しましたが、他にも染物や酒にも使われる言葉で、折口信夫の万葉集辞典によれば「手のこんだ染め方。濃紺染めの色合い」「手のこんだ容子を表す体現」とも言うらしいですね。考古学的に妥当なのか、確認してみようと思いますが、その手の内容に詳しい本(『増補版 古代刀と鉄の化学』石井正國・佐々木稔 雄山閣)がちょっと散らかってて見当たらないので、確認できたら追記します。
非常に面白いです。沙本毘賣からオナリ神の話が紹介され、玉作から子名必母名の習慣にまで言及されています。
玉作というのは、弥生時代だけでなく縄文時代にまでさかのぼる技術かと思いますが、アミニズム的な宗教世界で「玉」というものが重要視されていたのでしょう。この呪術的な世界では、女性の存在が特徴的だと感じます。卑弥呼にしてもそうですが、女性が社会を統べている例が散見されます。
特定の文献は無いのですが、古代では子供を産むという女性の機能が、超自然的な奇跡として受け止められていたようです。女神信仰的な風習としてオナリ神信仰もあったのかなと思いました。
古代において女性は、現代よりもリスペクトされていたのかもしれません。沙本毘賣に対して、垂仁天皇の対応はとても誠実です。愛情が深かったからともいえますが、沙本毘賣の想いを汲みながら交渉に当たります。子名必母名の習慣の重要性については、全く気付いていなかったので新鮮でした。
卑弥呼もそうでしたが、古代において巫女は重要なファクターだったと思いますが、意外に巫女に関する資料が少ないように感じます。聖徳太子の母である穴穂部間人皇女や推古天皇となる豊御食炊屋姫尊は神饌において巫女の役割を担っていたのでは、との記述を読んだことがあります。
推古天皇の姉である磐隈皇女が、伊勢神宮の斎宮になったという記述はありますが、具体的に巫女としての役割や存在の尊さについてはイメージできる資料がない。それどころか、腹違いの兄妹である茨城皇子と密通した事績が特徴的に残されています。
まだまだ勉強しきれていない分野ではあるのですが、巫女について関心があります。今回の記事はとても参考になりました。ありがとうございます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。本エッセイの読者の方からこの悲話が好きだという話をお伺いして本稿を書いたという経緯もあるので、そう言って下さって嬉しいです。
手元に無いので、ちょっと記憶が曖昧で申し訳ありませんが、吉田敦彦氏の『縄文の神話』(青土社)などでも言われていれる様に、土偶が女神であることから、オホゲツヒメのような女神の起源を縄文時代に見出す見解もある様に、有史以前から女神信仰は存在したことから、女性の、特に神々とリンクが出来る巫女の地位は高かった様ですね。
神武~神功皇后紀まで天皇と対立する女首長がしばしば登場するのはヒコヒメ(或いはヒメヒコ)制の名残なのかなと思います。魏志倭人伝の卑弥呼が祭祀を司り、政治は弟が行うような体勢、つまり女性が祭祀を司り、男性が政治を行うような体制をヒコヒメ制と言います。
垂仁天皇が『上宮記』にも登場する実在性の高い天皇とはいえ、旧辞的逸話から史実性を追求するのは危険ではありますが、サボヒコ・サボヒメの逸話も正しくヒコヒメ制と男系王権の対立の図式で語られ、『上代説話辞典』(雄山閣)によれば二人の死はヒコヒメ制の終焉を意味していると言います。大和の初期の王墓では箸墓古墳、西殿塚古墳ではその副葬品から女性が葬られた可能性が高く、外山茶臼山古墳以降は逆に男性が葬られた可能性が高いのは、ヒコヒメ性から男系の王権に政権交代が行われた証左であり、本話が語るのはヒコヒメ制の頃に実際行われていた可能性がある兄妹婚(神聖な血筋を残す為?)を想定し、これを悪しき者として排除する行為を正当化する意図でもあったのかも知れませんね。
只、ヒコヒメ制終焉後も、例えば神功皇后紀で神功が神がかりする巫女であることなどは、ある意味先祖返りな気がしますが、卑弥呼程でなくても巫女の高い社会的地位は王権に組み込まれる事で保証されていたようで、仰るように後の穴穂部間人皇女や豊御食炊屋姫尊に繋がっていったのかも知れませんね。
玉に関しては朝鮮半島への輸出品として利用されるなど、信仰以外にも利権的な絡みがあったのか、後に出雲以外で生産されなくなるなど、どうやら大和王権が時代によって制約したり自由化していたようですね。
豊御食炊屋姫尊に関しては『日本古語大辞典』によれば、確かに御饌に豊御饌を炊くという解釈もあるようですね。あまり和風諡号の方は気にしたことが無かったので参考になりました。ありがとうございました。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1870643/1/474