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「排仏崇仏論争の虚構」の批判」への応援コメント

  • 面白い。
    有働智奘氏の「排仏崇仏論争の虚構」の原稿を因数分解して、それぞれに反証と立証を繰り返す。しかも、観念ではなく参考資料を交えながらの展開には驚きました。よくそれだけの資料が用意できたものだと、本質ではない部分にもビックリです。

    私は聖徳太子の物語を綴ることを目標にしています。そうした意味では、今回の記事は僕にとってドストライクなテーマであり、とても参考になりました。黒船が浦賀にやってきたことで、日本は江戸から明治への転換を迫られました。その衝撃と同等か、それ以上の事件が仏教公伝だったと考えています。

    麗玲様も取り上げていますが、この仏教公伝の衝撃を更に加速させたのが疫病でした。大王ですら薨去されるこの一大事に、仏教と神道は試されたと思います。それは観念的なものではなく、具体的な権力闘争として発展しました。このドラマを、聖徳太子の視線で語っていきたい。

    私が崇神天皇に関心があるのは崇神天応が疫病と対峙したからです。この時に、アミニズム的な原始宗教に祟り神という概念が付加された。この祟り神を祀るという行為が、強い宗教的権威を生み出したのではないかと考えています。300年近くこの原始神道が大和王権の根幹をなしていた。その根幹を揺るがした思想的概念が仏教になります。

    仏教を思想的にどのように捉えるかは、非常に難しい問題です。現代の仏教観で読み解くことは出来ません。なぜなら、変容しすぎているからです。当時の仏教観を感じるためには、聖徳太子が著した法華義疏を始めとする資料を読み解く必要があります。

    私は、まだこの段階までは至っておりませんが、神道と仏教を比較することで当時のカルチャーショックを感じたい。そのように考えております。
    ありがとうございました。

    作者からの返信

     ありがとうございます。少しでもお役に立てたようであれば冥利につきます。
     物部氏の本拠地から渋川廃寺が発掘され、物部氏が仏教を崇拝していたという説は、津田学徒で古代史家の大権威の方でした直木孝次郎氏にゴマすりをしていたという個人的にあまり好きでない学者さん(有働氏ではありません)が主張していた説だった為、気合を入れて叩くつもりでした(マテ)

     中日新聞の記事では渋川廃寺に関して飛鳥時代初期と書いてましたが、実際の調査報告書(「渋川廃寺 第2次調査・第3次調査」)を読めば、発掘されたのは再建されたものであり、奈良時代後半、即ち物部守屋が戦死してから200年程後のものだったのに、有働氏含め、この説の支持者の方達は誰も調査報告書を確認していないんですよね……。後から知ったのですが、平林章仁氏はこの調査報告書から、物部守屋の時代に物部氏が仏教を信仰していた証拠にはならないと批判なさっているのは流石と思いました。先代旧事本紀で廃仏の主張が見受けられないと言った誤った主張といい、例え学者の方の言うことでも鵜呑みせず、自分でも一次文献を確認するのが如何に大事なのか分からされた出来事でもありました。

     崇神天皇、そして疫病と関わりのあるオオモノヌシですが、個人的には天照大神以前にメインで祀られていた神だったのではないかと思います。残存する『風土記』ではオオアナムチ、或いはオオモノヌシの神が至る国々で登場するのに対し、天照大神は殆どその名が登場せず、御膝元の伊勢でもイセツヒコやサルタヒコと言った別の太陽神の名がみえるからです。その為、天照大神を皇祖神とし、令制で整理化された後の祭祀や、延喜式祝詞などから原始神道を見出すのは難しそうですが、逆に言えば風土記と言った中央の正史以外の資料からヒントになる内容も見いだせるかも知れませんね。参考になるか分かりませんが、例えば以下の内容など。

    ・小ネタ 八百万の神は実は三千万以上の神だった?
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330656621695575

     あと、ご存じかも知れませんが、古神道は江戸時代に出来たものなので、これを原始神道と混同しない様にくれぐれもご注意を。(孔〇王という漫画ではその辺を混同していましたので……。)

     変容しすぎている為、現代の仏教観で読み解くことは出来ないのは同意します。蘇我氏も導入直後は尼僧を巫女的なものと勘違いしていたり、紆余曲折もあった様ですが、そこから神道を超越し、ある意味日本の国教に近い立場を固める行程を描くのは想像するだけで困難窮まりますが、頑張ってください。

     法華義疏……そう言えば読んだ事がありませんでした(滝)。忘れていました。ありがとうございます! 聖徳太子と言えば『上宮聖徳法王帝説』というイメージばかりでしたが、自分もまだまだでしたね。
     

    編集済