応援コメント

卑弥呼は記紀に登場する人物か?」への応援コメント

  • 麗玲様の幅広い知見に、ただただ驚いています。これまで手探り状態で調べていたのですが、断片的な情報をどんなに頭に詰め込んでも、頭の中でうまく纏めるのは難しい。年のせいか忘れるということもしばしば。麗玲様のこの膨大な情報を読むだけで、僕の頭の中が整理されていきます。素晴らしい業績です。

    邪馬台国論争の難しいところは、比較する文献の成立年代がそもそも違うことです。更には、お互いの言語が違うので認識の違いは避けられない。例えば、邪馬台国=大和国、卑弥呼=姫巫女、という話はよく語られることですが、これですらその認識で正しいのかは分からない。仮説の上に仮説を積み上げていく作業の繰り返しなので、前提条件が間違っていると、全てが崩れてしまう。

    黛弘道氏から大和の範囲について言及されていました。(黛弘道氏の書籍は僕も何冊か読み進めているのですが、とても実直な研究者だと感じました)当時の大和の勢力範囲について大和神社を中心にして語られていましたが、魏志倭人伝が理解している大和の定義はもっと大きな括りだったかもしれません。当時は、大和を中心とする豪族連合だったと認識しているのですが、その連合を指しているとしたら畿内説にも光が当たるような気がします。

    昨年、ハラリ著作の「サピエンス全史」を読みました。前半部分で、人類最初の大きな革命として「認知革命」の記述があります。

    第34話 認知革命
    https://kakuyomu.jp/my/works/16817330652866198637/episodes/16817330667960782046

    要は、目に見えない「神」を多くの人々が認識し合うことで原始人類はコミュニティーを形成していきました。この「神」を信じる行為は、現代でいうところの「法律」を守らせることで国家が機能していることと同じで、社会的な秩序と団結を生み出します。「神」や「法律」は、パソコンでいうところのOSでした。

    大和王権は、水田稲作の技術を国家的な事業として機内の人々に啓蒙できたから国家の中心になりえた。でもインフラの技術だけでは国家は生まれません。代々の天皇(大王)を中心とした宗教的なつながりが強固だったと考えます。

    卑弥呼が魏志倭人伝で紹介されたということは、大陸に伝わるほどに大きな影響力を持った宗教組織だったのでしょう。小さな一勢力だったとは考えられません。戸数七万戸という数字をどこまで信用して良いのかは分かりませんが、それに比類する大きな勢力だったことは間違いありません。42万人という人口が、米を食べて生活が出来る地域といえば、状況証拠を並べていくとやっぱり機内なのかなと、僕は想像してしまいます。

    卑弥呼が誰かということはあまり関心がないのですが、崇神天皇と倭迹迹日百襲姫命はとても関心があります。日本の基礎を作ったと思うからです。

    作者からの返信

    黛氏の著書をご覧であるとしたら、緻密に北九州と大和を比較し、『肥後国誌』という後世の文献になりますが、北九州の肥後北部と筑後を併せた地域は生産力が大和を大きく上回るということをご覧になられたこともあるかと思いますが……。これは後世の比較なので、参考になり得ないとしても、地形的には大きく変わらないハズで、橋本増吉氏の名著『東洋史上より観たる日本上古史研究 第1 (邪馬台国論考)』によれば殆どの地域が海没していたというトンデモ説もあったらしいですが、このトンデモの如き大規模な地殻変動でもない限り、耕作可能な面積の絶対値がそこまで変わらないのではないかと素人的には思いますが……。それに、何も畿内だけ水田技術があった訳でないですし、技術者の数という面では大陸や半島と面する北九州の方が元々は多かったハズですし、大和に連合政権があったとすれば、何故唐古鍵遺跡が環濠をつくっていたのか、これはヤマト、あるいは纏向など近隣の周辺勢力と敵対していたとしか思えません。

     こう考えると黛氏が他勢力との関係で原初大和の地域を絞ったのは的を得ているのではないかと思います。恐らく、箸墓古墳の特殊器台といった吉備との考古学的な繋がりから推測して、邪馬台国とは無縁の吉備の勢力が大和に遷移し、記紀でも伝わっているような、この頃珍しくも無かった女首長が2代(箸墓古墳、西殿塚古墳の被葬者)が続いた後、大和王権の初の男系の王(外山茶臼山古墳の被葬者。神武帝のモデル)にとって代わられたのかと推察されます。

     また、魏志が戸数にしても方角にしても全く信用ならない記事であることから、日本書紀も参考にすべきであり、信頼性の低い旧辞を参考資料とする崇神天皇紀のみでは何故邪馬台国が消滅したのか、理解し得ません。景行天皇紀・神功皇后紀の九州の情勢を見る限り、この頃に邪馬台国と狗奴国(熊襲國)が滅びたと推定されます。大和よりも先に発展した筈の邪馬台国が大和に遅れをとった理由は、魏志でも伝えられる狗奴国との争いで衰退した為であり、それが景行天皇紀・神功皇后紀にも反映されているのかと思います。

    ・景行天皇紀と神功皇后摂政前紀は邪馬台国末期の状況の反映か?
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330661616902616

     認知革命に関しましては、ご提示のURLがリンク切れ(恐らく編集の方のURLかと)なので、申し訳ありませんが確認出来ていませんが、コメント内で仰る内容に関しては同意します。政治を「まつりごと」と称するのは神事が政治と一体であったからだと思うので、例えば物部氏と蘇我氏の崇仏廃仏論争は政治闘争であって虚構とする、近年有力な説などはマルクス等の唯物史観の悪影響か、宗教を軽く見る昨今の日本人の現代的な考え方であり、実際は仏教の受容は生き死にをかけた宗教闘争であり、同時に政治闘争でもあり、両者は切っても切り離せないものであったのかと思います。

    ・「排仏崇仏論争の虚構」の批判
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700428325598278

     只、信仰に関して申し上げれば、弥生時代と大和王権以降の政権で繫がりを見出すのは難しいと言わざるを得ません。『風土記』では発見された銅剣と思しき剣を燃やして蛇の様に変わったという記事や、『続日本紀』銅鐸が発掘されますが、これらの描写から奈良時代には弥生時代の信仰が忘れ去られており、即ちある意味弥生時代の象徴である邪馬台国と大和王権の連続性は認められず、前方後円墳は寧ろ弥生時代から続く信仰に対する排斥行為の様に思えます。オホアナムチがヒヒラギノヤヒロホコをフツヌシ、タケミカヅチの二柱に譲るというのは、もしかすると弥生時代の祭器である銅矛の終焉を伝えているかのように思えますが、記紀からはこのようなうっすらとした形でしか過去の祭祀が伝わってきません。すなわち、実証主義的立場に立てば勝手にアレコレ推測しても断片的にしか肯定内容を見いだせず、考古学者G・チャイルドが語る様に考古学にも限界があるということです。

    ・考古学について① 西郷信綱の考古学に対する批判論
    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330653270767699

     西郷信綱氏は古事記の内容を「現代社会」即ち奈良時代の内容の反映であると言います。この考え方には流石に抵抗がありますが、歴史学や考古学では少なくても神武天皇の頃を推察するのは限界があります。例えば、歴史学や考古学的な視点では、何故神武が「日向」を起点として東征を行うのか、否定論以外で解答を見出すのは難しいかと思いますが、西郷氏の発想が解答への鍵となります。この事に関しては過去にご紹介させて頂いた「神武天皇東征の史実性と英雄時代論」に書いてあります。

     崇神天皇と倭迹迹日百襲姫命については、そもそも推定される被葬地が奈良盆地東南部の初代王墓である箸墓古墳(3世紀中頃~後半)と5代目の行燈山古墳(4世紀前半)では大きく世代が離れています。即ち、同一時代の人物ではないことは明らかですし、6世紀に書かれた旧辞を参考にした記紀の記述もアテにならないのは言うまでもありません。又、記紀を遡る古い文献、例えば『上宮記』、或いは鉄剣や鏡の銘文などにもその名が登場しない事から、実在性のみでいえば、『上宮記』にも名を連ねる垂仁天皇の方が高いのかなと思います。

    編集済