23 何故


 君だけ訛りが違ったからな。あっ、やっぱりそうでしたか。ああ。青森の者ではないね? はい、新潟で。新潟か。どのあたり? 長岡です。へえ、いいところだね。どうしてまた青森連隊に? えっと、本当は長岡造形大学に入りたかったんですけど……あの震災があって。母方の実家が被災して、戻らなきゃいけなくなって。働き手として、か。はい、もともと母が祖母の介護でつきっきりだったんですが、そのうえあんなことになって、家を回せる人間がいなくなったんです。父はとっくの昔に死んでるし……なので僕が実家に帰って、なんとか収入を得なきゃって、それで自衛隊に。そうか……災難だったね。いえ、よくある話です。おおうらさんは……あっ申し訳、おおうら准尉は。はは、格式張らなくていいって俺のほうから言ったろ。はい……おおうらさんは青森ですか。鯵ヶ沢だな、聞いたこともないだろ。はい、失礼ですが……俺も同じだよ、君と。自衛隊くらいしか働き口が無かった。大学なんて一体どこの世界って感じだったしな……長岡の造形大か。はい。さっきの話ぶりだと、よっぽど入りたかったんじゃないのか。何を勉強しに? えと、恥ずかしいんですけど、映画の仕事がしたくて。映画。はい。あの、僕、中学の頃からずっと大林宣彦に憧れてて……へえ、珍しいな、君みたいな若い子が。はい、地元にはろくな娯楽もなくて、レンタルビデオ屋に入り浸ってて。そこで大林監督の映画に出会って、夢中になって……おのみち三部作、とかか。そうですそうです、とくに『時をかける少女』。あれはもう何十回観たか……ふふっ、よっぽど好きなんだな。はい、それで僕も将来的には映画の仕事に携われたらいいなと思ってたんですけど……まあ、でも、よかったんだと思いますよ。どうせ才能なかったし。なんだそれは、決めつけるなよ、まだ何もしてないのに。いえ……じつは大林監督、震災以降に長岡を舞台にした映画をつくって、それが縁で造形大の准教授にもなったみたいで。なんか僕のやりたかったこと全部やられちゃったなって、逆に諦めがついたっていうか。そう、か。そういうものかな。はい……あ、ありがとうございました、タバコ。ああ。ま、あまり気を張るなよおのみち。じゃなかった、ええと。はは、坂田です。坂田か。土気色の顔したやつが一人いるだけで隊の士気に響くからな。はい、ありがとうございました、お話聞いてもらえて。はは、こちらこそ。


 いかがなものかと思われます。何が。何がではありません、あのように下士官とくだけた態度で接することが、です。いいじゃないか、部下の心身の調子を慮るのも上官の役目だろう。しかし、あのように喫煙しながら腰掛けて談笑など……肉体労働者の昼休憩ではないのですから。ははっ、意外だねいわばしり君、君からそんな比喩が出てくるなんて。君、そもそも肉体労働者の昼休憩の様子を見たことがあるのかな。その君、というのも止してください。陸曹と呼んでいただかなくては。すでに宿営地なのですよ、自覚を持っていただきませんと。自覚、ねえ。どのような自覚かね。国連施設の整備、道路補修、給水支援などはお題目にすぎないと君にもわかっているだろう。おおうら准尉、申し上げますが……その前にこちらからいいかね、いわばしり陸曹。はい……思ったんだよ、あの震災の時。被災者の救援や倒壊した家屋の解体をやっていてね、ああ、この仕事にもちゃんと意味があるんだ、って初めて思えた。もちろんこれは倒錯だ、災禍において自分の仕事のやりがいを実感するなどは。でも確かに、この自衛隊というのは戦争のためじゃない、誰かを助けるための役割を果たせるんだと証明できたようで、初めて自分の仕事を誇りに思えたんだよ。はい。さて、我々はいま青森ではなく南スーダンの首都にいるわけだが……否応なく気付かされるな、これは国際的に見ても、ただの軍隊でしかないのだと。 Japan Self-Defense Forces だからな。やはり我々は、国の憲法に矛盾する存在、戦争に参与するための組織でしかないのだと。小銃を持たされて、一体何をしにきたのだろうな我々は。……お話は以上でしょうか。ああ、そんなところだ。では、すべて聞かなかったことにいたします。いま小官が耳にした会話には、端的な職務怠慢、辞任に値するほどの文言まで含まれていましたから。ははっ、君くらい真面目な子がいてくれたら自衛隊も安泰だな。すぐに俺より出世できるよ。おおうら准尉、不用意な発言はそこまでにしていただきたい。宿営地において自衛隊が無駄口ばかり叩いているのを見られたら、国際上の信頼にも障ります。信頼、ねえ。どこを向いても日本語を理解できるやつなんて一人もいなそうだがねえ……ああ、もうわかったよ、そんな目で見ないでくれ。とりあえず六ヶ月間、無事に済まそうじゃないか。この国の人々も助けを必要としてるには違いないんだ。用地造成、道路補修、できることはなんでもするさ。そんなことは言うまでもありません。


 しかしまったく、一週間もすれば慣れるのだから恐ろしい。ジュバでの宿営にも、一二月のアフリカの空気にも。しかし夜には夜の涼しさがある、もちろん青森のそれに比べればぬるま湯みたいなもんだが……申し上げます。ん。数分前、トンピン地区にて銃声があり、哨戒中の隊員二名が撃たれました。銃……SPLA-IOか? 発砲者の素性が認識できなかったため、詳細は不明です。すぐに応援を送るようにと……応援、銃を持って、か。おおうら准尉。あ、ああ、了解。直ちに……


 政府軍の反主流派による国連軍への攻撃なら、これまでに何度も起こっている。しかしよりによって自衛隊を……准尉。何だ。あの建物です、こちらに散発的な銃撃を加えたあと、あの小屋に立て籠もった模様です。あの小屋……くそっ、この暗さでは。照明は? 当てると中に立て籠もった勢力を刺激するおそれがあります、すでに小屋を囲んで警戒しておりますが、いかがいたしますか。ご指示を。指示……撃つのか。撃つのか? それはそうだ、撃たれたなら撃ち返すしかない。しかしそれは、避難民への緊急支援などとはわけがちがう。自衛隊による積極的な戦闘介入ではないか……准尉。くそっ……各官へ通達。対象から警戒を怠るな。各自あるいは部隊の判断によって、正当防衛や緊急避難に該当する場合には撃て。了解。

 了解、一体何を了解したと……なん、なんだ。八時の方向! 爆発、手榴弾か。に、銃声。どちらのだ、あの音は六四ロクヨン式の……やめ、撃ち方やめ! 聞こえないのか! 准尉! なに、おい、誰が突撃しろと言った。警戒しろと言っただけだ、いや、その警戒が切れたのか。明らかに自制を失って……撃つな、撃ち方やめ!


 二七にじゅうなな名。といわばしりが数え上げるのを、どこか他人事のように聞いている。うち、SPLA-IOの兵士と思しき武装の者は二名のみ……おそらく、と言いながら電灯で室内の宵闇を照らしている。この、薬物らしきもの……を使用した乱痴気騒ぎがあり、その最中に理性を失った一人が銃と手榴弾を持ち出し、こちらに銃撃を仕掛けてきたと……血飛沫に染まった黒い皮膚を眺めながら、なにか映画のスチルのようだと思う。では、こちらを攻撃したのも、単なる偶然。としか、考えられません。この二七名、すべてこちらの銃撃による殺害か。わかりません、すでに小屋の中で殺されていたのかもしれませんし……確かなのは、内部に突入した際、たしかに数名の女性の悲鳴のようなものが聞こえたということです。その直後に掃射が始まった以上、この小屋に生存者が何名いたのかは判断できません……といわばしりが言うのも、どこか遠い国でのニュースのようにしか聞こえない。いや遠い国なのだ、そこまでわざわざやってきたのだ自衛隊は。しかし、そこで俺たちは何をやった。何をやってしまった。


 どういうこと、ですか。言ったとおりだ。言ったとおりって……隊長のご判断だ、SPLAはこの程度の戦闘など意に介さないだろう、と。こちらが発砲を受けた以上は明らかな正当防衛であり、隊員の即時の対処にも何ら問題はないと。対処って……指揮系統さえ失って突入しただけじゃないですか。SPLA-IOによる戦闘行為は日常茶飯で起こっていることだから、国連も今夜の事態だけを特に取り沙汰しはしないだろう、との判断、らしい……ありえません、だいいちあの屍体はどうするんです、二七名もの犠牲者の……あれは、もう、ない。えっ。隊長から国連軍に通達済みで、もう、ない。ない、って。焼かれた。小屋ごと、無かったことになった。




 犯人はふたたび犯行現場を訪れる、という法則を愚直に果たしている自分自身を幾重にも陳腐に思いながら、焼却された建物の残骸を眺める。地に黒々と象嵌されている、この四方の稜線だけが、昨夜殺された人々の存在を証し立てる唯一の痕跡なのか。准尉、と引き留められ、初めて自分が焼跡の中央に跪いているのを発見した。ここか、陸曹、たしかにここなのか。昨夜、我々があのことをしてしまった場所は。はい。夜目がきかなかったのだ、どうしようもなかったのだ、そもそも土地勘もあるわけがないし……しかたなかった……准尉……准尉。おおうら准尉! と耳元で聞こえるいわばしりの急き立てが、徐々にその意味合いを異にしていくのがわかった。上体を起こす、と、そこには。こんにちは、ちょっといいかな。日本語、を話す、しかしどう見ても日本人とは思い難い風貌の者が。わたし、南スーダンで人道的支援を行っている者です。あなたたち、 Japan Self-Defense Forces の士官ですね? ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかな? こちらの呆然を嘲笑うかのように言葉を継ぐ者に、いわばしりが一歩進んで相対する。なんですか。わたし、昨夜ある建物のまわりで迷子を見つけて。その子、ちょっと仕事があって出かけてたんだけど、もともとはここにあった小屋で寝泊まりしてたらしいんです。でも帰ってきたら跡形もなくなってたらしくて……昨晩ここで何があったか、詳しく知りませんか? 穏やかな物言いが耳朶を打ち、鼓動が身体のうちにこだまする。その迷子、とは……といわばしりは言いながら、視線を焼跡の柱へ向ける。そこには、目の前で日本語を話している者とはまた異なる外貌の、褐色の少女が立っていた。その子、ですか。うん。あなたは、その子を、どこで見つけたんですか……その前にこちらの質問に答えてくれるかな。いかにもかわいそうじゃない、ある日突然住む場所を失うなんて。と微笑みながら言う相手に対し、いわばしりは応答をしぶっている、のが見えたので、代わりに立ち上がって言う。

 私たちがやりました。私たちが、昨晩、この小屋の中の全員を殺害しました。

 ふふっ、と、風巻きのように聞こえた音が目の前の人物の唇から発せられたと認めるのにも、数秒の時間を要した。そうだったの。まあね、よくあることだよ。微笑みながら言う相手を見据えて戦慄わなないているいわばしりの肩が見える。この地上ではよくあること。だっていつまで経っても戦争やめる気ないみたいなんだもん、しかたないよ。でも、よく覚えておいてね。そんなよくある凡庸なことにも、人間の心身は耐えられない。と笑う相手に掴みかかろうとするいわばしり、の手を制する。准尉。いい、いいんだ。この身を支えている二本足が本当に自分のものなのか、さえ定かでないが、言うべきことはわかっていた。どうすれば。どうすれば許されますか。誰に対して何を乞うているのか、滑稽でしかありえない物言いを受け、はは、そんなことわたしに訊かれても困るよお。もしかしてわたしのことシスターだと思っちゃった? これはヒジャブであってキリスト教のヴェールとは関係ないよ。日本人あなたたちは宗教に疎いから、誤解しちゃったかもしれないけどね。と笑う姿を前にして、お前……何者だ、先程から! これ以上侮辱を弄する前に素性を明かせ! と、いかにも上官といった風情で一喝するいわばしりの剣幕も、目の前の人物の微笑の前では稚気めいて見えた。百済くだら。世界平和のために働いている、ただの一般人ですよ。と述べられたのち、いわばしりの手に長方形のカードが押し当てられる。なに……言ったでしょう、たぶんあなたたちは、自分でしたことに耐えられない。だから前もって紹介しておくね。もし自責の念で壊れそうになったら、そのNGOを頼るといい。翻るいわばしりの掌、そこには「Peterloo」の文字。ちょうど日本語っていうか、東アジアの言語ができる人を探してたみたいだから、相手してくれるんじゃないかな。百済くだらの紹介ですって言ってくれていいよ。そのNGOに出資してるドゥって人とも、わたし知り合いだから。と、相も変わらず微笑しながら一方的な言を投げる影が、やにわに遠のく。おい、ちょっと待て。と制するいわばしりの声にも構わず、百済くだら、と名乗った女性は、退屈そうに立ち尽くしていた少女の手を取り、あれは──あれは何語だ──聞き覚えのない言語で二言三言交わしたのち、この子はわたしがいただくね。と鷹揚に言い、こちらに背を向けて歩き去るのだった。おい──大丈夫だよ、この小屋のことは誰にも言わないから。たぶん、国連軍の記録にも残らないだろうしね。


 果たしてそうなった。国連軍どころか、当事者であるはずの自衛隊の公式記録にさえ、あの夜の惨事は影を留めなかった。おおうら准尉が直々に書いたはずの日報の記録は、いつのまにか存在自体なくなっていた。あの夜に小屋を囲んだ二〇名余りの隊員は、負傷者二名を除いては平常通りの宿営に戻り、何事もなかったかのように六ヶ月の任期を終えた。

 しかし、祖国の土を踏んでも、何ら現実感らしきものは戻らなかった。あれは夢だったのか。違う、私たちは確かにしてしまったはずだ。なのに誰も責めない、誰も問題にしない、そもそも記録にさえ残っていない。私たちが偶然に巻き込まれた、確かに在ったはずの流血は、跡形もなく消え去ってしまったかのようだ。当事者として居合わせた、私たちの胸のうちを除いては。

「そんなよくある凡庸なことにも、人間の心身は耐えられない」。そうなった、果たしてそうなった。夜がくるたびに、あの声が聞こえる。本当に殺されたのかもわからない、存在したのかも定かでない、無辜の人々の声が。おおうらは帰国後、隊の訓練中に突如叫喚し、誰もいない方向へ向けて拳銃を発砲しはじめた。自制心を喪ったとして退官を勧められ、併せて私も辞職した。あの夜の記憶が私たちの心身を侵し始めていることは、否みようもなく明らかだった。

 惨事後ミーティング──そう名付けられた集会、在任中の外傷記憶を癒すための会合への出席も、私たちにとって何の助けにもならなかった。ばかりか、ミーティングの出席者が回を増すごとに少なくなってゆくのを見て、一体どういうことかといぶかりもした。ので、同時期に心身の不調を訴えて辞職した隊員の何名かに電話をかけてみた、が、「おかけになった電話番号は現在使われておりません」か、何度かけても受話されないかのいずれかだった。そしてある日、電話の向こうから隊員の家族らしき人が応えたとき、私は知らされた。あの南スーダンでの任務の後、息子は自殺しました、と。


 新潟の子だったんだよ。てん。映画の勉強がしたい、と言ってたんだよ。繊細な子だったはずなんだ、自衛隊じゃなく大学に入ってたら、才能を発揮できてたかもしれないんだよ。てん。マキ、誰が殺したんだろう。あの子を自殺に追い込んだのは誰だろう。我々じゃないか。我々があの子を殺したんじゃ。てん、もうやめて。あなたとは関係のないこと。あるさ、あるじゃないか、あるに決まってる。我々が殺したんだ、当然だ、あんなことに耐えられるわけが……てん、あなただってそうでしょう。死のうとしたでしょう、首を……だって、だってしょうがないじゃないか……なくならないんだ、いつまでたっても……視え、視えて、聞こえて、あれが──てん。これは誰が悪いとかいう問題じゃない。確かなのは、踏み止まらなきゃいけないってこと。なんで、なんのために。人間でありつづけるために。あんなことが起こったと認められない、それは当然。でも、それでも持ち堪えなきゃいけない。ここで私たちまでもが潰れてしまったら──人間の世界には何も救いがないってことになってしまう。それだけは──だからてん、生き延びましょう。あのことを忘れてしまったら終わり、私たちが生き残ること自体が戦い。戦い……そう、まだ続いてる、あのことは。そして、私たちが逃げてしまえば──その戦い自体がなくなってしまう。


 Peterloo。あのヒジャブ姿の女性から渡されたカードだけが、私たちの記憶をつなぎとめる唯一の物証だった。事の次第を英語でしたためたメールを送るとすぐに返信があり、スカイプ通話で早々にリクルートがまとまった。あのドゥという人物の、こちらとは別の症状に取り憑かれたとしか言いようがない狂躁的な言動には、さすがに気後れしたけども。しかし国籍をフランスに移し、Peterloo局員として世界中の戦災孤児や機能不全家庭に育った子どもたちを救済することになった私とおおうらは、あの夜の代償行為かのように業務に没頭した。英語すらままならないてんにとっては一から何もかもを学び直す必要があったが、私が知っていることは全て教えた。

 そうか、マキは祖母がフランス人だったな。ええ。そういえば訊いたことがなかったな、なぜ自衛隊に。規律が欲しくて。規律……ええ。仏文学の翻訳をやってた両親の、なんていうか気取った雰囲気に、どうもなじめなくて。二世の学者として褒めそやされるのも鬱陶しかったし、だったら親から相続するの自体放棄しようと思って……そうか。恵まれた家庭に育つのも大変だな。でも……まさかこんなかたちで、何もかも一から始めることになるなんてね。ああ。なあマキ……何。俺は、恥ずかしい……あんなことがあって、まだ聞こえるしまだ視えるのに、その一方で身体は、こう、なるなんて……それは、人間だから当たり前でしょう。むしろ何も感じなくなったら、それは人間じゃなくなりつつあるってこと。そう、なのか。きっとそう。それに、身体が、こう、なるのは、男も女も同じでしょう。そのこと自体を抑えちゃいけない。恥の意識さえ手放さなければ、それでいい……はず。そう、か。ふたりで治しましょう。どちらかだけではいけないはず、私たちがやってしまったことを忘れずにいるためには……ふたりで。そう、ふたりで。




 帰ってくればそこにいる。もう三日目になるか、彼女が私の住居に居座るようになってから。おかえり、では続きをしよう。と座位のままこちらへ呼ばわるのだが、今日も礼拝の時間を除いては一日中話し続けるつもりらしい。パールムッター。ズラミート、でいい。ズラミート……いい加減にしてくれないかな、いつまで続けるつもりなのか知らないが……もちろん、君との話題が尽きるまでだ。もう十分話したろう、ガザやヨルダン西岸の現状も、イスラエルにおけるムスリムの窮状も、君がシオニズムについて胸懐することも理解した。理解したなら行動に移すまでだ。アーイシャ、君と私の問題意識は同じだろう。つまり、なぜ我らの共同体はこれほどまでに女性を侮蔑しているのか、ということだ。ああ、君の書いた記事も読んだよ……『母なる祖国』への愛、だろう。そうだ、そもそも聖典で禁じられている聖地への回帰を、あろうことか女性に見立てて正当化している。一方で現実に生きる我々の容姿や振舞に対する侮蔑は止むことがない……それはダンサーとして活動する君が一番よくわかっているはずだろう。それは確かだが……ならば行動すべきだ。内部にいる者として、内部の病巣を攻撃する。君はイランから移ってきたが、イスラーム共同体の内部者という意味では同じだろう。私もユダヤの実践者ハレーディとして、身内が抱えている病こそを相手取らなくてはならない。そのためには──私だけの力では足りないんだ。

 そうだ、彼女はずっとこうなのだ。二日前に突然現れて私は親パレスティナ系紙の記者をしている者だ貴女はアーイシャ・ウムァジジだろう話がしたいと申し出てきたときから、ずっとこうして鬼気を剥いている。私は五度の礼拝とワークショップをこなさねばならないのに、彼女はずっと対話をやめようとしない。おそらく──後が無いのだ、彼女には。テル=アヴィヴにおいて当局を批判する、その困難を維持するための手立てが。ズラミート。と呼びかけると、顎をすこし上向きにする。どうして──私なんだ。テル=アヴィヴ在住のイスラーム「文化人」などいくらでもいるだろう。どうしてよりによって、こうして三日間も対話を続けようと思えるほど私に執着するんだ。と、それ自体不遜に聞こえてもおかしくはない問いを投げると、それは、君が──ダンサーだからだ。と、先ほどにも聞いた気がする答えが戻った。君が、表現によって変革を訴えているアーティストだからだ。ズラミート、昨日も言ったが私は自分のダンスが表現だとは──修辞を弄するのはよしてくれ。君のダンスは明らかな表現だ、人の心を動かす、真の意味においての。私は知っている、いや教えられたのだ、音楽やダンスこそ、文筆や報道よりも根本的に人の心を動かす表現だと。教えられた……ああ、クラクフで音楽を勉強していた時、親友から教わった。では、君は音楽ができるのか。作曲とチェロの演奏ならばできる。アーイシャ、私には君の力が必要だ。私一人ではだめなのだ、しかし君一人でもいけない。私たちふたりで始められる変革があるはずだ、そのことに気づいたまま目を背けるのであれば、私はもはや実践者ハレーディではないし、君も自らの奮闘努力ジハードを怠ったことになる。

 息急切って呼吸を整える人を前に、数秒の沈黙が垂れる。ズラミート。なんだ……わかった、我々は共闘する必要がある。と言うと、初めて顔相に明るみがともる。本当か。ああ、君の音楽と私の舞踏、その双方を組み合わせる方途を考えよう。アーイシャ……ありがとう、本当に──その前に、条件がある。えっ。座位の人の手を取り、起立させる。立ち眩みのようにふらつく身体を支え、両眼を見据えて言う。君、三日の間ずっと入浴していないだろう。あっ……と言いながら、シャツの襟元に鼻先を当てている。イスラームの聖典に敬意を表してくれるのであれば、清潔にも気を配ってくれないかな。「清潔は礼拝の半分である」からして。言うと、目の前の顔に気色が戻るのがわかった。そちらだ、自由に使ってくれていい。とシャワールームを指差すと、ズラミートは恐縮したように、無言で背を向けて歩いてゆく。着替えはここに置いておく。ああ、すまない。

 閉じたドアの向こうから水音が聞こえる。まったく、無体な客人もあったものだ。しかし、金曜あすの礼拝までに話をつけられてよかった。そうだ、明日マスジドに連れて行って皆に紹介しよう、新しく仕事を共にすることになった友だと……

 



 これは誰の血だろう。何人死んだ。何人負傷した。わからない、この爆煙と叫喚の中では。我が友、と呼ぶアーイシャの声、のほうへ向き直る。楽屋は、楽屋はどうだった。と率直に聞いても、なにも応えない。あの敏活にして闊達な友が、何も言わない。アーイシャ。視線を逸らしたままの友は、静かに口を開き、二人。とだけ応えた。二人、がどうした。友はようやく視線を合わせ、二人、死んだ。即死だったそうだ。と呻くように言った。

 何故だ。何故こうなった。私は何故だと問うているのだから、誰か答えろ。何故、アーイシャと私が作品を上演するだけの場で、人が殺されなくてはならない。それもユダヤもムスリムも関係なく害する、爆破などという手段によって。何故だ。ズラミート。友が私の手をとりながら言う。ここは危険だ、すでに観衆の混乱も昂っている……皆を連れてどこかへ移らなくては。どこかって……どこだ。逃げ場所があるとでもいうのか、我々が自由に表現するための場所自体が爆破されたというのに。

 私の性急な問いに、友はもはや応えない。

 逃げなくてはならない、ということだけが確かだった。




 それでは、君は今日からうちの子だ。と、この台詞を吐くのは二度目か。最初はそう、シーラ・オサリヴァン、彼女に対してだった。馴れ馴れしさは免れないのだろう。そもそも血の繋がりさえない、それも「無宗教」な国に育った私などには、彼女に親愛の情を示すこと自体が不相応なのだろう。しかし、それでも。アーイシャ・ウムァジジ、あなたに教えたい。この地上にはまだ居場所があるのだと教えたい。それが私の、手前勝手なあがないの途上の喘ぎでしかないとしても、それでも果たさなくてはいけない。

 もう、時間がないように、思われるのだから。


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