28 これを限りに
私たちに出席する権利など無い。と一言で切られ、もちろん……わかってはいたけど。と口籠るしかなくなる。マキがいなくなったこの部屋で、アーイシャは棚に残された医薬品を眺めながら、もともと私たちは家族などではなかったのだ、葬儀は血縁者に任せるしかない。と、こちらに向けるというよりは自らに聞かせるように言う。のを前にして継ぐべき何かを見つけかね、どんな人だったのかな、マキ。と、あたしも独り言のように呟く。結局あたしら、何も知らないまま別れちゃったな。青森の弘前ってとこ出身で、お母さんがフランス文学の学者で、その後を継ぐことを拒否して自衛隊に入った、なんてことも、知らなかったわけだし……そうだ、何も知らなかった。もともと自分の素性を語りたがらない人ではあった、あのスーダンでの事件を
結局は、自分の仕事を続けるしかないだろう。とアーイシャはまた言下に切り、Aminadabの秋田公演は四日後に迫っているのだ、無駄にする時間など無い。と目を閉じて腕を組む。うん……そのオファー受けたことも、ここで話したよね。マキ、今度は観に行きたいって……シーラ、君は情緒に纏綿しすぎる。何があろうと続けなくてはならないのだ、この身体がある限りは。と断固として言う相手に対し、アーイシャは、なんで踊るの。と小声で訊く。アッラーの
お前が殺したんだ。アーイシャ。お前が殺したんだ。なに。動きが半拍ずれている。お前が殺したんだ。ああ……すまない、またか。音楽、聞こえていないのか? もっと音量を上げてみるか。いや、いい。お前が殺したんだ。どうやら、そういう問題でもないらしい。お前が殺したんだ。
一体どういうことだ、と言いながらズラミートはペットボトルの水を開栓する。まるで身についていないぞ、今までの練習が。ああ……すまない。この演目は前にも通したろう、なのに今のほうが拙劣になっているとは。お前が殺したんだ。ああ、だめだ。消えないな。どうしたら消えてくれるのだろう、これは。すまない、我が友……と座り込んだまま言う私に、どこか調子が悪いのか。とズラミートはいくらか語気を和らげて訊く。どうする、言うべきか。しかし言ったところでどうなる。いま私の中にしか響いていないこの声、その存在を打ち明けてしまったら、それは私が正気を失いつつある、ということを意味しないか。アーイシャ。急かすように言うズラミートを見上げ、唇を開く。実は……月のものが。数秒の沈黙、ののち、そういうことは早く言え。と気遣いか呆れか判別しかねる
月のもの、ということにしてしまったため、モスクの中へ入ることはできない。よって門下生の一人にイマームの役目を任せ、私はその間仮眠をとることにする。
ええ、わかりましたアーイシャ、お大事になさってくださいね。ああ、すまないがよろしく頼む。いいえ、次の公演も近いんですものね。秋田、楽しみですね。と微笑む顔には、同時にいくらか憔悴も見られた。それはそうだろう、移ってきた土地で突然に大震災に直面し、避難所で不安な夜を明かした彼女らだ。そうだアーイシャ、わたしたち、夕の礼拝が終わったら池袋の公園に行くのです。公園。はい、都内にある他のモスクの人々と合同で、炊き出しをすることになりまして。あの震災で家ごと失った人も多いらしく、東京周辺のホームレスの人々も不安な夜を過ごされたと聞いて。ここはひとつ周囲の人々との交流も兼ねて、粥の炊き出しをしようという話になりました。と口々に言うので、そうか、素晴らしい
見抜かれているのだろう、と通し稽古の間もずっと雑念が離れない。少なくとも我が友は、この不調が月のものではなく精神的な問題に由来すると、見抜いてしまっているのだろう。直に
アーイシャ。次のムーヴメントに移るかと思われたその瞬間、ズラミートは握った両腕を起こして私を立位へ戻した。なん、だ。呆ける私を前にして、我が友は小さく溜息を漏らし、今日はもう休みたまえ。と諦めるように言った。なに、まだやれる。無理はするな、その体調で、これ以上の進展は見込めない。何より本番は三日後なのだぞ、このまま不調のまま続けて身体ごと壊されてしまっては元も子もない。諭し聞かすようなズラミートの言葉に、そう、か……と語尾が萎える。すまない、我が友。謝らなくていいと言ったろう。
部屋のシャワールームで身体を洗い流すのも憚られて、手持ち無沙汰のまま一階に降り、冷水のペットボトルを握りしめたまま耳を澄ませる。まだ、ない。だが次にいつ来るかはわからない。さしあたって今は……と想念を揺らしながら自販機前の椅子に座る。向こうのスタジオから、何やら騒々しい音楽が漏れ聞こえてくる。おそらく
また、嘘をつきました。誰もいないモスクの宵闇に、私の声だけが響いている。慈悲深く慈愛遍きアッラー、私の
また嘘をついたのです。これが初めてではありません。イスファハーンでも、テル=アヴィヴでも、私は幾度となく虚偽を重ねました。次に移る場所なら大丈夫なはずだ、安全な場所がどこかにあるはずだと、私に教えを乞う人々に偽りの安息を説いてきました。しかし彼女らが得たものは、
そしてアッラー、今になって思います、私は間違っていたのかもしないと。いえ、間違っていたに決まっているのです。しかし己が過ちを認めたくないがために、私は今の今まで偽りの言葉を並べてきました。あまつさえ、モスクのなかで、あなたの存在を讃えるための聖なる場所で、私はイマームとして礼拝を執り仕切っていたのです。私は、他ならぬあなたの御名を使ってイスラームを貶めていたのではありませんか。それは死に値する罪なのでは。
天地遍く統べ
泥のような沈黙が、何秒何分続いたかすら定かでなく、ドアが開かれる音と差し込む光に感管を揺さぶられた。歩み寄る靴音が、床に倒れ伏している私の背後で静止する。
無知の言葉を並べ神の
上体を起こし、背をズラミートに向けたまま言う。そうだな。そう、するしかないのだ。だが、ひとつだけ、ひとつだけ言わせてほしい。立ち上がる、と、頬を伝って顎から
どこへ行く。すまない、今日ばかりは、
この部屋にいた、かつてマキは。今では荼毘に付されて
この棚だったはずだ。そう、消毒用アルコール製剤。が、数リットルの容量で備蓄されている。このビニールの口を切り、流れ込むに任せれば、それで私は綺麗になれるだろう。
もはや異議は無い。これを限りに、私はもう何も言うまい。
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