29 下僕の大道


 高と低にふたつの糸。片方はきぃんと鳴り、もう片方はずぅんと呻く。そのふたつをる、と響もす、もはや平たくはないなりこごる。これが私か。いつから私だったのだろう、そうだ母に産んでもらったその時から。アーイシャ。その望外な名を授かった時から。アーイシャ。聞こえる、私のものではない音が聞こえる。外から呼ぶ声。これは。

 アーイシャ、気付いた。シーラ。シーラか、私を呼んでいたのは。ここは……どこだろう。見憶えのないとこで目覚めたときの、あの慣れようもない感覚。はかる、計器は。ええ、心拍と脈拍は正常に戻ったみたい。また声が纏わる、どおに聞こえるも不思議に親しい、この感覚は。そうか、生命維持装置。かつてマキが横たわっていた、あの棺の中にいるのか私は。上体を起こそうとする、と、左手に据えられている管らしきものに掣された。点滴。そうだ、死のうとしたのだ、私は。救護室に備蓄されていた消毒用アルコールを鯨飲することで。しかし、これは。仕損じたか。死に損なったか私は。卒倒したあとで衣服に滴ったはずのアルコールは、もはや揮発して跡を留めていないか。一体どれほど長く昏倒していたのだろう。まばたきをしげくするうちに徐々に明瞭になる視界、そこには。

 よっ。と、小さく左手を挙げて微笑んでいる。。なぜ助けた。と、気付けば不躾に問うていた。助けたって、わたしがしたわけじゃないよ。初めに助けたのはシーラ。と、鷹揚に笑みを崩さず言うので、えっ、と、傍らの姿に視線を移す。シーラは頷きながら、今夜もマキのいた部屋で祈りを、と思ったら、床に濡れ鼠が倒れてるんだもんな。近寄ってみたら滴ってるのは水じゃなくてアルコールだったし、何をしようとしたかはすぐにわかったよ。シーラは半ば呆れたように、傍らのはかると笑みを交わす。すぐにおのみちを呼んで、その装置で手当てしてくれって言って、深夜の急患ってどう呼べばいいのかわかんないから93の部屋行って、とにかくこの装置で意識を取り戻すまではやってみよう、って、それが今。ということは……まだ夜は明けていないのか。茫漠とした時の隔たりを手繰りながら、なんとか上半身だけは起こしてみる。するとは、いやあ、今回もはかるさんの適切な処置が奏功しましたねえ。と笑う。えっ。言を受けたはかるも微笑し、昔、ね。この子も似たようなことをやったの。とこちらを見据えながら言う。似た……失恋して色々やばかったときに、もうスピリタス一気飲みして死んでやるーって。当時はかると一緒に暮らしててさあ、偶然早く帰ってきたから死ぬまではいかなかったんだけど。なにを……なにを面白げに話しているのだろう、とても笑うような内容ではないはずだが。シャワーのヘッドを外して、ホースごと口に突っ込んでね。すごい勢いで水を入れて、胃の中のもの全部吐かせて。と相好を崩して続けるはかるを見て、そのときと同じことを……私にも。と訊かざるを得なくなる。ええ、まあね。幸い、今回はこれがあったから救急車は呼ばずに済んだけど。と装置の計器パネルのうえに手を置きながら言う。

 なんでこんなこと、とは、訊かないよ。と、は幾分柔らかなこわで言う。アーイシャみたいな強い人でも、人に言えないことはいっぱいあるんだろうしさ。でも……わたしみたいなやつが言っても説得力ないけど、いやわたしみたいなやつだからこそ言うけど、やっぱり自殺はなんの答えにもならないよ。暗がりの中で訥々と言うおもてが、微弱な照明で映えている。わたしもさ、かつて愛してくれた人とか、いま愛してくれてる人とかを残してひとりで逝こうなんて、とんでもなく卑怯な思い上がりだった。すごい病気して苦しみに耐えられなくて死ぬんだったらまだしもさ……まだ使いものになる身体があるんなら、生き続けなきゃダメだよ。マキさんだって……そうしてたんでしょ。と言われ、反射的に視線を逸らす。まさかマキの後を追って、なんて考えたんじゃないだろうな。と、シーラが詰問よりは嘲弄ちょうろうのような調子で言う。冗談じゃないぞ、そんなのあたしが許さない。あたしら二人とも、そもそもマキのことよく知らないんだからな、おおうらてんと同じようには。視線を上げ、シーラの双眸そうぼうを覗き込む。ああ……と言った途端、はかるの携帯端末に着信。イリチ……はい、もしもし。ええ、気付いたよ。うん、救急車は呼ばなくてもいい。二階のみんなにも、もう大丈夫だって伝えて……え、行ったって、誰が? 三階? と、はかるおもちが徐々に狼狽うろたえていく、のを見て、三階! と反射的に漏らしてしまう。、このこと、Aminadabの皆には。と問うと、いや、まだ言ってないよ。もうみんな寝てるだろうし、さすがに動揺が大きすぎると思ったし……と応える。すると通話を切ったはかるは、こっちに、向かってるって……と愁眉で言う。向かってる、誰が。と問う間もなく、救護室入口の扉が開いた。

 ズラミート。寝巻姿にサンダルのまま、こちらへ向かって一直線に歩み寄ってくる。その後方から、あれはゾフィア・クロソウスカか。二階から追ってきたのだろうか、と分別がつきかねるうちに、シーラとを押し除けて、ズラミートが装置の正面に立つ。

 言い訳は聞かない。眉間に皺を集めながら、低い声で語り始める。お前もするつもりはないだろう。私だって聞くつもりもない。お前が今夜、ここでしたことが、一体どれほど馬鹿げたことか、今更噛んで含めるように教えてやる必要もない。お前がそこまで愚かだとは、さすがに私も思いたくない。怜悧なこわで剣呑に続ける。だが、これだけは言っておかねばならない。お前は、今夜、ここで、お前自身の聖典とうからの両方を冒涜したのだ。吐き捨てるように言うズラミートの隣で、ゾフィアが一瞬なにか口にしかけるが、ズラミートは一睨みで制する。ゾフィアは一歩退いて、口を横に結んで立ち尽くす、のを見てたちも押し黙る。アルコールの摂取と、自殺……ズラミートは小さく呻きながら再び視線を戻す。よりによって、聖典で禁じられている瀆聖の行為をふたつも犯してまで、お前は解放されたかったというのか、アーイシャ。ムスリマにとって誇りであるその名を戴きながら、イマームとして日々の礼拝を執り仕切っておきながら、お前は手前勝手に自分だけ終わってしまおうとしたのか。許し難い冒涜ではないか、お前は聖典の内容に通暁しておきながら、知っていながら敢えてその禁を破ろうとしたな。明くる朝からの、お前の朋輩ともがらたちの日々さえも蔑して、イスラームとして果たすべき務めを怠けたな! 慄えた語尾で喝するズラミートを前にして、もはや誰も差し挟まない。お前はもはやイスラームですらない。全面的な神への服従、その名に値する者ではもはやない。その汚れた身体を見てみろ。お前自身が汚した身体だ。お前は、私と別れた時、清潔などと言っていたな、明朝には綺麗な身体で礼拝に戻る、と。お前の言う清潔とは、急性のアルコール中毒で生命を停止させることだったのか。酒精で消毒して綺麗になった身体で、浄められて死ぬつもりだったのか、お前は!! わかっているのかアーイシャ、もはやお前に帰る場所など残されていない。イスラームはもはやお前のいえではない。だが行くべき場所は定まっている、地獄だ。地獄行きの運命しか残されていない。それがお前の劫罰だ、聖典とうからを冒涜した者にとって当然の運命さだめだ。地獄に堕ちるのだ、アーイシャ。お前はもはや如何なるかたちでもよみされることなく、無に等しい塵としてこんじょうを終えるのだ。それがお前の運命さだめだ、すべからく受けるべき罰だ! と、重なるごとに強まる語気を前にして、ちょっともう、とゾフィアが背後から左肩に手をかける。のも意に介さず、ズラミートは数秒の沈黙を置き、そして、と打って変わって静かに唇を開いた。

 その地獄堕ちに私も付き合おう。

 剣幕を諫めようとしていたゾフィアも、周りを取り囲んでいたたちも、沈黙を破りはしなかった。その運命さだめを、私も引き受けよう。お前と同じみちを、私も行くだろう。そうだろう、アーイシャ。我が友がここまで堕落してしまったのは、私の責任ではないか。お前の失墜を止めることができなかったのは、他ならぬ私ではないか。毎日、お前の隣に立っていたというのに。数知れない夜を、お前と明かしてきたというのに。気付けなかったのは私だ。お前がイスラームですらないものになってしまった以上、私も地獄堕ちだろう。よろしい、異議はない。泣いている、のか。こんな顔で泣くのか、ズラミートは──我が友は。だが、お前にはどうあっても生き続けてもらわねばならない。もはや塵だ、神から見放された身だ。ならば醜く生き様を晒すがいい。心ただしい信徒たちはその姿を見て、自分は絶対にああはなるまい、と思いを新たにするだろう。亡者には亡者なりの務めがあるのだ。アーイシャ、我が友、お前は何らの救いにも値しない者として、それでも神の被造物として生き続けねばならない。それがお前の行くみちだ。今度は、決して、途中で投げ出さないと誓え。もし誓うならば──そのみちきに、私も付き合おう。

 右と左の頬を、交互に拭い、目の前で揺らぐ双眸そうぼうを見つめる。誓おう、ズラミート、我が友。私は取り返しのつかないことをした。これで終われると思っていた、解放されると──しかし、結局は汚しただけだった、己が身体だけではなく、服従を誓っていた神とその聖典さえも。私の肉体と精神はそれほどまでに病み切っていた──ならば、もはや厭うまい。たとえよみされなくとも、この一つ身は神の所有物だ。これ以上、徒には使うまい。もちろん行き先は地獄だ、なんの異議もない。君が共に行ってくれるなら──なんの異議もない。

 私の片手を握ったまま、我が友は泣き崩れてしまう。のを見て、ゾフィアは屈み込んでその背中を撫でている。と、救護室入口からぞろぞろと人影が。朋輩ともがらたちが、一応の気遣いを見せながらこちらを窺っている。シーラ。あれはメリッサ・マッコイか、シーラの共連れが快活な笑みを見せながら、こちらへ歩み寄ってくる。今度は間に合った? 言を受けたシーラは、左目だけこちらへ向けながら、おぼろげに口端をほころばせながら言った。ああ、間に合ったよ。




 それでも三週間は痛むから覚悟しなよ、胃壁の粘膜細胞がごっそりやられてるはずだから。というの言葉を思い出しながら歯磨きを終え、部屋を出る。フロアの彼方には門下生たちがズラミートの周りを囲んでいる。アーイシャ。私が歩み寄ると同時にこちらを振り向く。お体は大丈夫ですか、お変わりありませんかっ。と不安げな顔たちを前にして。君たちが心配することではない、自分でやったことだ……と一呼吸おき、本当に、すまなかった。と言うと同時に両手両足と額を床に着ける。えっ、アーイシャ。動揺する声を高く聞きながら、私の行いが許されるなどとは、夢にも思っていない。しかし、ムスリマとしての君たちの務めを妨げる真似をしたことだけは、どうか、どうか謝罪させてほしい……すまなかった。と床に悔恨の言を垂らす。よしてください、アーイシャ。そうです、わたしたちだって気付けなかったんです、あなたがそこまで思い詰めていたとは……どうか、お顔を上げてください。いつの間にか両肩に手が押し当てられ、上体が起こされていた。見上げると、ズラミートは苦笑のようなものを浮かべながら、いかにも、我が友の行いは決して許されるべきではない。と漏らす。門下生たちは狼狽うろたえて立ち上がり、でも、わたしたちの中でアーイシャほどに聖典の読解に長けている者などいません。アッラーに対する崇敬の深さも……と涙ながらに言う。アーイシャがムスリマでないとしたら、一体誰がその名に値するのですか。との門下生たちのおらびを聴きながら、立ち上がる。君たち全員が、だ。一瞬の沈黙。これからは、君たちが、礼拝を執り仕切りなさい。アッラーは善なす人々を好みたまう。ただ私だけは、酒精でこの身を汚した私だけは、もはやモスクの中に入ることは許されない。と述べると、そんな……と慨嘆の息が漏れる。のも厭わず、これは聖典に忠実である限り、当然の帰結だ。君たちはイスラームとして、アッラーへの全面的な服従を誓う者として、平常通りに務めを果たしなさい。私には……私の仕事がある。と言い切る。立ち上がり、ズラミートと視線を合わせる。では始めようか、我が友。ああ、我が友。今日も相変わらず。


 やはり、呼吸がついてこない。数日前よりもさらに、挙動に伴う肺腑の制御が不如意になっている。しかし。もう一度だ、我が友。この程度の失敗が、一体なんだというのか。昨夜しでかしたあの過誤に比べれば、これくらいのこと。ああ、我が友。背中を合わせ、友の左掌に右掌を絡ませる。頭蓋で瞬いているのであろう神経と、はだえの下で流れているのであろう血管、ふたつの音の波長を合わせなくては。そうか、このふたつだったのか、私が目醒めた時にまず聴いた音は。異なるふたつの肉に閉じ込められた閃きを、どうにかしてり、束ねなくてはならない。できるか。できなくても、試みなくてはならない。そうだ、私たちがAminadabという名で組んだその時から、ずっと続けてきたことではないか。


 おつかれ。と、リハーサルスタジオを出るとが立っていた。ああ……水持ってきたんだ、はい。と、言われるがままにペットボトルを受け取る。ありがとう……あれ、ほら、ズラミートも。私はいい、楽曲のデータを取りに一度部屋に戻らねば。ああ、そう。んじゃ。はもう一本のペットボトルを開栓しながら、遠のくズラミートの背中を見送る。

 君も忙しいのだろう。と一言投げると、えっ? とは眼を丸くする。君たちの次の公演まで、あと一週間もないのだろう。ああ、まあだいぶ仕上がってきたし、楽器隊の仕切りははかるに任せてるから大丈夫だよ。と笑っている。気遣いは嬉しいが……あまり私の心配ばかりされるのは、その……と口籠るこちらへ、いやそんなんじゃないよ、むしろこれが普通じゃん。だってさ、ここ数週間でいろんな、ほんとにいろんなことがあって……と一瞬目を伏せ、もう誰も悲しいことになってほしくない、って、みんな思ってるんだよ。とこちらを正面から見つめて言った。そう、か。うん。ありがとう、。えっ。またしても眼を丸くする。思えば君は、何くれとなく世話を焼いてくれたな……私たちがここに辿り着いた日から。と切り出すと、ああ、まあ、ね。と妙に照れくさそうに返す。初めて会った頃は、ずいぶん刺々しいことを言ってしまった……しかしあれは、君の厚遇に甘えてのことだったのかもしれない。済まなかった、私の不明を許してほしい。いやいいよ、あのとき言われたことだって正論だったしさ。それに、外側から見つめてくれる人がいないと、わたしってすぐにだらしなくなっちゃうから……と眼を線にしてはにかんでいる。は……誰に対してもそうなのか。えっ。誰に対しても、こう屈託なく接して、困っていたら助けの手を差し伸べるのだろうか。そうであるならば、私も君の姿勢を見習わなくては……と思ってな。

 なんだろう、この問いは。問うたのは私だ、しかし、なぜこんなことを訊くのだろう。は数秒間黙ったまま、面相にいくつか異なる情を浮かべたのち、小さく溜息をつき、囁くように話し始めた。

 実は……アーイシャ、似てるんだよね。わたしが、昔……付き合ってた人に。

 沈黙。が、ぶふっ、と噴き出す音で破られる。えっなに、ごめ、やっぱ言わないほうがよかった? へんに狼狽うろたえるを前にして、さらに笑ってしまう。いや、真剣な顔をして何を言うのかと思えば。似てる? 私が? の、昔の想い人に? おかしみをこらえきれず、両腕を臍の前で組んでしまう。よっぽど痩せっぽちの男と付き合っていたのだな。と言うと、ああ……うん。とも笑うのだが、一瞬なにか渋味のようなものが頬に兆したのは気のせいだろうか。笑いもおさまってきたので、両腕を解き、ありがとう、君の友愛の情に感謝する。と言いながら目の前の両手をとる。うん。私のAminadabも、君たちに劣ることのないよう磨き上げる。お互いに最善を尽くそう、生きるに値する仕事のために。うん。それではな。じゃあね……えっと、アッサラーム・アライクム! ふふっ、 wa ʿalaykumu s-salām.


 全能なるアッラーの御名において。アッラーは何人なんぴとにも、その能力以上のことを課したまわない。そうだ、不可能なことを成し遂げるなどと、そのような出過ぎた考えは持ったこともない。ただ可能だと思ったのだ、数学と幾何学を修め、その過程で見出したアッラーの世界創造の神秘を、ダンスで讃えることもできるはずだと。それが私の務めだと思っていたし、今でも思っている。もはやイスラームの名に値しない、禁忌を犯した身だとしても。それでも。

 この地で、土方ひじかたも同じことを考えていたのだろうか。この身、いつか朽ちるこの身、与えられた一つ身だけを振り絞って、それでも何かを捧げなくてはならない、と。死すべきこの身が、別の死すべき誰かに何かを届ける、そんな営みが可能かもしれない、と。

 あっ。楽屋のドアを開くと、そこには。えへへー、来ちゃった。バックステージパスをつまみながら笑う姿。、とはかる……シーラも。呆けて見回す私の傍らで、ズラミートが微笑みかける。呼んでおいたのだ、内緒でな。えっ、と気付けば楽屋内の皆が私を囲んで笑っている。あの、だなあ……君たちにもリハーサルがあるだろうと前にも……いいの、念願の秋田公演なんでしょ。私たちも、前の公演ですっかりやられちゃったしね。と調子を合わせるはかる。溜息をつく私に、アーイシャ、わたしたち祈っています、今回の公演が何事もなく終わることを。と門下生たちが微笑みかける。何事もなく、か。はい。あなたはもうイスラームではないと仰いますけど、わたしたちは相変わらず信じています、あなたもわたしたちと同じ神に仕えていると。と言われ、返す言葉を失う私に、ああ、私も信じている。とズラミートが言う。視線を我が友へ向けると、ほのかな微笑を浮かべたのち、それに、君もだろう? と言いながらシーラの方へ目配せする。ああ、もちろん。シーラは小さく胸を反らせて、大いにやれよ、アーイシャ。もう誰のためとか何のためとか考えなくていい。自分のためでも……マキのためでなくてもいい。ただやってみせろよ、お前が選び取った仕事を。柔和に言うその声を聞きながら、シーラの双眸そうぼうを覗き込む。そうか、過去に存在した、果敢はかなくなっていった者たちの想いが、間違いでなかったと証明する。彼女はそのために唄うと言っていた。ならば、私も。

 Subhan Allah.


 慈悲深く慈愛遍きアッラーよ、私はなんと愚かなのでしょうか。今、ようやく解りました。なぜあなたが私をおつくりになったのか。なぜ故郷から追放し、諸国を放浪させ、この遠い島国にまで送り込みたもうたのか。

 務めを果たします。




 プログラムの大トリだったとはいえ、ここまでの叫喚があるだろうか。数十分間の演目を支配していた、永遠のような沈黙。が、拍手として、喝采として、いまステージ上で並び立っているふたりの舞踏家への称賛として沸きかえっていた。

 本当に人間なのかな。呆けて呟くに、シーラは微笑し、人間だよ、人間じゃなきゃできない。と返す。アーイシャとズラミートは、場内の叫喚が収まるのも待たずに、互いの手を取り、高く挙げ、目前の観客へと一礼した。いや、こうべを垂れているのは、私たちのためだけではない。彼女らの信じるもの、神、と呼ばれるに値するもの。まさにその現前を目にしている、そんな気がした。有限なる彼女らの、有限なる仕事の達成によって。


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