Interlude III 抱擁


 とは言え、どうすればよい。あんなことをしでかした友に、これからどう向き合えば。おのみちおのみちですが。急性アルコール中毒の予後に行うべき処置を教えてほしい。例えば、飲ませておくべき栄養剤などはあるのだろうか。ええと、現在のアーイシャ様のご容態ですと、あの装置による手当のみで十分と思われます。それでも何かあるだろう、先ほどもが三週間ほどは痛むとか言っていたし……そうですが、基本的には今後もこれまでと同じ生活を維持できるようにする、以外に手はないのです。はかる様も同じことを仰っていましたから……はかる。はい。はかるは何か、医療系の学校にでも通っていたのか。いえ、たぶん違いますが……なんでも、経験があるのだそうです。経験とは。先ほど断片的に聞こえた程度ですが、様も以前、アーイシャ様と似たことをしたのだとか。アルコールを一気飲みして自殺を図って、すんでのところをはかる様の処置によって助けられたのだとか。実は、今回迅速にアーイシャ様を手当てすることができたのも、はかる様の指示によるところが大きかったのです。


 何かあった? 深夜に部屋を訪れたにも拘らず、屈託なく迎えてくれる。もしかして、また人手が要りそうになった。いや、一階ではシーラも看護についてくれているから、とくには。そう。と通り一遍の会話を交わしていると。向こうのベッドからも身を起こすのがわかる。ので、すまない、はかるとふたりで話させてもらえるか。と一言だけ投げる。私だけ……いいけれど。ああ、数分で済む。

 共用キッチンの前まで歩き、立ったまま話す。はかる、その、まずは、ありがとう。言うと、ふふっ、とくしゃみのような笑みを漏らし、私じゃなくてシーラに言うべきだよ、彼女が見つけなかったら助けようもなかったんだから。と手を腰の後ろで組みながら返す。ああ……立ち止まり、踵を返し、はかる……先ほどおのみちから聞いたのだが。と正面から対峙する。なに。君ととの間にも、昔、このようなことがあったのだとか……つまり、親しい友人に先立たれそうになった、と。言葉を選びながら切り出すと、ああ……とはかるはこちらの意を察したらしく、が、ね。もう四年前かな。と微笑を崩さず応えた。まさか、君と私の友がそれぞれ同じようなことをするとは……本当にね、因果な話。教えてもらえないか、はかる。なにを。どうすればよいのだろうか……友がああいうことをしてしまった後に、どのように計らえばよいのだろう。つまり、心身のケアについてだが。と乞うように問う。と、数秒黙ったのちはかるは、そうね、私があのとき気をつけたのは、今までの生活を今まで通り送れるようにすること。タバコや酒、はアーイシャとは無縁でしょうから……やっぱり食事と睡眠を毎日決まった時間にとらせる、しかないんじゃないかな。と懇切な答えが戻る。そうか、先ほどおのみちも同じようなことを言っていたな……身体の器官じゃなくて精神的な失調でしょうから、どんなにゆっくりだとしても、彼女が快方に向かうまで付き添ってあげるしかないんだと思う。それはそうだが……精神的なケアというのは、どうすればいいのだろう。えっ。私はイスラエルの新聞で記者をやっていたから、ガザやヨルダンの難民キャンプでむごい処遇を受けた人々の心身のケアについては、少なからず知見がある。しかし今回の件は純粋にアーイシャ一人の問題だ、君が言った通り付き添うとして、どのように振る舞うべきかわからない。言いながら次第に陳情めいている自分に厭気が差し、教えてくれないか、はかる。落ち込んだの状態を回復させるために、君はどのようなことをした。と直截に問うてみる。

 沈黙。が数十秒ほど続く。どうしたのだろう、先程のように淀みなく答えてくれると思っていたのだが、はかるはずっと視線を逸らしたまま何も言わない。やはり、説明しづらいことだろうか……とこちらから伺うと、いや、そういうことでも……ないの。と返す。なんだろう、初めて見るな、この人の愁眉は。では、教えてもらえないか。君は友のためにどのようなことをした。それと同じことを、私もアーイシャのためにしてあげたい。言うと、はかるは沈黙を堪えかねたかのように、唇を開く。

 愛してあげた……私は、あの子を。

 ええと……もっと具体的に言ってもらえると有り難いのだが。と再度問い質してみると、はかるはいっそう眉根を寄せて、ごめんなさい、馬鹿げて聞こえるとはわかってるけど、事実だから。と視線を逸らす。その、不勉強ですまないが、日本語で「愛する」という表現にはなにか医療上の意味も含まれるのだろうか。 take care of 的な……そういうわけでもない、言葉通りの意味だよ。問い質すごとに五里霧中の感が強まり、はかるが黙るとともにこちらも継ぐべき言葉を失ってしまう。呆けて立ち尽くすだけのこちらへ、はかるは何か迷いを振りほどくように、まなじりを決して言った。

 愛してあげたの、私は、あの子を……肉体的に。

 沈黙。何を言ったのだろうかこの人は。いやわかっている、いま私が聞き取った文章の意味などひとつしかない。しかし、冷静沈着で礼儀作法もわきまえていると思っていたこの日本人女性は、いきなり私に何を言ったのだろう。ズラミート。ぎりっ、と左奥歯を噛みしめる音が頭蓋に響き、気付けば踵を返していた。あのっ、ズラミート。と呼ぶ声に、左頬だけ向けて応える。君に訊いたのが間違いだった。




 女はゴモラを持ち、男はソドムを持たん。そして両の街々がどのような運命をたどったかは聖典に明瞭はっきりと書かれている。そうだ、硫黄の焔に焼かれて死ぬのだ、淫欲を弄んだ者どもは。しかしこくはかる、彼女までそうだったとは。そのような淪落を貪ったことを、他ならぬユダヤの実践者ハレーディである私に告白するとは。

 救護室に戻り、アーイシャの傍らに付き添っているシーラのおもてを眺める。たしか彼女もはかると親しくしていたはずだ、となれば、まさか……いや、考えたくもない。異教の徒はともかくとして、同じアブラハムの宗教に連なる彼女までもがそのような……どうした? いや、すまない、なんだか疲れてしまって。無理もない、すこし寝たらいいよ。あたしは夜通し祈るから、アーイシャに何かあったとしても気付ける。そうか……すまない、先に休む。ああ、おやすみ。




 夜明け前の礼拝を済ませたAminadabの門下生たちが、モスクの中から歩み出てくる。おはようございます、ズラミート。ああ、おはよう。アーイシャは……大丈夫ですか。今朝の容体を見たところ、平常時と同じ程度には回復したようだ。そうですか、よかった……と三階のフロアで話していると、エレベーターのベルが鳴る……ゾフィア。小さく手を振りながらこちらへ歩み寄ってくる。珍しいな、君がこんな時間に……と言うと、ああ、今日は通しのリハだからね、早起きして身体作っとこうと思って。と目の前で笑う顔、が、徐々に面相を変える。ズラミート、ふたりで話せないかな。ほんの数分でいいから。

 聞いたのか、はかるから。日用品が備蓄してある空き部屋のドアを閉め、傍らのゾフィアと目も合わさず話す。ああ、さっきね。キッチンで朝食作ってたらはかるも来てさ。何か言いたげだったからどうしたのって訊いたら、夜中にズラミートと話して、そのときもしかしたら、取り返しのつかないことを言ったかもしれない、って。また左奥歯を噛んでしまう。どうでもよい、訊いた私が悪かったのだ。と一言で取り下げると、はかるも眠れなかったって言ってたよ、昨晩。きっと自分たちが通ってきたみちのこと、ずっと思い出してたんじゃないかな。と背中から慰撫するような声。だから何だ、私とは関係ない、彼女らがどうしてきたかなどは……とねつけようとする私、の喉に、ふたつの摩擦。何、これは、腕、か。ゾフィアの。突然にぬくもったししを首元に押し当てられ、反射的に右掌で阻む。何をしている、と咎めながら、ふれているはだえの下の筋骨が指を介してさやかだった。正しくない、とは思うよ。でも間違ってないとも思うんだよ、はかるがしたこと。と言う声を耳元に聞きながら、私の身体を背後から掻き抱くゾフィアの腕を引き剥がそうとする、が果たせない。放せ……ズラミート、聞いて。私も思ってたよ、死なないでほしい、って。瞬間、喉元を声ならぬ声がよぎる。あなたが祖国での難を逃れて、クラクフに来てくれた時。これから一緒に音楽の勉強できるんだって嬉しかった、のとは別に……死なないでほしい、ってずっと思ってたよ。この人の身の上には悲しいことが起こってほしくない、少なくとも今のような、憩えるひとときがずっと続いてほしい……って思ってたよ。はかるも、そうだったんじゃないかな。あなたが死なずに生きていてほしいって、わかってもらうために愛したんじゃないかな。その思いも行いも、全部間違ってたとは、誰にも言えないはずだよ。

 この、胸から溢れる嗚咽は、厭悪のためか。それとも、もっと別の何か。わからない、わかるはずもない。床に膝をつき、首元に纏わるゾフィアの腕に掌を這わせ、互いの五指を重ねる。ふふっ、実はさ、うちのお婆もやってくれたんだよ、こうやってぎゅーって。耳元で柔らかなこわが聞こえる。本当に辛いことをいっぱい語ったあとでね、お前たちにはこんな思いをしてほしくない、無事であってほしい、って。ああ。声に応えるように指先に力を込める。私がお婆からしてもらったことを、あなたもアーイシャにしてあげて。それで嫌がられたら、私とお婆のせいにしていいから。もう、これ以上思い詰めないで。あなたの中に確かにあるものを、躊躇ためらいのために消そうとするのはやめて。




 やっと、できた。通しでのリハーサルを終え、アーイシャがスタジオ内の鏡の前で嘆息する。ああ、ようやく本調子を取り戻してきたな。と背中から声をかけると、本当か。と頬をほころばせながらこちらを向く。もちろん、お世辞など言うものか。よかった、取り戻せなかったらどうしようと……瞬間、突然に下肢のバランスを崩す。アーイシャ。左肩と右脇腹を支え、かしぐそのおもてを窺う。大丈夫か。あ、ああ、大丈夫……軽い立ち眩みだ。小さく息を漏らしながらこちらを見上げる、その姿を前にして、ふいに鼓動が高鳴る。ふれている身体とは異なる脈拍が、両掌を介して伝わっている、伝わってしまっている。ズラミート……? もはや否応はなく、眼下の身体を正面から抱きしめる。胸の鳴りが早鐘となり、後頭部にあてがった指先も撓み慄える。ズラミート……と呆けたような声を耳元に聞き、ながら、友の髪のひとすじをく。アーイシャ、我が友よ。どうか死なないでくれ。どうか……継ぐべきだった言葉が喉で窒息し、これ以上続けられない。なんとか立位だけは保ちながら、目の前の身体を抱きしめることしかできなかった。

 ああ、ズラミート、我が友よ。私も一緒だ……死なないでくれ。アーイシャの両手が背中に添えられる、のがわかる。ふふっ、思えば……母も父も、こんなことは滅多にしてくれなかったな。と微笑む姿を見おろし、そうか……実は、私もだ。と言いながら、掻き抱く両腕にもう一度力を込める。ああ、このふたつ身が、別箇に縫製された肉たちが、同じ拍を打つこともなく、どうしようもなく異なり続けるままに在ることができたとしたら。それは奇跡だろうか。それとも平々凡々な俗事にすぎないか。どうでもよい、なんでもよい。この願いを、祈りを、愛と呼ぶことができるなら。私はもはや灼かれてもいい。誰に咎められようと、構わない。


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