30 こよなき誕生


   鳴らずもがなの琴を弄う

   瞬く太陽の導くままに空を掘る

   眼下には陸地があり

   不吉な穴が 信じの砂に深く穿たれている




 一緒に、か。リハーサルスタジオに集った一同の中で、イネスが一番先に応える。うん、わたしら昨日、秋田から戻る新幹線の中で話してたんだよね。とアーイシャに目配せを送ると、ああ、だしぬけな申し出だとは思うのだが、どうしても君たちと一緒の仕事に取り組みたくて……と一同を正面から見据えながら言う。いいよ、もちろん。と笑顔で受けたのはゾフィアで、この数週間で、あなたたち二人も色々なことをしてくれたもんね。逆にがしてあげられたこともあったみたいだし。と続けた。ただ、参加すると言ってもね……あと三日のリハーサル期間しかないのに、ものにできるかしら? とエリザベスが差し挟むと、もちろん、全曲に参加するわけじゃないぞ。セットリストの幕間にいくつか特別な演目を置いて、そこでAminadabにも出てもらう。とシーラが応える。ズラミートの曲にアーイシャが振りを付けて、そのコンセプトに合いそうなやつらをあたしらの中から何人か出す、って段取なら問題ないだろう。それとも引き出しが無さすぎて急な要請には応えられないか、女王様? なに……それくらいできるわよ、私を誰だと思ってるの。では、すぐにでも演目を決めようか。そこで使う楽曲というのは、もうあるのか? うん、とりあえず全部聴いて、この中から選んでもらうよ。そのあとでアーイシャに振り付けてもらえばいい、ね。ああ。じゃ、やってみますか。


 だから違うと言っている! と、スタジオの鏡を前にしてまたもアーイシャがおらぶ。違うって、なにが……? とイネスがおずおず訊くと、さっきも言ったろう、ここで動きが乱れては困るのだ! どうして君たちはこう、パラパラと統率もなく各々勝手に動くんだ! と振付師は憤ろしく応える。そりゃだって、わたしらのルーツってヒップホップとかR&Bだし……と教授キョウジュが苦笑すると、だからといって、振付に手を抜いていいのか! 以前から君たちのライブ映像を観て思っていたが、何なのだあれはステージ上をタラタラ歩いたり停まってみたり、散歩じゃあるまいし! 客に観てもらう演目なのだぞ、もっと緊張感を持たないか! とより一層嘆かわしく言う。

 ねえアーイシャ。と後ろから肩を叩く。なんだ……あのね、その意見も正しいとは思うけど、わたしらにはわたしらの舞い方があるんだよ。と諭すと、怪訝な顔で振り向く。その舞い方、とは。うん、アーイシャがAminadabでやってる、幾何学的ですごく統率された動きのダンスもあるよ、昨日観て改めて思ったけどあれはほんとに凄い。でもね、統率されてないからこそ複数のリズムを孕むような、そういうダンスもあるんだ。と話すと、複数の……と飲み込み難いような顔。ね、教授キョウジュ、例えばさ。と助け舟を求めると、ああ、たとえば四分の三拍子でやるとして、一六じゅうろくで割った一二じゅうに拍を四で取るか三で取るか、みたいなね。と筋道立ててくれる。そうそう、同じ拍子記号の中で違うリズムが同時進行するやつ。プログレみたいにカッチリしてなくて、もっとダンサブルなやつね。ていうか、わたしらが元ネタにしてる黒人音楽にはそういうのが標準で備わってるんだよ。と言うとアーイシャは、同じでも、違う……と下唇に右手の甲を当てながら考え込んでいる。何も難しいことじゃないよ、わたしらχορόςではそれぞれ別々の演目をやってた。そういうやつらが集まって一緒に組むって決めたとき、自然とそうなっていったんだ。ねイネス、個性バラバラのやつらでも問題なく調和できるようなリズム、つまり……適切な語彙が出てこなくて人差指で宙をくるくると攪拌する。のを見て、イネスは引き受けるように大きく頷いた。そう。揺らぎ、だよ。

 揺らぎ……アーイシャは両眼を大きく見開いて呟く。揺らぎ、か……アッラーはそのようなものまでおつくたもうた……胸の前で両手を合わせ、蕩けたように言う。済まなかった、私の無知を許してほしい。どうか教えてくれないだろうか、揺らぎ、について。ああ、もちろん。さっきの振付、もっかいやってみよう。




 小休憩の合間にも、アーイシャはやイネスたちと振付の打ち合わせをしている。私と合わせているときとは違う、まるで悪戯でも企てているかのようなおもちで。ああ、我が友、やはり正解だったな、彼女らの仕事に加わると決めて。多くの異なる人々と交わらなくては学び取れないこともある。

 よっ、の一声とともに、私の頬にペットボトルが押し当てられる。見ると、傍らにゾフィアが座り込んでいた。水も飲まずにずーっと見てるからさー。と笑いながらボトルを床に置く。のを見て、気後れしたように私も冷水のボトルをタオルで包む。ああ、いや、面白いものだなと思って……私らと組むことが? それもだが、リハーサルを通して、アーイシャが次々と初めての表情を見せるようになって……と漏らしながら、鏡の前でなにか冗談を言うイネスにつられて噴き出すと我が友の姿を遠く眺める。初めて見るな……彼女の、あんな顔は。と言うと、ふふっ、と口笛のような微笑とともにゾフィアが肩を寄せる。そうだね、こんな顔、私も見たことない。と上目遣いで言う、その意味が遅れて察せられ、顔を背けてタオルをゾフィアに投げつける、その姿を見てまた笑う声が聞こえる。揶揄からかうんじゃない、とでも言ってしまうとまた半畳はんじょうを入れられるに決まっているので黙っていると、クラクフにいたときも、こんな感じだったね。と今度はやけに淑やかなこわ。誰かとセッションしたいーってやつらばっかり集まってて、譜面さえあればどんな曲でもってた。ああ……懐かしいな。ズラミートも最初はちゃんと編曲したやつじゃなきゃやだって言ってたけど、すぐに慣れて、チェロでミンガスの曲ったりした。ああ。あの頃は楽しかったな、好きなことを好きなだけ学ぶ環境があって……あるんだよ。えっ。今だってあるんだよ、ここに。と笑う表情には、しかし一欠片の揶揄もなかった。世界にはもっと色んな場所があるんだよ、ズラミートにとっても、アーイシャにとっても、誰にとっても。がこの城を建ててふたりを受け入れたのだって、その実践だったんじゃないかな。ひとりじゃできないことを誰かと分かち合う。少なくとも私たちは、χορόςでそういうことをやってきたよ。

 そう、か。とだけ言って黙り込む。そうだ、ゾフィアの祖母がクラクフに呼んでくれたのだって、いわばしりマキが滞在先として日本を選んでくれたのだって、つまりはそういうこと。この世界にはもっと多くの場所が……と沈思していると、で、これからはそういうことも学んでいってほしいなと思うのでありますよ、わがともー。といつもの顔で笑う。のでこちらも微笑んで返す。わかってる、もう学んでる。ねえねえ私のことはわがともって呼んでくれないのー? あれはアーイシャのためだけの呼び名だから……えーなにそれ冷たいなー。君は私と同じユダヤ教徒なのだし、取り立てて言うまでもないだろう……




百万もの鳩らが

地球の軌道を廻る 血の涙を湛えて

乙女を強いて こよなき誕生を収める




 何も起こらないことを祈ろう。と、開演三〇分前にが言う。いや間違えた、何かが起きることは祈ろう。はは、どっちだよ。だって、何かが起きるには決まってるんだよ……でも、悪いことだけは、取り返しのつかないことだけは起こらないと祈ろう。わたしらのやってることは、どうしても他の誰かには届いてしまう、それは避けられない。でも……アーイシャたちがテル=アヴィヴで遭ったような、そしてわたしらが競技場で出くわしたような、誰かが理由もなく犠牲になってしまうような事態とは、正反対のものを出現させられるはずなんだ。と熱っぽく言うのを見て、みな聞き入っている。だから祈ろう、どんな神でもいい、自分が信じてる、なにかおおきな存在に。絶対に非暴力的で、しかし誰かの人生を圧倒的に変えちゃうようなことが、今日ここで起きることを祈ろう。いいね? 言い終わると、輪になった一三じゅうさん名がそれぞれに顔を見合わせ、頷く。いやーしかしまさかわたしらが円陣組むなんてねー、こういうノリとは無縁だと思ってたけど。いいんだよ、ベタなのはやっといたほうが。なんか掛け声いっとくすか? いやいい、それはさすがに恥ずい。あははー。じゃ、三〇分後、あのときと同じ曲で始めるよ。ええ、もちろん。




虚無の中で私は生まれ 大洋と素粒子の中へと入った

造られざる光の中で 神託が浮かび上がった




 ってわけで、今回はAminadabのパート増えたから。ああ、滞りなくやるさ。名古屋公演であんな評判だったんだから、今日いまいちやったらツアーファイナルにも響くでー。なんだそのアクセント……こそ前みたいに歌詞飛ばすなよ。あーれは飛んだんじゃないって、ギリギリで即興したんだって……




百万もの鳩らが

地球の軌道を廻る 血の涙を湛えて

龍を屠り こよなき誕生を収める




 うおー花輪! そうすよーあたしも着いたときびっくりしたっす。あらあーDARAHA BEATSだ、わたしが初めて音源置かせてもらった店……キョードー西日本って、これもしかして古市さんが贈ってくれたのかな……さすがに個人ではないでしょう。でも知念さんのもあるよ、ANDYOURSONGのも! うわーすげーなんか照れくさい。ちぬんも安影やすかげさんも観に来てくれてるらしいっすよ。何だったらこっちで招待券出したのにな、色々ありすぎて気が回らなかったな……ほら、こっち。え。肝心のものを見落としてるよ。あ……学習塾「才」代表:きゅうぞう。えーあいつもかよ! ふふっ、聞かされてなかったの。だってあいつ塾あるから観に来れないって言ってたんだよ、でも花輪は贈ってくれたのか……はは、よく見りゃバラバラの色の花ばっか混ぜてるな、慣れないことしたのバレバレ。いいじゃないすか、あたしらっぽいすよ。だね。じゃ……ついにツアーファイナル、福岡。ええ。やり切ろう。あのときひるんでもめなかった、それが間違いじゃなかったと証明しよう。




もう泣くまいよ

やんごとない沈黙が 私の帰路を導くだろう




 終わっ、た。これで全部。楽屋に集った全員、誰も口を開かない。そりゃそうだ、一体何が言えるだろう。わたしらがこの夏にけみした、あまりにも、あまりにも多くのことを、どうして分別顔ふんべつがおで総括などできるだろう。ただ洗った顔をタオルで拭い、椅子に着いて水を飲む、その沈黙の所作だけがこの収穫を分かつ唯一の手段だった。無駄じゃなかった。

 お、着信。なに……【非通知】。こんなタイミングで誰だろ、運営の人かな、それともドゥさんが考え改めて電話かけてくれたとか……にしたって非通知にする必要ないしな、とか思いながら楽屋を出て【受話】ボタンを押す。

 はいもしもし。

 、ですね。

 この声……聞き憶えが。全部終わったみたいですね、お疲れ様でした。もしかして……。憶えておいていただけて光栄です。と抑揚のない声が返る。お前……いったいどこにいんの、今まで何してたの。答える必要はありません。、今からすぐに来てもらいます。来てもらうって……どこに。アナタが、初めて母とはかるさんを引き合わせた場所に。って……あれか、なか川端かわばたのアイリッシュパブ。なんでそんなこと……答える必要はありません。もしアナタが応じなければ、どうなるかわかりますね? わか、んねえよ、なんだよそれ。おや、おかしいですね。なぜワタシは今こうして電話をかけることができているのでしょうね? この携帯電話、誰から奪った物でしょうか? えっ……、ここは福岡ですよねえ。アナタにとって大切な人々も、大勢生活している街ですよねえ。たとえば……元恋人の男性、とか。

 お前……何した。お前、きゅうぞうに何したんだよ。答える必要はありません。が、おかしいと思いませんでしたか、あの人のいい男が、よりによってアナタのツアーファイナルに顔を出さなかったなんて? つまらない仕事なんて放り出して会いに来るのが普通ではありませんか? にも拘らず姿を見せていないなら、それは何を意味するのでしょうね? ……教えろ、まさか殺してないだろうな。そんなつまらないことはしませんよ、マキでもう懲りましたから。ただ、アナタが応じなかった場合には……わかった、行く、すぐ行く。場所、なか川端かわばたのHAKATA HARPって店であってるか。ええ、そこで待っているはずですよ、アナタがずっと探していた人がね。

 えっ……それって、まさか。それでは。ちょっと待って、お前もそこにいるのか。いいえ、もういなくなるでしょうね。なに……ワタシの存在なんてどうでもいいことですよ。それより、遅くならないうちに来てくださいね。待て、その前に約束しろ、きゅうぞうに一切手は出さないって。当たり前じゃないですか。え? 元から手なんか出しちゃいませんよ、この電話だって公衆電話からかけているんですし。は……? ふつうに話したんじゃアナタの注意を惹けませんからね、ちょっとハッタリかけてみただけですよ。アナタの元恋人とやらは、今頃いつもどおりに夜飯でも喰ってるんじゃないですか? なん……なんそれ!? それでは、。最期に話ができて嬉しかったですよ。また会いましょう。

 あっ、切れた。なんだよ、なんだよそれ。最期、って、なのにまた会いましょう、って……思いもしない長電話に付き合わされて楽屋に戻ると、もうアーイシャしか残っていなかった。あれ……呆けて室内を眺め回すわたしに、……どうした? とアーイシャが衣装を纏めながら訊く。いや、みんなどこいったのかなと思って……もう搬入口に行ったよ、ホテル行きのタクシーが待っているからと。あ、そうなの。は何やら廊下で長電話しているからと、はかるたちは気を遣って先に行ったようだ。そっ、か……ねえ、アーイシャ。どうした。はかるに……伝えといてくれないかな。ちょっと行かなきゃならないとこがある、でもすぐに戻ってくる、って。行くって……こんな時間にか? うん、急な用事なんだ。でも必ず戻ってくるから、みんなにもそう伝えといて。




 搬入口に待機していたタクシーに、ホテルではなくなか川端かわばたまで行くよう頼み、三〇分もしないうちに到着する。HAKATA HARP……もう閉店してるよな、こんな時間だし。でも、あいつが来いと言ったからには……いやに高鳴る鼓動を抑え、階段を降りて地下の入口へ向かう。照明が落ちている店の扉の前に立ち、深呼吸ひとつ、手をかける。開い、た。鍵がかかってない、ってことは。

 墨をこぼしたような暗闇、その店内の中央に一つあかりが。蝋燭。一体誰がどこから、と怪しみながら歩み入る。あの入口側の壁面に大きく描かれている、いまいち似ていないジョイスの肖像画を懐かしく眺めながら、蝋燭の置かれているテーブルの前に立つ。と、そこには。


 

 これが聞こえるってことは生きてるね?


 あなた、なの。暗闇から這い出るようにあらわれた姿を前にして、茫然と問うしかなくなる。もうヒジャブは着けていないのか。あの髪、するりと指の間を逃げ抜ける河のような髪。大好きだった。そう、誰にも見せていないものを、わたしの前では露わにしてくれているようで。そしてその眼……深い緑が燃えているような瞳。アーイシャと似ていると思っていたけど、いま前にしているものはやっぱり違う……何度も、何度もその光でわたしを焦がした眼。あなた。、なの。

 目の前の姿は、無言でテーブルに上体を伸し掛ける。蝋燭の脇に両肘を突き、立ち尽くすだけのわたしを見上げながら言う。そうだよ、。ああ、この声。何度となく聞かされた、初めて出逢った日、会うたびにはだえを重ねた日、一方的に置き去りにされた日、その後でも耳元から消え去ることはなかった、あの声。これ、わたしの幻覚じゃないのか。またの姿を勝手に思い描いているだけ、なんてこと。疑いを掻き消すために、わたしもテーブルのへりに臍を当てて前のめる。……わたし、聞きたいこといっぱいあるよ、ありすぎるよ。言うと、は静かに右腕を挙げる。のに応えて、わたしも左腕を上げ、掌を合わせる。五指が絡み、双眸そうぼうぐわう。なんで、置いてったの……あのとき、ってもう四年前になるのか……なんでわたしだけ置き去りにしたの。問うと、言ったでしょ、を試したかったから。と答える。あのときすでに、は十分いいところまで行ってた。だからわたしがいなくても大丈夫かなって。思った通りだったよ、。あなたはわたしなしでも、おのずからするべきことを見つけていった。音楽……わたしのできないことで、わたしと同じ仕事に携わってくれた。なに、それ。あのドゥって人をけしかけてχορόςやらせたのも、そのためだったの。あれはあくまで手段にすぎないよ。が自分の仕事を見つけた以上、網をかければひっかかるんじゃないか、ってね。で、実際にそうなった。『桃太郎』って、すごい小説だと思わない? ってか……ふふっ、そんなことまで憶えてくれてたんだね。嬉しい、

 そうだ、は……あの子はどうなったの。今、どこにいるの。もうったよ、あなたより先に。ったって何処に……あなたが今からくであろう場所に。えっ。正直ね、あんなにできのいい子だとは思わなかった。あの子もと同じくらい音の才能があったんじゃないかな、ある意味ね。なにそれ……GILAffeジラフのこと。ああ、あれはね、ただの副産物にすぎないんだよ。本当はもっと別のことをやろうとしてた。GILAffeジラフみたいなのが本当にできた以上、わたしの目論んでることは間違いじゃないって確信にはなったけどね。そしてそれが成った今、もうはいなくなった。

 そうだ、いつもこうだった。途中の説明をすっ飛ばして結果だけ言う。今はまだわからなくていいみたいにはぐらかして、そのくせ成って果たされた物をわたしの口に詰め込んでくる。……胸のうちに渦巻いているものを吐き出そうとする、のが制される。スマートフォンの画面がタップされ、SpotifyとDyslexiconのロゴマークが浮かび上がる。それよりも、訊くよりも先に確かめたほうがいいんじゃない。えっ。わたしが、本当に、存在するかどうか。もしかしたら、またいなくなっちゃうかもしれないよ……言いながら、プレイヤーのプレイリストを再生する。なんだろう、アンビエントのアコースティックとでも形容すればいいのか、シンプルに抑制されたギターのアルペジオ。音楽がわからないわたしにも、その場にうってつけの音楽を選んでくれる……うん、ドゥさんもいい仕事をしてくれたね。室内に流れる唯一の音楽が静かに唄いだし、わたしたちふたりもおもてを寄せる。大きな音立てちゃだめだよ、上の階のひとたちはもう閉店したって思ってるでしょうし。誰か来たら台無しになっちゃうからね……わたしたちが交わす音は、繊細でなくちゃ。悪戯っぽく微笑むその唇、に飛びつく。むしゃぶる。もう声ではない声が咽ぶ。テーブルの縁の阻みを腹に感じながら、ふたり座礁した鯨のようになってみあう。そうだ、この香り。だ、忘れられるわけがない、だってこの身体が憶えてる。唇を離すと同時にテーブルに飛び乗り、蝋燭が倒れないようにスタンドを押さえながら、両腕を開いて迎え入れる。仰向けになったわたしにが寝そべり、垂れる髪をそのままにしてくちづけあう。そう、耳、首筋。わたしが昂るところを指でいじめる、そのしかたですら憶えている。またあられもなくされる、愛の肢体てあしに撫でられて。。身体と言葉でお互いの存在を確かめあう、その営み自体が音楽のようで。音楽……? 傍らで流れている曲が朗々と唄い、そしてわたしの意識は朦朧としはじめる。……なにか、したの。わたしの身体になにかした。何を言ってるの、ずっとこうしてきたでしょ。初めて出逢った夜から、何度となくはだえを重ねて、こうして……




 行ったって、どこに。ヒルトンホテルのエントランスに到着したアーイシャからの不在をしらされ、そう問うしかなくなる。わからないが、行かなきゃいけない場所がある、必ず帰ってくるからと言っていた……まさか、家族に何か不幸があったとか。そういうわけでもなさそうだった、何かすごく個人的な事情のような……言われても何がつまびらかになるわけでもなく、二人で顔を見合わせて立ち尽くす。

 我が友。声の方を向くと、エレベーターの中からズラミートが。どうした。どうしたって、知らないのか。向けられたスマートフォンの画面を覗き込むアーイシャ、の姿越しに、エントランス内の様子を見回す。あれ、フロントで立ち働いていたスタッフが……いない。おかしい、さっきまで……歩み寄って見ると、二人倒れていた。まるで突然意識を失ったかのように。これは……はかる。背後から声が掛かる。見てくれ。向き直り、掌中のスマートフォンの画面を凝視する。これは、緊急ニュース……ですらない、単なる夜のニュース番組。なのだが、そこに在るはずのアナウンサーの姿がなかった。一方で、磨りガラス越しに映されている後方の報道部らしき区画では、何やら慌てふためく人影が見える。何……何があったの。わからないが、この国のみならず全世界で、大勢の人間が一斉に意識を失ったと……一斉に? そんなばかなことが、と思いながら背後を振り返っても、そこにはフロントに倒れたままのスタッフが二人。エントランスの向こうでは、おうい、なんですか、なにがあったんですか、とタクシー運転手たちが狼狽の声を上げている。

 はかる。またエレベーターから歩み出てくる姿。ヤスミン、あなた無事だったの。はい、私は……ってそれどころじゃありません、ハンが……ハンだけじゃない、皆、皆ああなっちゃったんです。と言いながら、慄える指で倒れているスタッフを指差す。ああなった……つまり、気を失ったと。アーイシャが率直に訊くと、ヤスミンは返事もできず頷くだけ。全員、本当に全員なのね、イリチも、シーラも。と問うと、はい、さっきみんなで打ち上げどうするか話してたんですけど、そのとき一斉に……あなただけ無事だったの。はい、なぜか……あなたと、私と、アーイシャとズラミートだけ……なぜか無事だった。

 この四人……なに。あるでしょう、共通項が。なんだ、なんの話だ。κωμόςコーモス一三じゅうさん人の中で、私たち四人は、GILAffeジラフを入れていない。あっ……それはそうだが、この事態と何の関係が。いまネットで収集できる限りの情報を見ても、意識を失った人々は政府高官とか報道局とか、いかにもGILAffeジラフの助けを求めそうな人ばかり。ってことは……GILAffeジラフのせいなのか、これは。そうとしか考えられない、少なくとも今の時点では……

 はかるさん。

 何。えっ……なにって、なにがですか。いま呼んだでしょう、私を。いえ、何も……はかるさん、聞こえるかな? わたしのこと憶えてる? 何これ、私にしか聞こえてない、ってこと。ごめんなさいね、いきなりこんなことになっちゃって、びっくりしたよね。でも大丈夫、もちゃんとけたみたいだから。……これだとちょっと話しづらいから、直接会って話せないかな? うってつけの場所も用意したんだ。あなたが初めてわたしと会った店、わかるよね? はかる……おい、どうしたんだ。行く。えっ? 行かなきゃいけない、私も……行くって、のところか。待ってください、はかる……じゃあ待ってるからね、会えるのを楽しみにしてる。ごめんなさい、ヤスミン。もしみんなが目醒めたら、伝えておいて。と一緒にはかるきましたって。もしかしたら、戻っては来られないかもしれない、って。




 宵闇にそれは立っていた。あの姿、百済くだら。忘れもしない、忘れられるわけがない。たった一度の対面で、私に多くのものを刻み付けた。そして数々の逢瀬でのなかにどれほど多くのきずを残したか知れない、あの……いらっしゃい。嬉しい、ほんとに来てくれたんだ。電灯ひとつない闇のなかでは、溶け尽きかけている蝋燭ひとつが手がかりだった。どうする。どうすればいい。何度となく考えたはずだ、あいつに再び会うことがあれば、と。殴り倒してやる、全身の骨を折ってやる、地を舐めさせてにしたことをはらの底から悔悟させてやる、際限もなく考えた。しかし、今こうして生身の姿を前にしても、本来あるべき感情は湧き上がってこない。何をしたの。問うと、したっていうか、ずっとしてただけだよ、そしたらこうなっただけ。と答える。百済くだら、あなたの言葉遊びに付き合うつもりはない。外で起こってる事態にも、どうせあなたが関わってるんでしょう。説明しなさい、一体あなたが何をしたのか。これ以上しらばっくれるようなら、力尽くでも聞き出す。目と鼻の先まで近寄って言う。と、は相も変わらず微笑みながら口を開く。言葉遊び、ね。たしかにこれは、言葉だけで伝えるのは難しいね。だっては、音になっちゃったわけだから。

 音……そうだよはかるさん。だけじゃない、も一緒にね。なに……どこにったの。だから音になったんだって、肉じゃなくてね。むしろ音になるためだけに、わたしはあの子の肉に奏でさせたとも言える。何を言ってるの……すごく簡単なことだよ、はかるさん。一番最初に在ったものは何? もちろん、光じゃない。人間や動物たちでもない。それは世界が在ったあとでつくられたものだから。光や、それを認識できる眼の備わった肉体なんかよりも先に、この世界に在ったもの。何を……言ってるの。あなたならわかるでしょ? だって、初めてここで会ったとき話したじゃない。大学でリルケの詩を専攻していたあなたなら、すぐ思い出せるはずだよ。


 沈黙。を、破る。


「真に唄うこと、それはもうひとつの息吹だ、

 何ものでもないものをめぐる息吹、神の中の飛翔、風。」


 そう。やっぱりあなたを選んで正解だった。きっとだけじゃいけなかった、言葉の仕事に精通しているあなたの助けがあったからこそ、はちゃんとくことができたの。真に唄うこと……それをさせるために、あなたは。それをしたから、は……うん、それをしてもらうために、あなたが必要だった。しし詞々ししで出来ている……私もわかっているはずだった、うっすら気付いてはいたけれど。本当にそうだったの……あなたは、それを証明するためにこんなことを。そうだよ。わたしたち、同じ卓の下でこっそりと手を握り合っていた。だからあなたにを任せたんだから。そのおかげでわたしは、幸福な先達を二人も得ることができた。そしてはかるさん、あなたも……けるかもしれないよ、もしかしたら。


 百済くだら。やっとわかった、なぜ私があなたと出くわすことになったのか。なぜと同じみちくことになったのか……もう、御託は十分。教えなさい、私が何をすべきなのか。

 テーブルの上で、蝋燭が燃え尽きる。自らを支えていた蝋の海が、もえぐいともった最後の光を呑み込む。

 夜が訪れる。


「天使に向かってこの世界を称讃しろ。」

 ってきたらいいよ、はかるさん。あなたがかつていたところへ、今いるところへ、そしていつかいるであろうところへ。そのみっつを同時にく方法、あなたはもうわかってるね。

 歌。




百万もの鳩らが

地球の軌道を廻る 血の涙を湛えて

砂浜の痕は消える しかし私たちはひとつ

整然たる立ち並び しかし私たちはひとつ

こよなき誕生を収める時が来た


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る