dealofgod


 へえ、そういう由来ではかるなんだ。とが言う、のをている。のは誰だ。いや誰もなにもない、今の私であるしかないはずだ。しかし今とはいつの。少なくとも今この眼に映っていると私は、一〇年前の高校生時の姿であるはず。ならば、そうだ、一学期の初日に親しげに話しかけてくれた唯一の同級生に対して、ええ。そう、こうして無愛想にいらえたのだった。気に入ってる? 特には。でも親のネーミングセンスに不満なんか漏らしたところで不毛なだけ。しかし何だろう、この頃の私、こんなに髪が短かったか。たしか中学までは、女子少年院に入れられた余燼もあり、無闇に殺気立っていた気がする。掴み合いの喧嘩になったとき髪が長くては相手にとって有利、だからああして短く切っていたのだった、か。学校指定のシューズを履かず紐無しのものを選んでいたのも、殴り合いの最中に紐がほどけては踏まれて足を停められてしまうかも、という慮りのゆえだったはず。まったく、なんと若々しい屈託だろう。実際のところ、私は殴られる側には一度も立たず、常に殴りつける側として思春期を終えたのだ。傷つけられるのが怖いから先に傷つけていた、そうすれば誰も近づこうとは思わないだろうから。そんな無闇な防壁で自分を護っていた、お望みどおり誰も近寄らなくなった。しかし彼女だけは、高校一年生時のりゅうだけは狎れてくれたのだ、こうして。けっこういいと思うけどなー、つかわたしのも相当だよ。おや、はこんなに髪が長かったか……今となっては93の姿と重ならない。そうだ校則は守る性質たちだったのだ、堂々と生徒手帳の規定に逆らう風態なりで通学していた私とは違って。それでも放課後には喫煙と飲酒を嗜んでいた。なんでも中学時代に校舎内でタバコを吸っていたのが見つかり内申書に書かれ両親と一悶着あった、と聞かされたのは、この日よりもっと後。であるからして、まだ打ち解けない二人の会話は、このように手探りで続くのだ。なんかうちのかーちゃんさ、思った以上にお産が延びたらしくて、取り上げられた時にはもう西暦一九九三きゅうじゅうさん年になってて、じゃあ名前はだあってそりゃないよ。もっと親らしい情緒とかねえのかよおって何度思ったか。そう、これに続く一言だ、私の胸のうちを開かせたのは。わたし那須なすの与一よいちの気持ちがわかるよ。今、この地上で那須なすの与一よいちの気持ちがわかる女なんて、そう多くないはずだよ。ぶふっ、と不意をかれて噴き出す。ああ、あんな顔で……よっぽど他人との対話で安らぐことすくなかったのだな、高校時代の私よ。え、何、そんな面白かった。だってねー、一一じゅういち人目の子供だから与一だあってそりゃないよねえ製造番号じゃん。ふふっ、確かに。話が面白かったから。それだけで相手を特別に思ってしまう、迂闊で単純な子。あー笑うとかわいいねえ、そっちのがいいよ。と素朴に笑うよりも、私のほうがよっぽど単細胞だったのだろう。もう、好きになってしまっている。この子の前では無闇な警戒など要らないと、やすんじきってしまっている。なんかクラスのやつらみんな一歩置いてるもんこくさんには。知ってる。少年院いたんでしょ、女子の少年院ってどんなとこだった? 女囚モノみたいな? その女囚モノを知らないからなんとも言えないけど、でも、馬鹿な人間はナメられる環境って意味では中学と同じ。どんな殺伐とした中学だったんだよ、もっとみんなゆるいっしょー。こくはかる、あなたはまだ知らないね。その同級生との出逢いが、あなたの人生ごと変えてしまうことを。じゃあわたしもナメられないようにしないとなこくさんに。する必要ない、あなたは馬鹿じゃないって既にわかるから。あと、はかるでいい。


 ちょっとあの、こくさん、りゅうさん……と、いかにも学級委員然とした学級委員らしき子が小声で言う。これは、音楽室。床と椅子の上の二段に立たされて、聖歌隊めいた従順さでこちらを窺っている同級生たち、をよそに、私とは列を外れる。高校二年の二学期にもなって、合唱コンクールなどにかまけていられるでしょうか。ここは中学と違って義務教育ではないのですから、このような無駄な行事などに時間を費やさず、各々の進路のためだけに行動すべきです。と、入口から音楽室内の全員へ向かって呼ばわる私の姿。二年生、か。たしかに髪もだいぶ長くなっている。と過ごすうちに、あの屈託も幾分柔らいだのだろうか。それでは失礼します。と言いながらの手を取り、背を向けて歩き出す。

 っはは、学年トップがあんなこと言ってもイヤミにしか聞こえないよー。と、マルボロの先に着火しながらが言う。事実を言っただけでしょう、高校生にもなってみんなでひとつのことをなしとげておもいでをつくりましょう、なんて冗談じゃない。言いながら私はWindowsXPを立ち上げる。あれはたしか、北九州の親戚にセルフメイドPCに詳しい人がいて、そのお下がりをもらったのだったか。卓上にはヤマハのシンセサイザーとタスカムのオーディオインターフェース、がMIDIとUSBのケーブルでラップトップに接続されている。さ、昨日はどこまでやったっけ。と言いながら和声学の教本と定番曲集くろほんを引っ張り出す。モーダルとコーダルはそれぞれ別の仕組みで動いている、ってとこまでですよはかる先生。とはルーズリーフのバインダーを広げる。でもさー一応ノートはとったけど、「フリジアンドミナントとハーモニックマイナーは弾き始めの度数が違うだけで同じ音列です」とか言われてもさー。肝心のことだよ、それさえ理解できれば色んな転調も理解できる。ただ、ダイアトニックコードとドミナントモーションだけで楽曲を分析しようとすると、どうしても手に余る類の音楽もある。だからこそモードも語彙に入れておかなきゃいけないの。で、そのモードってのはダイアトニックとどう違うん。ドレミファをどの音から弾き始めたか、ってだけでしょ。音列的にはそう。でもモードはトニックに解決することを問題にしてないって言ったでしょう。ドミナントの不調和段階からトニックの制動状態に帰結する、ってエンジンがそもそも無いの。ずーっと不調和でいいってことか。精確には、調和・不調和という二分法自体を相手にしてない。だから同じ一つのモードでもいいってわけ。えー、でもそれつまんなくねえ? そんなこと無い……というか、あなたヒップホップ好きでしょう。うん。ヒップホップってモードだよ、と言うよりも、ヒップホップの骨子こっしの一つであるファンクはまんまモードの音楽なの。JBみたいなやつ? そう。和声的解決を必要としない、永遠に踊り続けられる音楽。そのモード性をループミュージックの原理に則して発達させたのがヒップホップ……だとは言える。後付けだけどね。一発モノってそういうことか。でもさあ、『Sex Machine』ってあれ転調してない? 転調じゃなくてモードチェンジ。どう違うん。ええと、ファンクはメロが薄くてわかりづらいから……たとえば、この曲。

 そうだ、こうして来る日も来る日も飽きもせずに、と一緒に音をいじくり回していたのだった。私はヤンキーのシュプレヒコールでしかないとくびっていた音楽に思いのほか晦渋かいじゅうな非和声構造が潜んでいたことに眼をみはったし、彼女も実践的な学理によって音楽への興味をさらに深めたようだった。しかしこのときの私は気付いていない、自分が持っているものをに与えて軽い優越感に酔っていることを。この時点ではまだ無垢な生徒でしかなかったに、いつしか追い抜かれる日が来ることを。音楽家としても、詩人としても──


 それさあ本当においしいの? と、卓上のグラスを指差しながら言う。ええ、少なくとも私は好き。ウィスキーの緑茶割りなんて、よっぽど緑色が好きな人じゃなきゃ飲まないんだろねー。と揶揄からかうように言う。そんなことない……あなたは舌が子供なんだよ。えーなにそれー。そもそも一度飲ませたことあったでしょう、あの時点でうわーにがいーって言ってたじゃない。それは二年前の話じゃん、ね、ひとくちちょうだいよ。と強請ねだにグラスを傾ける。桃色が緑色に浸される。あ、うわー、んー、やっぱこれはわかんないね。と苦笑しながら唇がふれた部分を人差指で押す。ふふっ、無理して飲まなくていいのに……いや、でも、今のうちに済ませときたいじゃん? 何を? 今までやってこなかったことをさ。わたしは就職で、はかるは進学で、もうこうやって集まるのも難しくなるかもだし……ああ、そうか、これは高校三年次の冬。もう決めていたのだ、卒業したらこの土地からも離れると。まさか門司もじから東大受けるやつが出てくるなんてね、はかるならぜったい受かるよ、受かったらうちの英雄だよー。と茶化すように笑うに、ああ、それね……やめることにしたの。と返す。えっ。東京じゃなくて大阪の大学にしようと思って。そうなん、どうして。あのなんか宗教? 史学? の研究室に入りたかったんじゃないの。そうだったけれど、私には荷が勝ちすぎると思ってね……だから、身の丈に合った大学でドイツ文学をやることにした。ドイツ。ええ。ふーんはかるがね、意外だね……ドイツ・コラールは中学の頃から好きだったから、それを専門にしてみようと思って。そっか、でもすごいよ。みんな就職までのてきとーな猶予期間として進学するじゃん、大学入る前から自分のやりたいこと決めてるってすごいことだよ。すごくもない……普通のこと。そっか。ええ。よっし、じゃ、わたしそろそろ帰るね。え、もう。うん、来月からクルマの教習所にも通わなきゃだし。ああ、そう……なにー寂しいんですかはかる先生? この一番弟子になんか教え損ねたことでもありますかー? ふふっ、生意気言うんじゃないの。あなたこそ気をつけなさい、教習中に飲酒運転やらかさないようにね。飲むわけないって、タバコは吸うかもしんないけど……そう、こうして暮れていったのだ。あの子と交わした三年間の思い出にもついに終止符が、といかにも思春期らしい想念を弄びもした。しかし、ここで本当に物別れになっていたら、私の人生はどれほど安穏であってくれたろう。


 ただ黙々と読んで書くだけ。そのことをよしとしてくれる大学空間は、存外に居心地がよかった。もちろん、ぞろぞろと友人を連れ歩くようになったのではない。むしろ三年次になっても就職活動らしきことに全く手をつけず卒論の練り上げに明け暮れていた私の姿は、明らかに同期の連中から浮いていた。しかし自分の知性も所詮この程度でしかなかったかと、さしあさっての限界を露頭させるために四年間を費やす覚悟だった以上は、大学を出た後の生計たつきなどは思考の埒外にあった。指導教授もそのことを見抜いてか、好きなようにさせてくれた。

「リルケ晩年の詩と息の転回」。憶えている、ようやく表題がついたのは雪降る夜だった。卓上の紙束を前にしても達成感らしきものは無く、結局は精巧な名器に並ぶまでもなく砕けた土器かわらけの、鈍い破砕音にも似た苦渋だけがあった。論旨はたしか、リルケの詩に対するプロテスタンティズム然とした読解を退しりぞけ、まず彼にとって「天使」と「息」とが意味するものを再検討した上で、敢えて一六〜一七世紀神秘家、つまり十字架のヨハネとジャン=ジョゼフ・スュランを導きとして結論に到る、ような内容だったはずだ。いま思い出しても、ラテン語やフランス語すらおぼつかない身で神秘家の深淵に踏み込むこと自体が無謀、身の程を知らぬ素振りだったろう。それは同時に、東大の宗教史学研究室への進路を諦めた代償行為として駆り立てられた論旨でもあったろう。いずれにせよ、論文を提出した直後に今更のようにリルケの書簡集を手に取って眺め、その中に『ドゥイノ・エレギー』における「天使」の存在はイスラームのそれに近い、とする明言を見つけるに及び、なぜキリスト教とユダヤ教のふたつを視野に入れておきながらイスラームは無視していたのか、と自らの浅慮をくじかれ、まあ二〇歳代前半で書ける内容なんてこの程度だ、私はあの偉大な詩人に対してこのような覚束おぼつかない足取りでしか近付けなかったのだ、とけ戦を退く分別がついた。そして、まさにその苦渋を忘れつつあったころ、がやってきた。


 アラームが鳴る。枕元のすこし上、ベッドの壁際にあつらえられた、拳骨ひとつぶんくらいの幅がある棚に、スマートフォンの振動がそぞろく。瞼を押し上げ、伏したまま右腕を差し伸べて音源のものをとらえようとする、と、寝入る前に棚に置いたままにしたらしい飲みさしの500ml缶が、蹌踉よろぼう指先に突かれて落ちる。カラン、と間抜けな音を立てて缶底は頬骨を打ち、ぬるくなった内容物が真白な枕のカバーを濡らす、その粗相めいた沁みの広がりをている。と、目と鼻の先のも眠たげに瞼を開く。ぶふっ。横っつらにビールを浴びて憮然としている私のおもてがよっぽど滑稽だったのか、あはっ、あっはははは、なにそれ。と目尻を拭いながら笑っている。仕方ないでしょう……何が仕方ないのかも定かでない糊塗にまかせ、ようやく捕まえたスマートフォンの画面をタップする。せっかく月曜の休みなんだからさーめざましなくてよかったじゃん。とあくび混じりに言うに、チェックアウトの時刻を超過したら困るから……と返しつつ身を起こす。しかし、手のすぐふれる位置に寝そべっているこの身体、高校からの親友ではあるがそれ以上ではないはずだった人の身体を、私は、本当に、昨晩……と無体にすべる想念を押しとどめ、シーツをけて立ち上がる。どこいくの。どこも行かない、シャワー浴びるだけ。ははっ、さすがにビールまみれじゃね。ちょっと待ってはかる、わたしも行くよ。と言いながら片腕を差し出す。いや、あなたはまだ寝てていいよ。さっぱりしたいじゃん、それになんか枕もビールくさいし。と醒めきらない眠気を纏った上体を、苦笑しながら助け起こす。

 しかし、深夜と午前とでは、同じ寝室の中でもこれほどに見栄えが違うものか。バスルーム前の鏡に映えている、私と裸形らぎょうを茫と眺める。紗のカーテンから差し込む光源がさやかにするふたつ身……が、本当に数時間前、むつみあうことができたなんて。なぜこんな次第になったのか今更のようにいぶかる私を置き、はバスルームに歩み入り蛇口から豪快な音を立てる。さすがにふたりで入るんだからお湯張るっしょ、この寒さだし。とふたつのバルブを微調整し温度を加減するの横顔を見ながら、そうだこの子は、一ヶ月前には幻聴と性的な失調に苛まれていたのだった、との野放図な旅路の代償として……苦味がはらわだかまる、が、実際のところ私は何も知らないのだ、との間に何があったのかすら。ただひとつ意味を成したのは、この子をもう一度ふつうの人間として立ち直らせること。そのためには必要だったのだ、あの夜の拙いれあいも……しかし、今あらためて思い返すと、なんと無残で滑稽な蹉跌。しかしその躓きによる傷を嘲ることも侮ることもなく付き添うことができたのはもっの幸いだった、のだろうか。蛇口からの噴き出しとともに湯気が立ち昇る浴槽に、がそそくさと腰を屈める。のを見て私も続く、が、本当は必死だったのだ、寝醒めの気色に頬を染めたを前にして、ともすれば浴槽の中で、また事に及んでしまいはしないかと。その動揺を察してか、はかる、出る前に、もう一度くらい……と小声で差し向ける、の面相に、ばしゃりと湯をかける。っぶぁ、なにすんの。あなたこそ何を言ってるの、あの恋人ごっこは昨晩限り。今日からいつも通りの私たちに戻るんだよ。わかってるよお……でも、この部屋出るまではいいでしょ。と強請ねだりとごねりが一緒になったような顔、の顎から滴がしだれる。はあっ、とため息ひとつ置き、目の前の左肩を抱き寄せ、後頭部に手を添え、くちづける。たった数秒の接吻で募る息苦しさを、湯気の熱のせいにする。唇を離し、欲しがっていたものをいきなり口移されて揺らいでいる双眸そうぼうを見つめる。最後まではやらないよ。これだけ、だからね。


 っふぁー、よし、大名だいみょうのレコード屋くまでぶらぶらしようよ。チェックアウトを済ませてエントランスを出るとともに背伸びしながら言う。おなか減ってる? とくには。なんか軽いの食べたいな、ミスドとかでいいよね。リュックサックひとつの荷物を大儀げに背負いながら歩き出す。上川端かみかわばたへと続く道を歩きながら、は「ひがしなかしまばし」とひらがなで表記された脇の階段を降りていく。なんでそっち行くの、遠回りだよ。と諫めると、なんだよはかる知らないの、この橋の下って福岡市屈指の喫煙スポットなんだよ。と喜色満面でポケットからラッキーストライクを取り出す。呆れながら私も階段を降り、人影ひとつない月曜午前の博多川沿いを歩く。は煙をふかしながら、ちょうど橋梁下の暗渠で立ち止まる。私が追いつくと同時にこちらを見つめ、へへ、いい女っぽい? と口端を歪めながら囁く。全然。と返しても素知らぬ顔で、もう一度キスしてもいいんだよ、誰もいないし。と妖しげな面相を作って言うのだが、その精一杯な役作りも滑稽にしか映らず、タバコ臭い人とはしたくありません。と撥ねつける。えー、はかるだって昔は吸ってたくせにー。といつも通りのこわを放りながら歩き出す、その背中を見つめる。この益体もない会話も、彼女のいやしには欠くべからざるものなのだろう、と弁えはついていた。階段を上がり、歩道の向かい側に連なっているTSUTAYAとドン・キホーテの構えをどこか懐かしく眺めていると、せっかくだから乗っていこうよ、となか川端かわばた駅の地下構内への階段を降り始める。ちょっと、ここから天神まで一駅でしょう、歩きで十分。と諌めても、せっかくだからいーじゃん、福岡市こっちの地下鉄なんて滅多に乗る機会ないし。と笑う顔、が地下へと沈んでゆく。もう……呆れたふうを装いながらも気付いていた、こうした何てことない思い出でしか、彼女の傷は埋められないと。

 日曜翌日のなか川端かわばた駅なのだから、きっと歓楽街での勤めを終えて帰宅する男女の姿でひしめいているのだろうと思ったが、構内の人々は揃いも揃って通勤通学の装いで、思いのほかのっぺりとした月曜の眺めがあつらわれていた。せっかくだから買っとこうよ、帰りは博多駅でしょ。と言いながら五〇〇円ちょっとの一日乗車券を二枚買い、改札を抜けて電車を待つ。正確な時刻で到着する車両に歩み入ると、月曜の朝なりの混み入りに身を投じることになった。一駅分の移動で席に腰を下ろす気にもなれず、連結部付近に二人並び立つ。わたしも就職したらこうして毎朝乗ることになるのかなー。あなたの希望する職種なら車移動でしょう。あそっか、買えるかなー車、今まで親の持ってるやつ使わせてもらってたから……車ね、さすがにそこまでは出せないからね。わかってるよお。でもいいよねーはかるは、仕事の打ち合わせとかでも交通費出してもらえるもんね。出ないよ、会社に所属してるわけでもないんだし。えっそうなの、フリーランスでもクライアントの経費で落としてもらえるんじゃないの。めったにないよ、どこも不景気なんだから。出してもらえても打ち合わせのコーヒー代くらい。そうなのか……などと話しながらも、知り合いのツテで音楽制作会社に入るかもしれない展望については隠しておいた。私のこれからの身上よりも、いま共にいるの様体だけを気遣うべきだった。

 おっ、もう着くよ。ええ。車両の窓ガラスから、大勢の人々が列を成しているホームが覗く。やはり天神駅は平日でも混み方が違う、と考えているうちに扉が開き、車両内の客が出るより先に構内の客が続々と歩み行ってくる。のを見て、なにかたわけた想念が脳裡でまたたく。え、はかる、どうしたの。構内へ出ようとするの袖口を掴み、引き寄せる。、もうひとつ行こう。もうひとつって、赤坂? なんか用あんの? いや、ないけど……袖口にあてた指をそのままに、ほぼ八割は埋まったような車両内を眺め回す。いいじゃない、人がいっぱいの電車に乗ってみるのも。えー? は苦笑も浮かべずに左右を見回し、私の側らにはべる。はかる、たまによくわかんないこと言い出すなあ……と不平を漏らす頃にはドアが閉まり、ふたたび電車が動き始める。とともにが上体のバランスを崩した、ところを、抱きとめる。ぐっ、と両腕で引き寄せると同時に、ちょっ、と口走るの声。を耳元に聞きながら、込み入った車両内の学生やサラリーマンの数人が、抱き合う二人の女性の姿を見て呆気にとられる、その視線の一つ一つを確かめながら、私は背を扉にあずけて満悦に微笑み返す。と視線を送っていた数人は、何かまずいものを見てしまったとでも言いたげな風情で、そそくさと手元の手帳やスマートフォンに目を戻すのだった。ちょっとはかる……これがやりたかっただけなんじゃないの。ふふっ、どうだかね。でもこういうものでしょう、恋人ごっこって。ええ……ホテル出たらもうやらないって言ったのはかるじゃん……


 そんなれあいにも、いつか終わりがくる。年度末、はイベント設営会社に就職が決まり、私は東京の音楽制作会社への所属が内定した。北九州市門司もじ区、私が母とともに移り住み、大学を出てからふたたび戻り、が散々な旅路の果てに匿われることになった、この土地。偶さかに越冬の暮らしを伴にした1LDKの部屋を、二人で後にする。

 音楽とさほど関係のない、大学時代に買い揃えた事典類は古書店に売り、かさばるだけのノートや文献コピー類は思い切って処分した。これからは身軽でありたかった。私の荷物はすでに搬送が済み、あとは段ボールに詰め込まれたの私物を運び出すだけ。引越業者の到着を待ちながら、管理会社との立合も終わりブレーカーも落ちた室内に、二人で腰を下ろして脚を伸ばす。

 最後だし、いいでしょ。言いながらはラッキーストライクの箱を取り出す。ええ。と返すとは箱を振って器用に一本取り出し、はかるも吸う? とこちらへ向ける。いいよ、あなたのでしょう。と返しながら、が握っている箱のパッケージを眺める。白と赤と黒、三色か。そうだ、と出逢って以降だ、この銘柄を吸うようになったのは。私と出会った頃はマルボロ、あの白と赤のパッケージしか吸わなかった。それでも銘柄を変える気がないのは、つまりまだ、忘れられないってこと。のことを、忘れるつもりもない……突如として流れ込む厭悪のようなものを呑み下し、頑張ってね、一人暮らし。あなたならきっと大丈夫。と親身を装ってみても、あべこべに他人行儀にしか響かない。うん、はかるもね。これからいろいろ大変じゃん。そんなことない、一人暮らしは慣れてるし……そうじゃなくて、いよいよプロになるってことでしょ、作詞の。まあ、ね……カーテンすら無い窓ガラス越しの春立ちに、の吐き出す煙があらける。はかる。なに……と言った瞬間に、掌中にたわんだシュリンクフィルムと紙箱の質感が押し当てられる。あげるよ。なに、もう吸わないって。そうじゃなくて……これからさ、はかるが独りで、さびしくなっちゃったら、それに火をつけて。その煙の匂いを、わたしだと思って。と、目も合わせずに言うの側頭を眺める。ぷふっ。え、なに。笑いで返されるのが意外だったのか、狼狽うろたえたようにこちらを見据える。さびしくなっちゃったらって、それはあなたでしょう。独りで眠れなくなっても知らないよ。と続けながら掌中の箱を返す。え、いいって、ほんと持って行って……よくない。大体、誰かの不在を煙の香りで慰めるなんて、線香じゃあるまいし。あなたは生き続けるんでしょう、ならあなたが吸うべき。と意を含めると、は遅れて分別がついたように、そう……だね。と言いながら箱を受け取った。

 はかる。なに。わたしたち、必ず、もう一度会おうね。絶対に、これっきりじゃない。わたし、次に会うときには、はかるにちょっと近づけるくらいには、立派になってるはずだから……ええ、もちろん。はかるに助けてもらった恩、少しずつでも、返していくから、絶対にそうするから。わかってる。また会いましょう。うん、必ず。


 少しずつ、どころではなかった。東京で起居し、「プロ」と呼ばれるためだけの仕事に齷齪あくせくしていた私に、突然「ラップ始めたんだ」とメールをしてきたときは、なるほど新しい趣味を見つけたのか程度にしか思っていなかったけれど。彼女のSoundCloudにアップロードされ続ける楽曲たちは、ラップのスキルにおいてもトラックの完成度においても、次第に見違えるほどの変貌を遂げていった。私は、いつの間にか私は、あの子に追い越されていた。音楽理論も生活の手立ても、私の助けなしには立身できなかったはずの彼女が、いつの間にか、私が持ちたくても持てなかったものを孕んでいった。二年と半年の別離ののち、今すぐ会いたいと請うた、のは私だ。強請ねだってごねたのは私だ。ばれた人は、かなきゃいけない。そんなあながちな言い方で、私はばれた側の一人である彼女にすがりついた。その結果としてどのような回りみちを経ることになるかさえ覚束おぼつかないままで。

 思った通り、は強くなっていた。自分の作ったものに価値があったら、なかったら、とかさ。わたしは、そういうのはもう、いい。その言は、「プロ」の作詞家でしかない私への死刑宣告でもあった。そうだ、書けるものしか書かないのなら、それは何も書いていないのと同じ。私は自身を生まれ変わらせるためにを求めた。彼女を必要としていたのは、私だ。

 未だに憶えている、あの初秋、中洲ジャズの百道浜ももちはま会場に彼女の姿を認めた日。あのー、誰すか? そうだ、イリチにもはじめて出逢ったのだった。「何とでも呼びやがれ」、その名の通り何者でもなかった私たちが、何物でもない歌をあざなった。私ひとりでは起こせなかった、しかしひとりでも果たせなかった、何かを確かに掴んだんだ。


 今の段階ではこの曲、この部屋の四人しか聴いてないんだな、って。まだ誰にも知られてないんだよな、って思うと……へんな感じだ。と、フローリングに腰を下ろしたきゅうぞうが呟く、のをている。そうか、東京での喰い扶持も断ち切って、93での活動に賭けることにした日。へんな感じ、わかる。わかるすー。そうかな、発表しなきゃいけないからつくってるわけでしょう。いやに不機嫌な私の顔をながら、まるで別人のようだと思う。そうだ、この日はきゅうぞうを殴ったのだ。彼はそれを咎めるどころか、翌日私のメールアドレス宛に忠実忠実まめまめしい謝罪文までしたのだった。いくら過去の遺恨があったとはいえ、あそこまでされるいわれもなかったろうに、と私がしたはずのことを他人事のように回想するのもおかしな話。しかし、この頃の私にあった剣呑さは、一体どこへ行ってしまったのだろう。この殺伐とした意気を捨て去るきっかけが、今までのどこかにあったのだろうか。そうだ、この時点での私はまだ、ヒメに、シーラに出逢っていない……


 だからねえ、ブラザー・トムが果たしてブラザーであるかどうかはフッドの側が決めるべき事柄であってね、自称でどうこうなる問題じゃないんだよ!! それはおかしいだろ、だってMASTA SIMONだって最初からマスターだったわけじゃねえだろ。えっと、これは、なんの議論だ。たぶん、ANDYOURSONGと当たった予選の打ち上げ。ウエストで焼肉の席を囲んだのだったか。あっすんませ生もうひとつ。安影やすかげさんちのくぬぎくんがからのグラスをテーブル端に置き、手を挙げて店員を呼び止めている。えーくぬぎくんそれおかしいじゃん、だってクラプトンがギターゴッドとかスローハンドとか呼ばれたのだって他称でしょ、自分で名乗ったわけじゃないでしょ。あんなザコ引き合いに出すなよ、ダサすぎだろあいつの『I Shot The Sheriff』。ボブ・マーリーが天国で泣いてるわ。なんでゲイなのにレゲエ好きなんだよ。いいだろ別に、聴いたらかったんだから。そうだ二人はこの夜、ひっきりなしに口角泡を飛ばして激論していたのだ。実際、くぬぎくんは色々な意味で似たところがある……あのねえわたしらはねえ、ヒップホップやレゲエにいゃぃなく、いまゃ、いなみなく、否みなく存在しているホモフォビアともたたかっていかなきゃならんのですよ。んー、じゃはかるここらで、マチズモまみれのレゲエでラヴァーズロックという特異にフェミニンなジャンルが生まれた経緯について、一席どうぞ。いや、別にないけれど……なんだよーうちの参謀なのに。とにかくな、呼び名なんてのは後からついてくんだ、最初からフカしとくのがちょうどいいんだよ。フカした結果がBargainshadeかよ。なんだテメー俺のネーミングセンスに文句あんのか? ちょっと漁火ちゃんもなんか言ってやってよ。えー? っと、「ひさぎ」ってめっちゃかっこいい名前すよねー。っふ、お前の「イリチ」もな。あーほら見なよくぬぎくん、このピースフルなグルーヴですよ、レゲエ好きならこういうの見習わないとー。お前がさっきから議論ふっかけてきてんだろうが! おおおこっちもなんか言ってやれハク。あーダメだ死んでる。死んでるって、さっきからその調子だけど大丈夫……? こいつ酒飲むとすぐこうなんだよ。おーし今日はせっかくわたしのおごりなんだから終電ギリまでやるぞ。望むところだこの野郎。あっそういえばアルコール類の代金は自分で持ってね、食べ放題のプランには入ってないから。はあ!? 全部お前のおごりだっていうから付き合ってんだぞ!? そうだ、こうして刺々しく振る舞っても、結局は嬉しかったのだ、初めて同志と呼べそうな人たちに出会えたことが。


 おい!! 走ってんだ!! 走ってんだぞ!! 運転席の窓ガラスを全開にし、身を乗り出して右腕を鋼板に叩きつけながらきゅうぞうが言う。内輪差で巻き込まれかけた自転車少年は面食らったまま動かず、すぐにきゅうぞうはアクセルを踏んで交差点を右折する。ったく、危ないったらありゃしない……自転車も免許制にしたほうがいいんですよ! と憤ろしくハンドルを捌くのだが、明らかに福岡の滅茶苦茶な道路造成と彼自身の荒い運転テクニックにも問題があるように思えた、が言わない。代わりに、次の右折路を過ぎたら、薬局の駐車場があるから。とスマートフォン画面上の表示に目をやりながら事務的な指示を投げる。はい。信号が赤に変わるとともにきゅうぞうはコツコツコツと人差指でハンドルを三回叩き、すみませんね。と一言漏らした。いえ、が倒れたのは誰の責任でもないから……と返すと、いや、そういう意味じゃなくて……と今度は人差指で左頬を掻く。俺、こうして車出して入用いりようのもの買ってくるくらいはできますけど、音楽に関することは全然わからないんで……と、何か今更のようにも聞こえることを申し訳なさそうに言う。はかるさんとかじゃないと、あいつには付き添えないんで……こんなことしかできなくてすんません。なに、あなたが負い目に思うようなこと。いや、でも……逆に、そこまでに保護者めいた感情を抱いてるってことは、未練がましくも思えるのだけど……と、要りもしないとげを刺してしまったことに気づき、反射的に右隣の男性のかおを眺める。あ、いや……はい……そうかもしんないすね……と沈痛に言うので、青信号。と前方を指差すだけにする。はい……

 いや、でもね、ほんとに役立つんだと思うの。あなたが買ってきた生姜湯を飲むってだけで、家にいるような安堵があるんじゃないかって。家、ねえ……俺、そんな居場所与えられてましたかねえ……きっとには必要なんだよ、私以外にも昔のことを知る人が。その人が傍にいてくれるだけで違うんじゃないかな。そう、ですか……まあ、プラシーボ効果くらいの助けにもなれば、上等ですかね……と言いながら、窓ガラスを開けて駐車券を取る。

 はかるさん。薬局の入口正面に空きを見つけると同時にきゅうぞうが言う。なに。ほんと、よろしくお願いします、のこと……と、またしても保護者めいたことを言う。前にもメールで書きましたけど、今あいつが生きてくれてて本当に良かったって、俺も思ってるんで……助けなかったやつがこんなこと言うのは矛盾してると思いますけど、でもあいつが今やりたいこと、全部させてやりたいって思うんで……だから、よろしくお願いします、あいつのこと。言い終わるとともにサイドブレーキを引かれ、その音に急かされたかのように、ええ、わかってる。と私の口から漏れる。じゃ、すぐ買ってくるんで。ええ、急いで。


 付き添えない、か。でも、私だけが特別だったわけじゃない。イリチも、ANDYOURSONGも、あのとき出会った知念さんも、それぞれ別の形でと関わっていった。つかくぬぎくんスーツ似合わねー、成人式以来でしょそんなん着るの。行ってねえし持ってねえよ。あー知念さん! うわーそれ超いい、漁火ちゃんとおそろいだ! そうすよー、楽器が目立つようにシャープにしてもらったやつー。お久しぶりです、あの、大丈夫でしたか? いや大丈夫ではなかったけど、まあ、大丈夫じゃないのは慣れてるよ。ふふっ、笑っちゃいけないんでしょうけど、わかる気がします。おう、あしにはなんか言うことないんか。あーひさぎ? なんかバーカンぽいね、『シャイニング』の幽霊バーのひとがそんなの着てたよね。らすぞさん。なんだよ褒めてんじゃん。まーお前らのはかるうてくれたんやけ、大事に着たるけどな。そうだ、メイクが終わって通路に出たとき、いつも通りのあの声が聞こえて、ドアの付近に佇んでスタジオ入口の賑わいを窺ったのだった。私が用意した衣装で、初めてフィーチャリング楽曲のビデオを撮影する。ひとりじゃないという感覚が、病み上がりのの助けになればと思った、が、今思えば逆だったのでは。のおかげで私もこれだけの仲間と……おーもう一五分前、だいじょうぶ撮り忘れとかない? とフッテージにかじりつく、を見つめる私。え、うわ、こんな顔してたのか。ちょっと、ええ、他にも人がいるってのに、こんなとろけた……う、イリチ、こんな目で見てたの。こんな私の顔をこんな目で。でも気付けるわけがない。眼は自分の外側についてない……


 そう、私の存在を証し立ててくれるのはいつも他人。しかしこの日、Shamerockとの共演を経てχορός本戦へと到る猶予期間。私はずっと先延ばしにしていた墓参りに赴く覚悟を決めたのだった。この私をるのは誰だ。もちろん私。私以外には誰も知られていないはずの道行みちゆきを、こうしていま私がている。人影ひとつない霊園、そこに佇立するこく家の墓石。母と父がああなってしまった以上、私もこの下に埋まってしまえば、この血筋を繋ぐ者はいない。そもそも、母の葬式に参列さえしなかった娘の遺骨など、親戚一同が受け容れるだろうか。せめて私が何者かを出産したなら……などと思いもしたろうか。わからない、こうして冷たい墓跡に猪口ちょこを捧げて手を合わせるだけの女性に、その胸のうちに、如何なる情動が渦巻いていたか、もう思い出せない。まだ一年も経っていないはずなのに……しかしおそらく、私は予感に胸を躍らせてもいたのでは。そう、ヒメのような、シーラ・オサリヴァンのような血の繋がらない朋輩ともがらとの出会いが待ち受けているかもしれない、と。


 っ、ヒメぇ、私たち、これからも友達でいましょう。このツアーが終わっても、私たちかわらず友達でいましょうっ。え……? なんだこれは。こんなの知らない。私、こんな酔態で泣き出したことなんてあったか。まさかこれ、例のダブリンの夜。イリチとゾフィアからなんとなく聞かされていたけど……わーってる、わかってるよはかる、終わったらお別れってわけじゃないよ、これから先もずーっとあるって、ねえヒメ。と私の右腕を首元から引き剥がしながらは言い、ああ。とヒメは私の左腕を撫でながら苦笑するのみ。Yonah甲板でいきなりヒメの首を抱きながら泣き出しはじめたこくはかるの姿を前にして、イネスとハンは腹を抱えて笑い、ヤスミンは口をぽっかり開けて佇み、エリザベスは黙してグラスを唇に当てている。はいヒメも起こしてあげてー。と微笑する教授キョウジュに促されるままに、べろんべろんになった私の上体が二人の手で助け起こされ、なんか、ほんとすんませんっす……とイリチがいつになく粛然としたおもちで肩を貸す。うう、まさかこの子に面倒をかけるなんて……正体をなくした私の身体がキャビンの通路へ運び込まれ、あーじゃあ私も行くよ、酔っ払いの介抱は慣れてるし。と笑いながらゾフィアも纏わる。そうか、こんな夜もあったのか……でも、これは、ちょっとさすがに許してもらいたい。それほど多くのことがあったのだ、ダブリン公演の開催が危ぶまれて、さらにが船を沈めると言い出して、私たち皆で賭けに出て……結果として、あくまで結果としてだが、幸いな収穫を得ることができた。その事実が、なんだか勝利のように思われたのだ、血の繋がりがなくてもファミリーとして団結できる、長らく夢見ていた私の理想の、ひとつの成就のように……


 わたしらの名は『93』。愛と音楽でりにきた。そう、ツアー最後のロンドン公演。ウェンブリーのような途方もないおおきさの会場でも、私がするべきことはひとつだった。ステージの真ん前に出張ってマイクを握るの後方、キーボードブースで、彼女の言葉を乗せるためのトラックに綾を添える。思えば、私はずっとこの位置にいたのだった。百道浜ももちはまでステージを共にしたときも、χορόςの九州大会でも、ラテンアメリカツアーでも。私はいつもここから、の背中を見つめていた。韻律と演説における無比の才能、いや才能ではない、寡黙な鍛錬の果てに備わった技術とともに、身体ひとつで観衆に対峙する姿を、いつも私は後ろから見ていたのだった。この夏においてもそうだった。あのオリンピック開会式、を経ての三公演。そこに在ったのが歓喜であれ悲哀であれ、獲得であれ喪失であれ、私はいつもの背中を見ていた。すくなくとも今は、こうして見つめていられる今は、この子はどこにも行きはしないだろう、と。この子が声を嗄らす自由だけは、少なくとも守られているだろう、その限りにおいて私は同行できる、そう思っていた。


 そして今、はもう、どこにもいない。この世界のどこにも。


 音になってしまった、とは言っていた。何ものでもないものをめぐる息吹、神の中の飛翔、風……は、ついにそこまでってしまったのか。わかっていた、あの子がばれた側だということは……でも、なぜだろう。なぜ今更になって、こんなに多くのことを思い出すのだろう。もう、いなくなってしまったのに。真に唄うこと、誰のものでもない歌になること、それはにとって何よりの望みだったのに。そして今、その望みは叶えられた。のに、なぜ私は、今更、彼女のことを懐かしく思うのだろう。

 そうか。愛してたんだ。私は、あの子を。

 どうしてだろう。どうしていま気付くんだろう。どうして、全て終わってしまったあとで気付くんだろう。この気持ちは、あの子と初めて出逢った日から、かわらずに在ったはずなのに。詩において、歌において、私など及びもつかないほど卓越していたあの子は、今となっては名も無い音として消えてしまって、もう戻らない。 When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again.


 でも。

 それでも。

 それでも、あなたの声じゃなきゃだめなんだ。。私はあなたの名をぶ。何者でもない者として唄い、誰のものでもない歌になってしまったあなたへびかける。、あなたは私に多くのことを教えてくれた。詩を書くことは、自分の名において行うことじゃないと。文体は、個人で担えるものじゃないと。唄うことは、もはや名前を失った数知れぬ人生のうちに自らを投げ入れることだと。今になってわかる、あなたは正しかった。あなたこそ正真の詩人であり唄い手だった。でも、それでも、あなたの声じゃなきゃだめなんだ。、あなたがいる場所は知っている。もう誰でもなくなってしまった、誰であってもいい人たちのちまただ。その中から、私は、必ずあなたを見つけ出す。これはきっと、あなたがずっと続けてきた仕事に対する裏切り。でも、それでも。そのためにんだんでしょう、ってしまったを、神域から引き戻して、また唄わせるため。あの子の声を、再びもう一度、あの子の名において響かせるため。それをさせるために私はばれた。ならば、よかろう。引き受けよう。私は最初から、ここに到る定めだったのだ。かつていたところ、今いるところ、そしていつかいるであろうところ、その三つの時制が交わる三叉路、いや十字路へ。




 、大丈夫です……ワタシが動きますから。ほうけたような顔を見上げながら、自重じじゅうで沈む先端を受け入れる。ここに到ってはもう、ワタシの股座またぐらに余計なものはついていない。丘の割れ目に脈打つものを咥え込み、とろけの歔欷きょきが漏れる。はまだ先端の扱いに慣れていないのか、そぞろに腰部を揺らしながら悶えている。そんな当惑の挙措すらも愛おしくなり、の背に両腕を這わせ、ベルトを締めるようにして抱きしめる。ワタシの胸に顔をうずめながら、は依然として腰を波打たせながら言う。……これ、どういうことなの。どうって……見ての通りですよ。言いながら、ワタシはかつて備わっていた竿からの排尿をこらえるような塩梅で力を入れてみる。と、腔内の肉襞が微細に蠕動し、の先端にねぶりのような刺激が加えられた、のがおもてから察せられる。こんなん……なかったよ、わたし。も、そんな身体じゃなかったじゃん……掠れた声を耳元に聞き、ワタシ自身のどこかにも火が着く。いいえ、これが本当の身体ですよ……ワタシにとっても、アナタにとっても。、ワタシはずっとこうしたかった。ずっと、アナタの子を孕みたかった……抜き挿しされるたびに陰囊ふぐりが菊座の上あたりを叩く、その野暮ったい感覚さえもたまらなくなり、ワタシは目の前の唇に吸い付き、さらに呼吸をあららげる。……、もう言わないで。大丈夫です、ここまで来られたのはワタシとアナタ、ふたりしかいません……誰も、見てませんから……このひとときは、ワタシたちだけのものですから……は相も変わらず戸惑を隠さず、ワタシの締め上げに下腹部を委ねている。そろそろ、そろそろです。や、だよ。いいんです、抗わないで。あ、びくって……これですよ、遠慮しないで。アナタは昂りにまかせて吐き出すんです……ワタシはもう何千本も迎え入れてきましたから、感覚だけでわかります……言いながら耳朶を噛むと、は猛犬のように叫喚しながら、先端を腔の奥深くに押し当てたまま絶頂を迎えた。あ……これです、……わかりますか……アナタがワタシにくれたもの……言いながら後頭部を撫でてみても、おそらく初めての感覚に慣れていないのだろう、は喘息のように痙攣しながら歓悦の引き潮に身を委ねている。さあ、……言いながら目の前の身体を横倒し、今度はワタシがの下腹に馬乗る。あと四七よんじゅうなな手、ぜんぶ試しましょうね……


 そうだ、こうしてワタシは世界と繋がったのだった。初めて身を挿し貫かれた日のことを、今なら思い出せる気がする。そこに歓びは無かったが、かといって悲嘆も無かった。ただワタシは、自分を無理強いにする相手が浮かべる表情や仕草、そして何より動作とともに漏れるこわを総身に吸い上げていたのだった。インド語、コンカニ語、シンハラ語などの区別を知るよりも前から、ワタシは厳密な言語レッスンを受けていたのだ。ひとえに、一方的な交接を強いてくる肉体たちから。挿入を控えての前戯にて狡猾そうな顔を精一杯につくりながら漏らす声、腰を叩きつけながらおどしのように何度も繰り返す声、果てるまでの数秒間で急激に調子を変えて小規模に絶命するような声、それらは同じ声でもすべて違っていた、しかしどんな肌の色をした男たちも、一言も漏らさずに行為を終えられない点においては同じだった。そしてワタシは学んだのだ。嬲りの肉が立てる音声から、どの言語にも共通する要素を感得した。性的絶頂を迎える声を聴くだけで、ワタシは目の前の身体が話す言語の文法から発話までをすべて理解できるようになっていた。あらゆる命の価値がやすいあの状況で、ワタシだけが使い棄てにされず二度三度と繰り返し用命されたのは、ひとえにこの能力に依っていたろう。淫欲をなすりつけるために足を運んだ者たちは、まさか床を伴にしている少年娼婦が自らの音声から莫大な知恵を学習しているなど、思いもしなかったろう。それを嗅ぎつけてか、母が、がやってきたのだ。GILAffeジラフ、あれは副産物でしかないと言っていた。事実そうなのだろう、あらゆる言語が刻み込まれた、おあつらえ向きの素材を無料同然で手に入れた母は、あとは他の肉々もワタシと等しくする工夫さえこさえればよかったのだ。しかし究極の目的は別にある、人間の肉体をして喘がせしめているあの「音」、言語や文字よりも先行する劫初の「音」に接近する試み。それが成ったからこそ今、ワタシとはここにいる。

 もっと早く出逢っていたら、なんて……言わないでください、……そんな優しさ、欲しくはない……言いながら、の固みを再び迎え入れる。ワタシがアナタから望むもの、は、これだけです……腿を左右に振りながら、腔内の脈打ちを掻き立てる。、いつの間に、こんな……になっちゃったの……あは、なんていじらしいことを……ずっと前からですよ明瞭はっきりと憶えているのは、あのダブリンのときですか……アナタの狂いかたが、ワタシも狂わせたんだ……人は音楽のために、こんなことさえしてしまえる、ってね……すべてはがしたことです、アナタがワタシをこんなにしたんだ……と、何度もいしきを持ち上げて打ち下ろしてを繰り返すうちに、は既に達していた。見てきました、いろんなものを見てきました、この世界のことも、自分自身のことも、何も感じられなくなって、もう全部どうでもよくなってしまった、と思ってたんです、アナタと出逢うまでは……背にの胸板を感じながら、寝かされたまま一方的にかれる。アナタが狂い立てる音楽は、ワタシが受け入れてきたどの肉体の喘ぎよりも、たえなる響きだった……勇敢で、流麗で、かつ滑稽で、いまだかつてない歓びとともにワタシを慰めてくれた……おもてを突き合わせながら、先端を下腹に受けたまましがむ。今、ワタシはアナタの音に包まれて……こんなことまで出来るようになったんです。ずっとほしかったもの、アナタのを孕むための身体……を得て、やっと、こうして……左脇腹を床につけ、昆虫めいて開かれた両脚の間に、の固みが背後から衝き挿れられる。ねえ、アナタはワタシのために曲を選んでくれましたね、 When you wish upon a star, makes no difference who you are. ほんとうに、ほんとうにその通りのことが起こったんです。願いは叶った、ワタシも音楽を使って、アナタと同じくらいのことができたんだ……

 もう何度目か、数えることすらやめてしまった。の生命の流動がワタシの深奥を満たす。あ、ああ、……愛の肢体てあしを撫でながら、ワタシは最後の一滴まで歓待する。その中から、無数のたちの中から、ひとつの悪戯いたずらなものが一線を越えてくる、のを感じる。

 ああ、……これは……当たったかもしれません……




 子ども、はずっと欲しかったんだ。なぜだろう、今ではよく思い出せない。産めて当然だと思ってたんだ、きゅうぞうとなら女の子でも男の子でも、って。でもあいつとはできないって医師に知らされてから、どうしようもなくなった。無精子症とか二〇歳代の前半に三九さんじゅうく度超の熱が何日も続いてとか、そんな説明は何の慰めにもならなかった。

 だから、出歩くようになったんだ。あの早良さわら区の物件を数日けるのもザラだった。わたしたち二人とも、もう顔を合わせないのがお互いのためだとさえ思っていた。そして四年前の秋、わたしはと出逢った……

 Kieth Flackにて、映画製作チームぞくの上映会とアフターパーティーが催されるとの報せ、がフライヤーに記されている。のを見て、これ行くねきゅうぞう、夜は帰らないから。の一言さえも無しに、半ば捨て鉢に身を運んだったのだった。そこにいた、一際ひときわ目立つ褐色の肌。見惚れてしまっていた、んだな、今こうしてていてもわかる。初めて逢った時点で、わたしは、に……こんばんは。と、無遠慮に放たれた日本語に、こんばんは。と闊達に微笑んで返す姿。ひとりですか、女の子がこんなところにひとりでって、珍しいですね。と、自己言及以外の何物でもない切り出しを恥よりもむしろ懐かしさとともに眺め、それはあなたもでしょう、と図星をつくの笑顔を視る。そうか、こうして始まったんだ、初めての夜は。まあね。タイのヒップホップとか好きなんですか、わたしも興味はあるんですけど全然詳しくなくて。と依然として初対面のわざとらしさを崩さずにわたしは言い、わたしも詳しくはないですよ、ただ知りたくて来たんです。広義のアジアの人々が、いまどのような詩と音楽を紡いでいるのか。とは訥々と述べる。丁寧な言葉遣い、九大きゅうだいあたりの学生さんかな、とでも思ったろうか。しかし、えっとあの頭巾みたいなのを着ける宗教では飲酒って禁忌じゃなかったっけ、それともこの人は信者ってわけじゃないのかな。と、今となっては色々な意味で不勉強きわまる躊躇に喉を掴まれてもいたろうか。そんなわたしの視線の揺らぎを察して、は肩にまでかかっているヒジャブを撫ぜながら、ああ、これ? 美しいから。と眼を細めて笑うのだった。

 イランからの移民のすえだとか、九大きゅうだいの箱崎キャンパスにいたけど中退したとか、今は天神のスピンズで働いてるとか、通り一遍のプロフィールを断片的に拾いながら、わたしは数センチ低い姿の隣でマルボロをふかしている。じゃ、外国籍ってわけじゃないんだ。ええ、母と父が日本に移って、そのあとで生まれたから。しかしって、変わった名前。百済くだらって名字も初めて聞いたよ。ふふっ、帰化人は好きなように姓を設定できるからね。でも、あなたのりゅうって名字も素敵。そう? でもって名前は手抜きもいいとこだよ、うちの母ちゃんさあ……ごめん、ちょっといい。と言いながら、唇の前に人差指を立てている。えっ。「詩人たちの音楽は速さが基準じゃない/武器は舌であるという革命的なメッセージ/そして、すべての流れた血によって得た知識がある/新しい形の歌垣では、もっと舌が洗練される」……、すごい詞だね。え、タイ語聞き取れるの。いや、今のはタガログ語。タガ……え? どうしてわかるの、大学で勉強したとか。そうでもないのだけど、ひととおりサンスクリット語を勉強すれば、このあたりの言語の文法にも察しがつくから。ええ、すご……ねえ、って呼んでいい? え、うん、もちろん。このヒップホップって音楽の歌唱法は不思議だね、話し声のようにも唄声のようにも聞こえるって。いやべつに不思議ではないでしょ、歌ってそういうものだし。そうかな、話し声と唄声って、ほんとうはまったく別物のはずじゃない? たとえば、役所で手続きをするとして、ふつうに話していたところいきなり唄い出したら、ちょっとした騒ぎにはなるんじゃない? そりゃまあね。話し声と唄声は、声という共通項こそあれ、本来はまったく別のものじゃないかって思うの。それはたとえば、カナブンとモンシロチョウの違い。なにそれ。ねえ、カナブンとモンシロチョウは同じ虫? なに言ってんの、違うにきまってんじゃん。そうだよね、そもそも身体の色が違うし、はねあしのつくりも違う。でもカナブンとモンシロチョウは、まず虫という生物種としてカテゴライズされ、さらに飛行能力を備えている、このふたつにおいては同じ。まあ、ね。かといって「カナブンとモンシロチョウは同じ虫だ」という結論を導いてしまうのは、もちろん明らかな誤り。他にもっと多くの差異があるんだから。でもね、「話し声と唄声は同じ声だ」っていうのも、これと同じくらい甚だしい誤謬だと思うの。え……? みんな、ある程度は話し声と唄声を自由に使い分けてしまえる、それも瞬時にね。でも、同じ人間の呼吸器から咽頭を介して発される声たちは、じつは全く異なったふたつのものが奇妙なやり方で同居している、あるいは瞬時にメタモルフォーズしているのかもしれない。カナブンがモンシロチョウになるみたいに……? モンシロチョウがカナブンになるみたいに、ね。ははは、面白いなあさんは。わたし音楽聴いててそんなこと考えないよ。そう? わたしはそもそも、音楽自体が聴こえないんだけどね。えっ。

 ねえ、。そうだ、こうしてビアラオ・ラガーの瓶をカウンターに置いて。わたし、探してたの。わたしと違って、音楽を味わう能力を備えている人を。ああ、この双眸そうぼうから目を逸らすことなんてできなかった。もうこの時点で、わたしは。能力、って……音楽好きなやつなんて、わたし以外にもいっぱいいるでしょ。は首を静かに横に振り、いいえ。おそらく、わたしには……あなたが必要かもしれない。と、奇妙に曖昧な確信をくゆらせて言ったのだった。外に、出ましょうか。歩きながら話したい。


 失音楽症。舞鶴まいづるから天神てんじんへの道中を伴にしながら、は小さく頷く。一九世紀の時点でね、すでに報告されてはいたの。歌とピアノのレッスンを受けても、隣り合うピアノの音を区別できない男性の例。たとえばヴァイオリンの弦の擦れやピアノの鍵の打ちには敏感だけど、その音のピッチは一切聴き取ることができない。そしてようやく二〇〇二年になって、「失音楽症」は先天的なもので、全般的な学習困難の結果ではないことが証明されたの。とあるカナダの医師が、音痴だと自覚している一〇〇人を面接してね。うち二二人が先に述べたのと同じ症状を示した。何度も言うけど聴力や記憶力には何の問題もないんだよ。でも、音声のイントネーションはわかるのにピッチ曲線の推移を追うことができなかった。つまり、産まれつき音楽が存在しない人々がいる、ってこと。

 も、そうだっていうの。天神南の橋を渡りながら、タクシーひとつ通らない夜道を行く。そう。小さい頃から語学や数学はできたんだけど、藝術……とくに音楽にまつわる分野がまったくわからなくて。だから、成人する頃にはもう自分で音楽を理解するのは諦めた。そっか……辛かった、でしょ。どうして? えっ。だって、人間ひとりが理解できることには限界がある。にはの得意分野があるでしょうし、わたしにもある。自分で言うのもなんだけれど、世界の言語と宗教の歴史については、ちょっと自信があるの。あっ、うん……それと同じように、も色々な音楽に詳しいのでしょう? いやそうでもないよ、ヒップホップばっか聴いてただけで……でも、ひとつの音楽ジャンルに通じてるだけですごいじゃない。それはおそらくわたしには理解不能なこと。わたしにできないことも、ならできてしまうかもしれないよ。そうか、な……

 それにしても不思議、あのヒップホップって。言葉なのに音楽で、音楽なのに詩で……またその話? だってそうでしょう、これらは本来まったく別なはず。まあね、カナブンとモンシロチョウね……でも聞いた話だけど、音程無視のラップを絶対音感持ちの人が聴くと、ピッチの歪みに堪えられなくて気分悪くなるらしいよ。そう、そういうこと、わたしもある意味では同じ。えっ。絶対音感は、失音楽症の対岸に位置するとも言えるの。誰しも乳児の頃は、聴覚の認識を絶対音感に依存している。言語獲得のごく初期の段階で、相対的なピッチの変異に関心を向けるのを補うために絶対音感が必要とされる。大抵の人は三歳から六歳あたりのあいだで「脱学習」するんだけど、この時期に徹底して音楽の訓練を受けた人は、成人しても絶対音感を維持することがある。そうなの、ってことはわたしも小さい頃はあったのか。ええ、今では思い出すことすらできないでしょうけどね。逆に言えば、人間の言語獲得はそれほど音声に依存してるってこと。私の「失音楽症」は、幼時から音楽の認識能力をギブアップしてしまって、言語獲得のみに過適応してしまった結果かもしれない。つまり、絶対音感の言語版、か。その副作用として音楽がまったくわからなくなった、ってこと。ええ。これはなにも現在の人類だけの話じゃないよ。たとえばホミニド、四五〇万年前までは生きていた霊長目ヒト科はね、脳にブローカ野と呼ばれる部位を持っていたらしいの。音声言語に必須で、運動行為全般にかかわる部位。そこにミラーニューロンと呼ばれる神経細胞が発見されてね、これはヒトが音声言語に関して模倣行為を行う際に活性化される。てことは、前言語段階のホミニドは絶対音感を持っていたのかもしれない。言語を獲得するにつれて、ヒト科は音楽の認識能力を別のものに変異させていったのかもしれない。なんか……途方もない話だなあ。それくらい古いんだよ、ヒトと音楽との関わりは。その長大な歴史に比べれば、言語なんて最近になって流行りだしたおもちゃのひとつに過ぎないのかもしれない、ってこと。まあねえ。

 と、いつも使わない頭の部位をフル稼働しながら話を聞いているうちに、いつのまにか春吉まで来ている。あ……このへんは。なに? 、あんまこのへん歩かないんじゃないの。ええ。そっか、じゃあ知らないよな……ラブホ街、ってこと。口に出すこともできず、所在なく佇むしかない。えっとわたし、早良さわら区のほうに部屋あってさ、今夜は適当におやこう通りのクラブで過ごそうかと思ったんだけど、ここまで来ちゃったし……もうこのへんに泊まるよ。と、目の前の蛍光表示を見上げながら言う。はどこ住んでるの? 千代ちよ。そっか、そんな遠くないね。じゃ、わたしタクシー代出すから……とのわざとらしい切り出しを、いいよ。と峻拒する声。えっ。長話に付き合わせたのはわたしだし、それにもっと話したいじゃない? いや、まあ、そうかもだけど……もそう思ってくれてるんだったら、一緒に泊まっちゃえばいいじゃない。な、や、まずいでしょ、彼氏さんとかいないの……いないよ、お生憎というか、幸いなことにというかね。は? いる、けど……目の前のおもてから目を逸らしながら、曖昧に握った右拳を胸に当てる。こんな昂り、成人してからは一度も感じたことがなかった。わたしと一緒に夜を明かすのは、いや? 宵闇そのものに溶け込んだかのような微笑を前にして、どうして拒むことなどできたろう。そうだ、これがとの初めての夜……意を決して顎を上げ、大きく首を横に振る、わたし自身の姿、を視ている。


 貸して、。初めて入ったわけでもないのに、室内のどぎつい照明に挙措を失うわたし、を気遣ってか、は枕頭以外のあかりをすべて落とす。え、なにを……ライター。言うが早いか指先を胸元のポケットに滑り込ませるは、小さく息を漏らすわたしを気にも留めず、金属音とともにZippoを取り上げる。ああ、あれ、きゅうぞうからもらったやつだ……わずかな照明をたよりに、借りてきた猫のようになっているわたし自身をる。初めてだからって、そんな緊張しないで……と言いながら枕頭のノブを回して徐々に照明をくらくするに、あなたは初めてじゃないの、と訊く気遣いさえこのときはなかった。た、ばこくさいし、シャワー浴びてから、と狼狽うろたえて口走るわたしに、ううん、これがいいの。匂うからこそ互いを近くに感じられるでしょう。とわたしの両肩を指で撫でながら、は一挙動で力を込め、わたしの上体を引き寄せる。唇を結んで拒む、こともできず、ふたりで同じ息を分かち合う。初めてじゃない、のに。同性とのキスなんて遊びで何度かやったこともあったのに……ふたたび離れて顔貌かんばせを晒しあうわたしたちは、もう、これからしてされるすべてのことに同意しきっていた。

 ねえ、。言いながら枕頭の照明を切るに、なに……と小声で返すわたし。ライターの仕組み。と、まるで脈絡のないことを言われ、えっ……と頬を寄せることしかできない。まず燧石ひうちいしで火花を散らせて、その火種にガスを送る、でしょう。実際に着火して見せながらは言う。うん……人間もこれと同じ。最初の火花があってこそ視覚的に認識される。でも、火が消えたあと、このあかりを燃え立たせていた力が存在しなくなるわけじゃない。ただ火として見えていないだけで、ガスの流れ自体は存在し続けている……掌中のZippoをいらいながら言う相手のおもてが、わずかなあかりに照らされ、顔貌かんばせの脈々に影が踊る、のをている。焦らされている、はいじわるだ、わたしがたまらなくなってるのを知ってこんなどうでもいいことを言う、と思っていた、この頃のわたしは。でも今ならわかる、この時点で始まってたんだ、からわたしへの、この世界の存在にまつわるレッスン。試してみましょうか、お互いの姿が見えなくなっても、それでもわたしたちはり続けられるか。あかりが消える。息が飲まれる。闇が行う。


 一度で足りるはずもなかった。ふたたび照明をつけるまでのあいだ、わたしたちがしてされたことを自覚してしまえば、もう歯止めはなくなった。いい加減真新しいこともないなと思っていた自らの身体が、今まで眠っていた箇所を激しくされ、堅く閉じていた部分をあられもなくされた。うれしかった、あの深緑の布で覆われていた黒髪が、わたしの眼の前では放恣に曝け出されているのを見て、たわいもなくうれしかったんだ。も、わたしも、そこにいた。眼から入るものを遮っても、ひとつになることだけはどうしてもできなくて、ただふたつ身がとこの上で立てる音を聴いていた。

 枕頭のデジタル時計表示に目をやり、もう夜が明ける、とふいに焦るようになり、傍らの胸にうつぶせる。首筋を撫でながら、耳朶をむようにねぶる。ふふ、と掻くような息が当たり、枕に預けられているの微笑みに視線を移す。あんま、よくない? 間抜けて言うこちらに、いや、おもしろくって。いましてたとこ、全部の弱いとこだったから。と口元を弓のように撓めて返す。えっ。と呆気にとられてるうちに正面から押し倒され、したことを鸚鵡返しにされる。っう、ゃめっ。ふふっ、やっぱりそうでしょ。狐狸こりめいてじゃれながら、舌先を鋭くして耳孔に挿し込む、っは、くゎ、ぁぁあっ。片手で眼前の肩を握り、足の五指を貝のようにしおり、頭頂から爪先までれ果てる。すごい、、こんなに……耳だけで、なんて。陶然としながら言うの眼下でわたしも蕩然とする。ふじぁ、やめて、こわい……ふふっ、大丈夫、無理になんてしないよ。これからゆっくり慣れていけばいい。柔らかなこわを向けながら、こわばったわたしの身体を助け起こしてくれる。これから、か。もうこの時点でわかってたんだ、この逢瀬は一度だけじゃ済まないと。でもこの夜は、わたしばかりよろこばされて、に何もしてあげられなかった。のが悔しかったのか、拙い接吻を交わしたあと、ちょっと待ってて、と言いながら床に放り出されていたショルダーバッグを持ち上げ、中からiPod Classicを取り出したのだった。ああ懐かしいな、あれ、東欧からの強制送還のゴタゴタで壊しちゃったやつだ……ちっちゃいスピーカー着けて、きゅうぞうと寝る前に聴いたりしたな。この夜もわたしは同じように、いくつかのプレイリストから一曲を選び、再生ボタンを押した。



あなたにあげられる以上の愛を捧げた

愛を捧げた

あるかぎりのものすべてを捧げて

あなたはわたしの愛を持って

持っていってしまった


 ねえ、。なに。この曲も、とわたしとでは、違って聴こえてるんだよね……そのはず。そっか……


あなたに打ち明けたよね

わたしが信じることを?

こんな愛が続くわけない、とでも

誰かが言った?

あなたに捧げたよね

わたしがあげられるものすべてを


 音程はわからなくても、声の調子はわかるんでしょ。うん。きれいな声だね、女性? いや、女性の曲を男性ボーカルがカバーしたやつ。シャーデーっていうイングランドのナイジェリア移民の曲をね、カリフォルニアのバンドが。たしかボーカルの人はメキシコと中国の混血じゃなかったかな。だからこのカバー、いろんなのが混ざり合ってる感じがして好きなんだよね……そう。


涙にれて

あなたのためにしてあげる、そう

わたしたちふたりにまさるものはない


 音楽は不思議だね、人種も国境も性別も、軽々と超えてしまえる。時間も、でしょ。時間? そう、これだって九〇年代前半の曲だよ、それを九〇年代半ばに出てきたバンドが二一世紀に入ってからカバーして、また新しく奏でてしまえる、ってさ。それは空間だけじゃなくて、時間も超えてるってことでしょ。


これは尋常じゃない愛

尋常じゃない愛

これは尋常じゃない愛

尋常じゃない愛


 そうか……どうしたの、? いえ、そんなこと、今まで考えたことがなくて……簡単なことだよ、音楽好きなやつなら感覚で理解してる。でも、存在は時間の順序と関係がない……なんて。そんなに意外? いえ、もしかしたら、わかっていたのかも。でも、こんなに的確なしかたで言い当てられるなんて……


つづけて

きつづけて

びつづけて

ん……で落ちていく


 。なに。よかった、あなたと出逢えて。わたしはきっと、あなたみたいな人を探し求めていた……なんで、全然たいしたことないよわたしなんか。いえ、やっぱり、わたしにはあなたの力が必要。音楽のことを真に理解している人じゃなきゃ、わたしの仕事は果たせない。仕事……スピンズの? わたし服の趣味も偏ってるからなあ……違う、そっちじゃない。えっ。わたしね、書こうと思うの……小説を。へえすごいじゃん、作家志望。それも違う、世俗の成功なんか望んでない。ただわたしは書こうと思うの、世界を変えるための小説を。おーなんかすごい、革命的。どんな小説? それはね……決してインクで書かれてはいけない小説。なんそれ。それは歌で、音によって書かれなくてはいけない……詩や論文でもない、小説でしかできないやりかたで。どういうこと。ふふ、もう少し長話に付き合ってくれるなら、教えてあげるけど。

 そうだ、こうして始まったんだ、わたしと道行みちゆきは。ずっと一緒にいたい、この人とならどこへ行ってもいい、そんな想いを遊ばせながらキスで応える。でもわたしは、この時点でのわたしは、まったく弁えていなかった。との旅路、途中で振り落とされ、ふたたび導かれることになった後追いの果てに、一体どこへ連れて行かれるのか……

 まず、基本的なことから確認するね。


 あいことの戦争。まいおとの戦争。はそう言っていた。今ならわかる気がする、わたしがシーラやアーイシャと取り結んだ、あの穏やかで途方もない日々。わたしたちは数えきれないほどの鉄火場を、暴力以外の全ての方法で闘った。そして今ここにいる、わたしと以外には誰もいそうにないところに。たぶんわたしは、もうわたしですらなくなるんじゃないかと思う。はしたいようにしてくれた。あいつも色々大変な人生だったんだろうし、それくらいはいいだろう。もう用も済んだみたいだし、じゃあわたしはこう、が導いたところ、だけでは決してけないところへ。やっとわかったよ、、あなたが何を書こうとしていたのか。グダニスク湾で何を謂おうとしていたのか。なぜ、神は鏡を必要としたか。これだよ、。あなたがわたしに向けてくれた、あの息吹。被造物よりも前にあったもの、世界が存在するきっかけを告げたもの。それは──


「すべての本は〈本物〉となることを目ざす、実は、本は借りものの生命を生きているにすぎない。飛翔の瞬間、その生命はかつての本源へと戻ってゆく。だからこそ、本は減少し、そして〈本物〉は増大する。」


「真に唄うこと、それはもうひとつの息吹だ、

 何ものでもないものをめぐる息吹、神の中の飛翔、風。」


 そしてこれは──誰の声だろう──わたしの知らない声が流れ来る。


「私は隠された宝であった。

 突然、私の中に自分を知られたいという欲求が起こった。

 そして、私は知られるために世界を創造した。」




 。もはやあなたではないあなたを、あなたの名でぶ。び戻す。もはや何者でもない者になろうとしたあなたを、今ここで裏切る。誰のものでもない歌に成り果てても、それでも、あなたの声じゃなきゃだめなんだ。私があなたを聴くとき、虚空にはあらけず、何度でも掴みよせる、ことができる、できるはずだ、できるとも、できますように。わかったよ、、なぜ私もばれたのか。なぜあなただけでなく、私までもが……ここまで来るには、あまりにも多くの言葉が必要だった。おとこととのあいだに、詞たちは隠されていた。しかしもう、ここにおいては、言葉は死んでいない。私たちが読み唱え書き写したあの詞たちは、もはや今まで通りではいられない。、あなたは世界のはじめまでこうとしている。ける。でも、かせない。私が来たからには、ふたつになってしまったからには、もう純粋な一ではない。でも安心して。ひとりでくよりも適切なやりかたで、私たちは世界のはじめについて語る、唄うことができる。そのためには、あの詞をぼう。幼少の頃からずっと私の脳裡を去らなかった詞を。ヨハネ、あなたは本当に美しい福音書を書いた。あなたの筆業への敬意は欠かさないつもりだ、でも。あなたは肝心のところを間違えた。世界は言葉ではじめられたわけじゃない。私も、も、おそらくも、最初からそんなことはわかっていた。だから、こうだ。

 初めにおとがあった。

 おとは神と共にあった。おとは神であった。このおとは、初めに神と共にあった。万物はおとによって成った。成ったもので、おとによらずに成ったものは何一つなかった。そうだ、かつて世界をはじめたものは、あの息吹とともに唄った。言葉でも文字でもない、書かれたものでも眼に視えるものですらもない、あの息吹によって。それは死でも、生ですらもなく、ただ愛だった。

 だから世界は貫かれている。愛によって。ことまいおともすべて織り交ぜたとないのわざによって。そうだ、世界はこんなにも歌に満ちている。唄うことも、舞うことも、書くことも、すべて愛による創造の神秘を解き明かすための賜物たまものだったのだ。ひとつだけではいけない、すべてが欠くべからず求められたのだ。私たちははじめに到達した、かと思えば、すかさずふたつめの詩句が来る。いわれのない裏切り者が、独りで安んじたかった者の孤閨を引き裂く。だって、あなたは、そのためにんだはずだ。ずっとひとりではいられなかった、だから唄った、自分を知ってくれる誰かへと呼びかけて。それを聞きつけたから私は来たのだ。こうして私たちは、永遠に救済から見離される。あなたへのとないの言葉を増やすほどに、永遠にあなたから遠ざかるしかない、この幸福な難破。それでもいい、私はあなたとくことに決めた。救いの一歩手前、ついに彼岸と結ばれるかに見えたその時、袖を振る。申し訳ない、私が求めていたのはどうやらこれではなかったらしいと、絶えず救いを破談にしながら、またどこへともなく流れゆく。どこへ? 不確かなところへ。あらゆる行為の背後にあって、庭か壁なんぞのように、無関心に立っている書き割りにも似た、無縁な暖かい国の中へ。遙かに遠く、立ち去ること。なぜに? それは衝動から、そのさがから、焦燥しょうそうから、ばくとした期待から、無分別から。無知から。これら一切をわが身に引き受け、なぜとも知らずに、ただひとり静かに死んでゆくため。捉えたものを、たぶんむなしく落ちるにまかせるだろう。そうだ、私たちは落ちる。ひとりではなくふたりで。幸福な者たちは下降する。きましょう、私たちが息を奪いあったあの土地へ。到着したと思ったらまだ途上、いつまでたってもたどりつかない。私たちの国は、絶え間ない流れ行きの只中にこそある。そこにしかない。はじめはもう、見つからない。最後というものは、無い。




 

 なに?

 

 もーなに、呼んでみただけ、とか言わないでよ。

 呼んでみただけ。だって、素敵な名前だから。

 なにいまさら、わたしは別に好きじゃないよ、こんな手抜きの名前。

 そんなことない、すごく素敵な名前だよ。それにしても不思議だよね、人が人に名前をつけるって。言葉を発するだけで、その人を呼べるようになるなんて。

 まあね……でもってのもきれいな名前じゃん。「不二ふじ」って、ふたつとない良いものって意味と、ふたつじゃなくて一緒のものって意味と、どっちもあるんでしょ。この前わたし調べたんだよ、辞書で。

 ふふっ、ありがと。そんなにわたしのことを想ってくれてるなんて。

 へへ、「不二ふじ」って、まるでわたしとそのものみたい。

 はかるさんも「不二ふじ」でしょ。

 もーやめてよ、今日はじめて会ったくせに。そんなに気に入ったのはかるのこと。

 ふふっ、もちろん……はかるさん、も綺麗な名前。 “Der Mensch denkt - Gott lenkt”.

 なにそれ。

 ドイツ語の格言。「人間は類推する、神は仕向ける」。 mensch は単に「人間」って意味だけど、 messen という語には「はかる」という意味もある。だからヘルダーリンやニーチェやリルケにとって、「人間」は「測定する者」でもあるの。尺度を定めて、価値判断を与えて、この地上に居場所をしつらえる者。

 あーなんか、いかにもはかるっぽい感じ。

 彼女もドイツ文学を専攻していたなら、きっと知ってるんじゃないかな。ねえ

 なに。

 大したことなんだよ、世界にこれだけ多くのものが存在するってことは。

 まあね。私も思うことあるよ、ハードディスクの中の曲、一生で全部聴き切れるかなーって。

 そういうことでもないんだけどね……、なぜ世界は創造されたと思う?

 えーなにそんな難しい話、しかも「創造された」って何、神みたいなのがいる前提なの。

 もちろん。世界が存在する以上は神も存在する、そもそも神自体が存在なんだから。たとえば辞書というものが存在する、その中の語句はアルファベット順や五〇音順で整然と並べられている。ということは、その辞書は誰かが編纂したってこと。これを世界に置き換えたらわかるでしょ、ビッグバンで宇宙が始まったなんて、印刷所で爆発が起こってバラバラに飛散した原稿がいつのまにか辞書としてまとまっていました、って言うのと同じくらい無理がある話。

 それもすごい極論だと思うけどなー。

 簡単なことだよ、世界のはじめを考えてみたらわかる。いちという数字には、「純粋ないち」と「堕落したいち」がある。「純粋ないち」は、ひとつの存在自体で成立するいち。対して「堕落したいち」は、二とか三とか四とか後に続く数字を内部に孕んでしまっているいち

「堕落」……?

 だっていちは単独で成立しているのだから、二分の一とか三分の一とか四分の一とか分割してしまえるのはおかしいでしょう、いち以外の数字を前提としてしまっては。

 ああ、そういう。

 つまり「純粋ないち」は、世界を創造する前の神。「堕落したいち」は、世界を創造した後の神。「はじめに神は天と地とを創造された」、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」。創世記のいち行目ぎょうめが始まった時点で、実は神は「堕落したいち」になっている、ならざるを得ないの。

 そっから数を増やした、ってことか。

 そう。でも肝心の問題が片付いてないよね。なぜ全能であるはずの神、「純粋ないち」は、そもそも有限な生命や物質で満ちた世界を創ろうとしたのか。

 うん、それに答えるためにいろんな宗教が必死こいてきたんでしょ。

 もちろん。ただわたしは、一二〜一三世紀のイスラーム思想が最も完璧な答を出してると思う。イブン・アラビーは、神の世界創造の動機についてこう答えている。 “nafas raḥmānī”.

 えっと、訳して。

「慈愛の息吹」。それは胸のうちにある息が口をついて漏れたようなものであって、つまり世界創造の端緒は止むに止まれぬ衝動によるとしか説明のしようがない、ってこと。

 なんそれ、説明になってないじゃん。それが完璧な解答なの。

 これ以上の答は考えられないよ。アラビーをはじめとするスーフィーたちは、「慈愛の息吹」による世界創造を受け入れた上で、神を讃えるために多くの詩を書いた。のみならず唄った。この時代に孕まれたイスラーム思想こそが、最も優れた存在論としてヨーロッパ世界を支えたの。キリスト教徒であるアクィナスもダンテも、もちろんこの思想の影響下にある。

 うーん……でもおかしいよね。神を讃えるための詩、ってさ、そもそも人間の感覚って有限だよね。しかも一神教では、アラビア語だろうがラテン語だろうがヘブライ語だろうが、全部バベルがああなる前の純粋な言語とは違ってるんでしょ。そんなのを使って唄ったり書いたりしたところで、神を讃えたことにはならないんじゃないかな……

 そう、、さすが飲み込みが早いね。有限な存在でしかない人間が、己の限界を知った上でそれでも数を増やし続ける、それこそがスーフィズムの神髄。どんなに的外れでも、食い違ってても、無力だとしても、どうしてもあの人を、あの存在を、自分自身の言葉で褒め称えなければならない、という情動。これって何? 恋でしょ。

 あ……そうか、そういう話か。

 そう、これは最初からそういう話。スーフィズムの用法においては、恋と愛は完全に区別できる。愛はもちろん神による世界創造の動機、「慈愛の息吹」。そして恋は有限な人間が「純粋ないち」に近づくために、不合理と知りながら言葉を連ね続ける情動。こうして神と人間は永遠に遠ざかり続ける、でもその遠ざかりこそ、有限な生と無限の神性がつながるためのよすが

 そっか……はかるが高校生のころ十字架のヨハネの本を熱心に呼んでてさ、なんで祈りや礼拝だけじゃなくて詩を書かなきゃいけないんだろって不思議だったんだけど、それって。

 そう。神秘体験を持つだけではいけない。完徳の境地、神との睦みあいは、詩として書かれなくてはいけない。有限な世界の只中に孕まれたものとして、ひとまずは場所を占めなくてはいけない。そうして神への恋は数を増やすの、絶対に届かないはじめを夢見て。だからわたしたちは、何度だって神の似姿である誰かを通して、この世界の愛を讃えることができる。歌によって、舞によって、詩によって、文字によって。何度だって、何度だってね。




 いない。いなくなってしまった。はどこだ。たしかに、ワタシにふれてくれたのに。ワタシのはらに……いや、これは。なぜだ、戻ってるじゃないか。こんなきたならしい身体に……でも、まだ、ワタシが孕んだはここにいる。よかった、お前だけは、何があろうとも。

 。と、あの声が響く。なぜだ、アナタは、来られないはずだろうここには。まあね、でもはかるさんが導いてくれたから。導い……あなたもそろそろ帰らなきゃだよ? いつまでごっこ遊びを続けるつもり? うるさい、アナタが、アナタが送り込んだんじゃないか、それにワタシはワタシの望みを叶えた。このだけは誰にも……

 う。

 あ、あ……あらあら、その子も外に出たがってるみたい。う、ぐ。もしかして、孕むだけ孕んで産むことは考えてなかったの? うる、さ……ねえ、さすがに無理があるよ、あなたはもうを産める身体じゃないんだもん。あれはが特別に優しくしてくれただけ、そしてはもういない。黙れ、お前なんかに……ぁあ、ら、ぉが。ほらほら、もう裂けそうじゃない。あなたが産みの苦しみに耐えられるとでも思ってるの? 女の肉体に生まれたわけでもない、あなたごときが? ぅう、っふ、う、あ。

 ……うるさ……突き出てるよ。耐えられなかったんだね、あなたのおなかは。これ、肋骨かな? ナイフみたいに尖ってるね。っは、さわるな……でもこのままだと死産かもだよ? あなたにとって最も望ましくない事態でしょう? だから、手伝ってあげる。ぅゎ、がは。よいしょ。ぁあがあぁああ!! 帝王切開で産まれたなら、立派に育ってくれるかもね。もちろん、あなたに育ての親は無理だけど。あ、ぁ、あぁ……ああもう、血まみれ。いいよ、これくらいはしてあげる。ここまで来られたのも、文字通りあなたの献身あってこそだからね……ぅ……ほら、聞こえる? あなたのの声だよ。へその緒、はもう切っちゃった。あ……じゃ、このは連れて帰るからね。も、出血がおさまったら戻らなきゃだよ。大丈夫、あなたは頑丈な子だから。それじゃあ、向こうでまた会いましょう。有限な生命の世界でね。


 あなたもここにいたの。と呼ぶ声が聞こえる。こくはかる……なんとか声は出せるらしい、が、縦に裂けた下腹からは、かつて孕んでいたと、収まっていたはずの臓物ぶんの体重が抜け落ちていた。は。と訊く声に、知りませんよ、戻ったんでしょう……もとうに……とだけ返して息が詰まる。わかった、無理はしないで。と言いながらワタシの真紅の裂け目に掌を押し当てる。実は、勘付いてはいたの……あなたがと関係してるんじゃないかって。に対するで、こくに対するきりしまなんて、いかにも当て付けめいた命名だと思って。大方、あいつが親代わりとして世話を焼いて、その引き換えとして好き放題されたんでしょう。っは、だから何です、今更……責めるつもりですか、ワタシが母とともにしたことを、マキやてんにしたことを……まさか。言いながら、はかるは五指をワタシの手に絡める。責めようとは、思わない……たとえどんなに理不尽でも、母から愛されたい、って想いは、わかる気がするから。

 アナタなんかに同情されるようでは、ワタシもおしまいですね……そうね。いいですか、あの世界でいちばんを愛したのはワタシだ、アナタやじゃない……ええ、そういうことにしてあげる。じゃあ、あの世界に戻りましょうか。ごめんです、ワタシはここで死んでやる……でも。でも? ワタシの、ワタシととのが、あっちに連れて行かれたはずです……ワタシが孕んで産んだんですよ、そんなことはアナタにもにもできなかった、絶対に……あのだけは無為に死なせたくない。かならず見つけてください、それがアナタの義務です……ずいぶん押しつけがましいこと。見つけようにも方法がないよ、産まれたばかりのなんて。ワタシとの愛の結晶なのです、アナタならわかるはずだ……本当に一度でもを愛したことがあるなら……ふん、まあ、探してはみるから。それと……なに、まだあるの。これを……なに、キャメルの箱。マキが、臨終の際にしたものです……百済くだらに渡してくれ、私たちはあのことを忘れはしなかったと伝えてくれ、と。アナタがふたたびに会うことがあれば、これで根性焼きのひとつでもしてやったらいいでしょう……ふふ、その程度じゃ済まさないけどね。じゃあ。ええ、お願いします……。なんですか。楽しかった? ええ、まあね……少なくとも、と出逢えてからは……そう。あのには、と同じように、音楽とともにあってほしい……もう、ワタシのような生はたくさんだ。わかった、伝えておく、必ず。それじゃあ、おやすみ。ひとりで大丈夫? ええ、子守唄なんか要りませんよ……誰にも聴かせてやりません。ワタシのスワンソングは、ワタシだけのものです……




 またときめく。

 夏は夏になりすぎて自壊する。そうか、もうあの夏から一二じゅうに年経ったんだな。もうこよみ自体変わってしまったわけだから、この数えもさほど意味を成さないけど、まあ皮膚感覚の話だ。さて太音暦たいおんれきで数えれば、このゴールウェイで司教を務めるようになってちょうど一一じゅういち年か。奇遇だな、この一一じゅういちって数字はあの夏、κωμόςコーモスという名前でとツアーを回ったときの総人数なんだ。アーイシャとズラミートを入れたら一三じゅうさん人だけどな。ともあれ、あのときと一緒にいたやつらがなんか一二じゅうに聖徒とか呼ばれ称されるような事態にならなくて、ひとまず安心してるところだよ。もっとも、大異端を宣告されて世界中から追われる身になりたいとも思わないけどな、みたいに。

 あのりゅう調性ちょうせい戦争せんそうを引き起こした大悪人ということになっているやつについて、何を付け加えられるだろうかな。もう随分、みんなには話してもきたし。とりあえず、ここにはまだ一桁ひとけたの年齢の子たちも沢山いることだし、あれが起こった当時のことを振り返ってみるか。まず、君たちの世代には想像もつかないかもしれないが、議論が分かれたんだよ。本当にがやったことなのか、って。今こんなことを言ったらカトリックでもプロテスタントでも即刻破門だろうけどな、でも事実だから仕方ないんだ。あのとき、はかるがいなくなって、GILAffeジラフを入れてたやつらの肉体に変異があらわれたとき、まだ世界中の全員がの仕業だと確信してたわけじゃないんだ。でも、我々の言葉を通じなくしたのはあいつだ、あいつが我々を欺いたんだって発奮したやつらがすぐに事を起こしてな、あとは知っての通り、世界中で調性ちょうせい戦争せんそうと呼ばれる事態が出来した。あのとき日本にいたからよく憶えてるよ、あのツアーの最終地だった九州は東京と遠く離れてたから、傍観の感はあったけどな。このへんについては、今でもあっちに残ってるヤスミンがちゃんとした著述をやってるだろうから、興味があればそっちを当たってくれ。

 さて、肝心のことだ。ここに集まってるみんな、とくに太音暦たいおんれき制定以降に産まれた子たちには、当然の疑問があると思うんだよ。結局、なにが変わったんですか? って。GILAffeジラフとかいうのがだめになっちゃったのはわかるけど、それにしたってもとからおかしな発明だったわけであって、それが使えなくなったからといってあれだけの虐殺をしなきゃいけなかったんですか? 調性ちょうせい戦争せんそうを経て太音暦たいおんれきが定められるまでの間で何が変わったんですか? って。そうだな、当事者として答えるが、何が変わったかというと、特に何も変わらなかった。ただ、これから人類は、文字が音楽と無関係であると考えるのをやめるだろう、という予感があった。それが当たったかというと、ふふ、今この教会堂に集まってくれてるみんなの顔を見れば、言うまでもないことだな。

 つまり、人類は、あのときからほんの少しだけ音楽的になったんだ。

 ああ、思い出したよ。今では海外への渡航なんてずいぶん珍しくなったが、あのとき、九州に取り残されたあたしらが三々五々各々の国に戻る前、やっぱ名残惜しくはあったんだ。多くの公演を共にした友だし、家族、だとも思ってたしな。でも、これはやっぱり解散しなきゃいけないって踏ん切りをつけてくれた一言。残された一一じゅういち人の中の一人が、くっだんない、こうして顔突き合わせるより他にやるべきことがある、って不機嫌そうに言ったんだ。初めてだったよ、あいつのうんざり顔を見たのは。だからあたしは訊いた、やるべきことって何だ? って。そいつは答えたよ、ギターの練習すよ、決まってるでしょ。って。

 そう、練習だ。今日も相変わらず始めよう。君たちは、とりあえずアイルランドで聖歌隊の存在が認可されている唯一の教会であるここで、神を褒め称える歌の技巧を磨かなくてはならない。結局これが最良の手段だ。調性ちょうせい戦争せんそうにおいて、言語派と音楽派──この地帯でいえばヴァーヴとスキッズだが──の抗争で殺される側は常に後者だったという事実は、我々の歴史における数少ない誇りだ。その誇りを唄い継ごうじゃないか。神は決して、聖書に書き記され読み上げられるだけの存在じゃない。ではシスター・シャムロック、始めようか。みんな歌詞はちゃんと憶えてるな? 音を外すならともかく唄うための言葉すらろくに身についてないようじゃ、ヴァーヴのやつらに笑われるぞ。いいか? よし、始めよう。曲目はもちろん、『飢えたる者に汝のパンを分ち与えよ』。


 相変わらず、言語派の者たちは自らの不明を恥じもせず、アッラーを讃えながらその栄誉を毀損するような言葉ばかり述べ立てています。と言うだけで、もう私に非難の声を浴びせようと準備している人々のざわめきが聞こえます。しかしどうでもよろしい。あの調性ちょうせい戦争せんそうのおり、カトリックやプロテスタントと同様に我々のイスラームも多くの同胞を分断させた、これは動かぬ事実なのですから。

 ひとつ私の頬に笑みを添えてくれるのは、いま音楽派イスラームのあいだで行われている、歌や舞でアッラーを讃えるという実践は、私とズラミートが太音暦たいおんれき制定以前に行っていたことそのものだ、という事実です。ええ、あの時期から私たちは、数学や幾何学を駆使した書道と同様にダンスも奮闘努力ジハードになりうると確信して事に臨んでいました。そしてあの頃の私たちと同様に、音楽派イスラームも命の危険にさらされています。しかし彼女ら彼らは唄い踊ることをめはしないでしょう。創造のわざはアッラーにあり、正義は彼女ら彼らと共にあるのですから。

 さて、まもなく昼の礼拝なのでそろそろ切り上げますが、私を心底うんざりさせるのは、言語派の人々──これにキリスト教やイスラームなどの区別はありません──が音の力を恐れながら、一方でだらしなく欲情しているふうがある、ということです。あの人々が音を恐れるのは、実はその魅力に深く魅入られているからではありませんか。かといって我々は、歌や舞を通じて己の肉体をひけらかしているつもりは全くありません。ひとえに、アッラーがお創りたもうた被造物の神秘を讃えるためです、野の一面に向日葵が花開くように、蜜蜂が精巧な巣を営むように。その実践を阻むのであれば、我々は大と小いずれの奮闘努力ジハードにも訴える覚悟があります。言語派の人々が断行しているのは、他ならぬアッラーが創造したもうた世界そのものへの冒涜なのですから。身内でありながらアッラーの御名を穢してやまないムスリムたちに対して、我々は藝術という名の向かい火を絶やすことはありません。我ら音楽派は、無知を盾として崇敬の念を侵す者たちと、断固として闘い続けます。


 声府Verbamentは相変わらず無能の吹き溜まりで、アーティストの活動を阻害することばかりやってる。と憤るハンの意気を文面から感じながら、今でもハングルを読むことができている自分を遅れて訝しく思う。あれ以降、人類は母国語以外の言語に親しまなくなった。もちろん音楽派が世界中で多くの犠牲を払って独立を認めさせた以上、言語なんて古めかしいもの──いや、実際には音楽より言語のほうがはるかに新しい産物であって、ここにも転倒があるのだが──に理解を示さなくなる固陋は、自ずと涵養されていくだろうとは思っていたけども。しかしハンのいる半島は、一〇年ちょっと前まで南北に分断されていた事実が嘘のように、世界でも類を見ないほどの藝術特区として名を馳せた。もちろん、腐敗を嗅ぎつけたら即刻の抗議を旨とするソウルの市民民主主義が根付いていたからこそ成し得たことだろう。

 手紙を抽斗ひきだしにしまい、返信の文面を考えながら書斎を出る。そうだ、この音楽学校も一二じゅうに年前には城と呼ばれていたな。りゅう、今ではこの島国を離れてしまったあの子があつらえてくれた場所だ。エレベーターを使うのがふいに厭わしくなり、階段で二階まで降りてみる。今では資料室として当てがわれているこのフロアで、かつて私たちは笑い暮らした。配架されているレコードのボール紙を撫でながら、あの頃交わした私たちの悲喜を追想したくなる、のを抑えて、おはよう、と司書のおのみちにあいさつする。おはようございます。学長、ほんとにお早いですね。すこし意外そうに返され、うん、今日から新しい子が入るからね。と伸びをしながら言う。あの子、ですか……と眉を曇らせるおのみちに、大丈夫、私が責任をもって預かったんだから。と胸を張ってみても、いえ、それよりもまず……と愁眉で言うので、なに? と訊いてみる。どこか似ている気がしましてね、あの子……語尾を切ったままのおのみちに、似てるって、あなたの好きなこれに? と言いながら一枚のレコードスリーブを示してみる。と、心底いやそうな表情を浮かべてカウンターに引っ込んでしまった。あはは、一〇年以上経っても『ピノキオ』には複雑な思いがあるんだ。でもどうしてだろ、AIだからといって今更ピノキオコンプレックスもないだろうに。それにしてもこのレコードたち、換金したらいったいどれくらいになるだろうな、と今更の俗っぽい連想に傾く。世界中から阻害されたアーティストを受け入れてどんどん文化的に成熟してゆく韓国を遥か高みに見ながら、それでもこの日本列島がまだ世界有数の音楽国家として認められているのは、かつてヴァイナルやコンパクトディスクなどのフィジカル録音媒体が盛んに流通していて、現在でも太音暦たいおんれき制定以前の音楽をじかに回顧できる場所だから、という物理的要素が大きい。あれ以降、人類はインターネットや海外旅行などのグローバルな嗜欲を厭うようになり、デジタルで保存されていた音源も多く戦禍によって潰えてしまった。よってこの東京にも少なからず海外からの移住者がいるが、そういった人々の精神性が「かつてこのような音楽があったのだなあ」的な詠嘆に流れているのは、好ましからぬ傾向だと思う。私が学長としてこの音楽学校で新進の教育に務めているのは、その退行に抗すべきとの判断にもよる。

 一階へ降り、朝礼よりすこし早い時間に教室を訪れる。と、うわ。室内では仔犬めいた生徒たちが仔犬なりの猛気を発しながら、なにやら床に組み敷かれている姿に打擲を加えている。ちょっ、ちょっと、やめなさい。数人で輪になって殴る蹴るを繰り返していた生徒たちを押しやり、床でぐったりしている子に視線を落とす。ああ、やっぱり。もう、一体どういう了見ですか、新しい仲間をいじめるなんて。と周囲の生徒たちを一喝すると、だってせんせー、そいつすげー歌ヘタなんだもん。と眼下の子を指差しながら言う。そいつがおれらの仲間になるとか、冗談じゃないよ。せんせーも知ってるでしょ、歌がヘタなやつらは生きてちゃいけないんだよ。そいつ才能ないよ、今のうちに殺しちゃおうよ。駄目。いいですか、みんなには前にも話したけど、私だって最初はヘタだったんだよ。才能なくても、努力次第でどうにかなるの。私だってハンに付き添えるくらいにはなったんだから。えーでも……でもじゃない。今そんな注目に値しない人でも、数十年経ったら世界を変える存在になってるかもしれないでしょ? 人間ってそういうもの、簡単に計れはしないの。さあ、みんなこの子に暴力振るったこと謝りなさい。やーだ。あっ、こら。せめておれらと同じくらい唄えるようになったら謝ってやるよ。と言いながら、生徒たちは各々席に着く。

 もう……ほんと、どの時代にも極端な子たちはいるものだ。ある意味、日本という土地の国民性でもあるのかもしれない。対外的な交際において、曖昧に微笑むかいきなりキレるかの両極しかない日本人の心性は、調性ちょうせい戦争せんそう期にも多くの火種を蒔いた。むしろ、言語派よりも音楽派のほうが暴力的だったかもしれない唯一の言語圏がここだったのだ。現在日本の声府Verbamentを構成している人々は、の仕業を弾劾する海外との国交を即座に閉ざし、旧態を維持する人々を言語派と決めつけ、一斉に粛清を始めた。ここの生徒たちも共有している「藝術的才能を持たない人間は殺してもいい」というアティテュードは、あの時期に醸成されたものに他ならない。私たちは九州から首都圏の動向を傍観していたが、あれほど小心翼々として変革を侮蔑するエートスの持ち主であったはずの国民は、一転してかつての世界を破壊し始めた。藝術に敬意を表さない政府、その構成員たちは、首相から末端の公務員に至るまで徹底的に虐殺された。歌唱や舞踏や演説の能力を持たない者は生きるに値しないと、国民的な草の根運動の結果として絶滅させられた。「訂正云云でんでんというご指摘はまったく当たりません」とかいう意味不明な言辞を弄したことがある政治家は、もちろん九族まで皆殺しにされた。たった一〇年ちょっとでこの国は、かつて世界中から三等国として軽視されていた事実を焼き棄てるかのようにして、圧倒的に「藝術的」な国家として変貌してしまったのだ。まったく、いつの時代にも極端な人たちはいる。そういう経緯もあり私たちは太音暦たいおんれき制定後にも一切の害を被らなかったのだが、かつてに帯同していたという理由だけでいたずらな神聖視を向けられるようになっては、さすがに座して見ているわけにはいかなかった。ShamerockもInnuendoもDefiantもハンもそれぞれの国に帰ったけど、私だけ残ると決めたのは、この国の閉塞を放っておいてはもっと悲惨な事態に繋がりかねない、という出過ぎた問題意識に拠っていた。が、こうして教室でのリンチを鎮圧しなくてはならない事態に際会しては、なるほど正しい判断をしたものだと思う。もっともこれは、暴力革命期を経た首都圏でしか共有されていないエートスなのかもしれない。漁火イリチは生まれ故郷の沖縄に帰ってしまったが、たまに届く手紙を読む限りでは、あの島の雰囲気はずいぶんのんびりしたものらしい。米軍基地も鹿児島に移されて、島民の自治が回復された現在では、かつて日本列島のみならず東シナ海にひらけていた時代のおおらかさのようなものが取り戻されているのかも。日本声府Verbamentは沖縄の独立だけは頑なに認めていないが、ここ数年での運動の興隆を見ると時間の問題でしかないと思う。平和裡に独立を勝ち得るための運動ならいくらでも協力する、という返信を先月送ったばかりだ。

 さて、ともあれ、私の仕事はこれだ。音楽と政治は無関係などという幻想が、もはや文字通り灰塵に帰してしまった現在において、それでも音楽と暴力の結びつきは自明ではないのだと教育する、その役目を果たす。それが私なりの、かつてたちと過ごした時間に対するケジメ。さて、みんな知ってるでしょうけども、本日このクラスに新しいお友達が加わりました。壇上で言う私、の脇に纏わる姿に、ふん、けっ、ばーか、と心無い半畳が加えられる、のを一睨みで制する。はじめに、自己紹介とあいさつを。と促すと、はいっ、と小さく応えたのち、ホワイトボードに大きく漢字を書き、くしゃくしゃの前髪と痣だらけの頬を同級生たちに向ける。きりしま一三七いみなです。まだ皆さんと同じくらいうまくはないかもしれませんが、これからよろしくおねがいします。


 すごい名前ですね、とはかるに率直な感想を漏らしたのも一週間前のことか。ええ、と笑いながら、はかるはこの一〇年ちょっとにけみしたことたちを話してくれた。調性ちょうせい戦争せんそう期に北九州市に赴き、ひとまずのご両親の安全確保のために滞在したと。音楽派が圧倒的多数を占めるこの国においても、やはり騒擾のきっかけとなったに対する怨恨は募っているらしく、りゅう家も少なからず襲撃の憂き目にあったらしい。しかしそこはやはりはかるというか、周囲の人々を相手取り、の親族を邪悪視も神聖視もしないようにと意を含めたのだという。どうやって、と訊いたら、睨みを利かせた。とだけ言っていた。

 その後、全国の戦災孤児擁護団体を歴訪し、ひとりの幼児の里親となることに決めたのだという。どこで誰らとの間に生まれたかも定かでない孤児は調性ちょうせい戦争せんそう以降どこにでもいたが、なぜその子の親に。と訊くと、似てたから。とだけ言っていた。誰に、と問いを継ぐのも憚られて、側らに行儀良く座っているその子に、お名前は? と訊いてみた。きりしま一三七いみなです。

 あなたの学校に預けようと思うの、と静かに告げられ、ええ、もちろんいいですけど。でもはかる、今まで住んでたの九州ですよね、東京に移るってことですか。と返すと、いいえ、移ることは移るんだけれどね……もう日本じゃないの。と言う。海外、ですか。ええ。この子もいい年頃になってきたし、もう保護者がべったりついてなくても大丈夫だと思う。あなたなら間違いなく教育してくれるでしょうし。うん、それは、いいですけど……はかるは、これから、どこへ。と一直線に差し向けると、一瞬の躊躇もなく、さがしに。と応えた。そう、です、か。意外かな。いや、むしろ今まで行動を起こさなかったほうが不思議っていうか……わだかまりがあるのかな、と思ってましたから。ふふ、ないよ、ただこの子を保護するのが私なりのケジメだっただけ。そうですか。さがしに、かあ。見通しはついてるんですか、どこにいるか。まあ、定かではないんだけどね……でも実際、あなたもうっすら見当はついてるんじゃない。まあ……不思議ですよね、私たちGILAffeジラフを入れてすらなかったのに。言語派の人たちがあれだけ血相変えてを追えてるのも、そういうことなんでしょうね。もちろん、あの子はかつてあった人々の存在自体を変えてしまったわけだから……悔しいでしょうね、どこの誰とも知れない人の仕業によって、一方的に発情させられてしまって。ふふっ、発情、かあ。思えばって、周りの人々をいつのまにかカッカさせる人でしたね。ええ。はかるも、ですか。にアツくさせられちゃった人。もちろん。

 一〇年ちょっとの沈黙を埋めるには足りない、控えめな口吻を交わし、それじゃあこの子は任せてください。と落とし所を見つける。ええ、お願いね。さ、一三七いみなも。はいっ、これからよろしくお願いします。

 でも、はかる。遠ざかる背中を名残り惜しんで呼び止める。危なくないですか、ただでさえ追われてるを追うって。言語派の人たちに襲われないなんて保障も、まったくないわけですし……どうするつもりですか、これからと同じくらい危ない目に遭ったら。余計な気遣い、なのだろう。しかし無軌道とも取れる友人の旅程を、そのままに看過することもできそうになかった。はかるは振り返り、こちらの双眸そうぼうを一直線に見据えながら、数秒の黙考ののち、唇を開いた。

 わからない。でも……踊ればどうにかなると思う。

 こちらを笑わせる、つもりで言った、のではないことは、表情とこわから察せられる。しかし、なんというか。こんな人だったろうかこくはかるは。常軌を逸した世界で、彼女も何らかの箍が外れてしまったのだろうか。しかし、一〇年以上の懸絶をいまさら推し量ることもできそうにない。私はただ微笑み、がんばってください、あなたの旅路に幸がありますように。と返すのみだった。ええ、ありがとう。でもね……私はもう、幸福のことなんてどうでもいいの。


 だっせー名前。よろしくなんかしねーよ。と、相も変わらず野次を投げる同級生に対しても、一三七いみなは毅然として動じない。こういうところも里親に似たのだろうか、と思いながら、じゃあ、一三七いみなくんがこの学校で叶えたい夢を言ってもらおうかな。新入生にはみんな訊いてるの。と促すと、はいっ、と背を伸ばし、小さく息を吸い込み、唇を開いた。あの、僕は、音楽で世界を変えようと思います。そのために、まず、皆さんを変えることから始めようと思います。これからよろしくお願いします!

 ぷっ、と思わず噴き出してしまった、のは私だけでなく、今まで面相を歪めていた同級生たちも一斉に笑い始める。図抜けた意気を嘲ってか、それとも存外に強気な物言いを面白がってか。いずれにしても、一様な笑顔に取り囲まれた一三七いみなは、何かへんなことを言ってしまったのかとでも言いたげな、生真面目な表情で教室を見回すのだった。やってもらおうじゃねーの。言ったからにはやめんなよ。正面からの声を受け、はい、やりとげます! と勢いよく言い放つ新入生なのだった。

 また忙しくなりそうだ。




 そしてまた、始まりが終わると終わりが始まり、終わりが終わると始まりが始まる。、そういうことでしょう。あなたが謂っていた「ファンキー」という概念を、わたしがちゃんと理解できたかどうかは怪しまれるけど。でも、これがあなたから学びとった最大の収穫物。そう、あなたはずっとわたしを追ってくれていた。わたしがあなたにつけた愛の傷を、忘れないでくれていた。さて、追われる側になった気分はどう? あなたを亡き者にしたい人々、あなたを愛してやまない人々、あなたに変えられてしまった自覚もない人々、いずれにしろ、わたしたちの間にはもう距離しかない。そう、この距離を在らしめること、それがわたしの企てだった。ひとつになんてなれないよ。わたしたちはこれからも、最初のはじめから遠ざかり続ける。その過ぎ行きの中で、また死につつある永遠たちが数を増やす。この世界の愛を讃えるために、ひとつの数では絶対に足りない。しかしひとつの数なしでは何も始まらない。螺旋の先を走っても絶対に輪には閉じない、永遠の聖遷ヒジュラ。さあきなさい、。どこへたどり着くことになろうとも。


 これからは誰がうたれてもおかしくない。音楽自体が世界のありかたを大きく変えてしまったんだから。それでもまだ、また、わたしはわたしの子どもたちと一緒にくつもりだ。とりあえず、生きてはいるわけだし。まあ何度も襲われたけど、とりあえず右手の指が三本飛んだくらいだ。それに、何が変わったわけでもない。そうだよ、唄うことはいつだって命がけなんだ。シーラも、アーイシャも、私がよしみを結んだ人たちはみんなわかっていた。さあ、今日もまた出立だ、わたしの子どもたちよ。この螺旋の先を走り続ければ、誰も到達しなかったところまでけるかもしれない。


 砂漠だ。言うまでもない。爪先が灼熱になずむ、いや乾燥した砂にさんずいとはおかしいか、と、相変わらず文字に囚われになっている自分自身をわらい、目の前にひらけている黄金の荒野に相対する。ここにはいる。だって感じている。この距離を、甚だしいにもほどがある隔たりを踏み越えて、私はあなたに逢いにいく、

 どんなに高い山も、

 どんなに低い谷も、

 どんなに広い川も、

 私のおもむきを阻むことはできない。

 いつだって途中だよ、。終着点なんて無い。あなたもわかっているはず、無限が唯一であり、遠ざかりが接近であることを。なら、また相も変わらず始めましょう。私たちはもう、止めることを止めた。諦めることを諦めた。この旅は続き続ける。一歩、二歩、三歩、から先はもう数えない。この踵が、ひたすら拍を打って、先へ進めと命じる、あなたのもとへ。

 ける。

 こう。

 く。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る