27 残品


 何かは起こったのだろう。何かが起こったには決まっている。しかしまたこうして陽は昇り、地のおもてはあられもなく明らかにされる。堅い地べたから身を起こし、いままで背にしていたものが揺れたのか揺れなかったのかすら定かでなく、眼窩のやにをそのままに周囲を見回す、しかなくなる。何も起こらなかった、のだろうか。少なくともここでは。携帯端末を起こし、ニュースサイトに踊っている見出しをひととおり眺める。大事故や虐殺を伝える物々しい文言は、とりあえずは見当たらなかった。それでも、何かが起こったには決まっている。

 夜を徹して徒歩で帰宅した客たちも多かったらしいと、スタッフたちからどおに伝聞しながら、なるほど競技場エントランスにたむろしていた人影も少なくなっている、ことを確かめる。夜中に余震は何度あったのか、死者と負傷者は合計で何人にのぼるか、など聞いても確かな数字など寄せられるはずもなく、これから収拾をつけねばならない事柄に属するのだという救護スタッフの苦渋が言外に伝わった。ひとまず競技場から発つ車両は率先して負傷者の搬送に充て、一五じゅうご時を回る頃には全員の搬出が完了した、との報告を受けることになった。

 わたしらも帰ろう、と誰にともなく言う。κωμόςコーモス一一じゅういち人に加えてアーイシャとズラミートを加えた全員を返すためのバス一台をあてがってくれたスタッフの心遣いもどこか過分に思いつつ、これはもう帰るしかようがないのだった。八月からの講演はどうする。そもそもこのメンバーで続けられるか。などの交わしておくべき話題も、誰ひとり口には出さなかった。かといって責められるか、昨日の今頃、オリンピック開会のためにあつらえられたあのステージで何が起こったかさえ、誰も本当には理解していないというのに。

 ああ。避難所からはもう出たのか。私も間もなく戻る。と、Aminadabの門下生たちと通話しているのであろうアーイシャの声を隣に聞きつつ、えっ、と彼女らしくもないせわしい息が吐き出される、のを察して視線を向ける。なぜだ、どういう……なに、どうしたの。脇から声をかけると、アーイシャは端末を持った右手を慄わせながら、呻くように言った。ふたつ。えっ。屍体が、ふたつ。


 生命維持装置の計器が、すべてゼロの数値を指し示している。その内部に安置されたいわばしりマキの遺体──ということになるのだろうかこれは──が今にも起き上がりはしないか茫と眺めている。と、マキ、マキっ。と横たわる首元に掠れた声ですがりつくシーラの姿。おのみち、これって……はい、お亡くなりです。と呆けたように事実を確認するだけのこちらへ、なんでだよ、昨日までは生きてたろ! と刺すような嬌声が。昨夜、自治体の発表ですと午後八時から一一時のあいだということらしいですが、大規模な停電がありまして……この建物も全階の電力が落ち、生命維持装置も停止したようです。と訥々と述べるおのみちわたくしのサーバも落ちていたようで、その間何が起こったかは説明のしようが……は。と一言で問うと、それも、わかりません……わたくしが活動を再開して一階に出てみると、もう姿はありませんでした。と答えるのみだった。

 で、それ、は……おのみちの足下に鎮座している、なにか大きめのゴミ袋のような黒い物体を指差す。こちらは……先ほど、まとめたものです。まとめたって、何を……遺骸を。えっ。てん様が、屋上から身を投げました。それが地上に落下して飛散した残骸を、とりあえずまとめはしましたが……何。何それ。理解が追いつかず黙り込むこちらへ、気づけなかったんです、止められなかったんです。と、アーイシャを取り囲む門下生たちの音声がGILAffeジラフで翻訳されて伝わる。あの方、私たちを区の避難所まで連れて行ってくださって、一晩は無事に過ごせたんです。でも、つい三〇分前、一階でマキさんの死を知らされて……君たちはここにいなさい、私は用事がある、ってエレベーターで上がって。またヘリでどこかへ行くのかなと思ったのですが……あの時点で止めておくべきだったんです。と、今にも泣き出しそうなこわが翻訳ながら伝わる。それで、身を投げた、と。アーイシャの口から断片的に漏れた問いを、はい、一階でわたくしがマキ様の事の次第を告げてから、すぐのことでした……と引き取るおのみち。しゃがんで黒い物体に触れようとするわたしを、いや、見ないほうがよろしいかと……と制する声。でも、これ、どうすんの。とりあえずは、警察に報告すべきかと思ったのですが、皆様の帰還を待って判断しようと……警察に、か。報告したところでどうなる。ここで暮らしていた人がひとり衰死して、ひとり自殺しただけ。それにかたをつけるには、どうすればいい。どう弔えば。眼下でマキの遺体に顔を埋めているシーラの姿が、なにか別の要請を発しているようにも見えた。


 君たちのせいじゃない。ひとまずは沐浴を済ませたまえ。あと二回の礼拝はいつもどおり行う。と、周章の色を隠せない門下生たちをアーイシャはなだめ、ひとまずエレベーターで三階に帰した。なんでだろ。ドアが閉まるのを見届けて一息つく背中に問いかける。なんで死んだんだろ、てんさん。耐えられなかった、のかな。マキさんなしで生きることに……なんで、よりも、どうする、のほうが先だろう。と半ば憤ろしく振り返るアーイシャ。えっ、あ、うん、そうだよね……二人の、遺体。ふたたび救護室へと戻るアーイシャの背中を追いながら、でも彼女だって被災者じゃないか、というか、わたしらも含めた全員が。決して無傷ではありえないはずのわたしらが、それでも始末をつけなきゃいけない、決定的に破れてしまったものに、かつて人と呼ばれていたはずの亡骸ものに。でもどうすればいい、どう弔えばいい。


 ドゥさんと通話が繋がり、ひとまずマキさんとてんさんの遺族の連絡先は聞き出せた。まさかこんなことになるとはねえ、といつになく他人事のようにうそぶく相手に、そうだドゥさん、うちらの、以降の公演はどうしますか。と問う。そうねえ、今回のは東京の直下型だったみたいだし、他の会場は問題ないんじゃない? そうじゃなくて、東京で起こったことにどう収拾をつけるのか、とか、負傷者へのケアはどうするのか、振替の公演はあるのか、とか、色々あるでしょ。と早口に述べても、電話の向こうの相手は、うん、そうなんだけどねえ……とあくびでもするように。ねえちゃん。なんですか。正直ね、もう醒めちゃった。は。やっぱ日本そっちって地震多いのよねえ……あの競技場だってだめになっちゃったみたいだし、せっかくあたしのχορόςをオリンピックていう最良の舞台にぶっこむチャンスだったのにねえ……ちょっとドゥさん、なに言ってんですか。もうね、そっちに投資するのやめようと思うの。えっ。やっぱあたしの生まれ故郷、シンガポールでやるべきよね。うすうす気付いてはいたんだけど、これでやっと決心がついたわあ。ちょっと、なに……ちゃんには色々あげたから十分でしょ、城とかヘリとかさ。それ全部返さなくていいから、あとはそっちでうまくやってねえ。あたしはシンガポールにオリンピック誘致してχορόςやるっていう、新たなプランの実現に向けて頑張るわあ。それじゃあね。

 呆然として端末を下ろす私に、なに……とはかるが尋ねる。もう、ないって。えっ。もう、χορός関連でドゥさんの支援、ないって……地震でもう醒めたとか、あとはうまくやって、とか。なにそれ……ただ立ち尽くすだけのわたしとはかるの脇をすり抜け、これか、連絡先は。と言いながらアーイシャがメモを取り上げる。あ、うん。上のがてんさんので……と説明を加える前にもう端末を起こしている。アーイシャ。あとは私が済ませる、君たちは休んでいたまえ。全部って、どうすんの……と問いかけると、彼女自身も遅れて分別がついたのか、数秒沈思したのち言った。事実を、伝えるしかない……亡くなりました、と。




 おおうらさんのお宅、でしょうか。はあ。私、PeterlooというNGOからの用を受けてお電話申し上げているのですが。なんて? Peterloo……ああ、あれかい、てんの就職先。はい。それがなにか。あの、申し上げにくいのですが、今日てんさんがお亡くなりに……死んだ? はい、あの……昨日の震災の影響、で。震災ってあれ東京だろ? あいついま東京にいんのかい? はい、ご存知ありませんでした、か。あいつ自衛隊辞めてから海外行ったと思ってたからねえ。東京来てたのかい。それで死んだ? はい……まあ、いつ死んでもおかしくねえと思ってたがね、気ぃ狂って自衛隊辞めた頃から。はあ……あいつから勘当してくれとか言って一方的に絶縁しやがったもんでね、もう入る墓もねえですよ……遺体はそっちですか? はい。んじゃあもう、そっちで始末してくださいねえ……遺灰くらいならまあ、こっちで引き取りますから。


 いわばしりさんのお宅、でしょうか。はい、そうですが。あの、娘さん、マキさんについてご連絡申し上げたいことが。何でしょうか。お亡くなりになられました、昨日……えっ? 以前から体調が優れなかったようなのですが、昨日の震災のあおりを受けて、お亡くなりに……ちょっと待ってください、あなた日本人ですか? いえ、違いますが、Peterlooという団体を通じてマキさんと知り合いまして、それでお電話を。あの子じゃあ今まで東京にいたんですか? はい。なん、連絡もよこさず……あの、もしもし。はい。マキさんの遺体、についてなのですが……そっちにあるのですね? はい。じゃあ、それはもう……こちらで引き取りますよ。震災どうこう言ってましたが、まさか事故死ですか? いえ、病死……ですので、遺骸に損壊はありません。そうですか、は、損壊はありませんって、モノみたいに言うんですね。あ、いえ、そんなつもりは……あなた、マキが死んだときそこにいたんですか? いえ……なに、看取ったわけじゃないんですか? 病死って、じゃあ治せたかもしれないってことですか? それは……なんだ、なんなんですかあんた。わけがわかりません、あんた誰ですか!? 私は、マキの……馴れ馴れしく名前で呼ぶな! あんたが何を知ってるんですか、私の娘の……わけのわからん仕事のために、勝手に海外行って、自衛隊入ったときだって……あんたわかってるんですか、私の娘ですよ!! 私のあとを継ぐはずだった、あの聡明な……娘が……あの、落ち着いてください。何が落ち着けるもんですか! 娘を見殺しにしたのはあんただ、あんたが殺したんだ! あの……あんたが殺した! あんたが殺したんだ! あんたが! あんたが殺したんだ!




 二台の救急車が引き上げていく。マキの遺骸は故郷の青森県弘前市に搬送し、遺族の手によって火葬場に引き継ぐ段取りがついた。人型ひとがたをとどめていないてんの遺骸は、身寄りのない死者の始末を引き受ける団体のもとへ送られた。今回の震災で同様の無縁仏が多く出ているらしく、電話口で話した担当者のこわも窶れを隠せていなかった。


 続けるかどうかは、と、二階の共用キッチン前に集まった全員に対してが言う。みんな一人一人の判断に任せるよ。あんなことが起きたけど……死者や負傷者に対する賠償や、オリンピック自体どうするのかは、あっちの運営が処理することだ。わたしたちは、わたしたちの公演にどうケジメをつけるかを考えるべきだよ。一言ごとに諭し聞かせるようなの言葉に、ケジメ、って。と初めて教授キョウジュが問いを差し挟む。わたしたちの公演で死者が出た後で、ショーを続けるべきかどうか。の答えに誘発されるように、答えは出てるんじゃないの、やるしかないでしょう。とエリザベスが気丈に言う。その横で、でもさっき、もうDyslexiconからの支援はないって言ってたじゃん。とゾフィアが問い質す。うん、もうあと三回の会場は押さえてあるしチケットもソールドアウトしてる、から興行自体は問題ないはずだけど、当日の経費だけこっちで持たなきゃいけないかな……とがたどたどしく言うと、経費っていくらくらい。と教授キョウジュが問うので、私たちの交通費だけだよ、大した出費じゃない。と私が答えるが、実際はDyslexiconが諸々の関連企業にどの程度の支払いを済ませていて私たちがどの程度負担しなければならないかも、まだ具体的な金額は出ていないのだった。とにかく、わたしが訊きたいのは気持ちの問題なんだ。今回、大きな地震を体験すること自体初めてだったかもしれないし……は一秒ほどの躊躇を置き、肉体的にも精神的にも、もう無理だ、続けられない、って人がひとりでもいたら、わたしはもう中止にしようと思う。あの会場にいた全員が被災者なんだ、あそこで負った傷を隠してまでやる必要なんてない。でも、わたしは続けるべきだと思う……と言うに、なぜ。と初めてシーラが口を開く。は逡巡ののちに、いらえる。音楽は祝祭だけじゃない、弔いの面もあるはずだから。あの場で亡くなってしまった人たちを弔う、そのために音楽を行うこともできるはずだから。もしここでやめてしまったら、わたしらは音楽の明るい面だけにかまけて、もうひとつの仕事から逃げたことになる。わたしは……それだけはいやなんだよ。


 慄えは、もうおさまった。Defiantの部屋に入るとともに、小声で訊いてみる。ああ、まだちょっとあるけどね……イネスは苦笑しながら返す。もし余震が不安なら、一階で寝泊りしてもいいから。と言うと、いや、揺れても一階にいればマシってわけじゃないっしょ? と笑われ、確かにそうか、とくに震災慣れしていない地域出身の人にとっては、と遅れて納得しているところに、それに、一階にはもう行けないよ……ずっとあいつがいるんだろ。と継がれ、私も黙り込んでしまう。そう、マキの遺骸がなくなった救護室で、ずっとシーラが喪に服しているのだ。

 でもまあ、私とイネスはやるつもりだよ。と脇にゾフィアがはべり、じゃなきゃここまで来た甲斐がないもんね。ダブリンのときも、あれはあれで大変だったわけだし。でも、私たちは退かなかったでしょ。まあ、ね……でも、あれは本番前に一回くらいカウンセリング受けときたいかなあ。予約取っといてもらっていいかな? ええ、もちろん。はは、GILAffeジラフの翻訳でカウンセリングって効果あるのかな。大丈夫……じゃないかな。しかし外国で臨床受けることになるなんてね、亡命ユダヤ人の精神科医みたいな。あはは。と軽口を叩ける程度には回復したように窺えて、彼女ら二人に過剰な心配は不要に思えた。


 シィグゥの部屋のドアを開くと、先にがいた。あ、はかる……ええ。室内を見回すと、ヤスミンの姿がない。ごめん、一対一で話したいってことだから、とが小声で耳打ちすると、いやいい、はかるもいていいよ。とベッドに腰掛けたままハンが言う。日本人と話がしたい、ってだけだから。との意味の取りにくい言を受け、私も後ろ手でドアを閉める。

 ほんっとうんざりだよ、この国には。言いながら掌中のスマートフォンの画面を指し示す。ひっきりなしに書いてるよ、こいつら。こんなん面白いと思ってんのかよ。ハンが糾弾するところのものは察せられ、ええ、そうね……と引き取るしかなくなる。あたしはまだいいよ、客として来てるだけだから。でもこの国に根を下ろして暮らしてる人もいっぱいいんでしょ、新大久保のほうとかさ。そんな人たちに向けて、こんなのナイフ突きつけてんのと一緒だよ。明らかに加害者側に回りながらヘラヘラ笑ってさ、こんなの最低じゃん、最低以下じゃん。も黙って頷き、室内に憤る語気が染み渡るのを聞くしかない。

 あたし、ヨンとかはかるとかのことは好きだよ。こんなくだんないこと言わないし、何より一緒に音楽やれる仲だしさ。でも、普通の日本人ってこんなのばっかかよ。他の国のやつらも、ミッシーとかイネスとかいいやつばかりだったから麻痺してたけど、この国って基本こんなのかよ。画面をシャットダウンし、視線を真っ直ぐにこちらへ向ける。正直、あたしも今まで見ないことにしてたんだと思うよ。すくなくともヨンはいいやつだから、ってさ。でも……わかっちゃったよ。わかりたくないことばっかわかるよ、この国にいると。消沈した語尾で終えられたハンの言に、そう、ね……とだけ応える。ハン、さっきも言ったけど、わたしは何も強制しない。もういやだって思ったら降りていいし、帰りの航空便のチケットも取る。そのときもあぶなくないように空港まで送るよ。でも……が訥々と言うのを前にして、続けなきゃいけない、だろ。とハンが先回る。きっと既に何度も交わしたのだろう、このやりとりは。


 ハンに任せ、私はふたたび二階のフロアに出る。と、共用キッチンの前でひとりで座っているヤスミンの姿が見えた。あ……はかる。静かに頷いて歩み寄り、話してきたよ、ハンと。と一言だけ添えると、ヤスミンは渋面じゅうめんを浮かべ、はい……とだけ漏らす。その傍らに座り、もし自分が彼女と同じ立場だったとしたら、同じことを言うと思う。とシィグゥの部屋の方を眺めながら言う。ヤスミンは頷き、あの、はかる。とこちらへ視線を向けるので、なに、と応える。私……帰ろうと思うんです。との申し出を、どう受け取るべきか判断に迷う。そ、う。と呆ける私に、いや違うんです、降りるってわけじゃありません。と両手を振るヤスミン。今回、こんな震災が起きて……そしてもうDyslexiconも支援してくれないって。つまり、今ものすごくお金が必要な時期だってことは確かですよね……そうね、私たちだけじゃなくこの国自体も。だから、私、一度台北に帰って、経済的な支援が取り付けられないか、色々当たってみようと思うんです。私の父はアート関連の財団とも縁が深いし、その中で私たちの興行を支援してくれる人たちがいないか、交渉してみようと思うんです。

 この子、こんなに外向的な子だったか。と、一言も返せず黙り込むこちらへ、そして、このことは、ハンには内緒にしてほしくて。といつもどおりの小声で言う。どうして。だって、これは私の一身上の判断だし……ハンにはハンの気持ちがあるはずだし。もし私の振る舞いがハンに何かを強制してしまうなら、それは本意ではないから……と、至極当然の理が述べられる。そうね、たしかに。だから、明日の出発までは内緒にしてほしくて。明日、もうチケット取ったの? はい、台北はすぐそこですから。明日の朝、ハンに気づかれないようにこっそり部屋を出るつもりです。なので、私が発ったのはツアーから降りるためじゃないってことを、はかるからみんなに説明しておいてもらえたら……ええ、それはいいけれど。大丈夫……? と間抜けな問いを投げるこちらへ、ヤスミンは立ち上がりながら言う。ええ、大丈夫です。私たちの音楽にお金を出してくれる人は、きっといるはずです。




 一階の、観葉植物と自販機がある一隅。そこに卓球台がある。でもヤスミンはいない。どうしてだろう。いや、聞いた、その理由はさっき聞いたけど。でもどうしてかな、どうしてあたしには一言も。両掌を卓球台のへりに当て、ぐっと体重を乗せ、もう片方のへりを壁に接する。どうしてだろう、どうしてひとりでやんなきゃいけないんだろう。カン、カン、とピンポン球が壁で跳ね返る、のを打ち返し続ける。どうしてだろう、カン、どうしてヤスミン、カン、あたしを置いて、カン、なにも言わないで。




 なんの音だ、と思って救護室を出たところに、ハンとすれ違う。階段で上がるのか、エレベーター使えばいいのに。しかし一晩中眠らなかったせいか、窓からの日差しを受けて立ち眩みのようになる。あれ、卓球台、いつもヤスミンと打ってるのに。壁に……歩み寄って検分すると、そのうえには一個のピンポン球と、グリップの部分が捻じ曲がって折れたラケット、が放置されていた。さっきの音……これを壁に叩きつけたのか。




 まずいことしたわね。と、機内モードを解除してすぐに着信が通じたションウィンが言う。あいつ、ひとりで放置されることに慣れてないから。えっでも、一時期はひとりで暮らしてたわけでしょ。空港内のエスカレーターを歩きながら言うと、違うのよ。とションウィンは短く返す。家族ができた、って言ってたのよ、あいつ。あたしと式を挙げた時に。ヤスミンやχορόςで知り合ったみんなも含めて家族だ、って。うん、それは知ってるけど。とベストウーマンとして式辞を読み上げたときの記憶を辿りながら言うと、その家族のうちのひとりが、黙って行っちゃったとしたら……とションウィンは口籠る。えっ、なに。はあ……あいつの父親のこと、あんたまだ知らなかったっけ……まあ、帰ったらわかることよ。はあ。支援してくれる財団探すんでしょ、せいぜい頑張りなさい。う、うん。えっと、なんでわざわざ電話してくれたの? まあ、ずいぶん大胆なことやるようになったわね、と思って。はは、だってまた君に言われるのはいやだからね、結局親の金かよ、って。ふふっ、どうでもいいことばかり憶えてるのね……


 信義区、竹林電脳、の本社。自分が生まれ育った場所なのに、今では他所のように感じられる。エントランスを抜けると、あの、ゲストの方ですか、こちらにご用件とお名前を。と受付の女性に言われる。そっか、私が発ってから雇われた人か。苦笑しながらパスポートを提示すると、あっ、大変失礼しましたっ。と恐縮しながら引っ込んでいった。

 モォリィ! ああ、懐かしい声。何年ぶりだあー、この親不孝者めー! はは、ごめん父さん、でも電話は何度もしたでしょ。ちゃんと顔を見せてくれんことにはなー、なー! ふふっ、ずっとこんな調子よ、今年の一月にツアーが始まってから。母さんの苦笑を前にして、えへへ、優勝はできなかったけどね。と私も笑う。そんなのは問題じゃないでしょ、あのツアーを通じて、たくさんお友達できたんでしょ。うん、できたよ。ほんとに大切な友達。で、さっそく用件なんだけど……と改めて父さんの方へ向き直る。ああ、その大切な友達を支援するための方策、だろう。うん。父さんからもらったリストの中で、いくつか見込みがありそうな財団があるんだ。ダンスとかアートとかのフェスティバルに積極的に出資してるとこ。そっちに私から、直接交渉してみようと思うんだけど……と言うと、父さんはなにか、へんにもじもじした仕草で黙っている。えと、どうしたの。いや、ね、モォリィ……お前が来る前にね、あらかじめ当たってみたんだ、このへんに……と、タブレット上のリストを指差しながら言う。うん。結論から言うが……返答は同じだった。他の国なら考えるが、日本のアーティストへの出資は行えない、と。

 沈黙。

 えっ、と、どういうこと。父さんと母さんの顔を見比べながら問う。藝術振興のための出資を行っている団体は、もちろんこの国にもいっぱいあるわ。父さんも知っている限り連絡をとってみた。でも……今度は母さんが黙り、この類の出資を行うにあたっては、国ごとの等級が定められているんだ……つまり、投資したところで相応の成果物をつくることができるか、という、質的な能力を計るための等級がね。と父さんが述べる。うん。そして、残念だが……日本のアーティストは、その出資に見合うだけの能力が無い、と判断されている。日本は、東アジアにおいては、藝術的に三等国なんだ。

 沈黙。

 三等、国。ああ。去年だったかな、日本で開催されたトリエンナーレがあったろう。えっと……あの、放火予告で中止だ続行だとか話題になってた。そう。あの一件をめぐる、とくに日本のアーティスト側の言論が問題になってね……つまり、表現の自由のために公費を出すこと自体を嘲笑するような文言が多数見られた。あの事件が決定的となり、日本には藝術を産み育てる意志もなく、そもそも藝術家たちは表現の自由を手放してもいいと考えているらしい、そんな国に金を出してもしょうがないということで、一斉に財団からの支援が打ち切られたんだ。この評価は、よっぽどのことがないかぎり覆らないのではないか、と思う……

 藝術に、等級があるなんてね。頭の中でなんとか整理をつけながら、呻くように言う。ああ……こればかりは、金の問題だから仕方ないんだ。じゃあ、私はもう、交渉すらさせてもらえないってこと。こちらからも言ってみたのだよ、日本のみならず世界規模で開催される音楽イベントの一環だからと……しかしどの財団も、開催地が日本である時点で拒絶の意を示した。それくらい……もう、諦められてるってことだ。諦められてる、か。そうだ、薄々気付いてはいた。ハンのもとに転がり込んで、あのソウルでの市民による抗議行動を目の当たりにしたときは、こんな政治的鳴動があるのかと驚いたけれど。でも日本の首都で暮らして、アーティストとして取材を受けてみても、なにかあの国では、根本的な諦め、のようなものが……藝術なんかに何も変えられはしないよ、アーティストは政治に口を出さず大衆を気持ちよくさせていろ、とでも言いたげな、諦観という名の侮蔑のようなものが蔓延しきっているように感じられた。それはもう見抜かれていたのか、すくなくとも藝術の何たるかを弁えている外部には。

 モォリィ、せっかく来てくれたが……と、ビジネスの顔か親の顔かどちらを見せるべきか判断がつきかねているような父を前にし、いいよ。と一言で切る。よかったよ、それを知ることができただけで……済まない、もちろん被災地への支援は行う。知ってると思うが、台北の企業もすでに募金を……うん、わかってる。ありがとう。モォリィ、せっかく帰ったんだからもっとゆっくりしない。父さんね、さっきまでお帰りパーティーしようといろんな人に電話を……いや、いいの、もう。ありがとう。


 手持ち無沙汰のむごさが骨身に染み入り、エントランスで深呼吸する。何も得られなかった、か。勝手に飛び出して手ぶらで帰ってくる、この計画性と実質のなさもいっそ私らしいか、と自嘲に傾きそうになるのを押しとどめ、それでもまだ、まだ何かやるべきことがあるんじゃないか、と携帯端末を立ち上げる。しかし誰に。もう頼る当てもないんだろう。再び不如意に苛まれる、ところへ、着信。えっ、これ、あの。大学時代の──




 一階で待ってるから。という一行いちぎょうのテキストチャットに呼び起こされ、階段で降りる。もう夜か、今日も寝てるだけで一日を終えてしまった──誰もいないフロアを見回す、と。卓球台の上。このラケット、あたしが壊した。壁に叩きつけて折ったはずのグリップが、ビニールテープで固定されている。

 カン、カン、と、向かいのテーブルに着いている姿を遅れて眺める。ヤスミン。サーブはもらうよ、とも言わず、ペンホルダーのラケットを握り、ピンポン球を打ち放つ。シェイクハンドのラケット、ビニールテープの下の軋りを指で感じながら打ち返す。カン、カコ、なんでだよ。カン、カコ、なんで、なんでさヤスミン。カン、カコ、なんで……黙ってラリーを続けるうちに、なにかがあたしの堰を切った。カンッ、とスマッシュをヤスミンの胸めがけて打つ。パシュッ、と掌で受け止められる音。なんで黙って行ったんだ!! 気付けば叫んでいた、そのこわが、なんで、なんで……と擦れる。ヤスミンは受け止めたピンポン球を台に戻し、私だけで始末をつけなきゃいけないことだったから……と悪びれるような微笑を浮かべて言う。財団からは相手にされなかったけど、私の大学時代の同級生が電話をくれてね。χορόςが始まってからずっと観ていた、まさかあなたが音楽をやるとは思っていなかった、もしよければ今回の日本公演のスポンサーにしてほしい、って。ふふっ、すごくイヤミな男性だなと思ってたんだけど、まさか私もあの子が助けてくれるとは思ってなかったよ。そんなこと……そんなことどうでもいいよ! ラケットを投げ捨て、向かいのテーブルへにじり寄る。なんで、黙って行ったの。なんで行く前に、一言もなかったの。あたし、一緒に行ってもよかったよ。あたし、それくらいヤスミンに頼りにされてないやつなの……違うよ。いつのまにか、あたしの両肩にヤスミンの両掌が。私のやることが、ハンに何かを押し付けることになったら困るから……行くことは秘密にしておきたかった。逆だよ、秘密にされる方が押し付けだよ……本当にごめん、ハン。私は責められるべきことをしたんだと思う。言いたいことがあれば、何でも言って。

 延べられた掌を、左手で握り、もう片方の右手を拳にする。ごつっ、と目の前の身体が立てる音を聞く。ごつっ、と二発目を耐える呼気が耳元を掠める。ごつっ、と三発目をねじ込んだ、瞬間、こっちが耐えられなくなり、両腕で抱きしめる。ヤスミン。ごめん、ハン。ヤスミン、ヤスミン。ごめんなさい、ハン。また……また行っちゃうかと思った。また黙って行って、帰ってこなくなるんじゃないかって。また……? 私いままで一度も……と、もう嗚咽で何も詳らかにできなくなっているあたしの意を、ヤスミンは数秒遅れて察したのか、静かに両腕で抱き返した。

 いなくならないよ。ハンの家族は、もう、誰もいなくならないよ。もう、独りで置いてはいかないよ。


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