26 庭


 何撮ってんの、はやく、もう始まってるよ。まって楓、写真撮ってこあっちの、物販前で。物販って、もうなにもないじゃん。いいから、記念。もう二度とないよオリンピックなんて。あーもう、誰に撮ってもらうの、自撮りじゃスタジアム入んないでしょ。すみませーん、ちょっとカメラ持って……え!? うっ、予測震度、って。え? うわ、あ、うぁああっなになになに。やばくない? ちょ、うわあっ。つかまっ、その階段のとこ。ええなに、いきなり……うわあっ!! え……落ちた? わかんない……なんの音。あっ、え……うそ、これって。




 潰れてたよ。。あの、崩れたとこ、ステージから見て右手側の。。屋根の、下にいた人たち。あれ、頭、潰れてたよ。、いいから。何がいいんだよ。自分の眼で見たわけじゃないんでしょう。見たよ、見えた、崩れた屋根の鉄骨が上から……はやく、こっち。

 こっちって、いた、いるよな、みんないるよな。いち……に、よん、ろくはち……いる、わたしも含めて一一じゅういち人。そうだ、ステージは無事だったんだ。誰も死んでない、よな。ねえさん。漁火ちゃん、これどうなってんの……わからん、すよ。地震があった、としか……ステージ袖に集められた演者も、避難の指示に当たったのであろうスタッフたちも一様に土気色の表情を浮かべている、のを見回し、傍らのはかるのほうへ向き直る。これ……掌中のスマートフォンの画面。そこには東京都の地図のうえに垂らされた血痕のような表示が。マグニチュード7・8とか直下型とかいうキャプションもどこか他人事めいて頭に入らず、わたしらがいるの、ここ、だよね。と二本指で地図表示をクローズアップするしか能がない。頷くはかる。余震に備えてください、ってどうすりゃいいの、屋根の下にいること自体あぶないんじゃ。ていうか、あの人たちはどうなったの、崩れた屋根の下にいた……、と向こうからヤスミンの声。なんだか、エントランスで騒ぎがあって。騒ぎって……どんな。あの屋根の、下敷きになった、人たちの……し、屍体が、識別できないらしくて。ヤスミンらしくもない綻んだ構文。識別できないって……潰れて。それも、あるのかもしれませんけど……犠牲になった人たちの家族とか友人とかと、意思の疎通が取れないらしくて。つまり、言葉が通じない。みたいで……そうか、みんながみんなGILAffeジラフ入れてるわけじゃない、とくに日本では。でもオリンピックやるとか言っといて、ろくに外国語もできないスタッフしか集まんなかったのかよ。はかる。なに。行くしかないんじゃないか、わたしらが。何のために。パニックの収拾つけるために。わたしらができることったらそれくらいしかないだろ。少なくとも、今この屋根の下にいるよりは安全なはず。ヤスミンもはかるも外国語できるだろ。言うと、飲み込めたようで、周囲に目配せを送る。不賛成の意見は無い、ように思われる。よし、行こう。


 関係者入口から外部へ出るとともに、曇天の鈍い陽光が眼を刺す。駆け足で踏むこの地面が揺れてるのか揺れてないのかも不確かなままに、エントランス前に到着する。うわあ、これ、何語だ。しきゅうおうえんをおねがいします、たんかを、うけいれさきのびょういんがあれば、とかの断片的な日本語は聞き取れる。でもその後ろで、担架に積まれた血まみれの身体にすがりついている、あれは東南アジア系の人だろうか、その人がひっきりなしに叫んでいる言葉の意味が一向に取れない。GILAffeジラフが、処理し切れてない。なんでだ、そうだ前にもあった、話し声は問題ないけど歌声は翻訳できない。てことは、これもそういうことか。声が声でなくなる極限の──うわっ。どうしてくれるんだ。どうして、こんなっ、安全だと言ったじゃないか。わたしの左腕を鷲掴む、これはラテン系の顔相だろうか。口の動きとわたしが聞き取る音声とが一致していない、てことは外国語で言っているはず。その人の腕力がセキュリティの手によって引き剥がされ、取り成すように遠く離される。なんですか、何の用ですか。と、救急車の脇で無線を操作している男性に言われる。なんって、ただでさえ意思疎通とれてないんでしょ。外国からの来賓の人たちの応対くらいならできます、だいたいあっちに控えてたって余震が来たら危ないでしょ。と早口で言うと、飲み込んでくれたようで、こちらのかた、お願いできますか。と、救急車の前に控える担架の上、頭蓋骨の左半分と左肩甲骨がえぐれている女性、だろうか、髪型と体型からはそう思しい肉体を目の当たりにする。入場者パスとかIDとか無いんですか。あったはずなんですが、あの騒ぎで落としてきたようで……くそっ、どなたか、この方、ご存知じゃありませんか。って何語で言えば通じるんだ、とりあえず英語でやってみるけど。どなたか。あっ。エントランスから噴き出てくる観衆の中から、似た見た目の白人男性が歩み出てくる。いた、いました。茫然と担架の上を指差しながら、坦々と事実を確認するように言う。幻かと思ったんです、まさか私の隣に、あんなのが降ってくるなんて、見間違いかと思ったんです。でも……砕けた頭蓋骨を撫でながら、すがりつくように続ける。娘です、娘だったんです。ロンドン公演のあとあなたたちのファンになって、日本に行けば観られる、しかもオリンピックだって、楽しみにしてたんです。でもこんな、こんな……と指を血に染めながら撫でるのをやめない父親、の挙措をどうにもできず、ご親族の方ですね、今から搬送します、同伴していただけますか。と、おそらく通じるはずもない日本語でスタッフが言う。父親は依然として遺骸にすがりついている。搬送、って、したところでどうなるんだ。あの容態じゃもう助からない。ただ、この暑さで屍体をそのままにしておくわけにはいかない、どうにかして運び出さないと……でも、何人死んだ。何人負傷した。わからない、この状況じゃ何も──うわっ。はかるから袖口を掴まれる。余震、余震だ。しゃがんで、立ってたらあぶない。あぶないって、どこにあるんだ、あぶなくない場所なんてどこに──


 あの開演から、もう二時間経ってる。わたしらもエントランス付近でできることはやった、重態とは言えない負傷者を病院に搬送するための応対には貢献できたはずだ。でも、競技場周辺に集まった救急車の数は一向に減る気配がない。はかるどうなってんのこれ。スマートフォンの画面をぜわしくスワイプする横顔に問うと、周辺の道路交通が、完全に麻痺してるみたい……と言いながら画面を傾ける。覗くと、液状化だの津波による被害の心配はありませんだの通り一遍の情報が上滑りし、あべこべに断片的な画像データに映えた無残な有様が雄弁に語りかけてくる。ずたずたになってるよ。うん……これ、通れるの。ていうか東京都って、震災があったら交通規制とかでどうにかするんじゃなかったの。はず、だけど、パニックでそれどころじゃなくなってる……見たところ、この会場にいるのが不安で急いで車を出して帰った観客も、相当数いるみたいだしね。それで道路が詰まってるのか……考えてみたら当然だ、こんなところより安全な家にいたいなんてのは。でも、安全な場所なんて、一体どこにある。

 おっ。何。通話……アーイシャ? えっ。もしもし、アーイシャ……、無事か。やっと繋がった。耳元からノイズ混じりの声が。うん、怪我とかはないけど……今、そ、に、ってる。えっ何、なんか周りがうるさいんだけど。なんだこの音、聞き憶えのある……あ、ヘリ。えっ。わたしが指差す上空をはかるも見上げる。あのヘリ、で来てくれたのか、わざわざふたつも。耳を劈くようなプロペラ音とともに、二体のヘリコプターが着陸する。周囲の観衆が呆気にとられて見守る中、アーイシャとズラミートが歩み出てくる。手伝ってくれ。えっ何を、と訊く前からアーイシャはヘリの内部からビニールバッグ入りの荷物を運び出し始める。被災時用の食料と水だ、この程度では足りないというのはわかりきっているが……万が一に備えてと思ってな。頷き、救護スタッフの一人を呼び止め、あの、これ保管しといてください、どうしても必要な人がいたら渡して。と内意を伝える。はいっ。このヘリも自由に使ってくれ、怪我人を最寄りの病院に搬送する助けになるはずだ。AIによる自動操縦だから特殊な技術は必要ない、ただ目的地の設定方法だけ覚えてくれ。と、ズラミートは周囲の救護スタッフから二人を呼び止め、ヘリ内部で指示している。

 わざわざ、来てくれたの。周囲の騒擾をどこか遠くに聞きながら、目の前の姿に問う。マキが行けと言ったのだ。という決然とした答えに、えっ、とふいに呆けてしまう。私の、Aminadabの門下生たちは、すでに豊島区の避難所に行っている。もっとも異邦からの女性だけでは危険だから、おおうらてんも同伴してな。そうなんだ。たしかに、ただでさえ地震に慣れてない人たちが三階建の建物に居るって、めちゃ不安だろうね……アーイシャは頷き、マキと、あのとかいう淫婦めが建物に残るから、私とズラミートは被災地の助けに行ってやれと。その言に従ったまでだ。そっか。ありがと……と言い終わる前にアーイシャは歩き出している。えっどこ行くの。我らの朋輩ともがらを集める。って、イスラームってこと。ヒジャブはためく背中を追いながら、ああ、間もなく夕の礼拝の時間だ。との冷静至極な声を聞く。たしかに、怪我人の中にもアラブっぽい人たちいたけど……こんな緊急事態にもやんなきゃいけないことなの。と小走りのまま言うと、アーイシャは突然に歩みを止めて振り返った。こんな緊急事態だからこそ、だ。決然と見据える双眸そうぼうが揺るがない。突如として平安が破れてしまった際に、最も重要なことが何か、わかるか。日常の営みを少なくとも維持すること、だ。祈り、清潔を保ち、餓死しないだけの糧を摂り、そして眠ること。その営みさえも維持できなくなってしまえば、必ず消えない傷が残る。ああ、そうだ、この人は。あれだけのことを経てきたんだ、自らの作品を見せるための場所を壊されて、方々を放浪して……経験者は語る、か。それでは。あっ。一言も返すことができず、悠然と歩きながらヒジャブ姿の同輩を呼び集める背中、が遠のくのを、見守ることしかできなかった。




 ご協力ありがとうございます。救護室のスタッフ一同から上がる声を、いいえ、お礼ならこの人に言ってください。と画面上に映し出されたションウィンの顔を向ける。ありがとうございます、本当に助かりました。礼の言葉を受け、ションウィンは安堵したようなおもちで微笑みながら手を振る。さて、韓国語、中国語、サンスクリット語源の東南アジア諸語、ヒンディー語、アラビア語、そして英語とドイツ語はもちろんラテン語源の欧州語全般、これだけのバリエーションで「仮説避難所」「怪我を負った方はこちらへ」「道路の交通機能が麻痺しますので、指示があるまで帰宅は控えてください」などのメッセージ表示を用意することができたのだから、彼女の語学力には恐れ入る。これなら、観衆の混乱も少しは落ち着くかも。といっても、もう陽が傾きかけてるけど……慌ただしく退出するスタッフたちの背中を眺めながら、いやーほんとよかったよ、さすがあたしが惚れた人だなー。と微笑を見せるハン。また何かあったら連絡しなさい、あたしが手助けできるようなことならね。うん、ほんとありがと。無事を祈ってるわ、支援の募金もすでに始まってるみたいだから、出来る限りは拡散しとく。じゃ、ションウィ。ええ、ハン

 ビデオ通話を終え、ぐーっと胸をそらしながら、いやーさすが文明の利器だね、こういうときやっぱ役に立つ……と言いながら画面をスワイプするハン、の顔が、数秒ごとに歪んでゆく。どうしたの。問うても応えず、ハンはただ、掌中のスマートフォンを救護室のソファに叩きつける。な、なに、どうしたの。なにか厭悪のようなものに引きつった表情、のままハンは床に座り込む。いぶかりながら、跳ね返って床に落ちたスマートフォンの画面、そこに浮き上がっている文字列を読んでみる。あ、うわ……

 ハン。体育座りでへたりこむ姿に呼びかける。ハン、大丈夫だよ、こんなデマを信じる人なんかいない。ブラウザのタブを閉じ、画面をシャットダウンして渡す。どうだかね、実際にやってんじゃんこの国、百年も経たない昔に。


 もう一九じゅうく時……そろそろ陽が落ちる。ニュースサイトの天気予報によれば、向こう三日間雨は降らないらしい。とすれば、外の仮説避難所で夜を凌ぐほうが無難か……あっ、ズラミート。通路の向こうから駆け寄ってくる。ゾフィア。どう、外の具合は。まだまだ十分とは言えないが、救護室で処置できない負傷者は病院に搬送している。道路の具合も数時間前に比べてましになってきたようだ。こんな時でも冷静さを失わないおもちに安心しながら、そっか、じゃあイネス外出ようよ、また余震が来ないとも限んないし……と後ろを振り返ると、あれは……瞳孔、というのか、私のパートナーの瞳が尋常でなくなっているのが見えた。イネス。あ、ああ、わかってるよ、避難だろ。と歩き出そうとする、その足が慄えている。イネス。な、に。止まって。なんだよ、大丈夫だって。口ではそう言えても、眼は明らかに異なる何かを訴えている。イネス、正直に言って。手首の脈拍を取りながら言う。なに……いま、停まって、立ってるって自覚ある? 目の前の姿は、しきりに視線を逸らしながら、えっと……マジで? マジでこれ揺れてないの? と、口角を引き攣らせたまま漏らした。揺れてないよ、少なくともここ一時間は。そうなのか。いやあ……額の汗を拭いながら唇を震わせる。最初のでかいのが来てさ、二回目のがあって……それから、ずっと揺れてる気がして……はは、みんなそうなのかなと思ってたんだけど、はは、は。

 ズラミート。ああ。イネス、救護室行こう。休んだ方がいい。えっ、なんでだよ、まだやることあるだろ。無理はしないで、こんな大きい地震に遭ったの自体初めてでしょ。いいよ、だってあれら……イネス。両手を取り、引き寄せて言う。私たちだって被災者なんだよ。言ったところの意味は察せられたらしく、ああ……そう、そうだな。と、相変わらず硬直した笑みで応えた。じゃあ、ズラミート。ああ、こちらだ。


 アーイシャ。いつのまにか仮説避難所から離れた場所にキャンプ場めいた一画ができており、そこに見慣れた姿が。シーラ。ここで一晩過ごすの。ああ、礼拝は欠かせないとは言え、男女は別の場所で起居せねばならないからな。そのためにこのテント調達したのか、すごいな。必要になるのはわかっていたから、来るとき積んでおいたのだ。そっか……さすが非常の事態には慣れてるな、なんて軽口を叩けるわけもなく、ありがと、ヘリ持ってきてくれて。病院との往復で必要な薬品も少しずつ調達できてるって、救護室の人たち言ってたよ。と言うとアーイシャは軽く頷き、どうするのだ、君たちは。と唐突に。どうする、って。君たちの公演も会場も、文字通りに壊れてしまって、これからどうするつもりだ。

 沈黙。

 続ける、よ。もちろん。続ける、か。一体どのようにして。どのようにって……だって続けるしかないだろ、それくらいしかあたしにはできないんだから。みんなが……マキが、あたしをほめてくれるのは、歌ができるからなんだから。途切れ途切れに返すと、アーイシャは落ちる夕陽を眺めながら、危うい、な。と一言で切った。危うい、って何が。私にはアッラーへの信がある、一神教への信という意味では君も同じだ。しかし、他の人々……「無宗教」と一言で済ませている人々は、果たしてこれだけのことに耐えられるだろうか……

 逆なんじゃないの。と述べるあたしを、アーイシャは怪訝に見つめている。逆とは。あたしらのほうが、危ないんじゃないの。アーイシャ、ここに助けに来てくれてからずっと、すごい無理してるように見えるよ……とまで言えるはずがなく、口籠ってしまう。ふむ……確かに、この国で被災時にいくつもの惨事が起こってきたことは知っているが。いや、そういうことですらなくて……アーイシャ。とにかく、今夜はどうか無事でいて。と、気遣うにしても唐突すぎる言を前に、ああ、君もな。と返すおもちを見つめながら、踵を返すのを躊躇う、が、あたしも行くしかない。どうにかして、この夜を過ぎ行かせるしかない。




 あかりが落ちる。音楽も消える。ベッドの上、ワタシとおのみち肢体てあしだけが取り残される。停電ですか。ワタシのアヌスに固みを挿し込んだままのおのみちが動きを止め、みたいですね、と言いながらワタシも騎乗から降りる。勃起したままのものをしごきながら窓外を眺め、どうやら、この近隣一帯が停電したようです。と見たままのことを言ってみる。うっ、そう、ですか、とすれば一階も。と喘ぎながらおのみちは言い、ええ、と視線を戻していきり立ったものを咥え込む。うぅっ。おのみち、お前、どうなるんですか、サーバの電源が落ちたら。睾丸を揉みしだきながら問うてみると、サーバと同期していない状態では、んっ、素体での活動は三分が限界ですねっ、ぅ、サーバの半径1キロより外で活動した場合と、ぅんっ、同じですっ……と悶えながら応える。そうですか。雁首かりくびを唇で包むように撫で、喉奥まで咥え込んだ瞬間、紛い物の精液が流れ込んでくる。んんんんっ。尿道を吸い上げ、鈴口を噛むようにねぶり、眼下で果てている身体を眺める。窓外から差し込む自然光だけが、わずかな視覚を提供してくれていた。では、お前、消えるんですね。指先で下腹部をいらいながら言う。ええ……停電が回復しない限りは、ここで交わした会話も記憶モジュールとして保存されません。糸が切れた凧のように、ですか。はい。

 なんの情緒もない会話。そうだ、行ってしまえばいいではないか。起き上がり、服を着て、部屋を出る。入口の上部に備え付けられているはずの「93」の表示を指でなぞる。非常灯ひとつ見えないフロアを歩き、緊急避難用の階段から一階へ降りる。

 物音ひとつない。ということは、あの生命維持装置も停まったのだろう。ドアを押し開き、独り取り残された、死にかけの肉塊を見舞う。調子はいかがですか、マキ。人工呼吸器が停まってからしばらく経つのだろう、眼下ではもはや呻きとすら呼べない呼気が漏れているのみだった。その調子じゃ、もうちませんね。懐に手を突っ込み、小箱を取り出す。どうですマキ、死ぬ前に、一本。キャメルのタバコを差し出してみると、いや、いい。と、存外に明瞭な声が返った。いい、……それは、お前が持って行きなさい。なんだろう、まるで前々から慮っていたかのような口吻。持って行って、伝えなさい、に……私は、マキは、決してあのことを忘れませんでしたと。最期まで……

 最期まで、というその一言で事切れた。胸倉をまさぐっても、鼓動らしきものは打たない。忘れなかった、か。そんなことを伝えたところで、一体どうなる。ゴミのような人生がゴミのように終わっただけだ。それでも、そのこと自体を伝えたいと思うのか、それが凡庸極まる人のさがか。

 おのみち、一緒に来ますか? 自動ドアを手動で押し開き、背中に迫っている気配のほうを振り向きもせず言う。一緒に、行けるだけ行ってみますか、ふたりで……いえ。わたくしは、ここにおります。ふん、面白くもありませんね、最後の最後まであいつらの飼い犬ですか……いえ、できることなら行きたいのですが、ご覧の通りの有り様で……言われ、声のほうへ向き直ってあらためてみる。先ほどまで人の外貌かたちはとどめていた素体が、ニスを塗り忘れた紙粘土のように毛羽立って頽れている。この有様で出歩いたら、さすがにパニックになってしまうでしょう……大地震の夜にお化けがあらわれた、と。ふふっ、最後まで人間臭いことですね……ドアの外から差し込む月光を背に、目の前の人形を抱き寄せる。付き合ってくれてありがとう、おのみち。くちづけると、剥がれ落ちた化学物質らしきものが唇を縁取った。行かれるのですね。ええ、もう帰りません。そうですか……つらくはないでしょう、どうせこの記憶も、お前の中には残らないのですから。そうですね……また、何も憶えていない。できればもっと多くのことを、憶えていたかったですな……ふふっ、お前はきっとワタシより長生きしますよ、電気がある限りは生きられるのですから。そうですね……また会えますか。さあね、神にでも祈ってみなさい。祈り、ですか。ええ。 When you wish upon a star, と、唐突に目の前の人形が唄い出す。のに合わせて、 Makes no difference who you are. とワタシも唄う。と、既にぼろぼろに剥げ落ちていた人形は、自らの重みに耐えられず崩れ落ちた。


 ツシュッ、と、Zippoのライターを行燈あんどんに街を歩く。ありふれた東京の下町は、大震災と停電の合わせ技で不穏な静まりを湛えていた。さすがに外を出歩く者はいない、かと思われたが、コンビニエンスストアや酒屋の付近では携帯端末の灯りとともに幾人かの影が見られた。もちろん商店も停電しているわけだから望みのものが手に入るはずもない。あるいは宵闇を機に略奪でもするつもりか。いや、この国の人間にそれほどの勇気などあるはずもないか……う、っ。何、伸し掛かる重みにライターが跳ね飛ばされ、背を路地の凹凸が擦る。電灯ひとつさえあれば、今ワタシを組み敷いているこの肉体が視認できるのだが……喉に冷たい何かが。刃物か、動くなということか。目と鼻の先で呼吸が荒くなり、片手に握られた刃物が慄え、もう片方の手がワタシの衣服を剥ぎ取る。上の方から、下の方へ。力任せに乳頭を摘みながら、馬乗りになって下腹部を押し付けてくる。すでに十分勃起している、か。それにしても汗臭い。この暑さで風呂にも入れず、緊張に耐え切れず外に出てきた、か。それで通りすがりの無防備な女でも犯そう、と。でも残念だったな。下半身の衣服をすべて脱がせ、とうとう望みの部分に到った、瞬間、今まで昂りながらワタシの身体を撫ぜていた相手が硬直する。犯すべく脱がせた身体に男性器が備わっていたと認識するに及んで。

 路上に転がっていたライターを掴み、着火する。うわあああっ。叫喚とともに男は飛び上がり、ワタシは横たわったまま股間のものを灯りで照らした。う、うわあああぁぁっ! と、自らの眼球で明瞭はっきりとそれを認識した男は、まるで自分が襲われたかのように喚き散らしながら、一目散に逃げ去っていった。


 凡庸だ。衣服を繕い、立ち上がり、ライターでタバコに着火しながら呟く。大震災に乗じて女でも犯してみよう、かと思って押し倒した肉体が男だった、から怖くて逃げ帰った。凡庸だ、何もかもが凡庸だ。口腔から侵入する煙を迎え入れ、肺の中で遊ばせ、一息で吐き出す。今まで一体何がいいのだろうと思っていたが、こんな夜には喫煙という凡庸なへきもかえって冴えるようだ。つまらない、何もかもが退屈だ、この世でてしまえるすべてのものごとは。

 母よ、はやく迎えに来てください。ワタシはもう、このこんじょうさに飽き飽きしています。生きているよりも死んだほうがましです。さあ、アナタは何かすごいことを企んでいるのでしょう。ならばさっさと来てください。はやく、この無残な堅肉かたじしの地獄から、ワタシを救い出してください。




 仮説避難所に集まった全員のおもちを眺める。イネス、具合は大丈夫? と訊くと、ああ、救護室でできるだけのことはやったよ。と代わりにゾフィアが応える。あとはちゃんと眠れるかだけが問題だと思う。そっか。ハン、さっきも言ったけど、今夜は絶対に安全なままで終わるから。ここでは、何も、起きないはずだから……と形式通りのことを言っても、まるで説得力がない。わたしが請け負ったところで、誰が何をしでかすかわからないのだから。ハンは話したくもないといった風情でタオルを顔にかけて仰臥する。

 じゃあ、はかる……わたし、アーイシャのほう見てくるから。ええ。駆け足で避難所を出、振り返って周囲一帯を改めて眺める。セキュリティのスタッフも夜営に当たってくれてるし、万が一のことは起こらない、はずだ。すくなくともそう祈ろう。でも祈るって、誰に。祈って、その請願さえもが打ち砕かれたら、そのときは、どうなる。




 我が友。幕屋の外でまんじりともせず彼方を見張っている、アーイシャの傍らに座する。我が友、君も休むべきだ。明日の礼拝もあるだろう。言っても、眼差しは私を捉えず、ひたすらに彼方からやってくるかもしれない脅威に備えている。やはり、何を言っても無駄か。言を継ぐ代わりに、アーイシャの足元に一本のペットボトルを置く。先ほど、救護室のスタッフがくれたのだ。私にも一本あるから飲むといい。言うと、堅く組まれていた腕が解け、指がボトルのキャップに纏わった。のを見て不意に笑みが漏れる。九〇分ごとの交代にしよう、そうだな、二一にじゅういち時になったら呼んでくれ。とだけ言うと、ああ。と一言返してくれた。幕屋に戻ろうとすると、我が友。と呼び止める声。なんだね。ありがとう。と、こちらを振り返りもせず言うのだった。ああ。

 何も起こりませんように。そうだ、あの時もそうだった、テル=アヴィヴを離れたあの日。さしあたっては、私たちは直接には命を奪われてはいない。しかし、今日、あれだけのことが。誰が企んだわけでもない、地盤の揺らぎだけでこれほどのことが。では無駄なのか、この祈りは。あの災厄が起こりませんようにと願った端から別の災厄が。結局のところ、我々の祈りは──いや、違う。どれだけのことがあろうとも、それでもまだ持ち堪えなくてはならない。まだすべてが崩れ去ったわけではない。アーイシャ、我が友が夜警として在る姿を見守りながら、私もともに祈るしかない。何も起こりませんように、誰も死にませんように、と。


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