26 庭
何撮ってんの、はやく、もう始まってるよ。まって楓、写真撮ってこあっちの、物販前で。物販って、もうなにもないじゃん。いいから、記念。もう二度とないよオリンピックなんて。あーもう、誰に撮ってもらうの、自撮りじゃスタジアム入んないでしょ。すみませーん、ちょっとカメラ持って……え!? うっ、予測震度、って。え? うわ、あ、うぁああっなになになに。やばくない? ちょ、うわあっ。つかまっ、その階段のとこ。ええなに、いきなり……うわあっ!! え……落ちた? わかんない……なんの音。あっ、え……うそ、これって。
潰れてたよ。
こっちって、いた、いるよな、みんないるよな。いち……に、よん、ろくはち……いる、わたしも含めて
関係者入口から外部へ出るとともに、曇天の鈍い陽光が眼を刺す。駆け足で踏むこの地面が揺れてるのか揺れてないのかも不確かなままに、エントランス前に到着する。うわあ、これ、何語だ。しきゅうおうえんをおねがいします、たんかを、うけいれさきのびょういんがあれば、とかの断片的な日本語は聞き取れる。でもその後ろで、担架に積まれた血まみれの身体にすがりついている、あれは東南アジア系の人だろうか、その人がひっきりなしに叫んでいる言葉の意味が一向に取れない。
あの開演から、もう二時間経ってる。わたしらもエントランス付近でできることはやった、重態とは言えない負傷者を病院に搬送するための応対には貢献できたはずだ。でも、競技場周辺に集まった救急車の数は一向に減る気配がない。
おっ。何。通話……アーイシャ? えっ。もしもし、アーイシャ……
わざわざ、来てくれたの。周囲の騒擾をどこか遠くに聞きながら、目の前の姿に問う。マキが行けと言ったのだ。という決然とした答えに、えっ、とふいに呆けてしまう。私の、Aminadabの門下生たちは、すでに豊島区の避難所に行っている。もっとも異邦からの女性だけでは危険だから、
ご協力ありがとうございます。救護室のスタッフ一同から上がる声を、いいえ、お礼ならこの人に言ってください。と画面上に映し出された
ビデオ通話を終え、ぐーっと胸をそらしながら、いやーさすが文明の利器だね、こういうときやっぱ役に立つ……と言いながら画面をスワイプする
もう
ズラミート。ああ。イネス、救護室行こう。休んだ方がいい。えっ、なんでだよ、まだやることあるだろ。無理はしないで、こんな大きい地震に遭ったの自体初めてでしょ。いいよ、だって
アーイシャ。いつのまにか仮説避難所から離れた場所にキャンプ場めいた一画ができており、そこに見慣れた姿が。シーラ。ここで一晩過ごすの。ああ、礼拝は欠かせないとは言え、男女は別の場所で起居せねばならないからな。そのためにこのテント調達したのか、すごいな。必要になるのはわかっていたから、来るとき積んでおいたのだ。そっか……さすが非常の事態には慣れてるな、なんて軽口を叩けるわけもなく、ありがと、ヘリ持ってきてくれて。病院との往復で必要な薬品も少しずつ調達できてるって、救護室の人たち言ってたよ。と言うとアーイシャは軽く頷き、どうするのだ、君たちは。と唐突に。どうする、って。君たちの公演も会場も、文字通りに壊れてしまって、これからどうするつもりだ。
沈黙。
続ける、よ。もちろん。続ける、か。一体どのようにして。どのようにって……だって続けるしかないだろ、それくらいしかあたしにはできないんだから。みんなが……マキが、あたしをほめてくれるのは、歌ができるからなんだから。途切れ途切れに返すと、アーイシャは落ちる夕陽を眺めながら、危うい、な。と一言で切った。危うい、って何が。私にはアッラーへの信がある、一神教への信という意味では君も同じだ。しかし、他の人々……「無宗教」と一言で済ませている人々は、果たしてこれだけのことに耐えられるだろうか……
逆なんじゃないの。と述べるあたしを、アーイシャは怪訝に見つめている。逆とは。あたしらのほうが、危ないんじゃないの。アーイシャ、ここに助けに来てくれてからずっと、すごい無理してるように見えるよ……とまで言えるはずがなく、口籠ってしまう。ふむ……確かに、この国で被災時にいくつもの惨事が起こってきたことは知っているが。いや、そういうことですらなくて……アーイシャ。とにかく、今夜はどうか無事でいて。と、気遣うにしても唐突すぎる言を前に、ああ、君もな。と返す
なんの情緒もない会話。そうだ、行ってしまえばいいではないか。起き上がり、服を着て、部屋を出る。入口の上部に備え付けられているはずの「93」の表示を指でなぞる。非常灯ひとつ見えないフロアを歩き、緊急避難用の階段から一階へ降りる。
物音ひとつない。ということは、あの生命維持装置も停まったのだろう。ドアを押し開き、独り取り残された、死にかけの肉塊を見舞う。調子はいかがですか、マキ。人工呼吸器が停まってからしばらく経つのだろう、眼下ではもはや呻きとすら呼べない呼気が漏れているのみだった。その調子じゃ、もう
最期まで、というその一言で事切れた。胸倉をまさぐっても、鼓動らしきものは打たない。忘れなかった、か。そんなことを伝えたところで、一体どうなる。ゴミのような人生がゴミのように終わっただけだ。それでも、そのこと自体を伝えたいと思うのか、それが凡庸極まる人の
ツシュッ、と、Zippoのライターを
路上に転がっていたライターを掴み、着火する。うわあああっ。叫喚とともに男は飛び上がり、ワタシは横たわったまま股間のものを灯りで照らした。う、うわあああぁぁっ! と、自らの眼球で
凡庸だ。衣服を繕い、立ち上がり、ライターでタバコに着火しながら呟く。大震災に乗じて女でも犯してみよう、かと思って押し倒した肉体が男だった、から怖くて逃げ帰った。凡庸だ、何もかもが凡庸だ。口腔から侵入する煙を迎え入れ、肺の中で遊ばせ、一息で吐き出す。今まで一体何がいいのだろうと思っていたが、こんな夜には喫煙という凡庸な
母よ、はやく迎えに来てください。ワタシはもう、この
仮説避難所に集まった全員の
じゃあ、
我が友。幕屋の外でまんじりともせず彼方を見張っている、アーイシャの傍らに座する。我が友、君も休むべきだ。明日の礼拝もあるだろう。言っても、眼差しは私を捉えず、ひたすらに彼方からやってくるかもしれない脅威に備えている。やはり、何を言っても無駄か。言を継ぐ代わりに、アーイシャの足元に一本のペットボトルを置く。先ほど、救護室のスタッフがくれたのだ。私にも一本あるから飲むといい。言うと、堅く組まれていた腕が解け、指がボトルのキャップに纏わった。のを見て不意に笑みが漏れる。九〇分ごとの交代にしよう、そうだな、
何も起こりませんように。そうだ、あの時もそうだった、テル=アヴィヴを離れたあの日。さしあたっては、私たちは直接には命を奪われてはいない。しかし、今日、あれだけのことが。誰が企んだわけでもない、地盤の揺らぎだけでこれほどのことが。では無駄なのか、この祈りは。あの災厄が起こりませんようにと願った端から別の災厄が。結局のところ、我々の祈りは──いや、違う。どれだけのことがあろうとも、それでもまだ持ち堪えなくてはならない。まだすべてが崩れ去ったわけではない。アーイシャ、我が友が夜警として在る姿を見守りながら、私もともに祈るしかない。何も起こりませんように、誰も死にませんように、と。
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