25 鯨


 みなさん仲良くご到着ですか。なんだ、べつに示し合わせたわけじゃないぞ。久しぶりね。ええ、姉様ねえさま。空港までわざわざありがとね、これであと着いてないのはハンだけ? いえ、昨日到着されましたよ。お、じゃあ全員集合か。それでは早速向かいましょうか、ヘリも待たせていることですし。ヘ、リ……なんで? 様が欲しいと言っていたではありませんか。げっ、本当に買ったのね……まあ、ドゥの旦那からすればオモチャみたいなもんだろな。AIの自動操縦による最新式のヘリです、なかなか快適ですよ。自動操縦……大丈夫なの? なんだ腰が引けたかパトリシア? そっちの名で呼ぶんじゃないのパトリシア。そのAIってもしかしておのみち? いえ、あんな人間臭さのない、ただの距離測定プログラムです。それはよかった、移動中もウェンダ様ウェンダ様と絡まれては鬱陶しいからな。ははっ、じゃあ飛んで行くかい、ShamerockとInnuendoで。そうね、私たちほどの人間が地下鉄で移動など考えられないものね。ロンドンでは普通に乗ってるだろ。うるさいわねえ。では、こちらへ。




 でさ、ションウィンが言うには、カコ、GILAffeジラフが出てきてから通訳の商売上がったりなんだって、カン、うん、カコ、でもやっぱ翻訳は別でカン、文字まで読めるようになるわけじゃないからカコ、外国語翻訳の需要はむしろ高まってるってカン、へえ、カコ、だから外国への興味が高まったこの期カン、に一気に予算出させてカコ、全アジア規模の近代女性作家のシリーズ出そうと思うカンッ、と心地良い打音とともに弾道がテーブル上の白線を射抜く。って言ってたよ。ああもう、また取られたあ。へへへ、上手いでしょーきわっきわ狙うの。床上に転がったピンポン球を拾いながら、なんで私は攻めに持ってけないのかな、ペンホルダーだからかなあ……とぼやいてみる。ラケットは関係ないでしょ、流れが大事なんだよ。今度あたし多めにロブ打ってみるからヤスミンもきめてみなよ。うん……ピンポン球をネットの向こうに投げ返すと、申し上げます。Shamerock並びにInnuendoの四名様、ご到着です。とのアナウンスが流れる。おっ。一拍遅れてエレベーターのベルが鳴り、はかるとイネスが歩み出てくる。もう着いたんですね。うん、ていうかさっきヘリの音バルバルしてたっしょ。え、そうでしたか。あはは、あたしら卓球に集中しすぎてて気づかなかったよ。笑いながらラケットを放り出して入口のほうへ歩み出すハン、の背中を追う。あれ、ヘリで到着したってことはさ。とイネスに呼び止められ、あそうか、いま屋上か。じゃあ一階に来たって意味ないじゃん、と笑いながらエレベーターの上昇ボタンを押す

 五人で屋上まで登り、ヘリ発着場まで出ると、すでに数名のおのみちが荷物を運び出しているところだった。お帰りなさいヒメ、じゃない……シーラ。ああ、三日ぶりだけどな。微笑みを交わすはかるとシーラの傍らを過ぎ、エリザベス、お久しぶりですっ。と眼前まで歩み寄る。ええ、また会えたわね。私ずっと楽しみにしてましたっ、またエリザベスと同じステージに立てるのを。これで全員集合ですねっ。振り返ると、ハン教授キョウジュがいつも通りに拳を突き合わせ、ウェンダが多く出てきすぎたおのみちを帰しているところだった。ふふっ、どんな夏になるかしらね。絶対すごいことになりますよ、私たち全員いるんですもん! おーし、じゃあとりあえず昼飯にしようか。わたしらのフロアは二階だからね。


 あ。三階でエレベーターが停まり、フロアにアーイシャ、と多くのムスリマたちが集まっているのが見える。乗れるかな、とは室内のスペースに目を配り、ちょっとみんな詰めて、と言いながら人影を壁面に寄せる。いや大丈夫だ、私だけ乗れたらいい、水を取りに行くだけだから。とアーイシャは言い、後方の人影を一瞥したのちエレベーターに歩み入った。一階のボタンが押され、ドアが閉まる。今からワークショップ? というよりは、私とズラミートのリハーサルだ。秋田のあれに向けてだよね、頑張って。そちらこそな。と言葉少なくも親しげに話す二人の姿を無言で眺めるうちに二階に着き、ドアが開くとともにアーイシャが壁面に寄る。ありがと、じゃあ。ああ。足早にフロアへ出る私たちをよそに、とシーラだけが名残惜しげに手を振ってドアが閉まるのを見届けていた。




 つうわけでセットリストはこんな感じっす。ん、もう確定でいいんじゃん。だな、四五よんじゅうご分間にまとめるならこれしかないだろう。ホワイトボードを前にして頷きながら、ソファに着いている皆の表情も窺う。しかし、このスタジオに初めて入ったときはまた随分なものをと思ったが、一一じゅういち人も集うと流石に手狭に思える。でも一発目から新曲って最高でしょー、このトラックヤバくないすかー? と満面の笑みでイリチがDAWの再生ボタンを押し、先ほどパラデータを流し込んだばかりの『B-AVALON』のトラックが流れる。はは、今日何回聴くんだよ。だってだってえ、教授キョウジュハンとゾフィアとウェンダで co-write するって話は聞いてたすけど、こんなんなるなんて思わなかったすもんー! ありがと。もちろんこれからミキシングとイリチのギター録りも残ってるけどね。気合入れてやるっすよおー! とプロデューサー組が気炎を上げるのを見ながら、なんだか、いよいよって気がするな。とに目配せする。だねー。みんなでホームスタジオに集まって作戦会議って、これぞクルーって感じ。じゃあ今日はリハーサルスタジオで『B-AVALON』以外の曲の確認しましょ、みんなり慣れてるはずっすから一日あれば十分っす。だね。じゃあ早速移動……、日程の確認忘れてる。あそうだった、えと、まずみんな知ってるように今月の一八じゅうはち日にオリンピック開会式でのパフォーマンスね。そんで八月の一日に愛知、一週間後に大阪、一五日の福岡でツアーファイナル。開会式含めて四公演しかないとはなー。さすがにこのメンツだと演れる会場も限られるしね。でも愛知以降は二時間半のフルセットでやるから、休む暇ないはずだよ。だな。まずは最初のデカい山を……と賑わう室内に、突然おのみちが投射される。おのみちですが。おう、どしたん。シーラ様、いえ、皆様にお伝えしなければならないことが……なに。倒れました、マキ様が。えっ。マキ様が……たった今、一階の救護室で。




 ホロスクリーン上に脈拍や心拍の数値、臓器をスキャンしたと思しき画像が表示されている、のを漠と眺める。生命維持装置、こうやって使うものだったのか。初めて見たときはなんて大袈裟なと思ったけれど、現にこうしてマキの肉体が内部に横たえられているのを前にして、非現実感のようなものが避けようもなく纏わった。なに……があったんですか。と傍らに佇立している副艦長、いやもうその肩書きではないか、おおうらてんと呼ばれていたはずの人に問いかける。数分前、急にだ……いつも通りデスクで庶務をこなしていたところ、急に……とおぼつかない口ぶりで答えるので、おのみち、助かるのか。と率直に問い詰める。このデータから察するところ、とホロスクリーンを見上げながら、脳および神経細胞に深甚な損傷が見られます……と画像を指し示す。さらに中枢神経、内分泌器、腎臓などにも明らかな異常が……なんで、なんでだよ。マキ何日か前までは元気だったろ。ええ、ですが、実は……と言いながらおのみちは黙り、おおうらてんのほうへ目配せする。実は、実はなんだよ。無闇に大きくなる自分の声を他人のように聴きながら、実は……とおおうらてんが静かに唇を開くのを見ていた。マキは一昨日から、つまり君がアイルランドへ帰っていた頃だが……手足の震えが激しくなり、言語障害も伴うようになっていた。えっ。今からでも処置をしたほうがいいと私は言ったのだが、マキは頑として聞かなかった……なに、どういう意味。それに今からでも、って。まさか、ずっと前から症状があるのを知ってて……

 ばたん、と閉まる入口のドアのほうを室内の全員が振り向く。。これは皆様、ご機嫌麗しゅう。いかがなされましたか、大事な稽古があるのでは? 取るに足らない他人の健康状態などにかかずらって時間を消費していいのですか? といつもの微笑を浮かべながら歩み寄ってくる。ところに、、このこと、知ってたの。とが詰め寄る。知ってたというか、ワタシがそうしたようなものですよ。と笑いながらホロスクリーンを指差す。そうした、って。メチル水銀をね、食事に1mgミリグラムくらい混ぜて、毎日出していたわけです。なに、こいつ、何を言っている。たぶん本人も気付いていたはずですよ、食事を摂る手段なんて他にもあったはずなのに、私の出したもの以外は喰おうとしませんでしたからね、今年の頭からずっと。ずっと、って。つまり、あたしたちがYonahに乗った頃から。もちろん、ワタシとマキが再び会ったのもそのときでしたから。再び、ってことは。まさか、あの話って……。との右肩に触れて絶句する。なんだ、なんの話だ、と二人の間で交わされている問答の仔細さえ掴めず黙り込むこちらへ、は鷹揚と微笑みながら視線を向けた。

 そう、ですよ。自衛隊にいたころのいわばしりマキとおおうらてんが、南スーダンの地で民間人虐殺を行った、というのは、事実です。

 沈黙。

 。と呼びかけても、応えない。、どういうことだ、それ。虐殺がどうとかって、あのダブリンで母さんたちが喚いてたことだろ……それとがどう関係あるんだ。は静かにこちらへ向き直り、唇を開く。いたんだよ。なに。そこに、いたっていうんだよ……が。当時南スーダンの首都で寝泊りしてて、ある夜いきなりその宿が、人ごとなくなってたって……その事件に関与したのが、マキさんたち、だとか……と、何もかもがおぼつかない口ぶりで言われる、のを前にして、なんだよ、なんなんだよそれ。と誰に何を訊けばいいのかもわからなくなるこちらへ、まあまあ、あれこれ邪推するより、当事者に訊けばいいではありませんか。とが笑う。ねえ、てん。あれはなかなか、忘れられるもんじゃないでしょうしねえ。視線を向けられ、おおうらてんが眉をびくつかせる、のを見ている。

 すべて事実だよ。男性の口から重々しい言が漏れる、のを前にして、誰一人じろぎしない。以外は。書架の横にある窓際の棚に腰掛け、足をぶらつかせている、のを見ている。あの夜のことは、公式記録には一切残されていない、自衛隊にも国連軍にも……しかし、宿営地付近で唐突な銃撃戦に巻き込まれた我々が、発砲者の立て籠もった小屋の内部に踏み入り、一斉に銃撃を浴びせた……そのことは動かぬ事実だ。おおうらてんの証言をは後ろから聞き届けながら、で、ワタシとアナタとマキだけが証人になって、それをネタにワタシはアナタたちに好き放題できるようになった。皆さんが各地で楽しく公演を行っている最中にね。と玩弄するように言う。おっと違った、証人はあともう一人いましたね、ワタシの母が。母……と、その一言に鋭敏に反応したのはエリザベスだった。ええ、あの地で住む場所を奪われたワタシを救い出してくれた、大恩ある女性です。と、はなぜかのほうへ視線を送りながら言う。ま、そんなことは些末なことでしょうてん? アナタは性病をなすりつけられて、マキは水銀を盛られて、あとはゆーっくり死んでいく日々しか残されてないんですからねえ。まあ人間、誰しもゆーっくり死んでいってるには違いないわけですが。これだけ玩弄されてもおおうらてんのほうを向きさえしない。なんだ。なんなんだ。気がつけばあたしがの目の前に身を乗り出していた。お前、そんなことやって何が面白いんだ! 不意の叫喚が響く室内で、窓越しに差す曇り空の微光が、おもてくらみを刻んでいた。

 とくに面白くはありませんでしたよ。

 沈黙。気付けばの表情からも微笑が失せていた。なんでだ、お前は復讐のためにやったんじゃ。と語気がしぼむこちらへ、復讐、さあね。あの宿を焼き払われても、とくに悲しくもありませんでしたしね。と相変わらず無表情で応える。人の命を思い通りにしたやつらの命を、今度はこちらが思い通りにできる……なかなか面白いだろうなとは思ったのですが、そうでもありませんでしたね。マキもてんもぜんぜん抵抗しないし、ただ弱っていくだけでしたし。まるで昆虫をガスで殺して標本にするようで、愉しみにしたって子供っぽいなと思いましたね……ふざけるなよ、お前のしたことだろ……ええ、もちろんね。ただ、この世にはもっと面白いものが在ると知っていたら。たとえば、様。首だけ傾けて、は彼方の姿へ視線を向ける。アナタが教えてくれた、音楽の歓びのようなものが在ると知っていたら……こんなつまらないことに手を染めることもなかった、のかもしれませんね。

 沈黙。

 だめだ。こいつ、どうにかしないとだめだ。棚の上に腰掛けるの脚を掴んで引き摺り下ろそうとする、その挙動を咎められる。どけおのみち。いけません。何がだ、何がいけないんだ。いけないことをやってたのはそいつだろ。お前だって知ってたんだろ、あいつの使い走りとして動いてて、全部知ってたんだろ、水銀とやらだってお前が調達してたんだろ! と押し倒そうとするこちらへ、ああそいつは無関係ですよ、てんを犯すときにちょっと手伝わせたくらいで。おのみちの記憶モジュールはワタシが改竄していましたし、ろくに憶えてもいないでしょう。と淡白な説明が加えられる。ところがウェンダ様のせいで自我に目覚めて、AIのくせに人間臭くなって……リセットのためのパスワードも自分で書き換えてしまって、もういじくり回せなくなってしまいました。まったく、余計なことをしてくれましたね。こいつ、だめだ。こいつは人間じゃない。どうにか、今ここでどうにかしなきゃだめだ。シーラ様。どけって言ってるだろ。いいんだ、シーラ。ふいに後方から響く、か細い声。のほうへ向き直り、横たわっているマキの身体を見おろす。いいんだ、すべて、私がさせたことだ……と、人工呼吸器を取り除けながら、喘息めいた呼吸で続ける。拒まなかったのは、私だ。受け入れたのは……なんだよ、なんだよそれ、受け入れたってなんだよ。罰を……私たちがしたことに罰をくだす、だけの権利が、その子にはある……ないよ、ないだろそんなの。ある、んだ、シーラ……もし何もなかったとしたら、それは、この世の因果には何も応報が無いことになってしまう。そのほうが、私たちにとっては……地獄だ。

 沈黙。

 おおうらてんが、眼下の肉体の口腔に呼吸器を戻し、装置の計器を調整する、その姿を無心に眺めている、と、シュッ、の音。いつの間にくすねたのか、マキがいつも吸っていたラクダのタバコがの手の中にあった。口端から煙を吐きながら、さ、くだくだしい説明はもう十分でしょう。皆様お忙しいのでしょうから、冗長な愁嘆場など切り上げて稽古にお戻りなさいましな。と言いながら棚から床上に飛び降り、何しろ皆様は音楽の技術と才能をお持ちですからね、ワタシと違って。ねえ、姉様ねえさま。と歩み寄りながらエリザベスの頬へ向けて手を伸ばす、がはたき落とされる。今度その名で呼んだら殺すわ、穢らわしい。言われてもは、ええ、申し訳ありませんでした。と綽々として退出しようとする、のをが遮る。。なんですか。返せよ。そのタバコはマキさんのだろ。タバコが握られた右手をとる、の左手の甲に、もえぐいの先端が押し付けられる。あ、つっ、おい。呼び咎めるのほうを振り返ろうとすらせず、放り投げられたタバコの箱が床上に落ちる、その音だけが無機質に響いた。




 殺そう。目の前の双眸そうぼうから視線を逸らさずに言う。待つ。一〇秒経ったか。それでもアーイシャはおもちを崩さず、馬鹿げている。と目を伏せて言うのみだった。馬鹿げてるのはあいつだろ、あいつのやったことのほうがよっぽど馬鹿げてるだろ。立ち上がりながら言うと、目の前の姿はヒジャブを着けはじめる。あの淫婦が、あの男でも女でもない邪魅が愚劣なことをしていたとして、君も同格に愚かしくなっていいのかね。極めて冷静な物言いに、それは……と口籠るこちらへ、君たちの聖典にもあるだろう、復讐するのは神であって、凡夫たる民草ではない。と継がれる。神の名のもとに独善的なファトワーをくだすなどは、啓典の民として最も言語道断な……だからって! こちらの大声に、さすがにアーイシャも振り返る。だからって、この世から正義がなくなっていいわけじゃないだろ! いつのまにか涙ぐんでいる自分に厭気が差し、目尻を拭いながら返事を待つ。

 あるだろう。えっ。マキがしたこと、が事実であるならば、むくいが下されて然るべきだ。あの淫婦に罰を下す資格があるとも思われないが、少なくともマキにとっては帳尻が合っているのだろう。片方の皿に自分の罪があり、もう片方にあの淫婦による罰がある……それがマキにとっての平衡なのだとしたら、私たちには容喙しようがない。

 じゃあ。じゃあさ。なんだね。あたしにとって大事な人、マキを、あたしは一方的に奪われようとしてるんだ……ならさ、あたしがあいつを殺してもいい、ってことになるじゃないか。のやってることを、あたしが裁く権利もあるはずじゃないか。無い。何度言わせるのだシーラ、如何なる理由によっても人殺しは正当化され得ない。じゃあ、お前は何も思わないのかよ! 何……お前も、お前だって、マキに……ああいいよもう、どうだっていいよ!




 激昂して部屋を出たシーラ、の後を追うこともできない。夜の礼拝を終え、手持ち無沙汰に一日を終える、こともできそうにない。一階へ降り、救護室の扉を叩いていた。

 はいれ、との声を待つこともなく入室する。ろくな照明もなしに、治療用の装置らしきものの計器だけが光彩を放っていた。マキ。呼びかけると、力なく横たわる肉体が反応を示した。アーイシャ、か。はい。すまない、心配をかけて……誰に対して何を謝っているのかもわからない。これだから日本人は嫌だ、したに出ていればつの目立めだたないとでも言いたげな態度……マキ。ああ。ひととおりのことは聞きました、シーラから……あなたがしたというものごとは、すべて本当なのですね。首が縦に振られる。であれば、もう私に言えることは何もありません……ただ、ひとつだけ聞かせてください。ふうっ、と眼科の肉体が立てた息によって呼吸器が曇る。同意を示す仕草だろうか。こちらも息を整え、直截に言う。何故、ですか。何故そのような運命にありながら、仕事を続けようと思えたのですか。数十秒の沈黙。ののち、眼下のマキは右手を起こし、訥々と語り始めた。知ってほしかった……この地上には、まだ多くの居場所があると。君にも、シーラにも……知ってほしかったのだ、まだ生きられるだけの場所があると、その用意をできるはずだと……もっと、助けたいと、君、のような子たちに、もっと、安らぎを、知ってもらいたいと……切れ切れの言とともに、マキの五指が私の頬を撫でる。私にとって、私などよりも、君たちのほうが大事だから……そうすることでしか、あがなえないと思ったから……だから、助けたかったのだ、君を。君たちを……

 撫で付けられた指をとる。何が言える。何を言えばいい。出過ぎた夢想のような、あるいは贖罪への切実な渇望のようなものを述べ立てるこの人を前にして、一体何が。そんな……気付けば、私の左目から一筋の線が。これか、これを拭おうとしていたのかマキは。そんな……母親のようなことを言うな!! 吐き出した言葉の尻尾が、慄えたまま空中に霧散する。遅れて、右目からも雫が漏れてくる。これは何だ。人間の、たかが人間の。試みるに値しない行いに身を窶しているだけの姿を前にして、私は。




 知ってたんですか。と一階の一隅で問う。ああ。とてんさんは目を伏して答え、あの地で出くわした女性がという名で、君と浅からぬ関係にあることも、から聞かされていた。私たちはDyslexiconの取り計らいでPeterlooに職を得たのみで、Yonahで君と居合わせた理由などは、推し量るべくもなかったが……と述懐する。あいつが、今どこで何をやってるかも、知りませんか。あいつとは……です、百済くだら。そればかりは、知りようもない……私も一度会ったきりなのだ、あの一二月に……マキも私も、君にとって有益な情報は何も持ち合わせていない。そう、ですか……

 では、と言いながらてんさんは背を向ける。あの、どちらへ。救護室とは逆の、搬入口扉のほうへ歩いてゆく背中に問いかける。てんさんは振り返り、今日も私は、に尻穴を抉られてくる。ほかあがないようがないのだ、私の罪は。と答えた。

 そんなことを決然と言われてもな、と思いつつも、ふたたび背を向けるてんさんを見送るしかなくなる。それにしても、一体なぜ。まさかあの出来事まで仕組んだわけじゃないだろう、そこまでする理由もありそうにない。てんさんたちは偶然に出くわした。その、たった一度きりの過ちのせいで、ここまでの責務を負うことになったのか。自分が死なせた人々の代わりに他の人々を救うというあがない……




 家族になれると思ったんだよ。うん。マキとも、はかるとも。血は繋がってなくても、さびしいどうしで身を寄せ合って、本当の家族みたいになれると思ってたんだよ……うん。でも、だめだった。結局こうして終わるんだな。あたしが思ってたのも、マキがやろうとしてたのも、ほんとになる見込みのない、ただの……シーラ、それはだめ。それだけは言わせない。会って、話してきたんでしょう、あなたのお父さんと。ああ……まだやってみるべきことがあるって思ったんでしょう。うん……なら、続けなきゃいけないよ。続けなきゃ、か。私たちはそうしてきた、いつだって。あなただってそうでしょう? シーラ……私は、あなたのこと、本当の妹だと思ってる。血の繋がりじゃない、もっと別の絆で結ばれてるって。きっとあなたにとってのマキも同じ。家族、なんだよ。家族なら、最期まで看取らなきゃいけない。どんなに悲惨な最期であってもね……そうなのかな。実はね……私、逃げてきたの、実の母親の最期から。葬式にも出ずに、私とあの人は関係ないって、逃げてきた……ああ。実は、から聞いてた。ふふっ、そうだったの……だから、今度だけは逃げたくない。あなたと、あなたが大切に思ってる人と、歓び以外の何かを分け合うことになったとしても……これは避けられない、逃げちゃいけないことだよ。




 が、直接、ふれてくれた……ワタシの右手に。母さん、が、直接ふれてくれました。こんなの、今までは一度もなかったことですよ。アナタは笑うでしょうね、幾度となくと身体を重ねたアナタは……でも、いいのです。これが、あのはだえの擦れこそが、ワタシにとって何物にも替えがたい宝、一瞬ふれただけなのに、なんて暖かい……いいですか、母よ。アナタが何を企んでいようと、これだけは奪えません。とワタシが授かった宝までも、アナタに渡しはしません。




 結局、音楽だけが救いなんだ。悪い冗談としか思えないようなことも、この一週間にはあった。でも、これだけは。この仕事だけは裏切れない。世界中から集まった一一じゅういち人で、オリンピックの大舞台でパフォーマンスする。、これはさすがにあなたも見てるだろうな。じゃあやり切るよ。今までで最高のりゅうを見せてやる。『B-AVALON』、この日のためにみんなでつくった作品を劈頭として。




 ああ、これだ、この歓声。忘れてた、これがわたしたちの仕事なんだ。ウェンブリーと比べたらひとまわり小さいけど、新国立競技場、このアリーナに響いている大歓声は、確かにわたしたち全員のもの。よっしゃ次の曲い【緊急地震速報:東京都で地震発生 強い揺れに備えてください。(気象庁)】


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