24 聖者への路
マキにも観てもらえたらよかったな。え? いや、誘いはしたんだよ。と話す
ありがと。タクシー中央に座する私に端末が渡され、ん、と右隣の
ふうっ、と一息つくとともにスマートフォンを置き、ヒジャブを着用するアーイシャを眺める。リハーサルの時間が足りなかったわりにはうまくいったな。と言うと、当然、初めてパフォーマンスする演目でもないからな。と返す。いや、それでも東京での公演自体は初めてだろう。もう慣れたよ、初めて訪れる土地でのパフォーマンスは。君と組む前に一度福岡にも呼ばれているのだし。会話を過ぎ行かせながら立ち上がり、忘れ物はないか、と入口に控えている皆に呼びかけると、はい、と返事が戻る。頷くとともにドアが開かれ、退出する皆の後を追う、その背中に、観に来てもらえたらよかったな、
と言い、しまった、と遅れて気づく。スンナ派に改宗した際に両親との絆も絶たれた彼女にはなにか、年長者の愛情への飢えがあるのではないかと、思っていても黙っていたのに。アーイシャは左目だけこちらへ向け、ズラミート、君と一緒にするな。と抑揚なしに言う。母親に観てもらいたい、のは君ではないのか。イスラエルを追われた以上、もうあの地での公演は叶わないわけだし。かといって、君の境遇をそのまま私のうえに重ねて見られるのは……と、常からこちらの不明を指摘する際の、怜悧な眼差しで述べられ、あ、たしかに、そうだ……すまない。と間抜けな声が漏れる、のを前にして、ふふっ、と眼を伏して微笑する。なんだか今夜は君らしくもないな、それほど緊張していたか。と
おはよう。と、すでに正午を過ぎた時刻に言われるのは奇妙だ。私と彼女らの生活サイクルが異なっている以上は仕方がないのだが。おはようございます。と日本式の挨拶を交わしながら着席する。一階の救護室中央に据えられたテーブルから、壁際のキッチンでシーラが紅茶らしきものを
ちょっと遅くなったけど、ブランチってことでさ。と笑うシーラに、遅すぎる、君たちが起きる前にこちらは二度目の礼拝を済ませているのだ、と
済まなかったな、昨日は観にいけなくて。と言うマキに、いえ、もともと誘っていませんから。と返す。のを見たシーラが、そんな言い方ないだろ、前から観に行くつもりだったんだよマキは。と申し立てる。のを受けて、体調が優れなかった、と聞きましたが。と弁明めくこちらへ、ああ、昨夜急にな。予定は
夏の身体を造る、ねえ。さらっと言ってたけど、やっぱアーイシャ自分に厳しいんだな。あたし、ボディメイクとかダイエットに気ぃ遣ったことさえないな……野菜食べてりゃ十分だったし。そうだあのイスラームの断食月、ラマダーンだっけ。今年はいつからなんだろ、当然アーイシャもやるんだよな。あれっイスラームのカレンダーってこっちのとどう違うんだっけ、たしか夏に断食やるはずだけど……とか思いながら外に出ると、唐突に黄色い声が迎える。なん……うわあ。
なんだろう、な。こういうのはミッシーに任せとけばいいと思ってたけど、いつのまにかできるようになってる。やっぱ
みつばちゃん、か。あのくらいの子ってもう学校には行ってるんだっけ。いや、それより下の施設でも夏休みなのかなすでに……と、わかるはずもない想念を遊ばせながら、今日は散歩はやめとくか、晴れすぎてるし、日傘も帽子もないし……そうださっきファンからもらったもの、部屋に持ってくか。
やっぱりだ。シーラ様、こちらです。
マキ様……シーラ様。と、ドアの向こうから
お前、あの子に何をした。
解離という機制は、ああいうふうに働くこともあるそうだ。と、遠のくパトカーの音とともにマキの声を聞きながら、救護室へと戻る。心身の虐待や性的暴行を受け、なんとか生命の危機には至らないよう苦痛を感じなくさせる、そういった役割を担うことがあると。武力に基づく占領や民族浄化の生還者を診療していると、同じ言葉を何度も繰り返して、自分の傷のありかを糊塗しようとする例が頻繁に見られるらしい。もしかしたらあの子も、それと同じなのではないか……テーブルについたまま動かずにいる姿を遠くに見ていると、人攫いっ、何の権利があって、ふざけるなっ、わたしの子だっ、とあの無様な父親が連行前に喚き立てていた怒声が耳元に蘇るようだった。何度も、何度も、繰り返し。そうだ、一度では済まないから繰り返すのだ。酒を飲むのも、タバコを吸うのも、その灼熱を無抵抗な実子の肌に押し付けるのも、酔態にまかせて伴侶を殴りつけるのも。繰り返し、繰り返し。その反復自体が行為の異常性を麻痺させる、加害者にとっても被害者にとっても。わたしが今していることは、されていることは、何も大したことではないのだと……
気づけてよかった、などと呑気に言えるわけもない。逆だ、あたしが気づかなかったらあの子は一体どうなっていた。助けてくれなかったのか周りの人々は。あるいは、それが察せられないほどに孤立化され、抵抗も無効化されているとしたら、それは収容所とどう違う。救護室の入口で身動きが取れずにいると、マキは室内の空調を駆動させ、採風用の窓をひとつひとつ開けていった。もう、ここでは吸えんな。言いながら灰皿を洗っている。タバコの臭いが彼女の外傷記憶をフラッシュバックさせかねないから、ということだろう。
身柄っていってもどうすんのさ。幼稚園にはここから通わせる、どのみち徒歩数分だ。そうじゃなくて、こんなことがあったあとでさ、どうやって今まで通りに振る舞うっての。マキは灰皿をキッチンの戸棚の奥にしまいながら、それは……彼女次第だとしか言いようがない。と途切れがちに言った。すくなくとも、暴力を振るわれ続ける環境からは抜け出したのだ、これからの経過を見ていくしかない。抜け出した、か。あたしがゴールウェイから家出したときみたいに。でも小さい子がさ、あんなことされた後ってどうなんの。私が担当した事例では、むしろ虐待がなくなった後で自分がされたことの正体がわかるようになり、心身の不調を訴えはじめることが多い……後で、か。今まではあの虐待自体が麻酔になってた、ってこと。ああ。その後の人生でどう折り合いをつけていくかは、彼女自身と、臨床に携わる医者次第、としか言いようがない……
この会話も、みつばはどんな気持ちで聴いているのだろう。いや、聴いてさえいないのかも。とにかく危機を脱することができてよかった、そんな安心感の中で解離が続いているのかも。しかし、いつかその機制が解けて痛みが一斉に押し寄せたら、そのときはどうなる。椅子に腰掛けている姿に手を差し伸べると、小さな指が纏わる。あの、
マキ。なんだね。あたしの……部屋に、来てもらうよ。まだミッシー着いてないし、時間的にも余裕ある。たぶん、それが一番安全なんだと思うよ……一階にいたら、またいつのまにか出てっちゃうかもしれないし。そうか……そうだな。だいじょうぶ、二階でも誰もタバコ吸わないようにって、みんなに言っとくから。ああ。
チョコレートパンを牛乳で流し込むようにして遅めの昼食を済ませたみつばは、途端に安心感が訪れたのか、椅子の上でうとうとしはじめた。寝かせたほうがいい、色々あった一日だ。と思うも、安眠させるためには身体を洗わせたほうがいいのかも、とふいに直感した。とりあえずバスタブにお湯を張り、どうしようこれくらいぬるくていいんだっけ、そもそもあれくらいの子って自分で入浴できたっけ。そうだ入れたとして着替えどうしよう、母親のほうに言って送ってもらうかな、いや買いに行ったほうが早いか。と何も手につかないようになりつつ、みつば、と手招きし、ひとまず目の前の行水にけりをつけるしかなかった。おいで、おふろ入ろう、疲れたでしょ。頷き、バスルームの中に歩み入ってくる。転ばないようにね、気をつけて。
やはりというか、身体のうえに浮かぶ火傷の痕が痛ましい。沁みる? 大丈夫? と確認しながらぬるま湯をかけても、痛みは訴えない。これも解離ってやつか、それともよっぽど昔の傷痕だからもう沁みないのか、とふいに走る苦味を噛み潰し、みつばの脇腹を抱え、湯に浸す。
ってわけで、あの家出っ娘にもよろしくねえ。だから名前で呼びなよ、もう立派なアーティストだよ
と、このままエディンバラ国際空港に向かえばいいのだが、チケットはロンドン発で取っているのだった。
サヴィル・ロウ。ロンドン全体がそうといえばそうなのだが、いけ好かない街だ。わたしのCouncil Clubみたいな、ストリートのファッションが根を下ろさない土地。ならなんで来た。もちろん、
ベルを鳴らし、三〇秒ほど数えたのちに、磨りガラスのドアが開く。よう。わたしの
何の用だ、とか訊かないの。訊いて欲しいのならそうするが。はは……さっきからわたしがあんたに
聖母園、か。この地区でみつばが今まで通りの暮らしを続けるなら、そこに落ち着くしかない。しかし……やっぱりカトリックなのか。結局、迷い子の生を救うには、宗教的なるものの体制にすがるしかないのか。聖母園だからといって、そこの職員が愚劣な神父たちのように幼児虐待を加えるわけがないなんて確証はどこにも無いのに。という屈託も、日本のカトリックも向こうと同じだなんて確証も、同じように無いわけでしょう。信じて、預けてみるしかない。という
こればかりは、Peterlooも出る幕ないもんな。救護室に真新しく貼られた「禁煙」の表示を眺めながら、向かいの席のマキに言う。その国だけで解決できるなら、それに越したことはないもんな……ああ、我々にできることはここまでだ。シーラ、よくやったよ。これ以上深入りすれば、我々は救いの押し売りで彼女の生をも歪めてしまいかねない。ここで退くのが肝要だ。うん……救いの押し売り、か。みつばも、この地上の理不尽で居場所を失ったには違いないんだ。そして迷い子の生を引き受けるのは、やっぱり宗教的なるものの役割。むしろその役割だけが、宗教的なるものの存在を許す……
マキ。なんだ。
これでもう三度目の着信を、ようやく受話する用意が整ったのか、メリッサは上体を起こしてパーカーのポケットの中からスマートフォンを取り出す。うん、
もう四年ぶりになるのか。この家、あたしがなんの方途もなしに、スコットランド行の船に乗る金だけくすねて飛び出したこの家。ひとりで暮らすには広すぎるだろう煉瓦造りの住処に、あの懐かしい声が響いた。おかえり。うん、ただいま。
母さん、執行猶予付きで釈放になるらしいね。言いながら樫造りのテーブルに着くと、ああ、とだけ言ってジャー入りのアップルティーを出してくれた。なにか食べるかね、サラダとスコーンならあるが。いや、いい。親子として久しぶりの会話が、どこか形式ばるのを免れない。ありがと、父さん、ダブリンのとき。うん? あの公演が中止になりかけたとき、抗議の署名を募る運動があって。そのリストの中に、父さんの名前、あったからさ。ああ、と語尾をぼかす顔の表情は、頬まで覆われた髭のせいで明かでない。さすがに、この田舎町まで伝わってきたものな、あの騒ぎは。ふふっ。よそよそしさが逆に愛嬌のように思えて、微笑しながらカップにアップルティーを注ぐ。
父さん、さ。うん。もともと神学校に行きたかったんでしょ。そのためにラテン語の勉強してたけど、父さんの両親が、そう、だってことがばれて、諦めて語学教師になったんでしょ。そうだよ。ひとつ訊いていい。なんだね。どうして神学校だったの。いや、責めてるわけじゃないよ。でも父さん、ずっと言ってたじゃない、行き場のない人々を救いたいって。ああ、失敗したがね。それも、含めて、知りたくて……なんで父さんは、そういうことをしようと思ったの。
向かいの席に着く姿の、その
懐かしいな、ここで唄ったこともあったっけ。しかしまさか、ダブリンであんな騒ぎを持ち上げたあたしらがこの教会堂でファンミーティングやるなんて。
みんな、いきなりの開催で驚いたろうが、集まってくれてありがとう。あたしの生まれ故郷のゴールウェイで、こうしてみんなと会うことができて、とても嬉しく思う。一通りの挨拶を述べると、客席から少なからず喝采が上がる。さて、始める前に……今日はひとつ、みんなに伝えておきたいことがあるんだ。と述べると、なにー? と調子を合わせるような声が返る。咳払いひとつ、数秒の沈黙を挟んで、話し始める。
今日からもう、あたしのことを
水を打ったような静けさ、にひとつひとつ刻み込むように言う。あたしの名は、シーラ・パトリシア・オサリヴァン。アイルランドのゴールウェイで、スタニスロース・オサリヴァンとブリジッド・フィッツジェラルドとの間に産まれ、聖メアリー教会で洗礼を受けた。それがあたしだ。逃げも隠れもしない、みんなと同じようにこの土地で生まれ育った、ただの人間だ。と切り、場内の観客たちの顔をひとりひとり眺める。もちろん、あたしの父や母については、みんな色々聞いてるだろう。ある意味では、あたしを応援してくれることは、父や母にまつわることを見ないふりしてくれる、そういうことでもあったろう。でも……もう、そんな気遣いはいらない。言いながら観客たちの表情を窺う。意を察しがたいという顔、それも当然だろう、しかし。父は、迷える人々を救おうとして失敗した。でも思うんだ、その試み自体は何も間違ってなかったと。この地上には、まだするべきことがある、まだ助けるべき命があると。もちろん、人間ひとりができることには限界がある。父は、独りですべてを救おうとしたから失敗したんだ。でも。さあミッシー、合図だぞ。十字架の蓋が開かれ、中からひとつの姿が
そうだとしてもさ。えっ。腰が抱き寄せられ、目の前の右手がわたしの左手をとる。そうだとしても、嬉しかったよ。ミッシーとその家族が、あたしを受け入れてくれて。居場所を、与えてくれて。
ふふっ、笑うなよ。あたし、これ、初めてなんだ。そう……ごめんね、わたし、初めてじゃないんだ。なんで謝るんだ。そりゃ、謝るよ……わたし、シーラに謝らなきゃいけないこと、いっぱいある。そうか。そうだとしても、お互い様だろ。うん……ごめん、シーラ。愛してる。
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