24 聖者への路


 マキにも観てもらえたらよかったな。え? いや、誘いはしたんだよ。と話すヒメの右頬のうえで街頭が明滅し、左手に握られているの携帯電話がなにか異物めいて見える。でもなんか、体調悪かったみたいでな。うん、いやそれとは関係ないだろ。ほんと、この機会に観られてよかったよ。帰るの夜中になる? うん、ズラミートとふたりなら大丈夫だろうけど、何かあったらのほうに。ああ。と言われたのちに通話が終わる。

 ありがと。タクシー中央に座する私に端末が渡され、ん、と右隣のに掌中のものをパスする。何か言ってた? いや、来てくれてありがとう、くらい。そっか。いやーでもコンテンポラリーダンスなんて初めて観たな、あんな席近いんだねー。開演前にトイレ行っとけばよかったーって思ったよ。はは、なんだそれ。だって一挙一動で吐きかねないっていうかさ、体温と呼吸ごと伝わってきそう感ていうか。言いながら後頭部で手を組むに、やっぱり、作品じゃなきゃ伝わらないものってあるね。と何とは無しに投げる。ねー、話聞くだけじゃさっぱりだったけどさ、やっぱりダンサーの理があるんだなーって。はかるはどうだった。えっ。あのズラミート、のこと知りたくて観にきたんだろ。ええ、まあ……ダンサーとしてはアーイシャのサポートに回る感じだったけれど、バックでかかってた音楽も彼女の作曲だとはね。そうなん。パンフレットに書いてあるでしょう、これ。あっほんとだ……あの作品もさ、イスラエルに対する異議申し立てだったのかな。はっきりとは書いてないけど、宗教原理主義と女性蔑視への抵抗ってテーマは一貫してるみたい。そっか……わたしら、全然そういうのやってこなかったな、基本パーティーラップだから仕方ないのかもだけどさ。引け目に思うことじゃないだろう。現に、ダブリンではお前らの音楽で闘えたわけだし。ああ、まあ……そうか。政治的メッセージを含む作品だけが有効ってわけじゃないか。もちろん。んーじゃあなおさらオリンピックでのセットリスト迷うな、どんな流れにしたらいいだろ。それはミッシーとInnuendoの二人が来てから考えたらいい。そうだ教授キョウジュ着くのいつだっけ? おそらく一週間後。そんなに? ああ、完パケしとかなきゃいけないトラックがいくつかあったみたいで。そっか、じゃあまだ猶予はあるってことか……




 ふうっ、と一息つくとともにスマートフォンを置き、ヒジャブを着用するアーイシャを眺める。リハーサルの時間が足りなかったわりにはうまくいったな。と言うと、当然、初めてパフォーマンスする演目でもないからな。と返す。いや、それでも東京での公演自体は初めてだろう。もう慣れたよ、初めて訪れる土地でのパフォーマンスは。君と組む前に一度福岡にも呼ばれているのだし。会話を過ぎ行かせながら立ち上がり、忘れ物はないか、と入口に控えている皆に呼びかけると、はい、と返事が戻る。頷くとともにドアが開かれ、退出する皆の後を追う、その背中に、観に来てもらえたらよかったな、いわばしりマキにも。と、小声で囁いてみる。君もシーラと同じことを言うのだな……仕方ないだろう、体調が悪かったそうだ。しかし、彼女に知ってもらう最良のチャンスだったのに……私たちはPeterlooに保護してもらうに値するアーティストです、と? そういうわけでもないが……いわばしりマキは、君にとって、母親代わりでもあるわけだろう。

 と言い、しまった、と遅れて気づく。スンナ派に改宗した際に両親との絆も絶たれた彼女にはなにか、年長者の愛情への飢えがあるのではないかと、思っていても黙っていたのに。アーイシャは左目だけこちらへ向け、ズラミート、君と一緒にするな。と抑揚なしに言う。母親に観てもらいたい、のは君ではないのか。イスラエルを追われた以上、もうあの地での公演は叶わないわけだし。かといって、君の境遇をそのまま私のうえに重ねて見られるのは……と、常からこちらの不明を指摘する際の、怜悧な眼差しで述べられ、あ、たしかに、そうだ……すまない。と間抜けな声が漏れる、のを前にして、ふふっ、と眼を伏して微笑する。なんだか今夜は君らしくもないな、それほど緊張していたか。とほころぶアーイシャの口元を見ながら、いや、そんなことは……と語尾が萎えるのは、これほどに闊達な笑みを浮かべる我が友を初めて見たから。行こう。あ、ああ……遅れて床上の鞄を持ち上げる。やはり、、だろうか。私が着く前に語らいをしげくしていたらしい彼女、その影響で我が友も、少しずつ変わって。




 おはよう。と、すでに正午を過ぎた時刻に言われるのは奇妙だ。私と彼女らの生活サイクルが異なっている以上は仕方がないのだが。おはようございます。と日本式の挨拶を交わしながら着席する。一階の救護室中央に据えられたテーブルから、壁際のキッチンでシーラが紅茶らしきものをあつらえているのが見える。そういえば、マキが寝食しているこの部屋に入ること自体初めて。たしか救護室を部屋としてあてがわれたと聞いていたが……と思いながら間取りを眺めているうちに、卓上にパンが配膳される。マキがテーブルに着くと同時に、シーラもカップを三つ並べる。

 ちょっと遅くなったけど、ブランチってことでさ。と笑うシーラに、遅すぎる、君たちが起きる前にこちらは二度目の礼拝を済ませているのだ、とただす気にもなれず、目の前のカップに紅茶が注がれる音を聞く。それじゃ、とポットを置いて椅子に着くシーラを見ながら、そうだカトリックが食事前に行う挨拶はどんなものだったか、と一瞬判じかねるこちらへ、いただきます。の声が二重に響く。今日はマキ側の儀礼で、ということか。了承し、いただきます。とこちらも唱える。まったく、彼女もすっかり懐いたものだ。母親代わり、か。

 済まなかったな、昨日は観にいけなくて。と言うマキに、いえ、もともと誘っていませんから。と返す。のを見たシーラが、そんな言い方ないだろ、前から観に行くつもりだったんだよマキは。と申し立てる。のを受けて、体調が優れなかった、と聞きましたが。と弁明めくこちらへ、ああ、昨夜急にな。予定はけておいたのだが、済まなかった。となだめるような声が返る。そう何度も済まなかったと言われては決まりが悪いので、いえ、こちらも最後の公演というわけではありませんから。次に出演するフェスも決まりましたし。とやや早口に述べると、えっそうなの、と口をティーカップにつけたままシーラが言う。こちらは視線をマキへ向けたまま、ええ、「踊る。秋田」という東北でのフェスから招聘があって。七月末に特別枠としてAminadabの出演が決まったのです。と告げる。今月末か、ずいぶん慌ただしいな。今年はオリンピックの都合でスケジュールが立て込んでいて、我々の東京公演を観てから判断したかったのだそうです。もちろん実地で作品にふれてくれる人が一番信頼できるので、快く承諾しましたが。そっか……アーイシャたちの場合、公演がちゃんと行われるかさえわかんないんだもんね。といささか消沈した口ぶりのシーラに、こちらも釣られるように口籠ってしまう。そうか、それはそうだ。東アジアにおいて最も言論の自由が保たれている国、というお題目で滞在先に選んだこの国でも、近頃は美術展に爆破予告が寄せられ中止だのいや開催続行だのという物々しいニュースが聞かれるようになっているのだから。沈思しながら紅茶をすすっていると、何にしても、最初の公演が成功に終わって良かった。次は私も観に行くと約束しよう。と沈黙をかき消すようにマキが言う。ええ……ありがとうございます。もちろんあたしも行くから。わー秋田って北の方だよねマキ、たしかマキもそのへんの出身だよね? 夏だけど涼しいかなあ? と身を乗り出してはしゃぐシーラを前にして、ふふっ、とつい笑みが漏れる。なに。いや、なんだか君は急に幼くなるなと思って……マキと話していると。言われて不服だったのか、それはそっちもだろ、いつもそういうふうに笑わないじゃん。とむくれて返す。いつもって、まだ会って一週間も経っていないだろう。そうだけど、前々からネット上の映像は観てたし、それにジュネーヴで初めて会って話聞いた時から、色々心配だったし……とふたたび萎える語尾に、ふふっ、優しい子なんだシーラは。これから仲良くやってくれたら、私も嬉しい。とマキの微笑が纏わる。しどろもどろに視線を遊ばせるシーラへ、ありがとう。紅茶、おいしかったよ。とだけ言って起立する。えっ、パンもあるよ食べないの。ありがたいのだが、これから夏の身体を造る必要があって食事制限を課しているのだ。そっか……とシーラは椅子の脇に両腕を垂らしている。では、昼のワークショップもありますので。ああ。ねえこれから毎日昼はこうやってお茶しようよ。どうかな、君たちは朝食が遅いからな……私の夜明けの礼拝に合わせて起きてくれたら、考えなくもないが。えっ……ふふっ、冗談だ。なん、もー……それでは、マキ。ああ、壮健にな。はい、失礼します。




 夏の身体を造る、ねえ。さらっと言ってたけど、やっぱアーイシャ自分に厳しいんだな。あたし、ボディメイクとかダイエットに気ぃ遣ったことさえないな……野菜食べてりゃ十分だったし。そうだあのイスラームの断食月、ラマダーンだっけ。今年はいつからなんだろ、当然アーイシャもやるんだよな。あれっイスラームのカレンダーってこっちのとどう違うんだっけ、たしか夏に断食やるはずだけど……とか思いながら外に出ると、唐突に黄色い声が迎える。なん……うわあ。おのみちが門前で人だかりに応対しているのが見える。一〇名程度、か。あのTシャツとかキャップとか見る限り、ファンだよな、Shamerockの。ヒメー! やっぱりきたー! あたしが歩み寄るにつれ嵩を増す声。やっぱりってことは、この時間帯に出歩くって情報が日本のファン内で共有されてたのかな、たしかにここ最近ずっと散歩してたけど……とか思いながら門前に至り、改めて向こうに見える頭数を確かめる。おのみち、いいよ、かいじょうして。えっ、ですが……大丈夫だよ、中にはれないから。と言いつつ、この程度の人数なら直接応対したほうが穏当に散らせることもわかっていた。はい、では……おのみちかいじょうするとともに門をくぐり、ひとりひとり数十秒程度のミート&グリートが始まる。会えてうれしいですヒメ、あのっ、これ、もしよかったら。ん、なんだろ……チョコ? はい、つくってきたんです。あは、包装紙があたしらの顔になってる。きみが描いたの? はい、描いたのをプリントして。ありがとう、すごくかわいいよ。暑いのに大変だったね。あっそれ、見た目はチョコですけど中はマグネットなんです。あ、そういうこと。さすがに食べ物はまずいと思って、夏だし。なるほどね、これ譜面台に使えるかも、ミッシーにも渡しとくよ。はいっ、あの、もしよかったらサイン……ああ、もちろん。このスマートフォン、の裏でいい? はい。ありがとうございますっ。あのーところでみんな聞いてほしいんだ、今日は特別に応対するけど、ここはあたしら以外にもいろんな人が生活してるとこだから、門の前で出待ちされるのはさすがに困る。近いうちに日本のファンとも接する機会があるはずだから、それまで待っててくれ。いいかな? はいっ。あのっ、サインいいですかっ。ああ。この白いペンで。ああ、こうかな。はいっ、ありがとうございますっ。ああ、今までこうしてくれるの教授キョウジュだけだったのですごく新鮮です。はは、たしかに……教授キョウジュまだいないんですか? まだだけど、来週には到着してるはずだよ。わかりました、じゃあ、本当にありがとうヒメ! ああ、他のファンたちにもちゃんと伝えといてくれよ。

 なんだろう、な。こういうのはミッシーに任せとけばいいと思ってたけど、いつのまにかできるようになってる。やっぱたちと世界を周るようになってから……とか考えてるうちに、門前にごったがえしていたファンたちはそれぞれの目的を遂げて帰っていった。よし、とりあえず済んだな……あたしらのファンは身内でのマナー意識も強いし、こういうことも二度とは起こらないはず。と、振り返ると。あ、きみ、も来てくれてたの? と言い淀みながら足元の人影を認める。背が低くて気づかなかった、あたしの身長の半分くらい、ってことはさすがにないか、でも見た感じ五、六歳くらいの──東アジア人の外見年齢ってよくわからないけど──子どもが、物も言わずにあたしの腰元に纏わっていた。しゃがみ込み、目線を合わせ、お父さんお母さんと一緒に来たの? とゆっくり言ってみる。茶色の帽子をかぶった頭が横に振られる。じゃあひとりで来たってこと。頭が縦に振られる。となると……えっと、まずくないか、この年頃の子がひとりで歩いて来たって。どうしよ、まさか、さっきいたファンたちが置いてったってことはないよな……と判じかねていると、小さな手がこちらの指を握る。なんだろう、何か言うことが。と思いながら視線を合わせて待っていると、あの、ヒメ、すごく、かっこいいです。と、たどたどしい口ぶりで言うのだった。うん。ヒメ、すごくかっこよくて、わたしもヒメみたいになりたいです。と同じ語調で続けるのだが、なんだろう、すごく無機質に聞こえるというか。いや、あたしが小さい子の声を聞き慣れてないだけなんだろうけど、なんていうかすごく……あっ。目の前の子の頭越しに、彼方から駆け寄ってくる人影を認める。立ち上がると同時に木陰が遮っていた日光が眼に刺さり、軽い立ち眩みのようになる、が、みつばっ。と、彼方から放られる声を聞き取ることはできた。みつばっ。みつば、この子の名前、かな。依然としてこちらの指を握ったままの姿を見おろしていると、帽子のリボンの部分に三つのひらがなが刺繍されているのを発見した。これがこの子の名前かな、いまだに日本語読めないからわからないけど。思いながら、駆け寄ってくるワイシャツ姿の男性に対し、あの、この子の親御さんですか。と言ってみる。と、こちらが日本語で話せることに驚いたのか一瞬両眉を引きつらせたのち、え、ええ、そうです。と息急切って応えた。どうもすみません、ちょっと目を離した隙に。この子、あなたのことネットで知ったみたいで、すっかり好きになっちゃって。と眼下の姿の帽子を押さえながら言う。そう、ですか。それで会いたくて来ちゃったみたいなんですけど、だめだろーみつばー勝手に出かけたらー。交通事故に遭ったらどうするんだー。と腰をかがめてあやしつつ、それでは、ご迷惑おかけしました。二度とないように気をつけますので、と何度も首を垂れる。ああ、いえ……みつばちゃん帰るよー。おねえさんにさよなら言おうねー。父親に右手を握られた状態で、こちらを振り返りながら小さく手を振っている。あたしも反射的に振り返しながら、父娘の背中が交差点を曲がるまで見送る。

 みつばちゃん、か。あのくらいの子ってもう学校には行ってるんだっけ。いや、それより下の施設でも夏休みなのかなすでに……と、わかるはずもない想念を遊ばせながら、今日は散歩はやめとくか、晴れすぎてるし、日傘も帽子もないし……そうださっきファンからもらったもの、部屋に持ってくか。おのみちかいじょうして。と引き返す自分の挙動も、なにかへんにせせこましく思えた。


 はかるのお下がりって時点でわかってたけど、でかいなあこの日傘……あたしがこれ差して歩いてたらちぐはぐに見えないかな、と思いながら門を押し開く。うん、さすがに今日はあのファンたちは……あ。みつばちゃん。眼下の姿を日傘の影に迎え入れながら、昨日と同じようにしゃがみ込む。同じスカート、同じ服、同じ帽子。ええと、今日も来たの? 言うと同時に、小さな手がこちらの指に纏わる。黙ったまま視線を合わせていると、あの、ヒメ、すごく、かっこいいです。わたしもヒメみたいになりたいです。と言う。同じだ、昨日と全く同じ。う、うん、ありがとう。よっぽど伝えたいのかな、二日連続で来るなんて。でもそうなら、もっと燥いでくれてもよさそうなのに……と思いながら応えかねていると、みつばっ。と、昨日と同じ声が背中から。立ち上がる、と、日傘の骨が脇から駆け寄ってくる男性の服を引っ掻いた。あっ、すいませ。いえ、いえ、こちらこそ。めくれたワイシャツの裾から、これはなんだろう、汗とも違う独特の臭気が……タバコ、かな。マキのそれとはちょっと違う、でも同種の臭い。みつばぁ、だめだって言ったのに……本当にごめんなさい、この子、よっぽど好きみたいで。笑いながら言うのだが、その口角が妙に引き攣って見える。じゃあ帰ろうな、みつば、もうおねえさんに迷惑かけちゃだめだぞ。との声をすでに遠くに聞きながら、背中を見送る、昨日と同じように。でもこれは、なにか──おのみち。はいっ。カメラには映ってたよな、さっきのあの子。はい、あの茶色い帽子の。ああ。あの子がもし明日にもここに来てたら──保護しといてもらえないか。保護。ああ、あたしのファンみたいなんだけど……さすがに、この暑さで路上に放置しとくのは危ないだろ。あの子だけは特別に、一階のそうだな、マキのいる救護室に入ってもらっていいから。はい、では……そのように。


 やっぱりだ。シーラ様、こちらです。おのみちからの報告を受けて一階に降りると、救護室中央のテーブルにあの子の姿が。三分ほど前です、門の前に一人で立っているのを見つけまして……テーブルに歩み寄ると同時に、書架の影からマキが歩み出てくる。お前の判断で保護したそうだな。うん、これで三日連続なんだ、なぜかずっとうちの前に来てて……言いながら、傍らの席で静まっている子の姿をあらためる。今日はあの帽子すらない。みつば、ちゃん。と手を差し伸べると、またしても同じように指が纏わる。あの、ヒメ、すごく、かっこいいです。わたしもヒメみたいになりたいです。また、まただ、この無機質な声で。繰り返し言うからにはよっぽど伝えたいのかと思ってたけど……実は、逆なんじゃ。伝えたいのはこのことじゃない。本当に言えないことがあるから、こうして何度も繰り返して……みつばちゃん。言いながら、着席している彼女の膝下までしゃがみ込む。依然としてこちらの手を握っている指、をいらい、ちょっと、いいかな。と囁きながら、彼女の上腕を覆っている袖元をめくってみる。そこには、痕。なんの痕。灼かれた皮膚の。しかし陽光のそれではない、明らかに人工の火が象嵌したと思しい、小指の爪ほどの大きさの火傷。

 マキ様……シーラ様。と、ドアの向こうからおのみちの声。数秒遅れて押し開かれる。みつばっ、だめだっていったのに、本当にすいませ、ご迷惑をおかけしてしまって……と、いっぱしの父親を取り繕いたいのであろう、彼方の男の声を聴く。立ち上がり、傍らの小さな影を過ぎ行き、前方で小さく戦慄わなないて立ち止まる姿に相対する。

 お前、あの子に何をした。


 解離という機制は、ああいうふうに働くこともあるそうだ。と、遠のくパトカーの音とともにマキの声を聞きながら、救護室へと戻る。心身の虐待や性的暴行を受け、なんとか生命の危機には至らないよう苦痛を感じなくさせる、そういった役割を担うことがあると。武力に基づく占領や民族浄化の生還者を診療していると、同じ言葉を何度も繰り返して、自分の傷のありかを糊塗しようとする例が頻繁に見られるらしい。もしかしたらあの子も、それと同じなのではないか……テーブルについたまま動かずにいる姿を遠くに見ていると、人攫いっ、何の権利があって、ふざけるなっ、わたしの子だっ、とあの無様な父親が連行前に喚き立てていた怒声が耳元に蘇るようだった。何度も、何度も、繰り返し。そうだ、一度では済まないから繰り返すのだ。酒を飲むのも、タバコを吸うのも、その灼熱を無抵抗な実子の肌に押し付けるのも、酔態にまかせて伴侶を殴りつけるのも。繰り返し、繰り返し。その反復自体が行為の異常性を麻痺させる、加害者にとっても被害者にとっても。わたしが今していることは、されていることは、何も大したことではないのだと……

 気づけてよかった、などと呑気に言えるわけもない。逆だ、あたしが気づかなかったらあの子は一体どうなっていた。助けてくれなかったのか周りの人々は。あるいは、それが察せられないほどに孤立化され、抵抗も無効化されているとしたら、それは収容所とどう違う。救護室の入口で身動きが取れずにいると、マキは室内の空調を駆動させ、採風用の窓をひとつひとつ開けていった。もう、ここでは吸えんな。言いながら灰皿を洗っている。タバコの臭いが彼女の外傷記憶をフラッシュバックさせかねないから、ということだろう。にも、これから一階では吸わないように言っておいてくれ。ああ……いつのまにか傾いている陽を窓から覗いていると、マキ。と背後から低い男性の声。話はついたか。ああ、母親はあの男を訴えるつもりはないと……ただ、心身の状態が落ち着くまで、しばらく時間が欲しいと。その間のカウンセリング等の費用はこちらで負担する、ということで合意が得られた。訴えるつもりはない、か。被害者なのに。あっちから暴力を加えられることがなければ、加害者・被害者って立場自体が生じないはずなのに。それでもあっちを責めるつもりはない、のか。あたしの歯軋りの音をマキは気にも留めず、わかった。ではしばらく、娘の身柄はこちらで保護する。と事務的に言うのみだった。もちろん、そのようにしてほしいと。ではご苦労だったてん、この件は任せるぞ。ああ、では。

 身柄っていってもどうすんのさ。幼稚園にはここから通わせる、どのみち徒歩数分だ。そうじゃなくて、こんなことがあったあとでさ、どうやって今まで通りに振る舞うっての。マキは灰皿をキッチンの戸棚の奥にしまいながら、それは……彼女次第だとしか言いようがない。と途切れがちに言った。すくなくとも、暴力を振るわれ続ける環境からは抜け出したのだ、これからの経過を見ていくしかない。抜け出した、か。あたしがゴールウェイから家出したときみたいに。でも小さい子がさ、あんなことされた後ってどうなんの。私が担当した事例では、むしろ虐待がなくなった後で自分がされたことの正体がわかるようになり、心身の不調を訴えはじめることが多い……後で、か。今まではあの虐待自体が麻酔になってた、ってこと。ああ。その後の人生でどう折り合いをつけていくかは、彼女自身と、臨床に携わる医者次第、としか言いようがない……

 この会話も、みつばはどんな気持ちで聴いているのだろう。いや、聴いてさえいないのかも。とにかく危機を脱することができてよかった、そんな安心感の中で解離が続いているのかも。しかし、いつかその機制が解けて痛みが一斉に押し寄せたら、そのときはどうなる。椅子に腰掛けている姿に手を差し伸べると、小さな指が纏わる。あの、ヒメ、すごく、かっこいいです。わたしもヒメみたいになりたいです。うん、わかってるよ。会いに来てくれてありがとう。両の瞳を覗き込む。そこにあなたはいるか。あなたの瞳に、本当にあたしは映っているか。みつば。呼びかけても応えない。みつば。これからしばらくは、あたしがいっしょにいるからね。視線だけは微塵も揺るがせない。とりあえず、ここでは誰も、何もしないから……しばらく、一緒にいようね。みつばのお母さんも……お父さんも、いなくなっちゃったわけじゃないからね。ひとつひとつ、噛んで含めるように言うと、こくっ、と、初めて頷きながら笑ってくれた。

 マキ。なんだね。あたしの……部屋に、来てもらうよ。まだミッシー着いてないし、時間的にも余裕ある。たぶん、それが一番安全なんだと思うよ……一階にいたら、またいつのまにか出てっちゃうかもしれないし。そうか……そうだな。だいじょうぶ、二階でも誰もタバコ吸わないようにって、みんなに言っとくから。ああ。


 チョコレートパンを牛乳で流し込むようにして遅めの昼食を済ませたみつばは、途端に安心感が訪れたのか、椅子の上でうとうとしはじめた。寝かせたほうがいい、色々あった一日だ。と思うも、安眠させるためには身体を洗わせたほうがいいのかも、とふいに直感した。とりあえずバスタブにお湯を張り、どうしようこれくらいぬるくていいんだっけ、そもそもあれくらいの子って自分で入浴できたっけ。そうだ入れたとして着替えどうしよう、母親のほうに言って送ってもらうかな、いや買いに行ったほうが早いか。と何も手につかないようになりつつ、みつば、と手招きし、ひとまず目の前の行水にけりをつけるしかなかった。おいで、おふろ入ろう、疲れたでしょ。頷き、バスルームの中に歩み入ってくる。転ばないようにね、気をつけて。

 やはりというか、身体のうえに浮かぶ火傷の痕が痛ましい。沁みる? 大丈夫? と確認しながらぬるま湯をかけても、痛みは訴えない。これも解離ってやつか、それともよっぽど昔の傷痕だからもう沁みないのか、とふいに走る苦味を噛み潰し、みつばの脇腹を抱え、湯に浸す。

 ヒメ、と、こちらを振り返りながら小さく言う。うん? わたし、ヒメのうた、すき。ありがと。どのうたが好き? と問うと、ミッシーと初めて組んで出したアルバムの一曲目のメロディをハミングし始めるので、あたしもそれに詞を添える。ふふっ、と目と口を線にして笑ってくれた。ヒメかっこいい、わたしもヒメみたいになりたいな。ありがと。どうしたらヒメみたいになれる? 田舎町の宗教右派の家で母親からの無理解に晒されてうんざりして隣国に家出して寒さと空腹のあまりゴミ漁りしてたら若手の才能あるトラックメイカーに拾ってもらえてアルバム出せるようになるよ、と正直なところを開陳できるわけもなく、どうかなあ、唄い続けてたらなれるかもね。と無難なことを言う。うた? うん、自分でつくった歌でなくてもいいよ。誰の歌でもいい。誰に聞かせるでもなく、ただいやなことがあったりとか、すごく疲れたりとか、そんなときに唄ってみたらいいと思う。少なくとも、あたしはずっとそうしてきたよ。温みと湯煙のなかで、みつばはあたしと視線を合わせながら、わかったようなわからないような顔で頷いた。ヒメはどんなうたうたってた、わたしくらいのとき? そうだなあ……うーん、ドイツ語の歌なんだけどね……これはちょっと……なんで? うたいたくない? わけではない、けど……そうだ、唄えなくなったのだ、この歌は。父の挫折の経験と直接に結びついてしまった、しかし幼時のあたしがこよなく愛していた歌。もしかしたら、今なら、唄えるのかな……少なくとも、いまあたしはひとりじゃない、この子がいる。なら、この子のために唄えばいい。よし、じゃあ聴いててね。言うと、みつばは大きく頷く。この歌はね、『飢えたる者に汝のパンを分ち与えよ』。困ってる人がいたら助けてあげましょう、って歌だよ。




 ってわけで、あの家出っ娘にもよろしくねえ。だから名前で呼びなよ、もう立派なアーティストだよヒメは。あんただって名前では呼んでないじゃない。まあ、そうだけどさ。あとミッシー、忘れないでよ日本の錦買ってくるの。わかってるって、西陣織でしょ? よさそうなの見繕ってくるから。まさかうちの末娘がオリンピックに出るとはねえ。出るってもオープニングセレモニーだけどね。じゃ、気をつけて。うん、ありがと。


 と、このままエディンバラ国際空港に向かえばいいのだが、チケットはロンドン発で取っているのだった。ブリテンここを離れる前に、寄っとかなきゃならないとこがあるから。

 サヴィル・ロウ。ロンドン全体がそうといえばそうなのだが、いけ好かない街だ。わたしのCouncil Clubみたいな、ストリートのファッションが根を下ろさない土地。ならなんで来た。もちろん、ヒメのいないうちに、あいつに挨拶を済ませるために。

 ベルを鳴らし、三〇秒ほど数えたのちに、磨りガラスのドアが開く。よう。わたしのつらを認めたウェンダ・ウォーターズは、何の用だね、とも訊かず、無言でDark Dukeのビューロー内に迎え入れるのだった。へへ、何、やけにせせこましいじゃん。わたしと一緒にいるとこ、見られたら困るってこと。何の話だね、我々はすでに同じ興行の一員だろう。いくらアポイントメント無しの訪問とはいえ、拒む理由などない。と窓際のカーテンを閉めながら言うウェンダの背中から、部屋の内装へと視線をすべらせる。ここ、あんたのお婆ちゃんの代からの。まあ、少なからず改装は加えたが。そっか。室内中央に置かれた黒檀のテーブルの上に、あれはInnuendo関連の新作衣装だろうか、鉛筆のみで描かれたデザイン画が置かれている。その脇に灰皿……あれ、はは、あんたタバコ吸うんだ。と言いながらウェンダのほうへ向き直ると、ああ、と言いながら既に一本取り出して着火していた。人前では吸わないがな、作業中には欠かせない。と言いながらジョン・プレイヤー・スペシャルの箱を懐にしまい、ふうっ、と中空に息を吐き出す。閉められたカーテンに灰色の煙が纏わり、磨りガラス越しに差し込む曇天の陽光もまた、同様の鈍い明るみを添えていた。

 何の用だ、とか訊かないの。訊いて欲しいのならそうするが。はは……さっきからわたしがあんたに強請ねだってるみたいじゃん。みたい、ではなく実際そうなのだが。ウェンダはテーブルに歩み寄って灰皿を叩く。わたし、さ。と言っても、ウェンダはこちらへ後頭部を向けたまま。わたしさ、大嫌いなんだ、あんたのこと。投げた言葉にも向こうは動ずることなく、もちろん知っている。とだけ言ってふたたびタバコを咥えた。リオのときさ、エリザベスにあんなことしてさ。許せないと思ったよ、一緒に組んでる友達に、あんなこと……友達ではない。私とリズは明確な契約に基づく関係だ、私が衣装を作り、彼女が新たな美を引き出す、という契約の。そういう言い方が嫌いだって言ってんの。では、私も君のように馴れ合うべきかな、愛しの幼姫いとひめ君と。そうすれば君のブランドのだらしない寸法にも合うようになるかもしれん。こちらを向きながら煙を吐くとともに、お互いの間に沈黙が垂れる。ところで、メリッサ。と名前で呼ばれる心地悪さをかき消すように、何。と一言で切る。君は先ほどから、まるでお前と私は違うとでも言いたげだが……同類ではないかね。とこちらを見据える双眸そうぼうに、投げ返すべき言葉が詰まる。同じだろう、君と私とは。自分で調ととのえたものをパートナーに捧げる、音楽でも衣装でも、私たちがしていることは同じだろう。ふざけん、なよ。同じなもんか、わたしはあんたみたいに大事なパートナーを痛めつけはしない。痛めつける、ね。コルセットの締め上げが虐待にあたるというなら、私のやり方もそうなのかもしれないが。ウェンダ……と、臓腑から湧き上がるものをそのまま吐き出したい衝動が、タバコを握った手の一挙動で制される。いいかメリッサ、一言で済ませるが。半分ほど燃え尽きたタバコの先を見つめながら、次が言われるのを待つしかない。君は先ほどから、私がリズに課した試練について難詰しているわけだが……そこまで執拗に問い詰めるということは、したかったのではないかね、君も? 再びタバコを咥えるウェンダに、何……したかったって。と返す声が慄えていることに気づき、一緒にするなって言ってんだろさっきから。と早口で継いだなじりもごうりにしか響かない。簡単なことだよ、君がここまで私の方法に執着するのは、君が本当にやりたいことを私がやってしまっているからだ。我々が互いのパートナーにしていることが本質的に同じであることを認めたがらないのもそうだ。もし我々が全くの他人であるならば、こうして互いの違いを並べ立てるまでもなく無視でむくいているはずじゃないか……違う。なにが違うのかね。違うとすれば、我々が違っていることが違うのだ。そろそろ認めたほうがいい、我々が似た存在であるということを。違う。違うのであれば、なぜ君はここに来たんだね。なぜわざわざ、君のヒメやリズがいない時と場所を選んで。それは……済ませておくべきことがあったんだろう、私と君との間で。フィルターの寸前まで燃え尽きたタバコを灰皿でにじり、煙を吐き出す。メリッサ、君が苦しみ喘いでいるのを見るのは忍びない。本当にしたいことがわかっているのに認められない、いかにもスコットランド人らしいことだが……ウェンダの声と、ビューロー入口の扉が施錠される音を同時に聴く。試しにやってみたまえ、君が本当にしたいことを。それくらいの練習になら、私も付き合おう。




 聖母園、か。この地区でみつばが今まで通りの暮らしを続けるなら、そこに落ち着くしかない。しかし……やっぱりカトリックなのか。結局、迷い子の生を救うには、宗教的なるものの体制にすがるしかないのか。聖母園だからといって、そこの職員が愚劣な神父たちのように幼児虐待を加えるわけがないなんて確証はどこにも無いのに。という屈託も、日本のカトリックも向こうと同じだなんて確証も、同じように無いわけでしょう。信じて、預けてみるしかない。というはかるの言葉にほだされたようで、もう明日の引き渡しが決まっていた。

 こればかりは、Peterlooも出る幕ないもんな。救護室に真新しく貼られた「禁煙」の表示を眺めながら、向かいの席のマキに言う。その国だけで解決できるなら、それに越したことはないもんな……ああ、我々にできることはここまでだ。シーラ、よくやったよ。これ以上深入りすれば、我々は救いの押し売りで彼女の生をも歪めてしまいかねない。ここで退くのが肝要だ。うん……救いの押し売り、か。みつばも、この地上の理不尽で居場所を失ったには違いないんだ。そして迷い子の生を引き受けるのは、やっぱり宗教的なるものの役割。むしろその役割だけが、宗教的なるものの存在を許す……

 マキ。なんだ。ドゥの旦那に連絡してくれないかな、ゴールウェイ行の航空券取ってくれないか、って。ゴールウェイ……帰るのか。うん、まだオリンピックのリハーサルまでは余裕あるだろ。それまでに、済ませときたい……会っとかなきゃいけない人がいるんだ。




 これでもう三度目の着信を、ようやく受話する用意が整ったのか、メリッサは上体を起こしてパーカーのポケットの中からスマートフォンを取り出す。うん、ヒメ。ごめん、ちょっと寝ちゃってて。うん……え、アイルランド? ゴールウェイ……いいけど、明後日? わかった、じゃあわたしは……うん、現地で、ってことね。わかった。じゃあ、また連絡して。うん……との、平静を取り繕った声が止む。航空券、無駄になっちゃったな。床に散らしたままのインナーを拾い上げる姿をテーブル上から眺めながら、明日の出発は沙汰止みになったか。と首元のボタンを留めながら言う。うん、ヒメがいったんアイルランド帰るからって、そこで落ち合ったあと一緒に行こうって……と事務的に述べながら、メリッサはインナーを着るでもなく茫然としている。どうしたね。いや……いやだな、って。あんたに触れられた後でこれ着ちゃったら、あんたの匂いがついたまま帰らなきゃいけない……眼下からの消沈した声に、君がしたいことに付き合わされたというのに、まるで汚されたとでも言いたげだな。と返す。うるさい……したかったもんか、あんなこと。全然よくなかった、最悪だった……最悪だった、か。三度も達しておきながらそんな不平を述べられても何ら説得力がないのだが、とまでは言わず、シャワールームを使うといい、とだけ言って電灯のスイッチを入れる。ここまであんたの世話になんなきゃいけないのか……後先考えない君のツケが回ってきたのだ、私は付き合わされているに過ぎない。それに、最後まで面倒を見るのが私の流儀だ。さあ、メリッサ。うん……タオルを受け取って歩き去る背中から、ねえ、ウェンダ。との声。なんだね。やっぱり、違うよ……わたしがヒメにしたい、ヒメにされたいことは、やっぱこういうことじゃないよ。そうか。うん……わたしらは違うんだよ。たしかに似てることは認める。でも、それでも絶対に同じじゃない。それだけは、わかって。私に向けるというより自らを説き伏せるような言葉。君がそう思いたいのなら構わないさ。は、ほんとムカつくなその言い方……エリザベスもいつか愛想尽かすよ。ありえないことだな、私とリズが別れるなど。既にリズには伝えてあるのだ、私より優秀なパートナーが見つかったら捨ててくれと。そのために世界一周してくれてもいい、費用ならここにあるから使ってくれと銀行口座も与えてある。もちろん、リズは一度も離れたことがない。無駄足にしかならないと判っているからだ。すごいな、その自信……私だけではなくリズとの合意に基づく信念であるからには、壊すわけにはいかない。そう……じゃあ、洗ったらもう帰るよ。出立が伸びたのなら、泊まっていっても構わないが。いいよ、エリザベスに迷惑だろ……それに、整理つけたいんだ。ヒメがくる前に、わたしとわたしたちの、色々を。




 もう四年ぶりになるのか。この家、あたしがなんの方途もなしに、スコットランド行の船に乗る金だけくすねて飛び出したこの家。ひとりで暮らすには広すぎるだろう煉瓦造りの住処に、あの懐かしい声が響いた。おかえり。うん、ただいま。

 母さん、執行猶予付きで釈放になるらしいね。言いながら樫造りのテーブルに着くと、ああ、とだけ言ってジャー入りのアップルティーを出してくれた。なにか食べるかね、サラダとスコーンならあるが。いや、いい。親子として久しぶりの会話が、どこか形式ばるのを免れない。ありがと、父さん、ダブリンのとき。うん? あの公演が中止になりかけたとき、抗議の署名を募る運動があって。そのリストの中に、父さんの名前、あったからさ。ああ、と語尾をぼかす顔の表情は、頬まで覆われた髭のせいで明かでない。さすがに、この田舎町まで伝わってきたものな、あの騒ぎは。ふふっ。よそよそしさが逆に愛嬌のように思えて、微笑しながらカップにアップルティーを注ぐ。

 父さん、さ。うん。もともと神学校に行きたかったんでしょ。そのためにラテン語の勉強してたけど、父さんの両親が、そう、だってことがばれて、諦めて語学教師になったんでしょ。そうだよ。ひとつ訊いていい。なんだね。どうして神学校だったの。いや、責めてるわけじゃないよ。でも父さん、ずっと言ってたじゃない、行き場のない人々を救いたいって。ああ、失敗したがね。それも、含めて、知りたくて……なんで父さんは、そういうことをしようと思ったの。

 向かいの席に着く姿の、その双眸そうぼうを見据えながら答えを待つ。なんで、だろうな。テーブルの上で両手を組む。カトリックでもプロテスタントでも、キリスト教のせいで数えきれないくらい悲惨なことが起こってきた、なんてのは、誰でも知ってることなのにな……でもね、パトリシア。一瞬の沈黙。ののち、父は両眉に触れながら話し始める。それでも、まだ、あると思ったんだ。人々を助けるための力は、宗教のなかに。途切れ途切れの構文、でも、胸懐するものは伝わってくる。まだ、すべてが壊れたわけじゃない。まだ、まだ、やってみるべきことは残ってるんじゃないかって……それで聖典の勉強を始めた。途中でどうにもならなくなったけど、それでも、まだ全部がだめになったわけじゃない、と……まだ。そう、まだ。結局あの試みも台無しになってしまったが……すまんな、パトリシア。妻と子がある身でこれを言うのは、本当に父親失格なのだと思うが……それでも、後悔はまったく無いんだ。こんなに決然とした声を、まさか父から聞くことになるなんて。まだ、やれることはきっとある。助けなきゃいけない人がいる限り、やれるだけのことはやらなきゃいけない……と。まだ。そう、まだ。とはいってもさすがに、母さんまでああなってしまっては、もうわたしたちの言葉に誰も耳を貸しはしないだろうがね……と自嘲に傾く頬を前にして、父さん。と投げかける。なんだね。あたしね、日本でしばらく暮らしててね……似た子に会ったんだ。生まれ育った環境に問題を抱えてる、あたしみたいな子。黙して頷く相手に続ける。同じこと考えたよ、父さんがさっき言ってたことと。まだ、やれることはきっとある、やれるだけのことはやらなきゃいけない……だからさ、父さん。うん。あたしが、やってみるよ。やろうとしたこと、父さんがやろうとしてできなかったこと。もし父さんが失敗したんだとしたら、きっと独りでやったから。ほんとに幸いなことに、あたしにはパートナーがいる。同じことを一緒にやってくれるパートナーが。うん。だから、父さん。あたしが証明してみせる。まだ、すべてが壊れたわけじゃないってこと。父さんが生まれたのも、母さんがあたしを産んだのも、間違いじゃなかったってことを。




 ドゥの旦那がこちらの了承もなしに取り付けた、Shamerockファンミーティングのため、ひとつ小道具を発注しなきゃいけなかった。ギターケースをふたまわり大きくしたくらいの、十字架の形をした木箱。その底面に滑走用のローラーふたつ、よしちゃんと付いてるな。じゃあ、ミッシー。この、中のボタン押したら開くはずだから。はは、窒息しそうで怖いなあ。大丈夫、ちゃんと合図するよ。じゃ、さっき伝えた段取り通りに。うん、やるよ。


 懐かしいな、ここで唄ったこともあったっけ。しかしまさか、ダブリンであんな騒ぎを持ち上げたあたしらがこの教会堂でファンミーティングやるなんて。ドゥの旦那の金の力とはいえ、放蕩娘の帰還としてはあまりにもな舞台じゃないか。会場の照明が落ち、スポットライトがステージを照らす。左肩に十字架の上部を乗せ、底面のローラーを床上に滑らせながら、一歩一歩進む。二〇〇人にも満たないファンの歓声が聴こえるが、目線はステージ中央のマイクスタンドから逸らさない。たどり着くと同時に、肩に担いだ十字架を床に下ろし、呼吸を整え、マイクに相対する。

 みんな、いきなりの開催で驚いたろうが、集まってくれてありがとう。あたしの生まれ故郷のゴールウェイで、こうしてみんなと会うことができて、とても嬉しく思う。一通りの挨拶を述べると、客席から少なからず喝采が上がる。さて、始める前に……今日はひとつ、みんなに伝えておきたいことがあるんだ。と述べると、なにー? と調子を合わせるような声が返る。咳払いひとつ、数秒の沈黙を挟んで、話し始める。

 今日からもう、あたしのことをヒメと呼ぶのはやめてくれ。

 水を打ったような静けさ、にひとつひとつ刻み込むように言う。あたしの名は、シーラ・パトリシア・オサリヴァン。アイルランドのゴールウェイで、スタニスロース・オサリヴァンとブリジッド・フィッツジェラルドとの間に産まれ、聖メアリー教会で洗礼を受けた。それがあたしだ。逃げも隠れもしない、みんなと同じようにこの土地で生まれ育った、ただの人間だ。と切り、場内の観客たちの顔をひとりひとり眺める。もちろん、あたしの父や母については、みんな色々聞いてるだろう。ある意味では、あたしを応援してくれることは、父や母にまつわることを見ないふりしてくれる、そういうことでもあったろう。でも……もう、そんな気遣いはいらない。言いながら観客たちの表情を窺う。意を察しがたいという顔、それも当然だろう、しかし。父は、迷える人々を救おうとして失敗した。でも思うんだ、その試み自体は何も間違ってなかったと。この地上には、まだするべきことがある、まだ助けるべき命があると。もちろん、人間ひとりができることには限界がある。父は、独りですべてを救おうとしたから失敗したんだ。でも。さあミッシー、合図だぞ。十字架の蓋が開かれ、中からひとつの姿がまろび出てくる。あたしにはパートナーがいる。同じ理想のために一緒に取り組んでくれる、最高の友達が。言いながら、立ち上がるミッシーと背中を合わせる。客席からの歓呼の声を受け、スタンドからマイクを外して続ける。あたしの名は、シーラ・パトリシア・オサリヴァン。メリッサ・マッコイと出逢っていっぱしの音楽ができるようになっただけの、ただの人間だ。そしてみんなもまた、なんの因果かあたしたちと出会ってくれた。同じように誰かから生まれて、同じように問題を抱えてるやつらしか、ここには集まってはいない。だからみんな、みんなのもやもやをあたしに寄越せ。どんな些細な悩みも、死にたいくらいの絶望も、もう独りにはしない。忘れるな、みんなのもとに暗闇が訪れたとき、その暗闇のなかにあたしはいる。最高のギラギラも最低のドロドロも、全部持ってってやる。あたしは、あたしらは、Shamerockは、その仕事を続けると決めたんだ。あたしらも失敗するかもしれないって、それが何だ。まだ全部をやってみたわけじゃない。だから、みんなの絶望を全部くれ。あたしらは詞と音楽で、それに火をつけて、天高く燃え立たせてやる。そうすれば遠くの奴らにも伝わるだろう、自分は独りじゃないんだと。それがあたしらの、Shamerockの仕事だ。




 ヒメ、じゃない、シーラ。なに。わたしさ、初めて会った時……そう、グラスゴーのゴミ捨て場で、シーラを見つけた時。うん。助けたかった、わけじゃないんだ。ひと見て、あの子ならわたしのしたいこと全部させてくれるんじゃないか、って……ごめんね。なんで謝るんだ。だって、わたし、シーラが言うように正しい人間じゃないよ……自分の作品のために他人を利用してさ、それも行き場がなくて困ってる人を。わたし、なんでも思い通りになる人を欲しがってただけなんだ……それは違……違わない。えっ。違わないんだよ、シーラ。


 そうだとしてもさ。えっ。腰が抱き寄せられ、目の前の右手がわたしの左手をとる。そうだとしても、嬉しかったよ。ミッシーとその家族が、あたしを受け入れてくれて。居場所を、与えてくれて。ヒメの、いやシーラの、初めて見る顔。こんな笑い方ができるなんて。あたしを見つけてくれてありがとう。おかげで今、こうしていられる。右手の細指が存外に力強い。振りほどくことも、できそうにない。これからは、ふたりでいこう。シーラとメリッサで、どこまで行けるか試してみよう。視線を逸らしたまま、でいられるわけもない。電球の明かりだけが照らす室内で、お互いの双眸そうぼうを覗き込む。両手を重ね合わせ、唇がふれる。

 ふふっ、笑うなよ。あたし、これ、初めてなんだ。そう……ごめんね、わたし、初めてじゃないんだ。なんで謝るんだ。そりゃ、謝るよ……わたし、シーラに謝らなきゃいけないこと、いっぱいある。そうか。そうだとしても、お互い様だろ。うん……ごめん、シーラ。愛してる。


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