10 칠월보다 더운
どうしてこう泣くか、と思っていた。この国の人たちは。テレビドラマでも映画でも、なぜこうも屈託なく泣くことができるか。父さんも母さんもあたしも泣く必要がなかった。それより適切な表し方があると知っていたから。父さんはただ死に、母さんは狂い、そしてあたしは音楽に走った。
初めて聴いた音楽はなんだったろうか。もちろん母胎内の鼓動だったろうけども、そんなジョン・ケージみたいな話がしたいわけじゃない。取り上げられた後の世界は音に満ちていて、どこから何を選び取ったら良いのかすらわからない。赤子がやたらと泣きじゃくるのは、あれはこの世があまりにも音楽で溢れすぎていて、怖くてたまらないからではないか。レコード屋のドアを開けるたびに、ああ、きっとこの一部屋の盤を聴き尽くすことはできないだろうな、と詠嘆するように。レコードをディグるときの情緒が生まれたての赤子と同じとは。そういえばピーター・ガブリエルが娘に捧げたアルバム、その収録曲の歌詞にこういう一節がある、“I’m digging in the dirt to find the places I got hurt”, そして彼自身が赤ん坊を叱るように繰り返す、“This time you've gone too far. This time you've gone too far. This time you've gone too far. I told you, I told you, I told you, I told you”.
それはそれとして、あたしは生まれた瞬間に音楽を刻まれた。文字で。ハングルで。
それがおそらく、あたしにとって最初の音楽。
で、な、ほら、北のあれが。将軍? じゃなくて、なんかあったろ、北朝鮮のレストランで働いとったのが韓国に亡命したとか。ああ、あったね先月。それだよお、それもだよお。あたしのひとがやってくれたんだ。苦しんでる北朝鮮の人々を世話してやったのさ。あたしらの見てないところで、おおきな仕事に携わってるのさ。そうだね。あんた気をつけなよ、近いうちにでかいことが起きるよ。でも安心しな、あたしのひとがいるからには間違いない、すべてはいいふうにいくはずさ、なあ。うん、そう思う。なあんだあいつらがバンバン打ち上げたって、こっちにはあたしのひとがいるんだから。最後にはきれいさっぱりかたがつくはずさ。なあ。だね。なあ
いいかげん話合わせるのやめたら。んー、でもいつもと同じ感じだったし。そういうことじゃなくて、あの妄想に付き合うのはあんたの母さんにとっても毒だって言ってんの。いいじゃん、相変わらず元気そうだったし。元気ならいいってもんじゃないでしょ、担当医も症状を昂進させるようなことは控えろって。症状ねえ、そもそもあたし、母さんのあれを病気だって思ったことないよ。じゃあ何。防衛策、みたいな? こわくて耐えがたいことがあって、その恐怖から自分を護るために、仕方なくやってる。それが症状だっての。でもさあ、そんなに悪いことかな、恐怖に負けて妄想の世界に逃げ込むって。悪いに決まってんじゃん。
で、どうするの。と言いながら、スターバックスのカップに取り付けられたスリーブを
そこであたしと
精神病院からスターバックスへの、お決まりのデートコース。だいたいこうして終わるんだ、あたしと
あたしはこの時間が大好きだ。
それにしても「パッとしないままだったら」ねえ。パッとするってなんだろ、ヒット曲でもありゃいいのかな。
みたいなことを考えながら歩く
あ。
これだ。これだろ。イントロのキックとハイハットとリムショットを聴いた瞬間、あたしは全てを理解した。西暦二〇一六年五月、大韓民国、
“Everyone's feeling pretty.
It's hotter than July.
Though the world's full of problems.
They couldn't touch us even if they tried.”
そうだ、その通りだ。偉大なるSW、あなたはこの曲に時限爆弾を仕込んでいたのか。未だに世界はこの通りだ、あたしの生まれた国だけじゃなく、地球儀にべったり重油が塗られたかのような世相だ。でも嘆く必要はない、殊更に憤る必要もない。まずはリズムを感じるんだ、そこから始めるべきだったんだ。そしてこの曲はあたしを選んだ。ただ公園を散歩してただけのやつに、お前が今、この曲で踊れと。
レゲエのリズムに揺られ、内側から衝き動かす力に四肢を任せながら、あたしははっきりと理解した。今この土地に流れている、いや、おそらくはSWがこの曲を作った八〇年代から絶えず流れていたのであろう、大地を貫くグルーヴの存在を。
いまに
── ではあの『Sister Blaster』は、公園を散歩していた時に思いついたのですか?
── 楽曲の着想からして、抗議行動に沸く市民の姿をバックにしたビデオが付けられたのも、当然の成り行きだったのですね。
突如として現れた
自分で自分のインタビュー記事読むの気持ちわりー! 全然違うやつが喋ってるみたいだ! スマートフォンの画面に表示されたWebジンの記事を読み終えた
ね。ねって何が。すっかり有名人になっちゃったよー
藝術の才能だけが無いね。と母に言われたのは一〇年前だったか、おそらく初等教育を終えた頃のこと。
あなたには本当に、藝術の才能だけが無いね。ほとんど無慈悲に響きかねないその言が、私にとってはむしろ慰めになった。そういうとこもわたしに似たんだよ。と、散会後の寝室で頭を撫でてくれた、その気遣いが母にできる最良のことだった、に違いない。わたしの悪いところが遺伝しちゃったんだ。でも安心して、良いところもちゃんと伝えてやったつもりだからね。とは実務的な才覚を謂っていたのだろう、おそらくは。一代で台北最大級のエレクトロニクス企業の社長となり、同じく台湾の大手出版業の社長と結婚して裕福な家庭を築いた母の如才なさは、私にも受け継がれているのだろう。
あの後、私は自己表現めいた一切を捨てた。音楽、文学、舞踏、演劇、服飾、いわゆる藝術的創造性の発揮を必要とする場に居合わせないことを旨とした。それで何の問題もなかった、両親いずれも大企業の社長として生を受けた娘の創造性など、誰にとっても
そんな私が。いやあね、でもこうして実際にお会いしてみると、想像よりずっと奥ゆかしい方ですねえ。なぜこんな場に居合わせているのか。いやわかっている、大学卒業を控えての懇親会だ。といっても多くの学生に開かれているわけではなく、卒業後に親の会社への重役就任が確定している子息たちや、留学先のシリコンバレーで知り合わざるを得なかった英語圏の人々を招いての会合。つまり有り体に言ってしまえば、箔をつけるために最高学府に送り込まれた温室育ちの若者たちの社交場。ありがとうございます、と最小限の返答だけしておけばいい、はずなのだ。専攻は経営学でしたか。はい。東アジアは国際的な市場として力を強めていますからね、頑張っていただかないと。はい。頑張るって何をだろう、母のような辣腕の発揮をか。しかしそんなこと、本当に望まれているか。一〇年前までは確固たるものだった垂直分業の構造も揺らぎ、その反動として遊撃隊のような複合業種が生まれては消えている昨今にあっては、むしろ母を社長とする竹林電脳のような川上部門は、新進にとって目の敵なのではないか。
立食の時間が終わり、少人数での晩餐に移る。ああ、居合わせたくなかったな。あの半導体生産業の子息だ。最初から答えのわかりきった問いを投げて、自分だけがそれに満点の答えを出せていると、会うたびに露骨な自己演出を見せつけてくる彼。話したくないな。しかし大学が同じという都合上、他人として振る舞うわけにもいかない。
わかりません。
えっ?
私にはもう、何もわかりません。
沈黙。
何なんだこいつらは。エレクトロニクス、企業、東アジア、中国、台北、世界、と。その無闇に大きい言い方は何なんだ。そんな言い方で何が言えるんだ、ctrとAのキーを同時に押して、それですべて見遥かしたつもりか。そもそもすべてって何だ。そんな簡単にひとまとめにできるものか。そんなんで世界を云々するつもりか、全体を見たつもりなのか。どうして個物に目を向けないのか。なぜ個物の軋り呻きを、まさに音を立てているその場で聴こうとしないのか。
ひとつだけわかるとしたら、と唇を開いた瞬間、頭の中で線が切れるような音がした気がするが、構いはしない。私にはこの管理経営が早々に破綻するとしか思えません。台北のみならず世界的に、あらゆる生産業で目下の犠牲となっているのは輸送業です。それも非正規雇用の、組合もなく保護を受けられない労働者が信じがたい境遇で使われています。我々の生産物がいかに大層なものであれ、その品をカスタマーに届けるための労働環境が劣悪なまま等閑に付されているとあっては、我々自身も早晩に足元から崩れ去ることになる、と思わざるを得ません。へ、へえ……それで、その問題を解決する方策は。まずは、輸送業のみならず、非正規雇用が多数を占める事業を財団化すべきです。複数の企業が労働者を登録し派遣するのではなく、直接雇用の数を増加させることが必須です。はは、そんなことをしては、労働者のための福祉や休暇手当でコストが……複数の企業に業務委託する経費に比べたら安いものです。加えて委託業者に付加している税までもが削減されるのだから、それらの費用を非正規雇用者の福祉に充当することは現実的にも可能ではありませんか。
言い終わると、まるで異星人でも見るような眼。そうだ、望まれてはいなかったんだ。あなたたちは最初から、私が何かを言えるとすら思っていなかったのだろう。藝術の才能と同様、私の意見など、もともと求められてさえいないこと。じゃあこれで仕舞わせてもらう。もういい加減、黙らせてほしい。
……と、母が言ってるのを聞きました。でも私には、一体何のことなのか、さっぱりわかりません。
じゃあ荷物そっちで、時間あるときにでも
逃れたかった。とにかくどこかへ行きたかった、故郷以外ならどこでもよかった。論文も書きあがり、あとは卒業までの形式的な儀礼を残すのみとなれば、この機会をおいて他にありそうもなかった。それにしてもはるばる韓国までとは、野放図によく決めたものだと、我が身の行いが遅れて訝しくなった。初めて招かれる部屋の、自分とは異なる生活の痕跡が染み付いた
台湾からだっけ。うん。どのへん? ていってもほぼ地理知らないけど。北の方だよ、信義区……大学は隣の大安区にあるけど。へー、学生さんか。うん、といっても年度末で卒業だよ。同居者、いや住まわせてもらうのだから世帯主ということになるのか、ともかく韓国滞在中の宿泊先として間取りを割いてくれた者は、あらゆる意味で私とは別種の人間に見えた。ホテルの個室に連泊するのも味気ないように思われて、Web上のルームシェアリング募集を検索してたどりついたのがこの部屋。
内装を見回すのも不躾に思え、室内を片付けるスポーツウェア姿の世帯主の背中をずっと見ている。と、ごめん換気扇回して、と言われるので、えっとスイッチは。とうろたえるようになり、そのキッチンの下の、右のほう。と言われるがままに押す。悪いね埃っぽくて、掃除くらい前もってやっときゃよかったなー。いや、気にしなくても。真冬に部屋の換気扇回すのもなかなかないよな、この国は初めて? うん。台湾と比べたら寒いんじゃないの。まあ確かに、もっと厚着してきたらよかったかも。と正直なところを言うと、ははっ、とくしゃみのような笑みが漏れた。
おーしこんなもんか。両手を腰に当てて室内を見回す、その姿が一八〇度向き直る。つーわけで、今日からここはあんたの部屋。じゃない、ここもあんたの部屋。あれ? 違うか、あんたもここの部屋、の住人。で、合ってるよね? うん。外国人に母国語の文法訊くなってね、あはは。と笑うのにつられて私の口角も上がってしまう。いいなーあたしも外国語できたらな、いろんな国旅して回れるんだろうなー。そう簡単でもないよ、どこにでも制約はあるものだし……そう? でも韓国語も英語も、あと日本語も? できるってすごいよな、やっぱ良いガッコー出てる人は違うなー。そんなんじゃないよ……そう、本当にそんなんじゃない。年頃の子なら夢中になるはずの何事にも無感覚なまま長じた自分には語学くらいしか残されていなかった、などと言えるわけもなかった。実はあたしの婚約者も語学やってるんだけどね、もしかしたら話あうかもしんないなー。えっ、婚約者。ああ、いつかそいつと一緒になるために頑張ってんだよ。とはにかむ姿で、室内が輝度を増したように思えた。そっ、か。
はい鍵。私の左手をとる暖かい指と、手のひらに当てられた冷たい鍵の感触が、ふいに微睡んでいた意識を澄ませた。あ、はい。とりあえずあたしは今夜帰らないから、この部屋全部好きに使っていいよ、冷蔵庫のもんも。火の始末だけは気ぃつけといて。事務的な説明で私を頷かせると、にいっと次の瞬間には笑顔に変わり、それじゃー着いて一発目のめしにしますかー。あたし一時間後に出るから、一緒につくっとくよ。と言う。ジャージャー麺でいい? とさっそく準備に取り掛かっている横顔を見ながら、うん、えっとそれくらい自分でやるよ、と通り一遍の返事をする。いいのいいの、おもてなしだよ。えーと……
二人で
えっ。
にいっ、と左頬を
台湾の、あんたの国のヒップホップだよ、ヤスミン。
その夜は、
あ。
え、朝。うわ昼前。寝落ちしちゃったのか、しかもオーディオつけっぱなしで。いくら旅路で疲れて寝不足だったとはいえ、初日から電気代の無駄遣いを……あっそうだ食器まだ洗ってない。
お昼どうしよう、自分で作らなきゃ。でも何から手をつけたらいいのか、自炊なんて一度もしたことないのに。ああーどうしようジャージャー麺でいいかな……と思っていると、スマートフォンに通知。見ると、連絡用のWeChatアカウントに「夕方には帰るからゆっくりしといて」と
お帰り。ただいまー、おっいい匂い。とぱたぱた音を立てて駆け寄ってくる。
どうだった昨日のリスト。うん、まだ全部は聴けてないけど、あの
で、今夜はどうするの。仕事、ではないって言ってたけど。と訊くと、うん、そろそろ出た方がいいな。と時計を確認しながら立ち上がる。出掛けるの。仕事ではないけど、ね。毎週土曜に集まる場所があるから。と言いながらコートを羽織るので、クラブとかパーティとかかな、と思っていると、座ったままの私の目を覗き込み、そうだヤスミンも行く? せっかく卒業旅行で韓国まで来たんだもん、いい刺激になるかもよ。と言う。いやそんな私なんか場違いだよ、と即座に謝絶すると、いつのまにかクローゼットから小さな箱が取り出されていた。その中にはうっすら朱色の、細長い棒状のものが。えっ、何しにいくの、遊びにいくんじゃないの? と呆けたように言う私を前にして、
ちょっと火を灯しに。
駅舎を出て北に進むと、すでに数え切れないほどの市民で溢れていた。二月の空の宵闇に、人々の持ち寄った灯火が、点々と、しかし確固として線と結びうるような密度で
午後六時前、光化門広場に
ねえ
当たり前、なんだろうか。一市民として暮らしているだけの人が、祖国の危機と聞きつけて広場に集まる、それはまるでギリシアの──そうだ、民主主義の語源はそもそも、
ごめんこれ持ってて。え。
Wassup! 今週もみんな元気そうだね! 初めて見る顔ばっかだから挨拶しとく、
演説が終わるとともに波濤のような歓声が響き渡り、海嘯のような拍手がそれに続いた。握っていたマイクを離し、片方の手の親指と人差指でハートをつくり、ふたたび群衆の間をかき分けながら
午後六時に予定されていた集会が予定通りに終わると、引き続き複数のルートで抗議の声を挙げる、都心行進のフェーズへと移った。デモ隊の中には、抗議のメッセージではなく太極旗を掲げている者もいる。あれって、保守派の団体なんじゃ……そうかもね。衝突になるのではと不安にかられたが、都心行進は徹底してアジテーションが抑えられ、今回の抗議行動の枢要である「大統領の憲法違反行為の弾劾」にのみフォーカスが絞られていた。国民主権、そうか。言ってみれば初等教育で習う概念だ、しかしそれだけのことを、これだけ実際的に、具体的に、文字通りに行うことができるとは。
午後七時を回り、増え続ける参加者と対峙する警官隊の姿を窺いながら、これ、放水車とか出るんじゃないか……とつい弱気が漏れてしまう。しかし
とすれば、これは。
デモスのクラティアそのものではないか。
一ヶ月後、西暦二〇一七年三月一〇日。大韓民国憲法裁判所は、大統領への弾劾を全員一致で妥当とし、
今になっても思い出す、あの広場に集まった市民たちの、知性とユーモアに裏打ちされた政治的鳴動を。そして強靭なデモスを生み育てた、ソウルという
そう、市民たちの力、だけではない。勝たせたのはこの街だ。この街が勝たせた。
短い間だったけど、ちゃんとおもてなしできたかなあ。と笑う
台湾へと帰る前日に、
が。
その孤児院、純福音派教会の名が掲げられた施設の前で待ち合わせた、
えっ? と
えっ? と私。
何それ、ダサっ! と噴き出したのは
女性同士で、って発想すらない環境で育ったんだろうね、とても二一世紀人とは思えないおめでたさだわ。と
と駆け出す
あのさ、自己満足ならやめてくれない? 氷塊が伝うような感覚が背筋に走る。ボンボンの娘さんがさ、何を勘違いしたのか知らないけどさ。あんたのちっぽけな博愛精神を満たすためのネタに、あたしたちを使わないでほしいんだけど。だいたい何、父親が、って。自分の金ですらないのかよ。私のパパは大金持ちなので貧しいあなたたちを救ってあげられます、ってか。どんだけ思い上がってんだよ。何不自由なく育った金持ちがさ、その金であたしたちみたいな育ちの悪いガキどもにおまんま喰わせてあげますって、それさ、侮辱どころの話じゃないよ。ナメてんだろ。金さえやりゃ簡単になびくと思ってんだろ。そうやってどんな問題も解決してきたろ、お前らみたいなもんは。おい、こっち向けよ。なんとか言えよ、お嬢様。
振り返る。相対する者の剣幕を正面から見据える。そうだよ。ぴく、と片眉が動くのが見えた。自己満足じゃない、なんて言えない。きみが言ったことはすべて正しい。そうだ、私が与えられるものといったら金しかない、それも親から相続したぶんの。でも……だから何だ。怨悪に吊り上がっていた
言い終わるのと、
うん、そういうこと。そうだね。ははっ、そうかも。うん……ごめんなさい。ありがとう。でさ……憶えてるかな、母さん。一〇年くらい前に、
四月から二年の就労ビザを取り、韓国での語学教師としての日々が始まった。交通の利便性を考えて
いつのまにか一年が経ち、久しぶりに
ヒップホップ、は
しかし、真の陥穽はその先に待ち受けていた。
うん、もう下がりはじめたから大丈夫。でもまだ保菌者だから自宅謹慎だけど、来週には会いに行くから。うん、おめでとう、本当に。
スタジオの皆と一緒に撮影したセルフィーを、なにか遠い風景画のように見ながら、ふいに捨て鉢のようになりスマートフォンをソファに投げる。代わりに、枕元の本棚から一冊取り出し、仰臥のまま頁を開く。なつかしい、成人祝いに父からもらった、東アジア近代文学選集のなかの一冊だ。とくに思い出深いこの短編、初読時にいわく言いがたい感興を残し、原語版も入手し、まさかここまで融通無碍な漢文体が日本人の作家によって成され得たとは、と詠嘆を漏らしつつ再読することとなった短編。中島敦の『悟浄歎異』、その頁を眼で追った。
まだまだ、俺は
お前は私だ。悟浄よ、私もこの通りの有様なのだ。
ではどのようで、誰のようであればいいのだろう。行き場のない焦慮を
では、私は。どうする。どうすればいい、居並ぶχορός出場者たちの中で、素人も同然の私が名乗りを上げるには。実力が足りていないなどわかりきったことだ、しかし、だからこそ、私だけの勝ち方を見出さねばならない。と、Yonah客室内のベッドに腰掛けながら沈思していると、どうしたの、と声がかかる。ああ、そうだ、私だけではなかった。私たちの、だった。いや、なんでもない。ただ、ずいぶん時間があるな、と思って。時間。頷いて立ち上がる。
そして指は、おずおずと鍵盤を撫でる。この指が、私のでも
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