11 ἴδιος κοινός


 私は残る。えっ? 出場代表者は私で登録してるから、結果発表まで私が会場にいないと棄権になる。のことが心配なら、あなたはここを離れてもいい。搬送先の病院は訊いたから、今から向かってもいい。

 えっと、なんでそんなに落ち着いてるんすか。そんなことはどうでもいい。よくないっすよ、ねえさんあんなことになったんすよ? いま私たちが思い煩ったところで、の容態が良くなるわけじゃないでしょう。だって、ねえさん死んでるかもしんない……それは医者が判断することで私たちの仕事じゃない。心配なら行っていいって言ったでしょう。いまこの場に、あなたはいなくてもいい。

 ……ああ、懐かしいな。いや、が死にかけるのが、でなく。他人からこうして殴られるなんて中学のとき以来、? いやちがう、私は常に殴る側だったな。殴られていたのは、いつも他の誰か。ということは、初めてなのか。初めて頬桁を殴られた。

 なんすかその言いかたは!! この子のこんな顔は初めて見るな。あたし、はか、あんたがそんなん……ああもういいっすよ、じゃあ行ってきますよ、どこの病院っすか! あ、ええと、今からマップで送る。


 あ。うん。……えっと、勝てたらしいっすね。ええ。なんつうか、こんな誇らしくない勝利があるなんて。まあね……の容態は。見ての通り、脈拍はあるっすよ。心臓は停まってないみたいす。脳波がどうとかいう説明もあったんすけど、あたしよくわかんなくて……そう。

 丸椅子をもう一つ寄せ、伏せっているの横顔と、規則正しく拍を打っている計器の両方とを、漠と眺める。すんませんでした、さっき。傍らでイリチが呟く。はかるんの言い方も相当よくなかったとは思うすけど……さすがに手え出しちゃったのはまずかったって。気にしないでいい。あたし、誰かを殴ったの初めてで……けっこう怖いすね、殴られる側はもちろんっすけど、殴る側も。殴るのが怖い、か。私にも憶えがあるかな、もう十年以上前のことだからよく思い出せない……いや、二ヶ月前にきゅうぞうを殴ったな。あのときはなぜそうしたのだったか、そうだ、彼がかつてにしたことの許し難さから。しかし数年前の行いをいきなり拳でむくいられるとは、彼もびっくりしたことだろう。いま思えば悪いことをした……はかるん。何。あの、なんでそんな落ち着いてるんすかって思ってたすけど、そういや前にもあったんすよね、ねえさん。聞いてたの。はい、以前ちょっと話したときに、そんなはっきりは言ってなかったすけど。死にかけたね、自分で死のうとした。そんときも、側にいたんでしょ。黙って頷く。どんな感じでした、目の前の人がぐったりしてて、もとに戻るかもわかんなくて、そうなるのを止められなかった……って。とても言葉にできるようなものじゃないよ。そう、すよね。でもあのときも、の身体は踏みとどまった。だから、今回もそう。なんでそう信じられるんすか。私がそう信じてるから。……はは、そうっすね、それしかないっすね。身体は、かあ。実際、人間ってそう簡単に死ねるもんじゃないっすね。だと、思う。

 じゃあ、と丸椅子を引く音。お願いします、ねえさんのこと……あたし、あした朝から動かなきゃいけないんで。タトゥーショップ、でしたっけ。そうす、あーもうせっかくの初タトゥーなのになー。もしχορόςでけたとしても胸張って彫りに行こーと思ってたすけど、まさか勝ったのにこんな気持ちになるなんて。ふふ。笑い事じゃないっすよもー。じゃあはかるん……ええ、任せて。はい。ほんとに、すんませんでした。私こそ、言葉が足りなかったから……あなたはいなくてもいい、というのは、そういう意味で言ったんじゃないから。わかってるっすよ。




 痛かった? いや、初めての感覚だったんで痛くはないんすよ、でも二回目からは慣れてきて痛み感じるらしいすね。そういうものなの。あと彫る部位の肉の厚さにもよるらしいす、今回あたしは腕でしたけど、首筋とかだったらけっこー痛みあるのかも。知念さんはどうだった。ちぬんは別のとこで彫ってたんで途中経過きいただけっすけど、全然痛くなかったらしいすよ。なんかチャクラとか、瞑想のあれとか使ったんじゃないすかねー。ふふっ、完成は明日だっけ。そうす、明日もう半分終わらせるっす。あの……ねえさんは? 命に別状はないはずだって。脳死の心配もないらしいけど、今まで通りに目を覚まして意識を回復できるかは、そればかりはわからない、って。そうすか……あーもう、タトゥー途中経過の写真もインスタ載せたかったのになー、今めっちゃχορός関連のコメントばっかつきますもん。大丈夫か、やっちゃったな、とかいって。返信しちゃ駄目だよ。しないすよ、あそうだ、ニセキュウゾウから謝罪のメールみたいなの来ましたよあたしのほうに。無視しなさい。しますけど、あの子もかわいそうすねなんか……どこが? 自分でしたことのむくいを受けただけ、も同じくね。ああ……ドッペルゲンガーに会ったら死んじゃうって、そういう意味なんすかね。それよりは、ナルシスの神話に近いと思うけど。ええ……? えっと、今から明後日のレコーディングの準備しなきゃなんでもう切るす。うん。はかるんはビデオ撮影のほうよろしくお願いしますね、予定通りやるっすよね? もちろん。じゃあ、衣装とか諸々よろしくっす。あのスーツすごい良いんすから、無駄にしちゃだめっすよ。そうね、もしが死んだとしたら、あれを喪服にしようかな。それ冗談だとしても笑えないすからー。はは、じゃあね。はい。


 喪服、か。そういえば着たことがないな、葬式に参列したこと自体一度も。母の死に際してさえ、仕事が忙しいと遁辞を立てて、薄情者、それでも人間か、と北九州の親戚から罵られたのだった。娘か、ですらなく人間か、とは、相当な侮蔑だったのだろう。そしてそれは当然のむくい。逃げてきたのだ、誰かが死にうるという事実から。私が殴り倒して、掻き抱いて、無下に扱って、めぐみ愛してきた人間の肉体は、あっけなくも果敢はかなくなる、という事実から。

 、今あなたは何を考えてる。どうしたら、それを知ることができる。できない、できたとしても妄想になる。あなたの頭の中に這入はいることなどできないし、そもそもあなたは頭だけで考える人じゃないから。それでも、徒事あだごとだと識っていても、ここでかたわらにあることを許してほしい。他にどうしようもないのだから。後になって悔やむことだけはしたくないから。ああ、これを祈りと呼ぶのか。人類はずっとこれをやり続けてきたのか、明日動かなくなるかもしれない肉体を愛するのと同じように。




 All aboard! とおらぶイネスに続き、列車の先頭へと歩いていく。エル・パソからサン・ディエゴへ移動するためだけに列車を貸し切るなんて、やっぱドゥさん金あるな。いや、それともA-Primeって会社が出したのか。国際色豊かな客席の顔を通路両脇に見つつ、それでは出場者の皆様はこちらへどうぞ。とが先導する。

 え、なんもないじゃん。さっきはやけに凝った内装の客席だったのに、列車の先頭に位置するこの部屋には、席どころか窓もすりすらも無かった。呆けているわたしらをよそに、よし、じゃあみんな適当に座って。とイネスが言う。え。とうろたえる間もなくゾフィアは臀部を下ろして脚を伸ばし、イネスはどっかと胡座をかく。のに続いてシィグゥも腰を下ろすので、わたしらも座ることにする。Shamerockも不承不承に腰をかがめるが、Innuendoの二人だけは、座位となった一同を見下みおろして立っていた。

 どういうこと? どういうって、みんなで座って話そうってこと。椅子も用意せず客人を迎えるとは、ずいぶん野蛮な作法ね。いやこれが一番いいじゃん、ちゃんと掃除させたから床は汚れてないし。もしどうしても他より高い目線で座りたいってんなら、ウェンダに跪いて椅子になってもらいな。と言われたエリザベスも、さすがにその通りにするつもりはないらしく、大きく慨嘆を漏らしたのちに膝を折った。傍らに控えていたスーツ姿の女性もそれに続く。

 じゃあ、χορόςラテンアメリカツアー参加者全員の初顔合わせってことで。にんまり笑うイネスから時計回りに、エリザベス、先程ウェンダと呼ばれてた人、ハン、ヤスミン、ヒメ教授キョウジュ、漁火ちゃん、はかる、そしてわたしの隣にゾフィア。いつのまにか室内の一一じゅういち人が円になって座り、その外側にが控えている。最終的にはこの中から優勝者を決めるわけだけど、まあカタくならずに楽しもう。もうルールについて質問は無いね? 簡単に言やぁ、良いライブやって観客に認められろってだけ。あれらが今までやってきたことだから簡単だろ? あれ、なんだ今の一人称。あれって言ったか。あのルール自体はあれが考えただけだから、こうしたらいいだろって案があれば持ってきたらいい。たださっき説明したように、それを通すにはグループ枠の投票で一位を獲る必要があるけどね。やっぱりだ、あれってなってる。GILAffeジラフの翻訳ミスかな。それとも彼女の一人称の使い方が独特すぎてああなってるだけ。よく言うわね、そもそも今回のツアーは実質的に、英国われわれとDefiantの一騎打ち。その賑やかしとして呼ばれただけの三組には、もともと上位に喰い込む余地すら残されてはいないわ。とエリザベスが言うが、こっちの訳しっぷりもすごいな。そのうちおほほとかですわよとかごめんあそばせとか言いそう。そんなのは始めてみないとわかんないよー、と言いながらイネスはタバコに火をつける。あタバコじゃないわ、ジョイントか、ハッパ持ってきてたのか。テキサス州って合法なんだっけ。ぷかーと煙をふかすイネスの傍らで、ちょっと、やめていただけないかしらね、英国われわれの目の前でそんな堕落したへきは。と眉を顰めるエリザベスに、よく言うよ、とヒメが差し挟む。ヴィクトリア女王も麻薬漬けだったろ、自分の国の歴史すら知らないのかこの女王陛下は。とやっつけられてもさすが悠然たる態度で、ギネスとスコッチで憂さを晴らすしかない国民の言うことは、さすが低きに流れるわね。英国われわれはアルコール混じりの尿を路上に垂れることも、ハシシの煙を中空に吐き出すこともしない。真に自律した者はそのような悪癖とは無縁だわ。と返されたヒメも、機嫌を損ねたようですらない。ほとんど挨拶に近いんだろうな、この皮肉の投げ合いは。

 さて、ここらで93に一言もらおうか。え、なんでいきなり。だってGILAffeジラフの標準語で話せるわけだし。どうよ、決勝では色々あったって聞いたけど。あれはまあ、大したことないっすよ。でもあれだ、わたしらたぶん泡沫候補みたいな扱いなんでしょうけど、ナメてたら足下掬われますよ。ここに来るまでに相当新曲つくったんだから、ねえ? とハンに話題を振り、そうそう、第一公演が終わる頃にはハッキリしてるんじゃないかな、東アジアから来たあたしらがどれほどのもんか。あ、第一公演。二週間後のメキシコか、そこで93わたしらがオープニングだったな、とふいに思い出す。こっちだって引き摺り下ろす気満々で来たんですからねえ、とくに前回の優勝者さんとかを。にやつくハンの隣で、あべこべにヤスミンは青ざめる。さっきから片目の端でエリザベスの顔色を伺ってばかりいたが、そんな緊張してるのか。と眺めてるとき肩を叩かれる。吸う? とゾフィアが隣からジョイントを差し出す。え、いや、いいですよ。吸ったことないの? ないし、ちょっとバッド入ったら怖いなと思いまして……へんな心配するんだなあ、というかそんな話し方しなくてもいいよ、それ丁寧語ってやつでしょう? たしか私もイネスも年生まれだから、友達みたいに話したらいい。と笑うゾフィアに、Innuendoの二人もそうだよな、とイネスが付け加える。ああ、タメなのか。というかさっきから微動だにしないなあのウェンダって人。で、吸う? いやーいいですって。と両掌を立てて固辞すると、つれないなあ、と言わんばかりにゾフィアの唇にジョイントが挟まれた。

 パシャ、という音が部屋の片隅から。いい感じに撮れた? と言うイネスに、はい、と微笑で返す。なに、この絵面を用意するためだったん? と訊くハンに、もちろん、歴史的な会談には集合写真が付き物だから。と煙を吐きながらゾフィアが笑う。もういいかしら? こんな茶番に付き合わされて、別個にギャラを請求したいくらいだわ。と起立するエリザベスに、いやあわかんないよ、今回のツアーが終わってこの写真見直したら、色々感慨深いかもよお。と言いながら画面を隣に向けるイネス。そのスマートフォンをわたしにパスするゾフィア。あほんとだ、よく撮れてるな、ちゃんと全員入ってるし。文字通り毛色の違うやつらが座って話してるだけの写真って、だいぶチルな感じで良いな。くだらない……それでは、ごめんあそばせ。あ言った、本当に言った。ウェンダを伴って辞去しようとするエリザベスに、あーちょっとまって陛下、とイネスが呼びかける。何? ここ出て次の車両はもう客室でございますよ。下々の者と交わる心意気をお持ちでしたら、そちらの扉からどうぞ。と恭しいイネスの言葉を受けて、エリザベスは踵を返し、さっきの通り座位に戻った。その様を見てヒメが苦笑する。


 一時間も経たずに、サン・ディエゴ港に到着。停泊していたYonahに乗船するわたしたちの姿を、列車に乗り合わせていたファンたちが見送る。いかがでしたか、初顔合わせの印象は。とが囁く。いやあみんな日本語で話してるのが未だに違和感あるっていうか、言葉が通じて便利だとか以前に気持ち悪さが先に立つというか、『高い城の男』の世界というか……ははっ、わからないでもありません。あのInnuendoとDefiantも、私たちと船内生活を共にするわけでしょう。とはかるが言う。ええもちろん。ただ93、シィグゥ、Shamerockとはキャビンが離れていますけどね。そのあたりについてはおのみちにでも。いやお前の仕事だろ、船員主務だろ。もうワタシの仕事は終わったも同然ですよ、艦長と副艦長も着任しましたし。えっ、いつの間に。ワタシたちがセレモニーに向かってる最中に、ですかね。留守はおのみちに任せていたので。元自衛官、だったよね。ええ、それぞれ艦長はいわばしりマキ、副艦長はおおうらてん。日本人。もちろん。まあ自衛官ならそうだろうけど、なんでわざわざこの船に……もしご興味ございましたら艦長室にお越しください、直接話してくれるでしょうから。どのみちあの人たちの存在に誰も注意など払わないでしょうし。とやけに辛辣なことを言うとの会話に、まあ、そんな暇はないと思うけどね。とはかるが釘を刺す。えっなに。あなた、まだ肝心の仕事が終わってないでしょう。ああ、そうだ作詞……うー二週間以内にけりつけなきゃなー、長いようで短いよなー。大丈夫、きっと何か閃くはず。と励まされても、ふたたび船内の客室に戻るとなると、不安ばかりが募るようだった。はやくもこの客船Yonahは、わたしにとって詞が書けない袋小路の実体化として感じられるようになっていたから。そうだ、キュウゾウを名乗り始める前もそうだったな、最初の一行いちぎょうですら書けなくて……あの時期の自分、もう思い出すことすらできないな。いったいどうやって突破したんだったか……




 朝、目を覚まし、やることがない、わけがない。顔を洗い、歯を磨き、枕にプレスされた髪をかす、のに時間をかけてもしょうがない、出かける予定もないのだし。あそうだこれからずっと船の中か、出掛けようにも手段がないな。このまま一行いちぎょうも書けないままだったら……と兆す予感を洗面台に流し、今日も始める。

 もうミックスは大丈夫っすね。そうね、ライブ用にはこれが最適でしょう。PA機材どんな感じだろうねー。港に接岸してライブ会場にするって話だったから、かなり音が散る感じとは思うけど。そうだな、ビートとベースはきっちり聴こえるようにしないとな。と先のことを慮っても、肝心のことが抜けていた。『Grace & Gravity』のファーストヴァースの書き直しが、まったく進んでいないのだ。はかるも漁火ちゃんもそのことには直接言及しないが、わたしの書き上がりを待っていることは伝わっていた。じゃあ休憩にしましょ、あたしキッチン行くっす。はかるんはいつものコーヒーとサンドウィッチでいいすか? ええ、ありがとう。わたしは喫煙所行ってくるよ。ういっす。閉まる扉の音がいつもより重く聞こえる。早くどうにかしなければ、この重荷を。


 ふう、とタバコも出さないうちから溜息。目の前の大海原を眺めながら、せめて何か着想のようなものが落ちていないか探す……が、あるわけもない。地も海も同じだな、この果てしのなさにおいては。、あなたもきっとこの隔たりの先に……とだらしなくすべる想念を戻さなくては、お、え。おのみちですが。いきなり出てくんなよ、幽霊かよ! 違います。違いますって……違うのは知ってるよ。AIらしい無愛想な言い種に呆れながら、ラッキーストライクに火をつける。突然で申し訳ありませんが、イネス様がお呼びです。え、わたしを……なんで? お願いしたい儀があるのだとか。お時間ございましたら、これからDefiantの客室にお越しいただきたいのですが。えー吸いはじめたばっかなのにな……いやでも、ハッパ吸ってる人たちにタバコの気遣いなんかいらないか。わかったよ、今から行くから。場所どこ?

 わたしたちが起居しているキャビンの向かい側に案内され、Defiantの署名がなされた扉の前に至る。こちらです、の言とともにかいじょうの音が。イネス様、さまがお越しです。おお来てくれたか、入って。の声が奥からするので、言われるままに歩み入る。室内はさすがに昨日来ただけあって殺風景なままだったが、テーブルの上にはコーヒーカップとチョコレートの包装紙が散らばっていた。悪いねいきなり呼び出して、まあ座って。七色に染められた髪の筋をゆわえながら歩み出てくる。えっと、お願いってなんですか。カウチに腰掛けて半分燃えたタバコを吸っていると、いやね、簡単なことなんだけど。にパーティーを主催してほしい。といきなり要件が。パーティー。そう、次の水曜日の夜にさ、こっちのキッチンの隣にある広間で、ちょっとした会食をやりたい。そのパーティーのオーガナイザーをにお願いしようと思うんだ。今回の出場者どうしの交流会、みたいなことか。それはいいですけど、なんでわたしなんですか。そりゃGILAffeジラフの標準言語である日本語を話せるんだから、一番うまく意思疎通が取れるじゃん。その理屈も……脈絡があるんだかないんだか。だからは、そこで出す料理のメニューとか、ちょっとした催しとかを企画してほしい。今から? そう。ええと、今わたし作詞で詰まってて、それやらなきゃいけなくて……作詞? 作曲ならまだしも、それなら動きながらでもできるだろう。むしろ、動きながらの方が捗るんじゃないか。と言うイネスに、そんなこと……と返そうとするが、いやそれも一理あるか、と思い直した。そういえばキュウゾウとしてリリックを書く過程には、フォークリフト運転手として働く時間が挟まっていた。そのせいで中断を余儀なくはされたけど、まさに働いている時に核心のフレーズを思いつくことも、また少なくはなかった……たしかに。だろ、じゃ決まりだ。収録は標準時の午後七時を予定してるから、とりあえず前日までには企画の概要を提出してくれ、おのみち経由で。えちょっと待って、収録? 聞いてなかったか? このクルージングツアーの公演は隔週だから、そのあいだの週は動画コンテンツを配信するんだよ。動画って、どういう。いま船内はこんな感じですみたいな。もちろんツアーが終盤に差し掛かったら各グループのリハの映像とかも出すつもりだけど、今回は一発目だからゆるめでいい。ああ、K-POPグループが公式チャンネルでやってるみたいな感じか……じゃ、そこで配信されるコンテンツとしてプロデュースしろ、ってことですか。そういうこと。無理ではないと思うけど……今週の水曜か。それまでパーティーの準備に時間が取られたとしても、まだ第一公演までは一週間ある……じゃあ、やります。おお、頼んだよ! あれから口出しすることはないから、ぜんぶの好きにやっていい。よろしく! はい。




 ってことになった。面白そうすね、配信かー。それはいいけれど……あなたの仕事もちゃんと済ませなさいよ。わかってるよ、ちゃんと書き上げる。じゃあ、ちょっとキッチンの在庫調べてくるから。アイデア固まったらすぐ戻るよ。

 の背中を見送りながら、まあ、マイナスにはならないだろうと打算する。創作の過程で行き詰まった者にとって、事務的な仕事は作業療法として有効だろうから。が二年間続けた仕事だって、覚醒を促すに必要な過程ではあったのだろうし。と回顧の念を遊ばせながらコーヒーを飲んでいると、あの、ちょっといいすか。と言いながらイリチが向かいのカウチに座る。ん。これ、今のうちに訊いとかなきゃと思うんで。なんでも訊きなさい。あの、はかるんって、ねえさんとデキてますよね。ぶっ、と噴き出したコーヒーがアレキサンダー・マックイーンのシューズにかかる。いきなりなに言うの、とハンカチで拭いながら言う私に、だってはかるんがねえさんを見てるときの目、めっちゃとろんとしてるじゃないすか、いつも。などと続けるので、馬鹿じゃないの、あなたの思い込みだよ。と刺々しく返しても、いやあ、あたしもそうかなって思ってたすけどやっぱ無理っすよ、隠せてないっすよ。『Limbo』のビデオ撮影の合間でねえさんに向けてた眼差しとか、あんなん見ちゃったこっちが勘弁してくれって思うすよ。と言うので、ひとつ大きなため息を置く。あのね、イリチ。幼い考え方だよ、人と人との親しい間柄を、なんでも恋愛関係に落とし込むのは。そんなんわかってますよ、でもこれだけは、この際はっきりさせたいつーか。これから半年おなじ部屋で生活するわけすから、ちゃんと話しときたかったんす。だって、ベッドふたつしかないわけだし……だからあたしこの数日間ずっと制作ブースで寝起きしてたんすよ。ああ、この子なりの気遣いだったのか……だとしても同じ音楽プロジェクトのメンバーを隣部屋に置いて堂々と同衾などするものか。

 じゃあ、はっきりさせようか。と前置きすると、イリチも前のめりになる。たった一度、そういうことがあっただけ。その時期はも傷心から立ち直りつつあって、最後の一押しにつきあっただけ。それ以降は一度もない。と正直なところを開陳すると、本当すか。じゃあたし、ねえさんとはかるんが同じ部屋にいるときにまずLINEで連絡して返信もらってから入るようにするとか、そういう配慮しなくてもいいんすか。と真顔で返される。元からしなくてよかったんだよ、直接話して済ませなさいよって連絡がやたらと多い気がしたけど、そういうことだったの。だって、こういうのってすげえデリケートじゃないすかあ……あのねイリチ、私はそんなつまらない私情を持ち込むような人間じゃない。第一もう、そんな恋愛沙汰に身を焦がすような年頃でもない。そうなんすか。そうだよ、二〇代前半のあなたにはしっくりこないかもしれないけど……それにメンバーどうしの痴情のもつれで解散なんて、音楽グループにとって一番つまらない結末でしょう。私は93をそんな三文芝居に供するつもりはない。

 そう、っすかあー! とカウチの幅いっぱいに四肢を広げて嘆息している。あーやっとかたついたあー、言い出すまでしんどかったっすー。そんなに……? あーじゃあこれからベッドルームどうしましょ。昨日エル・パソからひとつ運び入れてもらったよ。え、じゃあもうみっつあるんすか、なんで言ってくれなかったんすかー! そりゃ、あなたがそんな気遣ってたなんて知らなかったから。まあ、そのおかげで徹夜でミキシング仕事済ませられたんで、結果としてはよかったすけどね。ふふっ、あははは。

 いやーでも、正直言うとあたしもねえさんのこと大好きっすから。知ってるよ、恋愛以外の意味ででしょう。そうすよ、あたしだけじゃなくてちぬんとか安影やすかげさんとかも。この前『Limbo』の打ち上げやったとき、みんなでねえさんのどうかしてるところ挙げあうみたいな流れになったんすけど、最終的にはみんな好きーって話になっちゃったすもん。そう。くぬぎさんなんか俺は好きじゃねーわ、見逃せないだけだわって言ってて、それって好きより強いじゃーんとか茶化されてたっす。ふふっ、若々しくて良いんじゃない。


 で、何が好き? チキンとか肉料理あれば嬉しいかな、立食会だし。グリル系かー、あ、チキンって焼くんじゃなくて揚げるほう? そうそう、スパイスいっぱい効いた感じの。なるほど、ヤスミンは? うーん、あんまり豪華な感じでなくても……冷凍庫に春巻きとかコロッケとかあったけど、そのへんの惣菜でもいいかな? いいと思う。そのかわり調味料には凝っときなよ。オッケー、じゃ、あとは飲み物。ハイト! ビールね、立って喰うわけだから瓶のほうがいいな。あとワインを赤白デキャンタで置いといて、グラスで持ってってもらえばいいか。そんな感じじゃん。オッケーありがと、また訊きにくるかも。おう。お疲れ様。


 そうだな、あたしに関してはあまり肉料理は要らないかもな。あ菜食主義だっけ? そういうわけでもない、単にあまり好きじゃなくて。そっか。その代わり、サラダの量を増やしといてくれ。オッケー。あと、他の人らにアレルギー無いか訊いた? えっ、あっそうか、大事なこと忘れてた。訊いといたほうがいいよ、わたしとヒメには無いけど。あとこの船にムスリムとヒンドゥーはいないはずだけど、信教上の禁食が無いかどうかも一応。そうだね、ありがと。じゃあまた! おう! 頑張れよ。


 とりあえず次の寄港地で、挽肉料理に合いそうなスパイスいっぱい入れといて。はい。それで材料は十分だと思うけど、野菜と果物は新鮮なの使いたいから当日の午前にでも。時間的には余裕あるよね? 問題ないと思います。よし、じゃあ残すところは当日の準備だなー……わたしとおのみちだけでいけるかな。いえ、わたくしのみで十分かと思われます。え? おのみちですが。おのみちですが。おのみちですが。うわあ!! なにそれ、分身できるの!? 分身というか、単に個体を増やしただけでAI自体はひとつのおのみちですが。そういうのできるなら先に言え心臓に悪い! こうでもしなければ、荷の積み下ろしなどの業務がこなせませんので……まあそうか、そりゃそうだな。ところでおのみちさ、はい。艦長と副艦長って何やってるの? 何と申されましても、この航路の安全に支障がないか常に目を配っておられますが……その人たちにも来てもらっちゃだめかな。それに関しては……直接お訊きになってはいかがですか。そうだな、それが一番早いよな。


 失礼します、と艦長室の扉を開けると、制服姿の男性が迎えた。りゅうか。はい、えっと、いわばしりかんちょう……? と誰何すると、あちらだ、と指差す。あ、この人が副艦長か。たしかおおうらてん。どうも、と副艦長の傍らを過ぎ、こちらに背を向けて着席している人影のほうへ歩み寄る。

 あの、いわばしりマキ艦長。と窮屈に呼ぶと、マキでいい。と一言で応えられた。えっ。艦長といって大した役割ではないのだからな。謙遜とも卑下ともつかない言とともに、こちらのほうへ向き直る。外貌みためからして歳の頃三〇か四〇といったところか、もっとも日本人の外見年齢なんてあてにもならないけど。船内に異常か。いえ、そういうわけじゃないんですけど、明日の夜に一番キャビンの広間で立食会やるんで、よければ一緒にどうですか。と用件だけ言ってみる。私が? と短く問われるので、はい。と返す。ふふ、と口の端だけで笑ったのち、すぐに無表情に戻り、遠慮しておく。私は表に出るような人間ではないのだ、君たちだけで済ませなさい。と短く答える。そうですか。まあそうだよな、配信されるわけだしな。と今更のように分別がつき、わかりました、それでは。と辞去しようとしたその時、卓上の灰皿が目に留まった。あっここタバコいいのか、いやよくないけどこの人が勝手に吸ってるのか。キャメル、ですか。と吸殻のフィルターに刻印されているロゴを読み上げると、ああ。と小さく苦笑しながら頷いた。トルコの葉っぱですよね、わたし吸ったことはありませんけど。それでいい、タバコなんかよしたほうが。いや吸うことは吸うんですよ、ラッキーストライクを。やっぱなかなかやめられなくて……と雑談めく室内の雰囲気が、そうだな、私も、忘れられなくて吸ってる。いや、忘れないために吸ってる、か。という意味の取り難い一言で掣肘せいちゅうされた、ように感じたので、ああ、じゃあ、それでは。とやけにそそくさと辞去することになった。


 とりあえず準備は整ったな、イネスにもオッケーもらったし。あとは、まだ一言も話せてないあの……おっ。なんて偶然、向かい側の通路から。ウェンダ、だよね。どうも! ちょっといいですか。歩み寄ると、銀髪碧眼の人が足を留める。うわあ立ち姿だけでなんかすごいな、俳優みたい。あっ日本語で話しかけちゃったけど、この人そもそもGILAffeジラフ入ってるのか。と遅れて不審がっていると、何か。と短く応えてくれた。よかった、通じるみたいだ。あの、知ってると思いますけど、明日はじめての動画コンテンツ配信のためのパーティーがあって。そこのキッチン横の広間で夜七時なんですけど、エリザベスと一緒にどうですか? おのみちに何度か伝言お願いしてたんだけど、返事もらえてなくて……と一方的に言う。わたしより数センチ高い身長の頭頂を眺めながら返事を待っていると、伝えておく。と一言だけ応えてくれた。お、おお、ありがと。じゃ、当日待ってるから! と手を振る頃にはもう背を向けられていた。いやあ初めて喋ったな、わたしが初なんじゃないかあの人と話したの。よし、やれるだけのことはやった。いい仕事したよ




 大丈夫? これ、ちゃんと動いてる? 目の前でハンディカメラを構えているゾフィアに確認すると、オッケー、それじゃこのまま追っていくから、段取通り始めて。と応えてくれた。よし、じゃあいくか。

 Wassup! ヘッズのみんな調子はどうだ? ご存知93の SupaDupaMadaFaka キュウゾウだ。今回は初の動画コンテンツ配信ということで、来週からラテンアメリカを巡るクルーの全員を一室に集めたぞお。それじゃ行ってみようか……

 お、始まってるな。いいじゃんいいじゃん、香港あたりの雑然としたフードコートを意識したテーブルセット。 Wassup シィグゥ! おーキュウゾウ! もう知ってるよな Straight Outta Seoul, 韓国代表シィグゥハン! とカメラが向けられた途端、ハンはカメラアイをマイクのように掴んでフリースタイルを始めた。ゾフィアは苦笑しながら天井あたりを映し出すばかりのカメラを落とさないように支える。聴いたか超ドープだろぉ! と言いながらカメラとの適切な距離を再設定し、ところでシィグゥにはもう一人いたと思うんだけど……と話題を向ける。あーヤスミン? さっき料理取りに行ったはず、あんま映りたがってなかったけど。と笑うので、オッケーシィグゥハンでした! じゃあ一週間後かましてくれよ! そっちこそなオン! と拳を突き合わせて離れる。おっそうだ忘れてたな、我らが93の頭脳と斬り込み隊長、McAloonにKATFISH! 見ると漁火ちゃんはミートスパを口一杯に頬張って話せそうにないので、どうよMcAloon今回の意気込みは! とはかるに水を向けると、ああ、そうね……今回のメキシコ公演のオープニングで、あなたがたは脳天を粉々に砕かれることになる。覚悟しておくことね。と露骨にハードルを上げるので、むしろこちらがたじろぐようになり、オッケーじゃあ次はあっちだ、Wassup Shamerock! とカメラを誘導する。ああ。皿に盛ったサラダを口に運びながら返事するヒメに、Wassup キュウゾーウ! と既に何本か聞こし召した感じの教授キョウジュが絡んでくる。君らはInnuendoとの因縁があるわけだけど。それに関して答えられるのは一つだ、奴らの時代はあたしらが終わらす。とカメラ目線で言うヒメに、はははヒメできるだけ平和にいこうよ名誉革命でさあピースピース! とからになったビール瓶を頬にぐりぐりする教授キョウジュ。オッケーあれだ、平和的宣戦布告ってやつだな! なんだそれはと自分でも思いつつ、最後に映すべき二人の姿を探す。じゃあ最後は、皆さんお待ちかね、Innuen……

 あ、れ。いないな。

 ……doがいるはずなんだけど、ええと、どこかな? 場内を見回すと、カメラを構えるゾフィアの向こうに立っているおのみちが、首を横に振るのが見えた。そう、か。来てくれなかった、か。

 おっけーじゃあ、えっと……と言葉に詰まっていると、プァプァプァプァー、と突然入口付近で音が。あ、そうだ、こっちの段取忘れてた。一目散にDJブースへと走り寄るわたし、を小走りで追いかけるゾフィア。すでに会場には一曲目、シルヴェスターの『You Make Me Feel』がドロップされていた。

 ハン、と呼びかけると、すでに二曲目のスタンバイに入っているところだった。ミッシー来てないけどどうしたの? と苦笑しているので、ああ、さっきずいぶん酔ってて……B2Bバックトゥバックでやるんだよね? そのつもりだったけど、ミッシーが来るまであたしが繋いで、そのあとワンセットやってもらってからB2Bバックトゥバックでもいいよ。んーそしたら長くなるけど……まあ全編アップするわけじゃないからいいか。選曲は? そんなにキメキメでもあれだから、今回はディスコクラシック多めで、ゆるく踊れる感じで。じゃあそれで頼む! おう!

 ゾフィアがようやく追いつくと、そいじゃパーティーの始まりだ! と言いながら正面のカメラを見据える。なに、肝心のやつらがいないって? そんなん知ったことか! いいか、この動画見てるやつらはたぶんInnuendoかDefiantのファンってことになるんだろうが、次の三公演で93、シィグゥ、Shamerockの名をイヤでも思い知ることになる。黙殺しようとしても不可能だ。せいぜいツアーが始まった後で知ったフリすることだな。第一公演は一週間後だ、カボ・ワン・ルーカスでお前を待つ! の捨て台詞を最後に、カメラアイを掌で塞ぐ。

 よし、配信のときはここ編集点にして、DJをバックにパーティーの風景を入れたらいいか。よくやったよ。たとえ今は、世界の大半は歯牙にもかけない泡沫の存在だったとしても。またここから始めるしかないんだ……と思いながら入口にハケると、ハンのDJingがシルヴェスターをUSA・ヨーロピアン・コネクションに繋いだところだった。ああ、モヤモヤしたままクラブに出かけた週末もこんな感じだったっけ、と懐かしい感覚が湧き上がってくる。書いた夜、書けなかった夜、書き損なった夜、そもそも書くことになるなんて思いもしなかった夜、いったいどれほどの夜を明かしたことか。そしてまた夜がやってくる。そうだ、どうあっても逃げられはしないんだ。そしてわたしは、いやわたしたちは、この夜に孕んだものを、惜しげもなく賭けなきゃいけない、分け与えなきゃいけない。名もない夜たちのインクに、いつのまにかみを付けられたからには。


 うん、吹っ切れたんじゃないかな。足りなかったのはこのグルーヴだったのかも。黙々と音を聴いて頭をひねるだけの毎日では、袋小路に陥るのも無理もない。人と交わり語らうことなしには、詞は訪わない。そうだ、これはそもそもから教わったことだったか。高校時代に私の部屋に上がり込んで、爆音でヒップホップの名盤を鳴らしていた彼女から。

 それっすよ。えっ。その眼っすよ、あたしが言ってたの……え、あ、ああ、なに、撮られてたわけじゃないよね。撮られてはないすけど、はかるん自分がどう見られてるかに関しては無神経だなー……な、なに、そんなのわかるわけないでしょう、眼は自分の外側についてないんだから。ぶっ、自分の外側に。あはは、たしかにっすね。なに、そんなに面白いこと言った。いやあ、はかるんらしいっす。


 いいなあ、ハン、ああしてみんなを盛り上げることができて……その気質からして違うんだ、私とハンは……結局、今日もカメラから逃げるだけで終わった気がするし……なあ。えっ、あ、この人、Shamerockのヒメさん。みんながそう呼んでるから名前は知らないけど。なんです、か。とおずおず返すと、私の手元の皿が指差される。さっきからチキンばっか食べてるが、野菜は食べないのか? えっ。いやあ、私あんまり好きじゃなくて……と返すと、ふうん、と鼻息が漏れる。あっ、もしかしてやっちゃった。ちょっと来てみろ。えっ。肩口を掴まれて引っ張られる、と、いつのまにかサラダの前に誘われていた。このな、キャベツミックスだけでもな……と言いながらトングで皿に盛るヒメさん。ドレッシング次第では、と言いながら数種類の容器から少量ずつ足し、皿に盛られたものをドレスアップしていく。同じ野菜でも違ってくるものだぞ、ほら。と皿が渡される。受け取る以外どうしようもなく、腕を組んで見ているヒメさんの前で、ひとくちぶんだけ食べてみる……あ。ああ、ほんとだ。だろ。なんだか、噛むごとに甘い、というか……そう、もちろん糖分過多なドレッシング使ったわけじゃないぞ。そうですよね、それなのに……どうやったんですか。ふふん、特別な組み合わせがあるんだよ。いくつかパターンを教えてやろう。はっ、はい。


 そんじゃ次からお願いねミッシー。おっけー、あー久しぶりだなB2Bバックトゥバック。いちおう今までの曲目メモしといたから、できるだけかぶんないように。よし、じゃー何からいくかねえ……


 まずは上出来、だな。と広間の片隅で腕を組むイネスの傍らで、カメラのスイッチを切る。とりあえずはこれで、最初の三公演では新進の三組にフォーカスが絞られる。撮影ありがとうソーニャ。いいけど、一つ訊いていいイネス? なんだ? 今回のツアーでA-Primeが私たちに課してる役割、つまりInnuendoの対抗馬としてツアーを盛り上げること、だけど……そもそも最初から果たすつもり無いよね? と言ってみると、にやあ、と満面の笑みになり、当たり前だろお。と返された。やっぱりね、あなたの性格ならやりかねないと思ってたけど。せっかく五組も集まったんだから、ごちゃ混ぜにしないと面白くないだろ。お仕着せの強者VS強者のシナリオになんて、あれは最初から乗る気ないね。はは、まあね、私もだけど。

 と話してるうちに、あのお、とが戻ってくる。おつかれ、とりあえず配信用の撮れ高は十分だ。よくやってくれたよ、ありがとう。いえ、ただInnuendoに無視されちゃったのが……気にするな、どうせツアーが始まればイヤでも目にすることになるんだ。その前の着火準備は、今日でしっかり整ったよ。なあソーニャ。と同意を求められ、無言で頷く。

 実際わたしも、と、イネスと私を順に見比べながら話し出す。わたしも今日、やっと覚悟ができました。なんの? とイネスが訊くと、これから対等にやっていく、って覚悟が。と傲然と笑うは、もはや丁寧語では話さなかった。これからよろしく、Defiant。誰が誰に勝とうと恨まないでよ。

 ああ、いい顔だな。まずい、カメラ回してなかったぞ。今の絵、あとでツアードキュメンタリーでも作るなら良い場面になったろうに。とか思ってるうちに、広間のサウンドセットから聴き慣れたコーラスが。オージェイズの『Love Train』だ。ぶははは、いきなり大ネタ! あーだめだソーニャ、無理です、踊ってきます! ととイネスが同時に駆けていく。ははは、どうしようもないなパーティーピープルは。よし、ここからの絵は撮っとこう。私たちが一瞬通じあえた夜の記録として。




 朝、目を覚まし、やることがない、わけがない。顔を洗い、歯を磨き、枕にプレスされた髪をかす、のに時間をかけてもしょうがない、出かける予定もないのだし。抜けきらない昨夜の酒はすこしの頭痛として、だいじょうぶ始発で帰るからみたいなつらで居残ってやがる。それでもいい、好きなだけ居たらいい。この身体を引きずって生きる間は、月並みな物憂さから逃れられはしないのだから。そうだ、いくつもの朝もまたそうであったように。自分で死のうとして死ねなかったときも、分身を死なそうとして死にそうになったときも、変わらず目覚めの朝はやってきた。何も書き込まれてない白紙ではなく、昨夜の狂想じみた痕がいくつも刻まれた、打ち身と切り傷で出来た灰色の朝だ。夜のわたしがことづけけた遺言を、朝のわたしは聞き取ることができるか。物狂いのように孕んだ一晩の、達成ではなく途絶を、引き受けることができるか。


 まだ二人が眠る部屋の中で、一枚のルーズリーフを前にする。この時間、わたしだけが言葉に取り残される、ことを許される時間。来てくれたか言葉よ。何度となくわたしを打ち砕き、そしてまた作り直してくれたあなたよ。対向vertereする言葉verseよ。今回もあなたは、手加減などしてはくれないのだろうな。それでいい、今はただ迎えよう。わたしが憑代よりしろとして相応しくなければ、何度でも撃ち倒し、そして痛みへ導け。さあペンは持ったぞ、かかってこい。


「今日も受難のみ 救済なし

 そうだ 何も言わずにただ苦しめ」




 大歓声、といっていいだろう。ラテンアメリカツアー一発目、まさに劈頭を飾る93の新曲は、ツアーの開幕を待ちに待ったメキシコの観客たちに熱狂をもって迎えられた。もちろん、この国での93の知名度など皆無に近いのだろう。しかし『Grace & Gravity』、デフトーンズとトゥールが結婚したようなギターリフに、精緻なコーラスワーク、そして雄弁なラップの三つ巴から成るこの曲は、初めて直面する人々への名刺代わりであると同時に、既に厚い支持を寄せていたファンたちにさえ新機軸として記憶されることになるだろう。もちろん、これくらいやってくれないと困るが。

 いいじゃないか、アジアの無名アーティストをオープニングに据えるのは不安もあったが。ああ、ハッシュタグでのツイートも軒並み高評価だ。と、さっきまで不安げなおもちだったA-Primeのお偉いさんたちがはしゃいでいる。だからあれに任せたら間違いないって言ったっしょー? いやあ申し訳ないイネス、疑っていたわけではなかったが。それじゃ今回の公演、最後まで見て確かめてってよ。あんたたちのDefiantがどれほどのもんか、ってこともねえ。




 五組の全曲目が終わり、観客全員による投票が始まる。先ほどまで港の特設会場に集っていた群集が一斉に退き、チケット半券に記名する原始的な投票を一斉に行う姿はなかなか壮観だが、なるほど、この方式なら終演後に効率よく退場させられるわけだ。

 さあ、結果発表──の音声とともに、Yonahの船体横に取り付けられたLEDモニターに結果が表示される。五位:シィグゥ、四位:Shamerock、三位:93。うおーあたしら三位っすよ! うわーいいとこまでいったな! と燥ぐ二人も、二位:Innuendo、一位:Defiantの表示とともに顔色を変えた。おーもう勝っちゃったじゃんDefiant! なんすか、あの女王陛下そんなすごくないんすか? おそらく、イネスのルーツのひとつがメキシコシティにあるから、というのが大きいんでしょうね。えっそうなの? プロフィールに書いてあるし、フルネーム見たら一眼でわかるでしょう。おーこれでまたわかんなくなってきたっすね、ていうかあたしら現状三位すよ、すごくないすか? いやー悩みに悩んで書き上げた甲斐があったよ。ええ、あの冒頭の詞が最後のピースだったのかもしれない。「上昇と下降」……このテーマに見合う曲にできるか、私も不安だったけれど。そっか……ありがとう。ようやくスランプ抜けたかなー、もう何度目のスランプかわかんないけど。ふふっ。あははは。




 そうすれば、あなたもすぐにわかってくるでしょう。そこで何が起こりうるのか、自分は何をすべきなのか、が。

 あの手紙を受け取ったときは意味もわからなかったし、りゅう本人を前にしてもいまいち感覚がつかめなかったけれど。母よ、今になってわかってきた気がします。アナタが彼女をこの航路へ誘った理由が。

 とりあえずは晴天。さしあたっては波もなし。それではワタシは、忍耐強く見極めるとしましょう。この先に何があるのか、何をすることになるのか、そして旅路の果てにアナタのもとへ辿り着いたとき、りゅうは何を持ち帰ることになるのか、を。


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