09 2 U
己の欲する所を人に施せと言い、その一方で、右の頬を撃つ者に対しては左の頬も差し出せと言う。矛盾しているようでしていない。殴らせたければ殴らせたらいい、というより、殴られたいのだ、どちらも。殴られた者が
隠者としての生は、宗教的なるものの体制を必要とする。民草の存在を登記し葬送する役割を担う、確固たる基盤が不可欠となる。だからたぶん、二一世紀においては至難なのだろう。隠れて生きたい、名誉も栄達も捨てて浮世の憂さから逃れたい、そうできたらいい。しかし、「こんなことがあっていいものだろうか。この老いた聖者は、森のなかにいて、まだ何も聞いてはいない。神は死んだ、ということを──」。
スタニスロース・ブレンダン・オサリヴァンの名がゴールウェイの金貸したちの間で嘲笑の的となったのは、ちょうど一〇年前のことだ。身寄りのない子どもたちを引き取る、いわゆる救貧院の設立。およそ二一世紀にその場を得るとは思われない理想を、父は抱いてしまった。血縁者に見棄てられた子どもたちに居場所を、ひいては年齢関係なしに生活が困難となった人々に支援を。その善行への不可解な情熱は、おそらく父自身の生い立ちが燃料となっていたのだろう。親類同士で交わって濃くなった血が、あべこべに家族のつながりから遠ざけた。外に家族を、私の血のうえでなく。という呻吟は、あの寡黙な唇から常に漏れ出ていた。これはあたしの恣意的な回想とは思われない。事実、血から逃れんとする
救貧院設立のために募った金は、得体の知れない不動産業に持ち逃げされ、父は麗しい名目のもとに金をせびった者として乞食以下の侮蔑を受けることとなった。どこから降って湧いたのか、そもそもスタニーは妻以外の女性と交わるのを正当化するためにあんな美名をでっちあげたんだよ、とかいう噂もまことしやかに、というか事実として流布され始めた。父はそれを否定しなかった、するわけもなかった。自らの血の外側に別の
父は失敗したのか。
失敗したのだ、と母は言う。
聖歌隊といって、なにも讃美歌のみを唄うわけではない。およそ世俗化された
あれはたしか日曜学校ではなく、父から直接教わったはずだ。いくら同じカトリックとはいえ、十字架のヨハネの著作を原文で引用するような者は、ロマンス語の教師として生計を立てていた父くらいだった。曰く、「神は、イスラエルの子らが、エジプトから持って来た小麦粉が全くなくなってしまうまでは、マナという天上の糧をお与えにならなかったのである」。これを平然と言われたときはびっくりした。真っ当な思考の筋道として、神は飢えた民を救うためにマナを与えたと思っていたから。「これによってわかることは、すべての事柄を捨てきらなくてはならないということである。なぜなら、地上的な食物に好みを求めているような口には、天使の糧は合わないからである」。天の領分に
だから唄えなくなったのだ、あの歌を。あんなに愛したあの歌を。『飢えたる者に汝のパンを分ち与えよ』、この題を思い浮かべるだけで、父の挫折の顛末がまとわりついて離れないから。だから求めた、もっと別の歌を求めた。シニード・オコナーがボブ・マーリーの楽曲をアカペラで唄った後にローマ教皇の写真をズタズタに破り捨て「あなた自身の敵を知れ」と叫んだ、のと同じようにはなれなかった。彼女自身の『War』はあたしのとも、当然父のとも違っていたろうから。しかし『Nothing Compares 2 U』、プリンスのさほど有名でもなかった楽曲をシニードの歌唱が蘇らせたあの出来事は、あたしにとって無視すること能わなかった。歌というより出来事だ。音楽は、時空や人種を容易く超えて、思いもしない相手に伝わってしまう。では唄い手として音楽を担う以上は、新たな歌の到来に油断なく備えていなくてはならない、まさにそのこと自体を学んだ。数年前に突如として自殺を選んだクリス・コーネル──彼にもアイルランドの血が入っていた──が、まさにこの曲を死の直前にカバーしていたと知ったときは、いささか索漠としたけども。しかし作曲者たるプリンスが死んでも、この歌は他の誰かに担われ続けている。であるとすれば、この歌は誰のものでもない、ということにならないか。より精確には、誰のものでもあるが誰のものにもならない、かけがえないのにいくらでもかわりがきく、そういう歌だということには。そもそも歌とは、もとからそういうものではなかったか。
考えてばかりではしょうがないので、唄うことにした。あたし以外の誰かが作った歌を、他の誰かではいけないようなやりかたで。他の誰かがすでに準備していたが、しかしあたしなしでは起こり得なかった、そんな出来事が在りうるか試そうと思った。教会堂に居場所がなくても、パブで、クラブで、そうでなければ路上で、いくらでも唄いようはあった。そんな野放図もない修業に身を窶すようになった娘を、母が許すはずもなかった。
父の一件依頼、ということになるのだろう、母は、ブリジッド・オサリヴァンは、熱烈な活動家として自身を再成型しはじめた。キリスト教伝来以降の信仰をアイルランド人の根源的な魂のあり方として位置付けんとする運動は、「
その猥褻な歌をやめなさい。いやだ。二度とは言わせないで、今すぐ唄うのをやめなさい。やめさせたいならこれがどう猥褻なのか説明して。できなければ母さんにやめさせる資格はない。なにが資格なもんか、これ以上うちの家名を落とさないで。家名って、どこにでもいるだろオサリヴァンなんて。だいたいこれ父さんの姓で母さんのじゃないだろ。口だけ達者に育ってしまって! あんたの歌がそんなにすばらしいのなら、もっと別のことに使えるはずでしょう! じゃあ辻々に立って説教でもしようか、終末は近いとか言って。それとも映画みたいに卑猥な言葉でも捲し立てようか、そうすれば母さんも安心して悪霊憑きだって言えるだろ。何を……でも残念、あたしはそんなこと絶対にしない。あたしは汚い言葉を吐くだけの安っぽいやつじゃない、もっと上手い使い方があるって知ってる。いい加減にしなさい。いい加減にしてほしいのはこっちだよ、猥褻、猥褻ってさ、母さんが鏡としてあたしを見てるだけだろ。自分の負い目をあたしのせいにすんな。
という際限のない口喧嘩は、
その始終を背中で聞きながら、父は何も言わなかった。
草食動物は肉食動物より獰猛である、って事実を身をもって実感するな、ミルクとサラダで一週間喰い繋げたとは。実際草食動物ってすごいよな、草だけであんなタンパク質を生成するなんて。体つきだって精悍なもんだ。馬に生まれたらよかったな。馬丁の子として厩舎を継ぐだけの一生なら……なんて、そういう境遇を生きている人にとっては自堕落な夢想にすぎないんだろう。しかし馬って、どうしてこうファミリーロマンスと相性がいいかな。ロブ・ゾンビも『ハロウィン2』で使ってたし。白い馬は抑圧された感情の象徴、とか何とか……フロイト読んだことないからわかんないけど、あれもなんかの引用かな……そういえばトーリ・エイモスも『Winter』で白い馬と父との思い出を関連づけてたけど、あれもそういうこと……わかんないけどアメリカ特有の筋がある、気がする、ファミリーロマンスと動物関連のファンタスムって、インチキ精神分析の流儀なら無敵って感じするもんな……でもあたしの場合はそうじゃなくて、もっとそう、フランシス・ベーコンが言ってた、馬丁と関係を持つようになって初めて父親への性欲を自覚した、みたいなこと……父さんの両親もそんな感じだったのかな、たまたま相手が同性じゃなかっただけで……ああいやしかし、そんなことより腹が減った。もう思い切ってその辺の草でも喰うか……いや雑菌でやられて下痢して死ぬだけだな、ああなんて人間は弱いんだ、どうしてこんなのが霊長とか名乗ってるんだ……もっと仮借ないものだけが生き延びる世界ならよかった。馬に生まれたらよかった……
だから冬モノとして勝負かけるには薄すぎるでしょって言ってるのよ。えーじゃあモコってふくれていいのかよジャンパーみたいな感じでー? それじゃうちから出さなくていいじゃん、そのへんの港湾労働者向けの店でいいじゃん。港湾労働者をバカにするんじゃないの。あいた、アニー
ちくしょー、いくらジョー
お。
珍しいね、女の子がゴミ漁りって。よっぽどワケありか、家出娘かね。まーわからないでもないよ、家に居場所がない感じは。でもわたしここまで追い詰められたことないから知ったようなこと言っても説得力……
わ!!
と、驚かれる。背後に立たれるまで気付かなかったのか、よっぽどだね。あーそんなビビんないで、と声をかける間に、脇をすり抜けて走り去ってしまう。って、その繊維の音。ゴミ捨て場に目を戻すと、街頭に照らし出された宵闇に、うちが昨日廃棄したコートの試作品が散らばっていた。
ちょーっと待って!
呼びかけると、足を留めてくれた。のですかさず、叱ろうとか通報しようとかじゃないから、と
きょとん、って顔なんだろうねこれは。痩せこけて表情がよくわかんないけど、いい……の。と漏れた声は聞こえた。もちろん、まだ九月なのに寒いもんねー今日。ああ……誰にだってあったまる権利はあるよ。ただ、これからうちに上げるためには、ひとつ条件がある。え、なに。バラバラにしたゴミを、片付けて帰ること。あ……ああ、うん。よし、じゃ一緒にやろ。
なんだこいつ。
ただいまー。ゴミ出し間に合った? んー、まだ収集車きてなかったよ。あとさ父ちゃん、ん? ちょっとゴミ捨て場で見つけちゃってさー、相談なんだけど……まーた拾ってきたのか、犬? いや、人間。人間? なんか猫っぽい人間。あー……攫ってきたわけじゃないよな? んなわけないよ、いて、寒そうにしてただけ。うちに上げていいでしょ、大丈夫だよ犬猫より言うこときくよー。しょうがないな……責任持って面倒みろよ。ありがとー!
なんだこの会話。
ゴミ捨て場の裏にある大通り、に面したショーウィンドウ、の向かい側の家。そこに誘われるままに、えーなにまた拾ってきたのミッシー! 今度は犬じゃないからいいっしょー? つって人間連れてくるのも何度目よ。大丈夫だってちゃんときれいにするからー。と、あたしを話題にしつつ置き去りにするような会話が左右でピンポンする。いま風呂場ジョー姉? うん、あいつ怒らせないように気をつけなさいよ。わかってるってー。と、洗濯機と洗面所のある部屋に通される。
わ!! と、シャワールームが開かれるとともに甲高い声が。ノックくらいしなさいつーの! ごめごめ、あジョー
えっと……これ、助けられたのか。そういうことになるよな、手荷物もなしでスコットランド行の船に乗っただけのあたしを、助けてくれたのか、あいつ。とあいつの家族。いやまさか、手の込んだ人攫いの手口かもしれない。あるいはテキサスの食人一家とか、ジェイソンとかフレディとかよく知らないけどそういうのかもしれない。まずいのかな、逃げたほうが。でも逃げるってどこに、そもそも
さあ、これから肉料理の材料にされようが知ったことじゃない。ひとっ風呂浴びてやったぞ、煮るなり焼くなりするがいい。ほとんど捨て鉢になり、太々しく見えるようにドアを開け放つと、おー上がった? こっちこっち、ちょうど準備できたとこだよ、と招かれる。えっと、食卓。こんな大家族……七人? が一堂に会しているテーブルに、あたしも通される。名前なんていうの? えっ。訊いてすらいなかったのかよ。ごめんねーこの子こういうとこあるから、いきなり話しかけられてびっくりしたでしょー。ええ、まあ……名前は? えっとシーラ、シーラっていいます。じゃシーラ、動物の肉喰える? 見ると、鍋の中でシチューが煮立っている。なんの肉……? ビーフシチュー。ああ……それ、なら。と応えると、馥郁たる湯気立ち上る皿が、目の前に配膳される。
それでは、と手を取られ、食卓の一同が輪になって手を繋ぎ、目を瞑っている。気後れしながら目を遊ばせると、部屋の高いところに飾られた十字架と、簡素な肖像画──ジャン・カルヴァン──が目に入った。あの、と声を上げると、なぁによ急にぃ、とジョー
どうだったあのシャンプー? えっと、よくわかんないけど、くしゃくしゃになってた髪がすーっとしたというか……そうそう、薬効のために作ったやつだからね、ジョー姉プロデュースの。あの人が作ったのか? アパレル以外に美容関連もね、まージョー姉の企画でうちのブランド成り立ってるようなもんだから。と息を漏らすミッシーを前にして、一体何から訊いたらいいのか。あの……ん、なに? なんというか、びっくりした。見ず知らずのあたしを助けてくれたこともそうだけど、こんな家族って、ちょっと見たことなかったから……たしかに大家族だもんねー。いや、人数じゃなくて……雰囲気、というか。そう? どこもこんな感じじゃないの? すくなくとも、あたしの家族とは全然違う……から。そっか。まあ、家族のあり方なんていくらでもあるし。
二階にあるミッシーの部屋は、あたしと同年代の子のそれと比べてとくに変わったところもなかった。片隅に
さっき父ちゃんも言ってたけど、居たいだけ居ていいから。いや……そこまで世話になるわけには。いいよ、誰だって助けられて生きてくんだから。でも、あたしの素性すら知らないのに……大丈夫だって、人ひとりぶんくらいなんともないよ。逆に言えばさ、わたしらが今日したようなことを、シーラも誰かにしてやればいいんだよ。借りたから返すんじゃなくて、与えられたから与える、みたいなさ。でしょ? うん……あれ泣いてる!? いや泣いてない、けど……そっか、こんな家族もあるんだな。うん? あたし、自分の生まれたとこしか知らなかったから……こんなのもアリなんだなって。アリに決まってんじゃん。うん……ありがとう。
でさ、シーラ。なに。ちょっとお願いがあるんだけどお……と悪戯っぽく微笑むので、なに。やれることならやるよ、家事手伝いでもなんでも。と応えるが、いやそういうことじゃなくてさ、とファイルが取り出され、一枚の書類が示される。デザイン……画? そう、今わたしが作ってるやつなんだけどさ。えっ、服のデザイン、もやってるのか。そう。音楽は自分でやりたくて始めたけど、こっちはもう生まれた時からって感じでね。なにしろ家自体がファッションブランドだから。言われて、ショーウィンドウに
デザイン画を見ると、裏地の素材に関していくつか付箋が貼られている。防寒性を保ちつつボディラインがキレイに出るコートにしたいんだけどさー、ジョー姉はそこに綿入れろって言うんだよ。そりゃあったかくはなるだろうけど、せっかくのスマートなデザインが台無しじゃん? 聞きながらデザイン画に目を走らせると、確かにこの流線の内側を綿で押し上げるのは好ましく思われない。そこでスタイルと防寒性の両方をキープしたいんだけど、具体的な改善案なしではゴーサイン出せないって……そこでさ! と急に前のめりになり、あたしの手を取る。お願いだよーシーラ、モデルになっておくれよ! シーラすごい痩せてるでしょ? うちの姉ちゃんたち結構ずんぐりしてるからさ、あんま実感として役に立つアイデア出てこないのよ。はあ……そういうものか? だからさ、シーラの身体に添うように考えてみたら、なんか突破口になるんじゃないかって……いい? そりゃもちろん、いいけど。ありがと! 言うとともに、じゃあ採寸から始めよう、はい立って立って、と囃し立てる。まず両腕広げて。こう、か。そう、動かないでねー。
うわーほんと細いな……ちゃんと肉喰ってる? いや……菜食主義? そういうわけでもないけど、ミルクと野菜だけで満腹になるから。金かからなそうでいいなーそれ、と言いながら新しい用紙にペンを走らせている。で、これなんだけどさ。さっきあたしがゴミ箱から持ち去ろうとした試作品が当てられる。これ、まだ綿入ってないって言ってたな。うん、このままのラインをキープしてさあ、と言いながらあたしの腕を袖に通す。いかに膨らませず
何となく言ってみただけで、助言になってるかどうかすらわからない。が、ミッシーはあたしの身体とデザイン画を交互に何度も見比べたあと、自分の顔を両手で押しつぶすように覆い始めた。だ、だいじょうぶか? なんで気付かなかったんだあ……え? そうだ、自然に、自然に学ぶべきだったんだ……綿を入れて暖かくする必要なんてない、最初から出来上がってるものを目指すべきだったんだ……それぞれ体の流線は違っても、
ありがとうシーラ! と今度はあたしの両手を掴み、ちょっとごめんだけど時間ちょうだい、今ひらめいたやつ全部起こすから! それまでちょっと、ちょっと待ってて! 言うとともにデスクに飛びつき、ラップトップの電源を入れ紙の上にペンを走らせる、その不思議な熱を迸らせた右頬を眺めていると、なあ何か手伝えることあったら、と一応気遣うのさえ野暮に思えた。のでベッドに寝そべりながら、一心不乱に紙上の織物に取り組んでいる、その横顔を見守ることにした。
つまり『クライング・ゲーム』って、トランスセクシュアルよりはむしろ元IRAの男と黒人兵士との企まざる同性愛を描いた映画と考えたほうが……あれ、あ、朝。うわっなんて夢見てたんだ、なんで何年も前に観たあんな映画のこと思い出してるんだ。ジョー姉のあれのせいかな、よっぽどショックだったのか。それって明らかに無礼だけど、でも男性の裸見たの初めてだったし、いや男性じゃないし……あれ、ミッシー。起こさないでいてくれたのか、あたしにベッド貸しといて昨夜どうしたんだろ。とか思いながら身体を起こすと、デスクの上に数枚の紙が散らばっている。覗き込むと、あれほど試行錯誤していた裏地の欄に、えっと、読めないけど何か合成繊維の名称らしい記述がエクスクラメーションマークとともに踊っていた。そしてもう一枚には、修正前の面影を残しつつ全体の造形がより明瞭になったデザインが。そっか、突破、できたのかな。
一階に降り、おはようございます、と誰にともなく言ってみる。おはよう、と数瞬遅れて返事が。声の方へ向かうと、昨夜ティム兄と呼ばれていた男性が、バルコニーで洗濯物を広げていた。といっても、ほぼ昼だけどね。あっ、と広間の時計を見る。ほんとだもうすぐ正午。うわあそんなに寝てたのかと遅れて恥じ入るようになり、よく眠れた? との言葉にも、え、まあ……とへんにくぐもった返事しか。その姿に苦笑されつつ、あの、ミッシーどこいきましたか。と訊いてみる。あいつはブティックでジョーと打ち合わせしたら、いつもの音楽スタジオじゃないかな。デザインの仕事だけじゃなかったのか……スタジオって、どのへんの。ジョージ・スクウェアかな、あの辺にミュージシャン
と歩き出したはいいものの、徒歩でくまなく探し回るのは無理がある。街路に掲示されている地図を頼りに歩いていると、ランチタイムだけあって幅広い年齢の客たちでパブが賑わっている。お、なんだあれ、生演奏。アイリッシュトラッドか。昼から飲むなんてずいぶん
あの。いらっしゃい、おひとり? いや、あの、表の看板見たんですけど……と言うと、店内の好好爺たちが一様に色めき立つ。あら、あんたみたいな子が? いけるのかね? 俺たちゃブラーとかパルプとかはやらんからねえ、とフィドルを抱えた爺さんが言うと、カウンターの客たちも釣られて笑う。いやそっちもやれますけど……そうだな、『Róisín Dubh』とかいけますか。と言ってみると、店内は一瞬で水を打ったように静まり、あんたそんな曲知ってんのかい? 珍しいねえ若いのに! と沸騰したように声が上がる。まあ、いちおう唄えると思います。よし、そいじゃあ、と爺さんがフィドルを構えると、テンポはどれくらいかね、と言うので、右手で二拍子を取って見せる。よし、じゃお前さんがたいいかね、お若い挑戦者さんのお手並み拝見といこうじゃないかね。
んふー、スコーンもおまけしてもらっちゃった。いいもんだな、挑戦の場で唄うってのも。そういえばあたし、歌を認めてもらったのって初めてか。教会やパブで唄ったことはあるけど、誰かにフェアなジャッジされたのって……そうして認められるのって、悪いもんじゃないな。
そうだえっと、ミッシー探してたんだった。ほんとにジョージ・スクウェアって音楽街だな。パブもクラブもとくに線引きしない感じで、あ……「二〇世紀ロックンロール・オープンマイク」。一時間ごとにお題が違うのか。今やってるのは……
えっじゃあ家出たときに電話してよ! あそっちの番号渡したの? まだ来てない? じゃあ大丈夫か、とはならないっしょ。土地勘ない街でさー面倒事にでも巻き込まれたらどうすんの。そりゃちゃんと面倒みろって言われたから当然じゃんー。じゃ見つけ次第帰るから。はーい。
まいったね、今日はずっと家にいるかと思ってたけど。思ったより活発な子なのか、まあアイルランドから家出してきたくらいだし。見つかってくれよーまだお礼も言えてないんだし……って、あ。
たのむよー次の枠も出てってよ。いや、さすがにもう日が暮れるし……わかったじゃあさ、うちで定期的に唄ってくれないか? 毎週八〇年代ナイト開催してるからさ、そのシニード枠に。シニード枠とかあるんだ、でもあたしいつまでここにいるかわからないし……あ。
こっちに気付いてくれたようで、大きく手を振ってみる。と、ポケットに突っ込んだ手を片方だけ抜いて応えてくれた。とりあえずフライヤー渡しとくから、気が向いたら連絡して。あー、はい。じゃ、ほんと最高だったよ、シニードが生き返ったかと思ったよ! はは……いや、シニードはまだ死んでないでしょ。あ間違えた、プリンスが生き返ったかと思ったよ! ありがと、じゃあまた。
階段の下で待ちながら、えーなにコンテスト荒らし? とくすぐってみる。まあね、一回だけのつもりだったけど三枠制覇しちゃってさ。なんの部門? 八〇年代シンセポップと、九〇年代ガレージロックと、〇〇年代ディーヴァ曲。やるねー、ヒップホップイズムじゃん。いや、どこが? オープンマイクでのし上がるのはヒップホップイズムだよ。そうなのか……あそうだミッシー、と言いながらジャージのポケットから何か取り出す。これ、昼に入ったパブのコンテストで優勝して貰った賞品。やるよ。おーありがと、ていうかパブでもやってたのか、どこの? 「ア・スペル」っていう変な名前の。あそこか、爺ちゃん婆ちゃんばっかの店でしょ? よく入ったねえ。そりゃアイリッシュトラッドは得意だから。と笑う顔を見ながら、シーラ、どこかで歌やってたの? と疑問の沸くまま言う。ああ、まあね、物心ついた時から聖歌隊で。でも今日唄ったのは好きで覚えたのばっかだよ。そっか。ミッシーはどこでなんの仕事? ああ、イングランドのラッパーがこっち来てたから、新しいストック渡して、その中からどれ使うかの打ち合わせ。ってつまり、楽曲提供の仕事。まあね。すごいな、その
ぎりぎり日没前に帰宅すると、キッチンではティム兄が夕飯の支度を整えていた。おかえり。ただいまー。すごいよシーラ、クラブのコンテストで勝ちまくってたよ。え、オープンマイクってやつ? 日曜はよく看板見るけど。そう、それで「ア・スペル」のステーキ・パイ無料券もらったって。あの店の! 俺も何回かしか入ったことないけどな。まあ、たまたまですけど。ほい、これ父ちゃんに渡しといて。わかった、今日ジョーはブティック居残りでメアリー姉は出張だから、二人ぶんはいらないな。シーラのも忘れないでよ。わかってるって。じゃ、二階いるから。おう。
夕飯を終えて二人、同じ部屋に寝そべっている。ねえシーラ、と呼ぶので、何、と応える。作っていいかな、わたしが、シーラの曲。いきなりの言に上体を起こされ、あたしが……唄う曲? と訊き返す。うん、と寝そべったまま、多分だけどシーラ、今までカバー以外の曲唄ったことないっしょ。と言うので、黙って頷く。人の曲うまく唄うのもすごいことだけど、ちょっとさ、試してみない? 自分のために作られた曲を、ってことか。それは──やってみたい。やってみたいに決まってる、でも。でもなに。迷惑じゃないか、ただでさえ居候してるのに、そのうえ曲まで作ってもらうって。ミッシーもそれで収入得てるんだからギャラくらい……の語尾が右手で制される。ちがうよ。えっ。わたしにとっても初めてなんだ、仕事もらって納品するんじゃなくて、この子のために作ってみたい、って思ったの。えっ……だから、させてほしい。どっちかといったらわたしのわがままだよ。そんな
よしじゃあ、と言いながらシンセサイザーに電源を入れる。どんなコンセプトがいいかな、シーラたしか聖歌隊にいたって言ってたよね。ああ。クラシックもいけるの? まあバッハのカンタータとか……でも最近は全然唄ってないからな。そっか、じゃあクラシカルなムードの……アンビエント……じゃない、ヘヴィメタルとか! メタル……? あんな俗悪な音楽、と返すと、ミッシーが人差指をちっちっと振って制する。聴かず嫌いはいけないねーシーラ。実はメタルとヒップホップって、九〇から〇〇年代にかけて既に混ざり合ってるんだよ。そうなの。そう、ヘヴィメタルバンドのプロデューサーが実はヒップホップ畑の人、ってパターンが出てきはじめたの。だからその方向性を、今回わたしが推し進めてみたい。たとえばこんな感じ……おお、イントロ? そんなのも弾けるんだ。露骨にチェンバロとかハープシコードとか、そんなダサいことはしないよ。それ以外にもこう「クラシカル」の意味をずらして使えるはず、と思ってたんだ……ちょっと待ってミッシー、いま考えながら弾いてる? いや、べつに……でも確かになんか、これで一曲できそうだね。それでその先どうなるんだ、あたしメロつけていいか? いいよ一緒にやろう、その前にループ作るから。
で、これどう唄えばいいんだろう……シーラの声質と音域なら、そうだな、スマッシング・パンプキンズ意識してみて。あんな唄い方……いいからやってみなって。
ん、あ、そうか、こう歪ませる感じなら、もっと伸びるか。ん、でも喉痛めやすいから気をつけて。感覚はつかめたけど、あまりそういう音楽聴いてこなかったからな……たとえばこういうのだよ、これフィンランドのギタリストの曲だけどさ。おお……サビの裏のギターフレーズがすごいな、こういうのもメタルなの。メタルコアに分類されるかな、九〇から〇〇年代の潮流。なるほど……勉強してみる。時間かけていいよ、わたしもなんか次の曲できそう。え、もうそんなにか?
あっというまに秋は過ぎ去り、グラスゴーの路上を寒風が
Bandcampがどうとかインディーチャートがこうとか言われてもわからないのだが、いわゆるヴァイラルヒットにはなってくれたらしい。ほら見てごらんこれ、全部シーラについてのコメントだよ。今まであたしの歌を聴いてるとしたらそれは目の前の観客だけで、見ず知らずの人が聴いてるなんて事態がうまくイメージできず、賞賛のコメントもどこか
〈スコットランド:グラスゴーに居を構えるマッコイ家が、アイルランド:ゴールウェイに籍を置くオサリヴァン家の一人娘の身柄を不当に拘束しているとの報に接し、SIUN民事裁判所は前者に対し、該当する身柄を親権者たる後者に返還することを要求する。〉
という通知が届いたのは、EPリリースから一〇日も経たずのことだった。
どうするシーラ。マッコイ家で家族会議が開かれ、あたしはこれ以上迷惑をかけないために帰ろうと思う旨を伝えた。が、だめだよ、そしたらシーラ唄えなくなっちゃうじゃん。と抗弁するミッシーを筆頭に、マッコイ家はあたしの生家への帰還を
それでは、君は今日からうちの子だ。という、あの言い方が忘れられない。
しかし、職員としての責務とはいえ、身寄りのない子どもたちを受け容れる務めを孜々として行っている
今も付き纏っている。
格の違う存在はいる。Innuendoの名を冠する二人組によって思い知らされたのは、まさにそのことだった。あのときCouncil Clubの衣装を着ずにステージに上がったのも、結果としてはよかったのかもしれない。もし着たまま行ってしまったら、「比べようもなく隔たった実力のイングランド人に遅れをとったアイルランド人」の汚名を、あなたのブランドにまで着せてしまったかもしれないのだから。
ミッシー、あたしを人間にしてくれたのはあなただ。飢え死に覚悟で生家を出たあたしに、居場所を与えてくれたのは。あたしのための歌を、つくってくれたのは。しかし、あの時点でもう気付いていたのかも。これでもまだ足りないと。あなたに作ってもらった優れた歌を自分の全力でパフォーマンスするだけでは、届かない領域があると。それは言うなれば、両の翼で
カトリックとプロテスタント。クリスチャニティ。
アイルランドとスコットランド。連合国。
ブリジッドとマキ。母親。
手を取ったはずだ。両手を取って、ミッシー、と両膝をついたはずだ。どうしたの
あたしの Counterpart になってくれないか。傍らにいてくれないか。ひとりだけで墜ちるなら、それはただの死だ。でもふたりなら、あたしが墜ちたとしても、あなたは引き揚げられるかもしれない。たぶん、上昇と下降は同じところにある。だからあたしがやろうとしてたことは、最初からひとりでは無理だったんだ。
危うい瀬を渡っている。わかっている。自分とは異なる存在を
二人で勝ちに行こう。たとえそれが、喜びも悲しみも二倍にする、魔女の呪いのような
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