第2部 肉ひしめく円卓
08 Foul & Fair
死はワタシより
ちがう、子宮と言おうとしたのだ。死はワタシより
くー、とワタシは手袋の擦れを
こうしてワタシは世界を数える。ここまでなんとか増やしてきた数と、一方で失われてきた数の両方を。いっぺんには無理だけど。でもこうでもしなければ、人が
こうしてワタシは世界を数える。人間を。あまりに増えすぎてしまった
しかし、子宮と地球。ちょっとした言い間違いでまったく別の意味になるな。気をつけなきゃいけないよな。こうして頭で文字を弄ぶ、それだけでも言い間違いは発生するものな。言ってないけど。もちろん頭の中の案文を発話する過程で言い間違うことはあるだろう。しかし頭の中に文字を思い浮かべる、その時点でもう音を伴う。知っている文字を読まないのは不可能だ。ワタシの頭の中にある、これらの線たちが
こうしてワタシは世界を数える。
The crystal ship is being filled, ってこともないのだが、やはり非現実感みたいなのは免れ得ない。早朝の博多埠頭にこんな豪華客船が。いや、これくらいのサイズの船舶は珍しくないでしょう。と
お待たせいたしました。
日本語、だ。やっぱりな。もう
χορός日本代表、
Wasssuuuuuuuuuuuuuupp!!!
と唐突な
あいたかったぜ
首根っこに腕を回されている自分を発見する。あは、なんか久々だなこのヒップホップノリ、と思ってるうちに腕は首元をすりぬけ、解放されたわたしの眼は、おもむろにフリースタイルでライムを踏み始めた人の姿を眺めることになる。韓国語か。なに言ってるかはわからないけど、ビートなしでもすげえカタいな。てことは、この子。
あなたみたいな子が増えちゃったわけね。いや、わたしあそこまで極端じゃないっしょ? もう船内入口まで上っている
さあ、ワタシ自身もあまりよく知らないんですけどね。
そう、なん、だ。え、そんな答えあるか。自分の生まれたところをよく知らない、って。もしかして、訊いたらまずいことだったか。言葉に詰まりそうになるのを、ヨナっていい名前だねーどういう風に書くの? といよいよ空虚な問いでごまかす。アナタと同じですよ、数字です。四と、七。依然としてにこやかな応対を受けて、えと、漢字だよね。と当然の疑念が漏れる。ええ。インド出身で漢字の名前ってことは、あとからつけなおしたってこと。もちろん。さほど珍しいことではありませんよ。まあ、そう、なのかな。
母はとても美しい名前を与えてくれました。おそらく、アナタを想いながらつけたのでしょう、
え。
え、何それ、それって。頭が渋滞する。舌が
ワタシは
うわーほんとにマザーシップじゃないすかー。そーだよあたしらも最初びっくりしたよー、と燥ぐ漁火ちゃんと
通された先は、もちろん喫煙所ではなく、なにやら船内機構のステータスが表示されたパネルだらけの一室。で、どういうこと。はい? はいじゃなくて、さっきの。あなたが
沈黙、するしかなくなる。文字通りに、住む世界が違いすぎる。母と出会ったのは、三年……いえ、今が二〇二〇年ですから、西暦のうえでは四年前になりますか。完全に聞き手に回るしかないこちらへ、訥々と思い出すような言葉が続く。日付が変わり、一二月一日になったばかりの深夜でした。当時国連のPKOで来ていた軍が、ワタシのいた売春宿を解放してくれましてね。解放。って、何。その夜、ワタシ自身は離れた場所でお客を取っていたので、居合わせたわけではないのですが……朝になって帰ってみると、いつもの宿が焼け跡になっていたわけです。ワタシ以外の子たちやSPLAの人たちは、まあ、いなくなっちゃったんでしょうね。いなくなったって、それ……民間人虐殺じゃないの。しかもPKO軍の。あなた以外の売春宿の子たちって、いったい何人くらいいたの。と疑念の湧くままに問い詰めても、さあ。と短く断ち切られる。あの時期のあそこでは、よくあることでしたから。
またしても沈黙。四年前の一二月、てことは、わたしがグダニスクで置き去りにされた一ヶ月後か。そこで
ねえ、これだけ答えて。疑念は渦として巻き上がっているが、ひとつひとつ訊いてはきりがない。
数瞬の沈黙。ののち、壁面のパネルから視線を移した
母の関心は、どうしてこの世界にはこんなに多くのものが在るのか、ということでした。
多くのもの。言語が、ってこと。言語だけではなく、大きく言って人間そのものが、です。どうしてこんなに多くのものが。たしかグダニスクでも言ってた、世界にこれだけ多くのものが在るのは大したことだって──そう。母は常にその考えを放すことがありませんでした。だから
と、掴みどころがあるのかないのかわからない問答も尽き、頭の中には
沈黙。
知ってん、の。ええ。たしか、母より前に交際していた男性が、
もう、訊けるのはここまでか。喫煙所どっち。この部屋を出て、右手側のドックにあります。背を向け立ち去る、ドアを閉める、前に。ひとつだけ訊いておきたい。ねえ、
そうだよな、そこは越えない一線だよな。ラッキーストライクに着火しながら船外の景色を眺める。この銘柄だって、
何をしている、何をさせようとしている、わたしに、わたしたちに。何の目論見もなければしないだろう、自分の養子を日本まで差し向けるなんて。そこまでして
煙草三本ぶんの休息のあと、93にあてがわれた部屋に戻る。しかしまあちゃんとした構えだ、入ってすぐにカウチとテーブルがあり、進んで右手側の扉はスタジオというか制作ブース、左手側の扉はなんだろ、ベッドルームかな。あねえさん、の声のほうを見ると、DAWにトラックのパラデータを流し込んでいた。使えそう? 使えるどころじゃないすよ、ここに入ってるプラグインあれば今までのトラックもぐーっと改良できるかもー。そうなん。言いながら、コンソールの向こう側の部屋をガラス越しに眺める。あっこでボーカルと、あとアンプとかドラムキットとかのレコーディングもできる感じか。そうす。ギターまわりの機材どう。いちおうケンパーのヘッドも持って来てたすけど、まさかこんな船にヴィンテージのマーシャル積んでるとは思わなかったすよっおっおー。もし使えたらなんこかギタートラック録り直したいじゃないすかぁぁあああー。機材フリーク特有のバイブスになってるな。じゃ、とりあえず機材チェック終わったらミキシング試してみるか。そのつもりっすー。えっと
お、いい感じの寝室じゃん。まあね。ただ……見ての通り問題があるんだけど。なに? なにって……これ。あ、ベッドふたつしかないな。ええ。私たち以外の出場者は全員二人組らしいから、ごっちゃにしたんだろうけど……まあいいじゃん、
これ、と
部屋を出て、突き当たりにある船内図を覗き込む。さすがにお隣さんってわけにはいかないか、結構歩くな。あっすぐそこにキッチンあんじゃん、覗いてこう。
おー、うわ、すげえちゃんとしてる! グリルとコンロとフライヤーと電熱器と電子レンジと、銀色ぎらぎらの調理器具一式と、観音開きの冷蔵庫まで。あー、中華料理屋で働いてた頃のこと思い出すなー。何が入ってるんだろ、あこっち冷凍庫か。チーズとかフライとか、これは解凍して使うのな。冷蔵庫のほうは、おー野菜いっぱい。どこの港で積んだんだろ、ハングルのラベルがついてるから韓国か。この数字が搬入日付かな、こういうのは古いのから使わないと。トマトー、とチーズもあるから、カプレーゼいけるかも。ドレッシングどんなのあるかな。おっ中華料理ふうのやつ、合うかな。これはキャベツの千切りとかに使おう。ここはやっぱ定番の、あったエクストラヴァージンオイル。あとはバジル、ちゃんとした鮮度のやつ……おーあるある。よし、じゃあモッツァレラ見繕おう。
トマトはちゃんと芯とらなきゃだめだよな。トマトの芯かじると猿の脳味噌喰ってる気分になるもんな、猿の脳味噌喰ったことないけど。チーズ溶けたかな、まあこのぐらいっしょ。で、あとはブラックペッパーさえあれば、できたーカプレーゼ。さらに肉料理と赤ワインもありゃ最高なんだけど、まあいいやこれだけで。
うまー。ほぼ馬でしょこれ。これくらいは簡単に作れるんだ、いい船だなー。よっしゃわたしひとりで喰うのもったいない、これにちょっと足して持ってこう。海鮮あるかな? 冷凍庫に……んー白身じゃないんだよな、サーモン足してカルパッチョにしたいー。たしかもうひとつキッチンあるんだっけ、そっちのほうにないか。
おうっ、と、出たところで
んー魚うまく捌けるかなー。できないならやるよ、よーく見ときな。おー慣れたもんだねー、すごいじゃん。魚おろすのから鶏つぶすのまでお手のもんよ。すげ、韓国の子って普通そうなの。いやうちがちょっと特殊っていうか、やるしかなかったっていうか。へえ。
Wassuuuuuupp!! と、威勢のいい声と共に扉が開かれる。
うーまーっ! ほぼ馬でしょこれ。え!?
んー……これは、ね。なに、言ったらまずいやつ? まずくはないけど……
これさ、
うん。
聴こえないんだよ、
そんなの、あんの。うん、八〇年代の論文にはもう出てるらしい。学習困難とか短期記憶障害とかのせいでもなくて、音声のイントネーションはわかるのに音程の曲線を一切感知できない人がいるって。物心ついたときからそうだったって、言ってた。そんなのが……わたし、
箸が止まってるけど。え? 食べないなら全部もらおうかな。あーおい
みんなで囲んだ食卓も片付け、そろそろ仕事に呼ばれる頃合い。ねえさんどの曲からやりましょー? やっぱ『Grace & Gravity』じゃないの。未発表だし、これが勝負曲ってことになると思う。あの日本決勝戦で披露しなかったのも、偶然とはいえ僥倖だったのかもね。まあね、ただ……どうしたの? 書き直さなきゃいけない、と思うんだよね、歌詞。え、全部すか。いや、セカンドヴァース以降は三人のボーカルが絡むから変えないけど、ファーストがね……ちょっと、あのことがあった後では、「上昇と下降」ってテーマで書くには詰めが甘かった気がしてるんだよな。まあ、実際に落ちたからね。文字通りにね。だから、改善の余地があると思う。わたしらの見せ場になる第一公演、メキシコだっけ? ええ。その日までには書き上げるから、ちょっと猶予もらえるかな……もちろんいいすよ。じゃ、まずここのプラグイン使ってミキシングしましょ。いいね、やっぱキックからかな。さっきちょっとプリセット作ったんすよ、これ。おー、あは、一気にプロっぽい! ローファイなヒップホップ感出すなら向かないかもすけど、とりあえずウェルメイドっぽい質感で勝負するならこれっすかねー。そっか、ライブ会場での聴き
んー。だいぶ整った気はするけどね。でもその整いかたがなー、キレイすぎるっていうか……そもそもビートの音質がそうなんじゃないすか? え? そう、あなたならもっとざらついた音にするかと思ったけど。いやそれはまあ……あ!! なんすか。あるじゃん、あのときなかったのが今あるじゃん、MPC 3000! おー、あれでビート打ち直しっすか! この曲にはぜったい合うよ、ちょっと試してみよ、頼むよーちゃんと動いてくれよー……
あああ、たまらんなーこの無骨な音……なるほど、ねえさんの頭の中で鳴ってたのこういう音だったすか。あの時は色々な制約があったからとりあえず間に合わせたけど、この音質でぐっと近くなったな、ほんのりJ・ディラ感出てきたし。あ、まずいワードが出てきたね……なに? ビートメイカーが「J・ディラ感」と自称するのって、味のある揺らぎを謂ってるよりは、単に乱雑に手打ちした結果を良いと思い込んでるだけで……やめろよーそういうこと言うの! いいんだよこれで、フックのとこも打ち直すから。
あー……やっぱ直したがいいなこれ。でしょ。クォンタイズ……の問題じゃないな、なんか根本的に足りてない……やべすげえ恥ずかしい、これで「J・ディラ感」とか言ってたの……いいすよしかたないすよ、誰だって初めての機材でやるとそんな感じすよ。うん……せっかくだし、今のねえさんにあわせてビートも打ち直したらどうすかね? 初めに
これで……ちょっとボーカルトラックだけ聴きながらビート打っていい? 新しいすね。うん、他のトラックと合うかはわからないけど……やってみて。こういう……おおー。ループで行こうと思うんだけど、どうかな。ちょっとペーストしてみて……あっ。おーいいじゃないすかー! タイト、というのも違う……妙な感じになったね。妙って良い意味で? もちろん。フックもこの感じでやります? いや、ヴァースとは全く別の感じにしたい。なんかあんじゃん、生音のスネアの音コピペしてゴボボボボボみたいな……ああ、一時期トリップホップでよく聴いたやつ? 多分それ、フックはそういう感じにしたいんだけどさ、とりあえず次のヴァースのビート打たして。こっちはコピペじゃなくて完全ワンテイクでやりたい。
えもう八時、夜? そうね。うわー一曲のリメイクにこんな時間かけて……いいから、とりあえず頭から聴きましょう。うん。あー……リメイクっていうか、あの時できなくて今できることの盛り合わせって感じだな。良い……と思う。ほんと? とりあえず私たちはここまで来た、って実感がトラックに表れてるというか……そう、そのつもりでやったんだよ。あー、姉さんの今のフロウ聴いてるとギターも録り直したくなるー。ライブではギターも生演奏なんだから、今でなくていい。じゃあ漁火ちゃん、ビート周りのエディットやろう、とくにコンプとEQ。了解っすー。
……じゃあこれ基準で『Grace & Gravity』もいじってみます? いやちょっと待って、あっちはわたしたちの一番新しい曲で、こっちは一番最初に作った曲だから……その両方を同じ音質にすると違和感あると思う。そうね、だいぶ耳も慣れちゃってるし、このトラックに関して今日のところは保存したほうが。あ、うわーもう一〇時半! 今日の進捗これだけかー? とにかくミックス作業はここまでで、イリチ。ギターまわりの機材でも固めましょうか、レコーディングで使えそうなのとステージに持ち出すのと。了解っす、じゃあこのへんでねえさん休憩でも。だね、あと作詞どうかしないとな……じゃあ外の空気吸ってくるよ、あと夜食に良さそうなのあったら持ってくる。ええ。
あっそういえば、自分の部屋以外で作詞するのなんて初めてだ……うわー大丈夫かなー。いつもの蔵書なしで作業に入るってのも、すごい不全感があるというか……いやこんなことでぐずっててどうする、慣れてかなきゃいけないんだこれに。猶予は約二〇日、その間にχορόςに出しても恥ずかしくない質の球数準備しなきゃ……夜遅くまでお疲れ様です。あ。
なんか、あなたといると訊きたいことばっか増えまくっていけないな……ははっ、ワタシに答えられることでしたらなんなりと。いや遠慮しとく、ひとつ訊くたびに新しい質問が倍になるだろうから……じゃね、あなたも夜は冷えるから気をつけなよ。
さて、喫煙所……いや、夜中に潮風に当てられながらタバコって、いくらなんでも寒いか。とりあえずキッチンで夜食に良さそうなもの、たしか肉まんあったはず。そうだせっかくだから陣中見舞とかいって、
おーっす! こんばんはーごめんねいきなり、肉まん持ってきたんだけど。おーちょうどいい、そろそろ一段落かなと思ってたんだよ。ヤスミンお茶にしよう、
どうよ乗船一日目は? とりあえず部屋の機材色々いじってるうちに終わったよ、そっちは? あたしらはもう二日目だからな、とりあえず三曲できたよ。えっ新曲? もちろん。すげー……いやあ、ソウルのスタジオで働きながらつくってた頃と比べると、時間がありすぎて逆に焦るっていうか。かじられた肉まんが
ほい、じゃあ悩めるヤスミンの頑張りの結果を聴いてみましょうか。言うと同時にスマートフォンを点灯させ、すかさず音源を再生し始める
あっ再生終わっちった、話しててちゃんと聴こえなかったっしょ? もう一回……も、もういいよ。なんだよーヤスミンが自信持ってくれるまで聴いてもらうんですけどー。もういいから、わかんないけど、わかったから……何が? えっと、続けなきゃいけないってことが……明日からも。そうだね。時間はたっぷりあるんだよヤスミン。楽しもう。うん……
なんか、
とかやってるうちに早々に日々は過ぎゆくもので、
サン・ディエゴ港からタクシーで鉄道まで移動し、サム・ペキンパーの映画に出てきそうな列車に乗る。そもそもなんでエル・パソなの、いわゆる西海岸でもよかったわけでしょ。やはりこれから巡るラテンアメリカに近いというのと、セレモニーで司会を務めるDefiantのイネス様の出身地だから、というのが大きいですね。イネス……?
さすがテキサス州となると、陸路での移動にも時間がかかり、会場到着時にはもう午後六時を回っていた。一時間後に始まりますので、皆様は今のうちに着替えを済ませていただければ。おーついに開会だよヤスミン。うん……そっち衣装どうする? 無理して着飾っても仕方ないし、いつもの感じにするよ、ファンもそれが見たいだろうし。だよね。じゃあそんなひねらなくていいようちも。そっすね。ええ。おっミッシーからメールだ、Wi-Fi繋いだら一気に来た。
Highness! Professor! と、歓声で迎えてくれるのは空港と変わらない。が、ここではにこやかに手を振る気にもなれない。すでにいるんだもんな、奴らが。
入口正面に至ると、いた。いるよな、いるに決まってるよな。一年待ったぞ、こうしてまた会えるのを。こちらの存在を察したエリザベス、あのクイーン・ビッチが、いやに鷹揚とした仕草で向き直る。
こんないやな、めでたい日もない。
言うと、にやりといけ好かない笑みを向ける。こいつをぶっ叩くために来たんだあたしは。正面に奴らの、後方にあたしらのファンの視線を受けながら続ける。一年間の栄華はどうだった? 退屈だよな、退屈だったろうな、誰も玉座を脅かしてくれないってのは。安心していいぞ、おまえらの全盛期はもう終わる。世界はこれから、Innuendoの落日を半年かけて見届けることになる。せめて墓碑銘くらいは彫ってやるから、今のうちに辞世の句でも用意しておくことだな。
言い終えると、やつらのファンがにわかにざわめき出す。煽ったんだから当然だが。それにつられてあたしらのファンも色めき立つ。のを察したのか、エリザベスの後方に控えていた、あの仕立屋が、右足を揚げ、踵を床に叩きつけた。周囲に打音が響くとともに、ざわめきが一掃され、やつらのファンは通路入口へと横隊の列を組んだ。なるほど、よく躾けられている。エリザベスは周囲の様子を満足げに見渡し、歩きにくそうなあのドレスの裾を翻し、あたしの傍らまで歩いてくる。
一人では届かなかったから今度は二人で、なんて、素敵な算数ねお
ぐるり、とあたしの後頭を半周しながら囁きかける。気取って語尾を上げ下げするのがいやらしい。あたしの左手が届く位置で背中を見せながら、右目だけをこちらへ向け、相も変わらず鷹揚に言う。
嬉しくてたまらないわ、今度は屈辱を二倍にしてあげられるなんて。あなたもそのお友達も、どうあってもInnuendoには匹敵しない。今度こそ身の程を思い知ったら、もう歌の道なんか諦めて……尼寺にでも行きなさい。
言い終わると、通路の向こうへ去ってゆく。左右横隊で控えたファンたちも低頭でその姿を見送り、あの仕立屋も背を向ける。
髪型変えた?
と言うのはミッシーである。いつも通りの微笑を浮かべながら、あの仕立屋の肩口から後頭部の稜線を指差でなぞりながら続ける。襟足刈り込むのもまあいいとは思うけど、アシメで側頭の髪垂らして、もう片方を編み上げてまとめたら、もっと良くなったと思うよ。背に向けられた言葉を意にも介さず、仕立屋は入口扉を押し開く。エリザベスは一瞥もくれず中へと消える。
なんの助言だミッシー。
裏で控えていると、明らかに周囲スタッフの慌ただしさが色を濃くするのがわかる。InnuendoとDefiantが会場入りしたようですね。と
エル・パソー!! の
式自体は、丁寧に勘所を押さえて進行していった。今回のχορόςラテンアメリカツアーは、Innuendo、Defiant、Shamerock、
続いて、ツアー日程の発表。二月一二日のメキシコ合衆国カボ・ワン・ルーカス公演を皮切りに、ペルー、チリ、アルゼンチン、ブラジルを回り、アイルランドとスコットランド公演を経て、イングランドでのマンチェスター、バーミンガム、ロンドン公演をもって完結すること。そのうち序盤の三公演では、特別に93、
Let us go then, you and I, When the evening is spread out against the sky.
Like a patient etherized upon a table;
Let us go and make our visit.
天井が噴っ飛ぶんじゃないか。彼女らにとってホームじゃないこの地で、これだけの歓声が。それに、あの楽曲とコレオグラフの完成度……やばいの来ちゃったすね。うん……でも、でもこういうことなんだよな、世界一って。
パフォーマンスを終えたその直後、息ひとつ切らす気配すらなく、襟元のマイクを直しながら、エリザベス・エリオットが口を開く。
海を制するものは世界を制する。不幸にも海の支配者と覇を争うことになった競合者たち、今さら心配する必要はないわ。すでに賽は投げられたのだから。χορός、ギリシア演劇の名を冠したこの競技の栄冠は、
三叉鉾のサインを右手で掲げると、場内に招かれたファンたちもまた RULE BRITANNIA! と右手を掲げた。
あっつかましいなー、アメリカのメキシコ国境で RULE BRITANNIA って……ヤスミン、ほんとにあんなやつに憧れてんの。あ、憧れてるんじゃない、ただ、あれくらいにならなきゃいけない……ってだけ。
よかったね、
シュプレヒコール渦巻く周囲の様子は意に介さず、一歩、二歩と歩み出てみる。舞台上の奴の眉間を睨む。目が合う。そうだ、今はそこにいろ、すぐに叩き落としてやるから。よく見えるように、あたしも静かに右手を掲げる。ただし人差指と中指を立て、その手の甲を向こう側へ。このサインの意味はわかるよな、クイーン・ビッチ。
そう、そうでなくては。上がってきなさい。ほんのひとときでも興じさせてご覧なさい。そうでなくては、来た意味がない。分不相応な思い上がりを抱いて僻地から来た娘っ子の、夢想も現実も跡形なく踏み砕いて、もはや地を舐めるしかないその姿を眺めながら呼吸する大気は、さぞかし舌に甘いでしょうね。
というわけで、母よ。役者は揃いました。
これから彼女らには、存分に舞って、唄って、闘ってもらわねばなりません。そうすればわかるはず、ワタシが何をすべきかも。とりあえず今は、この肉ひしめく舞台の開幕に際し、偉大なるアリストパネスの言葉を飾っておくとしましょう。
──戦争は女の仕事だ。
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