第2部 肉ひしめく円卓

08 Foul & Fair


 死はワタシよりおおきく、地球はワタシより小さい。

 ちがう、子宮と言おうとしたのだ。死はワタシよりおおきく、子宮はワタシより小さい。そうだ、すくなくとも最初に言葉を話した時には、すでに母胎よりおおきかったはず。ずいぶんかかったな。ずいぶんかかったけど、ひとまずここまでは来た。細胞も日月じつげつおびただしきをけみして、ワタシのかたどりをうずたかくした。全身の細胞は三七さんじゅうなな兆個だとか。ずいぶん多いな。じゃあ一方で、失われたものもあるんだろうか。ワタシがこうして数を増やす一方で、減っていった何かもまた。それはどうやって知れるだろう。もし数えられるとしたら、たとえばこんなやり方で。まず右手に左手の手袋を着ける。右手の親指を折り曲げ、左手の手袋の人差指の位置に右手の小指を入れる。そしたら指が通ってない親指の位置を除いて、手袋には四本の指が入る。右手の親指は折れ曲がっているけど手袋のうえからは在るように見えるので問題ない。さてこの場合、手袋のうえから見た指の数は五本である。しかし、左手の手袋と右手の指でまっすぐ伸ばされている総数は九本である。五指を二倍して親指を一つ引くだけだ。左手の手袋の指をカタカナで、右手の指を漢字で表記するとすれば、オヤ・ヒトサシ・ナカ・クスリ・コ、そこから折り返して人差・中・薬・小、となる。なんだか音階みたいだ。しかし初めと終わりが上下オクターヴの同音で一致する音階と違って、この指は親指で閉じない。手袋の親指のなかには指がなくて、ほんとうの親指は見えないところで折り曲げられているからだ。ワタシから失われた数は、こういうふうに数えるものではないかと思う。十進法でも十二進法でもなく、見える指と見えない指の数がそれぞれ違っていて、その総量が倍数でない。輪は閉じるが対称にはならない。そのようにして数える数。

 くー、とワタシは手袋の擦れをいらいながら、みー、と絹の下の指を動かしてみる。右手の人差と中指を折り曲げたら、手袋のうえからは指が三本に見える。こうしてアナタの名を数える。。素敵な名前、なのかな。日本の人名についてはよく知らない。、よりも三一さんじゅういちのほうがワタシ好み。一一じゅういち番目の素数、脊椎の骨の数、そしてダンテ『地獄篇』の総歌数である、と母は教えてくれた。いや最後のは三三さんじゅうさんたすいちか。ともあれ、母はからっぽな手袋の親指のようだ。存在しているようしていないから。また別の名前になってしまったらしいし、もう行方はようとして知れない。だからどうということもない、多くのものを与えてはくれたのだし。ふたつとあらきもの、と読めただろうか、かつて母が名乗っていた名は。ふたつとない、とは。世界創造以前にあったものも、ふたつとあらきものには違いなかったろうな。ではそれ以降の万象は。誰だってふたつとない存在ではあろうけども、既存のふたつから産まれたにもまた違いない。数えきれないほどの肉体ひしめく世界では、誰かが誰かを映しあっている。それでも決して帳尻は合わない、左手の手袋を着けた右手のように。

 こうしてワタシは世界を数える。ここまでなんとか増やしてきた数と、一方で失われてきた数の両方を。いっぺんには無理だけど。でもこうでもしなければ、人がふたつも手を持っていることの説明がつかない気がする。十を数えるなら片手で十分なわけだ。指一本切り落とした人が片手で数える十が実際は八だったとしても、それが何か。とりあえず一嵩ひとかさは計ったのだから問題ない。むしろ親指を切り落とした人の方がうまく数えられるかもしれない。逆の手袋でも入れやすいし。失われた数はそうして数えるはずだ、という確信がワタシにはある。

 こうしてワタシは世界を数える。人間を。あまりに増えすぎてしまったこんじょうの頭数を。頭数、といって、百年前の戦争で頭蓋骨を打ち砕かれて死んだ人は、ちゃんと別に計上するようなやりかたで。

 しかし、子宮と地球。ちょっとした言い間違いでまったく別の意味になるな。気をつけなきゃいけないよな。こうして頭で文字を弄ぶ、それだけでも言い間違いは発生するものな。言ってないけど。もちろん頭の中の案文を発話する過程で言い間違うことはあるだろう。しかし頭の中に文字を思い浮かべる、その時点でもう音を伴う。知っている文字を読まないのは不可能だ。ワタシの頭の中にある、これらの線たちがはなから音声と無縁であってくれたら、どんなに助かるだろう。しかし字を追うこと自体がすでに音だ、ふ・か・の・う、と、こうして声に出して読んでしまえる。難儀だ。五千年くらい前の人たちよ、どうしてアナタたちはこんなものを創りましたか。文字なんかなくても、そこには沢山の楽器が挨拶が振り付けがあり、おとことまいで満ちていたはずなのに。さらに文字なんてものを創るとは。線の連なりが音と言を同時に担ってしまう、その織り成しが舞であるかのようなこの道具を、ほんとうに使いこなせると思ったんだろうか。残念なことに五千年くらい前の人たちよ、ワタシたちは未だ文字を持て余しています。なんたって文字という表現手段は、踊れもしないし唄えもしない輩が最後に立て篭る砦のようになっているので。ほんとうは逆だ。歌も舞も心得なければ使いこなせない性質のはずなんだ、この文字という道具は。なのにまたぞろ、音楽は言葉にできないとかダンスは言語を超越した感動を与えるとか、分別顔ふんべつがおで書き散らす奴らがいる。文字を、使っているくせに。お前のそれはなんだ。いま書いたそれ、そ、れ、は。読めるだろ。読めてしまえるだろ。so, re, そのように発話しなきゃいけない道理なんて、ほんとうは無いはずなのに。それでも読めてしまう、書けてしまう、言えてしまう。こうして書かれたものが意味を担うばかりか、音や歌になってしまう。とすれば、文字自体がすでに舞踏ではないか。だからもっと──もっと鍛えよう。もっと賢くなろう。もっと強くなろう。別のやりかたを見出すために。言葉だけじゃだめなんだ。かといって、歌や舞だけでもだめなんだ。だからこれをつくったんだろう、五千年くらい前の人たちよ──いいだろう、ワタシは引き受けた。これから陽気な踊りを見せてやる。数えられるうちは踊れるはずだ。三一さんじゅういち一一じゅういち番目の素数の三倍。そしてワタシを二倍して一を引いた名前を持つ彼女を待ちわびて。くー、みー。左手の手袋をかぶせた右手で、海の向こうへと、その呼び名を電信しながら。

 こうしてワタシは世界を数える。




 The crystal ship is being filled, ってこともないのだが、やはり非現実感みたいなのは免れ得ない。早朝の博多埠頭にこんな豪華客船が。いや、これくらいのサイズの船舶は珍しくないでしょう。とはかるに言わせればそうなるが、しかし貨物ではなくχορόςコロスのための人員を乗せてるとなれば話は別だ。船体から乗船用の階段が下ろされる様子もどこか呆けて見ながら、うわー漁火ちゃんマザーシップコネクションだよ今から。と他人事のような軽口さえもが漏れる。っすねー。Swing down sweet chariot, stop and let me ride... と呑気な鼻歌をハミングしながら、傍らの堅固なギターケースに目をやる。わたしら荷物少ないよなー。着替えと携帯端末と化粧品くらいしかないからね。それにしてもバッグふたつぶんってな、漁火ちゃんギターひとつくらい持つよ。いいっすよ、ていうかさすがに船のひとが手伝ってくれるんじゃないすかね。と話してるうちに、船体からひとつの人影が現れ、静かな歩みで階段を降りてくる。

 お待たせいたしました。

 日本語、だ。やっぱりな。もうShamerockシェイムロックのときほどには驚かないけど、でも海外からやってきた人が当然のように日本語って違和感すごいな。かつ、かつ、と乾いた革靴底の音を聴きながら、降りてくる人影のおもちが徐々にデッサンを濃くしてゆく。アジア人、かな。肌の色だけで判断するのは無理あるけど、なんかそんな気がする。

 χορός日本代表、93キュウゾウの皆様ですね。主催の命を受けてお迎えにあがりました。客船Yonahの船員主務、きりしまヨナと申します。以後お見知り置きを。

 きりしま。あれ、日本人か。でもヨナって。あー、人を乗せて海を渡るからYonahなんスね。船だからNoahみたいな、ベタな感じじゃないのがいいスね。と、挨拶代わりの軽口でもほうってみる。目の前のヨナ、と名乗る人は、くすっとひとつ微笑を漏らし、ではなく豪華客船ですから、航路の安全もご心配なく。と言った。えと、クジラ、だよな。わたしが聴き間違えただけだよな、あるいはこの人の発音が怪しかっただけ。と湧いた疑念を払うように、すごい丁寧な日本語ですね、もしかしてそれもGILAffeジラフですか。と訊いてみる。ええ、まあそうですね。ワタシはだいぶ早い段階にもらっていましたから。そうなんだ。早い段階に……? やっぱDyslexiconの関係者には渡ってるのかな、出場者でなくても……と数瞬もだしていると、

 Wasssuuuuuuuuuuuuuupp!!!

 と唐突な音声おんじょうつんざき、それに続いてカンカンカンカンとスネアドラムのような靴音が響いた。なん、と思ってるうちにフィアー・オブ・ゴッドのパーカーとスウェットパンツとミリタリースニーカー姿の人が歩み出て、く、うわ。

 あいたかったぜヨンー!!

 首根っこに腕を回されている自分を発見する。あは、なんか久々だなこのヒップホップノリ、と思ってるうちに腕は首元をすりぬけ、解放されたわたしの眼は、おもむろにフリースタイルでライムを踏み始めた人の姿を眺めることになる。韓国語か。なに言ってるかはわからないけど、ビートなしでもすげえカタいな。てことは、この子。ハンでしょ? シィグゥの! 言うと同時に我が意得たりという顔になり、またしても自然な流れで、ヘッズお決まりのてのひらタッチからのこぶし突き合わせを。やっぱこういうのって万国共通だな。お前もやんなよヨン! え? あたしが挨拶がわりにやったんだからさーお前も一発キックしろよ。えー、トップオブザヘッド苦手だからな。いいじゃんていうか埠頭でサイファーって超イイ絵面じゃん? とラッパー同士がじゃれあうのを、すみませんが、ただちに出発しなければならないので。とヨナ、と名乗る人の声が制する。えー、と不機嫌そうにふくれても、ハンはわかったよとりあえず中で話そ荷物重いっしょそれ持つよ、と次の瞬間には漁火ちゃんの荷物を脇に抱えて階段をのぼりだすのだった。あざすー、とギターケースひとつだけになった漁火ちゃんが後に続く。

 あなたみたいな子が増えちゃったわけね。いや、わたしあそこまで極端じゃないっしょ? もう船内入口まで上っているハンを眺めていると、ヤスミンしたの二人の荷物手伝ってあげなよー、と声が響く。あ、もう一人いるのか。たしかに入口付近に別の人影が見えるが、雲間から漏れた朝陽で視界が遮られる。あーいやこっちの荷物は軽いから大丈夫よ、と上方へ向けて言ってみると、オーライとばかりに手を振るのが見えた。それでは。とヨナ、と名乗る人に促されるままに階段を上るはかる。の背中を見ながら、楽しい旅になりそうですね。うん、にぎやかそうだし。と通り一遍の会話がどこか他人行儀めく。いや他人には違いないんだけど……ちょっと訊いとこうか。ヨナさん、ってさ、どこの出身? 北インドですね。へえ、インド。どのへん? と地理すらおぼつかない国について訊いたのも、もちろん対話の糸口を探るためだった。

 さあ、ワタシ自身もあまりよく知らないんですけどね。

 そう、なん、だ。え、そんな答えあるか。自分の生まれたところをよく知らない、って。もしかして、訊いたらまずいことだったか。言葉に詰まりそうになるのを、ヨナっていい名前だねーどういう風に書くの? といよいよ空虚な問いでごまかす。アナタと同じですよ、数字です。四と、七。依然としてにこやかな応対を受けて、えと、漢字だよね。と当然の疑念が漏れる。ええ。インド出身で漢字の名前ってことは、あとからつけなおしたってこと。もちろん。さほど珍しいことではありませんよ。まあ、そう、なのかな。

 母はとても美しい名前を与えてくれました。おそらく、アナタを想いながらつけたのでしょう、さん。アナタと愛し合っていた頃の話も、たくさん聞かせてくれましたから。

 え。

 え、何それ、それって。頭が渋滞する。舌がゆわえられたようになる。硬直して見えるのであろうわたしの表情も意に介さず、相も変わらず微笑を絶やさず、目の前の人は、きりしまは、くすぐるような視線を向けて言った。

 ワタシは百済くだらの娘です。




 うわーほんとにマザーシップじゃないすかー。そーだよあたしらも最初びっくりしたよー、と燥ぐ漁火ちゃんとハンを先頭に、こちらのゲートをくぐればすぐにキャビン、つまり今回のχορός出場者が寝食する客室に着きます。と事務的に案内するが続き、その後ろに無言のはかるとわたしが纏わる格好になる。こちらです、93の皆様のお部屋。なにか宇宙船めいたセキュリティ付の鉄扉が、ピピッの音とともにかいじょうされる。うわーいまのなんすか。おとがいに埋め込まれたGILAffeジラフが、そのまま部屋の鍵として機能するようになっております。へーやっぱお前らも入れてたのかあ、と笑うハン。まあね、わたしと漁火ちゃんは先月のうちに。あ、でもはかるんはこれどうするんすか? ご心配なく、GILAffeジラフなしの方にはカードキーを用意しております。胸ポケットから一枚のカードを取り出す、受け取るはかる。スペアはございませんので、紛失なさらぬよう。ええ。なんだヨンの相方さんは手術しなかったんかい、ヤスミンと同じだなー。ヤスミン……あ、もしかしてさっきの子? 後ろを振り返ると、いた、一連の会話に入らずおずおずとついてきてた子が。へえ、あなたも手術は受けなかったの。と歩みを止めたはかるが最後尾の子に話しかける。あ、ああ、まあ、と唐突に話題を向けられて萎縮したのか間投詞だけで応え……あれ、日本語通じてるじゃん? そりゃヤスミンは中国語と韓国語と日本語と、あと英語できるからねー。そうなん、すごいな。じゃあ確かにGILAffeジラフ入れる必要もないね。と言ってみても、とくに反応らしきものはなかった。人見知りさんか。わーやばいすよねえさんー!! と叫びに近い声が室内から。どうしたん? みてくださいこれー、の声に呼ばれて部屋に歩み入る。うわ、うわー、 MPC 3000 だ!! 初めて見た。今まで MASCHINE しか使ったことなかったけど、まさか数多のビートメイカーに愛された名機をこの目で見られるとは。それもすけど、こっちみてくださいーたくーミキシングコンソールー! こんなん東京じゃ見たことないすよ、ちょっとした国家予算すよ! まじか、わたし詳しくないけど、ほとんど宝くじを当てたように興奮する漁火ちゃんの姿から、その程は察せられた。へえ、シィグゥの部屋にも同じものがあるの? と問うはかるに、あ、ああ、まあ、とさっきと同じくいらえるヤスミン。これらの設備は、お好きに使っていただいて構いませんので。と言うは壁面の電子パネルを起動させ、静かに室外へと歩み出る。それでは抜錨しますが、この国にお忘れ物はございませんか? ええ。大丈夫すよ。うん。それでは、また数時間後に船内放送が入りますので、それまでごゆっくりおくつろぎください。と背中を向けるを、反射的に追いかける。ねえさんどうしたんすか。何かございましたか? いや、ちょっと、知っときたいことがあって。知っときたいって何。えと……喫煙所どのへん、とか。とかわしたつもりのわたしに、いぶかりの視線を向けるはかる。いわく言い難い気まずさが、喫煙所ですね、ご案内いたします。の声に助けられる。こちらへどうぞ。ありがと。


 通された先は、もちろん喫煙所ではなく、なにやら船内機構のステータスが表示されたパネルだらけの一室。で、どういうこと。はい? はいじゃなくて、さっきの。あなたがの娘って、一体どういうこと。静かに問い質しても、言葉通りの意味ですよ。と、依然として変わりのないこわで答える。言葉通りとは思えないけどね、わたしがと別れたのはだいたい三年前。そのあとで産んだとして、そこまで急速に育つもんじゃないと思うけど。と敢えて外堀から埋めていくと、もちろん血は繋がっていませんよ。と目を瞑って微笑している。義理の、ってこと。そんなところです。壁面パネルの数値を無感動に眺めながら、出会ったのはジュバでした、南スーダンの首都です。と乾いた名詞を並べる。スーダン……アフリカでしょ? ええ。そこにが……えと、スーダンってインド系とかアラブ系とかのプレゼンス有る国なの? 南のほうでは無いですね。じゃあなんでそんなとこに……と疑ってみても、そもそも唐突に東欧のコミューンを歴訪しようと言いだすような女の去就に関しては、勘繰りにさえなりそうにない。あなたも、生まれた時からスーダンってわけじゃないでしょ。静かに頷く。幼少の記憶はほとんどありません、気がついたら西のほうにいましたからね。インド、イラン、スーダン……と、おぼつかない地図を頭に描き、漠然と位置関係を手繰ってみる。陸路でも、流れ流れてけっこう遠くまで行けるものですよ。それはまあ……しかしインドから南スーダンか。そこで何してたの。さっき訊けなかった核心に踏み込んでみても、売春を。と、なんの情緒もない一言で応えるのだった。首都のジュバにある、SPLA、つまり政府軍の反主流派が多く出入りする宿にいましたね。と続けられても、いったい何をどこまで詮索していいのか。えと、今更だけどさ……女の子? ばかげた問いに、そんなのはどうでもいいことです。と端的な答えが。ひとつだけ言えるのは、ワタシはあの宿で一番の売れっ子だったってことです。なにしろ、どちらの相手もできますからね。サラリーマンが前の就職先での業績を話すような口調に気後れしながら、どちらのって、男も女も、ってこと。と小声で問うてみる。前も後ろも、のほうが適切ですかね、客のほとんどは男性だったので。ワタシはペニスとアヌスの両方を、提供することも受容することもできたので、どちらの客からも売れたわけです。それってつまり、肉体的には、男性。というか、そんなことを考えたことすらありません。物心ついたときから、前のと後ろのを使えば金になる、そのことだけが重要でしたから……どの土地でも同じでした。ただの商売道具ですよ、その使い方を心得ていた、おかげで生き延びることができた、それだけの話です。

 沈黙、するしかなくなる。文字通りに、住む世界が違いすぎる。母と出会ったのは、三年……いえ、今が二〇二〇年ですから、西暦のうえでは四年前になりますか。完全に聞き手に回るしかないこちらへ、訥々と思い出すような言葉が続く。日付が変わり、一二月一日になったばかりの深夜でした。当時国連のPKOで来ていた軍が、ワタシのいた売春宿を解放してくれましてね。解放。って、何。その夜、ワタシ自身は離れた場所でお客を取っていたので、居合わせたわけではないのですが……朝になって帰ってみると、いつもの宿が焼け跡になっていたわけです。ワタシ以外の子たちやSPLAの人たちは、まあ、いなくなっちゃったんでしょうね。いなくなったって、それ……民間人虐殺じゃないの。しかもPKO軍の。あなた以外の売春宿の子たちって、いったい何人くらいいたの。と疑念の湧くままに問い詰めても、さあ。と短く断ち切られる。あの時期のあそこでは、よくあることでしたから。

 またしても沈黙。四年前の一二月、てことは、わたしがグダニスクで置き去りにされた一ヶ月後か。そこでに会ったってこと。はい。ワタシだけ生き残ってしまったわけですから、その身を哀れんで、というわけでもないんでしょうけど、養子として引き取ってくれて。養子、なんで。そもそも母は、語学の才能がある子を求めてスーダンを訪れていたらしいんです。なんでだよ、なんでそんな用でわざわざスーダンだよ。母が言うには、「こういう環境ではそういう子が育ちやすい」、と。どういう。わかりませんが、「わたしもそうだったから」……とだけ、言っていましたね。も、か。確かにイランからの移民のすえだとは言っていたけど。その後、ワタシも母と一緒に世界を回って、その最中にGILAffeジラフを──アナタの中にも入っているそれを──完成させたわけです。と、悪戯っぽくわたしの喉元を指差しながら言った。語学の能力がある子を、って、そのため。おそらくは。でもそれって、人買ひとかいじゃないの。かもしれませんが、ワタシにとっては何の問題もありません。まあ、売春宿から助けられて……いや助けられたって、あなたにとっては家みたいなもんだったんじゃないの。そうでしょうか。なぜかこちらが問われる。ワタシにはもともと家なんかありません。ただ、これからは母と呼びうる人がいてくれる、そのことだけで、ずいぶん心穏やかになるものですよ。と、表層だけ聞けば納得できそうな言葉。しかしあまりに倒錯していないか、流れ流れて、囲われて、解放されて、拾われて、それで心穏やかに、って。

 ねえ、これだけ答えて。疑念は渦として巻き上がっているが、ひとつひとつ訊いてはきりがない。の娘を名乗る人の浮世離れした話を前にしては、もうこのことを問わずには済まされない。は、一体、何をしようとしてるの。一体何をするために世界を巡ってるの。

 数瞬の沈黙。ののち、壁面のパネルから視線を移したは、こちらへ向き直り、唇を開いた。

 母の関心は、どうしてこの世界にはこんなに多くのものが在るのか、ということでした。

 多くのもの。言語が、ってこと。言語だけではなく、大きく言って人間そのものが、です。どうしてこんなに多くのものが。たしかグダニスクでも言ってた、世界にこれだけ多くのものが在るのは大したことだって──そう。母は常にその考えを放すことがありませんでした。だからGILAffeジラフを作ったってわけ。世界中の言語を話せるようにする、猫型ロボットの出す道具としてもどうなのって発明を。そうですね。ただおそらく、これはあくまで過程の産物。過程。これ以上はワタシにも答えようがありません。母は企ての過程でワタシを求めたにすぎませんから……逆に、訊かせていただけませんか。えっ。さんは短い間であっても、母と愛を交わしたことがあった。アナタしかあずかり知らないことも、またあるのではありませんか。え……この世界にこんなに多くのものが、なんて言われてもな……そうだな。何かありますか。いや、全然関係ないだろうけど……チャーリー・パーカーがね、似たようなこと言ってた……あの人すんごい壊れた生活しててさ、それで「あなたはそんな暮らしぶりで、不安になることがありませんか」って訊かれて、それで答えたのが、「何を言う。この世界にはこんなに多くの金が、食べ物が、楽器が在るじゃないか。だからなんの心配もいらない」。って……いや、これ全然関係ないな。近いですね。えっ、近いの。ええ、母の関心と近いところにある。とパーカーが……? あ、そういや晩年のパーカーって、イスラームに接近してたらしい。クルアーンを暗唱するくらい入れ込んでて、不慮の死さえなければムスリムになってたかもって。やはり、そうか……だから母は、アナタを求めたんですね。えっ。母は、音楽を理解できない人だったから。ああ、まあね……

 と、掴みどころがあるのかないのかわからない問答も尽き、頭の中にはと過ごした日々の断片が散らばるばかりだった。忘れられるわけがない瞬間も、忘れるしかない瞬間もあった。、やっぱりあなたは何か企みがあってわたしに──と合うはずもない辻褄を弄んでいると、母からは、アナタの望むものを何でも与えるように言われました。との声が差し向けられる。望むものって……八百長なんか困るよ、わたしは実力でχορόςを勝ち抜きたいんだから。そういうことではありません。アナタが欲しくても持ち得なかったものを、ということです。だから何それ。たとえば、子ども、とか。

 沈黙。

 知ってん、の。ええ。たしか、母より前に交際していた男性が、無精子症たねなしだったとか。結婚も考えた相手と子どもを作れないことにんでいた時期に、母と出会ったとか。訥々とずかずかと踏み込んできやがる、のを憤激で押しけることも、わたしには許されそうになかった。になんでもかんでも話しすぎたな……そういった意味でも、ワタシはアナタの欲しいものを与えることができます、生物学的に。抜かりないなは。でもね、いい。今はそれどこじゃない。そうですか。あとね、。はい。お前なんかがきゅうぞうの代わりになれると思うな。今度わたしの元カレを侮辱したらぶっ殺す。

 もう、訊けるのはここまでか。喫煙所どっち。この部屋を出て、右手側のドックにあります。背を向け立ち去る、ドアを閉める、前に。ひとつだけ訊いておきたい。ねえ、。はい。あなたはプロのセックスワーカーだったわけじゃん。で、に拾われたわけじゃん。てことはさ、とも、したことあるの。興味本位で投げた問いが、ワタシたちは母子ですよ。するわけがないでしょう。と、初めての静かな憤りと軽蔑混じりの声でむくいられ、ドアが遮断される。


 そうだよな、そこは越えない一線だよな。ラッキーストライクに着火しながら船外の景色を眺める。この銘柄だって、の影響で吸いはじめたんだもんな。しかしあのあと、まさか養子までつくったなんて。その子を利用してGILAffeジラフなんてものまで……

 何をしている、何をさせようとしている、わたしに、わたしたちに。何の目論見もなければしないだろう、自分の養子を日本まで差し向けるなんて。そこまでしては──違う、これはいわゆる被愛妄想erotomaniaとは違うはずだ。だって実際にこうして来ている、現実に。ならばは、一体何をするために世界を。何をさせるためにわたしを。わからない、わかるはずもない。とにかくこのことは、はかるには内緒にしよう。せっかく吹っ切れたってことにしたのに、まさかのことを直に知る人が船内にいるなんて、厄介なことになりかねない。とりあえず今は、実地でやるべきことをやるしかない。




 煙草三本ぶんの休息のあと、93にあてがわれた部屋に戻る。しかしまあちゃんとした構えだ、入ってすぐにカウチとテーブルがあり、進んで右手側の扉はスタジオというか制作ブース、左手側の扉はなんだろ、ベッドルームかな。あねえさん、の声のほうを見ると、DAWにトラックのパラデータを流し込んでいた。使えそう? 使えるどころじゃないすよ、ここに入ってるプラグインあれば今までのトラックもぐーっと改良できるかもー。そうなん。言いながら、コンソールの向こう側の部屋をガラス越しに眺める。あっこでボーカルと、あとアンプとかドラムキットとかのレコーディングもできる感じか。そうす。ギターまわりの機材どう。いちおうケンパーのヘッドも持って来てたすけど、まさかこんな船にヴィンテージのマーシャル積んでるとは思わなかったすよっおっおー。もし使えたらなんこかギタートラック録り直したいじゃないすかぁぁあああー。機材フリーク特有のバイブスになってるな。じゃ、とりあえず機材チェック終わったらミキシング試してみるか。そのつもりっすー。えっとはかるは……隣の部屋すよ。あっちか。重い防音扉を押し開き、隣室に歩み入る。

 お、いい感じの寝室じゃん。まあね。ただ……見ての通り問題があるんだけど。なに? なにって……これ。あ、ベッドふたつしかないな。ええ。私たち以外の出場者は全員二人組らしいから、ごっちゃにしたんだろうけど……まあいいじゃん、作曲合宿ソングキャンプのときも雑魚寝だったし。そうかな……半年間いるわけだから、もうひとつ増やしてもらったら。いーよいーよ、なんならわたしカウチで寝るし。漁火ちゃんもずっと制作ブースにいるかもしんないし。そういう問題……? あそうだ、めしはどこで喰えばいいのかな。たしか船内図にキッチンがあったけれど。そっか、見てこようかな、と思った瞬間に船内放送が入る。ブリッジよりご連絡申し上げます。これかな、さっきとは打って変わって他人行儀な声。ただいまより客船Yonahは、博多埠頭からアメリカ合衆国テキサス州のサン・ディエゴへと出港いたします。これよりおよそ二〇日間の航海を経て到着の予定です。それまで快適な海の旅をお楽しみくださいませ。は……二〇日!? 聞いてなかったの、これからテキサスまで直行だよ。ええ、知らないけどそんなの! 私宛の代表者メールにしか書いてなかったかな。ええ事前に読ませとけよそれ! 二〇日も船の中ってめっちゃ暇……とは言えないよ。えっ?

 これ、とはかるがスマートフォンの画面を見せる。今回の、χορόςの日程? が、英語で書かれている。エル・パソでオープニングセレモニーのあと、第一回目の公演がメキシコのカボ・ワン・ルーカスで。あれ、その横になんか93って書いてるけど。この公演は私たちがオープニングってこと。えっ。よく見て、第一回目のメキシコ公演、第二回目のペルー公演、第三回目のチリ公演は、それぞれ93、シィグゥ、Shamerockがオープニングで出るの。Shamerock!? いま気付いたの。気付いたつか知らせなかったんじゃんはかるが! うわーヒメたちと競うことになるのか。そう、私たちとシィグゥとShamerockは最初の三公演で特別にオープニングパフォーマンスがもうけられてて、そこで未発表の新曲披露が課されてる。えーなんでまた。私たち三組はあとの二組と比べて弱小だから、ここでチャンスを与えるってことじゃない。脚光を浴びるための、か。ていうか今回の一連のツアーってどんなルールなの、最終的には勝者を決めるわけでしょ。それはオープニングセレモニーで発表されるからなんとも言えないけど、とにかく私たちにとっては最初のメキシコ公演がブレイクスルーのチャンスってわけ。そこで披露する新曲用意しとかなきゃ、ってわけか。もしかして、そのために二〇日間の猶予を与えたっていう……そのあたりはシィグゥのほうが詳しいかもね、私たちより数日先んじてるわけだから。そっか。じゃあ訊いてみようかな。

 部屋を出て、突き当たりにある船内図を覗き込む。さすがにお隣さんってわけにはいかないか、結構歩くな。あっすぐそこにキッチンあんじゃん、覗いてこう。


 おー、うわ、すげえちゃんとしてる! グリルとコンロとフライヤーと電熱器と電子レンジと、銀色ぎらぎらの調理器具一式と、観音開きの冷蔵庫まで。あー、中華料理屋で働いてた頃のこと思い出すなー。何が入ってるんだろ、あこっち冷凍庫か。チーズとかフライとか、これは解凍して使うのな。冷蔵庫のほうは、おー野菜いっぱい。どこの港で積んだんだろ、ハングルのラベルがついてるから韓国か。この数字が搬入日付かな、こういうのは古いのから使わないと。トマトー、とチーズもあるから、カプレーゼいけるかも。ドレッシングどんなのあるかな。おっ中華料理ふうのやつ、合うかな。これはキャベツの千切りとかに使おう。ここはやっぱ定番の、あったエクストラヴァージンオイル。あとはバジル、ちゃんとした鮮度のやつ……おーあるある。よし、じゃあモッツァレラ見繕おう。

 トマトはちゃんと芯とらなきゃだめだよな。トマトの芯かじると猿の脳味噌喰ってる気分になるもんな、猿の脳味噌喰ったことないけど。チーズ溶けたかな、まあこのぐらいっしょ。で、あとはブラックペッパーさえあれば、できたーカプレーゼ。さらに肉料理と赤ワインもありゃ最高なんだけど、まあいいやこれだけで。

 うまー。ほぼ馬でしょこれ。これくらいは簡単に作れるんだ、いい船だなー。よっしゃわたしひとりで喰うのもったいない、これにちょっと足して持ってこう。海鮮あるかな? 冷凍庫に……んー白身じゃないんだよな、サーモン足してカルパッチョにしたいー。たしかもうひとつキッチンあるんだっけ、そっちのほうにないか。

 おうっ、と、出たところでハンにぶつかる。あっごめ。いやこっちこそ。

めししてたん。ちょっと軽くね、ここ使ったことある? まあ湯沸かしてジャージャー麺くらいかな。そうだハンさ、冷蔵庫にサーモンないかな? 使いたいんだけど見当たらなくてさ。サーモン、ならクーラーボックスにあるよ。クーラー? そう、気分転換がてら道具かりて釣ったんだよ。え、釣りたての! 昨日釣ったやつだけど使えるんじゃないかな。こっち! おう!

 んー魚うまく捌けるかなー。できないならやるよ、よーく見ときな。おー慣れたもんだねー、すごいじゃん。魚おろすのから鶏つぶすのまでお手のもんよ。すげ、韓国の子って普通そうなの。いやうちがちょっと特殊っていうか、やるしかなかったっていうか。へえ。ヨンは玉葱のほう準備しときな。あっそうだね、っていうか何その呼び名。え、だって龍だし。あ、そうか、クォンジーヨンヨンか。そうそう。あーじゃあ悪い気しないな。わたしはハン呼びでいい? もちろん。ステージネームあるの? いや本名通りハン、中にはHosannaって呼ぶやつもいるけど。ハンだからHosannaか、うまいじゃん。そもそも生まれが汝矣島ヨイドだからねえ。ヨイドって、世界一のメガチャーチがあるとこ? やっぱそれが有名なのか、まあそういうとこ。ってことはクリスチャンなの? ま、一応はね、そういうとこで育てられたし。へえ、テヤンみたいじゃん。はは、じゃああれだよ、ハレルーヤー。ぶはは、あれでしょ、ジヨンとテヤンとタプのやつでしょ。そうそう。ハレルーヤー。いいよねあの曲、いまいち歌詞のコンセプトがよくわかんないけど。あれもともとテレビドラマ用に書き下ろされた曲なんだよ。そうなん、知らなかった。




 Wassuuuuuupp!! と、威勢のいい声と共に扉が開かれる。ハン、と先ほどヤスミンと呼ばれていた子、が三人で皿とボウルを持って。まだちゃんと挨拶してないと思ってなー! と大袈裟な身振りで腕を振るハン、めしにしようよ、料理手伝ってくれたんだよ。と笑う、と……気後れしたようなおもちで肩を組まれて立ち尽くしている子。カルパッチョと海鮮サラダー! つくったからみんなで食べよ、漁火ちゃんも呼んできて。と言いながら、丁寧に盛り付けられた皿ふたつと、大雑把に切り刻まれたサラダのボウル盛りがテーブルに置かれる。こいつがはかるね、キーボードとかコーラスとかやってる。おーMcAloonだろ? よろしく! あたしがレペゼン韓国のハンだ! ええ、知ってる。カウチに座って小皿と箸を配り始めるが、その傍に所在なさげに佇立している人のことは放置なのか。あの、ハン、さん。さんいらないよ、どしたん? えっと、そちらのかたは。まだ紹介終わってないでしょう。ああそうだった、うちの相方、ツァイモォリィ。a.k.a.ヤスミン。だから、人前でその呼び方やめてって……と初めて彼女の方から物を言う。いいじゃん名前の意味まんまなんだし、だいいちモォリィじゃ白人の男みたいじゃん。どんな字なの? と訊かれると、そそくさとポケットからスマートフォンを取り出す。おーすげ、くさかんむりがみっつも。え、ああ……どしたヤスミン? なんだか、久々に漢字文化圏の人と会ったって感じする。なんだよそれ、あたし仲間外れにすんなよー。おーなんすか、めしっすか! そうそうみんなで一緒にと思ってさ。漁火ちゃんこっちね、はかるなんか飲みもんない? この部屋にはペリエの炭酸水くらいしかないけど……それでいいよ、持ってきて。これあれすか、かるぱっちょみたいな。そうそれとカプレーゼ。あたしとヨンで作ったんだぞー。サーモン捌いたばっかだから新鮮なはずだよ。いいすね! ちょっごめわたしが最初に食べていい? はははなんだよ、振る舞うんじゃないのかよ。いや味見したくてさ、ちょっとひとつ……

 うーまーっ! ほぼ馬でしょこれ。え!? さしすかこれ。ぶはは、そういう意味で言ったんじゃないよ。じゃあどういう意味で言ったの……ほいヤスミン、好き嫌いしなさんな。野菜嫌いなの、くさかんむりみっつもあるのに? というか、消化にあまりよくないものが、好きじゃない……かな。ぶははなんそれ、消化によくないものが嫌いって新しいな。ちょっと胃が弱いらしくてさ。そっか。でも生野菜ってあれだよ、茹でたのよりも消化にカロリー使うから、食べると寝付きが良くなるんだよ。そうなの。そうそう、寝不足の時とかボウルいっぱいの野菜にドレッシングばーってかけたやつ喰って、数十分後に布団入ったらすぐ眠れるよ。へえ……ほんとこのサーモン良いすねー。でしょ、ハンが釣ったらしい。ここ釣りできるんすか! 道具貸してくれるからやったらいいよ、あたしはサーモンとかカツオとか釣った。おーいいっすねー。あどうも、あたし漁火イリチっていいます、沖縄生まれっす。沖縄、ってことはヤスミンと近いね。どこっすか? 台湾。へー! 正確には台北の信義区。ってことは国籍違うふたりで組んでるのか。χορόςは代表者の国籍で登録されるから、そのメンバーはどこ出身でもいいんだよ、Defiantディファイアントもアメリカとロシアだしね。なんすかそれ? 今回のχορόςの出場者、知らない? そうそうわたしらアメリカまで二〇日もあるってことすら知らなくてさ、そのへんのこと教えてよ。ああ、まあ、あたしらだけ開会式前に楽曲制作の猶予期間がある、ってだけだよ。運営の意向で? うん、シィグゥも93もどっちもインディペンデントの活動だし、両巨頭や決勝進出経験のあるShamerockとは差があるから、それまでに底上げをってことらしい。え、今回Shamerockも一緒なんすか!? そうそうわたしもさっき知らされたんだよ。この後オープニングセレモニーで明かされることだから、今でなくてもいいと思ってね……で、その両巨頭ってのは? そりゃあ、もちろん前年のχορός優勝者のInnuendo。イングランドのか。そう。で、その前年優勝者の対抗馬としてアメリカのリアリティ番組で大々的にオーディションかけて結成されたユニット、Defiantディファイアント。対抗馬ってことは、用意されたってこと? まあ、χορόςが北米まで版図を広げるにあたって出た企画らしいんだけどね。今回のラテンアメリカクルージングにも、そのリアリティ番組の主催やったA-Primeって会社が関わってんだよ。Dyslexiconだけじゃなくて? あれはχορός全体の統括だから、各クルージングの運営はそれぞれ別の会社に委託してるらしい。まあ、現実的に考えたらそうか……また教授キョウジュたちと会えるの楽しみっすねー! まあね、強敵が増えたとも言えるけど。ていうかさ、そもそもなんでχορόςに出場したの、93は? えっ? あたしにはあるよ、ちゃんと理由が。これで優勝したら結婚する約束の相手がいるんだ。まじか。χορόςで優勝したらいっぱしのミュージシャンと認めてくれ、ってんでね。Shamerockのヒメにも、前回Innuendoにけた因縁がある。93はどう? なんかこのために来たみたいなの、あんの?

 んー……これは、ね。なに、言ったらまずいやつ? まずくはないけど……、無理には。いやいいよ、今のうち言っとこう。なになに? えーっとね……そもそも関わってるらしいんだよね、GILAffeジラフに。そのばかげた発明したやつが、わたしの昔つきあってたやつらしい。え! そいつをさがしに、ってんじゃないけど、どうも無関係じゃいられないっていうか、ばれてる、っていうか……χορόςで世界を回れば何かわかるかもって、そう思ってここまで来たんだ。そんなことが……しかしまあGILAffeジラフなんてネーミング、よく付けたなって思うよ。わかる、最初からこのアクロニムありきで考えたろって感じするよね、ヒップホップっぽい。あはは、そいつの名前っていうんだけどね。ぶはは、じゃあ完全にそうじゃん、自分の名前じゃん。ジラフってきりんすか。そうだよ、さらに苗字が百済くだらだから、ラクダでキリン。っははは、ラクダでキリンやばい、首超長い。でも……おっどうしたヤスミン? そもそもジラフって麒麟とは違うんだよね。えっ? たしか、学名 Giraffa のほうのキリンは漢字の麒麟とは別で、ていが永楽帝に献上した動物をそう呼んだだけ。だから漢字で表記する麒麟と Giraffa のキリンはそれぞれ別の存在なはず。へーそうなのか。翻訳ってそういうとこあるよね、同じ言葉で違ってたり、違う言葉で同じだったり。確かにね。錬丹術を chinese alchemy っていうけど、西洋の alchemy のほうが時系列的にはずっと後だものね。そうなんですか。おっヤスミンも知らなかったか。後に来るものが前にあったものの先祖づらしたり、あるいはずっと昔にあったものが後に来るものを先取りしてたり、ね。名付けって不思議だよな、時間も空間も入り混じってるっていうか。も、今その名前で生きてるかどうかはわからないんだけどね。でもさあ、そんなどでかい発明しちゃうやつと一時とはいえ付き合ってたって、すごいなヨン。もしかしたらそのもχορός見てくれてるかもよ。あー……バラしちゃうけど、そのってDyslexiconのドゥさんと知り合いらしい。マジか! じゃあ見てくれてんの確実じゃん。うん……えっどしたん? だってそれが動機なんだろ。このまま有名になれば、ヨンの歌、届くかもよ。うん……いや、そうなんだけど、そうじゃないんだよな。えっ?

 これさ、はかるにも言ってなかったことだけどさ。

 うん。

 聴こえないんだよ、。耳がじゃなくて、音楽が。「先天性失音楽症」。音程の違いを一切感知できないって、そう言ってた。


 そんなの、あんの。うん、八〇年代の論文にはもう出てるらしい。学習困難とか短期記憶障害とかのせいでもなくて、音声のイントネーションはわかるのに音程の曲線を一切感知できない人がいるって。物心ついたときからそうだったって、言ってた。そんなのが……わたし、と最初に会ったの、ぞくっていう映画制作チームの上映イベントだったんだけどさ。そのアフターでタイのヒップホップ流すパーティーがあって、そこでひときわ目立ってたやつがいて。話しかけたら、「わたしの代わりに音楽を理解できる人を探してる」って言われて。そのとき、付き合ってた男ともうまくいってなかった時期でさ、それで。で、何? えっ? それじゃあ私たちは、生まれつき音楽が理解できないさんに、同情でもしたらいいのかな。あいつがあなたにしたことも全部チャラにしてあげよう、とでも。いやそんなこと言ってないよ。ていうかどんなことされたんだよ。いやそのへんは省くけどさ……でも今考えたら、あのときから全部繋がってたのかな。に理解できないこと、音楽、において優れた人たちをこうして……集めて、それで何を? さあ……そればかりは、わかんないな。


 箸が止まってるけど。え? 食べないなら全部もらおうかな。あーおいはかる、サーモンばっか取んなよぉ! ヤスミンさん一切れも食べてないでしょう、どうぞ。あ、どうも……あたしカプレーゼもらっていいすか? いいよ、ただこれ失敗したなーチーズ溶けすぎたかも。確かに、でろーんてなっちゃってるよな。見せて、このくらいならね……、ライター貸して。いいけど何するん。こうやって、チーズの表面だけを……おお、炙るのか。焦げたところだけ固くなるから、食感は良くなると思う。おーほんとだ、うまー! 炙っただけなのに! イリチ、冷蔵庫にショコラあったでしょう? ちょっと持ってきて。いいっすよ。こうしてね、ショコラとチーズを一切れずつ並べて……うん。一緒に火で炙ると、片方が溶けて片方が固くなって……おーすげえ! ビスケットに乗せるのが一番いいんだけどね、トマトでも合うかも。食べてみて。いただきま……うわーうまー! ほんとだ! 甘いのと酸っぱいのと、ふわっとしたのとシャキっとしたのと両方! うまー!! ほぼ馬!! ほぼ馬!! ほぼ馬だこれ!! ちょっとヤスミンも食べなこれ! ほぼ馬……?




 みんなで囲んだ食卓も片付け、そろそろ仕事に呼ばれる頃合い。ねえさんどの曲からやりましょー? やっぱ『Grace & Gravity』じゃないの。未発表だし、これが勝負曲ってことになると思う。あの日本決勝戦で披露しなかったのも、偶然とはいえ僥倖だったのかもね。まあね、ただ……どうしたの? 書き直さなきゃいけない、と思うんだよね、歌詞。え、全部すか。いや、セカンドヴァース以降は三人のボーカルが絡むから変えないけど、ファーストがね……ちょっと、あのことがあった後では、「上昇と下降」ってテーマで書くには詰めが甘かった気がしてるんだよな。まあ、実際に落ちたからね。文字通りにね。だから、改善の余地があると思う。わたしらの見せ場になる第一公演、メキシコだっけ? ええ。その日までには書き上げるから、ちょっと猶予もらえるかな……もちろんいいすよ。じゃ、まずここのプラグイン使ってミキシングしましょ。いいね、やっぱキックからかな。さっきちょっとプリセット作ったんすよ、これ。おー、あは、一気にプロっぽい! ローファイなヒップホップ感出すなら向かないかもすけど、とりあえずウェルメイドっぽい質感で勝負するならこれっすかねー。そっか、ライブ会場での聴きえも考えないとな……まず、やり慣れた曲から修正してみたら。『好きなように唄いやがれ』すね。おし、やってみよう。


 んー。だいぶ整った気はするけどね。でもその整いかたがなー、キレイすぎるっていうか……そもそもビートの音質がそうなんじゃないすか? え? そう、あなたならもっとざらついた音にするかと思ったけど。いやそれはまあ……あ!! なんすか。あるじゃん、あのときなかったのが今あるじゃん、MPC 3000! おー、あれでビート打ち直しっすか! この曲にはぜったい合うよ、ちょっと試してみよ、頼むよーちゃんと動いてくれよー……


 あああ、たまらんなーこの無骨な音……なるほど、ねえさんの頭の中で鳴ってたのこういう音だったすか。あの時は色々な制約があったからとりあえず間に合わせたけど、この音質でぐっと近くなったな、ほんのりJ・ディラ感出てきたし。あ、まずいワードが出てきたね……なに? ビートメイカーが「J・ディラ感」と自称するのって、味のある揺らぎを謂ってるよりは、単に乱雑に手打ちした結果を良いと思い込んでるだけで……やめろよーそういうこと言うの! いいんだよこれで、フックのとこも打ち直すから。


 あー……やっぱ直したがいいなこれ。でしょ。クォンタイズ……の問題じゃないな、なんか根本的に足りてない……やべすげえ恥ずかしい、これで「J・ディラ感」とか言ってたの……いいすよしかたないすよ、誰だって初めての機材でやるとそんな感じすよ。うん……せっかくだし、今のねえさんにあわせてビートも打ち直したらどうすかね? 初めに作曲合宿ソングキャンプやったときとはフロウも変わってるはずすよ。そっか……じゃあ試しにクリックだけ聴いて録ってみるか。いいと思う、そこからビートも肉付けしたら。おう、よっしゃ漁火ちゃん他のオケはありでビートは消して、クリックだけ流して。全部ワンテイクで録って、ビートはそのあと考えよう。了解すー。


 これで……ちょっとボーカルトラックだけ聴きながらビート打っていい? 新しいすね。うん、他のトラックと合うかはわからないけど……やってみて。こういう……おおー。ループで行こうと思うんだけど、どうかな。ちょっとペーストしてみて……あっ。おーいいじゃないすかー! タイト、というのも違う……妙な感じになったね。妙って良い意味で? もちろん。フックもこの感じでやります? いや、ヴァースとは全く別の感じにしたい。なんかあんじゃん、生音のスネアの音コピペしてゴボボボボボみたいな……ああ、一時期トリップホップでよく聴いたやつ? 多分それ、フックはそういう感じにしたいんだけどさ、とりあえず次のヴァースのビート打たして。こっちはコピペじゃなくて完全ワンテイクでやりたい。


 えもう八時、夜? そうね。うわー一曲のリメイクにこんな時間かけて……いいから、とりあえず頭から聴きましょう。うん。あー……リメイクっていうか、あの時できなくて今できることの盛り合わせって感じだな。良い……と思う。ほんと? とりあえず私たちはここまで来た、って実感がトラックに表れてるというか……そう、そのつもりでやったんだよ。あー、姉さんの今のフロウ聴いてるとギターも録り直したくなるー。ライブではギターも生演奏なんだから、今でなくていい。じゃあ漁火ちゃん、ビート周りのエディットやろう、とくにコンプとEQ。了解っすー。


 ……じゃあこれ基準で『Grace & Gravity』もいじってみます? いやちょっと待って、あっちはわたしたちの一番新しい曲で、こっちは一番最初に作った曲だから……その両方を同じ音質にすると違和感あると思う。そうね、だいぶ耳も慣れちゃってるし、このトラックに関して今日のところは保存したほうが。あ、うわーもう一〇時半! 今日の進捗これだけかー? とにかくミックス作業はここまでで、イリチ。ギターまわりの機材でも固めましょうか、レコーディングで使えそうなのとステージに持ち出すのと。了解っす、じゃあこのへんでねえさん休憩でも。だね、あと作詞どうかしないとな……じゃあ外の空気吸ってくるよ、あと夜食に良さそうなのあったら持ってくる。ええ。


 あっそういえば、自分の部屋以外で作詞するのなんて初めてだ……うわー大丈夫かなー。いつもの蔵書なしで作業に入るってのも、すごい不全感があるというか……いやこんなことでぐずっててどうする、慣れてかなきゃいけないんだこれに。猶予は約二〇日、その間にχορόςに出しても恥ずかしくない質の球数準備しなきゃ……夜遅くまでお疲れ様です。あ。、と気安く名前呼びするのも躊躇われて、いやまあこっちの台詞だけどね、あなたもブリッジに缶詰でしょ、いつ寝てんの? とでも訊いてみる。ワタシが操縦しているわけではありませんから、どちらかといえば手持ち無沙汰ですよ。えっ、そうなの? ワタシは船員主務にすぎませんから、皆様に不便がないか目を配るだけの役割です。えっ、てことはこの船、操縦士なしなの。すべて自動制御で行なっておりますので。そんなのあるか、はるばるアメリカまでの航路を自動でって。と訝っていると、いちおう艦長と副艦長の地位にある人もおりますが、今は不在で、サン・ディエゴ停泊中に迎える手筈になっております。と告げられる。へえ……じゃあ、わたしらも航空便でテキサスまで行って現地で合流でよかったんじゃないの? この船はそもそも日本からの提供なので、整備も含めて東アジアから出港する手筈になったのです。艦長と副艦長を務めるのも、元自衛官のふたりですしね。えっ、海自。いえ、陸上自衛隊。なんでだよ、おかしいだろ人選が。しかもなに元って、現役じゃないってこと。まあ、そのへんに関しては……おのみち。言うとともに、わたしとの傍らにひとつの人影が立ち上がる、というか、投射される。おのみちですが。うわあ!! なに。なに急に。よりすこし背が高いくらいの、髪をオールバックでまとめた、灰色の詰襟姿の男性らしきものが唐突に口を開いたのだから、そんなに驚かなくても。と笑うのほうがどうかしてる。そりゃビビるでしょ、なにこれ、人? 生きてんの? 船員サーヴィスAIの、立体活動素体。を3Dプリンターで呼び出しただけなので、人間扱いはしなくていいと思いますが。って、さらっとひどいこと言ってないか。客船Yonahに関するあらかたの情報はこのおのみちが知っているので、ご興味ございましたら直接どうぞ。ふわあ、とあくびを漏らすの横顔を眺めながら、ああこのAIに仕事全部投げてんだなこいつは、と諒解する。えと、おのみち、だっけ? はい。名前呼んだら出て来てくれんの? 船内にはくまなく3Dプリンターが配備されておりますので、御用命のことがございましたら。なんか会話はちゃんと成立するのに表情との違和がすごいな、これが不気味の谷ってやつか。なんかこの船オーバーテクノロジーばっか積んでない? ははっ、GILAffeジラフのための手術も受けた方が何をおっしゃいますやら。まあ、そうだけどね……えっとおのみち、とりあえず今はいいや、休んどいて。どうせ普段こいつにこき使われてるだろ。とのほうを指差すと、ええ、まあ……と言葉を濁す。目の色は全然変わらないのに口元だけむにゃむにゃするのが面白いな。それではおのみち、下がりなさい。とが言うと、そこに存在していた人間らしきものは青白い光線とともに、編み物の過程を逆回しするかのようにほつれて消えた。

 なんか、あなたといると訊きたいことばっか増えまくっていけないな……ははっ、ワタシに答えられることでしたらなんなりと。いや遠慮しとく、ひとつ訊くたびに新しい質問が倍になるだろうから……じゃね、あなたも夜は冷えるから気をつけなよ。、と名前でお呼びになってもいいのですよ。うーん……まだそこまで親しみ持てないから。ははっ、それでは様もご自愛なさって。様とかつけんでいいーむずかゆい。


 さて、喫煙所……いや、夜中に潮風に当てられながらタバコって、いくらなんでも寒いか。とりあえずキッチンで夜食に良さそうなもの、たしか肉まんあったはず。そうだせっかくだから陣中見舞とかいって、シィグゥのとこ潜り込んでみようか。いや作業中は入れてくれないかな……


 おーっす! こんばんはーごめんねいきなり、肉まん持ってきたんだけど。おーちょうどいい、そろそろ一段落かなと思ってたんだよ。ヤスミンお茶にしよう、ヨンが肉まん持ってきたぞー点心ー! と呼ばわると、奥の制作ブースからヤスミンが顔を出す。やっぱりわたしらの部屋と同じ間取りなのか。

 どうよ乗船一日目は? とりあえず部屋の機材色々いじってるうちに終わったよ、そっちは? あたしらはもう二日目だからな、とりあえず三曲できたよ。えっ新曲? もちろん。すげー……いやあ、ソウルのスタジオで働きながらつくってた頃と比べると、時間がありすぎて逆に焦るっていうか。かじられた肉まんがハンの鼻先で、急須がヤスミンの手元で湯気を立てる。ハンはとにかく多作だからね……おーありがと。さんも。どうもー。明るい色のお茶が注がれる。これなんていうの。ヤスミン茶。ハン、それ全然面白くないから……黄金桂っていうお茶です。あー、もしかしたら飲んだことあるかも……はかると住んでた頃によく行った輸入品店で買ったかな。へえ、そんな前からの付き合いなのか。まあ、高校の頃からの腐れ縁でね……そもそも作曲っていうか、音楽理論教えてくれたのもはかるだったし。となんとはなしに言うと、さんも……作曲するんですか。と、初めてヤスミンが前のめりに話題を向けた。うん、全部ってわけではないけど、曲のテーマとかアイデア出しはわたしきっかけが多い。そうですか……と視線を逸らし、またなにか物思いにふけるような顔。の意味も、どこか察せられるような気がした。いやヤスミンも最近がんばってるよ、とくに今日やったのとかさあ。と笑うハンの言葉にも、でも結局没になったし、あの代案として出したハンのベースラインが良かっただけだし……と語尾が消沈する。ああ、なんかわかってきたな。気まずくないと言ったら嘘になるけど、かといってわたしがなんか賑やかすのもな、と思っていると、私だって思いますよ、エリオットのようにできたらって。と捨て鉢にすら聞こえる口吻で言う。エリオットって……T・S? 英文学好きなの? と言ってみると、エリザベス・エリオットElizabeth Eliot。Innuendoのうちのひとり。とハンが注釈する。あれか、前回ソロでやってた頃のヒメを下した。そう、っていうかヨンヒメって呼ぶのか。先月福岡で共演したからさー。いいなー、あたしも行きたいくらいだったなーミッシーとヨンとあたしの3MCで……ハン、話がずれてる。ああごめん、でそのエリザベスってχορόςに出る前から色々なプロジェクト主催してて、Innuendoでも中心人物として、いや二人組のユニットで中心っておかしいか、とにかくリーダーとして全部のクリエイションをコントロールしてる。へえ。ほんとうにすごい、ああはなれない……独り言をつぶやくだけだったヤスミンが、さんもすごいと思います、自分以外の作曲家とかギタリストとかと共作してるんですから。と唐突に気負ったような口調で言う。いやそんなことないよ、わたしも一人だけの時期が長かったし。そうなんですか? うん、なんというか、ほとんどリハビリみたいな感じで無闇に作って、それをずーっと続けてたらはかるが良いって言ってくれて……それが93の始まりみたいなもんかな。だいぶ端折ったけど、謂おうとしたことは伝わったらしく、リハビリ……とまた緘黙に沈むかと思いきや、なんだか、わかる気がします、私にも。と、薄明を手掛かりにするような覚束なさで声を漏らした。

 ほい、じゃあ悩めるヤスミンの頑張りの結果を聴いてみましょうか。言うと同時にスマートフォンを点灯させ、すかさず音源を再生し始めるハン。ちょっ、と狼狽しながら再生を止めようとするヤスミン。いいからいいから、まだ歌すら入ってないんだしー。でもそんな作りかけの……いいよヨンにも聴いてもらおう、どう思う? おーなんかシンコペーションしないビートだね、ヒップホップではあんま聴かないから新鮮。でしょ、今あたしらが探ってるのこっちなんだよ。キックがけっこう重いのにベースラインがトレブリーなのが良いね。おおーそうそうそのバランス! ほらヤスミン伝わってるよ、うまくいってるってことだよ! ハンの笑みを前にしても不服げなヤスミン。ていうかいいの聴かせてもらっちゃって、いちおう競い合う相手だよ? そんなカタいこと考えんなよ、まだ開会もしてないんだし。こうやって作る過程でいろんな意見もらうのも楽しみの一つじゃん。たしかに、むしろわたし作る過程のためにやってるんじゃないかって思うことあるよ。わかるわー。との応答に挟まれて、えっ……と小さく漏らすヤスミン。過程のために……そう。難しかったり、辛かったりばかりなのに、ですか。もちろんしんどいけど、それ以上のものがあるじゃん。それ以上……? なんていうか、続けること自体が、みたいなさ、あーうまく言えないけど……いやわかるよヨン。ヤスミンもさ、楽しんだらいいよ。基本だめになるよ、無駄になることばかりだよ。でもさ、やったこと全部が報われるなら、そう約束されてるんなら、あたしは最初から何もしないと思うな。でしょヨンも。そうそう、報われなくてもいいよ。無駄でもいい。無駄、でも……

 あっ再生終わっちった、話しててちゃんと聴こえなかったっしょ? もう一回……も、もういいよ。なんだよーヤスミンが自信持ってくれるまで聴いてもらうんですけどー。もういいから、わかんないけど、わかったから……何が? えっと、続けなきゃいけないってことが……明日からも。そうだね。時間はたっぷりあるんだよヤスミン。楽しもう。うん……

 なんか、ヨンがあたしらの仲取り持ってくれたみたいなー。いやそんなんじゃないよ、わたしただシィグゥのスタジオ潜入に……あ言っちゃった。あはは、いいよ、落ちてたヤスミン励ましてくれたお礼にさ。べつに落ちてないって……せっかくだから持ってけよこれ、いちおうCDにまとめといたんだ。おーこれ、教授キョウジュと組んだミックステープ? そうそう、あたしとあいつのトラック半々ずつ出しあって作った。あとあたしの未発表のビート素材とかも入ってるから。いいのこれもらっちゃって? 聴いてもらってこその音楽だからな。あたしにとって何でもない曲が、誰かにとってはダイヤの原石かもしれないし。うおーありがと、じゃあわたしらもこういうの渡せるようにするよ! おう、じゃ今夜ももうひと踏ん張りするかー。あの、さん……ありがとうございました。いやこっちの台詞だよ、ていうかさんいらないって。じゃあ……また明日にでも。おう、頑張ろお互いに。


 とかやってるうちに早々に日々は過ぎゆくもので、おのみちいる? おのみちですが。おー露天でも出てくるのか。あのさ釣竿貸してくんない? 構いませんが、釣りをするなら救命胴衣の着用を。えー大丈夫だって落ちないってば。あなたが言うとフリにしか聞こえないけどね。あんなん二度もするかよー。胴衣と釣具一式と、加えてクーラーボックス、でよろしいですか。それでいいすよ。では。うわっ消えた。幽霊船みたいだなーここ。いいじゃないそれ、詞のネタにしてみたら、えー船ねえ……酔いどれ船……『Drunkship of Lanterns』……そうだ今回ラテンアメリカ回るわけだから、マーズ・ヴォルタっぽい曲もあったほうがいいかな……だめだうまくいってない自由連想だこれは。とか、いいねーこの海鮮カレー。でしょー。これから毎週いちどはカレーにしようかな自衛隊みたいに。ずーっと船の中だと時間の感覚狂うよなー。どうそっちの進捗は。とりあえずアルバム一枚分はできたし、今はパフォーマンスどうするか練る段階。えーほんと速いな。ヨンもこの前聴かせてくれたビートよかったじゃん、ライブ栄えするよあれは。まあねえ、でも詞がねえ……あーおのみちビール持ってきて。ありません。え!? いやハイトじゃなくてもいいよ。ビール自体がもうありません。えーまじか!! ちょっとに言って途中の港で足しといてもらってよ。もうハワイ諸島も過ぎましたので、ここからは北回帰線に沿って寄港なしの航路となります。じゃあタバコも足せないってことじゃん、うあーどうやって作業しろっての! はは、大変だな。ハンタバコ吸わないの。吸ったら好きになるかもだけど、そういうの覚えるヒマなかったから。いやーそっちのほうがいいよ……無いとそんなに支障あんの? なんかな、書く前に吸わないと頭の冴えが違うっていうか、あ知ってる? アセチルコリンっていって脳内のシナプスを……とか、あれ電波圏外になってる。はかるのも? ええ。そっかーじゃあもう意味ないなこれ。でも船の中Wi-Fiあるんでビデオ通話なら使えるすよ、あたしたまにちぬんとやってるっす。あなたもきゅうぞうとしてみたら。しねーわ、そもそもガラケーだっての。とかしてる間に、ブリッジよりお知らせ申し上げます、ただいまよりおよそ一二時間後、アメリカ合衆国テキサス州サン・ディエゴ港に到着いたします。現地時間で一月二六日、朝八時頃。以降は陸路にてオープニングセレモニー会場のアブラハム・チャベス・シアターまで移動しますので、最小限の荷物のみご用意ください、となる。まあ、この二〇日間でやれるだけのことはやったはずだ。ただ唯一の心残りは、『Grace & Gravity』の詞が結局一行いちぎょうも書けなかったことだが。なんで作詞だけうまくいかないんだ……まだメキシコ公演まで時間はあるから、焦らなくていい。うん……やっぱもうちょっと蔵書持ってくればよかったな、火薬庫なしで戦ってる感がすごい。確かに、作詞の合間で必ず手に取ってしまう本ってあるね。書き終わった後に読んであっ足りてなかったって気付かされる本とかもね。作曲編曲と違って作詞は独りでやるしかないから、まだ身体が慣れてないのかもね。身体かー……たしかに何か書くときの身体ってあるよな、そうならないと書けない。わたしの力量不足ってことかあ……ほら、もうすぐ到着するから準備なさい。


 サン・ディエゴ港からタクシーで鉄道まで移動し、サム・ペキンパーの映画に出てきそうな列車に乗る。そもそもなんでエル・パソなの、いわゆる西海岸でもよかったわけでしょ。やはりこれから巡るラテンアメリカに近いというのと、セレモニーで司会を務めるDefiantのイネス様の出身地だから、というのが大きいですね。イネス……? イネス・ンデュマInés N’Dumas。対Innuendo用のユニット結成を目的とする、A-Prime主催のリアリティ番組でアメリカ代表として選出された。ああ、例の。プレスとか相当集まってるんじゃないすか。もちろん。式は最後までDefiantとInnuendoが執り仕切るので、皆様にマイクが向けられることは無いと思いますが、カメラには映されますので、念頭に置いていただければと。あれか、映画スターの賞レース中継みたいな。はかるはそういうの得意だよね、ブラピっぽい仕草できるし。ブラピっぽい仕草って何。

 さすがテキサス州となると、陸路での移動にも時間がかかり、会場到着時にはもう午後六時を回っていた。一時間後に始まりますので、皆様は今のうちに着替えを済ませていただければ。おーついに開会だよヤスミン。うん……そっち衣装どうする? 無理して着飾っても仕方ないし、いつもの感じにするよ、ファンもそれが見たいだろうし。だよね。じゃあそんなひねらなくていいようちも。そっすね。ええ。おっミッシーからメールだ、Wi-Fi繋いだら一気に来た。教授キョウジュいるんすか! たぶんもう着いてると思うけど。




 Highness! Professor! と、歓声で迎えてくれるのは空港と変わらない。が、ここではにこやかに手を振る気にもなれない。すでにいるんだもんな、奴らが。ヒメ、通路こっち。と促されるままに歩く。につれて、あたしらのファンとは別の歓声が、次第に音量を増すのがわかった。

 入口正面に至ると、いた。いるよな、いるに決まってるよな。一年待ったぞ、こうしてまた会えるのを。こちらの存在を察したエリザベス、あのクイーン・ビッチが、いやに鷹揚とした仕草で向き直る。

 こんないやな、めでたい日もない。

 言うと、にやりといけ好かない笑みを向ける。こいつをぶっ叩くために来たんだあたしは。正面に奴らの、後方にあたしらのファンの視線を受けながら続ける。一年間の栄華はどうだった? 退屈だよな、退屈だったろうな、誰も玉座を脅かしてくれないってのは。安心していいぞ、おまえらの全盛期はもう終わる。世界はこれから、Innuendoの落日を半年かけて見届けることになる。せめて墓碑銘くらいは彫ってやるから、今のうちに辞世の句でも用意しておくことだな。

 言い終えると、やつらのファンがにわかにざわめき出す。煽ったんだから当然だが。それにつられてあたしらのファンも色めき立つ。のを察したのか、エリザベスの後方に控えていた、あの仕立屋が、右足を揚げ、踵を床に叩きつけた。周囲に打音が響くとともに、ざわめきが一掃され、やつらのファンは通路入口へと横隊の列を組んだ。なるほど、よく躾けられている。エリザベスは周囲の様子を満足げに見渡し、歩きにくそうなあのドレスの裾を翻し、あたしの傍らまで歩いてくる。

 一人では届かなかったから今度は二人で、なんて、素敵な算数ねおヒメ様。しかし、以前にまみえたときに備わっていた孤高さまでもが損なわれて見えるのは、気のせいかしら?

 ぐるり、とあたしの後頭を半周しながら囁きかける。気取って語尾を上げ下げするのがいやらしい。あたしの左手が届く位置で背中を見せながら、右目だけをこちらへ向け、相も変わらず鷹揚に言う。

 嬉しくてたまらないわ、今度は屈辱を二倍にしてあげられるなんて。あなたもそのお友達も、どうあってもInnuendoには匹敵しない。今度こそ身の程を思い知ったら、もう歌の道なんか諦めて……尼寺にでも行きなさい。

 言い終わると、通路の向こうへ去ってゆく。左右横隊で控えたファンたちも低頭でその姿を見送り、あの仕立屋も背を向ける。

 髪型変えた?

 と言うのはミッシーである。いつも通りの微笑を浮かべながら、あの仕立屋の肩口から後頭部の稜線を指差でなぞりながら続ける。襟足刈り込むのもまあいいとは思うけど、アシメで側頭の髪垂らして、もう片方を編み上げてまとめたら、もっと良くなったと思うよ。背に向けられた言葉を意にも介さず、仕立屋は入口扉を押し開く。エリザベスは一瞥もくれず中へと消える。

 なんの助言だミッシー。ヒメだってあんな喧嘩腰でいくことないじゃん、まだ開戦前なんだからハッピーにいこうよ。あのな、ここでにこやかに振舞ってどうする……もう行くぞ。言いながら、後方にわだかまっていたファンたちにも手を振る。今日初めて愛想よくしたせいか黄色い歓声が。じゃあねみんなー、本戦始まったらまたよろしくー! あっ英語で言えばよかったかな。まあいいだろう……なんかもうすっかりクセでさ、式も日本語でやるのかなー。まだGILAffeジラフは全面的に知られてないから、両方混ぜこぜでやるんじゃないか。




 裏で控えていると、明らかに周囲スタッフの慌ただしさが色を濃くするのがわかる。InnuendoとDefiantが会場入りしたようですね。とが言うので、ドゥさんは来ないの、と訊いてみる。このラテンアメリカツアーだけがχορόςではありませんから、必ず来られるわけではありませんよ。だからこそ今回の運営はA-Primeに委託してるわけですし。そっか、じゃあこの開会式もそっちの仕切りか。ただ、GILAffeジラフの一般提供開始の告知だけは、抜かりなくやってもらいますけどね。え、これ解禁すんの!? すでにχορός出場者のファンたちを通して存在自体は知られていたわけですし、さほどの衝撃はないでしょう。今回の開会式はDyslexiconが提供する革新的技術のプロモーションも兼ねて、ですよ。そっかいきなり出したらパニックになるから順を追ったわけか。ドゥさんって結構やり手だな……と思っていると、五分後に時間通り開会、の声がスタッフから。それでは、皆様よろしいですか。おうよ! うん……おっすー。ええ。まあ開会式だし、あんま気負わずにいこう。


 エル・パソー!! の吶喊とっかんとともに会場は大歓声に包まれる。待たせたな、いよいよχορόςラテンアメリカツアーの開幕だ。司会を務めさせてもらうのは、ご存知お前らのファンキー・プレジデンタ、ソルSorフアナJuanaイネス・ンデュマInés N’Dumas! なんで日本語で話してるのかって? それはGILAffeジラフ作ったやつに文句言ってくれ、これが標準だから仕方ないんだ。と言うとともにプレス席から笑いが漏れる。このへんに字幕出てるはずだから問題ないだろ? さ、もちろんDefiantにはもう一人いる。国籍は違えど志は同じ、ストレイト・アウタ・ペテルブルク、ゾフィアЗофииクロソウスカКлоссовска! の紹介とともに、黒髪に藍色のメッシュが入った女性がイネスの傍らに。ようソーニャ、一発なんか気の利いた挨拶を。のフリののちに、場内にいきなり早口のロシア語が流れ、会場の一部の観衆から爆笑が噴き上がる。えっなに。あっちの席にはロシア移民のファンが、ってことかもね。イネスは壇上で大笑いしながら、さらに自分もロシア語で話し始める。それにゾフィアもロシア語で返す。のやりとりが四往復ほどあり、場内はロシア語漫談のモンティ・パイソンめいたバイブスで満場大笑いとなっていた。てな感じでー、異文化コミュニケーションも自由自在に楽しめる画期的発明、GILAffeジラフってやつが世界各国で提供開始になるらしいから、知りたいやつはこのへんのアドレスにアクセスしてくれ。あプロモーションのためかこれ、抜かりないな。それじゃ、さっそく今回のツアーの説明に入るぞー。


 式自体は、丁寧に勘所を押さえて進行していった。今回のχορόςラテンアメリカツアーは、Innuendo、Defiant、Shamerock、シィグゥ、93の五組によるスプリット公演であること。客船Yonahが各国の港に接岸し、船内の一部も含めた周囲一帯がライブ会場となること。などが説明されたあと、今回のツアーでは最終的に一組の優勝者を決めるわけだが、そのルールを説明しよう。まず会場に直接来てくれた客と、同時にYouTubeチャンネルで中継されるライブ配信を視聴した客、両方の投票で決める。さらに投票枠にはグループ枠と個人枠のふたつがあり、それらの総得票数で順位を決めます。これはダウン・ビート誌、およびミューチュアル・ネットワークのミュージシャン人気投票システムを基にイネスが考案したものです。そのとおり。このルール全文はInnuendoに提出の上、合意を得たうえで定められた。ってことは、ランキング一位になったうえで、新たな案を書いて、イベント運営のA-Primeに承認を得たなら、途中でルールを変えることもできるわけだ。ああなるほど、最初のが絶対の掟ってわけじゃないのか。ただ、あの二組をさしおいて一位になるって条件が至難でしょうけどね。まあねえ。


 続いて、ツアー日程の発表。二月一二日のメキシコ合衆国カボ・ワン・ルーカス公演を皮切りに、ペルー、チリ、アルゼンチン、ブラジルを回り、アイルランドとスコットランド公演を経て、イングランドでのマンチェスター、バーミンガム、ロンドン公演をもって完結すること。そのうち序盤の三公演では、特別に93、シィグゥ、Shamerockがそれぞれオープニングで出演し、未発表の新曲を披露すること。以降の公演では出演順はランダムで決まること。ひととおりのルールが説明され、運営のA-Primeからのくだくだしい諸注意などがあったあと、さあお待たせしました、この式は彼女らなしじゃ締まらない。前回χορός優勝者であるInnuendoの、世界初披露となる新曲パフォーマンスをお届けしよう。 R U ready 4 dis!? R U ready 4 dis!? お、ついに。ええ。生で見るの初めてっすねー。前回のχορός優勝者、どんなもんか……




Let us go then, you and I, When the evening is spread out against the sky.

Like a patient etherized upon a table;

Let us go and make our visit.




 天井が噴っ飛ぶんじゃないか。彼女らにとってホームじゃないこの地で、これだけの歓声が。それに、あの楽曲とコレオグラフの完成度……やばいの来ちゃったすね。うん……でも、でもこういうことなんだよな、世界一って。

 パフォーマンスを終えたその直後、息ひとつ切らす気配すらなく、襟元のマイクを直しながら、エリザベス・エリオットが口を開く。

 海を制するものは世界を制する。不幸にも海の支配者と覇を争うことになった競合者たち、今さら心配する必要はないわ。すでに賽は投げられたのだから。χορός、ギリシア演劇の名を冠したこの競技の栄冠は、英国われわれにこそ相応しい。たびの勝利もまた、すべからく我がものとなるべき。 RULE BRITANNIA!

 三叉鉾のサインを右手で掲げると、場内に招かれたファンたちもまた RULE BRITANNIA! と右手を掲げた。


 あっつかましいなー、アメリカのメキシコ国境で RULE BRITANNIA って……ヤスミン、ほんとにあんなやつに憧れてんの。あ、憧れてるんじゃない、ただ、あれくらいにならなきゃいけない……ってだけ。


 よかったね、ヒメ。笑いながらミッシーが振り返る。もっと手強くなって来てくれた。やりがいがあるってもんだねえ。

 シュプレヒコール渦巻く周囲の様子は意に介さず、一歩、二歩と歩み出てみる。舞台上の奴の眉間を睨む。目が合う。そうだ、今はそこにいろ、すぐに叩き落としてやるから。よく見えるように、あたしも静かに右手を掲げる。ただし人差指と中指を立て、その手の甲を向こう側へ。このサインの意味はわかるよな、クイーン・ビッチ。


 そう、そうでなくては。上がってきなさい。ほんのひとときでも興じさせてご覧なさい。そうでなくては、来た意味がない。分不相応な思い上がりを抱いて僻地から来た娘っ子の、夢想も現実も跡形なく踏み砕いて、もはや地を舐めるしかないその姿を眺めながら呼吸する大気は、さぞかし舌に甘いでしょうね。


 というわけで、母よ。役者は揃いました。

 これから彼女らには、存分に舞って、唄って、闘ってもらわねばなりません。そうすればわかるはず、ワタシが何をすべきかも。とりあえず今は、この肉ひしめく舞台の開幕に際し、偉大なるアリストパネスの言葉を飾っておくとしましょう。


 ──戦争は女の仕事だ。


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