17 Howth Castle & Environs
知らなかった。何を? わたしがこんなかたちをしていた、ってことを。なんそれ、鏡くらい見たことあるでしょ。ていうか鏡の前でしたことあったよね、今日話してたのもそのときのでしょ。うん。でも、鏡と写真は違うよ。そうだね、左右逆じゃないしね。しかしこんな安物のポラロイドでも綺麗に撮れるなーポーランド、もとの街が良いんだろうね。うん……ねえ
申し上げます。一本目を吸う前から
イネス、これ一体どうなってんの?
頃合いよく、と言うべきか、入口に視線を向けるとShamerockの二人が。やっぱりあいつらか……と呟く
皆さん、あれです、ついに現れました! 双眼鏡を離し、遥か彼方のダブリン湾を指し示す。あれがあの船! と親愛なる同志が言い、あれがあの船です! と私も言う。あれがあの船! とまた別の親愛なる同志が言うので、あれがあの船ですね! とまた言う。まったく、図体ばかりばかでかくて、まるで戦艦のようではありませんか! もしかしたら、我々の国を火の海にするつもりかもしれません! いえもしかしたらではないのです、本当に焼き尽くすつもりなのです、淫靡なる劫火でもって! 比喩的表現です! そう、比喩的表現ですよ、本当に火を放つわけではないですけど! 比喩的表現ですね! しかしむしろそっちのが恐ろしいではありませんか、せっかく独立を勝ち得て、血まみれの英国人の
実に滑らかな口上が述べられ、周囲の同志は陶然としている。タイミングを逃さず、私は首元のチョーカーを握りしめ、Amen! と叫ぶ。この世紀に稀少な敬虔なる信仰の持ち主たちも、Amen! と一斉に唱和する。そう、絶対に
それではまあ、訊くも憚られることですが、あの団体が弾劾しているスキャンダルの真偽については……応えるも愚かなことだ。真っ赤な嘘だと、いちいち言わねばならんのか。いえ、愚にもつかぬ
警察官ふたりが恭しく退場し、
無言で頷く
ああもう、うるせえなー
と手持ち無沙汰の雑談も長引いていたところに、Defiantの二人が帰ってくる。お待たせ。結果から言うぞ、ダメだった。と率直に言うイネスに、ええ、交渉決裂? と
えー! と嘆ずる
壁際に追い立てられるような感じを覚えているのは、おそらく私だけではないのだろう。談話室に
これが落とし所、なのだろうか。とても取りつく島など無いように思われた、彼女の私情を忖度することも許されない部外者にとっては。談話室に集った全員の口に、長い無言の幕が垂れる。そんな沈黙を破ることができるのは、いつだって他人に行き過ぎたお節介を焼く、彼女くらいしかいなかった。
それは、違うんじゃないかな。ソファに座ったまま言う
ふたつの波紋がぶつかりあうような、不思議な静寂。ミッシー、どう思う。ごめんね
じゃあ……
それじゃ、準備といこうか。こっから骨だぞ
というわけで、これより昇降口に参ります。ああ、くれぐれも暴力沙汰にならないよう。了解いたしました。通り一遍の応対をドア越しに聞きながら、ノックもなしに入室する。見ると、
いやあ、それにしても、いい
そいじゃ、気張らずいきますかー。昇降口に出ようとするわたしに、はい、いってらっしゃいませ。と
港の内部に入ると、いよいよもって周囲からの罵声が音量を増す。
うわ、なに。フラッシュか、カメラの。ビデオカメラの撮影だけかと思ってたけど、新聞社もだいぶ集まってる感じなのか。うわー政治家の記者会見みたいだな。しかし、初めてこれだけのフラッシュを浴びるきっかけが宗教団体相手の交渉って……遅れてうんざりしながら、申し訳程度にカメラの方を向く。ところに、名乗りなさい! と刺すような声。あー、福岡県から来ました
それでは、
皆さん、落ち着いて。ひとり冷静に見えるブリジッドは、咳払いひとつ起き、さて
沈黙。
えと、どうしよう。どこから指摘したらいいんだろう。色々おかしいけど……こうなったら、もう、絞るしかないか。港での騒ぎをニュースサイトで報されたとき、まず一番に引っかかったあの件。
あの、ブリジッドさん。わたしの質問を、ひとつくらい訊いてくれてもいいじゃないですか。と言うと、もちろん、聞きますよ。どうぞ? と恭しく返した。この団体全員を相手にしても勝ち目がない。だからブリジッド・オサリヴァンの、彼女の
沈黙。
ブリジッドさん。なんですか……あなたの娘さんも、Yonahに乗ってますよね。シーラ・オサリヴァン。わたし、このツアー以前から、娘さんとは仲良くさせてもらってるんですが。はあ、そうですか……あなたって、彼女が歌の道に進むことをよく思ってなくて、やめさせようとしたらしいですね。それで
沈黙。よし、来たな、肝心のとこに来た。この人たちが最初からわたしらに憎悪を向けてやまない理由、その中核に踏み込めるかもしれない。ブリジッドは、慎重に言葉を選ぶかのように口端を震わせたまま黙っていたが、ようやく案文が定まったのか、長い呼気ひとつ挟み、口を開いた。
あなたがたのような……ソドミーの申し子が存在していること自体、我々には堪え難いことなのです。
ソド……何? はっきり言わなきゃわかりませんか? 女性同性愛者どもの巣窟、ということです! よりによってそんな汚辱の
出ていけ、出ていけ、悪魔め!! あ、うわ、なんだよまだ言い終わってないぞ、ちくしょう、あっやべ思ってたより腕っぷし強い、いや集団だから当然か。壁に沿って押しのけられるわたしを、これはプレス陣から止めに入ったのか、それとも港の職員が騒ぎを聞きつけたのか、
おめでとうございます。室外に
すでに昼のものではなくなっている陽射しを眺め、手を臀部の位置で組み、ぐっ、と
……音楽……
えっ?
姿勢を戻し、息を整える。やるしかないか。えっ、あの……そうだ、シンプルに考えよう! ほらさっさと戻るぞ
もう
“Dance Dance Dance Dance Dance to the radio” 作戦……? 怪訝に鸚鵡返しするイネスに、あるいは、 “They Shoot Horses, Don’t They?” 作戦。と
沈黙。
えっ? さっき
沈黙。
いちおう訊くけど……正気? もちろん。正気の人間は「正気です」なんて言わないけどね。もうこれしかないと思うんだ。わたしたちは全員、音楽をやりに来たんだろ。今回まさかの妨害に遭ったけど、でもよく考えたら、自由に表現できる空間なんて限られてるだろ。わたしたちも、今まさにその自由を脅かされてる。だったら戦うしかない、音楽で。でもねえさん、さっき「沈没するまで」って言ってたすけど……言葉通りの意味だよ。もちろん、みんな一緒に沈んで死のうって意味じゃない。
沈黙。
やだあー!! それ無理っすー!! あんまりじゃないすかあ、機材は何も悪いことしてないのに、いきなり塩水に漬けられて死んじゃうなんてー!! 無理っす、それないすわあ、あんまりっすわあー!! あー!! ご、ごめん漁火ちゃん、まさか泣くとは。だって、わかってるはずじゃないすかあ、この船どんだけすごい機材積んでるかあ……わかってるよ、でもミキシングコンソールとかは、さすがに搬出するのは無理。もちろん全部沈めるなんて言ってないよ、アンプとかエフェクタとかは、予備電源を港に下ろすとき一緒に出すつもり。いま
お待たせしました……ああ。では、私はもう行くからな。はい……あの、
指示の通り、船の予備電源と発電機は切除し、これから港に降ろします。うん、船自体の残存電力は。今まで通りの速力で駆動させて、ライブ用の機材も使うとなれば、一時間半も
話し終わると、すぐに行ってしまう。まったく、ついに正気を失ったか、
「そうすれば、あなたもすぐにわかってくるでしょう。そこで何が起こりうるのか、自分は何をすべきなのか、が。」
だからアナタは、母に、あれほどまでに……
最初は
こっち側の主張に、か。たしかに、一方的にパーティーの様子を見せるだけじゃ……何か、これがわたしたちの言うべきことだ、ってテーマが集約されるような曲目。でもそんなんあるか、これまで皆バラバラに活動してたわけだし、今からリハーサルしても間に合わない……頭の中にいくつもの案が浮かんでは消える。ところに、
これ……かな。おお……これだろ! イネス! うん……? あっは、よくこんなお
大広間の床に座っている全員が、物言わず視線を交わす。
じゃ、行くかい。うん。まったく、故郷もすっかり遠くなった……あはは、だよねー、祖国に入れてすらもらえないなんて。逆に考えるべきかもよ、
退出し、これから衣装や諸々の準備に入る。
振り返り、様変わりした大広間を眺める。うん
これがわたしらの戦争だ。
なんだというの。とっくに港は占拠したというのに、あの穢らわしい船は未だに停泊したまま。おまけに、騒ぎを聞きつけた小蝿どもがこうして纏わってくる。
よう宗教右派ども、ずっと出ずっぱりらしいが、今朝のお祈りはちゃんと捧げたんだろうな? なん、よくもそんな物言いができるわね、世俗に毒された享楽主義者が! あんたらが陰謀論に取り憑かれたイカレだってのはわかったからさあ、もうさっさとどいてくんない? あたしらはね、
なんなの、こいつら、いったい誰に頼まれてきたの。まさか、あの堕落した祭典を主宰している企業に雇われたとか。そうだわ、どうせこんなまとまりのない抗議に参加するような輩には日当が出ているに違いない。おお神よ、私はバビロンの徒には決して……
え、何。なん……なんですか? 唐突に響いた汽笛に、同志たちも不安げに埠頭を凝視している。さっきから不審な挙動を繰り返していたあの船が……動き出した。ははあ、これはきっと退却ですな! 我々の根気強さに屈して、尻尾巻いて逃げよったんですよ! 皆様、勝利です! 我々の誇り高い国土から、淫婦どもの船を追い出しましたぞ! そう、そうよね、これできっともう終わり。ついに我々の信仰に勝利が……輝き……あれ? 眼前の暴徒どもの携帯端末に通知音が。ほらやっぱり、雇われていた企業からの通達だわ。やっぱりこいつら、金で動いていたんだ。もういいでしょう、さっさとお帰り……あら、なにかしら、どの輩も一向に去らないばかりか、我々と同じように、動き出した船に視線を向けて……
なに……配信開始? えっだって、まだ開演時刻じゃないでしょ? それに、船まだあそこだし……えっ!? なに、なんの騒ぎ。同志……いったい何事ですか? あの淫婦ども、どうやら船内にたてこもり、海上でライブをするつもりのようです。しかも、その様子をネットで配信するなどと……ふん、大したことではありません。そんな児戯めいた訴え! いえ、これは……まずいですぞ……どうなさいました? あいつら、ダブリン湾に……あの船を沈めるつもりです。
よし……声明文のアップも公式アカウントでの告知も完了、配信の音質と画質も整ってきた。この曲が終わったらもう出番。
なん……これ!? まさか、あの船の中でやってるの!? 間違いないよ、聞こえるじゃん、あっちのほうから!
何これ、今回のχορόςってこれなの? もう始まるなんて聞いてないんだけど! アイルランドのやつらいないの? 外のあたりどうなってる?
イネス……パンゲアから連絡あったよ。いつものコメント量の五倍だって。ふふん、いい調子だな。あとこれはフォーラム情報だけど、ガーディアン紙の取材陣が港に到着したって。よし、どんどん広がってくれよ……じゃ、次は
きたー『Funky Presidenta』!! フゥゥゥゥゥゥゥゥゥウウ!! 何度聴いてもアガるわーこのイントロ! こんばんは、ちょっとよろしいですか? えっ? あっはい。今回、
よろしいでしょうか。なに……勝手に撮らないで、肖像権の侵害! 今回、
한나언니♡ 茉莉加油! ヤバいこれ全員ぶんやるの? すごくない? ってかいつまでやるの?
おつかれ、もう大騒ぎって感じだよ。ガーディアン、NME、ハフィントンポスト……よーしどんどん広がってるな。次の段取りは? 漁火ちゃんのギターソロに入ると同時に、改めて声明文をでっかく画面上に表示する。よし、操作たのむぞ
WTF! えええええこんな共演なかったでしょ今まで!? ツイッター落ちた? 落ちてない? コメント欄はまだ生きてるみたいだけど。
おつかれー
まさか、本気で、こんなことを。
エリザベス! 背後からの
何の用で来たかは、もうわかってる。あの、エリザベス……言わなくていいわ。どうせ、貴方は来ないんですかとでも言うつもりでしょう。そこまでわかってるなら……行かないわよ。今回ばかりは、私の出る幕などない。そんなはずありません、貴女は今回のχορόςで一番のアーティストじゃないですか! 個人として、なら、間違いなくそうでしょうね。しかし……あなたがたには皆パートナーがついているじゃない。その肝心のパートナーに裏切られたばかりの私には、あなたがたの共演の中に居場所を得ることなど許されない。そんな……実力や才能どうこうじゃないわ。これは私の……プライドの問題なの。
言うべきことは言った。そう、ウェンダなしで今更出たところで、いったい何になる。そこにはInnuendoによる至上の演舞も、ファンが期待する孤高の姿もない。私にできることなど何もない。しかし、では……なぜここにいる。ウェンダと同じように、始まる前から降りたらよかった。なぜここに残ったのか。最後まで見届けるため? 音楽による抵抗に賭けた彼女らの姿を見届けて……それで、先は、どうなる。私自身の経歴も、このχορόςの行末も。
プライドが、何ですか……見ると、声とともに拳も震えていた。プライドが、何だっていうんですか! そんなもの、ただ傷付くだけじゃないですか。プライドなんて大事にするものじゃないです! むしろ、前進するためには傷付けなきゃ、プライドを! 傷付ける……? 現に、私はたくさん傷付けてもらいましたよ、貴女に。貴女に及ばないって、貴女の真似事くらいしかできないって、χορόςに参加する前からずっと傷付けられてましたよ、こんなすごい人がいるのに私は、って……でも、そのおかげでここまで来ました。もう私にプライドなんてありません。滅茶滅茶にされて、ズタズタにされて、そのおかげで今の私になったんです。価値ある傷がある限り、人は前進できるはずです。これはエリザベス、貴女が教えてくれたことですよ。
今度は、私も傷付けと。はい。切って、傷を、開けと……ふふっ、言うようになったわね。名前を憶える価値すら無い凡人と、最初はそう思っていたけれど……
……私、メイクはずっとウェンダに任せっぱなしだったの……手伝ってくれるかしら。
……あ……は、はいっ!
やっと着いたか、タクシー拾ったのが間違いだったな。走ったほうが早かった、この交通網の渋滞では……ようやくダブリン港のゲート前に至ると、
同志、また交渉だとかなんとか……交渉すべきことなど何もありません! なんですか、あれほど我々のプライドを踏みにじっておいて! どうしてですか、どうして放っておいてくれないのですか! 我々は信仰を護り抜きたいだけなのに! ええ……? そもそも今回の騒擾はあなたがたの……やかましい! χορόςの運営ですって? 穢らわしい、悪魔の手先め! あの淫婦どもを利用して金儲けとは! 信じられない、そんなにも堕落した人間がこの世にいるだなんて! だれもその不正を糾そうとしないだなんて! いえだから、あの……死にたいんでしょう!! 沈みたいんでしょう、あの船と一緒に!! じゃあそうさせてあげたらいいじゃありませんか、ええ、こちらとしても望むところですよ!! 助け舟を出す必要なんてありません!! もちろん港に迎え入れる必要もね!! 死んでもらいましょう!! あの淫婦どもには当然の罰です!! もちろん、沈没によって汚染されたダブリン湾の浄化費用は、すべてそちらに出していただきますからね!! あのう、オサリヴァン氏……記者が見ている前ですぞ……「死んでもらいましょう」などというのは……触らないでください!! あなたまでそんな及び腰ですか!! 道徳的に堕落した者が集団で溺死してくれたとして、それで何の問題がありますか!! 素晴らしいことじゃないですか!! 聖書にもあります、ええと……星が水源に落ちて……豚が死んで……水が苦くなったと……あのですなあ……
な、なんだ、仲間割れが始まっているのか。しかしこちらが訴えかけるべきは一人、ブリジッド・オサリヴァンだけだ。ひっきりなしに上がる嬌声の合間を見計らい、ひとつ冷静に言ってみる。よろしいですか、交渉に応じなかった場合、我々としては広範にわたり不利益を被ったとして、膨大な額の賠償金を請求せねばなりません。少なくとも、港での供給拒絶に伴う賠償は不可避です。これ以上罪を重ねてもよいのですか?
罪などと……
えっ?
罪などと……
あと二〇分、か……そろそろ、覚悟決めなきゃな。
『Hell-Bent』のアウトロとともに『Bleed It Out』。わたしと
え。なんだ、正面入口。あっヤスミンか、デッキに行くって言ってたけど。全員の注意が入口に向けられ、つられてステディカム担当の
マイクを
エリザベス、だよな、いつもと全然服装違うけど。あ髪型もか。もしかして、これヤスミンのアレンジ。背後でめっちゃうっとり眺めてるけど。突然の乱入を受け、マイクスタンドの前にいた
ヘタレでハッタリの女王陛下、もうとっくに逃げたと思ってたが。と
Bleed it out, Mu’tafikaaaaaaaaz!!!!!!!!!!
これだけ署名を集めてもSIUN政府は公式声明を出さないのか? 大統領府は何をやってる! この国は表現の自由を認めないばかりか、外国からやってきたアーティストたちの、命がけの主張をも黙殺するのか! これはχορόςがどうとかじゃない、人間性の問題だ! ただ公演を行いに来ただけの人々を見殺しにするのか、という瀬戸際だ!
よし、『Bleed It Out』短いからな、もう抜けなきゃ。あとは『Live at the Barbeque』で繋げるはずだ、その間にやっとかなきゃ……通路こっちか、あっいた、
いつもどおりの皮肉が挫かれたのか、それとも言われたことが心底意外だったのか、
よし、これで終わりだ。あとは本当にダメだったら、みんな一緒に脱出すればいいだけ。じゃ
これって……写真。ええ、母が、諸国を放浪するあいだずっと手放さなかったもの。わたしが撮ったやつだ、安物のポラロイドで……あれたしか職場の飲み会のビンゴゲームでもらったやつだったっけ、もう捨てちゃったなあ……母は常に肌身離さず持っていましたよ、「この写真で初めて教えられた」、「わたしがこんな姿をしているとは知らなかった」と。もーわけわかんないなー、いきなりポーランドに置き去りにしたり、そのくせ遊びで撮った写真を大事に持ってたり……
苦笑するしかない。そうだ
ん、なんだ、そんな意外か。だってイヤじゃん、大好きな人の写真を海に沈めるなんて、なんか失恋みたい。そもそもこれは失恋どころの話じゃないんだし。しかし
エンジン付のボートであれば、数分で到着できるか。すでに陽が落ちようとしている。さすがに海上は肌寒いな。寒いといっても、あの一二月とは比べものにもならないが。
考えてみれば笑えるな。あの時と違って、今はワタシに生殺与奪の選択権がある……まったく因果な巡り合わせだ。この伝令の役目を放棄して、何もしなかったとしたら……あの船は本当に沈むのだろうな。いや役目を果たすにしても、あの宗教きちがいたちに話が通じる余地など無いじゃないか……なのにあの人は、こうしてワタシを……
わからない……本当にわからない。すこし掴めたかと思うと、またわからなくなる……母があの人を愛した理由も。なぜあの人が、これほどまでに……音楽の力を……
どうして、ここまで……あんなに自分の命を顧みない人は見たことがない。ワタシもそうだと思っていたけど……ワタシとあの人とでは、命の捨て方が違う。ワタシは最初から、何も望んでいなかっただけ。だが、あの人は、望みすぎるあまりに……しかしわからない、何を望んでいるのだろう。自分の欲を満たすためでも、誰かの愛を勝ち得るためでもない……
……「この世界は変えられる」……
カメラの外から、よし
Wassup! みんな楽しんでくれたかな、残念だが、次が最後の曲だ。文字通り、わたしらにとってのスワンソングになるかもしれない。どういう意味かは、まあ、この数十分後には明らかになってるだろう。
楽器隊が控えるブースに視線を向けると、
もうこれ以上、言うこともないだろう……何しろ、時間がないんでね。次に
DJブースに視線を向けると、
それじゃあ、観てくれてありがとう。ほんの一瞬でも、わたしらの音楽があなたの人生に関わったことを、心の底から、誇りに思うよ。
マイクスタンドの前で待機する
アンプの前でチューニングを合わせる漁火ちゃん。
よし
じゃあいこうか、
ファラオ・サンダースの『You've Got To Have Freedom』。このジャムセッションで最後だ。八小節分のピアノイントロに続き、ゾフィアのサックスと
ウケるなあ。まさかこの曲をこんなふうに
まさか沈む船で、なんてねえ。エル・パソにいた頃は色々ぶっ飛んだステージやったけど、さすがにこれは思いつかなかった。やっぱ陸地ばっかじゃな。うん、ここまで来てよかったな。しかし、砂漠で渇いて野垂れ死ぬのと、船で沈んで溺れ死ぬのと、どっちが悲惨だろ。いや、生き延びるのが一番悲惨か。いつだって死ぬのが一番簡単。だったら難しい方に挑戦するだろ。ここで最高の演奏やって、生き延びる。ん、結局いつもと同じだな。
あっさりこういうことになっちゃったけど、どうしよ、沈没したら死んじゃうかな。そしたら母ちゃんには悪いことしちゃうな。いやそうでもないか、結婚相手が兵役中に死んで、そんで娘も船が沈んで死んだとなれば、母ちゃんむしろ治っちゃうかもしんない。それはそれでアリかな。あっ
おー、ジャズの曲にスクラッチ加えるなんて新鮮。おもしろ、
ずっとループの曲だなこれ……まあいい、たまにはこういうのも。たまには、って、そうだこれ最後になるかもしれないのか。それはよくないな。うん、どう考えたって生き延びるのがいい。もう母がどうとか、正直どうでもよくなってきた。どんな状況だろうと、音楽やって生き延びる。家出した時だってそうだった。じゃあミッシー、何も望まずにあたしらは唄おう。そうだ、希望を捨てた後の歌は、いつだって最高のメロディだった。
たりららってぃーらー、たりららってぃーらー、って、ずっと繰り返しねこの曲。退屈ではないけど、この私が添え物のバックコーラスに徹するなんてね……ふん、これくらいで傷付くプライドなら捨ててしまえばいい。
たりららってぃーらー、たりららってぃーらー、って、ずっと繰り返しだあこの曲。でも
あー、ほんと、ここにちぬんいてくれたらなー。ベースライン無いの寂しいっすー。はかるんが低音部補ってくれてるけど、右手のソロが忙しくてあんま気ぃ遣ってないかも。仕方ないっすね、沈んじゃうかもしれないんだから。あ、まーたずっとねえさんのほう見てるー。もう、ほんとはかるんだなあ。でも、いいっすね。いいグルーヴじゃないっすか。これいいな、もう死んでもいいな。だけど、死んでもいいなってのは、いつだって死に損なった側の感慨なんすよね。あはは、ねえさんから学んだのってそれかも。まだまだ死ねない死ねないって言い続けて、いつのまにか逝っちゃうんだ。だからその
あと一〇分、か。あと一〇分で、港から何の連絡も無ければ──あっ、ちょっと、イリチ……本当にあの子は、小癪なアヴォイドノートを入れてくる。私が低音部を支えているからといって好き放題して……ならば、私も好き放題やればいい。もともとそういう曲なんだから。それにしてもこの譜面、持っててよかった。ひとりで弾くだけなら練習曲だけれど、誰かと居合わせたらセッションになる。お互いが持ち寄ったものを、ぶつけあうだけの戯れ。しかし本気の戯れ。もし私が、高校時代に
最高。最高。最高だな。なんて楽しいんだろう。みんなで同じことをやってるはずなのに、みんな別々のことをやってる。同じように違ってて、違ってることだけはみんな同じ、みたいな。でもそうじゃん、そうやって集まったやつらじゃん。ツアー始まった当初はどうなるだろうと思ってたけど、まさか船が沈むとはねえ。とはねえってわたしがそうしたんだけど。でもこういうことだよ、完全に安全な時代なんて無いんだ。逆に言えば、完全に壊れきった時代なんてのも無い。いつだって半分は無事で、半分は壊れてて、そうしてお互いのまだ壊れてない部分を、お互いを
Freedom!
Yeah, Freedom!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!!!! Freedom!!!!!!!!
まだいたか。お互いに引っ込みのつかなくなった群衆の中に、A-Primeの社員が所在なさげに立ち尽くしている。あ……あなた確か、Yonahの……こいつらはどうでもいい。構わず、警察の防護壁を隔てた先に立っている、ブリジッド・オサリヴァンに詰め寄る。
ひとつ質問があります。なん……です? あなたが昼頃ずっと喚いていた、Peterlooがらみのスキャンダルとやら、ですが。
周囲を見回す。居合わせた群衆の視線が、すべてワタシの一身をめがけている。そうだ、そうでなくては困る。記者も含めた全員、ちゃんと見ていてくれよ。ワタシも役者だ、ちゃんと淀みなく発音できなくては。案文はボートの上で練ってきた。さあ、いくぞ。
この女はな、世界中の紛争地帯で、児童誘拐や人身売買を斡旋してる、極悪非道の
膝から崩れ落ちたブリジッドの手から、写真がこぼれ落ちる。拾い上げ、警察官に渡す。ええと……あなたが仰っていたことですが、信じてよいのですか? もちろんですよ、ワタシも被害者ですからね。あのときPeterlooに助けられなかったら、一体どうなっていたことか……わかりました。場所を
SIUN大統領府から、公式声明です。「客船Yonahをただちに寄港させよ。船体及び乗組員の安全を確保したうえで、当初の契約通りに電力と物資を供給すること」!
歓喜と悲嘆とが、同時に群衆を打った。部屋着で出てきたファンたちは喜び勇んで抱き合い、揃いも揃って真っ黒な衣装で出てきたご婦人方は地に膝をついて顔を覆った。
ホウスへの交通網も、まもなく回復されるはずです。公演を観に行かれる予定の方は、運営側のアナウンスを確認してください。あとはいいですね? あっ、はい。それでは、今回のχορόςをお待ちいただいた皆様、これから開演時間の調整に入ります! おそらく、予定の三〇分後が目処になるかと……
それぞれの目的を達して解散する群衆を、遠巻きに眺める。これくらいは許されるでしょう、母よ。あれほど
残存電力、稼働時間換算であと三分……危ないところでした……ははは、
談笑しながら連絡を待つあたしらに、船外からアナウンスが。お待たせしました、客船Yonahの皆様、これより電力と物資を供給します! 可能な限り迅速に行いますが、お待たせしてしまうと思われますので、心ばかりの軽食を用意しました。よろしければ……おー、差し入れっすよ。いいじゃん、よくわかんない緊張して腹減ったー。行きましょう、エリザベスも。ええ、ここまで付き合ったんだからしょうがないわね……それにしてもウェンダ、一体どこにいるのかしら……平気な顔で卓を囲んでたら、ただではおかないわ……
一段落、か。まったく
……ん、これ、配信中ずっと
“Stanislaus O’Sullivan”
いや……いま行く。
あ……本当にいやがった……遅かったな。遅かったなじゃねーよ、なにひとりだけ先に行ってんのよ。なにって、公演のために決まっている。海上で珍奇などんちゃん騒ぎがあった気がするが、目もくれず埠頭で待っていた。前乗りしたのは私で、遅刻したのは君たちだ。褒められるならまだしも、責められる
全員桟橋に降りたのを確認し、咳払いするウェンダ。それでは……くだらん騒ぎで開演時間が押してしまったが、これよりχορόςアイルランド公演の開幕だ。知っての通り、ユニット単位でなく個人投票での新方式となって初の公演となる。くれぐれも観客を裏切らぬよう。以上、Dark Dukeは各員が義務を尽くすことを期待する。
ウェンダが踵を返すと同時に、数名の
しかし初めてだな、ホウス埠頭から岬を遠望するなんて。あたしにとって、故郷とはとりもなおさずゴールウェイだったから。ああして故郷を捨てて、グラスゴーでミッシーに拾われて、何の因果か、またこうして。帰ってきたな。おう。故郷に錦だねえ
おおー!!
Yonahの駆動が止まり、両岸に昇降口が架けられる。
じゃ……
デッキの内部が、瞬く間に五月祭の収穫物を活かした料理の数々で埋められてゆく。
親愛なる
両岸の市民たちから大歓声が上がり、同時に私たちも喝采する。
そして市民よ、我々は今夜、ひとつの勝利を祝すべく
両岸と船上から「自由に!」の唱和が挙がる。そこらじゅうに地上の歓びを分かちあう声が満ちる。黒い水の街で黒い水を飲み交わす私たちは、どちらが飲んでどちらが飲まれているのか、どちらが飲まれてどちらが飲んでいるのか、もはやわからなかった。
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