17 Howth Castle & Environs


 知らなかった。何を? わたしがこんなかたちをしていた、ってことを。なんそれ、鏡くらい見たことあるでしょ。ていうか鏡の前でしたことあったよね、今日話してたのもそのときのでしょ。うん。でも、鏡と写真は違うよ。そうだね、左右逆じゃないしね。しかしこんな安物のポラロイドでも綺麗に撮れるなーポーランド、もとの街が良いんだろうね。うん……ねえ。なに? こういうものを、できるだけたくさん持っておいてね。それさっきも言ってたね、思い出でしょ。うん。そうすればきっと、わたしがいなくなっても大丈夫。えーなにそれいきなり、まだから教わりたいこといっぱいあるよ。そうかな、わたしもから教わってばかりだよ。音楽? うん……まだ、わたしにとっては大きな謎だけどね、なぜ人は音楽を……その「なぜ」がもうわかんないよ、理由なんてなくていいでしょ。そうなんだけどね、これは……いや、今夜はこの話はよそう。え、が途中で話やめるなんて珍しいー。だって今日すでに近付いたんだよ、グダニスク湾で。言葉でするよりもずっと適切な方法で。言葉でするよりも、ねえ。。なに。わたしがから教わった最大のことはね、人ひとりができることには限界がある、ってこと。なんそれ、みたいな人が言うとイヤミにしか聞こえないよー。わたしはちょっと語学ができるだけの人間だよ。ちょっとどころじゃないでしょ、みたいな人がいてくれて、わたしすごく嬉しいんだよ。こうして外国も巡れるわけだし。それよりもね、。なに。あなたはこれから、もっと多くのことを学びとらなきゃいけない。わたし以外の誰かから、もっと多くのことを。えーが教えてくれたこともまだよくわかってないのに? そう。、何度でも言うよ。大したことなんだよ、世界にこれだけ多くのものが存在するってことは。そして、人ひとりができることには限界がある。だから、あなたはこれから、この世界自体から多くのことを学びとらなきゃいけない。自分にできないことを誰かから受け取って、誰かにできないことを自分から捧げて。どんなに小さなことでも、虚しく思えることでもね。全部を捧げるなんて出来ないよ。いつだって半分しか、半分だけしか果たせないの。でも誰かが誰かを、半分ずつ埋めていくことができれば、それをずっと続けさえすれば、この世界は必ず変えられる。わたしとが、いま実際にこうしているようにね。なーんか別れの挨拶みたいだよ。お別れじゃないよ。わたしとは、これから何度でも出逢うことになる。えっ? そうでしょ、わたしたちはそれぞれ出来ることが違う。だからみちの半ばで、思いがけず反目して、食い違って、そして戦うことにもなる。わたしたちがじゃなくて、わたしたちがしてきたこと、が? そう。まだその時は来ていないけど──もし一度、わたしたちの仕事たちが戦うことになれば、あとはもうすぐそこ。〈本物〉へのみちは、わたしたちが共同でひらいたことになる。そう、かな。いやが言うならそうなんだろうけど……行き先は同じで、行き方が違う、だっけ。そう。いつか殺しあうよ、わたしとの仕事たちは。でもそれは永遠を増やすため。ひとつの永遠でも無数の瞬間でもいけないの。もっと届くため、もっとくために、わたしたちはそれぞれ違うものを差し出さなきゃいけない。違うもの、か。すでにこんなに違うのにね。うん。でも大丈夫、「飛翔の瞬間、その生命はかつての本源へと戻ってゆく」。わたしたちは必ず、同じ場所で落ち合うよ。これは最初からそういうこと。なんか、泣きそうじゃん。そんな顔初めて見たな。ふふっ……ねえ、これ、もらっていい? いいに決まってるよ、そんな安いポラロイドでよければ。ありがとう……じゃあ、今夜も始めましょうか。PA? うん、PA。ふふ、言葉でするよりもずっと適切な方法、か。そう。、本当にありがとう、わたしに教えてくれて。何を? 愛を。のおかげでやっとわかった。愛は、わたしが考えてたものとは、まったく別だった。




 申し上げます。一本目を吸う前からおのみちが投射される。何か異変か。はい、ダブリン港にて物資及び電源の供給を受ける予定でしたが、どうやら港が封鎖状態にあるようです。封鎖? いつからだ? ニュースサイト等を検索してみましたが、どうやら本日早朝に突如としてストライキが……しかもどうやら、限定的に、我々の入港のみを拒絶すべく起こされたらしいのです。Yonahのみを? わけがわからん、こちらは四ヶ月前に予定を報告済だし、諸々の費用も支払済だぞ。言い、一本目を取り出すが、胸ポケットにライターが無い。まさか昨夜入れたまま洗濯したか。それが……申し上げにくいのですが……なんだ、隠さず言え。あった、抽斗ひきだしの奥にひとつ。先週シーラがサン・ルイスの酒場から持ってきた紙マッチ。どうやら、Peterlooの……マキ様とてん様のお二人を弾劾対象として、騒ぎが持ち上がっているようなのです。我々が一体何をしたと? ええと……「君臨Reign敬虔Reverence改悛Repentance」のwebサイトに記載されている文言をそのまま読み上げます。「χορός客船の艦長に一大スキャンダル」、「元自衛隊員、かつてPKOにて民間人虐殺を遂行」、「隠蔽された記録」……




 イネス、これ一体どうなってんの? の背中に続いて入室する。どうって、見ての通りとしか言いようがない。言いながらスマートフォンの画面を指し示すイネス。うわ、すげえ数。桟橋まで占拠してるのか。めっちゃプラカード立ってるじゃないすかー。テーブルに置かれたスマートフォンを、とイリチとイネスとゾフィアが取り囲む。なんて書いてるんだこれ、ちっさくて読めない……静止画なら結構上がってるよ、ほら。なん…… “MASS MURDERERS on that ship” 。 私も画面を覗き込み、 “No Place for the Wicked” , “PURIFY THEM ALL with OUR PURITY” ……と読み上げる。なんだか、やたらと宗教的な言い回しね。どうやら、カトリックの市民団体によるデモらしいんだよね。右派っていうか、聖書原理主義な感じの。え……? それなんか聞いたことが……

 頃合いよく、と言うべきか、入口に視線を向けるとShamerockの二人が。やっぱりあいつらか……と呟くヒメに、あれ、だねえ……と教授キョウジュが苦笑を添える。ヒメ……やっぱりってことは。初めて会ったとき話したな、あたしの母親のこと……「君臨Reign敬虔Reverence改悛Repentance」のリーダー、ブリジッド・オサリヴァン。あのとき言ってた……まさか、ここまで大規模な団体だったとは。いや、今回の騒ぎは水増しされてる。3Rトライアールだけでここまでのことができるとは思えない。馴染みのない固有名詞らしきものが放られ、なにって? とが訊く。あー、ニュースサイトでも略記されてるだろ……「君臨Reign敬虔Reverence改悛Repentance」、その頭文字をとって3Rトライアールと呼ばれてるらしい。3Rトライアールか……たしかに審判には違いないけど。二人の声を傍らに聞きながらニュースサイトの記事を読んでいると、聖パトリック党が公式のFacebookに投稿した声明文らしきものが引用されていた。これも共謀だと? 言いながら画面を指し示すと、ヒメは頷き、そもそも3Rトライアール自体が、その右派政党の支持母体として発足されたものだからな。党首はアンガス・アポロ。アポロといっても、奴の竪琴の音はひどくひずんでるようだ。と切る。え? 不可解げなに、竪琴はアポロンの神具であって、それと同じ姓を冠した男が音楽による表現の自由を全く解していない、という事実をヒメなりのウィットで……と教授キョウジュが縷述し、解説やめろ、恥ずかしい。とヒメが遮る。まあそういうことだ、前々から言論とか音楽とか出版物への道徳的規制を推し進めてたが、まさかこうして真っ向からぶつかるとは……でもこの人たちの言い分わけわかんないすよ、スキャンダルとかなんとか……Peterlooていう、うちの艦長さんと副艦長さんの所属組織? がディスられてるんすか? だし、ヒメが一時的に身柄を保護してもらってる組織、でもあるねえ。えっ……ゴールウェイから家出して、ミッシーの家族の世話になったときな。居場所のない子どもの権利を保護するNGOがあると知って。だからヒメ、国籍はアイルランドだけどソーシャルセキュリティはPeterloo持ちなんだよね。そっか……じゃあ今回3Rトライアールが出てきたのも。あたしの家出と関係ない、とは言えないな……




 皆さん、あれです、ついに現れました! 双眼鏡を離し、遥か彼方のダブリン湾を指し示す。あれがあの船! と親愛なる同志が言い、あれがあの船です! と私も言う。あれがあの船! とまた別の親愛なる同志が言うので、あれがあの船ですね! とまた言う。まったく、図体ばかりばかでかくて、まるで戦艦のようではありませんか! もしかしたら、我々の国を火の海にするつもりかもしれません! いえもしかしたらではないのです、本当に焼き尽くすつもりなのです、淫靡なる劫火でもって! 比喩的表現です! そう、比喩的表現ですよ、本当に火を放つわけではないですけど! 比喩的表現ですね! しかしむしろそっちのが恐ろしいではありませんか、せっかく独立を勝ち得て、血まみれの英国人のかいなから解き放たれ、ついに純潔なるカトリック国家として立ち直った我々が、他所よそからやってきた罪深き船団によって侵略されてしまう、文化的に! そう、文化的に! 絶妙な連携で気炎を上げる我々に、アンガス・アポロも唱和する。恐ろしいことです、奴らはそこを狙うのです! うら若き魂に、安っぽい虚飾でもっていびつな性愛やよこしまな信仰を売り込みにくる! 文明の破滅は文化の腐敗から出来しゅったいするのです! 神よお慈悲を! こんな災厄を呼び寄せてしまった我々にお慈悲を! しかし、の船にひしめく堕落した人間どもの舌にはわざわいを! もう奴輩が二度と冒涜の言葉を吐けないように、舌の根から切り取ってしまわれんことを! ええ、ですが我々が実際にやるわけではありません! それはもちろん! 復讐するのは神であって、我々ではありませんものね! そうです、我々はそのことをよく知っています! しかしこの国の運命を神に委ねてばかりもいられません、我々はあくまで、あくまで平和的に、あの罪深き船団を追い払おうではありませんか!

 実に滑らかな口上が述べられ、周囲の同志は陶然としている。タイミングを逃さず、私は首元のチョーカーを握りしめ、Amen! と叫ぶ。この世紀に稀少な敬虔なる信仰の持ち主たちも、Amen! と一斉に唱和する。そう、絶対にのがしはしない。打ち払いはするけども、機会だけは逃さない。Peterloo、あの胡乱なNGOに鉄槌を下すことができる、この千載一遇の機会だけは。




 それではまあ、訊くも憚られることですが、あの団体が弾劾しているスキャンダルの真偽については……応えるも愚かなことだ。真っ赤な嘘だと、いちいち言わねばならんのか。いえ、愚にもつかぬそらごとだと判ってはいるのですが、いちおう記録しておかねばなりませんので……私とてんが、陸上自衛隊在籍中に、PKOで派遣された先のスーダンで民間人虐殺を……などと、よくもそんなでっち上げを。我々の声明だけでは信用ならんなら、国連やPeterlooや自衛隊にも諮問してみたらいい、そのような記録が残っているかどうか。私から言えることは以上だ、くだらん。ええ、わかっております。貴重なお時間を頂戴して申し訳ありません。おおうら氏におかれましても、いわばしり氏の見解に同意ということでよろしいでしょうか? ああ。了解しました、それではこれで……待て、港は本当に解放されるのだろうな? この船はサン・ルイスからの長旅を経てここに着いたのだ、物資と電源の供給を受ける必要がある。ええと、それに関しては……まだ確言が……できかねまして……何だと? 君たちは何の仕事をしてるんだ、今すぐ戻って、あの団体の弾劾がでっち上げだと認めさせたうえで散会させる、それだけの話だろう。いえ、それが……3Rトライアールのデモと港湾のストは、それぞれ別の問題でございまして……よしんば3Rトライアールを散会させたとしても、同時に港湾のストも収まるとは考えられません。ふん、二段構えというわけか……ならばこちらとしてはダブリン港を告訴するまでだ。契約を履行せず、支払済の料金に相当する待遇を拒絶したとしてな。ええ、こちらも港の主任に伝えてまいります……ひとまず、このまま停泊したままでお待ちください。一刻もはやく事態の収拾に努めてくれ。はい、それではこの辺で……


 警察官ふたりが恭しく退場し、てんが後ろ手でドアを閉める。ドアの外の靴音が遠のくのを待ちながら、目の前の男の双眸そうぼうを見つめる。てん……ああ。抹消された、はずだな。もし我々が取り戻そうと望んだとして、記録自体もう残っていないはずだな……と、ひとつひとつ噛み潰すように言う。ああ、そのはずだ。ならばなぜ、あの団体に……あの場に居合わせた誰かが吹聴した……以外の可能性は考えられん。居合わせた誰か。我々の知る限り、二人しかいないはずだな。我々二人を除いては……ああ、まず、いまきりしまと名乗っている彼。彼女、だろ。それはどちらでもいい。と、彼を養子として引き取った、あの……あの名前を出さねばならん、か。てんが依然として語尾を保留しているので、私が言うしかない。百済くだら、か。

 無言で頷くてんを前にして、ふいに継ぐべき言葉を失う。ではなぜ、彼女が。と至極当然の疑問を投げても、返事はない。裁くためか、我々を。と率直に言うと、まさか……そんなに容易たやすい終幕を与えてくれる彼女ではない。と、てん自身も苦虫を噛むような顔になる。では、何のために。試すためではないだろうか……りゅうを。? なぜ彼女を? から聞いた話だが……百済くだらりゅうは、かつて親しい間柄にあったという。突如としてのほうから袖にしたらしいが、は今でものために行動していると……我々がこの船に乗せられたのも、それと無関係ではないらしい、と……


 りゅう。この船に乗っているアーティストの中でも、特に飛び抜けた存在というわけでもない彼女──いや私に音楽の良し悪しなどわかるはずもないし、投票の結果から類推するのみだが──、のためにが。あの地での「解放」も、を得てGILAffeジラフを造ったのも、すべてのため。まさか、そんなことが。一箇の人間に為せることとも思えないし、人倫によっても認めがたい。いや、そもそも私が百済くだらについて何を知っているか。じかに対面したのはたった一度きりではないか、私もてんも。にも拘らず脳裏に焼き付いて離れないのは、あの「解放」から始まったこの苦役のためか──永遠に裁きが延長されるに等しい、この苦役の。




 ああもう、うるせえなーそと。この部屋の中まで聞こえてくるって、相当だね……停泊許してもらったのも、結果としてはマズかったかもね。あの人ら、誰一人としてダブリンにはれないーっていきり立ってるし、もしかしたらギリギリのとこまで来てるかも。疫病かあたしらは……ていうか、ドラキュラ伯爵じゃん? え? ほら、ドラキュラって船に乗ってロンドンまで来たんでしょ? そうなん、んできたんじゃないの? 羽根はねはえてるでしょドラキュラって。そうだっけ。映画かなんかと間違えてないか? いやあれだよ、吸血鬼って水ダメでしょ確か。さすがに船には乗らないんじゃないの。だよね、危ないし。船酔いもしそうだし。吸血鬼って船酔いするんすかね。わかんないけど、いつも顔色悪いもんな。会ったことあるみたいに言うね。友達みたいっす。実はあたし吸血鬼モノのこと全然知らないんだけどね、ソン・ガンホのやつくらいしか。ソン・ガンホは顔色悪くないでしょ。確かに。意外っすね、クリスチャンの人って吸血鬼モノくわしそうなのに。そうかな。吸血鬼とキリストって関係あるの? わからんすけど、十字架で殺せるじゃないすか。はかるんそのへんどうすか? なぜ私に……会ったことないよ吸血鬼なんか。いや、クリスチャンとして。親がそうだっただけで、私は違うから。敬虔なキリスト教徒だったけど、戦争で色々あって堕落したんじゃないっけ、ドラキュラって。それはただの史実だろう。えっ、ドラキュラって史実版と脚色版があるの? 三国志みたいな……八犬伝みたいな。八犬伝は全部創作だから。ヒメはドラキュラくわしいのか。さすがアイルランド出身。えっ? 関係ないだろう。でもアイルランド系でしょ『ドラキュラ』の作者って。「怪奇作品のオリジネーターはだいたいゲイかアイリッシュ」って、クライヴ・バーがエッセイで書いてた気がする。え……? ミッシー、クライヴ・バーって誰だ。アイアン・メイデンのドラマー。あ、間違えた、クライヴ・バーカーだ。クライヴ・バーカーはわかるのになんで『ドラキュラ』の作者は思い出せないの。はかるだって思い出せてないんだろ。アイアン・メイデンってフランケンシュタインの敵すか? 違うよ。でもどっちも強そうじゃないすか、名前も似てるし。闘ったことありそう。そもそも生き物じゃないから。いや、フランケンシュタインは生き物だろ。ヴィクター・フランケンシュタインは生き物だけど怪物は生き物じゃないから。でもアイアン・メイデンのTシャツの生き物いるじゃん。あれはエディだから、アイアン・メイデンじゃないな。え? じゃあ、アイアン・メイデンの作者って誰? アイアン・メイデンの作者って何。そもそも小説じゃないな。『フランケンシュタイン』は小説なのに? フランケンシュタインに花嫁がいるならアイアン・メイデンに作者がいてもよくない? 多分あれだよ、夫のほうのシェリー。夫のほうのシェリーって誰。いや知らないけど、確かそっちも作家だったろ。あれでしょ、バイロン卿と友達の。また名前増えたっす。バイロン卿ってドラキュラの敵? 違うよ。ヴァン・ヘルシングと間違えてるだろ。そうだっけ……なんの話だっけ。『ドラキュラ』の作者って誰だっけ、って話。違うよ。

 と手持ち無沙汰の雑談も長引いていたところに、Defiantの二人が帰ってくる。お待たせ。結果から言うぞ、ダメだった。と率直に言うイネスに、ええ、交渉決裂? とが返す。うん、電源と物資の供給さえ受けたらすぐに去るからって譲歩したんだけど、それさえも拒絶されちゃって。とゾフィアが答えるので、じゃあ、このままホウスまで行けってこと? と私が問う。そうなるね……アイルランド公演が終わったら、スコットランドに接岸して、それで船での移動は終わりだから、いけるっちゃいけるんだけど……いやだめだろ、酒とか食いもんとか足せないし。とハンが差し挟むと、タバコも。とが付け加える。そもそもツアー開始前に、各地の港に契約や支払は済ませてるんでしょう。そうだけど、あまりにも団体の抵抗が激しすぎて。と立ち話が長引く私たちの向こうで、わ、うわあ……とヤスミンが小さく呻く。どしたん。いま上がった動画ですけど……見てください、これ。テーブルに置かれたラップトップの画面を囲み、うわ、これ……とが眉を引きつらせ、埠頭、だなあ、ホウスの。と教授キョウジュが場所を特定する。人びっちりじゃないすかー! ああ、もうそっちまで占められてるかあ……っていうことは……皆の口端を見比べるゾフィアの頬から笑みが褪せる。今回の公演自体が危うい、ってこと。

 えー! と嘆ずるの傍らで、ダブリン中止でも次のエディンバラまでなんとか漕ぎ着けたら、ってA-Primeは言ってるけど……とイネスは言うが、いや駄目だろ、だって今もう連合国だろ。ダブリンで公演中止しちゃったら、味をしめてスコットランドでも同じことやられるだろ。と詰められ、こっちはカトリックの影響力がそんなに強くないとはいえ、今日のと同じ人たちが来るのは確実だねえ……と教授キョウジュが当事者的な分析を加える。

 壁際に追い立てられるような感じを覚えているのは、おそらく私だけではないのだろう。談話室にわだかまる沈黙を、どうする、シーラ。といつになく事務的な口調で破ったイネスに、はは、なんでヒメに? と教授キョウジュが応ずるが、その笑みはいつもの快活さとは別様に見えた。3Rトライアールのリーダー、つまりきみの母親だが、彼女の頑なな公演阻止の動機は、娘の存在にあるんじゃないかと思ってね。関係ないよ、だってヒメは……とにわかに言い合いのようになる声を遮り、ヒメが起立する。関係ある。ここまでの事態になったのは、あたしのツケが回ってきたからだ。ヒメ……だから妥協なんかしない。徹底抗戦だ。奴らの掲げてるお題目は、あたしが家の中で聞かされた文句と寸分も違っちゃいない。不道徳がどうとか堕落がどうとか。いつだって母はそう言って歌をやめさせてきたんだ。だからもう交渉の余地なんかない。奴らと言葉でわかりあおうなんて段階は、とっくの昔に通り過ぎてるんだ。ああ、似ているな。受け容れがたいものを前にしたら挑みかかって叩き伏せる、まるで幼少の頃の──とすべる想念を押しとどめ、じゃあ……どうするの? と問うてみる。ヒメは依然として眉を寄せたまま、徹底的にぶっ叩いてやめさせる。法的手段でもなんでもいい、非があるのはあいつらなんだからな。あの世迷言を黙らせた上で、こっちの要求を全部飲ませる。いかなる手段をとってもだ。と言い切った。By any means necessary, かい。とイネスは微笑するが、しかしシーラ、そうしたとして、火に油を注ぐ結果にならないかな。とゾフィアが反問する。なんでだ。お母さんがあれだけムキになってる理由にあなたの存在があるってことは、さっき認めたでしょう。だからこそ、あなたが出向いて強硬的に接したら、もうお互いに退きならなくなる……具体的には、流血にまで発展する可能性がある。それが何だ。奴らが望んでるのはそういうことだろ。だったらお望みどおりにやってやる、奴らのナメきった態度に乗ったうえで、正しいのはこっちだってわからせてやる。

 これが落とし所、なのだろうか。とても取りつく島など無いように思われた、彼女の私情を忖度することも許されない部外者にとっては。談話室に集った全員の口に、長い無言の幕が垂れる。そんな沈黙を破ることができるのは、いつだって他人に行き過ぎたお節介を焼く、彼女くらいしかいなかった。

 それは、違うんじゃないかな。ソファに座ったまま言うに、ヒメは無言で視線を向ける。もし今回のが、ヒメひとりの問題だったとしても、その解決策は正しくないと思うな。ふん、お前らしくもないな、たわごと並べる奴らになびくのか。そうじゃない……そうじゃないんだ。言いながら、ゆっくりと起立する。それとは別の意味で……けだよ。もしヒメがさっき言ったことをやっちゃったら、こっちのけになっちゃうよ。けって何だよ、このまま引き退がるほうがけだろ。違う。そうしちゃったら、ヒメもあの人らと同じになっちゃうってこと。何……ヒメとお母さんの間に何があったか、わたしは知らない。でも3Rトライアールが明らかにおかしいのはわかる。だからこそ、これは話し合いで解決すべき。いま、わたしらの公演が脅かされてるのは確かだ。だからこそ、向こうがやってるのとは別の手段で解決しなきゃいけない。ヒメ、あなたはいくら怒っても、憎んでもいいと思う。でも、正しくないと判ってる相手と、同じものになっちゃ駄目だよ。

 ふたつの波紋がぶつかりあうような、不思議な静寂。ミッシー、どう思う。ごめんねヒメが正しいと思うな。他のやつらは。あたしもヨンに賛成。こっちもがーって行ったら、あいつら余計に調子づきそうだし。私も、に賛成です……話し合いで解決できたら、一番いいと思います。イネス、ゾフィア、どう思う。あれだなあ。法的手段とかはもちろん取るけど、それは収拾段階で進めるべきこと。今こっちが振りかざしたら、あっちは袋小路まで追い詰められる。そしたら何しでかすかわかんないよ。私も同じく。まあ、宗教原理主義者たちのデモなんて飽きるほど見てきたけど、今回のは明らかに歯止めが効かなくなったパターンだよ。たぶん向こうも、自分たちが何を主張してるかさえ分からなくなってるんじゃないかな。あの人たちの言葉には、脅かされるくらいなら脅かしたほうがいいっていう、よくある怯えが透けて見えるから。怯え……か。93のふたりには……訊くまでもないな。こちらへ視線を向けるヒメ。私が頷くと同時に、イリチも微笑む。

 じゃあ……ヒメの視線を振りほどくように、好きにしろ、あたしはもう一切意見しない。とヒメはソファに倒れ込む。対話で解決できるなら、してみればいい。本当にできるなら、の話だがな。ありがとう。じゃ、イネス、そういうことでいいね? おう。じゃ、おのみち。と呼びかけるが、数秒経ってもあの活動素体が現れない。おのみち? おのみち! と何度か呼ばわると、ようやく室内入口に投射された。おのみちですが。艦長に伝えてくれ、交渉はまだ続けると。港に出張ってる3Rトライアールのもとへ、が直接話しにいく……ってことでいいよな? もちろん。伝えたら、お前も昇降口のゲートで待っててくれ。はいはい……「はい」は一回でいい。あとおのみち。はい? 女王陛下と闇公爵様の姿が見えないけど、今どこ? エリザベスとウェンダ様のことでしたら、前者はあのタコ部屋に、後者は王の御殿に、それぞれ控えておられます。ウェンダは今回の事態について何も? ええ、特に何も。というかアイルランド公演にもさほどご興味がございませんでしたようで、ブリテンでの四公演に漕ぎつけさえすればいい、とのことです。自分が勝つ前提かい、いけ好かねえなー。エリザベスは保留、ウェンダは中止でも構わない、ってことね。じゃあ、おのみちは言われた通りのことを。

 それじゃ、準備といこうか。こっから骨だぞあれらはビデオ電話での交渉だからまだよかったけど、直接会うとなると……渋面じゅうめんのイネスに、港はもう、蜂の巣みたいなもんだと思って。ゾフィアが苦笑を添える。そんくらい、自分で言ったことだよ。はやく行こう、もう一六じゅうろく時だ。言うと同時に、Defiantの二人を伴って、の背中が遠のく。




 というわけで、これより昇降口に参ります。ああ、くれぐれも暴力沙汰にならないよう。了解いたしました。通り一遍の応対をドア越しに聞きながら、ノックもなしに入室する。見ると、いわばしりマキはタバコの箱を取り出し、回頭して窓ガラス越しに空を眺めていた。強いて無関心を取り繕っている、ように見える、その背中に言う。

 いやあ、それにしても、いいちゃんたちばかり集まったものですね。あのスキャンダルが事実かもしれない、なんて、考えもしないのですから。




 そいじゃ、気張らずいきますかー。昇降口に出ようとするわたしに、はい、いってらっしゃいませ。とは恭しく言う。なんでだよ、お前も行くんだろ。なぜその必要が? 船内から港までなんて、迷いようがないでしょう。いや案内役っていうよりは、通訳役だよ。は語学がよくできるんだろ、に見込まれた程度には。それはそうですが、通訳であればなおさら要らないと思いますよ。あの人々にも皆、GILAffeジラフは入っているようですから。えっ。Defiantのお二人がビデオ電話で交渉しているのを見ておりましたが、始終ずっと日本語でしたよ。なんそれ、そこまで急速に普及してるのGILAffeジラフって!? まだ解禁から四ヶ月くらいしか経ってないよ? まあ、一神教徒にとっては永遠のテーマですからね。バベル以前の普遍言語、的な。そりゃあ喰いつくでしょう。えーじゃあアイルランドの人でも直接日本語で話せるわけか。それって……キ、キモいー! なんか日本が世界征服した設定みたいじゃん。現実であるからには、受け入れませんと。うう……わかったよ、それはいいけど、も一応ついてきて。大丈夫ですか、そんなへっぴり腰で。いやあ、さすがになんかあったら目撃者が必要だろ、あっちの言い分だけだと歪められちゃいそうだし。過ぎた心配だと思いますが。とか言い合いながら港まで降りたわたしたちを、ふたりの警察官が迎える。先導されながら進むにつれ、あれはなんだろう、3Rトライアールの人らの罵声だろうか、なにやら甲高い声が聞こえてくる。

 港の内部に入ると、いよいよもって周囲からの罵声が音量を増す。こわった批難の声を浴びせる女性たちに混じり、なんともやる気のない声を上げている男性たちの姿もあった。えっと……3Rトライアールのひとたちが怒ってるのはわかるとして、あの港湾労働者たちはなんなんだろう。買収されて、適当にやってるのでは。こんだけの人数買収するって可能か? いくら政党がバックについてるとはいえ。単に、3Rトライアールの構成員たちの配偶者が付き合わされてるだけかも。ならあのやる気のなさも納得です。そんなに港湾労働者と結婚してるのか3Rトライアールの人らって? それとも、単にタブリン市民の大半が3Rトライアールで、だから自然に港湾にも息がかかるみたいな……としょうもないこと考えるうちに、もう会談の場に到着したらしい。ワタシが同行できるのもここまでのようですよ。の正面に、作業着姿のやつれた男性の姿が。3Rトライアール側の要請で、交渉の場にはYonah側から一人のみとなっております。と言われるので、んー、仕方ないか。と観念して襟を正す。対話の様子は撮影するというので、既にプレス陣も控えております。ので、滅多なことはしないと思いますが……ん、わかった。じゃあ、ここで待ってて。はい、ご健闘を。


 うわ、なに。フラッシュか、カメラの。ビデオカメラの撮影だけかと思ってたけど、新聞社もだいぶ集まってる感じなのか。うわー政治家の記者会見みたいだな。しかし、初めてこれだけのフラッシュを浴びるきっかけが宗教団体相手の交渉って……遅れてうんざりしながら、申し訳程度にカメラの方を向く。ところに、名乗りなさい! と刺すような声。あー、福岡県から来ましたりゅうです。χορόςでは93ってグループでやってます。間抜けてあるしかない挨拶を述べながら、室内の有様を見回す。部屋の中央には、複数のマイクがゆわえ付けられたテーブルが。皆さん、ついに、ついにです。準備はよろしいですね? あれが3Rトライアールってことになるのだろう、二〇人くらいで壁際に群れている人々、と反対の方へわたしは歩く。いい加減カメラのフラッシュも収まりはじめた頃、一人の夫人が咳払いひとつ、中央のテーブルへと歩を進めた。

 それでは、りゅうさん。そちらへどうぞ。は、はい。この人、か。ニュースサイトに写真はいっぱい出てたけど、ヒメの母親、ブリジッド・オサリヴァン。似てるのかな。髪の感じとかは近いけど、やっぱ年格好のせいか印象がずいぶん……そもそも似てるってなんだろう。どう考えても主観の問題だよな。自分は親に似ているっていうよりは、親を通して自分が人間であることを発見する、みたいな。だから親に似てることは人間に似ているのと同じことで──と止めどなくなる連想をなんとか抑え、目の前の女性の姿を見据える。我々と直接会って話がしたいとのことですが、一体どのような御用向きで? いえ、シンプルなことです。この港を解放して、うちの船に物資と電源を供給してほしいなって。用件を述べると、それを断るために私たちは立ち上がったんじゃありませんか! そうです! と3Rトライアール側の人々が声を上げる。あれ、これ不利じゃないか。わたしが一人だけ通されたのって、もしかして公の場で袋叩きにするためなんじゃ。鉛を飲むような感覚に襲われ、皆さん落ち着いて。あくまで冷静にお話ししましょう。とブリジッドが背後の同輩たちをなだめる姿も、どこか演技めいて見えた。さてりゅうさん、我々といたしましては、講和に応じるわけには参りません。おわかりでしょう、どうあっても我々は、あなたがたを、一人たりとも、この地に、迎え入れるわけにはいかないのです。一言ごとに念押しするような態度に、なんでですか? と端的な疑問が漏れる。あなたがたが世界中で行っている公演とやらは、我々の道徳と真っ向から対立するものです。歌とダンスが……? そんなん世界中にあるじゃないですか、もちろんこのアイルランドにも。トラッドとかダンスとか、優れた文化がいっぱいあるでしょ。とやわらかめに言ってみると、我々の文化と、あなたがたのふしだらな催しを一緒にしないでいただきたい! 無礼です、いかにも無礼! とすかさず糾弾の声が上がる。皆さん、落ち着いて、落ち着いてくださいね……ブリジッドはふたたび背後の声を諫める。さて、ねえりゅうさん。あなたがたがどんな音楽をやろうが勝手です、表現の自由は保障されて然るべきですからね。しかしね、どうしてアイルランドにまでそれを持ち込もうとするのか、と我々は訊きたいわけです。え……? だってツアーだし……これからスコットランドとイングランドでもやるし……イングランドで? 結構なことじゃありませんか、あなたがたの凶暴な風習は、血まみれの帝国にはきっと似つかわしいものと思いますわ。だから、はやくあちらに向かっては? もうこの土地に用は無いでしょう? いやだから、言ったじゃないですか、電源と物資を供給してくれって。わたしらサン・ルイスからちょくで来たんで、最低限のものしか残ってないんですよ。あれっこれさっきイネスたちが伝えたはずじゃと疑った先から、我々の施しにあずかるというのですか! なんて図々しい! と刺々しい拒絶でむくいられる。あのね、寄港については数ヶ月前に報せてるし、そのための費用も支払済のはずですけど。要するに、大人として、商売人として、まともに応じてくれって言ってるだけなんですよ。もしかしてあれか、さっきもイネスたちはこうして押し問答してたのか、と直接この場に臨んだわたし自身の軽率を悔やみそうになり、そのために渡した物資や電力は、結局は何に使われるのですか! あのおぞましい、悪魔的な催しのためでしょう? そうです! よりによって、我々アイルランドの人間にあんなものの片棒を担げと!? それはまるで、今から戦争しに行くから武器を売ってくれと言われているようなものです! という痙攣的な罵声の連打が駄目押しする。どういう理屈でそんな……同じことじゃありませんか、ねえ! ええ、まったく同じことです! 我々は金のために魂を、この真正なる信仰を売り渡しはしません! 首元のチョーカーを握りしめて絶叫する姿を眺めながら、これはちょっと、まずいんじゃないか。と砂を噛むような感覚。思った以上にあれじゃないか、話通じてないんじゃ。こちらの要求がどうとか以前に、この人たちはもう最初から──

 皆さん、落ち着いて。ひとり冷静に見えるブリジッドは、咳払いひとつ起き、さてりゅうさん……おわかりになりましたでしょう。我々は何があったって応じるわけにはいかないのです、あなたがたのふしだらな生業なりわいを後援することになりかねない以上は。と一息に述べる。もうよろしいですね。速やかにこの港から立ち去っていただきたい。

 沈黙。

 えと、どうしよう。どこから指摘したらいいんだろう。色々おかしいけど……こうなったら、もう、絞るしかないか。港での騒ぎをニュースサイトで報されたとき、まず一番に引っかかったあの件。

 あの、ブリジッドさん。わたしの質問を、ひとつくらい訊いてくれてもいいじゃないですか。と言うと、もちろん、聞きますよ。どうぞ? と恭しく返した。この団体全員を相手にしても勝ち目がない。だからブリジッド・オサリヴァンの、彼女のうちにあるものに触れるしかない。あなたがたが主張している、あのスキャンダル、ですけど。と一言述べただけで、おお、口にするのも恐ろしい! 悪魔の仕業です! と背後から嬌声が上がる。がブリジッドはつとめて冷静に、あれが……どうかしましたか? とだけ返した。あれは根拠のない誹謗中傷でしかないと思うんです。打てば響くとばかりに、何を、知りもしないくせに! と罵声が返る。つられないように息を整えながら、ええ、おっしゃる通りです、わたしは何も知りません、そのスキャンダルについては。ただ不思議なのは、皆さんが先ほどから、まるで事実であると確信しているように見えることです。と続ける。事実に決まってるじゃありませんか! そう、直接私たちのところへ来て、教えてくれたんです! みなさん、静かに……教えられた? ってことは、皆さんが独自に調査して掴んだわけじゃないんですね? 誰に教えられましたか? あなたがたにそのスキャンダルを吹き込んだのは、いったい誰なんです? と掴んだ糸口を引っ張ると、答える必要はありません。大事なのは誰から教わったかじゃない、その事実が真か偽か、です。とブリジッドが言下に謝絶する。うちのいわばしり艦長は、はっきり事実でないと明言してますよ。と返すと、そんなそらごとが信じられますか! と初めてブリジッド自身も大声を上げた。

 沈黙。

 ブリジッドさん。なんですか……あなたの娘さんも、Yonahに乗ってますよね。シーラ・オサリヴァン。わたし、このツアー以前から、娘さんとは仲良くさせてもらってるんですが。はあ、そうですか……あなたって、彼女が歌の道に進むことをよく思ってなくて、やめさせようとしたらしいですね。それでいえしちゃったって。それが一体なんですか! 交渉とはまったく関係のないことです。カメラ、止めてください! つまりあなたと、うちのいわばしり艦長は、シーラにとって二人の母親ってことになるわけですよね。彼女は自分の意志でNGOの世話になることを選んだ。つまりあなたのところにはいたくなくて、いわばしり艦長のとこへ転がり込んだんです。だから何だというの……だからなんじゃないですか? あなたがいわばしり艦長への誹謗中傷を行うのは、娘を奪われたという被害者意識を糊塗したいだけなのでは? まあ、なんてことを! 本当に、なんということを! それこそ根拠のない誹謗中傷じゃないですか! 違うなら謝ります。ただ、あなたが何故あのスキャンダルに執着するのか、疑問はまだ片付いてません。誰から聞いた話を、どういう理屈で事実と思うのか、感情的にならずに説明してください。説明する必要などありません! 事実なのです、事実ったら事実なのです! そうです! 我々には正当な権利があるのです、あなたがたのふしだらな生業なりわいをやめさせる権利が! あの、それがもう根本的にわかんないんですけど……いったい何なんですか、ふしだらとか堕落してるとか、さっきから一方的に言ってますけど?

 沈黙。よし、来たな、肝心のとこに来た。この人たちが最初からわたしらに憎悪を向けてやまない理由、その中核に踏み込めるかもしれない。ブリジッドは、慎重に言葉を選ぶかのように口端を震わせたまま黙っていたが、ようやく案文が定まったのか、長い呼気ひとつ挟み、口を開いた。

 あなたがたのような……ソドミーの申し子が存在していること自体、我々には堪え難いことなのです。

 ソド……何? はっきり言わなきゃわかりませんか? 女性同性愛者どもの巣窟、ということです! よりによってそんな汚辱のちまたに、私の娘を拉致するなんて!! 拉致っておい、ヒメは自分の意志であんたを捨てたって何度言えばわかるんだよ? ヒメなどと、うわついた名で呼ぶな! あの子はシーラ・パトリシア・オサリヴァン、私の娘です! ええ、そうですとも! だいたいヒメなどと、いかにも堕落したソドミーらしい呼び方! なんだよ、わたしがつけたわけじゃないし……しかしすごいなあんたら、さっきからホモフォビアを隠そうともしないが! 道徳的に堕落した人々を軽蔑して何が悪いのです! ねえ皆さん! そうですとも! 考えられません、あんな淫猥な歌を唄っている女たちが、よりによって同じ船内で過ごすなんて! きっと内部では連日連夜の乱交が行われているに違いない! なんそれ……あんたらの勝手な妄想だろ! あと女ばかりで乱交してたとして、それの何が悪いんだよ? あっ! 皆さん、聞きました? 今あの人、認めましたわ! ほうらやっぱり、事実だった! χορόςはソドミーたちの伏魔殿だわ! なんてふしだらな! 道徳的に堕落した者どもを、この神聖なるアイルランドに迎え入れるなど言語道断です! ちょっと、頼むから落ち着けよ……もう宥恕ゆうじょなどありえません! ええ、わからないなら何度でも言ってあげます、我々はあなたがたの悪魔的な生業なりわいなど認めません! 出て行きなさい! あんたら……骨の髄までキリスト教徒だな、歌とダンスの力をそんなに恐れるなんてさ! しかしキリストも言ってたろ、ええと、わたしは剣でなく笛で踊りましたとか……「笛を吹いたのに、あなたがたは踊らなかった」でしょう! なんと、我々の聖典を恣意的に歪めて引用するなんて! しかもあの人、キリスト教徒のことをひとしなみに侮辱しましたわ! 性的に堕落してるうえに差別主義者とは! おま、どの口でそんな……記者の皆様、この軽蔑すべき人間の顔をしっかり撮っていってくださいね! ああ、ちくしょう、そうだなしっかり撮っていってくれよ! わたしの目の前の、軽蔑すべきご婦人方の姿をな! 何を……この対話をどう報道するかは、記者それぞれの自由だからな。「ジャーナリズムの力は大きい。世界を説得しうるような有能な編集者は、すべての世界の支配者ではなかろうか」。トマス・アクィナス、じゃない、カーライルの言葉だ、あんたらはそもそも知らんだろうが! ほんとに、侮辱の語彙ばかり豊富な女! いいか、わたしらは正式な手続きを経て入港しようってだけだ、もう前日に全部済ませてるんだ。そんなこともわからないならもう全員……モーゼモーゼと、我々の前で穢らわしいユダヤの名前を出すな! は!? な、何だよそれあんたらの聞き違いだし、キリスト教だってユダヤと同じ一神教だろ! 我々の真正なる信仰はユダヤとは何も関係がない! そうだ、いわれのない誹謗中傷だ! 何なんだよあんたら、無茶苦茶だ! もしかして新約だけで旧約のほうは読んでないのか? そんな雑さで一神教徒が勤まるのかよ? まあ、穢らわしいソドミーが、よりによって我々の信仰を云々するとは!! 神よお慈悲を! おお、終末の日は近い! クソッ、そうだなもうおしまいだ、こんな連中が一丁前にキリスト教徒を名乗ってるとは! いいか、あんたらは自分自身でキリストの名を汚してるんだ! 

 出ていけ、出ていけ、悪魔め!! あ、うわ、なんだよまだ言い終わってないぞ、ちくしょう、あっやべ思ってたより腕っぷし強い、いや集団だから当然か。壁に沿って押しのけられるわたしを、これはプレス陣から止めに入ったのか、それとも港の職員が騒ぎを聞きつけたのか、何人なんにんかがわたしを敵意剥き出しの婦人たちから離そうとする。助かった、今のうちに。振り返ると、ちょうどドアが開け放たれた。走り出すと同時に、体重の乗った一撃が背中に叩き込まれ、文字通りに部屋から蹴り出された。


 おめでとうございます。室外にまろび出たわたしにが言う。何がおめでとうだよ。無事、交渉が決裂したようですので。これでおわかりになったでしょう、たとえGILAffeジラフがあろうと、話の通じない相手には通じないと。まあ、ほんとにバベル崩壊後の大混乱って感じではあったけど……でも、ちくしょー、わたしもだいぶカッとなっちゃったな……話す前は冷静にいこうと思ってたのにさ……衣服の埃をはたきながら歩くわたしに、お気になさらず、最初から無理な話だったのですから。とは慰めにもならないことを言う。認めたくないけど……でもそうなんだよな、話の通じない人はいる。そういう人らが一方的に誰かを圧殺することも。ほんと、日本にいたときは気づかなかったけど、表現の自由なんて、地理的にも歴史的にもごく限られてる……いかがなさいました? いや……ちょっと考えてて。こういうとき、ならどうするかなって。急に……なんですか? あいつさ、口癖みたいにしょっちゅう言ってたんだよ、「この世界は変えられる」って。わたしたちが自明として受け取ってることは、実は地理的に歴史的に限定されたものでしかない、だからこそ人の手によって打開できるんだって。そう、ですか。

 すでに昼のものではなくなっている陽射しを眺め、手を臀部の位置で組み、ぐっ、と前屈ぜんくつする。なら、どうするかな……あの人たちの信仰の歪みを、ひとつひとつ丁寧に指弾したかな。でも、それと同じことが、わたしなんかにできるわけないな。と独言どくげんめくわたしに、らしくもなく、思い詰めますね。もっとシンプルに考えたらいいのでは? アナタはアナタにできることをするしかない、とでも。とが言う。わたしに、か……にはできなくて、わたしにはできること……


 様?

 ……音楽……

 えっ?


 姿勢を戻し、息を整える。やるしかないか。えっ、あの……そうだ、シンプルに考えよう! ほらさっさと戻るぞ。わたしにできることなんてひとつしかなかった。わたしたちは最初から、音楽をしにきたんだ。




 もう一七じゅうしち時前。二時間後にはホウス岬で開演準備を整えているべき私たちは、談話室中央のテーブルを囲み、奇妙な余裕とともに帰還したの話を聞いている。

 “Dance Dance Dance Dance Dance to the radio” 作戦……? 怪訝に鸚鵡返しするイネスに、あるいは、 “They Shoot Horses, Don’t They?” 作戦。とが加える。なにそれ。映画のタイトル。日本ではたしか『ひとりぼっちの青春』とかいう邦題で公開された……どんな映画すか。観客の見てる前で、死ぬまで踊り続ける、みたいな。へえー、楽しそうすね。いや、すごくダウナーな映画だったけど……で、それが一体? あと “When the last ship sails” 作戦とか “Learn to swim, see you down in Dublin Bay” 作戦とかも考えたんだけど……いやもういいから、作戦名は。つまりね、簡単なことなんだ……あいつらが、3Rトライアールが見てる前で、船が沈没するまでライブ配信をやる。

 沈黙。

 えっ? さっきおのみちに確認してきたんだけど、この船、今は停泊状態だから問題ないけど、もう航行には二時間ちょっとの電力しかないらしいんだよ。そうだな、港からの供給を受けられない限りは……だから、それを逆手に取る。このまま出港して、ダブリン湾のあたりをぐーるぐーる回って、その間ずっと、船内でライブ配信をする。えーと、最初にみんなでパーティーしたあの広間がいいだろう。その様子をχορόςの公式チャンネルで流すわけ。ああ、ライブの代わりとして……正確には、ライブの正式な開催を求める抵抗運動として。もうホウス埠頭も抑えられてるんじゃ、この港を出たとしてもライブやれるとは限らないだろ。つまり、船内でのライブ配信を、3Rトライアールのデモを解散させるための示威行動とする……そう。いつもの公演がいつもどおりに行われないとしたら、今まで観てくれてたファンたちも不審に思うだろ。すぐに何が起こってるか知りたがるはず。だから先手を打って、わたしらがライブを通して呼びかけるんだ、電力が切れるまで。ええと……、船には予備電源っていうものもあるんだよ。知ってるよ。それは港を出るときに置いてく。わたしらが本気だってことを思い知らせるんだ、本当に船を沈めるつもりだって。

 沈黙。

 いちおう訊くけど……正気? もちろん。正気の人間は「正気です」なんて言わないけどね。もうこれしかないと思うんだ。わたしたちは全員、音楽をやりに来たんだろ。今回まさかの妨害に遭ったけど、でもよく考えたら、自由に表現できる空間なんて限られてるだろ。わたしたちも、今まさにその自由を脅かされてる。だったら戦うしかない、音楽で。でもねえさん、さっき「沈没するまで」って言ってたすけど……言葉通りの意味だよ。もちろん、みんな一緒に沈んで死のうって意味じゃない。おのみちに頼んで、いまデッキのほうで避難の準備をしてもらってる。救命胴衣もボートもあるし、ダブリン湾から岸辺までは行けるはずだ。えっと、沈む前提で話が進んでるけど……最悪の事態を想定すべき、ってだけだよ。もちろん最良のシナリオとしては、訴えた結果としてアイルランド政府……じゃない、えっとヒメなんだっけ正式名称。スコット=アイルランド連合国Scott-Irish United Nation、略称SIUN。それ。その政府がダブリン港での処遇が不当なものだったと正式に認めたら、3Rトライアールのデモは立ち枯れになる。そうすればYonahは無事に入港できるし、物資と電力の供給も得られる。そのあと万全の状態でホウスに向かえばいいだけだ。たしかに、それなら港の封鎖とホウスの占拠を同時に打開できるな……でしょ。そうだが、な……、言っていいか。うん。狂ってる。あー、言われると思った……さっき「話し合いで解決する」と息巻いてたやつの言うことがこれか。電力がなくなるまで示威行動して、駄目だったら船ごと沈めと。で、ねえさん、これあたしが一番気になってることすけど。うん、何? 船が沈んだとして、人はまあ脱出すればいいすけど、Yonahに積んである機材、は……ああ、それね……ごめんだけど……助けられないな。

 沈黙。

 やだあー!! それ無理っすー!! あんまりじゃないすかあ、機材は何も悪いことしてないのに、いきなり塩水に漬けられて死んじゃうなんてー!! 無理っす、それないすわあ、あんまりっすわあー!! あー!! ご、ごめん漁火ちゃん、まさか泣くとは。だって、わかってるはずじゃないすかあ、この船どんだけすごい機材積んでるかあ……わかってるよ、でもミキシングコンソールとかは、さすがに搬出するのは無理。もちろん全部沈めるなんて言ってないよ、アンプとかエフェクタとかは、予備電源を港に下ろすとき一緒に出すつもり。いまおのみちに準備してもらってるからさ。うー……ギターもっすかあ? もちろん、ただ配信中に使う一本は残してもらわなきゃだけど。なんかもう、やる前提みたいすけどお……皆なんか言うことないんすかー? はかるんとかー? あるけど……あるけど、もう十分わかってるからね、言ったところで思いとどまる人じゃないってことは。エヘヘ……なんで嬉しそうなんだ。嬉しそうでしかも照れてる。んー……どう思うソーニャ? 時間的に考えて、根本的に事態を解決しうる案はそれしかないかもね……いや、狂ってるけどね。はは、だよなあ。いやー、最初に会ったときは思いもしなかったよ、りゅうって人がここまでぶっ飛んでるとは。沈没とか言われたときはどうしようかと思ったけど、詳しく聞いてみれば筋は通ってるし、あまつさえ準備も進んでるみたいだし。エヘヘ……だから、なんで嬉しそうなの。照れるのもやめろ。いま「気違いですね」って言われてるんだよ、あなた、端的に。いや、でもこれ以外に無いと思うんだ。わたしたちは音楽のために来た。にも拘らず正当な待遇すら受けられずに引き退がるなんて、その時点でけだよ。理不尽な問題に直面したら戦うべきだ。ただし絶対に武力でなく、わたしたちの仕事、音楽で。音楽で、ね。漁火ちゃん……いい? もし無理だったら、先に避難しといてもいいから……先にって、もうやるの確定なのが怖いっすわあ。はは、まあね。でも決めたことだから。ねえさん怖い人だなあ、最初組むときから知っときゃよかったっす。はは、ごめんね。謝んなくていいっすよ。仕方ないなあー、やるしかないっすね。本当? 文字通り、乗っ掛かった船じゃないっすか。ここで降りたらKATFISHの名が廃るっすよ。ただ……条件があるっす。なに? もし沈んだとして、みんなかならず脱出できるようにするってこと。もちろん、それ第一に考えてるよ。あと、Innuendoのふたりの同意も得てから始めるってこと。あ……そうだったね、うん、もちろん。忘れてたろ。そんなわけないじゃん、おのみちにどうするか訊きに行ってもらってんだよ。おのみちですが……おう、どうだった二人の意向は? ウェンダ様は、そんなのは言語道断だとして、ライブ配信にも加わらないと……お荷物も既にまとめて、港に降りる準備を整えておいでです。そっか。エリザベスは? 話を聞いて、ずいぶん戸惑っておられましたが……ウェンダ様と同じく、ライブには加わらないと……おのみち、ずいぶんげっそりしてないか。現在、四〇体ほどで同時に活動しておりますのでね、こんな重労働は初めてで……じゃあ、ウェンダとエリザベスは出港前に降ろすってことでいいか。ええ、ウェンダ様に関してはそのように……ただ、エリザベスはまだ考えたいとのことで、部屋に留まっておいでです。うん。どっちにしても、避難準備だけは間違いのないように。じゃ、戻っていいよ。おつかれ。はい……


 お待たせしました……ああ。では、私はもう行くからな。はい……あの、わたくしは船の半径1km以内での活動しかできませんので、ウェンダ様におともすることは叶いませんが……お忘れなく、このおのみち、たとえAIなれども魂は常に……ああ。ではな。あ。ウェンダ、様……行ってしまわれた。せめて、振り向いてねぎらいの言葉でもいただけたら……ああいや、わたくしには休む暇など無い。ボート、胴衣……はこれで全部か。


 指示の通り、船の予備電源と発電機は切除し、これから港に降ろします。うん、船自体の残存電力は。今まで通りの速力で駆動させて、ライブ用の機材も使うとなれば、一時間半もたないかもしれません。そっか……まあ、十分だよ。船の機構はおのみちに任すとして、いちおう知っておいてください。電源が消失し、駆動が止まった後、船底のシーチェストを破損させれば、おそらく沈没可能となります。沈没可能、はは、まさか生きてる間にそんな言葉を聞くことになるとは。では、避難と搬出の準備は整ったようです。あとは……出港ですね。待って、その前に艦長と副艦長の同意が……あの人たち? とっくに同意済みですよ、イネス様や様の好きなようにと。どうせ主体性なんかあるわけないんですから。ずっと前から思ってたけど、ってなーんかあの二人に厳しいよなー。ふん……死んだ目をしてる輩は嫌いなのでね。じゃあわたしのことは大好きってか。いえ、鬱陶しくギラギラしてる人も嫌いです。ははは……ねえ。はい。今日、3Rトライアールの人らが大騒ぎしてたスキャンダル、だけどさ。あれと関係あるんじゃないの……が言ってたスーダンでの「解放」。まさか、あの宗教きちがいたちの妄想の所産ですよ。でもだいぶ共通点あるじゃん、PKOでアフリカで民間人虐殺で。もしかしたらあれ、事実、ってこと……そんなこと言ったら、あの時ワタシがした話だって、でっち上げかもしれないじゃないですか。えっ? ああ……まあ、可能性としてはそうだけど。人の話を容易たやすく信じ込みすぎですよ、アナタは。人間ひとりの現実なんて不確かでしかありえません。信じたいものを信じるだけ、に決まってるじゃありませんか。いや、まあね……でもね、言葉を言葉どおりに受け取るしかないんだと思うよ。それ以外にようなんてない。目の前に突きつけられた言葉を、言葉どおりに受け取るしか。まあ、アナタみたいな人間はとくにね……うん。そいじゃ、あとよろしく。わたしは大広間にいるから。ええ。


 話し終わると、すぐに行ってしまう。まったく、ついに正気を失ったか、もこの船も。「発狂した人間は、理性以外の全てが失調している」とは、母から聞いたことだったか。今のにも同じことが言えるだろうか。しかし、言葉を言葉どおりに、ね。だから毎回ひどく傷付くんだろう、何をしたって。だからアナタは、母と一緒にいても……


「そうすれば、あなたもすぐにわかってくるでしょう。そこで何が起こりうるのか、自分は何をすべきなのか、が。」


 だからアナタは、母に、あれほどまでに……




 最初は教授キョウジュハンB2Bバックトゥバックでいくだろお? ん、あのパーティーみたいな感じだな。でも駆動時間は限られてるわけだろう……配信開始から数分間、ストリーミングがちゃんと行えてるか確認するあいだでいいんじゃないか。そうだね、ここからやるのは初の試みだし。で、一曲目が始まる前から、教授キョウジュハンはDJブースに板付きで。一曲目以降のトラック出し担当、ってことでしょ。うん、さすがにずっと二人いてもらうわけにいはいかないから、パフォーマンスの番になったら片方が抜けるのを繰り返して。そこもB2Bバックトゥバックなんだな、任せとけって。よし、じゃあ肝心のセットリスト一曲目だけど……もちろん93だろう、こんな無茶を始めた当人なんだから。だね……いきなり『Grace & Gravity』かますか。あはは、沈むかもしれない船で『Grace & Gravity』って、笑えなすぎて逆に笑えるっす。そのあとで、どういう経緯でこうなったかを説明する? うん、フリースタイル混じりでね。たぶんふんもかからないよ。字幕の自動生成と同時通訳機能に支障がないよう注意しておいてね、おのみち。はい……で、次はDefiantに出てもらいたいんだ。んー、いつもみたいな大掛かりなステージセットは使えないから、やっぱ『Funky Presidenta』かねえ。そのあとの転換込みで、シィグゥはこの時点からスタンバっといて。ん、じゃあここで抜けなきゃだな。Defiant、シィグゥときて、次にShamerockきたらゴタゴタする? あたしがすぐDJブースに戻れたらいいんだけど……それまでヤスミンのフリースタイルでつなぐかな。無、無理だよ。じゃあ漁火ちゃんのギターソロでいいんじゃない、暗転とともにジャーンってイントロ。お、よさそう。その間にわたしらが準備してShamerock、って流れか。せっかくだからイリチ、今回ギター弾いてよ。マジすかー! 『Hell-Bent』のギターなら完コピしましたけど! あはは、準備万端じゃん。じゃここまでの流れで……だいたい二五にじゅうご分くらい? 順調にいったらな。あとは……もうバラけてやってもしょうがないから全員集合、だろう。うん、それしかない。そうだ、実はわたしら前にやったことあるんだよ、Shamerockと一緒に『Bleed It Out』。あー、それ観られなかったやつ! リンキン・パークか、あれならすぐ憶えられるな。じゃ、その場にいる全員で『Bleed It Out』……からの、DJブースからループで出す曲も欲しいね。なんのネタがいいかなあ……そりゃ、ヤバいやつらのオールドスクールだから『Live at the Barbeque』だろお。おお、いいね! ワンループだし、あのフックなら誰でも唄えるし。これってるころには外で大騒ぎになってなきゃいけないわけすね。そう、A-Primeにも協力してもらって、ダブリン港での待遇が不当だったことを訴えかける。連絡はもう取れたよね? 確約済みだよ、今回のが中止になったらあっちの株価もガタ落ちだからなあ。よし、このへんからは、配信画面にSIUN政府へのメッセージを出して……それで、どうする? あとはもう、皆を信じてり続けるしかないね……皆って、この配信を見ることになるファンたち。それと、港に集まってる3Rトライアールの人たちも。ふん……それでも、最後の一押しに欠けるんじゃないか。『Live at the Barbeque』は別にいいが、何かこっち側の主張に沿うネタがないと……

 こっち側の主張に、か。たしかに、一方的にパーティーの様子を見せるだけじゃ……何か、これがわたしたちの言うべきことだ、ってテーマが集約されるような曲目。でもそんなんあるか、これまで皆バラバラに活動してたわけだし、今からリハーサルしても間に合わない……頭の中にいくつもの案が浮かんでは消える。ところに、93うちの部屋から持ってきたファイルをめつすがめつしていたはかるが、一枚の譜面を差し出した。

 これ……かな。おお……これだろ! イネス! うん……? あっは、よくこんなおあつらえ向きの! なに……? ぷっ、ははは、学校で何度ったかこの曲! 私も、定番曲集くろほんの練習してるときに何度弾いたか。あー、ライブにうってつけだな! ヨンとイネスがラップ、はかるがピアノで、ゾフィアがサックス、あたしがビート打ってミッシーがDJ。これで成立するだろ! わかんないけど、難しい曲なの……? ボーカル担当のひとは、途中でチャントが出てくるんで、それを繰り返したらいいはずっす。メロディはサックスのと同じなんで。よし……じゃ、この曲を電源喪失までり続けるか。いやあ、しかしよくこんな譜面持ってたなあ! 実はこの曲、日本のヒップホップの名曲でもネタとして使われてるんだよね、『OVER THE BORDER』っていう。ぶはは、あれらにぴったりのタイトルじゃん! じゃあ……演目の打ち合わせはこれでいいね?

 大広間の床に座っている全員が、物言わず視線を交わす。

 おのみちですが……うわっ。あ、この部屋にいるのとは別のおのみち? はい。予備電源、発電機、機材や私物など、排出可能な船内の荷物はすべて港に降ろしました。ん。3Rトライアールの人ら怒ってなかった? いやあもう、大変な騒ぎで……これはなんだ、爆発物ではないのか、テロだ、一体何をするつもりだ、などと……あはは、結構結構。生憎のところ、わたしらが使うのはピースフルなフォースだけどね。じゃ、港のほとぼりが冷めないうちに、さっさと出港するか。ん、それがいい! あの、おのみち……エリザベスはどうなりましたか? ええと、まだ部屋に残っておいでです……まもなく出港ですと、伝えたのですが…………そう。避難準備は完全に整いましたので、出港後も繰り返し注意は促します……それでは。


 じゃ、行くかい。うん。まったく、故郷もすっかり遠くなった……あはは、だよねー、祖国に入れてすらもらえないなんて。逆に考えるべきかもよ、ヒメたちに反対してるのはあの団体だけで、ファンたちは味方だって。あ、そっか……配信中にリアルタイムで行動してくれるかも。配信かあー、ちぬんに今のうち連絡しとこ、「これで最期の演奏になるかも」って。アイルランドまで飛んできちゃうかもよ。そしたらちぬんにも参加してもらうっす。ふふっ。それじゃ……行きましょうか。


 退出し、これから衣装や諸々の準備に入る。一八じゅうはち時前か。よし、まだ手遅れじゃない。すぐに始めたら、勝ち目はあるはず。勝ち目? そんなん誰が判断するんだ。もちろん、後から来るやつらに決まってる。わたしらがしたことをどう思うかは、その人らが決めたらいい。ただわたしらは、これしかできなかった。するしかないことをやるだけだ。

 振り返り、様変わりした大広間を眺める。うんおのみち、急ピッチでよくここまでやってくれた。あとはもう、わたしらの仕事だ。話し合いではどうにもならなかったけど、わたしらにはこれができる。武力や恫喝でなく、おとことまいによる訴え。

 これがわたしらの戦争だ。




 なんだというの。とっくに港は占拠したというのに、あの穢らわしい船は未だに停泊したまま。おまけに、騒ぎを聞きつけた小蝿どもがこうして纏わってくる。

 よう宗教右派ども、ずっと出ずっぱりらしいが、今朝のお祈りはちゃんと捧げたんだろうな? なん、よくもそんな物言いができるわね、世俗に毒された享楽主義者が! あんたらが陰謀論に取り憑かれたイカレだってのはわかったからさあ、もうさっさとどいてくんない? あたしらはね、ヒメたちがダブリンでってくれるのをずーっと心待ちにしてたの。それこそあんたらがイエスの再臨を待ち望むようにね。なんという……我々の偶像とあの淫婦どもを一緒にするとは。同じ偶像には違いないでしょ。ひとつ決定的に違うのは、あんたらの救い主と違って、こっちには音楽とユーモアの才能があるってこと! ああ、なぜこのような穢れた言葉を聞かねばならないのか! 神よお慈悲を、かの涜神の徒どもは知らないのです、自らが口にしたそのことによって、たったいま天国への道が閉ざされてしまったことを! おー、なんか俺ら天国出禁になったらしいぞ! いいじゃん、最初から行くつもりないし! 天国天国って言うけどさあ、そんなものがあるとして、あんたら本当に行きたいの? 賭けてもいいが、そんな天国に行ける奴らなんて、全員、一人の例外もなく、クソ野郎だぞ!

 なんなの、こいつら、いったい誰に頼まれてきたの。まさか、あの堕落した祭典を主宰している企業に雇われたとか。そうだわ、どうせこんなまとまりのない抗議に参加するような輩には日当が出ているに違いない。おお神よ、私はバビロンの徒には決して……

 え、何。なん……なんですか? 唐突に響いた汽笛に、同志たちも不安げに埠頭を凝視している。さっきから不審な挙動を繰り返していたあの船が……動き出した。ははあ、これはきっと退却ですな! 我々の根気強さに屈して、尻尾巻いて逃げよったんですよ! 皆様、勝利です! 我々の誇り高い国土から、淫婦どもの船を追い出しましたぞ! そう、そうよね、これできっともう終わり。ついに我々の信仰に勝利が……輝き……あれ? 眼前の暴徒どもの携帯端末に通知音が。ほらやっぱり、雇われていた企業からの通達だわ。やっぱりこいつら、金で動いていたんだ。もういいでしょう、さっさとお帰り……あら、なにかしら、どの輩も一向に去らないばかりか、我々と同じように、動き出した船に視線を向けて……

 なに……配信開始? えっだって、まだ開演時刻じゃないでしょ? それに、船まだあそこだし……えっ!? なに、なんの騒ぎ。同志……いったい何事ですか? あの淫婦ども、どうやら船内にたてこもり、海上でライブをするつもりのようです。しかも、その様子をネットで配信するなどと……ふん、大したことではありません。そんな児戯めいた訴え! いえ、これは……まずいですぞ……どうなさいました? あいつら、ダブリン湾に……あの船を沈めるつもりです。




 よし……声明文のアップも公式アカウントでの告知も完了、配信の音質と画質も整ってきた。この曲が終わったらもう出番。おのみち、あたしのギターイントロで始めるんで、それまで暗転で頼むすよ。了解しました。


 なん……これ!? まさか、あの船の中でやってるの!? 間違いないよ、聞こえるじゃん、あっちのほうから!


 おのみち、外に出してるスピーカーの音量、最大まで上げちまいな。しかし……そのぶん電力の消耗が速くなりますが。いいよ、も覚悟の上だ。


 何これ、今回のχορόςってこれなの? もう始まるなんて聞いてないんだけど! アイルランドのやつらいないの? 外のあたりどうなってる?


 イネス……パンゲアから連絡あったよ。いつものコメント量の五倍だって。ふふん、いい調子だな。あとこれはフォーラム情報だけど、ガーディアン紙の取材陣が港に到着したって。よし、どんどん広がってくれよ……じゃ、次はあれらの出番だ。おのみちが戻ったらシィグゥの段取りを。了解しました。


 きたー『Funky Presidenta』!! フゥゥゥゥゥゥゥゥゥウウ!! 何度聴いてもアガるわーこのイントロ! こんばんは、ちょっとよろしいですか? えっ? あっはい。今回、3Rトライアールおよび聖パトリック党による公演阻止運動に対し、ファンの方々がカウンターのデモを行なっていると聞きましたが……ああ、カウンターていうか、文句言いに来ただけですけどね。でもあれですよ、いきなり船が動き出しちゃって。出港して、ダブリン湾を回っているのでしょうか……? はい、でも、声明には「沈むまでやる」って物騒なこと書いてますよ。さっき港でたくさん荷物降ろしてたし……本気なんじゃないですかね?

 よろしいでしょうか。なに……勝手に撮らないで、肖像権の侵害! 今回、3Rトライアールおよび聖パトリック党による公演阻止運動が、表現の自由の侵害、および港での端的な営業妨害として広く批難を集めていますが。批難って……私たちは私たちの信仰を護るために行動しただけよ! これだから左派の新聞は信用ならない! リーダーのオサリヴァン氏、および聖パトリック党首のアポロ氏にもコメントを頂きたいのですが。なんですか、嘘偽りは申しませんぞ、私は信教の自由を護るためにここにおります、もちろん表現の自由も大事でしょうがね。オサリヴァン氏、あなたの実の娘であるシーラさんはPeterlooの預かりということで、今回の抗議は私怨によるものではないかとの見方が広まっていますが……よくもそんなことが! 私怨などと!


 한나언니♡ 茉莉加油! ヤバいこれ全員ぶんやるの? すごくない? ってかいつまでやるの?


 おつかれ、もう大騒ぎって感じだよ。ガーディアン、NME、ハフィントンポスト……よーしどんどん広がってるな。次の段取りは? 漁火ちゃんのギターソロに入ると同時に、改めて声明文をでっかく画面上に表示する。よし、操作たのむぞおのみち。はい。そんで、ソロが明けたらShamerock。よしソーニャ、今のうちに全員分の水持ってきといて。うん。


 WTF! えええええこんな共演なかったでしょ今まで!? ツイッター落ちた? 落ちてない? コメント欄はまだ生きてるみたいだけど。


 おつかれーシィグゥ。ありがとうございます。今、港の様子は……3Rトライアールとファン、双方のデモが向かい合ってるなあ。おー……たのむよ怪我人だけは出るなよ。ネット上では、ファンによる署名運動も始まってるみたい。署名って、今回のSIUN政府に訴えかけるための、ですか? もちろん。ヨン、残りの稼働時間どんくらい? えーと、スピーカーの音量最大にしたら思ったより減っちゃって………あと三五さんじゅうご分くらい。ええ!? すまん、あれがそうしたんだ。いいよ、そのおかげで外部まで伝わったみたいだし。署名の数もすごいことに……このままいけば、SIUN政府も即座の対応を取らざるを得なくなる。うん、でも……どしたヤスミン? ……ちょっとごめんハン、私、デッキのほう見てくる。デッキって、避難用の? うん、でも脱出するわけじゃないよ。ちょっと、やっとかなきゃいけないことがあるの。


 まさか、本気で、こんなことを。りゅう、あの子どうしてここまで……こんな手段が、本当に通じるとでも。こんなことで状況を打開できると……信じられない。いや彼女自身も、本当は信じていない。本当に信じてしまったら狂信になる、港にたむろしているあの一団のように。本当に信じているわけではない、なら、どうして彼女はここまで。そして、どうして私もまだここに……

 エリザベス! 背後からの音声おんじょうに、反射的に手元の端末を隠してしまう。振り向かなくてもわかる、このお節介な声はツァイモォリィ。観てくださってたんですねっ。通路からデッキへと歩み入る彼女に、ええ……良いパフォーマンスだったわ。と、本音でも上辺でもない感想を放る。ありがとうございますっ。あの、この船、あと三〇分くらいで沈んじゃうらしいです。知ってるわ、数分おきにおのみちが報告に来るから。そう、ですか……

 何の用で来たかは、もうわかってる。あの、エリザベス……言わなくていいわ。どうせ、貴方は来ないんですかとでも言うつもりでしょう。そこまでわかってるなら……行かないわよ。今回ばかりは、私の出る幕などない。そんなはずありません、貴女は今回のχορόςで一番のアーティストじゃないですか! 個人として、なら、間違いなくそうでしょうね。しかし……あなたがたには皆パートナーがついているじゃない。その肝心のパートナーに裏切られたばかりの私には、あなたがたの共演の中に居場所を得ることなど許されない。そんな……実力や才能どうこうじゃないわ。これは私の……プライドの問題なの。

 言うべきことは言った。そう、ウェンダなしで今更出たところで、いったい何になる。そこにはInnuendoによる至上の演舞も、ファンが期待する孤高の姿もない。私にできることなど何もない。しかし、では……なぜここにいる。ウェンダと同じように、始まる前から降りたらよかった。なぜここに残ったのか。最後まで見届けるため? 音楽による抵抗に賭けた彼女らの姿を見届けて……それで、先は、どうなる。私自身の経歴も、このχορόςの行末も。

 プライドが、何ですか……見ると、声とともに拳も震えていた。プライドが、何だっていうんですか! そんなもの、ただ傷付くだけじゃないですか。プライドなんて大事にするものじゃないです! むしろ、前進するためには傷付けなきゃ、プライドを! 傷付ける……? 現に、私はたくさん傷付けてもらいましたよ、貴女に。貴女に及ばないって、貴女の真似事くらいしかできないって、χορόςに参加する前からずっと傷付けられてましたよ、こんなすごい人がいるのに私は、って……でも、そのおかげでここまで来ました。もう私にプライドなんてありません。滅茶滅茶にされて、ズタズタにされて、そのおかげで今の私になったんです。価値ある傷がある限り、人は前進できるはずです。これはエリザベス、貴女が教えてくれたことですよ。

 今度は、私も傷付けと。はい。切って、傷を、開けと……ふふっ、言うようになったわね。名前を憶える価値すら無い凡人と、最初はそう思っていたけれど……

 ツァイ。はい! 随分なことを言ってくれたわね。お返しに、あなたにひとつ命令があるわ。はい、あのっ、なんなりと。

 ……私、メイクはずっとウェンダに任せっぱなしだったの……手伝ってくれるかしら。

 ……あ……は、はいっ!


 やっと着いたか、タクシー拾ったのが間違いだったな。走ったほうが早かった、この交通網の渋滞では……ようやくダブリン港のゲート前に至ると、3Rトライアール側とカウンターの双方が、今にも衝突を始めんばかりに睨み合っていた。なんと、こんな規模に……二〇分前の画像とは比べ物にならない。ジンバブウェが端末の画面と目の前の光景を見比べ、通してください、通してください! 我々、χορόςの運営を仰せつかっているA-Primeです! とゴンドワナが首にかけた社員証を掲げながら歩み入る。3Rトライアールのリーダーであるオサリヴァン氏との交渉に参りました、通してください!

 同志、また交渉だとかなんとか……交渉すべきことなど何もありません! なんですか、あれほど我々のプライドを踏みにじっておいて! どうしてですか、どうして放っておいてくれないのですか! 我々は信仰を護り抜きたいだけなのに! ええ……? そもそも今回の騒擾はあなたがたの……やかましい! χορόςの運営ですって? 穢らわしい、悪魔の手先め! あの淫婦どもを利用して金儲けとは! 信じられない、そんなにも堕落した人間がこの世にいるだなんて! だれもその不正を糾そうとしないだなんて! いえだから、あの……死にたいんでしょう!! 沈みたいんでしょう、あの船と一緒に!! じゃあそうさせてあげたらいいじゃありませんか、ええ、こちらとしても望むところですよ!! 助け舟を出す必要なんてありません!! もちろん港に迎え入れる必要もね!! 死んでもらいましょう!! あの淫婦どもには当然の罰です!! もちろん、沈没によって汚染されたダブリン湾の浄化費用は、すべてそちらに出していただきますからね!! あのう、オサリヴァン氏……記者が見ている前ですぞ……「死んでもらいましょう」などというのは……触らないでください!! あなたまでそんな及び腰ですか!! 道徳的に堕落した者が集団で溺死してくれたとして、それで何の問題がありますか!! 素晴らしいことじゃないですか!! 聖書にもあります、ええと……星が水源に落ちて……豚が死んで……水が苦くなったと……あのですなあ……

 な、なんだ、仲間割れが始まっているのか。しかしこちらが訴えかけるべきは一人、ブリジッド・オサリヴァンだけだ。ひっきりなしに上がる嬌声の合間を見計らい、ひとつ冷静に言ってみる。よろしいですか、交渉に応じなかった場合、我々としては広範にわたり不利益を被ったとして、膨大な額の賠償金を請求せねばなりません。少なくとも、港での供給拒絶に伴う賠償は不可避です。これ以上罪を重ねてもよいのですか?

 罪などと……

 えっ?

 罪などと……やすく言うな!! 無神論者が!!


 あと二〇分、か……そろそろ、覚悟決めなきゃな。、これ。おっ……「各国大使館、χορός参加者に対するダブリン港の待遇に抗議の意を表明……」ついにここまできたか。SIUN大統領府にも、抗議の電話は殺到してるらしい。あと一押しなんだが……うん、でもここでこっちが態度を軟化させたら……通るもんも通らない、か。やっぱ、政府が直接に港を動かすまでは。やり続けなきゃいけない……ただ、セットリストも残り少ないな。

『Hell-Bent』のアウトロとともに『Bleed It Out』。わたしとはかるハンとDefiantは、カメラの外でマイクを握って控える。教授キョウジュが漁火ちゃんにイントロの合図を目配せする。よし、あとはギターイントロで全員……

 え。なんだ、正面入口。あっヤスミンか、デッキに行くって言ってたけど。全員の注意が入口に向けられ、つられてステディカム担当のおのみちも、カメラアイを入口に向ける。

 マイクをしなさい、貧乏人ども! 三流役者が揃いも揃って、なんのまとまりもありゃしない。こんな舞台、始まる前から失敗しているわ。肝心の主役を欠いていてはね。

 エリザベス、だよな、いつもと全然服装違うけど。あ髪型もか。もしかして、これヤスミンのアレンジ。背後でめっちゃうっとり眺めてるけど。突然の乱入を受け、マイクスタンドの前にいたヒメは苦笑を浮かべ、ヴァースの準備を整えていた教授キョウジュもにっこり笑い、いきなり予定に無いメロディを唄い始める。 “…and did those feet in ancient time, walk upon Englands mountains green?” あっこれエルガーの『Jerusalem』か、EL&Pのやつしか知らないけど。するとヒメも、 “and was the holy lamb of God, on Englands pleasant pastures seen!” と大袈裟に手を振って唄いだす。エリザベスは一瞬だけ呆気にとられた顔をして、しかし次の瞬間には毅然とした笑みで、いつもどおり鷹揚な挙措で入場する。ヤスミンもその後に続く。

 ヘタレでハッタリの女王陛下、もうとっくに逃げたと思ってたが。とヒメが毒づくと、ふん、沈む船から逃げ出すのはネズミだけだわ。女王たる者の風格は、如何なる苦境にも乱されないのよ、この世の終わりにおいてさえね。とエリザベスは綽々と返す。よーしじゃあ始めようか、 here we go for the 100th time! と教授キョウジュが煽ると、ステージに集まった全員が歓声で返す。 Hand grenade pins in every line! 同じように大声で応える。 We gon’ … We gon’… We gon’ bleeeeeeeeeeeeeeeeeeed… 右手をくるくると翻しながらタメる教授キョウジュを囲み、わたしら全員も長音を伸ばす。

 Bleed it out, Mu’tafikaaaaaaaaz!!!!!!!!!!


 これだけ署名を集めてもSIUN政府は公式声明を出さないのか? 大統領府は何をやってる! この国は表現の自由を認めないばかりか、外国からやってきたアーティストたちの、命がけの主張をも黙殺するのか! これはχορόςがどうとかじゃない、人間性の問題だ! ただ公演を行いに来ただけの人々を見殺しにするのか、という瀬戸際だ!


 よし、『Bleed It Out』短いからな、もう抜けなきゃ。あとは『Live at the Barbeque』で繋げるはずだ、その間にやっとかなきゃ……通路こっちか、あっいた、! 窓がない通路の暗がりに立つ、その姿に呼びかける。あと一五じゅうご分、というところですか。うん……あのさ、最後のお願いがあるんだ。なんですか。いまさら港に戻してくださいと泣きついても……もう一度、港へ行ってほしい。避難用ボート使っていいから、もう一度、直接、3Rトライアールの人らと話してほしい。

 いつもどおりの皮肉が挫かれたのか、それとも言われたことが心底意外だったのか、は目を丸くしている。あは、初めて見たなこんな顔は。伝令、というわけですか……うん。この期に及んで、アナタは……まだ話し合いによる解決が、ありうるとでも。うん、信じてるよ。やるだけのことはやったんだ、今なら考えを変えてくれるかもしれない。

 よし、これで終わりだ。あとは本当にダメだったら、みんな一緒に脱出すればいいだけ。じゃ、わたし戻らなきゃだから……ちょっと待ってください。なに、と言う間すらなく、はわたしの眼前まで歩み寄り、懐のポケットから何かを取り出し、わたしの右手に握らせた。

 これって……写真。ええ、母が、諸国を放浪するあいだずっと手放さなかったもの。わたしが撮ったやつだ、安物のポラロイドで……あれたしか職場の飲み会のビンゴゲームでもらったやつだったっけ、もう捨てちゃったなあ……母は常に肌身離さず持っていましたよ、「この写真で初めて教えられた」、「わたしがこんな姿をしているとは知らなかった」と。もーわけわかんないなー、いきなりポーランドに置き去りにしたり、そのくせ遊びで撮った写真を大事に持ってたり……

 苦笑するしかない。そうだ、ここまで来たのも、結局はあなたのせい。見えるはずもないあなたの背中を追いかけて、何の因果かこの船に乗ることになった。良くも悪くも、ほんとにわたしの人生を掻き乱してくれた……獰猛で、厄介で、大好きな人。その姿を収めた一葉の写真。大事に持っててくれたんだ。なら。いいよ、あげるよ。その写真は、あなたが持っとくべきだよ。え、なぜ……だって、わたしは沈んで死んじゃう可能性あるけど、はこれから戻るじゃん。わたしが死んだとしても、あなたは生き残るじゃん。なら持っとくべきだよ。これから、またに逢うかもしれない。そのとき伝えといてよ、「は最期まで笑ってました」って。

 ん、なんだ、そんな意外か。だってイヤじゃん、大好きな人の写真を海に沈めるなんて、なんか失恋みたい。そもそもこれは失恋どころの話じゃないんだし。しかし、ずっと目を丸くしてるな。ちょっとからかってやろ。てゆーか、そんなこと言ったらこっちが「なぜ」だよ。なんで今そんなもの取り出したの? なんかお別れが近くなって、寂しさみたいなの感じちゃった? 後悔したくないから、的な? なーんだ、お前もけっこう人間らしいとこあんじゃん。……失礼します。あっ。写真を懐のポケットに収め、背を向けて行ってしまう。もー……じゃ、また逢ったら、によろしくね。


 エンジン付のボートであれば、数分で到着できるか。すでに陽が落ちようとしている。さすがに海上は肌寒いな。寒いといっても、あの一二月とは比べものにもならないが。

 考えてみれば笑えるな。あの時と違って、今はワタシに生殺与奪の選択権がある……まったく因果な巡り合わせだ。この伝令の役目を放棄して、何もしなかったとしたら……あの船は本当に沈むのだろうな。いや役目を果たすにしても、あの宗教きちがいたちに話が通じる余地など無いじゃないか……なのにあの人は、こうしてワタシを……

 わからない……本当にわからない。すこし掴めたかと思うと、またわからなくなる……母があの人を愛した理由も。なぜあの人が、これほどまでに……音楽の力を……

 どうして、ここまで……あんなに自分の命を顧みない人は見たことがない。ワタシもそうだと思っていたけど……ワタシとあの人とでは、命の捨て方が違う。ワタシは最初から、何も望んでいなかっただけ。だが、あの人は、望みすぎるあまりに……しかしわからない、何を望んでいるのだろう。自分の欲を満たすためでも、誰かの愛を勝ち得るためでもない……


 ……「この世界は変えられる」……


 カメラの外から、よし教授キョウジュそろそろ終わり、このあと一回MC入れるから、の合図を送る。『Live at the Barbeque』最後のフックが終わり、トラックがバックスピンで停止する。

 Wassup! みんな楽しんでくれたかな、残念だが、次が最後の曲だ。文字通り、わたしらにとってのスワンソングになるかもしれない。どういう意味かは、まあ、この数十分後には明らかになってるだろう。

 楽器隊が控えるブースに視線を向けると、はかるとゾフィアが譜面台の前で合図を待っていた。

 もうこれ以上、言うこともないだろう……何しろ、時間がないんでね。次にる曲、そのタイトルこそが、わたしらの言いたいことの全部だ。

 DJブースに視線を向けると、ハンはMPCにビートをアサインし、教授キョウジュはコスりネタのヴァイナルをターンテーブルにセットしていた。

 それじゃあ、観てくれてありがとう。ほんの一瞬でも、わたしらの音楽があなたの人生に関わったことを、心の底から、誇りに思うよ。

 マイクスタンドの前で待機するヒメ、エリザベス、ヤスミン。

 アンプの前でチューニングを合わせる漁火ちゃん。

 よしおのみちたち、あらゆる角度から余さず撮っといてくれよ。

 じゃあいこうか、はかる。右手を上げ、視線を合わせ、振り下ろす。

 ファラオ・サンダースの『You've Got To Have Freedom』。このジャムセッションで最後だ。八小節分のピアノイントロに続き、ゾフィアのサックスとハンのビートが入る。ああ、このフリークアウトしたサックス、まさにファラオって感じ。すぐにヒメとエリザベスとヤスミンがコーラスを加え、漁火ちゃんのギターがメロディとコードを融通無碍に変奏する。よっしゃいこうかイネス。ゾフィア、その調子で吹き続けてくれよ。 It goes 1, 2, 3, 4,

 ウケるなあ。まさかこの曲をこんなふうにるなんて、学校にいたころは思いもしなかった。沈没するタイタニック号で演奏してた楽団も、こんな気持ちだったのかな。お婆ちゃん、お母さん、もしかしたらゾフィアは歴史に名を残すかもしれません。ここで終わってもこの後生き延びても、どっちでもね。

 まさか沈む船で、なんてねえ。エル・パソにいた頃は色々ぶっ飛んだステージやったけど、さすがにこれは思いつかなかった。やっぱ陸地ばっかじゃな。うん、ここまで来てよかったな。しかし、砂漠で渇いて野垂れ死ぬのと、船で沈んで溺れ死ぬのと、どっちが悲惨だろ。いや、生き延びるのが一番悲惨か。いつだって死ぬのが一番簡単。だったら難しい方に挑戦するだろ。ここで最高の演奏やって、生き延びる。ん、結局いつもと同じだな。

 あっさりこういうことになっちゃったけど、どうしよ、沈没したら死んじゃうかな。そしたら母ちゃんには悪いことしちゃうな。いやそうでもないか、結婚相手が兵役中に死んで、そんで娘も船が沈んで死んだとなれば、母ちゃんむしろ治っちゃうかもしんない。それはそれでアリかな。あっションウィンいたわ。じゃあダメだ。ションウィンなら地獄まで追ってきそう。やっぱ死ぬのナシだ。生きて帰って、このステージのこと話してあげよ。きっとションウィンならこう言うんだ、「なに笑って話してんの!?」って。はは、本当そうだよなあ。またすぐに会いたいな。だから生きて帰ろう。愛してるよションウィ

 おー、ジャズの曲にスクラッチ加えるなんて新鮮。おもしろ、ハンもいつもしない感じのビート打ってるし。こりゃいい、何時間でもできそうだ。あっでも沈んじゃうのか。あは、わたしだけ夢中になってて逃げ遅れるとかありそう。そしたらジョー姉もアニー姉も悲しんじゃうかな。悲しむ顔は、見たくないな。じゃあこれを土産話に持って帰ろう。いつだってニコニコしてるのがいいよ、ねえヒメ

 ずっとループの曲だなこれ……まあいい、たまにはこういうのも。たまには、って、そうだこれ最後になるかもしれないのか。それはよくないな。うん、どう考えたって生き延びるのがいい。もう母がどうとか、正直どうでもよくなってきた。どんな状況だろうと、音楽やって生き延びる。家出した時だってそうだった。じゃあミッシー、何も望まずにあたしらは唄おう。そうだ、希望を捨てた後の歌は、いつだって最高のメロディだった。

 たりららってぃーらー、たりららってぃーらー、って、ずっと繰り返しねこの曲。退屈ではないけど、この私が添え物のバックコーラスに徹するなんてね……ふん、これくらいで傷付くプライドなら捨ててしまえばいい。ツァイ、あの子、なかなかいいこと言ったわね。そうだわ、いつかウェンダのプライドも傷付けてやる。私が味わった屈辱とは比較にならないものを。生きて帰って、喰いきれないほどの恥辱を馳走してやるわ。

 たりららってぃーらー、たりららってぃーらー、って、ずっと繰り返しだあこの曲。でもハン楽しそう、こんな曲もあるんだなあ。世界って広い。まだまだ私の知らない音楽でいっぱいだ……このままじゃ終わりたくないな。音楽でも、まだ訪れたことのない国でも、人間関係そのものでも、私の知らないものをいっぱい知りたい。もっと、ずっと、変わり続けたい。母さん、あなたの娘は、色々あって沈没する船の中で唄うことになりました。なんて言ったら、悲しむよりもまず笑っちゃうよね。そう、変わり続けるってそういうこと。幸せとか不幸せとかじゃない、それよりもずっと厄介なこと。でもきっと価値がある、こうしてエリザベスとも一緒に唄えるんだ。こんな日が来るなんて夢にも思わなかった。だから、もっと続けよう。生きて、生きて、傷付き続けてき続けるんだ、どこにたどり着くかはわからなくても。

 あー、ほんと、ここにちぬんいてくれたらなー。ベースライン無いの寂しいっすー。はかるんが低音部補ってくれてるけど、右手のソロが忙しくてあんま気ぃ遣ってないかも。仕方ないっすね、沈んじゃうかもしれないんだから。あ、まーたずっとねえさんのほう見てるー。もう、ほんとはかるんだなあ。でも、いいっすね。いいグルーヴじゃないっすか。これいいな、もう死んでもいいな。だけど、死んでもいいなってのは、いつだって死に損なった側の感慨なんすよね。あはは、ねえさんから学んだのってそれかも。まだまだ死ねない死ねないって言い続けて、いつのまにか逝っちゃうんだ。だからそのあいだがずっと最高。いいな、ずっと、ずっと在ってほしいな。いや、在るしかない。とりあえず始まってとりあえず終わるしかない、演奏も人生も。じゃあ楽しむしかない。簡単だ。すごい簡単だったっす。

 あと一〇分、か。あと一〇分で、港から何の連絡も無ければ──あっ、ちょっと、イリチ……本当にあの子は、小癪なアヴォイドノートを入れてくる。私が低音部を支えているからといって好き放題して……ならば、私も好き放題やればいい。もともとそういう曲なんだから。それにしてもこの譜面、持っててよかった。ひとりで弾くだけなら練習曲だけれど、誰かと居合わせたらセッションになる。お互いが持ち寄ったものを、ぶつけあうだけの戯れ。しかし本気の戯れ。もし私が、高校時代にと出会わなかったなら、一体どうなっていたのだろう。ひとりで鍵盤を叩くだけで終わっていたか。いや、どうでもいい、無意味な問いだ。少なくとも、今こうして彼女のかたわらにある、それだけで十分だろう。死の淵においても一緒にいられたら──なんて、くだらない感傷。どうせ死に損なうに決まってるんだから。そうでしょう、。なら、今回も死に損ないましょう。あなたに同行すると決めたその日から、覚悟はできてる。

 最高。最高。最高だな。なんて楽しいんだろう。みんなで同じことをやってるはずなのに、みんな別々のことをやってる。同じように違ってて、違ってることだけはみんな同じ、みたいな。でもそうじゃん、そうやって集まったやつらじゃん。ツアー始まった当初はどうなるだろうと思ってたけど、まさか船が沈むとはねえ。とはねえってわたしがそうしたんだけど。でもこういうことだよ、完全に安全な時代なんて無いんだ。逆に言えば、完全に壊れきった時代なんてのも無い。いつだって半分は無事で、半分は壊れてて、そうしてお互いのまだ壊れてない部分を、お互いをいやすために差し出しあう。それって、はかるがわたしにしてくれたこと。案外みんなそうなのかも。いつだってなかばで、まったきものにはなれなくて。それでも、それでも、続けなきゃいけない。まだやろう。続けられる限りは続けよう。続ける自由はまだあるんだ。そうだ、この曲のライブ版で、ファラオはこう叫ぶんだ。

 Freedom!

 Yeah, Freedom!!

 You've Got To Have!!! Freedom!!!!!

 You've Got To Have!!! Freedom!!!!!

 You've Got To Have!!! Freedom!!!!!

 You've Got To Have!!! Freedom!!!!!

 You've Got To Have!!! Freedom!!!!!

 You've Got To Have!!! Freedom!!!!!

 You've Got To Have!!! Freedom!!!!!

 You've Got To Have!!!!! Freedom!!!!!!!!


 まだいたか。お互いに引っ込みのつかなくなった群衆の中に、A-Primeの社員が所在なさげに立ち尽くしている。あ……あなた確か、Yonahの……こいつらはどうでもいい。構わず、警察の防護壁を隔てた先に立っている、ブリジッド・オサリヴァンに詰め寄る。

 ひとつ質問があります。なん……です? あなたが昼頃ずっと喚いていた、Peterlooがらみのスキャンダルとやら、ですが。から託された写真を、ポケットから取り出す。もしかして、この女から聞いたものではありませんか……? 目の前に提示してやると、ブリジッドは即座に写真をひったくった。ああ! そうです、そうです、この人でした! 蜘蛛の糸を掴んだかのようにおらぶブリジッドに、え……本当ですか? と警察官のひとりが返す。この人です、昨日、3Rトライアールの本部に直接来て、あの艦長と副艦長が関わったという虐殺について教えてくれたのです! この頭巾? のようなものは、かぶっていませんでしたけど……そうか。すでに違う名前なんだものな、服装が変わっていても不思議はない。君、なぜこの写真を持っているんだ? その人とは知り合いでね……知り合い! 本当ですか、では、今この人がどこにいるか教えてくださいまし! この人の証言さえあれば暴露できるはずなのです、あの人殺しどもの許しがたい罪を……知りたい、ですか? ええ、もちろん! この写真にうつっている、あなたにスキャンダルのことを教えてくれた女性について、本当に知りたいんですか? お願いです。教えてくださいまし!

 周囲を見回す。居合わせた群衆の視線が、すべてワタシの一身をめがけている。そうだ、そうでなくては困る。記者も含めた全員、ちゃんと見ていてくれよ。ワタシも役者だ、ちゃんと淀みなく発音できなくては。案文はボートの上で練ってきた。さあ、いくぞ。

 この女はな、世界中の紛争地帯で、児童誘拐や人身売買を斡旋してる、極悪非道の人非人にんぴにんだ!! お前は、よりによって、そんな輩から吹き込まれたデマを信じちまったのさ。宗教右派の団体に適当なデマを掴ませて、勢い余ってデモやらかして自滅するのを見て楽しもうっていう、そんな魂胆も見抜けなかったのさ、馬鹿めが!

 膝から崩れ落ちたブリジッドの手から、写真がこぼれ落ちる。拾い上げ、警察官に渡す。ええと……あなたが仰っていたことですが、信じてよいのですか? もちろんですよ、ワタシも被害者ですからね。あのときPeterlooに助けられなかったら、一体どうなっていたことか……わかりました。場所をもうけますので、事情聴取に協力していただけますか? 時間ならいくらでも割きましょう。ただ、港の封鎖を解いてあの船を迎え入れてくれたら、の話ですがね。言うと、もう一人の警察官が傍らにはべり、もちろんです……おい。と片目で聖パトリック党首のほうを睨む。ひいっ。わかってるんだろうな、愚にもつかんデマに流されて、港湾労働者をたらし込んで、半日近くも港を封鎖して……然るべき処罰を受ける覚悟はあるんだろうな? あ、え、いえっ、私の一存でやったわけでは……地に伏したブリジッドの背をつついても、何の反応もないらしい。お前はそっちのほうを頼む……と警察官はワタシの傍らの一人に耳打ちし、群衆の方へ向き直ると、打って変わって大声で呼ばわりはじめた。いいですかみなさん、これをもちまして港のストライキは終了です! 今回の騒ぎを持ち上げた3Rトライアール、および聖パトリック党については、我々が責任をもって調書を作成しますので、続報をお待ちください。χορόςについては? Yonahはどうなるんだ? と群衆が問うと、警察官は胸元の無線で二言三言の連絡を交わし、頷くとともにふたたび群衆へ向き直った。

 SIUN大統領府から、公式声明です。「客船Yonahをただちに寄港させよ。船体及び乗組員の安全を確保したうえで、当初の契約通りに電力と物資を供給すること」!

 歓喜と悲嘆とが、同時に群衆を打った。部屋着で出てきたファンたちは喜び勇んで抱き合い、揃いも揃って真っ黒な衣装で出てきたご婦人方は地に膝をついて顔を覆った。

 ホウスへの交通網も、まもなく回復されるはずです。公演を観に行かれる予定の方は、運営側のアナウンスを確認してください。あとはいいですね? あっ、はい。それでは、今回のχορόςをお待ちいただいた皆様、これから開演時間の調整に入ります! おそらく、予定の三〇分後が目処になるかと……

 それぞれの目的を達して解散する群衆を、遠巻きに眺める。これくらいは許されるでしょう、母よ。あれほどのことを想っていたあなたのことですから。そして何より、百済くだらの娘なら、これくらいのことはできないと……それでは、署までよろしいですか? もちろん。知ってることは何でも話しますよ。こいつはね、モリアーティも青ざめるほどの大犯罪人ですから、そうですね、国際指名手配くらいがちょうどいいと思いますよ……




 残存電力、稼働時間換算であと三分……危ないところでした……ははは、おのみちも汗かくのか。もちろん、わたくしは船が沈んだら即死が確定なのでね、皆様と違って……あはは、考えてみりゃそうだ。でもほんと、何から何までよくやってくれたよ、おのみちが今日のMVPだよ。はい……できればその言葉はウェンダ様から聞きたかったですな……

 談笑しながら連絡を待つあたしらに、船外からアナウンスが。お待たせしました、客船Yonahの皆様、これより電力と物資を供給します! 可能な限り迅速に行いますが、お待たせしてしまうと思われますので、心ばかりの軽食を用意しました。よろしければ……おー、差し入れっすよ。いいじゃん、よくわかんない緊張して腹減ったー。行きましょう、エリザベスも。ええ、ここまで付き合ったんだからしょうがないわね……それにしてもウェンダ、一体どこにいるのかしら……平気な顔で卓を囲んでたら、ただではおかないわ……

 一段落、か。まったく、あいつの賭けに乗ってよかったんだか……しかし、あいつはこうして状況を動かした。音楽で。そうか、あたしが携わってる仕事は、こんなにもおおきな射程を含むのか。

 ……ん、これ、配信中ずっとがいじってたラップトップか。画面……これが署名か、世界中のファンが集めてくれたという。こんな数が…… html ファイルとして出力されている署名一覧。もしかしたら。ctrとfのキーを押し、ブラウザ検索窓を立ち上げてみる。いや、シーラ、やめておけ。だって見つからなかったらそっちのほうが……頭の中で聞こえる声にも拘らず、指先は “stanislaus” とキーを打っていた。検索機能が作動し、該当する文字列が黄色のハイライトで表示される。


 “Stanislaus O’Sullivan”


 ヒメー? 来ないのー?

 いや……いま行く。




 あ……本当にいやがった……遅かったな。遅かったなじゃねーよ、なにひとりだけ先に行ってんのよ。なにって、公演のために決まっている。海上で珍奇などんちゃん騒ぎがあった気がするが、目もくれず埠頭で待っていた。前乗りしたのは私で、遅刻したのは君たちだ。褒められるならまだしも、責められるいわれはない。ウェンダ……やあエリザベス。一応訊くけど、配信、観ていたのかしら? 配信? 『シャーロック』最新エピソードの、か? 生憎だがもう観ていないんだ、シーズン3からいきなりつまらなくなったからね。エリザベス……どうします? ドロップキックくらいしときます? いえ、よしましょう。確かに、ここでこいつを海に突き落として、この荷でも投擲してとどめを刺したい衝動を抑えるのは難しいことだわ。そうですね、誰も見てませんし。しかし、我々は知的にも美的にも洗練された淑女。そんな酔漢めいた暴力衝動に屈するのかしら? いいえ、屈するわけがないわ。ウェンダ、あなたにはいつかステージの上でやり返す。楽しみに待っておくことね。ああ、エリザベス。掛け値なしに楽しみだよ、その言葉が本当になるのであれば。

 全員桟橋に降りたのを確認し、咳払いするウェンダ。それでは……くだらん騒ぎで開演時間が押してしまったが、これよりχορόςアイルランド公演の開幕だ。知っての通り、ユニット単位でなく個人投票での新方式となって初の公演となる。くれぐれも観客を裏切らぬよう。以上、Dark Dukeは各員が義務を尽くすことを期待する。

 ウェンダが踵を返すと同時に、数名のおのみちたちが現れ、荷を船内に運び込む。ヤスミン、けっこう強くいったねえ……え、そ、そうかな。談笑するハンとヤスミンを眺め、階段をのぼるウェンダに一瞥くれつつ、傍らのミッシーの肩を叩く。代わりに怒ってくれる奴らがいてよかったな。えー? とぼけて笑って見せても、腹の底ではまだ許せていないのがバレバレだ。

 しかし初めてだな、ホウス埠頭から岬を遠望するなんて。あたしにとって、故郷とはとりもなおさずゴールウェイだったから。ああして故郷を捨てて、グラスゴーでミッシーに拾われて、何の因果か、またこうして。帰ってきたな。おう。故郷に錦だねえヒメ。緊張してる? まさか、むしろほっとしたよ。色々因縁深い故郷だけど……肝心の人は、見てくれてるってわかったから。そっか。じゃ、今夜ばかりは一位以外の選択肢ないよー。当たり前だ。掌で一回叩き、手の甲で一回叩き、ぐっと握った拳を突き合わせる。今のあたしはひとりじゃない。ひとりだとしても、ひとりじゃないんだ。




 おおー!! の大音声おんじょうと同時に視界が開ける。SIUN大統領府からの特別招待を受け、ホウスからイースト・リンク・トール・ブリッジまで航行してきたYonahは、こうしてダブリンの街並みに迎えられる格好となった。リフィー川を挟んだ両岸には、控えめな照明とともに、料理や果物を乗せた木箱がうずたかく積まれている。これ、本当に全部……やるじゃんーうちの政府! そうか……ちょうど五月祭May Queenか。

 Yonahの駆動が止まり、両岸に昇降口が架けられる。ヒメー! キュウゾーウ! ひとまわり歳下のファンたちからの歓声に、ヒメは笑顔で応える。おっ、なんあれ、ギネス? すごい数いでるけど。振る舞い酒だろうな、あたしらへの。やったータダ酒だー! 喜び方に品がない……いや、初めて一緒にやった福岡でもこんな感じだったな。そうだヒメ、今のうちにあれ言っとく? ああ……そうだな。告知はここで済ませとこう。

 じゃ……おのみちからマイクを受け取り、は眼下の群衆を一望する。どうもダブリン市民の皆さん、日本語で失礼します! さっきの公演で投票一位となったりゅうとー、ヒメにマイクが向けられ、同じく同率一位となったシーラ・オサリヴァンだ。の名乗りが伝達されると同時に、群衆の一部から拍手喝采が上がる。わたしらのどっちが新ルールを起草すべきか、は保留のまま終わったけど……ここまでの道すがら話し合って、さっき決めたんだよね。ああ。基本的には以前通り、ユニット単位のルールに戻す。だが、投票枠は個人枠を廃してユニット枠のみに絞る。もう今後、めんどくさいことをしでかす輩が出てこないようにな。ちなみに、そのめんどくさいことをしでかしたウェンダ・ウォーターズは、既にブリテン島に前乗りしてるらしいでーす。この船にはいませーん。なんでだろうね? さあ。故郷が恋しくなったんじゃないか? 二人のとぼけた物言いを受けて、群衆は大いに笑う。すると通路のほうから、パブの給仕たちが続々とデッキに上がってくる。あ、どうもお。あらあ、綺麗な泡! ん、どうも。伝えた通り、うちの船に下戸はいないぞ。1パイントグラスを受け取りながら微笑むヒメの顔を、交互に見比べる。

 ヒメ。あなたたちはどちらも、よくわかっていないだろうね。一位になった実感もそうだけど……この光景が、私にとって、どれほど多くを意味するか。母とともに佐世保から移り住んだ北九州、そして会ったことさえない父親の産まれであるアイルランド。私にはふたつの故郷がある。どちらからも追放されているがゆえに、どちらにも縋ることができないような故郷だ。そこで生まれ育ったあなたたちが、何の因果かこうして出会って、そして私とともにいる。ようやく家に帰り着いた、なんて甘やかな情緒は、やはり一向に訪れてはくれない。それでも、あなたたちと一緒にここまで来た。その事実こそ私にとって何にも勝る果報。ヒメ。友達のようにも姉妹のようにも、またそれ以外の何かのようにも思えるあなたたちに、私の胸のうちを打ち明けることができたなら……どうぞ。あ。あ、ありがとうございます。すぐそこに給仕が立っていることにすら気付かず、へんに狼狽うろたえながらグラスを受け取る羽目になる。これだな、私が最近イリチに揶揄からかわれるのは……もうよそう、感傷に浸ってどうなる。今夜はもっと陽気でいるべきだ。ヒメ。あなたたちを「家族」と呼びたくなる衝動は秘して、長い一日の終わりを寿ことほごう。

 デッキの内部が、瞬く間に五月祭の収穫物を活かした料理の数々で埋められてゆく。は南岸へ向けて、ありがとう市民! わたしらも今日いろいろなことがあった! でもどういうわけか生きてるな! と笑い、ヒメは北岸へ向けて、皆がどんな仕事に就いていようと、それはすべてこの地上を豊かにするための務めだ。誰かが土を耕し種を植えてくれたおかげで、今こうして料理が出来上がっているようにな。と微笑する。すでに両岸は沢山の市民たちでひしめいているが、その中の一人、あれは南岸側のパブの主人だろうか、髭面の男性がグラスを片手に歩み出る。

 親愛なる唄い手Bardよ! わたしたちも皆様の日々の務めを祝福すべくここにおります。ところで、まずダブリン市民を代表して謝罪したい。どうやら港には、朝から酒もなしに酔いが回っていたようで。いくら我々と思想も信条も異なる輩の仕業とはいえ、ダブリン市民が大変な無礼を働いてしまった事実には変わりがない。すまなかった、どうか許してほしい! 眼下からの言葉を受け、気にするな、元はと言えばあたしの母親だ。あたしらに謝罪を受けるいわれなどあるだろうか、今回の公演が実現したのは、他ならぬダブリン市民のおかげだろう! とヒメは大仰に返し、ほんとありがとうー抗議とか署名とか! 助かったよ! とは簡潔に返す。身に余るお言葉! ところで唄い手Bardよ、お気づきだろうか、こうして市民がグラスを片手に集っているのは……合図を待ってのことだ。つまり、酒宴開始の号令を打ち鳴らしてもらわんことには! あ、そうか! じゃ、乾杯の音頭おねがいしますヒメ。あんたしかいないでしょ! に背中を押され、さきに立つヒメ。私もデッキのへりに立ち、路上の様子を眺める。そこには料理や酒を手にした者はもちろんのこと、フィドルやカホンを携えて演奏の準備を整えている者もいた。ははは、こんな光景、数世紀前の人間からしたら悪魔の祝祭そのものだろうね。ああ……じゃ、やるか。親愛なるダブリン市民よ! 我々はついにここまで来た。あとはブリテン島での四公演を残すのみだが、こうしてアイルランドで歓待を受けたことは、我々全員にとって大きな喜びだ。とくに……あたしにとってはな!

 両岸の市民たちから大歓声が上がり、同時に私たちも喝采する。

 そして市民よ、我々は今夜、ひとつの勝利を祝すべくつどっている。それは自由、音楽の自由、好きなだけ飲んで喰って騒ぐ自由の勝利だ! 堕落と呼びたい奴には呼ばせておけ。君臨Reign敬虔Reverence改悛Repentanceという、頭文字にみっつもRを頂いた連中の脅威は既に去った。ならば親愛なるダブリン市民よ、あたしたちも今夜、ただの友人friendからRを取り去って悪魔fiendになろうじゃないか。それは天国でなく地獄への階段だが、「決して転がらない岩になる」ことにおいては同じだ! あたしを産んでくれたアイルランド、そして今あたしを預かってくれてるPeterloo、ふたつの故郷に乾杯を捧げる。そうだ、黒い水Dubh Linnに落ちたPeterは、もう決して転がることはないのだ。乾杯しよう、自由に!


 両岸と船上から「自由に!」の唱和が挙がる。そこらじゅうに地上の歓びを分かちあう声が満ちる。黒い水の街で黒い水を飲み交わす私たちは、どちらが飲んでどちらが飲まれているのか、どちらが飲まれてどちらが飲んでいるのか、もはやわからなかった。


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