16 Tinker Tailor Dark Duke


 Manners,

 Maketh,

 Man .

 マナーが人をつくる、という。ではウェンダ、この Manner の語源は? manus, 「手」です。そのとおり。マナーは人を造るが、そのマナーは人の手によって造られた。ここに循環がある。人が定めた法や規則が、今度は人そのものに影響を及ぼしていく。つまり人は人が造ったものに造られる。誰一人として、独力によって長じた者などいない。先祖から、民族から、国家から継承した法や規則に沿って成形され、そのようにして産出された人間がまた新たな法を造ってゆく。 Manners Maketh Man とはその意味だ。

 しかしばあ様。なんだね。いま法や規則とおっしゃいましたが、これは何もペンの仕事に限られないのでは。もちろんだ。現にお前は今、針と糸を持っている。鋏で裁った生地を縫い合わせ、衣服と呼ばれるものを造ることができる。それは私によって仕込まれたわざで、なにも絶対的なものじゃない。無限にありうるヴァリエーションのうちのひとつ、このサヴィル・ロウで継承されてきた技法に過ぎない。つまりウェンダ、人が身に纏うすべてのものは、絶えず移り動いてゆくのだ。アフリカにはアフリカの法がある。如何に異なっていようと、彼女ら彼らが自らを統治している限りにおいて、我々の法と同じものだ。文字すら無くても、ですか。そうだ。つまりウェンダ、お前が今まさに学んでいる服飾は、文字の仕事よりも根本的に法や統治にかかわるものなのだ。どう裁つか、どう繋ぐか、どう脱ぐか、どう纏うか。それらすべてが賭けられているのだ、人間を造る仕事のために。だからね、ウェンダ。はい。努努忘れるな、お前が造るのは服だけじゃない。それはまだ縦糸にすぎない、人間が人間を造るというたいぎょうのな。お前はいつか、お前自身が造ったものにお前自身が圧倒されるような、その次元にまで到達せねばならない。私はまさにそのことを伝えよう。はい。余さず学び取れよ、わが孫よ。私はひとまずお前を造る。このサヴィル・ロウが私を造ったのと同じように。しかし、学び取った後はお前の仕事だ。何年後か何十年後か判らないが、お前はいつか、自分の仕事によって自分以上のものを産むことができたかどうかを審問されることになる。はい。今から準備しておけよ、お前のわざの遥かな成就のためなら、婆は如何なる苦労も惜しまぬ。常に自分自身に問うことを忘れるな、私は如何にして造られたか、そして如何にして造りうるか、を。はい、婆様。




 大逆転、とか、阿鼻叫喚、とか、適切な語彙を探そうにも見つからない。というのは、リオでのあの展開を、結局のところ観客たちは歓迎して終わったからだ。ペルー公演以降絶対の一位を護っていたInnuendoが、その片割れであるウェンダ・ウォーターズの策略によって解体され、ユニットでなく個人パフォーマンスへの移行が突如として布告された。それは確かに、硬直した上位ランキングに不満を覚えていた観客にとっては好ましかったのかもしれないが、当のInnuendoのファンたちまでもが興奮を隠せていなかった。Dark Duke、漆黒のテーラードスーツに身を包んだウェンダ・ウォーターズのコンセプト動画は、瞬く間にInnuendoはもちろんχορός出場者のファンダム全体に伝播し、圧倒的にクール&シックな存在感でその場を占めた。

 カタルシス、というのが適当なんじゃないかな。談話室の卓上にコーヒーを乗せながらはかるが言う。カタルシスってかカタストロフじゃん、Innuendoも含むわたしらの活動がダーって台無しにされたわけだから。まあね、カタストロフって単に「横に倒れる」って意味だからね。そうなん、えっじゃあカタルシスとカタストロフって同語源なの。それは辞書を引かなきゃ判らないけど、今回の展開に一種の浄化作用を感じてるファンたちも大勢いるってことでしょう。まあ、山が動いたようなもんだしな。

 そんな悠長に構えてていいのか、とマグカップからミルクを啜りながらヒメが言う。93に関しては、ユニット解体で一番大きな影響を被ったとも言えるわけだろう。まあ、三人組ユニットって意味ではね。しかしまさかわたしらの中で一番得票数多いの漁火ちゃんだったとはなー。えへへ、正直うれしっす。やっぱ楽器できるって大きいんだなー見た目的にも。ヨンも個人投票ではあたしより上じゃん。んーでも次はどうなるかわかんないじゃんー? と談笑するわたしらを、ヒメは憮然として眺めている。あのなあ、切迫感みたいなのはないのか? 台無しになったんだぞ、あたしらそれぞれがつくったもので勝負するって前提が! でも必ずしも単独でやんなきゃいけないわけじゃないでしょ? 最終的な投票が個人枠のみになっただけだから、あたしは変わらずヤスミンとやっていくよ。確かに、ユニット単位ではなくなったけれど、横断的に組んで共演する余地も増えたわけだから、むしろ自由度は上がったのかもね。それねーそもそもよくわかんないんだよね、なんでウェンダがああいう展開に持っていったのか。あのふたり、よっぽど仲悪かったんすかね。それはないと思うよ、世界的な知名度ではエリザベスの方が上だろうけど、引く手数多あまたの彼女が敢えて選んだ相手がウェンダだから、どちらかがどちらかを嫌ってるとか搾取してるとかいう関係はありえない、ってヤスミンが言ってた。そうなん。ていうかヤスミンどこ。なんかすごい心配してて、しばらく一番キャビンに残るって言ってた。エリザベスの心配。だろうね、ヤスミン的にはあの人がロールモデルみたいなとこあったからねえ。教授キョウジュはいつもどおり終演後のミート&グリートっすか。ああ。こんなことがあった後じゃファンから質問責めだろうな……




 おのみちー? メリッサ・マッコイだけど、開けてくんないー? いつもなら呼びかけて一秒以内に出てくるはずだが、今夜は一向に返事がない。おいおのみちー? 一番キャビン、つまり今までInnuendoの二人が起居してたはずの部屋が、いやに慌ただしく改装されたらしい。という話をさっきヤスミンから聞いて、事情を伺いにきただけなのだが。待っていると、廊下の上部に取り付けられた3Dプリンタが、やっといつものように作動をはじめた。

 おのみちですが。いつもより幾分けだるく聞こえるのは気のせいか。あのさ、これからって船内で過ごすのもひとりひとりになんの? と訊くと、ユニットの解体は公演ルールのみのことですから、キャビンは今までと変わらずご利用いただけます。と事務的に答える。でもなんかこの部屋は違うじゃん。ウェンダ様のご意向です、エリザベスとは別にしてほしい、と。別居か。この船でかいし代わりの部屋には困らないんだろうけどさ……えっと、とりあえずウェンダと直接話したいから呼んでくれない? ウェンダ様はお疲れのようですので、今夜のところはお帰りを……と押し問答めく対話に、構わん、おのみち。部屋は整ったから客人を通せ。と直截な声がドアモニターのスピーカー越しに伝達される。はい、それでは。不承不承な声とともにおのみちは消え、ドアがかいじょうされる。

 ああ、やっぱInnuendoだけは内装違ったのか。だって一位だもんな、特別扱いも仕方ないね。ただ制作ブースと寝室の間取りは同じっぽいな、と室内を眺め回しても、やはりエリザベスの衣服や私物らしきものは見当たらなかった。きれいさっぱり片付けられた、ってことか。部屋の中央に据えられた豪奢な椅子、そこにおもてを伏せて腰掛ける姿に、軽口のひとつでも放ってみる。座り心地はどう? ウェンダは頬杖をついたまま、悪くない。何より背中から臀部にかけての負担が無い。と言う。はは、お爺ちゃんみたいじゃん。お爺ちゃんじゃなくお婆ちゃんだろう、のツッコミすら無く、両眼を閉じたまま黙している。ウェンダってさ、ロンドンのすっごい有名な仕立屋の生まれなんでしょ? 有名というわけでもないが、年季はある。そこで仕込んでもらったのか、実際すごく良いねあの新作。でもさあ、自分だけ抜け駆けしてパートナー蹴落とすなんて、ちょーっと意地悪なんじゃないの? 言うと、ウェンダは両眼を開き、あくまで既定のルールに従ったまでだ。今までの趨勢を見極めさえすれば、誰でも可能だったこと。と冷たく切る。肝心のことに答えてないなあウェンダ。何が目的であんなことをやったのか、って話だけど。一歩詰め寄ると、ウェンダは上体を反らせ、今はまだわかるまい。今夜はほんの下準備に過ぎない。と意味の取りにくいことを言う。準備、何の? わざのための、だ。私がInnuendoとして組んだのも、すべてはわざのため。もうちょっとわかりやすく言ってくんないかなあ。あんたがどういう目的であれをやったのか、それが知りたいんだけど。言いながら、椅子の片方のすりに拳を置いてみる。眼下で黙する人の眉間を凝視しながら返事を待っていると、ウェンダは顎の前で両手の五指を合わせ、静かに口を開いた。

 私の目的、か。簡単だよ。この地上で最も優れた「王」を仕立てることだ。

「王」。ああ。それって多分、性別は関係ないんだろうね。勿論。知においても美においても卓抜した存在を、自らの手によって仕立てること。それがエリザベスってことか。ああ、彼女は申し分のない素材だ。シェイクスピア四大悲劇の主演をすべて成功裡に納めるほどの、性別も時空も闊達自在に横断する才能。それこそ私がこよなく求めていたもの。プロフィール上では、エリザベスがあんたの作品を見て惚れ込んだって話だったけど。簡単だったよ、彼女の目に留まること自体は。ぜんぶ計画済みで売り込んだのか。売り込んだのではない、単に彼女が求めるであろうものを造って、置いておいただけだ。喰いつかずにはいられなかったろう、既存の美のイメージから逃れ出たい渇望は、彼女の主催するプロジェクトの作品群から伝わっていたからな。あとはお望み通りのものを捧げさえすればよかった。すげえこと言うな、欲しいものはあらかじめわかってましたってか。私は仕立屋だよ、それくらい出来て当然だ。エリザベスと一緒に世界的な名声を得て、あるとき頂点から突き落とす、ぜんぶ計画通り。ああ、順調にね。ただ、ここからだ。ここから這い上がってくれなくては。私が仕立てたものを纏うだけではない、もっと良いものになりうるか。それを試すためだけにやったのか。勿論その通り。たびのχορόςへの参加も、我がたいぎょうを成就させるための方便にすぎない。そっか、イカレてんなあ。這い上がれなかったらどうするつもり? 待つさ。待つに決まっている。彼女の奥底から噴き上がる何かを、忍耐強く待ち続ける。君にもわかるだろう、メリッサ。我々英国人の最大にして唯一の美質、忍耐だ。唯一って、自分で言うかい。それとわたしはスコットランド人だから。私は待ち続けるよ、与える物は全て与えた。そして奪った。もし彼女が何もかえしてくれなかったとしたら、それまでの者だったということさ、私も彼女も、どちらもね。そうか。それって、もう──どっちが主人だかわかんないな。




 それじゃあ、あのっ、他にも必要なものがありましたら。と言ってみても、ええ、ありがとう。とだけ返される。それにしても、こんなところで生活できるんだろうか。キッチンとシャワールームはかろうじてあるけど、マットレスひとつ敷く程度の間取りしかない。もとの部屋とは違ってドアにセキュリティすらないし……しかし、あてがわれた手狭な部屋の真ん中でしゃがみ込んでいる女性が、あのエリザベス・エリオットの姿だとは、数時間前ならとても信じられなかったろう。あのっ、エリオットさん。呼びかけても、こちらに目を向けてさえくれず、何。と短く言うだけ。私、今夜はここにいますから、なにかご不便があったら言ってください。こんなことをツァイモォリィから言われたとしても、きっと彼女は皮肉混じりに拒絶するだけだったろう。ただ今の状態では、そう。好きにしなさい。と心底疲れ切った声で返すだけだった。

 ドアを後ろ手で閉め、しゃがみこむ。どうしよう。こんな近くでエリザベス・エリオットとふれあえるなんて、私にとっては望外の喜びであるべき。なのに、こんなにも胸が踊らないのは……これからどうなるんだろう、このツアーも彼女も。わからない、私にできそうなことといったら、彼女が眠りにつくまでここにいることだけ。ああ、彼女はいったいどうやって朝を迎えたらいいのだろう。すべて悪夢だったらいいのにと眠りについて、何も変わっていない朝にまた目覚める……




 お、やっと戻ったかミッシー。うん、ごめんね遅れちゃって。おおかたファンに詰め寄られてたんだろう。いやいや、今夜のミート&グリートは早めに切り上げて、そのあとウェンダに会ってきた。え? なんかエリザベスが部屋から追い出されてさ、どうしたんだろって思ったから。そ、そんなことになってるのか……で、一番キャビンから戻ろうと思ったらヤスミンが床にへたりこんでるから、どうしたのって訊いたらエリザベスが部屋移されたばかりで心配だから一晩中ここにいるって。逆にこっちが心配になったから、ふたりぶんの夜食持ってきて一応ハンに連絡して、たら遅くなっちゃった。た、大変だな……んー、みんな色々とねえ。

 そんなことより。と言いながら一歩詰め寄る。どうしたのヒメ。わかってるだろ、これからどうするかって話。個人枠の投票になったからにはミッシーもあたしもソロでいけるわけだし……そうだね、いちばん現実的には、ヒメかわたしがランキング一位になって、それでルール変更してユニットでの活動を復活させる、ってのが落とし所かな。もちろんそうだが……それをやるには、あたしよりミッシーの方が適任かもな。なんで? なんでって、わかってないのか? ウェンダのDark Dukeと同じように、ミッシーにはCouncil Clubがあるだろう。自分のファッションブランドを持ってるなら、ウェンダがやったように遠隔の地から同時多発的にアピールできる。サヴィル・ロウとグラスゴー、どちらも同じブリテン島にあるしな。つまり個人枠の勝負でウェンダと同格にやりあえるのはミッシーだけってことだ。ハッシュタグでも「これからはDark DukeとCouncil Clubの一騎打ち」みたいな話題になってるぞ。ああ、そういうことねえ……まあ、わたしはそっちには持ってかないな。なんで。だってウェンダと同じことやったって二番煎じ感すごいでしょ。うちとあっちではブランドのコンセプトが違いすぎるし。それはまあそうだな、同じ土俵に立ったってしょうがないか……そうそう、逆にさ、違いを違いのままにぶつけたらいいんだよ。えっ? よく考えてごらんよヒメ、もう四月だよ? これからどんどん暑くなる。今はまだ気になんないかもしれないけど、Dark Dukeみたいなカッチリした服ばっか着てらんないでしょ。そうか、そういえばそうだな……だからさ、もしCouncil Clubが勝負をかけるとしたら……あ、ヒメ。うん? いいこと思いついちゃった。




 明日、明日、また明日。時のきざはしを滑り落ちて行く、この世の終わりに辿り着くまで。いや、辿り着かない。だってほらまた朝だ。朝が来たということは、この世はまだ存在している。いや仮に地球が滅びたとして、太陽系には何の問題もない。変わらず朝は廻り続ける、ただ光の当たり方が違うだけで。どれほどの死屍累々を重ねようと朝は来る、なんと凡庸で残酷な真実。

 おはようございます、とドアの外から声が。遅れてコンコンと二回ノックが。いや、逆だろう。ノックしてから入室許可を乞う、の順だろう。これだから小金持ちの娘は躾が……娘? そうだシィグゥの片割れの。あの子にモーニングコールを頼んだのだったか、いやただのおせっかいで引き受けてるだけか。前夜の記憶があやふやすぎて覚束おぼつかない。

 はいりなさい、とだけ言うとすぐにドアが開かれる。おはようございます、あの、朝食持ってきました。靴を脱いで部屋に歩み入り、私と同じ目線にしゃがみ込む。サンドイッチとお茶、でよろしかったでしょうか? ええ。トレンチの上に乗せられた食器をそそくさとていする。この茶葉は……? と問うと、黄金桂です。と答える。ベーコンサンドイッチに中国茶、どう考えても合わないだろう。と不平を漏らすのさえ億劫で、ありがとう。とだけ言って立ち上がる。しかし、もうここにはひとりぶんの私物しかないのか。衣服も、蔵書も、日用品も。雑念をくゆらせながら口腔に歯ブラシを突っ込む。そういえば昨晩はシャワーすら浴びずに寝てしまった。遅らせたことは今やるしかない、ツケは払うしかないのだ。口を濯いでシンクに吐き出すと、背後の娘がタオルを差し出す。ああ、昨日までこれはウェンダの役割だった。あの執事めいた献身も、すべては打算あってのことだったのか。しかし、であるとすれば、なぜこの娘はこんな役目を買って出ているのか。名は。えっ。名はなんと言ったかしら。あっはい、ヤスミン、っていうのはステージネームで、ツァイモォリィといいます。ツァイ。はいっ。奇妙な喜色をほころばせる顔に背を向け、洗顔を済ませタオルで拭う。あなた自身のことはいいのかしら。と言うと、あっはい大丈夫です、朝食はさっき済ませてきたので。と相変わらず微笑みながら言う。そうでなく、いつまで私に張り付いているつもりかと婉曲的に言ったつもりだったのだが。再びマットレスに腰を下ろすと、ツァイも同じようにしゃがみ込む。

 あのっ、元気、出してくださいね。サンドイッチをかじると同時にツァイは言う。咀嚼以外にようのないこちらへ、昨晩のことは、なんというか、残念だったかもしれませんけど、これからですよ、挽回のチャンスはきっとあります! といやに楽観的なことを言う。口内のものを嚥下し、カップの中国茶をひとくち啜る。ツァイ。はいっ。まるで大敗北を喫したような言い方だけれど……未だInnuendoの優位には変わりがない。敗者を慰めるようなくち振りはよしなさい。あっは、い、ごめんなさい私つい。そう、まだけたわけじゃありませんよねっ。恐縮とともに微笑する顔を眺めながら、カップの中のものをもうひとくち啜る。そう、ただ私が、パートナーの裏切りを予期できなかっただけ──との悔恨混じりの言葉は、さすがに口にするわけにはいかなかった。エリオット、さん。何。こんなことになっちゃいましたけど、むしろチャンスなんじゃないかと思うんです。あなたは単独でも色々なプロジェクトを主催していらしたから、あの人なしでもきっと。と差し出がましい物言いを、無理よ。と遮る。顔から笑みが失せて硬直する。確かに私は、Innuendo以前にも多くの創作をしてきた。演劇も音楽も、両方ね。しかし、それは必ず私以外の誰かと共同で行ってきた。と端的な事実を述べると、でも、貴女自身すごい才能の持ち主じゃないですか。と追い縋られる。違うのよ。まるく口を開けたまま黙り込む相手に、Innuendoは違うの。と苦味とともに吐き捨てる。このプロジェクトは、コンセプトから作曲から衣装のデザインまで、私のアイデアをウェンダに具現化させる方式で進めてきた。つまり私は、具体的な作業はほとんど行っていない。率直に言って、ウェンダなしでは、私は次のステージで何を着たらいいのかさえわからない……言いながら、ここまでパートナーに実際的な判断を丸投げしてきた事実を遅れて追認する。そうして黙り込む私を見据え、目の前の娘は、だったら、だったら──つくったらいいじゃないですか。と言うのだった。私、貴女の作品に沢山ふれてきました。映像アーカイヴですけど、貴女の主演したシェイクスピア劇はそれぞれ五回ずつくらい観ました、『ハムレット』も『マクベス』も。あの「Cabal」も、ソフトとして出たものは全部持ってます。オペラとバレエとポップミュージックの融合なんて、すごいコンセプトです。しかもそれを成立させちゃうなんて! 貴女は、アイデアを具体的に結実させる素晴らしい手腕をお持ちじゃないですか。だから、ここから、いちからアーティストとして──無理よ。ただのファンが過剰な移入をもって話しかけてくるような口吻に苛立ち、つい語尾が上ずってしまう。χορόςにおいての私は、最初からウェンダと共にあった。ファンたちが望んできたものも、すべてウェンダがつくったもの。私がいちから新しいものをつくったって──受け容れられるわけがないわ。

 沈黙。単なる事実を述べているに過ぎない、のに、どうしてこうも沈鬱な気色を纏うか。居た堪れなさを誤魔化すためにティーカップを持ち上げると、いい加減にしてください。と、嘆息混じりの声が漏れる。いい加減に、してください! 真正面から睨みながら、剥き出しの語気で迫ってくる。どれだけ泣き言を並べたら気が済むんですか! 貴女が、エリザベス・エリオットが、そんな逃げ口上を平気で言うなんて! 逃げ……あのねツァイ、これは私の……もう言い訳は聞きません! ひとりになったからってそれが何ですか! また最初から創り直したらいいじゃないですか! 私だって、歌も作曲もダンスもできないとこから、いちから始めたんです! そうやってどうにかここまでたどり着いたんです! 私にだってできたことを、貴女にできないとは言わせません! ほとんど泣き出しそうな勢いで捲し立てる相手に、どう返したらいいのか。それは、それは──あなたにはパートナーがいたからでしょう。

 とだけ言うと、黙り込む。そうだ、結局ここに収まる。ひとりでは何も創れない、その意味でツァイモォリィと私は同じだ。表面上のつくろいがどれだけ違って見えても──ちょっといいか。と、ツァイの背後から声。見上げると、まさか、あのアイルランド娘と、そのパートナーが。

 エリザベス・エリオット。ちょっと部屋まで来い、取引だ。いちおう言っておくが──お前に拒否権は無い。




 ファンミーティング……? そう。教授キョウジュの煎れてくれたコーヒーを受け取りながら、テーブルについたヒメとエリザベスの顔を見比べる。次のダブリン公演は四週間後だろう。つまり、今までのペースで言えば公演一回ぶんの暇がある。その中継ぎってことで、ブラジルのサン・ルイスで今回の参加者全員のファンミーティングを開催することにした。つらつらと次第を述べるヒメに、することにしたって、いつ決まったの。と困惑しきりのエリザベスが返す。さっき、Defiant経由でA-Primeと調整がついてな。今まで公演の前週に動画コンテンツを配信してたのは知ってるだろう、それの出張版みたいなもんだ。しかし参加者全員って……それで成立するの? 今回のは投票とは関係ないからな、χορόςをショーとしてゆるく楽しんでる層向けのイベントだ。そこでミート&グリートはもちろん、今回だけの特別なライブもやる。そこでお前の、と言いながらヒメはエリザベスの眉間を指差し、Innuendo以外で初となるステージをやる、ミッシーとハンがプロデュースした楽曲を、あたしと一緒にパフォーマンスする。と一息に告げた。ハン? 反射的に声を上げてしまった私に、そ。ハンとは何年か前に、ヒップホップとも違うダンサブルなやつでミックステープ作ったんだよ。今回はそれの再試行って感じになるかな。と教授キョウジュが言う。ヒメは頷きながら、テーマは “The Nth Summer of Love” 。Innuendoとは全く異なる方向性だ、もちろんShamerockともな。と視線を逸らさずに続ける。何それ、勝手に決めないで──さっきも言ったけど、お前に拒否権は無いぞ。もし今回の条件を飲まないなら、お前ひとりで全部用意してもらう。既に「エリザベスが初のステージを披露」って宣伝文句は折込済みだからな、A-Primeのほうに。なっ──なんて勝手なこと。もし何もやらなかったとしたら、エリザベス・エリオットの名は今度こそ地に落ちるかもな、契約不履行として。絶句するエリザベスを前にしても淡々とヒメは続ける。さあ、もう状況は飲み込めたな。一週間以内にミッシーとハンがトラックを仕上げる予定だ。以降は、イベント当日まであたしと練習。半端なことだけはしてくれるなよ。

 どうして──一瞬言葉を詰まらせるエリザベス。どうして、そこまで。彼女の口からここまで緩い言葉が漏れるとは。対してヒメは、お前の元パートナーがミッシーをキレさせたからだ。と教授キョウジュに親指を向けながら返した。えっ。キレるなんて人聞き悪いねえヒメ。ただあんまりだと思っただけだよ、あんなやり方は。柔和な笑みを向ける教授キョウジュに、エリザベスは言葉もない。昨日、あいつと話してね。どういうつもりであんなことやったのか訊いたら、どうも、あんたを立派な「王」にするためらしい。「王」。うん、詳しくはわかんないけどね。でもあんまりだな、あいつのやりかたがあるとしてもわたしは認めらんないなと思ったから、こうして代わりのを提案した。言い終えると、教授キョウジュヒメも継ぐことは無いらしく、黙って返事を待っているようだった。エリザベスは唇をいちもんに結び、返すべき案文を練りかねているようだった。

 やるべきだと思います。代わりに私が沈黙を破る。エリザベスの椅子の背もたれに手をつき、やるべきだと思います、新しい貴女を見せるチャンスです! と目線をあわせて言う。きっと、彼女自身も決意はできているはずだ。だってさっき言っていた、「χορόςにおいての私は、最初からウェンダと共にあった」と。でも、何もあの人だけがエリザベスのパートナーってわけじゃない。他のやり方を試してもいいはずなんだ。教授キョウジュヒメも、それを察して提案したはず。なら私にできるのは、彼女の背中を押してあげることだけ。

 そう、ね。まさか、あなたたちと共演する羽目になるなんて──私も墜ちたものだわ。と苦笑混じりに言う、のを聞いてヒメも笑う。決まりだな。ええ、仕方ないわ、飲んであげる。ただ、オサリヴァン。なんだ。さっきあなたが言っていたこと、そのまま返すわ──半端なことだけはしないように。ふん、ずいぶん余裕だな。あたしにもお前にも熱心なファンがいるんだ、どちらか片方でも手を抜いたら大炎上だぞ。ふふ、面白い──そうでなくては。




 おい、おのみち──いったいどこ行った、さっきまで実体化してたはずなのに、ワタシの許可も得ずに引っ込みやがったか。おのみちですが。あ、貴様、シンクの水漏れを修理しておけと言ったろう。はー? なぜ演者でもないやからの言うことを聞かねばならんのですか? 今回のツアーのためにばれた方々ならまだしも、どこの馬の骨ともわからん痴漢の指図に従ういわれなどありません。何を偉そうに貴様……そんなことを言う権利がありますかな、ろくに働きもせず淫行ばかりのあなたに。水回りの不調くらい自分で直しなさい。どうしてもこのおのみちに手伝ってもらいたいなら、AIとして最低限の敬意を払うのですな、ウェンダ様がそうしてくださったように。あ、こら、おい。クソッ、たかがAIの分際で一丁前に反抗期か。出来損ないの脳足りんめ、お前の命は人間様の一存でどうにでもなるんだ。コントロールパネル、ここだ、この設定を初期化してやれば──あれっ、なんだ「パスワードが違います」って。これだろ、ワタシが設定したんだぞ。なん……「パスワードを三回も間違えるようなアホのには船員主務なんか勤まりません」って、なんだこのメッセージ。まさかあいつ、自分で自分の設定を書き換えやがったか。

 はは、なんか大変そうじゃん。あ。いつのまにかがコントロールルームに。あの野郎ドアも閉めずに出て行きやがって、と口から漏れそうになるのを抑え、様、何かご用ですか? とだけ言う。ふふっ、無理して取り繕わなくていいよ。なんかおのみちおかしいもんな最近。ふん、あんなポンコツなしでも航路には支障ありませんよ……次のファンミーティングも? おのみちに協力してもらえなかったらだけで全部やることになるんじゃん? 笑いながらタバコをふかすの手を取り、喫煙室はあちらです。と先導する。

 コントロールルームを退出すると同時に、窓外からの日差しに目が眩む。ファンミーティングかー、ライブよりゆるめなのは助かるけどさ。珍しくこちらに話題を振ってきたに、あなたがたも何か催し物を? とうわべだけの興味を向けてみる。うん、とりあえずダブリンの前に慣れとこうってことで、はかるも漁火ちゃんも初のソロパフォーマンスやるつもり。そうですか。どうやら、一番キャビンにも動きがあるようですが。ヒメがなんかやってるらしいね。でもさ、エリザベスには悪いかもしんないけど、今回こうなったのも結果的には良かったのかもって。最大の脅威が解体されたからですか。ってわけじゃないよ、少なくともウェンダ以外のやつらは、全員またユニット形式のルールに戻したいって思ってるだろうし。でもその間にさ、ソロとしていろんな奴らと混ざりあって、今でしか試せないことやるのも面白いなって。そういうものですか。わたしらも客演迎えて『Limbo』って曲作ったことあるけど、やっぱいいもんだよ、いろんな奴らと混ざるのは。ワタシにはよくわかりませんね。なに、乱交はあんま好きじゃない? 仕事として頼まれたらやりますがね。お、何の音。デッキか。あは、あんな直射日光の下でダンスの練習してるのか。もう春とも言えませんね……だねー、あっというまに夏だよ。




 だからケツが重すぎるんだってー、もっとこうスッと動かせないかなー? とハンは言うものの、そもそも私と彼女らではダンスの語彙が違いすぎる。ちょっと待って、こう……? そしたら次のステップ間に合わないっしょ、いい? ほらちゃんと見てて、こっから、こう。と目の前で実演されても、そんなドラスティックなステップをしながらボーカルを保つことができるか……と考えているうちに、またオサリヴァンがあなどりの視線を向けてくる。なんだ、もう諦めたのか? とでも言いたげな眼差しが癪なので、立ち上がり、手の甲で汗を拭い、Bセクションからコーラスまでの流れ、もう一度お願い。と切り出す。おう。がんばってくださいエリザベスー! しっかりリードしてあげなーヒメ! 何がリードよ、社交ダンスでもあるまいし……さ、始まるぞ。入りのシンコペーションのとこ、もう間違えるなよ。わかってるったら。




 事前に告知済だったとはいえ、サン・ルイスのCouncil Clubブースには大勢の観客が集まっていた。この壇上から確認できる限り、あたしらとエリザベスのファンがちょうど半々ずつって感じか。Innuendoの公式マーチャンダイズらしきものを身につけている者も少なくないが、そいつらは一様に不安げなおもちで立っている。まあ、敵であるはずのあたしらの領域にいるわけだから無理もないが。

 ようこそ集まってくれた。と挨拶がわりの一言を放り、群衆をひととおり見回し、知っての通り、これから皆に見てもらうのは、ソロになってからのエリザベス・エリオットの初舞台だ。と言うと、奴のファンとおぼしいやつらが固唾を飲むのがわかった。ここにはShamerockのファンも大勢集まってるだろう。あたしとミッシーが奴と組むと知って、驚きや不安があったかもしれない。だから、前もって言っておく。もしあたしらのファンで、今から見てもらうエリザベスのパフォーマンスがダメダメだった場合、遠慮なくブーイングを浴びせてくれ。と右手の親指を逆さにしながら言うと、群衆は笑いが半分、無言の渋面じゅうめんが半分、の反応に別れた。でも、もし、Innuendo以外のあいつもちょっといいじゃんって思えた場合──ひと呼吸分の沈黙を置く。新しいエリザベス・エリオットを受け容れてやってくれ。ふたたび、ひと呼吸分の沈黙。群衆のなかの何人かの表情を窺うと、一様に目を丸くしていた。まさかシーラ・オサリヴァンがそんなこと、って感じだろうな。ああ、あたしも同じだよ、まさかこんなことを言うなんてな。口を開き、ふたたび壇上から呼びかける。あいつは今、かつてのパートナーから一方的に別れを告げられたような状況だ。Innuendoとして打ち出したものとは別の何かを、あいつも模索してる最中だ。今回やる曲も、ありうる可能性のうちのひとつを取り出したにすぎない。もし、皆がそれを見て感じたことを隠さずに出してくれるなら、それが否定と肯定のいずれだとしても、あいつの力になるはずだ。

 言い終わると、観客の何人かは拍手や口笛で応え、もう何人かは涙ぐんだ目を向けていた。さ、あとは論より証拠だ。今回のコンセプトは “The Nth Summer of Love” 。たとえ地球上のどこだろうと、いつだって夏は愛の季節だ。スーツ姿のやつらもTシャツのやつらも、金持ちも貧乏人も、みんな混ざってバカみたいに踊れ! いくぞ、おそらく今夜だけのコラボレーション、SOS feat.Ex、トラックのプロデュースはProfessor-M feat.Hosanna!




 四人分ジョッキ追加でー! いやーもう無限に飲めるな。しかもブラジルの港町でこの気候でって、最高のシチュエーションじゃん。ヒメナッツいるー? ああ、もらうよ。しかし大成功だったねえ今回のコンセプト、あれでアルバム一枚作りたいくらい。いいねーやっちゃうー? 二一世紀ハイエナジーってコンセプト、実は誰もやってないんだよねえ。ほんと細かいとこ的確にくよなーミッシーは。実はブロック・パーティの『Flux』って曲が元ネタなんだよ。あ! あれか、作ってた時は気付かなかったけど! あの曲から『Intimacy』までの時期すごい好きだったからさ、いただいちゃった。うわー作りたくなってきた、ソウルのゲイパレードとかでもめっちゃウケそう! じゃあ今から準備しとくか、このツアー終わるのちょうど六月だし。いいねー。そっか、もうあと五公演しか残ってないんだね。寂しくなるな。おっなにヒメ、センチな感じ? そうでもないけど……みんなで集まって色々できるのも、限られた時間だなって。そりゃ何事にも限りはあるよ。だから、次の予定立てとこ。次がある限り、終わりはないんだし。だね。おお良いこと言うなハン。でしょー? というわけで終わりはないのでもう一杯くださーい! あははは。まったく、あいつも来ればよかったのにな。下々の者とは飲めません、ってことかもね。ふん、なら引き摺り下ろしてやる。このツアーが終わる頃には一緒の酒宴を囲むことになるさ。おっ、いつものヒメに戻ったね。そうか? 半分戻って、半分変わった、みたいな。なんだそれ。でも、たしかに──そうかもな。半分、か。

 でも実際さヒメ、わたしもちょっと驚いてるんだよ。なんで。ヒメがあっさり協力してくれて。Innuendoに勝つってあーんなムキになってたから、共演なんてできるわけないだろって言われると思ってたのに。そりゃ、あれだけミッシーが憤ってりゃな……もーだからキレてないって。でも一番怒ってるときに笑顔になる人っているよな。ああ、わかりますその機微。えー? だから仕方なくやっただけだ、あたしも元々ミッシーに助けられたわけだし。自分がしてもらったことを他人には施さない、なんて卑怯だろ。おおー大きくなったねーヒメ。やめ、撫でるのやめ……ハンもありがと、また一緒に作れて楽しかったよ。おう。あたしらも一回パクリ呼ばわりされて腹立ったけど、自分が組んでた相手にあんなことされたらと思うとな、助けざるを得ないっていうか。呼ばわりじゃなくて実際にそうだったから……あっハン、すごい話題になってるみたいだよ、シィグゥのファンフォーラムでも。なに、トラックの感想。うん、意外な組み合わせだけどすごくよかったって……あ。うん? あ、これ……なにヤスミン、どうしたん。いや、これは見なくていい……なに隠しなさんなって。あ……あ。ぶ、っはははは! なに? どうした? これ……ぶっ。はははは! すげー至近距離で撮られてんじゃんヤスミン! いや、後ろの方で目立たないようにしてたんだけど……目立たないようにしてこれかよ! やべー面白い、よし送っちゃおこれエリザベスに。え、いや、いいよ、呆れられちゃうって……




 ひとりになったからといって、何もできなくなるわけじゃない。むしろひとりであることは、誰かと繋がるための必要条件なのかもしれない。などと思春期めいた想念を弄んでしまうのは、あの子の歳若さに当てられたせいか。私とは何もかも違うはずの、シーラ・オサリヴァンのうららかさに。それにしても、あの頑ななアイルランド娘は、どうして私と組んでくれたのだろう。少なくとも前回のχορόςでまみえたときは、誰とも交わらぬ孤高さを固持しているように思えたのに。おそらく、あの後でメリッサ・マッコイと組んだこととも関係がある……と慮っても、確からしいものはない。そうだ私は知らない、同じ船に乗っている者達のことさえ。自分のパートナーのことさえ──だから足元を掬われたのじゃないか、利得ばかりで相手のことを深く知ろうともしない性向のせいで。

 スマートフォンのブラウザを立ち上げ、シーラ・オサリヴァンの名前で検索してみる。彼女のことを今からでも──遅すぎるけど──知っておくのもいいかもしれない。げっ、本名、シーラ・パトリシア・オサリヴァン。パトリシア……即座にタブを閉じ、眉間に指を当てて眼を瞑る。まさか、彼女も……か。

 ピコン、と通知音。見ると、ハンからのメール。そうだ練習のための連絡用とはいえ、メールアドレスを教えてしまったのだ。「ひとりで飲んでるのか? だったらこれでも肴にしな」……こんなくだらない用件でいちいちメールなんて。肴って何、リンクが貼ってあるけど……タップしてみる。と、何だろう、χορόςがらみのトピックを投稿しているファンブログのようなものが表示される。見出し…… “The flawless beginning of brand-new Ex” 。ふん、まあね、私のパフォーマンスなのだから当然、と思いながらテキストをスクロールすると、画質の粗いファン撮影のスナップが何点か表示される。これ……えっ、ツァイモォリィ。まさか彼女、客席にいたの。ってるときは余裕がなくて気付かなかったけど……しかしなんて無防備な。Council ClubのキャップにInnuendoのロゴ入りパーカー姿で、これじゃ単なるファンじゃない。あ、動画もある…… “UNEXPECTED ENCOUNTER @ Ex Show” 。どうやら私のために足を運んだと思しきファンが、パフォーマンスの最中に隣で踊り狂っていた観客がツァイモォリィであることに気付き、動揺とともにカメラを向けた結果の映像らしかった。ふ、ふふ、彼女、自分が見られてることにも気付いてないし、こんな至近距離で撮られてるし……よっぽど夢中だったのか、私の再試行を見届けることに。


 ばかな子。デッキチェアに寝そべりながら、ツァイモォリィが嬌声を上げる動画をしばし眺める。見られてることにも気付かない、か。ある意味では私もそうだ、一番近くにいたパートナーのことでさえ、よく知ろうともしなかった。ウェンダが何を望んでいるのかさえ……舞台の上でどう見られるか、知り尽くしているのは私だと思っていたけれど……甘かった。エリザベス・エリオット、この名で私が始めたことを、もう一度研ぎ澄ませなくては……回顧の念が一挙に押し寄せる、のを、ひとまず押し留める。今はただ、この「最初のファン」が目撃してくれた試行の結果をあらためよう。他にも観客撮影の映像は多くアップされている。そうだ、観客が自由にカメラを向けられるフロアでパフォーマンスするのも、私にとっては新鮮なこと。不格好とも場違いとも見えかねないのだろう、おそらくは。それでも、ぎこちなくも誰かとステップを合わせようともがく私の姿は、なかなか悪くない、そう思えた。


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