18 To The Bone
私は海綿。海綿マキ。いや違う、
ビゼーはスペインに行ったことないのにあの曲を書いたんだよね、じゃあ私がアイルランド娘をテーマにオペラを書いてもいいわけだ、あっでも来ちゃったか。父方の祖国を訪れたことがない私、だったのはつい一昨日まで。この身体はアイルランドを知っている、知る前にはもう戻れない。かといって無垢性の喪失、なんて辛気臭いテーマを弄ぶような歳ではもはやない。来てみた感想は? べつに。ただ多くの人々が
ドアを開けるとソファにイリチが。あのマフィンは昨夜の残りだろうか。おはよっす。おはよう。あと二個あるすけど、はかるんも要ります? と冷蔵庫のほうを指差す。いや、今はいい。起き抜けに甘味はちょっとね。と固辞する。そうすか……語尾と咀嚼を自然にクロスフェードさせるイリチの
……どうしよう、
そうですね、あれやるのもわたしの提案だったんですけど。でも今になって考えると誰も止めようとしなかったのがウケるなっていうか。ふいに噴き出すと、目の前の記者もつられて笑う。ああ、細かいニュアンスまで伝わってるんだな。それとも言葉より仕草のほうが雄弁なだけ。それにしても、ブリテンに来てみても
ドアを開けて記者を見送ると、おつかれー、と向かいの廊下から手を振りながら歩いてくるイネス。おつかれー、そっちも今終わり? おう、とりあえずDefiantでの取材は終わり。あとは
最後の和音が置かれるとともに、サクソフォンが端正なフェイクをブロウする。マウスピースから唇が離され、ゾフィアは微笑しながら譜面を眺める。久しぶりにやったなー『Softly, As in a Morning Sunrise』、やっぱいいもんだね。ええ、大掛かりなステージに慣れた後ではとくにね。学校にいたころ思い出すよ、あの頃は誰彼かまわず捕まえてセッションできたからなー。良い環境にいる時って、どれだけ恵まれてるか判らないよね。恵まれてるのは今もだよ、こうして一緒にやってくれる相手がいるわけだし。ふふ、ありがとう。私もソロイストの伴奏は久々だから新鮮だった。実際さ
じゃ、明日の昼に。おう、遅刻するなよー。いくらホームだからといって油断しちゃだめすよー
さて、これで全員か。取材ラッシュも一段落つき、あとは明日のエディンバラ公演を待つのみ。あいつらはリースに停泊してるYonahで、あたしらはCouncil Clubのメゾンで一晩過ごす。いやあしかし
通話が切られる。なんなんだ……せっかく公演前の半日オフだと思ってたのに。まあ仕方ないよ、わたしもウェンダがどこ行ったか気になってたし。じゃあ行くか。それにしてもこのメール……ギヨーム・ドロワ。とりあえず電話してみる? ああ、どこの誰なのかも知らないが……
一八時過ぎのブラックプール、北埠頭。まだ陽は落ちていないが、昼の熱が
さて、北埠頭の駅で降りてすぐのパブ、そこで待っているはず、ギヨーム・ドロワ……さっきの電話では「直接会って話そう、そのほうが早い」と言われただけだったけど。しかしあの窶れ混じりの
瓶をふたつ受け取って着席するあたしらに、目の前の男性は咳払い一つ置き、頬杖ついて話し始める。スコットランドからわざわざよく来たな。いやまあ。パスポート無きゃいけないから不便だったろ。そうでもないですよ、わたしら世界巡ってるわけですし。そりゃそうだな、ただ独立前はもっと気軽にそっち行けたんだけどな……とチェイサーのグラスを撫でながら懐かしむような声。あの、本題に入りたいんですけど……とあたしが性急に言うと、ああ、そうだな、多分よどみなく話せるだろう。なんたって二回目だからな、これ話すのは。と微笑みながら応えた。さっき、ウェンダにも話したってことですか。ああ、昨日の夜だしぬけに電話があってな。あなたエリザベス・エリオットの父親ですね、と。つらつらと述べられる事実が、あべこべに奇妙に響く。父親……? お前誰だって訊いたら、なんでもあいつの相方さんだと。ああ、あの銀髪でダークスーツのやつかって
てなわけで、それがダイアナ・パトリシア・ドロワの経歴だ。あいつ、エリザベスと名乗ってからは一切公表してないし、する必要もなかったんだろう。英文学の知識も演劇の素養もクイーンズ・イングリッシュのアクセントも、ぜんぶ完璧だったからな。あいつが大学を出て一人立ちしてからは、エリーズの遺産も全額寄付して、俺とも連絡取らなくなった。言い終えたのか、チェイサーのグラスを傾けて
ふいに沈黙が訪れる。親のツケを払う、か。それはたぶん、あたしもそうなんだろう。父ができなかったことのツケを、別のかたちで……それと同じことを、エリザベスも。と無体に乱れゆく想念を片付けて、それより、いまあたしたちに話したことを、ウェンダにも教えたんですか。と訊く。そうだよ。なんでですか、誰にも知られたくなかったことのはず。それはそうだけどよ……別にいいだろ、あいつが選んだパートナーなんだし。頬の半分で笑うような顔。ウェンダ・ウォーターズ、色々あったって聞いてるけど、あいつが選んだ相手なんだろ? ならいいじゃねえか。悪くないもんだよ、手前勝手でどうかしてるパートナーに振り回されてみるってのも。あいつも大人だ、自分の相手くらい自分で見つけるさ。
黙り込むあたし、の傍らでミッシーは笑っている。そうですね。じゃ、これでウェンダに話したぶんは全部ですか。ああ、わかりやすかったろ? ええ、とても。ただ……あとひとつだけ質問があるんです。なんだ。ミッシーは静かな深呼吸をひとつ置き、あなたは、今も……曲を書いてるんですか。それを発表するつもりは、一切ないんですか。といつになく冷静な声で問う。ギヨームは苦笑混じりの呼気ひとつ、
わたし、あの人、好きだな。北埠頭駅でギヨームの背中を見送りながらミッシーは言う。明日は仕事だ、やけに客人の多い休みだったが、あんたがたと話せてよかったよ。ってさ、ああしてまた自分の
と、発車とともに通知音が。なに……音楽ニュースサイトの見出し。Innuendo……の公式サイトが……え? おい、ミッシー。なに。これって……あいつ、まさか。
いた。立って、いた。位置情報のとおり、ブラックプールの北ビーチに。さすがにこの時間帯になると観光客も少ない、が、まさかずっとああして待っていたのか。ウェンダ。波打ち際に佇んでいる、その背の高い後ろ姿に呼びかける。振り向くと、あの憎らしい小癪な顔。みすぼらしいナイキとニューバランスで変装しても、あの怜悧かつ典雅な雰囲気だけは隠しようがなかった。やあダイアナ。その呼び方はやめなさい。それより……どういうこと。スマートフォンの画面を突きつけ、どうしてこんなことを。私の過去の経歴を勝手に暴いて、あまつさえInnuendoの公式バイオグラフィとして公表するなんて。と問い詰めても、ウェンダは依然として
沈黙。
なん、なに、今こいつ、何を言った。目の前の相手は寸毫も表情を崩さず、なぜ隠していた? と、あべこべにこちらを問い詰めるように言う。なぜ今まで隠していたんだ。君はイングランドに生を享けたフランス人だが、自力で学び取った演劇と文学の技術で大成したのだろう。素晴らしいことじゃないか。エリザベス・エリオットという芸名を名乗ったこと自体は何も悪くない。しかしなぜ君は、それ以前の、ダイアナ・パトリシア・ドロワの経歴自体も埋葬しようとしたんだ? 母上や父上に失礼だとは思わないか? 何を……知ったようなことを。知っているさ、
ふざ、けやがって。どうして、どうしてこうも
来いよ、クソアマ。私に
私を……
私を、
私を誰だと思ってる!! 誰? ダイアナ・パトリシア・ドロワだろう? 君のプロフィールなら誰でも知っているよ。違う! じゃあ、エリザベス・エリオットかい? 信頼していたパートナーに裏切られて、ライバルだったはずのアイルランド娘にお情けをかけてもらった、今や天下万民のお笑い草であるところの女王陛下か? 違う!! じゃあ誰だ、と訊いているんだ。けっきょく君は誰でもない。どれだけ良い大学を出ようと、天才女優として名を馳せようと、χορόςで世界的な名声を勝ち得ようと、未だに何者でもない娘っ子だ。自分自身の経歴にケリをつけることすらできない、宙ぶらりんの道化師だ。まったく
あ。
当たった。当たった! 当たったわ!! ざまあみなさい、私を挑発するからよ、この流麗な
できるじゃないか。それだよ my dear. 君の赤剥けになった姿が見たかった。その顔が、綽々たる余裕が剥げ落ちた顔が。なに……言ってるの。あなた、こんなことをさせるためだけに。そうだよ my dear. 長かった、とても長かった。君に見初められたその日から決めていたんだ、いつかこうして裸にしてみせるとね。
位置情報の通りに北ビーチに赴くと、ふたりいた。あれたぶんウェンダだよな、身長でわかる。あの寝巻っぽい姿はエリザベスかな、なんでふたりともびしょ濡れなんだ。まさかあの格好で泳ごうとしたなんてこと。あ……とこちらの姿を認めると、茫としたまま視線を逸らさず歩み寄ってきた。
さ、帰るぞ。言いながら、とっぷり暮れた夕陽を補うために、スマートフォンのライト機能で足元を照らしてやる。あなたたち、なんでここに……
気分はどうだ。どうって……あいつらのホームグラウンドだから、花を持たせてやっただけよ。そうじゃない。何。初めて、全体の自分としてステージに立った気分は。何それ……いつだって全体だったわよ。今までは半分だけだったじゃないか、エリザベス・エリオット。今や誰もが君の本名を知っている、その経歴も。すべて知られてしまった後で舞台に立つ、その気分はどうだった。別に……何も変わらないわ。私は私を演じ通すだけ、今までと同じにね。「本当の自分」なんてくだらない幻想、私には何の意味も持たないんだから。そうか……それでは新たに始めよう、Innuendoはここから始まる。あと三公演しかないのに……ふん、まあ十分だわ、ここから
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