18 To The Bone


 私は海綿。海綿マキ。いや違う、はかるだ。もちろんカルメン・マキでもない。そんなラテンっぽい名前は荷が重い。しかし、なぜ宿酔ふつかよいの身体はこうも海綿っぽいか。多量のギネスを吸いすぎて黒くぶよぶよんなったこの一つ身。 Guinness is good for you とは言い条、吸ったまま寝転がってはじきにカビが生える。振り絞るように身を起こす、しかなくなる。

 ビゼーはスペインに行ったことないのにあの曲を書いたんだよね、じゃあ私がアイルランド娘をテーマにオペラを書いてもいいわけだ、あっでも来ちゃったか。父方の祖国を訪れたことがない私、だったのはつい一昨日まで。この身体はアイルランドを知っている、知る前にはもう戻れない。かといって無垢性の喪失、なんて辛気臭いテーマを弄ぶような歳ではもはやない。来てみた感想は? べつに。ただ多くの人々がゆとりをもって暮らしているだけの土地、何処いずことも同じように。それでいい。着飾り嗜み奏でる余裕を失わない限り、それらの営みを続けている限りは、人類はまだ大丈夫だ。などと想念を遊ばせているうちに歯磨きが終わっている。吐き出し、拭い、鏡に映えた様を見る。こくはかるだ、おそらくは。昨日と同じように今日もまた。

 ドアを開けるとソファにイリチが。あのマフィンは昨夜の残りだろうか。おはよっす。おはよう。あと二個あるすけど、はかるんも要ります? と冷蔵庫のほうを指差す。いや、今はいい。起き抜けに甘味はちょっとね。と固辞する。そうすか……語尾と咀嚼を自然にクロスフェードさせるイリチのくつろぎぶりを眺めながら、とりあえず煎茶の用意をする。朝の酔い醒ましにはこれが一番だろう。薄めに出るよう茶葉を節制し、給湯ポットが立てるのろい駆動音に聞き入っていると、あの、ちょっといいすか。とイリチがこちらを窺う。なに。はかるん、夜のことなんも憶えてないんすか。となぜか神妙に言うので、昨夜の……いや憶えてるよ、みんなで乾杯して、次々に料理が出てきて……あのナンとチキンカレーおいしかったな……料理もすけど、酒もすね。酒もね、もちろん。と軽く頷いて急須と湯呑を持って卓につく。が、イリチは依然として視線を外さない。えっと、何。あ、じゃあ……やっぱ憶えてないんすね。えっ。憶えて、って……まさか、なにかやらかした。と問うてみると、んー、やらかしではないっすけどお……となぜか微笑しながら返す。いや酒のせいでなにかやったってことでしょう、「上着がオレのじゃねえ」みたいな……そういうジャンルのではないすけど……あー、まあいいや。と微よりもむしろ苦な感じで笑う。なにそれ、自己完結やめなさいあなたが切り出したのに。いいすよ、みんなほっこりしてたはずすから……はずって何、しかもみんなって。衆人環視で何かやったってこと。どこをくすぐられているのかすら定かでない座りの悪さに堪えかねる私に、イリチはもはや微笑しか投げない。

 ……どうしよう、おのみちに訊いてみようかな、昨夜の記録が残ってないか……たぶん意味ないすよ、あのときなぜかおのみちも酔っ払ってたみたいすから。えっ……そういえば、呼んでも出てこないことが多くなったね最近。まあいいじゃないすか、おのみちにも休みあげましょ。はかるんも忘れたらいいじゃないすか。いや、忘れたくても憶えてないんだって……ねえさんもまだ起こさないであげましょ、はかるんに付き合わされてずいぶん飲んでたみたいすから……え、いや逆でしょう、いつも量が過ぎるのはのほうで……ふーん? そうすかねえー? 何、ちょっとやっぱり詳しく教えなさい、と前のめった瞬間、おはようございます、とおのみちのアナウンスが入る。只今より、客船Yonahはエディンバラ北部の港町、リースへと向けて出港いたします。到着時刻は本日の一九じゅうく時頃となる予定です。それまでは快適な海の旅をお楽しみください。あれ、このアナウンスはいつもの仕事だったはずだが。まさかあの子も酔い潰れてるのか。などと余計な方向にすべる想念をとどめ、とりあえず卓上の急須から湯呑に煎茶を注ぐ。啜りながら昨夜の記憶を手繰ってみるが、やはり乾杯直後の情景くらいしか確からしいものがない。やるかたなしに飲み下されるぬくみが、この不埒な身体を慰めるようだった。そうだ、こうやって切り替えるしかない。夜を寿ことほぐ黒い水から、朝につとめる琥珀の湯に。飲むもの着るものを切り替えながら続けるしかないのだ。二杯目を注ぎながら、ベッドルームの扉を漠と眺める。かすかな物音といきれから、が起き上がってきそうな予感がしていた。




 そうですね、あれやるのもわたしの提案だったんですけど。でも今になって考えると誰も止めようとしなかったのがウケるなっていうか。ふいに噴き出すと、目の前の記者もつられて笑う。ああ、細かいニュアンスまで伝わってるんだな。それとも言葉より仕草のほうが雄弁なだけ。それにしても、ブリテンに来てみてもGILAffeジラフの普及率には目をみはるものがある。もちろん取材に来てるのはスコットランドだけじゃなくイングランドの記者もだけど、その面々がいずれも平然と日本語で会話を始めるのを見ると毎回こっちがビクつく。それでは、さすがに本気で船を沈めるつもりはなかった? と問い返されるので、いやあ本気っていうか、まあブラフですよね。そんくらいしなきゃいけない事態だってことはわかってたんで。でも沈んでたら大変だったはずですよ色々、船の中の機材とかねえ。沈んだら助けられないねって言ったらKATFISH泣いちゃったんですから。とわたしにつられて漁火ちゃんも笑い、はかるは傍らで苦笑する。


 ドアを開けて記者を見送ると、おつかれー、と向かいの廊下から手を振りながら歩いてくるイネス。おつかれー、そっちも今終わり? おう、とりあえずDefiantでの取材は終わり。あとはあれ個人の取材が二日後まで入ってるから、それ待ちって感じかな。そっか、わたしも二日後まで泊まりかな。しかし良いとこけてもらったよなー、もしプレス応対のためにホテルに部屋とったとしても、ファンが押しかけて大騒ぎになったろうし。教授キョウジュに感謝だねー、メゾンの二階貸切とか豪勢だよねー。しかしよく考えたよな、あれらがここに滞在してるって知れたらメゾンも儲かるわけだし。実際χορός関連の物販ブースみたいなの出してるもんね。あれえらい売れてるらしいぞ今日。さすがスコットランド人、抜け目がないなー。とイネスとの立ち話を続けていると、階段から上がってくるヒメの姿が。スコットランド人は吝嗇、ってベタベタなジョークだな……それ、ミッシーの前では言うなよ。わかってるってシーラ。そっちも終わりヒメ? ああ、今日のぶんはな。でも公演直前まで取材は詰まってるから、あと五日間は滞在するよ。そっか。じゃ、船に帰るのは私だけかな。とはかるが言うと、いやソーニャもだよ、公演前に諸々の作業したいって言ってたし。とイネスが応える。シィグゥはわかんないけど、リースに戻るときはソーニャと一緒に行ったらいい。そうね。ただ少なくとも今夜までは居てほしいって言ってたぞ、ミッシーの家族総出でパーティーだからと。もちろん、それまではね。なんかこう取材とパーティー続きだとすげースターって感じー。実際スターだろう、お前が持ち上げたあの騒ぎのせいで、音楽誌以外にも名前が載るようになったしな。いや騒ぎ持ち上げたのはヒメのお母さんでしょ? ところでヒメ……あの人たちは。とはかるが小声で訊くと、ああ、朝刊でちょっと見たけどな、港の運営を妨げた公序紊乱で起訴らしい。ま、順当なとこだな。さすがに奴らの信仰の歪みまで裁くことは無理だろう。と蓮っ葉に応える。そう……だね。さすがに今回は何のトラブルもないはずだ、と信じたい。だね、ミッシーの地元だし。会場はグラスゴーじゃなくてエディンバラだけどな。お……何、通知。ふふ、ステーキパイの差し入れらしい。Council Clubの本社、つまりマッコイ家のほうに来てくれって。やったー昼飯っすー。本社って、それ今ミッシーがミート&グリートやってるとこ? ああ。それって、パイあげるからわたしたちにも参加してくれってことじゃん。さすがスコットランド人、抜け目がないなー。だから、それミッシーの前では言うなよ……じゃ、遠慮なくご相伴にあずかりましょうか。おう、ソーニャとシィグゥ呼んでくる。




 最後の和音が置かれるとともに、サクソフォンが端正なフェイクをブロウする。マウスピースから唇が離され、ゾフィアは微笑しながら譜面を眺める。久しぶりにやったなー『Softly, As in a Morning Sunrise』、やっぱいいもんだね。ええ、大掛かりなステージに慣れた後ではとくにね。学校にいたころ思い出すよ、あの頃は誰彼かまわず捕まえてセッションできたからなー。良い環境にいる時って、どれだけ恵まれてるか判らないよね。恵まれてるのは今もだよ、こうして一緒にやってくれる相手がいるわけだし。ふふ、ありがとう。私もソロイストの伴奏は久々だから新鮮だった。実際さはかる、すごい恵まれた環境だと思わない? いろんな土地から集まった人たちがさ、それぞれの違いをそのままに競い合ってる、って。ええ、たしかにね。少なくとも日本にいたままでは体験できなかった。そうだよ、バークリーの学生とセッションしたときも同じこと思ったなー。他に楽器できるやつ来ないかな? イリチはグラスゴーの楽器屋でクリニック仕事だし、シィグゥのふたりも教授キョウジュと一緒に観光中だから、今日はふたりだけだね。そっかあ。でもはかるの伴奏すごい良いよ。ありがとう。私はクラシックから入ったから、ジャズの語彙とは合わないかなって思ってたけど。いやそんなことない……あそうだ、ふふ。なに。私がクラクフの音楽学校いたときね、先生が言ってた。「ブラックミュージック」なんて呼び方はおかしいって。なぜなら、現生人類はアフリカ起源でしょ。そこから方々に移り住んで今の世界があるわけでしょ。だから、人間の創る音楽はすべて「ブラックミュージック」なんだよ。ふふっ、確かに、原理的にそうなるね。でしょ、ただこれね続きがあって。だとしても一人だけ例外がある、「ブラックミュージック」じゃない音楽をつくった人間が一人だけいる。誰? オリヴィエ・メシアン。ぷっ……あはははは。鳥類だから。鳥類だからね。あっははははは。面白い人だねその先生。でしょ、こんな人ばっかだったよ。ポーランドの身内だけで通用するキツめのジョークとかね、さすがにそっちは聞かせらんないけど……いやあでも、はかるとこうしてゆっくり話せてよかったよ。私こそ、今まではぜわしかったからね。だし、やっぱダブリンでの飲み会まではさ、もっとお堅い人かと思ってたから。え……あの夜。もしかして、あなたにも何かした。したっていうか……ふふふふ。えっ何、まずいことしたんだとしたら言って。何も教えてくれないんだよ、イリチもも。いやあ……まあね。なんていうか……けっこう似てるんだなと思った、私とはかるは。えっ。だって、アイルランドと、日本の南の島の北のほう? のふたつのルーツがあるんでしょ。え……まさか私、そのこと話してたの。酔いに飽かせて身の上話を。いや身の上話っていうか、もっと笑える感じだったけど。笑える。まあまあ、わかる気するんだ。私の先祖も、ポーランドとかロシアとかドイツとか移り住んできたからさ。ああ……簡単じゃないよね、祖国、と確かに言えるものが無いって。まあ、ね。といっても私の父母の苦悩なんて、あなたの一族のそれとは比べものにもならないでしょうけど……いや、どこも一緒なんじゃないかな。移り住んで、偶然に出会った人たちが、ひととき愛し合って、辛うじて自分の先を続けていく。どの土地でも同じなのかも。そう、かもね……ひとつの人種しか居ないように思える土地でも。もちろんそうだよ。 One race, human race. ふふっ。「レイスミュージック」なんて呼ばれたこともあったんだよね。失礼な話だよー「レイスミュージック」。なんだよお前らは人種じゃないのかよーっていうさ。ふふふふ。じゃ、その「レイスミュージック」の後裔たちをってみましょうか。おう。『Sunny』いい? もちろん。後半の移調はどこまで続けるかはわかんないけど、とりあえずやってみよう。じゃあフォーカウントで。うん。ワン、ツー、




 じゃ、明日の昼に。おう、遅刻するなよー。いくらホームだからといって油断しちゃだめすよー教授キョウジュ。わかってるよ、だけど今回ばかりは一位もらっちゃうから。言ったなー? じゃ、そのへんも明日はっきりさせよう。おう! けないからなー。

 さて、これで全員か。取材ラッシュも一段落つき、あとは明日のエディンバラ公演を待つのみ。あいつらはリースに停泊してるYonahで、あたしらはCouncil Clubのメゾンで一晩過ごす。いやあしかしヒメ。なんだ。まさか思わなかったね、わたしらがここまでビッグになるなんて。ああ、ここで拾われたときにはな……ほんと、運命ってあるんだなーと思うよ。なんだ、いきなり照れくさいこと言うなよ……照れくさくはないじゃん、本当のことでしょ。プリファブ・スプラウトの『Electric Guitars』の歌詞にもあるでしょ、“We were songbirds, we were Greek Gods, We were singled…”と唄い出すミッシーの声を、突然の着信音が遮る。なに……Yonahの船内サーバからだ。か? 画面を覗き込むと、受話ボタンが押されるとともに、おのみちの顔がクローズアップで表示された。うわあ。おのみちですがっ。おつかれー、どうしたの急に? 今……お時間よろしいですかっ。サーバからの音声データがやけに焦燥を帯びている。いいけど、どしたん? ついさっき、エリザベスが、突然にYonahを離れまして……え? 公演前日だぞ、何の用で。わかりませんが……その直前に、メッセージの伝達があったのです、ウェンダ様から。ウェンダ? 帰ってきてたの? いえ、わたくしのサーバ宛に直接メールが届いたのですが……その内容をコピーして送ります。と言った数秒後、画面上部に受信が通知される。タップすると、なにやら「親愛なるダイアナへ」の書き出しで始まるテキストが表示された。おいおのみち、違うテキスト送ってるぞ。いえ、それです。たしかにウェンダ様のアドレスからです、わたくし宛てにエリザベスへ取り次ぐように書かれたメールです。なに……「親愛なるダイアナへ。今日これから、君の父上と会って話す予定だ」……という記述に続き、GPS位置情報のリンクと、見慣れない名前の下に電話番号がふたつ並んでいる。ギヨームGuillaumeドロワDroit……? ミッシー、知ってるか? いや全然。この人の電話番号なのかな、自宅と携帯。おいおのみち、このメールを読んでエリザベスは出て行ったのか? はい、えらく取り乱した様子で……でもわけわからんぞ、ダイアナとかギヨームとか。それよりもっ、出て行ってしまった事実の方が重要ですっ。お願いします、メリッサ様、シーラ様、今すぐエリザベスを追ってください。え? エリザベスはウェンダ様のもとへ向かったはずです、とすればウェンダ様も連れ戻せるはず。なんだよ、結局そっちかよ。仕方ないでしょう、ダブリン公演以降、ウェンダ様は一度もこの船に戻っておられないのです。もう心配で心配で……ようやく連絡をくださったと思ったら、意味の取りにくいメールだけでしたし……何より、今日中にウェンダ様がお戻りにならなくては、明日の公演も危ういではありませんか。まあね、確かにおのみちは船の外に出らんないし、ブリテンの土地勘があるのはわたしらだけだし。いや、あたしは無いぞ。ヒメもわたしがいれば大丈夫でしょ。と言いながらミッシーはGPSのリンクをタップする。画面上には位置情報のアイコン。これウェンダのか。おそらくは。ブラックプール……マンチェスター? なんでそんなとこに。わかんないけど、エリザベスもここへ向かったってこと。そのはずです。グラスゴーからマンチェスター……鉄道でだいたい四時間ってとこか。お願いしますメリッサ様、今すぐ発てば間に合うはず……わかったよおのみち、追ってみる。その代わり往復の交通費はそっちに請求するからね。はいっ、お願いいたしますっ。

 通話が切られる。なんなんだ……せっかく公演前の半日オフだと思ってたのに。まあ仕方ないよ、わたしもウェンダがどこ行ったか気になってたし。じゃあ行くか。それにしてもこのメール……ギヨーム・ドロワ。とりあえず電話してみる? ああ、どこの誰なのかも知らないが……


 一八時過ぎのブラックプール、北埠頭。まだ陽は落ちていないが、昼の熱があらけるとともに観光客の姿もまばらになっていた。グラスゴーからここまで鉄道で移動する羽目になったわけだが、幸いにして道中であたしらの存在を認めたファンが大騒ぎするようなことはなかった。常日頃からのミッシーのファン対応の賜物だと言えるだろう。

 さて、北埠頭の駅で降りてすぐのパブ、そこで待っているはず、ギヨーム・ドロワ……さっきの電話では「直接会って話そう、そのほうが早い」と言われただけだったけど。しかしあの窶れ混じりのこわはなんというか、あまりにも朴訥で……あっヒメ、あの人じゃん。おっ。ミッシーが指差した先のテラスに、ポロシャツ姿の男性がひとりだけ足を組んで座っていた。手を振りながら歩み寄るミッシー。すいません、どーもー。昼に電話した者ですけど。とχορόςのスターらしくもない挨拶を投げると、男性もすぐに向き直り、しかし着席のまま手を挙げて応じた。Shamerock、っていったっけな。数時間前に電話で聞いた通りの低い声。はい。とりあえず、なんか注文しろよ。俺もずいぶん長っ尻だしな。あっそうですね、何がいいヒメ。ええと……とりあえず酒じゃないやつ、コーヒー……はないか。じゃあジンジャーエールで。

 瓶をふたつ受け取って着席するあたしらに、目の前の男性は咳払い一つ置き、頬杖ついて話し始める。スコットランドからわざわざよく来たな。いやまあ。パスポート無きゃいけないから不便だったろ。そうでもないですよ、わたしら世界巡ってるわけですし。そりゃそうだな、ただ独立前はもっと気軽にそっち行けたんだけどな……とチェイサーのグラスを撫でながら懐かしむような声。あの、本題に入りたいんですけど……とあたしが性急に言うと、ああ、そうだな、多分よどみなく話せるだろう。なんたって二回目だからな、これ話すのは。と微笑みながら応えた。さっき、ウェンダにも話したってことですか。ああ、昨日の夜だしぬけに電話があってな。あなたエリザベス・エリオットの父親ですね、と。つらつらと述べられる事実が、あべこべに奇妙に響く。父親……? お前誰だって訊いたら、なんでもあいつの相方さんだと。ああ、あの銀髪でダークスーツのやつかっててんして、俺に何か用かって訊いたら、直接会って取材したいと。取材。エリザベスの……うちの娘がエリザベスと名乗る前のことについて、な。頭の中で理解が追いつかず、なぜかジンジャーエールの瓶を握りしめてしまう。掌が冷たい感覚に慣れてきたころ、ウェンダが来たのは何時でしたか。とミッシーが直截に訊く。昼のさんじぐらいかな。俺も今日いちにち休みで、そろそろ季節だし薄着でブラックプールでも散歩するかって予定だったから、そこまで来たら会って話してやるって言ってな。携帯の電話番号も伝えたら、時間通りに来たってわけ。ことの経緯を筋道立てながら、瓶の中のものをひとくち啜る。それにしても、俺の連絡先まで勝手に教えるってのはいただけねえな……ま、実の娘に携帯の番号も教えてなかった俺にも非はあるけどな。ウェンダは、どうやってあなたのことを知ったんですか。たぶん電話帳だろ、マンチェスターでもまずいないからな、ドロワなんて姓は。いやそれ以前に、どうやってあなたをエリザベスの父親として特定したのか、ってことですけど。とミッシーが問いを明確にすると、詳しくは知らんが、バーバーショップの婆さんから聞いたって言ってたな。あの子の髪をよく切った、その頃はまだエリザベスじゃなかった、ドロワさんちのダイアナちゃんだった……って。えっ。たぶんディーンズゲートの婆さんだろうな、あのへんで服とか家具とか買ってたから。エリーズが死んだ後も、週に一回はあいつと会ってたし。えっ、えっと……エリーズって。と直截に問うと、ああ、と苦笑を浮かべたギヨームは、チェイサーのグラスを傾けながら、俺の結婚相手だよ。ってことは当然、あいつの母親ってことになるな。と応えた。エリーズ……エリーズÉliseデュピュイDupuisな。マン島で金融やってたフランス人で、ブリテンこっちにもちょくちょく来てた。いわゆる英国贔屓Anglophileのフランス人でな、こっちで活動してるダンサーとかミュージシャンとか、いわゆるアーティストを支援する基金をやってたんだよ。その人が、あなたと……とどこまで深入りしていいのかわからずしぼんでしまう語尾が、まったくおかしな話だよ、ただの港湾労働者だったんだぜ俺は。と闊達な笑みで引き取られる。「わたしに無いものを持っている人々はすべて黄金だ」ってな、あいつの口癖だった。でもよりによってよ、港で荷を積み下ろすだけのやつをつかまえて結婚までするって、やっぱ度を越してたよな。そこで、出会ったってことですか。ああ、港湾労働者の就労環境を視察に来たとか言ってたが、それで組員の名簿見たら自分と同じフランスの名前があって、俺を呼び出したんだと。未だに憶えてるな、昼休憩前にいきなりだった。あなたも……フランス人ってことですか。名前だけでわかるだろ。ノルマンディーの北の方で生まれたんだけど、地元の言葉とか文化とかがイヤでイヤでしょうがなくて、それに音楽やりたくて、高校出てすぐこっちに移ってきた。リヴァプールにな。どこの会社とは言わないけど、レコード会社所属のライターとして結構な数の曲書いたんだぜ。でも契約の内容がしょぼくて、これが俺のしたかったことかよって馬鹿らしくなってやめちまった。それで荷の積み下ろしで生計立てるようになったんだが、わからないもんだよな、すぐに馴染んじゃってさ。もしかしたらこれが俺の天職かもしれないって、それ以降ずっとだ。曲つくるのは……やめちゃったんですか。まさか。仕事終わってシャワー浴びて、ほぼ毎晩曲を書いたよ。もちろん、金にはならなかったけどな。ただ自分のためだけに曲をつくりつづけるってのは、かなり優雅な贅沢だぜ。と語る人の声に、ミッシーはすっかり聞き入っている。エリーズは「絶対に発表したほうがいい、いまメジャーで流通してるどのソングライターの曲よりも優れてる」って言ったんだけど、馬鹿言うなって感じだったよ。なんで俺のための曲を他人に引き渡さなきゃいけないんだ。俺はこれからも働きながら曲を書き続ける、そうやって死ねりゃ十分だって言ったら……ふふっ、と不器用な微笑を浮かべながら、ふたたび静かに口を開く。のろだなんて思わないでくれよ、ほんとに言ったんだからな。「わたしがブリテンに来て一番の宝を見つけた」って、それですぐに結婚の申し出が来た。頬杖をついたほうの手で片眉を掻いている。それで、あなたはマンチェスターに。とミッシーが短く問うと、違うよ、マンチェスターじゃ港湾の仕事なんか無いだろ。と否定される。あいつ「わたしの財力があればあなたはもう仕事なんかしなくていい」とか抜かしたけど、アホか、働かなくなったら曲も書けなくなるじゃねえかって返したよ。マンチェスターにあったあいつの私邸と、ずっと住んでたリヴァプールのフラットを行き来しなきゃいけなくて面倒だったけどな。それでもとりあえず一児はもうけた。ダイアナ・パトリシア・ドロワ、それがのちのエリザベスだ。と一息に述べられ、えっ、えっと、今なんて言いましたか。と訊き返さざるを得なくなる。ダイアナ・パトリシア・ドロワだよ、あいつが生まれたときの名前。パトリシア……ってことは、カトリック。言いながら惚けるあたしに、フランス人の夫婦なんだから、べつにおかしくないっしょ? とミッシーが微笑む。いや、でも……あいつ、すんごいアングロサクソンですって感じで振舞ってたのに。まあ、そこなんだろうな……と、ギヨームのおもちから笑みが褪せる。あいつの英国贔屓Anglophileが伝染したんだろうな。俺も音楽やるためにリヴァプールに来たんだから、似たようなもんだけどさ。ダイアナがよっつのとき、エリーズはぽっくり逝っちまってな。べつに病死でも事故死でもない。長期出張から帰ってきて、翌朝になったらベッドの上で心停止っていう、実際ワーカホリックにはよくあるパターンらしい。だから、俺も悲しいのかどうかさえわからなかったよ。訥々とした声が、かえって熱を帯びて響く。でも、小さな娘にとっては相当きいたんだろうな。俺は自分の仕事しかできないから、家政婦と養育係雇ってマンチェスターに置いてたんだけど、それもよくなかったのかもな……あいつ、すぐに母親の蔵書にのめり込むようになった。とくにダンとベンとシェイクスピアにな。高校出る頃にはすでに女優としてプロの劇団に呼ばれるようになってて、マンチェスター大学に入る直前に改名して、国教会に宗旨替えもして、あとはずっと「エリザベス・エリオット」だ。改名……未成年にそんなことが? とあたしが疑問を投げると、できないことはないよ、裁判所に申告する屋号と収入があればだけど。ニッキー・シックスも早いうちから書類出して改名してたらしいし。とミッシーが引き取る。

 てなわけで、それがダイアナ・パトリシア・ドロワの経歴だ。あいつ、エリザベスと名乗ってからは一切公表してないし、する必要もなかったんだろう。英文学の知識も演劇の素養もクイーンズ・イングリッシュのアクセントも、ぜんぶ完璧だったからな。あいつが大学を出て一人立ちしてからは、エリーズの遺産も全額寄付して、俺とも連絡取らなくなった。言い終えたのか、チェイサーのグラスを傾けてもだすギヨームを前にして、それはちょっと……つらいですね。と漏らしてしまう。なんでだ? なんでって、距離があるとはいえ血縁をもって生まれた相手に、振り向いてもらえないなんて……と継ぐと、いや、そういうもんでもないだろ。とにこやかに否定される。えっ。だって、子は親のもとを離れてくもんだろ。逆に、ずーっと娘にお父さんお父さんって執着されてたら、そっちのほうがつらいだろ。と言われて黙り込むあたしの顔を見て、ミッシーが噴き出す。え、おい、どうした? いや……なんでも……ないです。と、頬の火照ほてりを気取られないように片手で隠す。そうか。ま、むしろあいつは母親のほうに執着しちゃったんだろうな。エリーズとエリザベスって、名前が名前だし。笑みを絶やさずギヨームは言う。が、今になって考えると、あいつ……ずっと母親のツケを払ってたのかもな。英国贔屓のフランス人、ですらない、完全な英国人。藝術家のパトロンではあったけど自分で表現はしなかった母親の代わりに、英国の藝術を極めてみせるんだって……ただそれだけのためにやってたのかもしれない。文学も演劇も、今やってることも、全部な。

 ふいに沈黙が訪れる。親のツケを払う、か。それはたぶん、あたしもそうなんだろう。父ができなかったことのツケを、別のかたちで……それと同じことを、エリザベスも。と無体に乱れゆく想念を片付けて、それより、いまあたしたちに話したことを、ウェンダにも教えたんですか。と訊く。そうだよ。なんでですか、誰にも知られたくなかったことのはず。それはそうだけどよ……別にいいだろ、あいつが選んだパートナーなんだし。頬の半分で笑うような顔。ウェンダ・ウォーターズ、色々あったって聞いてるけど、あいつが選んだ相手なんだろ? ならいいじゃねえか。悪くないもんだよ、手前勝手でどうかしてるパートナーに振り回されてみるってのも。あいつも大人だ、自分の相手くらい自分で見つけるさ。

 黙り込むあたし、の傍らでミッシーは笑っている。そうですね。じゃ、これでウェンダに話したぶんは全部ですか。ああ、わかりやすかったろ? ええ、とても。ただ……あとひとつだけ質問があるんです。なんだ。ミッシーは静かな深呼吸をひとつ置き、あなたは、今も……曲を書いてるんですか。それを発表するつもりは、一切ないんですか。といつになく冷静な声で問う。ギヨームは苦笑混じりの呼気ひとつ、えよ。とこたえた。俺が聴きたい曲を俺のためだけに作る、それで完璧じゃねえか。もう、聴かせたい相手もいないしな。ダイアナが小さい頃何度か弾き語りしたことあったけど……もう憶えてないだろうな、あいつ。それでいいんだよ。子どもは親のもとを離れてくもんだろ。


 わたし、あの人、好きだな。北埠頭駅でギヨームの背中を見送りながらミッシーは言う。明日は仕事だ、やけに客人の多い休みだったが、あんたがたと話せてよかったよ。ってさ、ああしてまた自分の住処すみかに帰って、ひとりで仕事を続けていくんだろうな。ああ。ヒメ……やっぱさあ、勝てないんだよなあわたしら。音楽を聴かせることを自分の仕事にしちゃったやつらは、ああいう人らには一生……馬鹿言うな、勝ち負けの問題じゃないだろ。いや、あるんだよ勝ち負けは。どうしても勝てない相手ってのは、いるんだよ。そう、か。まあ、ミッシーが言うなら仕方ないが……

 と、発車とともに通知音が。なに……音楽ニュースサイトの見出し。Innuendo……の公式サイトが……え? おい、ミッシー。なに。これって……あいつ、まさか。




 いた。立って、いた。位置情報のとおり、ブラックプールの北ビーチに。さすがにこの時間帯になると観光客も少ない、が、まさかずっとああして待っていたのか。ウェンダ。波打ち際に佇んでいる、その背の高い後ろ姿に呼びかける。振り向くと、あの憎らしい小癪な顔。みすぼらしいナイキとニューバランスで変装しても、あの怜悧かつ典雅な雰囲気だけは隠しようがなかった。やあダイアナ。その呼び方はやめなさい。それより……どういうこと。スマートフォンの画面を突きつけ、どうしてこんなことを。私の過去の経歴を勝手に暴いて、あまつさえInnuendoの公式バイオグラフィとして公表するなんて。と問い詰めても、ウェンダは依然としておもちを崩さない。君は咎めるのか? 一週間、この事実を洗い出すためだけにマンチェスターの街を這い回っていた私の労苦を? そんなこと……誰も頼んでない! そうとも、誰に頼まれたわけでもない。私が独断でやったんだ。大変だったよ、幼少期の君を記憶しているかもしれない書店や文具店やバーバーショップの聞き取り調査から始めなくてはならなかったのだから。そんなことはどうでもいい! ウェンダ、あなたがしたことはプライバシーの侵害以外の何物でもないわ。明白な犯罪行為として告訴することだってできるのよ。言いなさい、なぜこんなことをしでかしたの! 君のことをもっと知りたいからだ。

 沈黙。

 なん、なに、今こいつ、何を言った。目の前の相手は寸毫も表情を崩さず、なぜ隠していた? と、あべこべにこちらを問い詰めるように言う。なぜ今まで隠していたんだ。君はイングランドに生を享けたフランス人だが、自力で学び取った演劇と文学の技術で大成したのだろう。素晴らしいことじゃないか。エリザベス・エリオットという芸名を名乗ったこと自体は何も悪くない。しかしなぜ君は、それ以前の、ダイアナ・パトリシア・ドロワの経歴自体も埋葬しようとしたんだ? 母上や父上に失礼だとは思わないか? 何を……知ったようなことを。知っているさ、じかに君の父上からうかがったのだから。娘は母を超えたかったのかもしれない、とね。それが目標だったのだとしたら、君は自身の実力でかなりのところ実現させたろう。ならば、なぜ誇らない? なぜ自分の生まれ育ちを隠したまま、エリザベスのやくだけに執着している? 黙りなさい……黙らないよ、残念ながらね。私は厭うわけにはいかないんだ、君を「王」に仕立てるための労苦なら。今となっては、君は丸裸だ。フランス人の間に産まれたことも、生粋の英国人ではないことも、すでに世間の知るところとなった。ようやく君を裸形らぎょうに剥くことができたよ。さて、ここでひとつ問わせてもらおう。今の君は、いったい誰なんだ? ダイアナ・パトリシア・ドロワか? それとも、エリザベス・エリオットかね? いま私の目の前に立っている相手は、いったい誰なんだい?

 ふざ、けやがって。どうして、どうしてこうもさかでる。私が望みもしないことを、まるで誠心からの挺身のように。どうして、こいつは、ここまで。唇が動かない、何も言うことができない。のを見て、突如として背を向け、ウェンダはニューバランスのスニーカーのまま波打ち際を踏み越えた。脹脛まで海水に浸り、立位のまま振り返り、私のまなじりいちもんに見据え、口を開く。

 来いよ、クソアマ。私にいっむくいられないお前なんか、波にでもくれてやる。


 私を……

 私を、

 私を誰だと思ってる!! 誰? ダイアナ・パトリシア・ドロワだろう? 君のプロフィールなら誰でも知っているよ。違う! じゃあ、エリザベス・エリオットかい? 信頼していたパートナーに裏切られて、ライバルだったはずのアイルランド娘にお情けをかけてもらった、今や天下万民のお笑い草であるところの女王陛下か? 違う!! じゃあ誰だ、と訊いているんだ。けっきょく君は誰でもない。どれだけ良い大学を出ようと、天才女優として名を馳せようと、χορόςで世界的な名声を勝ち得ようと、未だに何者でもない娘っ子だ。自分自身の経歴にケリをつけることすらできない、宙ぶらりんの道化師だ。まったく性質たちが悪いな、笑えない道化師とは。黙れと言っている!! 黙らないよ、私は君の頭の中の声だ。一度だって止んだことがあったかい? 半生をなかったことにしたまま進み続けて、良心の呵責がんだことがあったかい? ウェン……あっ。ほら不注意だぞ、浜辺には小石だけでなくガラス片も散らばっている。履いていたサンダルはどうした? 波にさらわれたか? こんな浅瀬で足をとられて、まともに立っていることすらできないとは、大した女王陛下もあったものだね。うる……さい!!

 あ。

 当たった。当たった! 当たったわ!! ざまあみなさい、私を挑発するからよ、この流麗な御御おみあしがあんなハイキックを繰り出すなんて、想像さえ……あれ。ウェンダ。ウェンダ? まさか、うそっ。動か……うそ、うそでしょ。たしかにびっくりするくらい的確に側頭を撃ったけど、まさか死ん……と危ぶみながら歩み寄る私の裸足を、波打ち際に横たわる長身の右腕が迎える。

 できるじゃないか。それだよ my dear. 君の赤剥けになった姿が見たかった。その顔が、綽々たる余裕が剥げ落ちた顔が。なに……言ってるの。あなた、こんなことをさせるためだけに。そうだよ my dear. 長かった、とても長かった。君に見初められたその日から決めていたんだ、いつかこうして裸にしてみせるとね。ちが……ちょっと、その手を除けなさい、足をさするのやめなさい。やめないよ。私たちは逆転し、ふたたび逆転した。もう上も下も意味を持たない。裸足で踊ってごらん、 my dear. 逆立ちもすれば、もっと良い。するもんですか。




 位置情報の通りに北ビーチに赴くと、ふたりいた。あれたぶんウェンダだよな、身長でわかる。あの寝巻っぽい姿はエリザベスかな、なんでふたりともびしょ濡れなんだ。まさかあの格好で泳ごうとしたなんてこと。あ……とこちらの姿を認めると、茫としたまま視線を逸らさず歩み寄ってきた。

 さ、帰るぞ。言いながら、とっぷり暮れた夕陽を補うために、スマートフォンのライト機能で足元を照らしてやる。あなたたち、なんでここに……おのみちから頼まれてな、血相変えて出て行ったエリザベスを連れ帰れと。言われると、気恥ずかしくなったのか足元のライトに視線を逸らす。ていうかウェンダ、明らかにわたしらが追うように仕向けたよねえ? おのみち宛にメール送ったのもそういうことでしょ? 微笑しながら詰問するミッシーに対して、ウェンダはいつも通りの沈黙でむくいる。まったく、公演の前日に風邪ひくようなこと……せっかくだから売店で代わりの服と下着でも見繕ってくか、パトリシア? と言うと、流石に反射的に視線をこちらへ向けた。えっ……!? まさか、仇敵だと思ってたやつと洗礼名が同じとはな……なんだかもう、いよいよどうでもよくなってきた、当初お前に抱いてた敵意とか……言われてすぐにまた視線を逸らす。ライトを顔に当ててやる。片手を押し付けて光を遮ろうとする。あはは、じゃあみんなで帰ろー。一応言っとくけど、ShamerockとInnuendoが一緒にいるわけだから、車内の大パニックは避けられないと思って。しかもなぜかびしょ濡れだしな。ちょっとウェンダ……やっぱり着替えましょう。私はこのままで構わない。よかあないわよ、グズグズのスニーカーで電車乗る気? はしたないし磯臭いでしょう。磯臭いのは君もだ。っはは、じゃあ海水浴場のシャワー寄ってくか、まだいてるのかわからないけど。まったく、ほとほと世話の焼ける……なに、子どもみたいに言わないで、歳下の分際で。いいさいいさ、好きなだけ発砲したまえフランス人。フランス人……だけど! 何が悪いの!! あははは、なーにも悪くないさ。フランス人であることも、アイルランド人であることもね。もちろんウェールズ人であることもな。私はイングランド人だよ、移り住んで三代続いているのだから。ほんとめんどくさいなこのメンツ……あなたにだけは言われたくないわ。




 気分はどうだ。どうって……あいつらのホームグラウンドだから、花を持たせてやっただけよ。そうじゃない。何。初めて、全体の自分としてステージに立った気分は。何それ……いつだって全体だったわよ。今までは半分だけだったじゃないか、エリザベス・エリオット。今や誰もが君の本名を知っている、その経歴も。すべて知られてしまった後で舞台に立つ、その気分はどうだった。別に……何も変わらないわ。私は私を演じ通すだけ、今までと同じにね。「本当の自分」なんてくだらない幻想、私には何の意味も持たないんだから。そうか……それでは新たに始めよう、Innuendoはここから始まる。あと三公演しかないのに……ふん、まあ十分だわ、ここから英国われわれの天下を取り戻す。マンチェスター公演から英国われわれの独壇場よ、見てなさい雑魚ども。それでこそだ my dear. その呼び方やめなさいってば。では、どのように呼ぶべきかな。エリザ……うん……この呼び方もしゃらくさいわね。なら、リズ。リズと呼びなさい、ウェンダ。この名は特別よ、誰にも呼ばせたことがないんだから、父親にさえね。ふふっ、心得た。ではリズ、次の準備を始めよう。私は君を「王」に仕立てるためなら何でもする。また君を揶揄からかうことになろうとも、私の諷刺に腹を立てるなよ。ふん、小賢しい。むしろ次はあなたが笑われる番よ、ウェンダ。仕立屋の小才子気取りなんか、女王の余裕と風格で笑い飛ばしてやるわ。


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