19 Clothes to Me


 演技だったと思うんですよ。なにが? 何がって……話聞いてました? ハムレットの狂気が、です。そりゃ演技だろう、俳優が演じてるんだから。そうじゃなくて……ああもう、シェイクスピアが書いた登場人物であるハムレットの狂気は演技によるものだった、という意味です。それ以外になんかあんのか? あるでしょう、そもそも父の亡霊はハムレットの妄想が作り出した幻影だった、って線が。そこまで考えなきゃいけないのか。当たり前でしょう、現在に至るまで様々な評論のテーマになってるんですから。わかんねえよ、デンマーク人の考えることなんか。それよりお前、来月誕生日だろ? なんか欲しいもんないか? 私と対等に話せる程度の知性を備えた父親が欲しかったです。言うようになったねえうちの娘も……ホリーズとかバズコックスとかの話ならいくらでもできるけどな。ああもういいです、あなたに話した私が馬鹿だった。じゃあ今日は、はい、これ、ここにサインだけください。なに? 裁判所提出用です。実の娘に訴えられるのか俺は、シェイクスピアっぽいな。違います、大学に入る前に改名を済ませるので。え、そんな簡単にできるのか? 自分が住んでる国の法体系すら知らないんですか。はい、ここにサイン。ん……ほい。エリザベス・エリオットか。そうです。いかにも英国ーって感じの……あれ、このエリオットのスペルって『荒地』のやつだよな? あいつアメリカ人じゃなかったっけ? 移住したなら英国人でいいんです。植民地主義だなー……ん、いや違うか、他所よそから移ってきたやつも全員うちの国民、ってことは、被植民地主義? いや、単に帝国主義か? オスマンってそうだったんだっけ? 知りません。このパウンドケーキ、食べないのならもらいますよ。パウンドって何人なにじんだっけ? イタリア? どうでもいいことです、パウンドは詩人として二流ですから。編集者としては一流ですけど。冷たいよなー……ジョイスの『進行中の作品』読まされて「脳軟化症だろこれ」って真剣に心配したのって、パウンドだっけエリオットだっけ。どちらもじゃないですか。でもわかる気するよな、本人は大真面目なのに狂気としか見てもらえない……ハムレットもそうだったんじゃないか? えっ? 狂ってたとか演じてたとかじゃなくてよ、単に大真面目だったんじゃないか? そいつの中で一貫しすぎてるから気狂いに見える、みたいな。ああ、確かにそれは……ポローニアス殺害の場面とか。だよな、あれ明らかにやらかした後で動揺してるもんな。狂ってたからやったんじゃなくて、やった後で狂ってると気づいた。てことはだよ、演技も発狂も本質的には同じなんじゃないか、順番が違うだけで。順番? 役は同じでもカードが配られる順番は違う、みたいな。ええ……いきなりすごく下手な比喩を……なんだよもう、わかったよ。やっぱ俺には難しくてわかんねえよ。あの……父さん。うん? ひとつだけ、訊いてもいいですか。おう。もし仮に、ハムレットが狂気を演じるのも、本当に発狂しているのも、本質として同じことだとしても、どうしたらよかったんでしょうね、周りの役者は。周りの? ホレーシオとかフォルスタッフとか? フォルスタッフは違う劇のですけど……演じていることを演じている人がいたら、ただ演じている人はどうしたらいいんだろうって。どうしたら、ねえ……そりゃ、信じてやるしかないんじゃないか。信じる。ああ、これから狂気を装うから話を合わせてくれって頼まれたら、もうそうするしかないだろ。たとえガチで狂ってるとしか思えないとしても、信じてやるしか。そう……かもしれませんね。ありがとう、たまには良いこと言うんですね。そうかい、じゃあまた一週間元気でな。あの、私、近いうちにハムレットを演じることになるので……今日の会話がヒントになるかもしれません。そりゃいいな、女のハムレットか、ハムレッタ? いえ、役はふつうのハムレットで、私が演じるだけです。なん、保守的なのか革新的なのかわかんねえなそれ。ふふっ、じゃあ、またね父さん。おう、頑張れよ。




 あの手袋どこやったっけ。いつまで着けてたかな。たぶん三月。いつのまにか着けなくなっちゃったな、そりゃそうだ初めに乗ったのは一月。さすがにデッキは肌寒かったしな。釜山から博多までの航路、あまりにもやることなくて暇つぶしにしたんだ、逆の手袋着けるやつ。くー、みー。まだを知らなかった頃のワタシ、には戻れない。戻りたい? 特には。しかしよく考えたら、いやよく考えなくてもだが、は素数ではない。三で割れる。あのユニットが三人組なのもそういうことか……いいな、なんかずるいな。は素数だから。母はそういう含みで名付けたのか。わかるはずもない、が、これだけは確かにわかる。正午から一〇じゅっ分ほど過ぎたら、アナタがやってくる。

 おーっす。こんにちは。昼、二番キャビン、喫煙所。ワタシとアナタ。いつも通りだ。そう、いつも左ポケットからタバコを取り出す。右ではいけないらしい。なんでだろうと考えたところ、左手で箱から一本取り出したあと右手のライターで着火するまでの流れをスムーズにするための型だとわかった。のは、二月くらいだったか。左手で一本取り出すときも指でつまんで取り出すのではなく、開けた箱をくっと振って器用に一本だけ飛び出させる。その仕草は実際ウナギ漁を思い出させ……ない。そもそもウナギ漁について何も知らない。はなぜかタバコの吸口すいくちに手で触れたがらない。なんでだろう、案外潔癖症なのかもしれない。いや、潔癖症の人がタバコなんか吸うだろうか。もいる? いえ。日陰で座り込むワタシを見下みおろしながら笑う。なんかそーやってずーっと見られてると吸いたいのかなーって思っちゃうよ。そんなに見てましたか。まあねえ。一本目の煙を吐き出しながら座位に移る、ぐーっと両脚を伸ばして。ワタシは膝を折っていしきと足裏をつけているだけ。は脚を地べたにつけることに抵抗がないのだ。なぜだろう、いやもだが、ワタシのこのくせ何時いつついたのだろう。北インドの頃からそうだったか。虫に刺されるのが鬱陶しかったから膝を折って寝る癖がついたか、と当てにもならない記憶を手繰っていると、もうあと三公演で終わりだねえ、とが言う。そうですね。正直ね、わたしもう誰が勝ってもいいじゃんと思ってるよ。ずいぶん微温ぬるいことを言いますね。だってさShamerockはこの前のエディンバラが今までで一番良かったし、シィグゥも一体どんだけ新曲作るんだよって感じだし、Defiantも毎回ステージ演出ヤバいしさ、そんでInnuendoもついに復活した。ってなればわたしがわたしがってガツガツする気なくなっちゃうよ。そういうものですか。うん、それに……とは灰を落としながら、わたしがここまで来たのは、のためだったからね……海外を巡れば会えるんじゃないか、ってぼんやり期待して。と船外の地平線を見つめながら微笑する。そんでダブリンのあれがあったわけだから、もう果たされたようなもんだよ。果たされたって……あの時ダブリンに母がいたかもしれない、ってだけでしょう。そうだけどさ、直接会わなくてもいいんじゃないかなって。が離れていてくれたからこそ、わたしはここまで来れたわけだし……と右目だけワタシに向けるの指先で、タバコは半分燃え尽きている。いいな、この指が好きだ。正確には手首から手の甲を過ぎて五指が伸びているあたりの区間が。くすんだはだえにうっすらと筋骨すじぼねが浮かび上がっている、その構え自体がひとつの楽器のようだ。ワタシのとはずいぶん違うな、のはもっと実用に耐えうるというか、がっしりしてるというか。の手ってしっかりしてますよねこの船に乗る前はどんな仕事してたんですかやっぱり重いものを持ち上げる類のですか、と今ここで言ったとしたら正気を疑われる。脈絡なく話をするのはよくない。それはワタシではなくの領分だ、いきなり常軌を逸したり脈絡を欠いたりするのは。だからワタシは、それでは証言までした甲斐がありませんね。と不機嫌を装って視線も合わさず言うしかない。ああ、警察にでしょ? 一体どんなこと言ったの。紛争地を渡り歩いてる人身売買業者だと。ひでえな、真っ赤な嘘じゃん。真っ赤でもありませんよ。えっ。だって、ワタシたちがあの人の何を知ってますか。ああ、まあ……ね。そもそも誰かのことを全部知るなんて無理だもんね。そういうことですよ、ワタシは架空のキャラクターをでっちあげただけです。多少センセーショナルなくらいがちょうどいいでしょう。あいつが警察に引っ立てられたらウケるなー。まずないでしょうね、指名手配された時点でもうダブリンには居なかったでしょうし。

 ふうっ、と煙を吐きながら一本目をにじっている。また同じ仕草で二本目を取り出し着火すると、あっそうださ、と言いながら懐のポケットに手を入れる。なんですか。ちょっと作ってきたんだよ、はい。平たいものが渡される。あらためると、CD-R。ラベル面には黒いペンで「47」とだけ書かれている。曲、選んできたんだよ。ワタシのために、ですか。うん。ここで話してて思ったけどさ、って歴史とか宗教とかについては話せるのに音楽は全然じゃん。まあ、もとは母の知識の受け売りですから……うん、だからもっと聴いてほしいなって。いろんな意味でに合うだろうなーってのを選んできたから、ヒマなときにでも聴いてよ。四七よんじゅうなな曲入りですか。ぶはは、さすがにそんな入んないよ。と煙を噴き出すの笑顔を正面から見つめ、ありがとうございます。と言うことはできた。

 しかし珍しいですね、アナタから贈り物なんて。だって、ぜんぶ終わったらとも離れちゃうわけだし……寂しくてこれを、ですか。なんだその半笑いー。あーそーだよー、だって寂しいでしょ? ええ、そうですね。寂しいですよ。

 えっ、と咳き込むように言ったからおもてを離し、遥か遠くの水平線を眺める。不織布スリーヴからディスクを取り出し、真ん中にぽっかり空いている穴に左手の薬指を突っ込む。日陰ながらに放射状の光暈を湛えている円盤を見ながら、ああ、これが別のものとして指に纏わっていてくれたらいいのに、と思った。もちろん、口には出さなかった。




 おのみちですが。おや、部屋の内装が変わっている。そうだ、今ではあのエリザベスと共同なのだった。やあおのみち、こっちだ。声の方へ向き直り、三歩ほどの距離を詰める。いかがなさいましたか。活動素体の眼では久々に見るウェンダ様のお顔。の脇で、何やらおもてを伏せて椅子の背もたれにかっている肢体。単純な用だ、彼女の健康診断を頼みたい。健康診断……たしか、今月の頭に済ませたはずですが。と確認すると、ああ、そうなのだがね。先ほど稽古中に……何というか……突然に体調が急変して。ウェンダ様らしくもない途切れ途切れの構文。急変、ですか。健康診断用の機材は船員室ですので、移動せねばなりませんが。ああ、頼むよ。リズ、立てるかい。リズ。聞き憶えのない名前、親称というやつだろうか。ええ……と鈍い呼気を漏らしながら、エリザベスは起立する。助け起こすわけでもなく中空で静止しているウェンダ様の指が、やけに所在なさげに映った。


 脈拍、体温、血流……ホログラム表示の計器すべてに目を走らせる。いずれも、平常のエリザベスのデータと大差ありませんが。と言うと、ああ、そのようだが……この機材ならもっと詳細な検査もできるだろう。可能な限り調べてくれないか、とくに脳の異常など。と返される。はい、やってみますが……そしておのみち、君はエリザベスと呼び捨てにしているが、私に様をつけるなら彼女にも同様にしてくれないと困る。それが嫌なら、私も呼び捨てにするべきだな。私とリズは対等の存在なのだから。となじられ、はっ、はいっ、失礼いたしました。リズ様、のご容体をもう少し詳しく調べさせて……と早口で返すと、リズは私だけに許された呼び名だ、エリザベス様、でよい。と釘を刺される。はい……


 ご覧の通りなのですが……言いながら、ウェンダ様の前にCTスキャン結果の画像群を表示し、どの検査でも、別段異常と言えるような箇所は見つかりませんね……と端的な事実を述べる。うむ、そのようだな……脳神経の異常でもないし、循環器系の発作でもない、か。わたくしはそもそも医者ではないので、確言はできかねますが……今回の検査で得られたデータを保存しながら、数秒間の沈黙。ウェンダ様は右手を顎に当てながら、ホログラム表示を虚心に眺めている。では、身体の疾患とは別の事由と考えるしかないな……はい、おそらくは。あの……ウェンダ様。なんだね。稽古中に体調が急変した、と仰っておられましたが、具体的にはどのような。ああ……短く息をき、ホログラム表示をシャットダウンする。ここまで協力してもらった以上、君に言わないわけにはいかないな。ただ、このことは他の乗船者たちには秘密にしてもらいたいのだが……もちろん、口外いたしません。ウェンダ様は依然としてたたずまいを崩さず、前方のスキャン装置に横たわったままのパートナーに視線を注ぐ。

 性的絶頂、だよ。えっ、と、聞き違いか。聴取した音声データから辞書機能を立ち上げる。性的絶頂。鸚鵡返しに言うと、ウェンダ様は視線を合わさず頷く。 orgasm, という意味のでしょうか……他にどんな意味があるんだね。まあ、そうですね、それしかありませんが……と、またふいに沈黙が。ウェンダ様は厭わしげに首を振りつつ、先ほど、ふたりで稽古をしていたんだ、『Clothes to Me』という劇のね。と淡々と述べる。劇。ああ、次のマンチェスター公演で披露するための。その最中にいきなり、ああなってしまってね……と呟くように言うので、ああなって、とは。と問わざるを得ない。私がリズの肌に触れた途端、いきなりだった。『Clothes to Me』は、シュミーズにドロワーズ姿のリズに私が手ずから衣装を着せてゆく、その様を見せる無言劇だ。まず座位のリズに最初の一枚を着せるのだが、指が触れた途端、崩れ落ちてしまって……何かの発作だろうかと疑ったが、落ち着いたあと当人に訊いてみると、どうもそのようなものではなかったと……気を取り直してもう一度やってみると、全く同じことが起こった。まさかこれは、と信じ難く思ったが……認めざるを得なかったよ、リズの身体に起こっているのは癲癇的な発作ではなく、純粋な性的絶頂だと。

 沈黙。

 えっと、それでわたくしに診断を……ああ。どこか器質的に異常でもあればそのせいにできたが、ここまで平常通りとはな……どう思う、おのみち。えっ、いや、わたくしなどにわかるわけがありません、人間の、性感のメカニズムなど。そうだな……とりあえず、今回の診断で得られたデータを私に送っておいてくれ。はい。先程も念を押したが、今回のことはくれぐれも内密にな。はい、もちろんです。




 カモミールティーでいいか。ええ……おねがい。いつもなら練習後に茶など勧めないが、スポーツドリンクの類は先ほどから飲ませているのだ、リズの心身を慰撫するためには止むを得ない。ほら、リズ……立てるかい? ええ……無理はするな、床に伏したままのほうがよければそのままでいい、クッションも持ってこよう。うん……ごめんなさい……謝るようなことは何も無いよ。言いながら、リズの右脇腹にクッションを差し挟む。茶器を卓上から床に移すと、申し訳なさげにティーカップを持ち上げる。

 動転することはない、初日の稽古だ。ゆっくりとあの劇に慣れていけばいい。と労うも、慣れるって、どうやって……とティーカップの立てる湯気の中で唇が動く。君ほどの女優であれば造作もないことだろう、ふんちょっとの無言劇くらい……と途中まで口にして、しまった、と気づく。さかでてしまうか、この言い方では。そんな造作もないことすら覚束おぼつかない自分は、と──ウェンダ。なんだい。膝を折って屈み込む私に、リズは視線を上げて言う。本当に、何もなかったのよね……私の身体には、何も。ああ、診断結果に異常はなかったよ。なのに、私、こんな……言いながら、未だにふるえている左手の指先を見つめる。こんなことになってしまって……心配するなリズ、きっと一時いっときのことだ。どうしてそう言い切れるの……どうしてって、こんなことがいつまでも続くわけないじゃないか。きっと私が書いた筋書きのせいだろう、まだ君には……と、まずい、私の左手がリズの右肩にふれそうになる、のを、眼下の右手が痙攣的に払いける。その指が支えていたティーカップが、音を立てて床に転がる。

 ごめん、なさい……何を言う、私こそすまなかった、つい……タオルで拭おうかと思うと、既にクッションのカバーがこぼれたカモミールティーを吸い上げていた。その滲みの広がりを漠と眺めながら、リズは視線を合わさずに言う。ウェンダ……なんだい。私の身体の問題じゃないのだとしたら、これ、もしかしたら……悪魔憑きなんじゃないかしら。なんだ、急にカトリックみたいなことを。もとはカトリックよ……それによく聞くでしょう、修道女の性的ヒステリーとか……そんなのは一六じゅうろく世紀の話だろう。でも、いま私の身に起こってるこれも、同じことだとしか思えなくて……リズ、と継ぐべき慰めの言葉を案じかねているところに、突如として眼下の肉体が起立する。

 ウェンダ。なん、だい。遅れてこちらが腰を上げる羽目になる。今日は、もう、これっきりにしましょう……ああ、もちろん。稽古は明日以降ゆっくり──違うの、それも。えっ。リズはこちらを真正面から見据え、私たち、しばらく、離れているべきだと思うの……こんなことが起こってしまった以上は。離れてって、またあの部屋で過ごすのかい。違う。あなたはここにいてもいい……けど、私は帰ったほうがいい、と思う……マンチェスターに。リズの申し出の意味が、おぼろげながら察せられた。帰る、か。ええ、「Cabal」のためにもうけたビューローがあるから、そこでしばらく過ごしたい……気持ちが落ち着くまで。そう、か。ごめんなさい、公演まであと五日もないのに……いいんだよ、リズ。君の安らぎを最優先にしてくれ。こちらを見つめながら小さく頷き、かならず連絡するから……逃げたままではおかないから、あの劇から。と小声でしかし自恃を失わない語調で言った。ああ、もちろん。じゃあ、もうたなきゃ。駅までは送るよ。大丈夫よ、まだ陽も暮れてないんだし。着替や日用品は全部あっちにあるから、荷物もないし。そうか。じゃあ……と先導して扉を開けようとする右手、がふいにリズの右手と重なりそうになり、双方とも反射的に身を逸らした。


 いつまでも続くわけがない。自分に言い聞かせながら、手を振ってリズを見送る。しかし、数日経ってもこのままだったら。どうすればいい、どう解決すれば。悪魔憑き、とリズは言った。解剖学的に説明できない、なにか精神的な失調。そのような事態の解決など、私の手に余る。そもそもなぜ私はあの劇を提案したのだろうか。もちろん、私がリズを造る営み自体を作品として打ち出すために……よう。と、正面からの声に身がたじろぐ。見れば、メリッサ・マッコイである。ああ、君か。どしたん、えらい考え込んでたみたいだったけど。と微笑する人を前にして、なんでもないさ、と遮る物言いが後手ごてめく。さっき会ったよ、エリザベスに、そこ降りたとこで。と昇降口を指差しながら言い、なんかすごい憔悴してるように見えたけど、大丈夫? とこれは正真の思いりなのだろう、先ほどの笑みが既に失せている。大丈夫、なはずだ。はずだ、か。またなんかやったんじゃないだろうね。違うさ、ただ劇の稽古をしていただけだ。といやに饒舌な自分を遅れて発見する。劇、ねえ。どんな? 君にそこまで説明するいわれはないだろう。まあね。てことは、Innuendoは今度のライブで劇やるのか。エリザベスならお手のもんだろうね。いや、すべて私がプロデュースした劇だが……とまた口を滑らせてしまい、ふーん? と、これは明らかに意地の悪い笑みを向けられる。もしかしたら、やっちゃったんじゃないウェンダ? 何をだ。軽率なことを、さ。だってウェンダ、あんたファッションのプロではあるけど、演劇に関してはズブの素人だろ? 自分の本領をウェンダに奪われて、そのせいであそこまで憔悴しちゃったんじゃないの? まさか、そんなこと……あるわけがない、とは言い切れない。だってあんだけのことやってさ、エリザベス自身に何のダメージも無かったと思う? どんなトラブルが起こったのかは知らないけど、あんたがここ一ヶ月でしでかしたこととも関係あるんじゃないの? 関係ある、とわたしは思うよ。揶揄からかいの口調が叱責に変わっている。返すべき言葉も定まらず黙り込むこちらへ背を向け、ま、最後まで責任持つこったね。自分で決めたパートナーの問題も解決できないんじゃ、あんたはShamerockの敵じゃないなあ。と手をはためかせながら去ってゆく。

 言われるだけ言われてしまったな。溜まっていたものを吐き出す口実を与えてしまったか。メリッサ・マッコイ、彼女も彼女でなかなか陰険なところがあると思うのだが……などとくゆらせてもようがない。一番キャビンに戻り、物音ひとつない部屋に歩み入る。そうか、今夜は一人で過ごさなくては。不思議だな、この感覚はなんだろう。リズを追い出したあの夜とは、全く別様の何か。


 このように、触れられるまでは正常なのですが、とおのみちは画面上の映像をスロー再生しながら、ウェンダ様のお手が触れた途端、神経に過大な負担が掛かっているようなのです。と別画面に浮かんでいる数値の変化を指し示す。では本当に直前までは何の異常もなくて、私が触れた途端に達している。と詳らかにすると、それ以外には考えられません……とおのみちは引き取る。たしかに、睡眠も排泄も生理周期も、ここ数ヶ月はとくに乱れていないと言っていたしな……そう、ですか。あの、ウェンダ様。なんだね。AIのわたくしごときがこんなことを言うのは、まったくもって差し出がましいとは承知の上ですが……こうは考えられませんか、エリザベス様が貴方に対して並外れた好意を寄せているために、肌が触れた途端こうなってしまう、とは。あり得ないことだな。私たちは事務的な契約に基づくユニットだ、Shamerockなどとは違ってね。私はリズに衣装を与えること、リズは私によって新しい美を獲得すること、だけを目的としている。今回の劇だってその一環だ。我々は相手への好意などという私的な情緒を勘案したことは一度もない。と否定しても、やはりどこかごうりの言い訳めく。がおのみちは、そうですね、わたくしごときが弁えもなく、出過ぎたことを申しました……と恐縮したきり無言になってしまう。ふむ、こいつもなかなか人間らしくなったものだ、私とリズの関係を気遣うとは。そもそもこのAIに艶事つやごとなど理解できるのだろうか。

 おのみち

 はい。

 試しに今夜、私と寝てみるか?

 えっ。と言ったきり固まっている。私と寝てみるか、と言ったんだ。えっとウェンダ様、その寝てみるというのは……逐字的な意味での……? いや、逐字的な意味ではないほうだ。と返すと、一瞬のもだしののち、ふざけないでください!! わたくしがそんなことを望むとお思いですか! わたくしの、ウェンダ様への想いはですねっ、もっと、騎士的なあれなんです! と言う。騎士的なあれとは。こう、肉体的な欲望を必要としない、プラトニックな……プラトニック? プラトン的、ということか? プラトンの師であるソクラテスは大層な美少年いだったそうだぞ。ええ……? もうっ、とにかくっ、そんなことをわたくしに言わないでいただきたい! ふしだらなことです、あのきりしまならまだしも! ああ悪かったよ、そこまで拗ねないでくれ……ん? はい? きりしまならまだしも、と言ったか。ええ、言いましたが。前にもあれのことを悪し様に言っていた気がするが、そこまで軽蔑する理由があるのか? と直截に問うと、おのみちは妙にせせこましい挙措で、いやっ、まあ、同じ船で働いてますと、その、色々ありましてね……と視線を逸らしながら言う。色々、か。しかし、君はを指して「ふしだら」という形容を使ったが。はい……きりしまが性的に堕落していると判断するに十分な材料が、君にはあるというのだね? とまで言うと、おのみちは進退窮まった様子で、ああもうわかりました、降参です。関係してしまったのです、わたくしは。ダブリン公演の後に一度だけ……と破れかぶれに言う。関係、肉体的にか。ええ、もちろん……人間とAIでも出来るものなのだな。ええ、あいつがわたくしの中にわけのわからん細工をしてくれたのでね……それにあいつ、もともと売春をやっておりましたから……ん。おのみち、今なんと言った。売春、ですっ。どこの国だったか忘れましたが、軍人相手に身体を売っていたのだそうです。

 そうか。

 そうです。

 ということは、性感に関してプロなのか、きりしまは。

 え……それはまあ、そういうことになりますが。

 おのみち。はい。でかしたぞ、打開策が見えた。えっ、なんですか、何も大したことは。おのみち、今すぐこの部屋に来るよう命じてくれ、きりしまにな。ウェンダ・ウォーターズから頼みがあると。えっ……は、はい、伝えはしますが。なぜあいつなんぞに……?




 おはよう。と声をかけるが、正午はとうに過ぎているのだった。おはようございます。と、ビューロー一階でデスクに就いている五人ほどのスタッフから声が返る。皆一様に私の顔色を窺っているが、さほどの疲労はおもてに出ていないのだろう、おそらくは。自分で計れる限りの体温や脈拍も平常通りだったのだし。問題なのは、ひとたびウェンダの肌に触れてしまえば、ああなってしまうこと──エリザベス。と、いつのまにか右手をとられている自分を発見する。大丈夫だ、触れられても、この子には。なにかしら。よく眠れましたか。ええ、問題なくね。むしろ寝過ぎたくらいだわ、一〇じゅう時頃から作業を始めようと思っていたのに、だらしないことね……と通り一遍に応えると、エリザベス、頼まれていた衣装のストック、すでにクローゼットにかけてありますから。と向かいから声がかかる。ええ、ありがとう。えっと何を頼んでいたのだったか、そうだマンチェスター大学時代から「Cabal」までに使用した衣装の中で、今回の『Clothes to Me』と通じそうなテーマのものを集めたのだった。今から試着してみますか? いえ、まだいいわ。それより、しばらく二階のアトリエにいるから。と応えて背を向けようとすると、二階って、χορόςの演目のためですかっ。と咎めるような声。そうだけれど。エリザベス、せっかくここに戻ったんですから、ゆっくり休んだらいいじゃありませんか。一日オフを取ったって罰は当たらないはず。気遣いは嬉しいけれどね、と言いながら振り返ると、スタッフたちのおもちが一様にささくれ立っていた。あんなやつの企画のために、あなたが憔悴する必要はないはずです。と一人が言うと、居合わせた全員が調子を合わせて頷く。そうだ、快く思っていないのだ、この子たちは。「Cabal」、Innuendoよりも早期に私が発足したプロジェクトのスタッフたる彼女らは。たしか、あのウェンダ? が考えた筋書きを、次の公演で演じるのだとか。ええ、そうよ。確かにあの人の作る服はすごいと思いますけど、でも演劇に関しては素人じゃないですか。どうして付き合う必要があるんですか。それよりも演劇のプロであるあなたが書いたほうがいい。そうです。そもそも次の公演の心配なんか要りませんよ、このマンチェスターはあなたのホームなんですから。ホーム……ね。私がフランス人だってことは知られてるでしょうけどね。と苦笑しながら言うと、それもあいつのせいじゃないですかっ。と、目の前の一人が剣呑に迫る。あいつがあなたにしたことを思い出してくださいよ。途中で勝手にソロにして、そのあとあなたのプロフィールを頼みもしないのに公表して。はっきり言ってどうかしてます、芸能のパートナーとしての規矩を超えてるじゃありませんか。そうです。そう、なんだけどね……でも、私はウェンダに付き合う義務がある。どうしてですか、どうしてそこまでするんですか。

 室内に沈黙が流れる。言えたらいいのだが。「Innuendoのエリザベスを造ってくれたのはウェンダであって、あなたたちじゃない」と言えたらいいのだが。しかし、長年の付き合いで私のことを衷心から思いってくれる彼女たちのことを、無下に扱っていいわけがない。分別がつきかねている、と、唐突にインターホンが鳴る。はいただいま、と入口付近に位置していたスタッフがドアを開く。室内全員の視線がふいに釘付けになる。一〇秒ほどの門前応接ののち、あのっ、エリザベス。と小走りで私のもとに来るので、どうしたの、と私も歩み寄る。いえ、ゲストなんですけど……リストの予定には? ないんですが、なんだか頼まれて来たとか……その、ウェンダに。と不承不承に言う声。ゲストの名前は? 訊いたんですが、会えばわかるからと言うので。なんだかアジアっぽい感じの人でしたが……まさか、ツァイモォリィかしら。わざわざ気を遣ってこんなところまで……わかったわ、私が応対するから。と言って脇をすり抜け、入口まで到り、ドアを開ける。

 あっ。

 どうも、ウェンダ様の命を奉じて馳せ参じました。と悪戯な笑み。なんで、どうしてあなたが。とつい漏れた隻句に、疼きを止めるためですよ、女王陛下。とにっこり笑いながら返す。ワタシはその道のプロですから。




 こう、かしら。アトリエに備え付けの、人口皮革張りのマットに寝そべる。てっきり『Clothes to Me』の練習を請け負ってきたのかと思っていたら、そういうわけでもないらしい。もちろん芸能と無縁なきりしまが私を指導するとしたらそちらの方が業腹だが、かといってこうして曖昧に横臥しているのも決まりが悪い。そうそう、できるだけリラックスすることです。と目の前の相手も同じマットの上に寝そべる。あの、。はい。そもそもこれ、なんのレッスンなの。さっきも言ったでしょう、アナタのオルガスムをコントロールするための、ですよ。と指を振りながら言うのだが、まさか、私と寝るつもりじゃないでしょうね。と当然の疑懼を投げざるを得ない。まさか、アナタの身体には興味ありませんよ。と慇懃に無礼なことをつるりと言う。ただ、頼まれたのでね、ウェンダ様に。身体を任せることのプロであるワタシなら、アナタの呪いを解けるだろうと。えっ。プロ……ってことは。ええ、ワタシ昔、売春やってましてね。と、やはり鮸膠にべもなく言う。売春……そんなに珍しいものじゃないでしょう? セックスワーカーなんて世界中にいるじゃありませんか。とくにこの街は売春婦殺しの事件で世界的に有名でしょう。いや、切り裂きジャックの犯行はロンドンであって、マンチェスターは関係ないわよ。そうですか、それは失礼。と言いながら頭の後ろで腕を組む相手に、じゃあ、私の身に起こったことは聞いてるのね。と問い質す。ええ、ウェンダ様から直々にね。要するにワタシは、アナタの身体の一部を矯正しに来ただけです。アスリート相手の指圧療法みたいなもんですよ。とやけに要領のいいことを言うが、具体的には、何をやるの……と問わざるを得ない。するときりしまは、私の目の前まで顔を寄せて、くすぐるような声で言うのだった。

 簡単ですよ、アナタに学んでもらうことは一つしかない。アナタの身体はアナタのものじゃない、ということです。


 ……そして最後の一枚を身に纏って、ステージ奥に向き直る。すると私たちふたりの姿がバックスクリーンに大きく映されて、外部の照明が暗転。そうして劇も終わり。なるほど、案外シンプルですね。と耳元で言うの声にすっかりくつろいでいるのは、これはどうしたことか。単に彼の、いや彼女の按摩の技術が存外に高かったせいなのかもしれないが。しかし斬新なのではありませんか、衣服を脱ぐのではなく着ていくだけの演目とは。と腹斜筋を揉みほぐしながら言うので、そうよ、鋭いわね。実はモーリス・ベジャールが八五年に上演した『サロメ』がもとになっているの。と舌が滑る。従来の『サロメ』ではヴェールを脱ぎながら踊るのだけど、逆に一枚一枚服を纏っていく。音楽も凡庸なシュトラウスではなくリッカルド・ドリゴの『フローラの目醒め』。今回の『Clothes to Me』でも同じ曲を使うのよ。そうですか、ワタシは音楽には明るくありませんが、戯曲なら多少はわかります。聖書をテーマにした劇、ですよね。そう、正確には旧約から新約への過渡期だけれどね、ヘロデ王の子の代で、イエスはすでに生まれているから。『サロメ』、ですか。ではなおさら簡単なのではありませんか。なにが? 言いながら、幾分背の低い身体のほうへ向き直る。あの劇は、何よりもスペクタクルをテーマに据えているでしょう。ユダヤ教からキリスト教へ、一神教が視覚文化へとかしいでゆく時期ですし。と言うので、そう、そうなのよ。その複層性が『サロメ』最大の特質。とつい声に力がこもってしまう。あなた、よく解ってるわね。この劇に関しては。母が一家言持っていたのでね。へえ、のお母さん……いったいどんな人かしら。とても聡明な方でしたよ、アナタの母上と同じくらいにね。ふふっ。とつい笑みが漏れる。

 それではエリザベス、と言いながら右手をとる。ここから意識してください、アナタの身体はアナタのものではない、とね。それさっきも言ってたわね、どういうこと。言葉通りの意味ですよ。そうだ確認していませんでしたが、性交の経験くらいありますよね? あるに決まってるでしょう、言うほどでもないけど。と返すと、異性とだけ? と軽く問われるので、まあ、遊び程度なら、同性とも何度かあったわね……学生時代に。とだけ答える。そうですか。まあ誰が相手でもいいのですが、オルガスムに達した時のことを思い出してください。うん……その時エリザベス、アナタは生きてると思いましたか、死んでると思いましたか? 何その問い……どちらでもないわよ。と撥ねつけるように言うと、そうですね、それが一番正しい答えです。と笑う。なんだか世の中には、性行為に過分な意味を求める人々もいますがね、生きながらにして死ぬ行為それがセックスである、みたいな。プロとして言いますが、そんな大したもんじゃない。あまりにも夢想が過ぎるというものです。エリザベス、アナタがそういう手合てあいじゃなくて安心しました。ふふっ……褒められてるんだか見縊られてるんだか。ともあれ重要なのは、自分の身体は自分以外の誰かから与えられたものだということです、このことを免れている人間などいない。そうね、原理的にそうなるわね。誰かに出産してもらった結果が自分だということもそうですし、自分の姿を視たければ鏡という装置を使うしかない。しかしその像にしたって左右が逆で、厳密には自分自身ですらない。淡々と筋道立てていくに頷きで応ずる。でも、結局何が言いたいの。簡単じゃないですか、エリザベス。いまワタシはアナタを視ていますが、ワタシが視ているものはアナタには視えない。逆の立場に置き換えたって同様です。つまりこうして、と互いの両手を正面から握りあう。お互いの欲望を交わしていると思っているふたりは、実はすれ違っているということです。ワタシはワタシが視ているアナタを欲望している。そしてしかし、アナタはアナタの姿を知らない。言わば、ワタシの眼球がとらえた像を一方的に貼り付けられるしかない、欲望を通してね。もちろんアナタの立場に置き換えたって同様です。と語る、の瞳に映る私の姿を眺めながら頷く。つまりこのすれ違いは、どうしたって免れ得ないのですよ。自分の姿を証し立ててくれるのは、いつだって他人の眼を通してです。舞台に立つのでも、性交するのでもね。他にすべなんか無い。もし「本当の自分」を視たくて鏡に顔をくっつけても、何も視えなくなるだけです。そう……ね。たしかに言われてみれば単純な事実。しかし重要なことですよ、ものを視るには距離がなくてはいけない。距離……そういえばこんな詞があるわ、 “A chance to watch, admire the distance”. そう、距離を称えるんです。ワタシがワタシでないものを視ることができるのは、ひとえに距離を隔てているからです。この距離が解消されてしまえば、人は容易く狂気に近づくのですよ。いるでしょうアナタの周りにも、国旗と自分自身との区別がつかなくなった人たちが。ブレグジットがどうだとか絶叫しているような……ふふっ、いきなり卑近になったわね。でもそういうことです。あの人々の愛は盲目に基づいている。しかしオイディプス王やサロメの悲壮な盲目とは違う、何も生み出さない、ただ壊すだけの愛です……むしろサロメは、自分が愛する相手と愛する自分との区別がつかなくなってしまった人、とも言えるのではありませんか。だから彼女は罰を受けなくてはならなかった。あ……そう、そうだわ。最後の台詞にこうある、「どうしてお前はあたしを見なかつたのだい、ヨカナーン? 手のかげに、呪ひのかげに、お前はその顔を隠してしまつた。神を見ようとする者の目隠しで、その眼を覆うてしまつたのだ。たしかに、お前はそれを見た。お前の神を、ヨカナーン、でも、あたしを、このあたしを……」そういうことです。サロメが視ていたヨカナーンの姿は、ヨカナーンのものではない。そしてヨカナーンが視ていた神の姿も、本当には神ではない。そもそもユダヤの神は眼に視えないはずなのだから……そうです、ワタシの言ったことの意味がわかってきたでしょう、エリザベス。アナタの身体はアナタのものではない。そう、誰かが欲望した姿を引き受けているだけ……すれ違っている、最初から。それを弁えなかったから罰せられたの、ヨカナーンもサロメも。自分が欲望しているものと欲望されている自分とを取り違えてしまったから。向かい合ってお互いの姿を証し立てることができなければ、そもそも愛し合うことすらできないのに。「恋の測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのことでもあるまいに。恋だけを、人は一途に想うてをればよいものを」……


 わかりましたか、エリザベス。ええ、そういうこと……そういうことだった、これは初めから。私は母のようになりたいと望んだけれど、同じものにはなれなかった。ウェンダの服を纏ったけれど、それも自分自身の姿とは別のものだった。でも、そうでなきゃいけない。「本当の自分」になってしまったら、人は発狂するしかない……ナルシスがみなの自分に恋着して身を投げたように。そうです。もしかしたらエリザベス、アナタはウェンダに造られた姿を愛するあまり、それを「本当の自分」と取り違えてしまったのではありませんか。そうかも……しれない。あの姿には、私ひとりの力では到達できなかったから。でもその姿も、ウェンダの眼を通してでなくては存在しえない。アナタが造られたことを見届けてくれる眼なしにはね。そう、そうだわ。『サロメ』が眼の失敗にまつわる劇であれば、『Clothes to Me』はその逆。お互いの距離を称えて、すれ違い続けるための劇。ああ、こんな簡単なことにさえ気付かなかったなんて……そして、劇とはなんと不思議なもの。失敗を通してこそ多くを語ることができるなんて……


 ありがとう、。言いながら身を起こす。掴めましたか。ええ、やっとわかった……すれ違い続けなくてはいけないんだわ、私たちは永遠に。つらいですか。まさか、そんな安い情緒に流されるもんですか。むしろ私たちは、常に上手く失敗し続けなくてはいけない。だって成功してしまったら……と、継ぐべき言葉が見つからず、代わりに左掌の甲を左眼のうえにかざす。そういうことです。自分の愛にめしいて、狂ってしまう。造られたものへの愛、か。ありがとう、盲点だったわ、文字通りにね。お役に立てて光栄です、姉様ねえさま。ふふっ、なにその呼び方……あっ、そうだわ。立ち上がり、クローゼットに整頓された衣装をあらためる。どうしましたか。お礼にひとつ持って行きなさい、。これはきっとあなたに似合うはず。大学時代に上演した『サロメ』の衣装を、マットに寝そべっている身体の上に押し当てる。ふふっ、たけが合うかどうか……合わなくても、あなたには持っていてほしい。大切なことを分け与えてくれた証として。そう、ですか。ありがとうございます、姉様ねえさま。これを着て誘ってみるのも、一興かもしれませんね……ふふっ、なに、あなたにも好い人がいるの。ええ、遠い人ですがね。幾重もの意味で遠い人です……




「あなたに来てほしい。準備はすべて整った」という、その一行いちぎょうのメッセージを信じるしかない。きりしまが一体どのような訓示を与えたのかは知らないが、リズにとって必要な何かを与えてはくれたのだろう、おそらくは。

 マンチェスターのスピニングフィールズに位置するビューローの門前に到り、インターホンを押す。こちらの来訪は既に知れている。ようこそ、こちらへ……と応対するスタッフの挙措も、すべて段取りめいて見える。来てくれたわね、ウェンダ。と室内中央に佇む姿に、ああ、とだけ返す。もはや多言は無用、早速始めましょう。二階へはそこから。と言いながら一隅いちぐうの階段を指し示す。リズ、始めるとは。と問うが、わかってるでしょう、と周囲のスタッフたちに制される。今から『Clothes to Me』を、わたしたちの目の前で演じてもらいます。それが果たせなければ、もうあなたにエリザベスのパートナーを名乗る資格はありません。


 あの人々に任せて大丈夫かね、とカフスをいらいながら言う。優秀なスタッフよ、照明も音楽もとちりはしないわ。そうではなく、あの人々に見てもらうということは……と言いかけるこちらの唇に、リズの人差指が押し当てられる。たしかに、ふれている。無闇に言葉を継ぎたくなる私に、リズは微笑ひとつで応える。そう、か。

 ねえ、ウェンダ。

 なんだい。

 始める前に……ひとつだけ確認しましょう。お互いのことを信じると。

 信じる、か。具体的には何を。

 ウェンダ、あなたは私を造ってくれた人。あなたのことを信じるわ。

 そうか、リズ。なら私も信じるよ。君が私の造ったものとは別のものになってくれることを。




 おのみちですが……あれ、船員室。こんなところで誰が……見回すと、蛍光灯の下に人影ひとつ。えっと……、ですか。つい誰何すいかの声が漏れてしまう。それ以外の誰だっていうんですか。と言いながら、はテーブルのへりに掌底をついて立っている。いや、しかし、その衣装……なんというのだろうあれは、カーテンのような襞のある幕に、孔雀のような装飾が纏わっている。服というよりほとんどローブのような……と継ぐべき言葉を失うこちらへ、失礼ですね、せっかくの礼装を指差すなんて。と伏目で返す。礼装。ええ、姉様ねえさまから頂いたのですよ。と意味の取りにくいことを言いながら、は右手で首元の布を手繰り寄せ、どうですか、おのみち。ワタシ、綺麗……ですか? と腰のあたりにしなをつくる。いや、わかりません。一言で応えると、えっ、なんで。と向こうも率直に問い返す。なんでと言われましても、わたくしにはそもそも「綺麗」を判断する基準がありませんので……判断!? 基準!? 本気で言ってるんですかおのみち!? と甲高い声で問い詰められても、あなたが一番よくご存知のはずでしょう、このおのみちには人間のような美的判断がつきかねます。と事実を述べるしかない。のだが、はまだ不満なのか、言葉ともいえない呻きを眼前で漏らしている。本当にアナタは出来損ないのポンコツですね。仕方ないじゃありませんか、船内の諸務ならまだしも、そういったものはプログラミングされていないのですから……されてなくても、ああきれいですねくらいのことは言えるはずじゃないですかっ。といつもより輪をかけて身勝手なことを。ああもう……では、こうしましょう。これからわたくしにとっての「綺麗」の基準を、「きりしまのようなもの」として設定します。そうすれば、あなたはわたくしにとって「綺麗」なものにならざるを得なくなります、定義上。これでよろしいでしょう、だって他に解決の手口が無いのです。

 沈黙。

 まずいことを言ったのか。だがしかし、それ以外にどうしろと。そもそも何を期待してこんなことを。は数秒間なにやら百面相を浮かべていたが、ようやく単色のおもちに落ち着いたらしい。そうですね、そういうことでいいでしょう。呆れ、あるいは諦めだろうか。ともかくひとつの落とし所。それより、何の用があって呼んだのですか。またおおうら副艦長のあれですか……と問うと、違いますよ。と返される。じゃあなに……この衣装でわかりませんか。いや、その衣装のせいでますますわかりません。はあっ、と溜息ひとつ。愛しあいましょう、ということです。と言う声色が、いつものように悪戯に響いてくれたら。しかし、どうも真剣そのものらしい。本気ですか。冗談で言うもんですか……だいたいワタシたち、初めてじゃないでしょう。確かにそうですが……あのときはもっとわたくしなじるようだったじゃありませんか。なじるというか、なぶってたんですが。でしょう……なのに今夜はやけにしおらしいというか、恋人に対するようではありませんか。

 痛っ。あ痛っ、いきなり頬を。生意気言うんじゃありません、AIごときが。と罵る声でむしろ安心する。おのみちごときにそうするほど、ワタシも落ちぶれちゃいませんよ。いいですか、あくまでワタシは利用するだけです、お前なんかただのオカズです。はあ……意味がよくわかりませんが……つまりおのみち、お前は身体だけ預けたらいいんですよ。あとはワタシが好きにやります。やはり一方的な強要ではありませんか、前にも言ったでしょう、合意に基づかない性行為は犯罪と……違います。お前がワタシを抱くんです、前の夜と同じように。あ……たしかに、あの時もそうでしたな。そう、お前が海綿体モジュールを作動させてワタシに打ち込む。ただそれだけのことをやればいいんですよ。この様を再び抱けるなんて光栄でしょう? いえ特には……しかしなんでまた。癪の虫が騒ぎだしましたか? 人間にはそういうことがあるようですから。

 そう、ですね。またしても急にしおらしくなる。おのみち、正直に言いますが。なんです。今夜、アナタはただの代役です。絶対にワタシを抱いてくれない人の代わりを、お前が務めるんです。とどこまでも一方的な物言い。はあ、先ほどオカズとか言ってたのは……そう、その意味です。言いながら、こちらの上腕に指を這わせる。そういうことまで必要なのですか、人間が生き延びるには。少なくとも、今のワタシにとってはそうです。本当にまったく、人間というのはわけがわからない……早急に滅びていただきたい……いずれ滅びますよ。でも、今じゃありません。いいですねおのみち、それまでのひとときです。ワタシのわがままにつきあってくれますね……? わがまま、か。理不尽を理不尽と思えるだけの理性はあるのか。ならこちらが拒むほうが道理に適わない、ように思える。いいですが、。と言うと、真っ直ぐにこちらの眼を見据える。なんですか。ひとつだけ教えてください。その、絶対にあなたの思い通りにならない人、というのは、いったい誰ですか。

 沈黙。

 答えてはくれないか。その必要もないか。そもそもなぜ訊いたのだろう。沈黙が一秒ごとに重くなる。が、ふいに腰を抱き寄せられる。こちらの胸に顔を埋めながら、は呻くような声を漏らした。

 すぐにわかりますよ。アナタに抱かれてる間、ずっとその人の名を呼ぶことになるでしょうから。




『フローラの目醒め』のフェードアウトとともに、照明も落ちる。成功、か。やり切ったのか私たちは。共同でつくった無言劇を、通しで、初めて。

 拍手と喝采が、突如として背後から。振り返ると、先程まで怜悧な眼を舞台に向けていたスタッフたちが、涙さえ浮かべてこちらを見ている。私の右手に絡まる指、リズの。視線を合わせる。認められた、のか、私は。Innuendoを組む前からの彼女を知るスタッフたちに。リズは何も言わず、ただこちらへ微笑を向けている。

 やるべきことは。つながれた彼女の左手とともに右手を掲げ、眼下の観客に一礼する。それだけだった。




 愛しあうとき、人間は黙っていられないのだろうか。他の動物種たちもここまでうるさくかないだろう。たぶん交尾の最中はもっとも無防備だから、天敵に存在を知られては困るみたいな機微もあるのだろう。とすればの求愛がこうもやかましかったのは、生殖と無関係な行為だからか。とすれば辻褄はあっている、ような気がする。

 そんなに、様のことが好きですか。胸元で歔欷きょきを止めずにいる相手の髪を撫でながら言ってみる。よくわかりませんな、そもそもあの方は女性でしょう。そしてあなたは男性の身体を持っている。だったら普通に交わればいいじゃないですか……なのにあなたのほうが抱かれたいなどと。まったく、人間の欲望はねじくれすぎていて理解できません。とひととおり述べると、は微笑しながら、ええ、理解できなくていいですよ。おのみち、アナタはただ常識的でいてください。もしこの世界が、ワタシの欲望に添うように出来ていたら、きっと狂ってしまう。と漏らした。そうですか……このことはもちろん様には内密にしておきますから。ふふっ、殊勝なことを言いますね。付き合ってくれてありがとう、おのみち……いえ。

 さて、音楽でも聴きますか。と言いながら跳ね起きる、この変わり身の速さも驚異的ではある。いや変わり身ではないのか、内心をそのままに演技だけ変えている、とでも。わかるはずがないし、わからなくていい。珍しいですね、あなたが音楽とは。ええ、が選んでくれましてね、ワタシのための曲を……へえ、それはよかったですな。ふふっ、それにしても……ずいぶん味な選曲をしてくれたものですよ。言いながら壁面に取り付けられたオーディオ装置の再生ボタンを押し、ふたたび私の傍らに倒れ込む、と同時にスピーカーから音楽が流れはじめる。聴いたことありますか、『When You Wish Upon a Star』。いえ、知りませんな……『ピノキオ』の曲ですよ。おのみち、信じられますか、はよりによってこの曲をワタシに選んだんです。意味わかりますか? いえ、全然……そうですか。うん、わからなくていい。でもねおのみち、これはワタシたちの曲です。ワタシたちふたりの曲ですよ。




 マンチェスターの観客たちも、さすがに動揺は隠せなかったらしい。今まで『RULE BRITANNIA』で劈頭を飾っていたInnuendoのライブが、いきなり数分間の無言劇で始まったのだから、強烈な違和を与えたとしても無理はない。しかし、これは必要な儀礼だった。私にとっても、リズにとっても。

 あと二公演で取り返しましょう。ふたたび仇敵に水をあけられてしまったにも拘らず、リズは鷹揚に微笑んでいた。ああ、もちろん。ねえウェンダ。なんだい。先週言ったわね、私を裸形らぎょうに剥くことができた、って。ああ、言ったね。あなたは確かに、私の虚飾をすべて剥がしてくれた。それでも、ずっと裸のままではいられない。人々の前に姿をあらわすには、衣服を纏わなきゃいけない。そうだよ、その装いを調ととのえるのが私の仕事だ。私たちには、そのどちらも必要だった……まったく、なんて不用意なのかしら。Innuendoとして組んだ当初は、そのどちらも疎かにしていた……あなたに任せっきりで。でも、今になってわかった。ウェンダ、私にはあなたが必要だわ。あなたが私を必要としているように。ああ、もちろん。あなたの眼に映っている限り、私は存在できる。ずっと視ていてね。その限りにおいて、私は生きながらえる。

 愛してるよ、リズ。

 ええ、ウェンダ。私も愛してないわ。




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