19 Clothes to Me
演技だったと思うんですよ。なにが? 何がって……話聞いてました? ハムレットの狂気が、です。そりゃ演技だろう、俳優が演じてるんだから。そうじゃなくて……ああもう、シェイクスピアが書いた登場人物であるハムレットの狂気は演技によるものだった、という意味です。それ以外になんかあんのか? あるでしょう、そもそも父の亡霊はハムレットの妄想が作り出した幻影だった、って線が。そこまで考えなきゃいけないのか。当たり前でしょう、現在に至るまで様々な評論のテーマになってるんですから。わかんねえよ、デンマーク人の考えることなんか。それよりお前、来月誕生日だろ? なんか欲しいもんないか? 私と対等に話せる程度の知性を備えた父親が欲しかったです。言うようになったねえうちの娘も……ホリーズとかバズコックスとかの話ならいくらでもできるけどな。ああもういいです、あなたに話した私が馬鹿だった。じゃあ今日は、はい、これ、ここにサインだけください。なに? 裁判所提出用です。実の娘に訴えられるのか俺は、シェイクスピアっぽいな。違います、大学に入る前に改名を済ませるので。え、そんな簡単にできるのか? 自分が住んでる国の法体系すら知らないんですか。はい、ここにサイン。ん……ほい。エリザベス・エリオットか。そうです。いかにも英国ーって感じの……あれ、このエリオットのスペルって『荒地』のやつだよな? あいつアメリカ人じゃなかったっけ? 移住したなら英国人でいいんです。植民地主義だなー……ん、いや違うか、
あの手袋どこやったっけ。いつまで着けてたかな。たぶん三月。いつのまにか着けなくなっちゃったな、そりゃそうだ初めに乗ったのは一月。さすがにデッキは肌寒かったしな。釜山から博多までの航路、あまりにもやることなくて暇つぶしにしたんだ、逆の手袋着けるやつ。くー、みー。まだ
おーっす。こんにちは。昼、二番キャビン、喫煙所。ワタシとアナタ。いつも通りだ。そう、いつも左ポケットからタバコを取り出す。右ではいけないらしい。なんでだろうと考えたところ、左手で箱から一本取り出したあと右手のライターで着火するまでの流れをスムーズにするための型だとわかった。のは、二月くらいだったか。左手で一本取り出すときも指で
ふうっ、と煙を吐きながら一本目を
しかし珍しいですね、アナタから贈り物なんて。だって、ぜんぶ終わったら
えっ、と咳き込むように言った
脈拍、体温、血流……ホログラム表示の計器すべてに目を走らせる。いずれも、平常のエリザベスのデータと大差ありませんが。と言うと、ああ、そのようだが……この機材ならもっと詳細な検査もできるだろう。可能な限り調べてくれないか、とくに脳の異常など。と返される。はい、やってみますが……そして
ご覧の通りなのですが……言いながら、ウェンダ様の前にCTスキャン結果の画像群を表示し、どの検査でも、別段異常と言えるような箇所は見つかりませんね……と端的な事実を述べる。うむ、そのようだな……脳神経の異常でもないし、循環器系の発作でもない、か。
性的絶頂、だよ。えっ、と、聞き違いか。聴取した音声データから辞書機能を立ち上げる。性的絶頂。鸚鵡返しに言うと、ウェンダ様は視線を合わさず頷く。 orgasm, という意味のでしょうか……他にどんな意味があるんだね。まあ、そうですね、それしかありませんが……と、またふいに沈黙が。ウェンダ様は厭わしげに首を振りつつ、先ほど、ふたりで稽古をしていたんだ、『Clothes to Me』という劇のね。と淡々と述べる。劇。ああ、次のマンチェスター公演で披露するための。その最中にいきなり、ああなってしまってね……と呟くように言うので、ああなって、とは。と問わざるを得ない。私がリズの肌に触れた途端、いきなりだった。『Clothes to Me』は、シュミーズにドロワーズ姿のリズに私が手ずから衣装を着せてゆく、その様を見せる無言劇だ。まず座位のリズに最初の一枚を着せるのだが、指が触れた途端、崩れ落ちてしまって……何かの発作だろうかと疑ったが、落ち着いたあと当人に訊いてみると、どうもそのようなものではなかったと……気を取り直してもう一度やってみると、全く同じことが起こった。まさかこれは、と信じ難く思ったが……認めざるを得なかったよ、リズの身体に起こっているのは癲癇的な発作ではなく、純粋な性的絶頂だと。
沈黙。
えっと、それで
カモミールティーでいいか。ええ……おねがい。いつもなら練習後に茶など勧めないが、スポーツドリンクの類は先ほどから飲ませているのだ、リズの心身を慰撫するためには止むを得ない。ほら、リズ……立てるかい? ええ……無理はするな、床に伏したままのほうがよければそのままでいい、クッションも持ってこよう。うん……ごめんなさい……謝るようなことは何も無いよ。言いながら、リズの右脇腹にクッションを差し挟む。茶器を卓上から床に移すと、申し訳なさげにティーカップを持ち上げる。
動転することはない、初日の稽古だ。ゆっくりとあの劇に慣れていけばいい。と労うも、慣れるって、どうやって……とティーカップの立てる湯気の中で唇が動く。君ほどの女優であれば造作もないことだろう、
ごめん、なさい……何を言う、私こそすまなかった、つい……タオルで拭おうかと思うと、既にクッションのカバーが
ウェンダ。なん、だい。遅れてこちらが腰を上げる羽目になる。今日は、もう、これっきりにしましょう……ああ、もちろん。稽古は明日以降ゆっくり──違うの、それも。えっ。リズはこちらを真正面から見据え、私たち、しばらく、離れているべきだと思うの……こんなことが起こってしまった以上は。離れてって、またあの部屋で過ごすのかい。違う。あなたはここにいてもいい……けど、私は帰ったほうがいい、と思う……マンチェスターに。リズの申し出の意味が、おぼろげながら察せられた。帰る、か。ええ、「Cabal」のために
いつまでも続くわけがない。自分に言い聞かせながら、手を振ってリズを見送る。しかし、数日経ってもこのままだったら。どうすればいい、どう解決すれば。悪魔憑き、とリズは言った。解剖学的に説明できない、なにか精神的な失調。そのような事態の解決など、私の手に余る。そもそもなぜ私はあの劇を提案したのだろうか。もちろん、私がリズを造る営み自体を作品として打ち出すために……よう。と、正面からの声に身がたじろぐ。見れば、メリッサ・マッコイである。ああ、君か。どしたん、えらい考え込んでたみたいだったけど。と微笑する人を前にして、なんでもないさ、と遮る物言いが
言われるだけ言われてしまったな。溜まっていたものを吐き出す口実を与えてしまったか。メリッサ・マッコイ、彼女も彼女でなかなか陰険なところがあると思うのだが……などと
このように、触れられるまでは正常なのですが、と
はい。
試しに今夜、私と寝てみるか?
えっ。と言ったきり固まっている。私と寝てみるか、と言ったんだ。えっとウェンダ様、その寝てみるというのは……逐字的な意味での……? いや、逐字的な意味ではないほうだ。と返すと、一瞬の
そうか。
そうです。
ということは、性感に関してプロなのか、
え……それはまあ、そういうことになりますが。
おはよう。と声をかけるが、正午はとうに過ぎているのだった。おはようございます。と、ビューロー一階でデスクに就いている五人ほどのスタッフから声が返る。皆一様に私の顔色を窺っているが、さほどの疲労は
室内に沈黙が流れる。言えたらいいのだが。「Innuendoのエリザベスを造ってくれたのはウェンダであって、あなたたちじゃない」と言えたらいいのだが。しかし、長年の付き合いで私のことを衷心から思い
あっ。
どうも、ウェンダ様の命を奉じて馳せ参じました。と悪戯な笑み。なんで、どうしてあなたが。とつい漏れた隻句に、疼きを止めるためですよ、女王陛下。とにっこり笑いながら返す。ワタシはその道のプロですから。
こう、かしら。アトリエに備え付けの、人口皮革張りのマットに寝そべる。てっきり『Clothes to Me』の練習を請け負ってきたのかと思っていたら、そういうわけでもないらしい。もちろん芸能と無縁な
簡単ですよ、アナタに学んでもらうことは一つしかない。アナタの身体はアナタのものじゃない、ということです。
……そして最後の一枚を身に纏って、ステージ奥に向き直る。すると私たちふたりの姿がバックスクリーンに大きく映されて、外部の照明が暗転。そうして劇も終わり。なるほど、案外シンプルですね。と耳元で言う
それではエリザベス、と言いながら右手をとる。ここから意識してください、アナタの身体はアナタのものではない、とね。それさっきも言ってたわね、どういうこと。言葉通りの意味ですよ。そうだ確認していませんでしたが、性交の経験くらいありますよね? あるに決まってるでしょう、言うほどでもないけど。と返すと、異性とだけ? と軽く問われるので、まあ、遊び程度なら、同性とも何度かあったわね……学生時代に。とだけ答える。そうですか。まあ誰が相手でもいいのですが、オルガスムに達した時のことを思い出してください。うん……その時エリザベス、アナタは生きてると思いましたか、死んでると思いましたか? 何その問い……どちらでもないわよ。と撥ねつけるように言うと、そうですね、それが一番正しい答えです。と笑う。なんだか世の中には、性行為に過分な意味を求める人々もいますがね、生きながらにして死ぬ行為それがセックスである、みたいな。プロとして言いますが、そんな大したもんじゃない。あまりにも夢想が過ぎるというものです。エリザベス、アナタがそういう
わかりましたか、エリザベス。ええ、そういうこと……そういうことだった、これは初めから。私は母のようになりたいと望んだけれど、同じものにはなれなかった。ウェンダの服を纏ったけれど、それも自分自身の姿とは別のものだった。でも、そうでなきゃいけない。「本当の自分」になってしまったら、人は発狂するしかない……ナルシスが
ありがとう、
「あなたに来てほしい。準備はすべて整った」という、その
マンチェスターのスピニングフィールズに位置するビューローの門前に到り、インターホンを押す。こちらの来訪は既に知れている。ようこそ、こちらへ……と応対するスタッフの挙措も、すべて段取りめいて見える。来てくれたわね、ウェンダ。と室内中央に佇む姿に、ああ、とだけ返す。もはや多言は無用、早速始めましょう。二階へはそこから。と言いながら
あの人々に任せて大丈夫かね、とカフスを
ねえ、ウェンダ。
なんだい。
始める前に……ひとつだけ確認しましょう。お互いのことを信じると。
信じる、か。具体的には何を。
ウェンダ、あなたは私を造ってくれた人。あなたのことを信じるわ。
そうか、リズ。なら私も信じるよ。君が私の造ったものとは別のものになってくれることを。
沈黙。
まずいことを言ったのか。だがしかし、それ以外にどうしろと。そもそも何を期待してこんなことを。
痛っ。あ痛っ、いきなり頬を。生意気言うんじゃありません、AIごときが。と罵る声でむしろ安心する。
そう、ですね。またしても急にしおらしくなる。
沈黙。
答えてはくれないか。その必要もないか。そもそもなぜ訊いたのだろう。沈黙が一秒ごとに重くなる。が、ふいに腰を抱き寄せられる。こちらの胸に顔を埋めながら、
すぐにわかりますよ。アナタに抱かれてる間、ずっとその人の名を呼ぶことになるでしょうから。
『フローラの目醒め』のフェードアウトとともに、照明も落ちる。成功、か。やり切ったのか私たちは。共同で
拍手と喝采が、突如として背後から。振り返ると、先程まで怜悧な眼を舞台に向けていたスタッフたちが、涙さえ浮かべてこちらを見ている。私の右手に絡まる指、リズの。視線を合わせる。認められた、のか、私は。Innuendoを組む前からの彼女を知るスタッフたちに。リズは何も言わず、ただこちらへ微笑を向けている。
やるべきことは。つながれた彼女の左手とともに右手を掲げ、眼下の観客に一礼する。それだけだった。
愛しあうとき、人間は黙っていられないのだろうか。他の動物種たちもここまでうるさく
そんなに、
さて、音楽でも聴きますか。と言いながら跳ね起きる、この変わり身の速さも驚異的ではある。いや変わり身ではないのか、内心をそのままに演技だけ変えている、とでも。わかるはずがないし、わからなくていい。珍しいですね、あなたが音楽とは。ええ、
マンチェスターの観客たちも、さすがに動揺は隠せなかったらしい。今まで『RULE BRITANNIA』で劈頭を飾っていたInnuendoのライブが、いきなり数分間の無言劇で始まったのだから、強烈な違和を与えたとしても無理はない。しかし、これは必要な儀礼だった。私にとっても、リズにとっても。
あと二公演で取り返しましょう。ふたたび仇敵に水をあけられてしまったにも拘らず、リズは鷹揚に微笑んでいた。ああ、もちろん。ねえウェンダ。なんだい。先週言ったわね、私を
愛してるよ、リズ。
ええ、ウェンダ。私も愛してないわ。
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