04 鯰は生じゃ喰えないはずさ


 三名様。こちらのテーブル席よろしいですか。あっ、すいません全席禁煙になりまして。はい。ご注文おきまっ、おきまりになりましたらおよびくださいませ。しつれいしま、あ。忙しそうだね。いや、そうでもないよ。て、か、いつからいたの。いま着いた。注文いいかな? うん。ウォッカとかは無いのかな。中華料理屋だよ、青島チンタオビールとかならあるけど。じゃあそれもらおうかな。喰うもんは? とりあえず今はいい。わかった。タバコいいのかな? あ、ちょっとまって灰皿持ってくる。りゅうさん? え? 何しよん、後ろのお客さん。あ、すいません、ご注文ですか。少々お待ちください。


 りゅうさん、ちょっといい。はい。あの、全席禁煙やけんね。はい。いやはいじゃなくて、今日なんか灰皿持ってったろ、カウンター席に。え? お客さんに言われた? いえ。やったら持ってかんでよかよ、なんやさっきもからの灰皿えらい洗いよったけど。え、から? うん。そうでしたか。憶えとらんの? いや、火事のあれとかもあるし、灰皿はできるだけ洗っといたほうがいいかなと。え? え? いや、そもそも入っとらんかったから、灰は。そう、でした、か。うん……あと、ビール持ってったら注文入ってなかったとかも、できるだけ無いようにして。はい。小さいことやけどね。はい。まあ、そんくらい。上がってよかよ。はい、おつかれ様でした。おつかれ。


 はい、胡麻団子の注文ふたつからとなっております。はい。よっつで、あお持ち帰りですか。少々お待ち、あ。かどの席いいかな。あーちょっと待ってまだ片付けてない、いまけるから。なんだか急かしてごめんね。がそんなこと言うなんて珍しいな。はいどうぞ、何にする、ビール? りゅうさん。はい。あの、カウンター席空いたんならお一人様通して、かどの。え? いや、いまけたとこ。はい。りゅうさ……あーすいませんこちらの席どうぞ。何しよんもう、いいからあっこのテーブル席下げといて。はい。


 えっとりゅうさん、こっちの話聞こえてる? はい。じゃあ言われたとおり動いてくれんな。びっくりするわ、なんかあさっての方向見よう時あるけん。そうですか。ちゃんと寝よる? はい人並み、には寝てると思いますけど。疲れようわけじゃなかろ。はい、多分。そしたらもっとしゃきーっとしてくれんな、どげんしたらいいかわからんけん、こっちも。すいません。うん、まあ明日は休みやけん。はい。じゃ、おつかれ。あ唐揚げ残っとうけど持ってく? あはい、いただきます。


 お待たせ。うん、やっぱ日曜は忙しいみたいね。まあねー。あっ唐揚げもらったよ、帰ったらチンして食べよ。いいね、お酒ある? あるけど、んーさいきんはかるがあんま飲ませてくんないんだよー。へえ、同棲してるんだ。うん、あ言ってなかったっけ。もーのせいだよ、いきなりいなくなっちゃうんだもん。ごめんって。ゆるさなーい。もう昨日もちゃんと謝ったでしょ、ごめんなさい。ゆるさなーい。ごめんなさーい。ゆるさなーい、は、うそでえーす。ふふっ。あははは。


 お帰り。ただいまー。あっ待って、まだお湯張ってないよ。いいよ今日はシャワーで。シャワーでって、風邪ひくよ。いいよわたしらふたりだし、ふたりで浴槽はいったらさ、ざばーってなるじゃん。え? もーはかるは野暮だなあ、察しろっての。えっと……あっごめすぐ行くから。えっとね今日は晩飯いらないや、ごはん余ってたらラップして冷凍庫入れといて。う、うん。


 もーはかるほんとけちだよ、ビールくんないんだもん。あなたが飲みすぎるからじゃない。そんなことないよー、こっちだってもう大人だっての、自制くらいできるっての。心配してくれてるんでしょはかるさんは、いいお友達持ったねは。心配するって何をだよー、いいもーんはかるには唐揚げあげないもーん。わたしたちふたりで食べよ。あっチンするの忘れちった、常温でいいよね。ええ。ねえ。あっちょっ、も、いきなりかよー。いいでしょ、仲直りのしるし。もーホテルじゃないんだよここは、聞こえるっしょ。大丈夫だよ、わかったうえで入れてくれたわけでしょはかるさんも。そっか。そう、だよね。

 ねえ。なに。ほんと寂しかったよ、どうしようかと思ったよ、あのとき置いてかれて。ごめんね。謝ってほしいんじゃないよ、あのときわかったもん、わたしがいなきゃだめだって。うん、わたしもがいなきゃだめ。うそだー。うそじゃないよ。じゃあなんで置いてったんだよー。試したかったから、を。試すって何を? わたしがいない時間に堪えられるか、を。堪えられるわけないじゃんもう、死んじゃいそうだったよわたしなしで。ごめんね、だからこうして戻ってきたわけ。ふふふ、ほんと厄介な女に惚れちゃったなー。ね、今夜は朝までずっとだからね。もちろん。ぁ、ふじぁ、もう、ほんとわかってるよね。うん。わたしのいちばん痒いところを、いつでも掻いてくれるよね。もちろん。だから好き。大好き。ねえだよね。そうだよ。じゃあわたしのしてほしいこと、わかるよね。もちろん。じゃあ、しよう。もうしてるでしょ。そうだった。ねえ




「絶不調」をミドルネームにしたいくらいだ。ラッパーとして定期的にステージに立つならいつかこういう日も来るのかな、とはなんとなく思っていた。でも、いくらなんでもこんなんあるか。肝心の九州大会当日の会場入り前に、しかも電車の中で、なんて。

 とりあえずは漁火ちゃんの常備のロキソニンに救われた。が、たぶん女子トイレの便器のほうがわたしよりも良い血色してるんだろう。だだだ大丈夫すか刺されたんすか通り魔すかと漁火ちゃんも狼狽してたくらいだし。通り魔にでも逢ったんならベケットっぽくて格好もつくが、毎月の流血に苛まれてるこちとらには、今更この痛みに何の劇的さも見出せなかった。

 しかしこれは。本当に。どういう応報だ。ここ数年間なかったレベルのじゃないか。どれくらいかというとラース・フォン・トリアーならまた人類絶滅系の映画を作る動機になりそうなくらい。ちくしょう、男どもはなんて呑気なんだ。何がセカイ系だこの野郎、こっちは毎月ナプキンまで新劇場版なんだよ。んでこの流血がなけりゃとっくに人類滅びてんだよ。わたしらのこれに比べればお前らの世界滅亡の妄想とかオモチャみたいな戦争とかなまっちょろいわ。と益体もない思考を頭蓋の中で転がしでもしないと一秒が数時間のようだ。ねえさん大丈夫すか、と耳元で聞こえる漁火ちゃんの声にさえ応える気力がなく、アイマスクがわりの濡れタオルの触感だけが助けだった。さっき駐車場ついたって言ってたんで、もうそろそろ、あ、きたっす。と、ぜわしげな靴音とビニール袋のガサガサが近づいてくる。ねえさんいいすか、身体おこしますよ。せえ、の。

 楽屋にポットないのか? 一塁側の通路にケータリングがあるから、そこから取ってきて。ええと一塁側ってどっちだ、と前後不覚なきゅうぞうに指示するはかる。と、紙コップと生姜湯の粉末パックを持って走り出すきゅうぞうの背中が見えた。ああ懐かしいな、あいつ最初のときもこうだったっけな。ひとりっ子育ちの九州男って月経についてほとんど何も知らないのなって思ったなあんときは、いや無駄な回想なんかに浸ってどうする。カイロ、ひとつでいい? はかるの声に、いやふたつちょうだい、と答える。どこ。いや、いい、自分で貼るから。とりあえず包装だけ剥いで……そう、ありがと。漁火ちゃんに背中をさすられながら、下腹にカイロの温みが宿るのを待つ。うー、少なくとも今日は個室の楽屋でよかったあ。あんな予選の時みたいな慌ただしいバックヤードでぶっ倒れてたら、どうなったかわかんないな。おうっ、といつの間にかきゅうぞうが戻っている。たぶん熱いからな、火傷しないように、落とすなよ。と、生姜湯が手渡される。あ、紙コップが二重になってる。なんかこういうのは気が利くんだよな。ありがと。言いながら、鼻先をくすぐる湯気を吹きやり、ぬくみを啜る。

 あー……大丈夫か。いまはどうかわからん、けど、ちょっとしたらよくなる、はず、けど、ちょっと今日ありえんくらい重いから、どうなるかはわからんけど。けどが多いな。仕方ないだろもー……と吐き捨てた自分の声がどうしようもなく捨て鉢に響き、遅れてうんざりさせられる。ので手元の生姜湯を一気に飲み下す。とりあえずあと一杯あるからな。ありがと。他なんかるのあるか。もうとりあえず大丈夫。はかる、本番まであとどんくらいだっけ。出番はまだ決まってないからなんとも言えないけど、開会は七〇分後。そんとき出順でじゅん決まるんだっけ。そう。それまではもうずっと寝てなさい。そもそもねえさんステージ立てるすか? それねー、もしかしたらかなり厳しいかもしんない……最悪ずっと椅子に腰掛けて唄うかな、あーでもラッパーなのになあ……今回の曲は起伏を抑えたワンループの構成だから、立ち上がって煽らなくても成立すると思うけど。うーとりあえず開会してから考えさして……言いながら、再び長椅子のうえに寝そべる。解った。私たち、出とこうか。いや居ていいよ、そこまで参ってない。きゅうぞう、いる? おう。ちょうどあんたが来てくれてて助かったあ……ありがと。なんだよ、カイロと生姜湯買ってくるなら誰でもできるだろ。そうじゃなくて、あー……まあいいや。なんだそれ。じゃ、俺もう客席いくからな、なんかあったら電話していいけど。うん。せっかく客として来てやったんだから、パシッとってくれなきゃ困るぞ。うん、がんばる……じゃはかるさん、バックステージパス返しときます。ええ、私からも言っとく、ありがとう。いいえ。じゃ漁火さんも、本番がんばって。うぃっす! ありがとっす。

 ばたん、と無機質な扉の音。はかるさんって呼ばれてんの。とくすぐってみると、何、もう別にわだかまり無いんだからいいでしょう、と不機嫌な声。あいつの運転荒かったろー、ただでさえ福岡の道路あたまおかしいつくりしてんのにそんな車間距離で車線変更するかねって感じでいつもさあはいはい、無駄なおしゃべりしてないでもう寝なさい。と、冷却ジェルのアイマスクを押し当てられる。こんなのも買ってきてくれたんだ。いいねこれ。もう身体やすめるしかないかー。あーやべ急に眠気が……ロキソニンのあれかな……あーどうしよう本番……まあ座って唄うのもアリっちゃアリ……かなあ……『Like A Stone』のビデオみたいで……ああなんで死んだんだクリス・コーネル……なんか、肩の痛み抑えるために飲んだ強めの薬のせいで、薬物依存のときの症状がフラッシュバックしたって聞いたけど……つらいよなあ……人間の精神なんかより身体のほうがよっぽどでかいよなあ……実際……




 あ。

 すみません、起こしました。や、べつに。あれいま何時だ。時計……うわもう二時間経ってる。はかるわたしらの出番いつ、と身体を起こすと、自分の膝上に当てられている見知らぬ両手を発見した。あ、さっきの声の主この人か。て、誰。誰だこの人。

 ねえさん身体の加減どうすか? と漁火ちゃんが身を乗り出すので、あー、さっきよりは多少は……ていうか、え、だいぶよくなってないか。あの抉るような感じは……下腹にふれてみる、カイロの温みはそのままだけども、なんでだろ、いつも体調を崩した時のイヤな寝汗がまったく無い。あーけっこう気分良くなったかも……やっぱすか! よかったー、やっぱしてもらってよかったすよはかるん! まあ、ね……と、向こうで不審げに足を組んで座っているはかるが見える。そして目の前には漁火ちゃんと、えと……誰だこの人。

 三里さんり血海けっかい、です。え、すごい名前。どこの人だろう。えらい美人さんだなあ、しかも鈴の音みたいな声。膝のふくらはぎ寄りの両脇と、膝を突き合わせたところの少し上、このふたつの経絡が効くんですよ。と、こちらの目を見据えながら訥々と続けている。たぶん余分な熱が逃げてないんだなと思って、三里さんり血海けっかいを押させてもらってました。ご迷惑でしたか? あ、さっきの名乗ったんじゃないのか、ツボの名前か。いやご迷惑だなんてとんでもない、えっと、わたしが寝てた間ずっと? はい、イリチに呼ばれて、ちょっとやってみてって。ね。そうすー、あたしがちぬんにお願いしたっす、ちぬんこういうの詳しいからー。ちぬん……? あ、申し遅れました、ねんチヌと申します、私の名前です。あどうも、りゅうと……あれ、チヌ? はい。てことは、今回の大会の……はい、出場者です。だよね、パンフに名前あったよね。そうすー、南のほうの予選上がった中にあたしの知り合いいたんすよ! 漁火ちゃんの。そうすよ、高校のときからのー。ねー。ね。そうか知念って沖縄の姓か。え、じゃあもっと早く言っといてよ漁火ちゃん。言おうと思ってたらねえさんが体調不良でぶっ倒れたんじゃないすかー。まあ、そうだけど……えっと知念さん。はい。おかげさまでだいぶよくなったみたいで、どうやったんですか。掌で暖めただけですよ。三里や血海は強く押さなくても開くんです。上半身の熱を膝から逃してあげれば、少しは楽になるかなと思って。それだけで……すごいな。私もインドで習うまでは内気功なんて半信半疑だったんですけど、いざってとき便利ではありますね。え、インド。はい。ちょうど一年前、だったすか? そうだね。ちょっとムンバイで修行してまして。しゅぎょう。はい。インド音楽の師匠グルに住み込みで習ってた頃、中国系のお医者さんがいて、その人から内気功も習いました。生理痛以外にも、練習で引きつった筋肉をほぐすのにも使えますね。へえ……インド音楽ってあれか、シタールとか? いえ、シタールほど有名ではないんですけど、サロードっていう撥弦はつげん楽器を。聞いたことないな。三味線みたいなやつっすよ、左手で弦を押さえて右手のピックで弾くっていう。そう、メロディ用の弦が六本あって。でもシタールと違ってフレットはついてないんです。そうなん。サロードの名手は前の世紀にずいぶん亡くなったらしくて、師匠グルを見つけるのも大変でしたけど、でもどうしても勉強したくて。へえ……それで帰国して、いまベース弾いてるんすよね。ベース。はい、演奏の腕は自分なりに身についたと思うんですけど、そのときの師匠グルは北インド音楽の中央アジアからの影響について研究してらした方で、その一環でイスラーム圏に居を移すことになったんですね。お前も来るかって言われましたけど、それには最低でもアラビア語ができなくちゃいけないので、断念して帰ってきました。へえ、え、ってことはヒンディー語はできるの。ひととおり、ですけど。すごいな。北インドにおけるイスラームの影響について、か。に訊けば色々わかったかもしれないな、とかいう雑念を搔き消す。そんなとこ通ってきたすからちぬんのベースもすごいんすよお。ね、ベースの弾き語りすもんね。うん。へえ珍しいね、サンダーキャットみたいなこと。それよりもマイケル・マンリングが近いんじゃないかな、と今まで黙っていたはかるが注釈する。それ聴いたことないな、てかはかるも知ってるの。さっき動画でね。六弦のフレットレスで、ずいぶん微分音を使ってますよね。はい。びぶんおん? 平均律の一二の分割に収まらない音、西洋基準の話だけどね。あれもインド音楽の影響で? はい。オクターヴの分割って、インド音楽ではどうなってるのかな。とりあえず一二でも分割できるんですけど、それよりも細かいシュルティっていう二二にじゅうにの微分音があるんですね。ラーガの種類によって音程が変わったり、あとフレーズが上昇か下降かによっても変わったりします。へえ……オクターヴを二二で分割するって、どうやって? えっとですね、紙あるかな。これ使っていいすよ。ありがと。と、知念さんとはかるとの間で唐突なレクチャーが始まる。よかったすー、はかるんちぬんのことちょっと警戒してたみたいだったから。警戒、何を? 知らない人に具合悪そうなねえさんの身体さわらすのはちょっと、みたいな。ああ、まあね。でも打ち解けてくれたみたいでよかったー、ちぬんもっと内気な子だったんすよ。そうなん、でもインド行ったりさ、外向的な感じに見えるけど。そうすけど、音楽と数学の話してるとき以外はのほほーんとしてるすよ。そうなんだ。数学……? とこちらのひそひそ話もあちらには聞こえてないらしく、じゃあ通常はこの音名で把握されるわけね? はい、このへんの基礎については日本語訳でも良い本が出てますから、是非そちらを。うん、一通りはわかった。ありがとう。はい。と軟着陸したらしい。知念さん、はかると気ぃ合いそうだよな。何が。なんか、勉強家っぽいとことかさ。ああ、まあね。ふふ。あの、たくさんお話できてよかったです。お身体、もう大丈夫ですか? ああ、いやまだ若干あるけど、来たときよりかはだいぶ楽になったよ。ほんとありがとう。いえ。じゃあイリチ、またね。うぃっす! お互い頑張りましょー!

 あそうか、出場者ってことは競い合わなきゃいけないんだよな。わたしらの出番いつ? なんと大トリすよおー。うわー、有利なのか不利なのか。今回は対戦カード方式じゃないからね、他の出場者の内容による、としか言いようがない。でもこっからはさ、会場に集まった観客全員の投票になるわけじゃん。だとしたら、この会場内に自分のファン多く呼んだやつの勝ちってことにもなりかねないわけじゃん。主催側はその辺のフェアさとかどう考えてんのかな。考えてないでしょう、「自分のファンじゃない連中も持ってけなきゃけ」くらいのアティテュードな気がする。ギリシアっぽいなー、ポリスの統治か。まあ、わたしらもそんくらいのほうがやりやすいけど。

 よいっしょ、と上体を起こし、とりあえず軽い目眩以外には不調らしきものはなかった。ただ、まあ、この下腹の具合でステージ跳ね回れるか微妙だなー。ちょっと飲み物もらってくるよ。生姜湯? いや冷たいのがいい、もう一人で動けるから大丈夫だよ。言いながら、テーブルの上のパンフレットだけ持って立ち上がる。とりあえず一時間後にはここにいてね、他の出場者観ててもいいけれど。おう。


 楽屋を出ると、さすがにもう始まってるだけあって観客の大歓声が響いていた。なんかのバンドかな。いま一五じゅうご組目、か。ぜんぶ観たわけじゃないからパンフの内容でしか判断できないけど、予選と比べて良くも悪くも説明しやすいジャンルが増えたな。覆面バンドとかメタルアイドルとか、こういう既に単独ライブ埋められそうな人らが公開コンペ出てくると、逆に浮くんじゃないかな。あーしかし、こう体調崩してると場内販売のドリンク名ですら無神経に思えてくるからいけない。何がブラッディメアリーだよ、ブラッディじゃないメアリーがいるなら会ってみたいわ。お、着信。きゅうぞうだ。

 はい。体調どうだ。まあ万全ではないけど、さっきよりはマシだよ、ありがと。おう。トリらしいな、かっこいいとこ見せろようちの生徒にも。え、え、連れて来てんの。三人な、ヒップホップ好きのやつらを。バカか。何がバカだ、せっかく得票率増やしてやってんのに。そもそもお前らが最初にバズったあれのこと、うちの生徒のせいで知ったんだぞ。まさか元カノってことまでバラしてないよね。言ってるけど。大バカ野郎だお前は。なんでだよ、自慢したくはなるだろ身近に有名人がいたら。有名人いうな、なんでそう俗っぽいかなー久蔵おまえは。なんだったら後で応援のメッセージでも言わすか? いまちょっとビール買いに来てて席外してるけど……いいから、なんか余計緊張するから。お前は出番までの間に数学でも教えてろ。ああそういえば図形の問題やらせてるときにな、一回お前らの曲かけたことあったな。何してんの。だって、ファンクって微分だろ? は? 何、もう、わけわからんこと言うなきゅうぞうのくせに。じゃー応援だけは受け取っとくから。なん、さっき心配してやったのにもうそれか、との物言いを最後まで聞かずに切る。

 あーもう、ファンなー。なんか照れくさいから今まで避けてきたけど、そうかわたしらにもファンくらいいるんだよな。そもそも漁火ちゃんも、もともとキュウゾウのファンのひとりだったわけだし、と益体もないことを考えながらコップ二杯分の緑茶を飲む。なんか腹に入れとくべきか。でも下手に重いの喰ってもな、チーズサンドビスケットくらいでいいか。あっおいしいこれ、はちみつ入ってる。そっかちょっと加えるだけで全体の味が変わるんだよな、音楽でも。わたしらの新曲どう受け取られるかなー。前のよりアグレッシブじゃないけど、でもワンループのファンクの良さがわかる観客ならビビッとくるはず、と信じたい。あの漁火ちゃんのギターリフもイルだし。そもそもファンが何を望んでるかなんて気にしてどうする、そんな器用じゃないだろ。とか考えながら楽屋に戻ると、なにやらそうちょうな音楽が耳に入った。

 あねえさん、とはかるのスマートフォンを覗き込みながら漁火ちゃんが言う。これっす、ちぬんのやってる音楽。あ、ネットにあんの? そうす、公式のチャンネルに。これはあなたも見ておいたほうがいいかも、と液晶画面をこちらに向けるはかる。いやー本番前に余計な情報入れたくな……の語尾が萎え、いつのまにか目が釘付けになっていた。白皙はくせきという形容がぴったりな女性が、座位で抱えたフレットレスベースを神妙に爪弾いていく姿。打音ごとに揺らされる音程は霊妙というよりもむしろ周到で、おそろしく制御されながらも不思議な優美さを響かせていた。と、見入ってるうちに再生が終わる。おー、こんな感じなんだ。ライブではもっと違うパフォーマンスらしいんすけどね。すごいねー。でも、これに歌を乗せるとなるとどうなるのかな。えっ知念さんって歌もやるの? さっきベース弾き語りだって言ったでしょう、パンフレットにも「ラーガとターラの両方を掛け合わせた朗唱スタイル」とあるし。そっか、ひとりでどっちもやるのか。んーしかし知念さんマメに更新してるんだな、わたしらもサンクラだけじゃなくて動画もあげたほうがいいかな。と言いながら液晶画面をスワイプしてみる。さすが、コメントいっぱいついてる。「こんどの九州大会がんばってください」、「チヌちゃんがぼくの推しです」……このしって何? すごい、そんなみ方初めて聞いた。なんだよ教えてよー。あなたは知らなくていいよ。まあ「推し」っていうのは、簡単に言って部分対象みたいなもの。アイドルだの俳優だのに一方的なファンタジーを投影したりとか、それで自分にとって不快な刺激が出てきたら勝手に失望してブログに長文を書き連ねたりとか、そういった流れの現代病。へえー、なんか楽しそうじゃん。楽しそうっていうか呑気だよね、自己愛の延長で失恋を繰り返す人なんかに似てる。うわーどのコメントにも逐一返信してる……律儀、って言っていいのかなーこれ。強迫的ではあるのかもね。「なんだか女のベーシストってエロい感じする」……うわキッツ、未だにこんな感性のやついるのか。まあ、「ベース女子」とかいう恥知らずな特集が通ったくらいだし、キャラクタライズとしてはありふれてるんでしょう。あったなーそれ、「黒いグルーヴ」特集も大概だったけどさ、あいつらリスペクトづら下げて差別と搾取を同時にやってることにすら気付けてないんだからほんと終わってるよな。はい、もう返しなさい。余計なもの読まなくていいから。

 んー、と、ちょっとひっかかることがある。どうしたの。知念さんってさ、漁火ちゃんと同じ地元? 沖縄生まれって意味では同じすけど、あたしは本島でちぬんはみやっす。宮古島か、たしか結構遠いよね。はい、でも宜野ぎのわんのジャズクラブで定期的にジャムセッションがあって、ちぬんもそこに来てたんす。高校生のとき? そうす、学校は別だったすけど、そこですぐに仲良くなって。そんときからベース弾いてたんだ。フレットレスではなかったすけどね。今のスタイルになったのは東京の大学行って、色々あって、インドで修行してからかなー。その、色々、について訊いていいかな。んー、あの頃あたしも東京出たばかりであまり連絡とってなかったんすけど、たしかちぬん法政大学の理工学部入って、すぐ中退して東大に入り直したんす。え。はかるん、文三ぶんさんってあるんすか? 東大の文科三類ね。はい、よく知らないんすけど、そこのインド哲学科で勉強するために入り直したらしくて。へえ、イン哲。わざわざそこに入りたくて東大に、って相当ね……なんか数学だけじゃだめだって悩んでインド哲学行ったらしくて、でもそこも中退して、もう数学と哲学を両方やるには音楽修行しかないって、それが一年前すね。あのときの電話いまだに憶えてるなー、えらい思いつめてたぽかったす。へえ……失礼かもしれないけど、すげえ変わった経歴だね。そうすね、実家のほうは宮古の不動産で儲けてたらしいんで、お金には困らなかったらしいんすけど。そっか。でも、入院してた頃はだいぶ心配されてたみたいっす。入院? いや怪我とかじゃないんすけど、たしか石垣島の精神病院だったすかね。え。なんてったっけ、ひていけいせいしんびょう……否定形? 非定型、ね。亜急性で、意識障害を伴う癲癇寄りの病態、だっけ。はかるなんでそんなことまで知ってんだよ。なんでって勉強したからだよ、あなたに幻聴があった時期に。あ、そういうことか。そんなんあったんすか。あーいや漁火ちゃんは知らなくていいや、昔のことだし。彼女、随分と落ち着いた挙措だったけど、非定型精神病と診断されたことがあるわけね? そうす、そのせいで上京も一回とりやめになったのかなー。でも、ちぬん別にそのこと隠してないっすよ。え? バイオグラフィにも入院のことは書いてたはずっす、えと、公式チャンネルの、これ。どれ。あほんとだ、随分さらっと書いてるな。本人としては全部知ってもらいたいってことなんじゃないすかね。

 で、何。え? それを聞き出してどうするの。あなたらしくもなく、他人の詮索みたいなことしてるけど。いやそんなんじゃないよ、ただ知念さん、第一印象よりも随分複雑な人だなーと思ってさ。複雑。うまく言えないけど、話してるときもなんか幕を一枚隔てた感じっていうか……誰とでも気易く話せるあなたみたいなタイプのほうが珍しいの。うるさいなー。というかね、。なに。あなただって危なかったんだよ。えっ。精神病とは言わないけど、日常生活が阻害されるくらいの幻視と幻聴があったんだから。ああ……たしかに、そうだ、な。だからといってね、そこから殊更に彼女に対して親近感を抱くのも、私はどうかと思うな。なんだよ、そんなこと言ってないだろ。さっきだって向こうから色々話してくれたわけだしさ、そんで同じステージで競う相手なら気になるじゃん。

 そういえば、と漁火ちゃんが唐突に語尾を切る。なに。なんか、ちぬんえらい気にしてるみたいでした、南のほうの予選で言われたこと。言われたって誰に。対戦相手に。さっき聞いたんすけど、ちぬん予選では不戦勝だったらしいんすよ。ちぬんが先攻で、そのパフォーマンス見た対戦相手が棄権して。その時に言われた「同じ土俵で勝負できる音楽じゃない」って言葉が、いまだに気になってるらしいんす。え……? そんだけすごかったってことかな。かもっすけど、なんかそれだけじゃないっていうか……と、珍しく漁火ちゃんが言葉を詰まらせている。「同じ土俵で勝負できる音楽じゃない」、か。はい。ちぬん、今日のライブでその言葉にけりをつけられなかったら、また修行するつもりらしいす。え、また。ていうかけりをつけるって何。わからんすけど、ちぬんなりのケジメ、みたいなことなんすかね。

 沈黙。

 そろそろ出番だけど。えっ。彼女の。そっか。そうでした。観にいってみよう、か。そうすね。なら、行きましょうか。




 二階席から見えるのはステージよりもむしろ客席のほうで、アリーナ席の客層がどんなもんかくらいは概観できる。席番号指定あるわけじゃないから、フェスみたいに客層入れ替わるんすね。だね。あの最前列のほうみんな知念さんのファンかな。でしょうね、見るからに後ろの方とは違うし。あのなんか……キラキラ光る玉のイルミネーションみたいなやつは、公式グッズなん? 彼女がファンに直接こうしろって呼びかけてるわけではないと思うけど……まあ現代的ではあるかもね、演者じゃなくファンの義務感でルックが決まる感じは。漁火ちゃん、さっきの公式チャンネルのやつ見して……そう、下のコメント欄のとこ。あー、さっき読んだときはこれどういう意味なんだろって思ったけど、なんかファンダムで共有されてるタームがあるのね……ハッシュタグ #知念チヌ下克上2019 って、なんだこれ。勝手に「下」にされたらたまったもんじゃないだろ。だから、言葉が雑な人らのコメントなんて読まないの。でもさ、知念さんがどういう層に受け入れられてるのか腑に落ちてきてさ……この「私も鬱で毎日生きづらさを感じてるんですけど、チヌちゃんの音楽に元気をもらってます!」ってコメントさ、いや元気をもらってるのは良いと思うけど、でも非定型精神病と鬱病は全く違うよね。そうすね。「チヌちゃんも闘病しながら音楽頑張ってるんだから僕も頑張ります」ってさ、知念さん今も通院してるの? いや、一度入院経験があるだけだったはずすけど。「鬱フェスのアーカイブ配信でファンになりました」……あれか、アーバンギャルドのやつか。そんな仕事も受けてるんだな……ほらもうしまいなさい、始まるよ。

 暗転とともに、アリーナ席から歓声が上がる。ステージ中央に絞られたスポットライトから、胡座の状態でフレットレスベースを抱えた女性の姿が浮かび上がる。亜麻っぽい生地の五分袖シャツに、背中まで垂れた黒髪に、額には幾何学模様のチャームがついたヘッドバンド。やっぱステージ映えするなあ……なにしてるんだろ、あれ、チューニングかな。インド音楽の楽器は温度や湿度によって調律が揺らぐから、ステージ上で調弦するのも含めてパフォーマンスだって言ってた。そうなのか。でもあれベースじゃん……? ぽうんっ、というナチュラルハーモニクスの音に続いて、両手タッピングによるベースライン、というか、弦楽器と打楽器が渾然一体となったようなフレーズが奏でられる。なん拍子……七? だだっ広い会場にこんな繊細な音が繰り返し響くと、さすがに非現実感みたいなのを伴ってくる。七と八の複合ね。反復されるフレーズの拍を取りながらはかるが言う。ルーパーで基本のリズムを反復させて、その上に演奏と歌唱を乗せるのか。弦楽器の弾き語りではよく見るけど……と、繰り返されるリズムの規則性にも耳が慣れてきた頃、胡座のままマイクホルダーを調整していた彼女が、ついに口を開いた。


 なにあれ。

 あれっていうか、なにあれら。

 明らかに、ふたつあったよね……リズムのことだろ。そう、六弦ベースで鳴らされるハーモニーと、口で唄われるメロディのリズムが、明らかに分裂してた……ループのフレーズとも違ってたよな。というか、あのループを基底とした拍の分割が、ほとんど数秒ごとに変わっていってた、しかもベースとボーカルの両方で……ああそうか、基本が七たす八で合計一五じゅうごの拍だから、三で割ることもできるのか。それにしても、あれは……はかる、絶対音感ないよな。ないけど。なくてもわかるよな、なんか変だったよな、ピッチ。ベースとボーカルどちらの? たぶん、両方。そうだね、ベースの複弦でハーモニーをやってたけど、でも本来インド音楽って西洋的なハーモニーとは相容れない単一線的リニアーな音楽のはずでしょう。しかもベースってコード楽器じゃないしな。それもだし、ベースの演奏で微分音を多用するのは知ってたけど、ボーカルのピッチも明らかに平均律に則ってはいなかった。

 てことは、

 インド音楽を基底として、

 その上に西洋的なハーモニーを重ねて、

 しかし奏でられるベースとボーカルは西洋基準の調律ではなくて、

 さらに調律のみならずリズムまでもが常に分裂している。


「同じ土俵で闘える音楽じゃない」。たしかにね、こりゃ無理だわ。まず彼女はあんなにも矛盾した要素を詰め込んでる。矛盾をそのままに並び立たせる音楽をやってる。でも観衆は彼女の混淆した音楽性よりも「精神病を負いながら活動する美貌の女性ベーシスト」の物語に持ってかれる。喰い違ってる。彼女の音楽そのものの複雑さだけじゃなくて、それを受け取る観衆との間でも喰い違ってる。そりゃ無理だわ。こりゃ喰えないわ。知念チヌ、あの子、何重苦だ。音楽に傾けてきた情熱だけでも相当なものだろう、理論と実践の両方において。なのに、観衆にはそれが伝わらない。見栄えのいいイメージと俗耳に消費されやすい物語が先に立ってしまう。じゃあ、彼女は、自分が世界に捧げるために調ととのえたものを、いつになったら喰ってもらえるんだ。


 はかる、これ無理じゃないか。何が。まさかあなたも棄権するつもりじゃないでしょうね。そうじゃないよ、そうじゃないけど、なんていうかさ、もうこの大会がどうとか関係なしに、知念さんが上がってくれたらそれでいい、って思っちゃってさ……あなたまでそっちに持ってかれるの。言っとくけどね、それは……わかってるよ。病気した人の苦労は報われるべきだとか、病んだ人の創る作品は深遠で美しいだとか、逆差別そんなのはくそくらえだよ。わかってるならいい。でもさ、なんか今の五分足らずの演奏聴いただけでどっと疲れた……それはわかる、情報量が凄すぎるものね……やっぱちぬんすごいじゃないすかー! ええ。漁火ちゃん、あれ聴いて疲れなかった。全然すよー、あたしちぬんが今どんな音楽やってるのかまでは知らなかったすけど、相変わらずクールでファンキーじゃないすか! ファンキー? あれのどのへんが……

 あ。

「だって、ファンクって微分だろ?」

 数学。えっ。知念さん、音楽のほかに数学にも執着してた、んだよね。そうすよ、高校の頃から。で、大学の理数科入って、イン哲行って、そっからインド修行、だったよね。そうす。

 もしかして。はかる、わたしらさっき「分裂してる」って言ったよな、あの音楽のこと。ええ。でも違うんじゃないかな、もしかしたら全部、辻褄合ってるんじゃないか。えっ。要素は全部揃ってる、ただそれを結びつける線が、こっちに見えてないだけ……

 ファンクは微積分、か。なるほどきゅうぞう、そういうことか、あんたが言ってたのって。今回の曲のビート、ワンループで作っといてよかったぜ……何その語尾。はかる、漁火ちゃん、楽屋戻るぞ、作戦変更。また? なんっすか? いいから!


 はかる、紙とペン用意して。これでいい。おう。漁火ちゃん、ちょっと今回の曲のオケ流しといて。はい。『Nasty Booty』のインストゥルメンタル版を流しながら、おおざっぱな構成表を書く。まずヴァースからフックまでひとまわしやって、ふたまわしめからは、途中で各セクションの拍子を変える。ビートはループさせたままで、っすか? そう。精確には、はかるはずっと四拍子のコンピングをキープしたままでいい。はあ。ただ漁火ちゃんは、ヴァースのリフを三拍子にして。ていうと……えと、あのリフたしか一拍目と四拍目のフレーズが一緒になってるすから……そう、それをひとつにすれば一拍浮くっしょ、そうすれば三拍子でループできる。で、ビートは四拍子のままっすから……四小節ぶんをひとまとまりとすれば、ビートが三回ループするあいだにあたしのギターは四回ループする、てことすね。そう! 要するにポリリズムね。で、そのリズムの上であなたがラップするってこと? するけど、更にわたしのラップを七拍子にする。えっ!? 


〔図1: https://www.dropbox.com/s/y4l03hduuci6t14/14fig1.png?dl=0 〕


 つまりこうだよ、と紙の上にギターリフとビートとボーカルのリズムパターンを書き出す。全体を八分音符で換算すれば、さっき言ったビートとギターが一周するまでの総拍数は九六だろ。ええと、さんがろくでそれがよっつでよんかいループして……そうっすね。で、これをかける二して一九二拍。そこにわたしの七拍子取りのラップも同時進行するわけだから、四小節の六ループ進んで一六八拍消費した瞬間に……のこり二四拍すから、あ、あたしのギターのケツと一致するっす。そう! この残り二四拍をトップオブザヘッドでやって、全部のパートの拍が一致した瞬間にフックに入る。オケのほうはずっと同一のドラムスとベースのループだから、はかるのキーボードと漁火ちゃんのギターが動けばヴァースとフックの切り替えは自在にできるだろ。


〔図2: https://www.dropbox.com/s/y2rvcn5us4zdab0/14fig2.png?dl=0 〕


 ……つまり、この前ANDYOURSONGがやってた偶数ビートと奇数ラップのポリリズムを、より数学的にやるってことね? そういうこと。まあね、不可能ではないけど……。なに。言いたくないけどね、あなたはそこまでリズム感が精緻なラッパーじゃないよ。単一のリズムの中でフロウするスキルは優れてると思うけど、ここまで厳密な譜割りをこなせるかどうかは疑わしいと思う。拍を見失ってグダグダに終わる確率の方が高い、それでもやるの。やるよ。もともとマスな構成の曲だからそんな無理はないはずだろ。いま打ち合わせしたのを、ふたまわしめにぶっ込むだけ。特別なリハーサルは要らないし、持ち時間はギリ超えないはず。

 ひとつ訊いていい。なに。どうしてそこまでするの。知念さんのために、ってことか。と訊き返しても、はかるはこちらを問い質すときの顔で黙している。じゃあ、もう、こう答えるしかないだろ。

 聞こえた、気がしたからだよ。何が。悲鳴が。私をちゃんと聴いてくれって悲鳴が。「同じ土俵で闘える音楽じゃない」、そう思われてきたんだろ彼女は。熱心なファンはいるみたいだけど、でもどう考えても喰い違って伝わってるだろ。あなただけは正しく理解できてる、ってわけ。、それはむしろ傲慢──でも聞こえたろ、はかるも。双眸そうぼうが丸く見開かれる。はかるも、昔わたしのそれに気付いてくれたろ。来てくれて、治してくれたろ。それと同じことを彼女にもやる、音楽で。それくらいしかわたしにはできない。


 はあっ、と歎息。音楽で、ね。おう。さあ漁火ちゃん、いきなり変更でごめんだけど、しっかりこなせるってとこ見せてもらうぞ。もちろんっすよ! ねえさんだって途中でオチたらフォローできないっすよお。なめんなよー、こちとらリズム感以外は何もないんだ、ラッパーだからな。あはははは。わははははは。


 つらいよな、自分と同じ土俵の上に、誰も来てくれないってのは。せっかく調ととのえたものを、喰ってくれる人がいないってのは。知念チヌ、いや、もう君の名前なんて問題じゃない。君が何者であろうと、もう独りにはしない。だから、こう呼ばせてもらう。

 同志よ、ミュージシャンよ。

 待ってろ。今、そっちに行く。




パンツの中にヒアリがいる

タランテラ噛むから鳴るheel

最も人間的な部位

mo’ sweet jive on ya Nasty Booty


パンツの中にヒアリがいる

ガラガラヘビ踏み砕くheel

アステアの ass にジーンと痛む蹴り


 ここまではいい。セカンドヴァース。次の小節の四拍後だ、精確にはここから倍取りだから八拍後。いいなはかる、漁火ちゃん。いくぞ。 こっから。こっからだ、あとギター四ループぶん。


〔図3: https://www.dropbox.com/s/98ba0zr1jxdmqgu/14fig3.png?dl=0 〕


踊るには必要なのだケツが

月に一度は屍山血河

だが知ったことか再点火

友よ血義理の酒杯だ blood on blood


 合った。合った。合った。


パンツの中にヒアリがいる

タランテラ噛むから鳴るheel

最も人間的な部位

mo’ sweet jive on ya Nasty Booty


パンツの中にヒアリがいる

ガラガラヘビ踏み砕くheel

アステアの ass にジーンと痛む蹴り

godspeed on ya Nasty Booty


 あぶねー、オチるかと思ったー。おー、すげ、歓声。ちゃんと伝わったか。だよな、頭でバーっと揃うの気持ちいいもんな。きゅうぞうどのへんにいるんだろ、ちゃんと見えてるか。知念さん、見えてたか。わたしたちの音、聴こえてたか。


 


 しんどかったー。いやー一瞬いまどこにいるんだろうって思ったすもん、ねーはかるん。いや、私はずっと同じコンピングの繰り返しだからむしろ退屈だったけど……あはは、でもあの緊張から解放される気持ちよさはんぱないなー。緊張と弛緩ね、あなたに一番似つかわしくない言葉。なんだそれー。そういうディシプリンとは程遠い音楽のはずだけど、ファンクって。だから意味を広げたんだよ、わたしらが。

 で、いかなくていいんすか。えっ。ちぬんのとこ。楽屋すぐそこっすよ。そう、だね。まだいるかな。いなかったら追いかけるでしょう、最後まで責任持ちなさい。わかってるよ。じゃ二人とも荷物持って、忘れ物ない? よし。


 あっ。と、ヘッドバンドを外して顔を洗ってるところらしかった。、さん。ども、いきなり来ちゃってごめんね。いえ。あの、おめでとうございます。ありがとう。ちょっと話していいかな? はい、ちょっと待ってくださいね。と言いながらマフラータオルで顔を拭っている。

 本当に、おめでとうございます。二階席から見てましたけど、すごい演奏でした。ちぬんもすごかったすよー、あんなのできるようになってたんすかー! ふふ、練習したからね。ねえ、知念さん。はい。わたしらさ、知念さんのパフォーマンス見て、直前で変更したんだ。なんつうか、知念さんが独りでやってたことを、わたしらは三人でやったらいいんじゃないか、って。やっぱりそうだったんですか。わかった? はい、分裂させながらまた一つに戻る、コンセプトが同じでしたから。正直、どうだった。正直、ですか。うん、なんだパクりやがってこの野郎とか、なんでも言ってくれていいから。ふふっ、正直、正直ですね。うん。初めてだ、って思いました。えっ。初めて、初めて私と同じようなことを考えてる人に逢えた、というか……初めて、私のことをちゃんと聴いてくれた、ひとがいた、というか……ごめんなさい、気持ち悪いですよね。いやなんでだよ、そうしたかったんだよ。えっ。「同じ土俵で闘える音楽じゃない」、わけじゃない、ってことを、わかってほしかったんだ。

 知ってたん、ですか。うん。イリチ。ごめんっす、言っちゃったー。ふふっ、と口笛のような苦笑が漏れる。正直、またやり直しかな、と思ってました。やり直し。目を伏せて頷く。私なりに、真剣に音楽をやってきたつもりだったんです。でも、どんなに頑張っても、なにか伝わってなくて、なにかずれていて……伝えようとすればするほど、なにも響かなくなっている、気がしていて……でも、そうじゃなかったんですね。ふうっ、と漏れた息でひとすじの髪が揺れる。

 良い人たちと出逢えたね、イリチ。ほんとっすよー、そんで今日ちぬんにもまた逢えたすもんー! ふふっ。さん、はかるさんも。うん。ええ。ありがとうございました。私、もっと、もっと続けてみようと思います。すくなくとも間違ってるわけじゃない、ってことが、今日やっとわかりました。無駄じゃない、ってことが。そっか。両眼を瞑りながら頷く。だから皆さんも続けてください、またどこかで会いたいから。うん。ええ。全国大会、がんばってくださいね。おう! やるっすよー! じゃあ私たち、ひとまずこれで。うん。じゃあね知念さん、道中気をつけて。はい、あ、の。うん? ちょっとだけ、イリチと、話していいですか……ふたりだけで。うん、もちろん。じゃあ漁火ちゃん、わたしら駐車場らへんにいるから。うぃっす、あとでいくっす。




 ほんとうに、良い人たちだね。でしょー。イリチのまわりには、自然とああいう人たちが集まってくるんだよね。そうすかね。そうだよ、初めて会ったときから。私ね、羨ましかった。あなたは、音楽さえあれば、誰とでも仲良くなれちゃうから。そりゃーちぬんも同じじゃないすかー、だってあたしらが仲良くなったきっかけも音楽でしょ。違うよ。えっ。私もね、そうかもって思ってた。自分の気持ちがわからなくても、音楽を使えば伝わるんじゃないかって。でも、ずっと勉強するうちに、どんどんわからなくなったんだ。入院してた時期、っすか? うん。数学は子どもの頃から私の友達だった、数は怒ったり悲しんだりしないから。でも、ジャズのレコードを聴くようになって、音楽が好きになって……演奏も勉強していくと、実は音楽理論にも数学が深く関わってるんだ、って。そうっすね。そこから、どんどん、わからなくなって……音楽にも数学にも、私の気持ちは必要なのか不要なのか、もうわからなくて。いつのまにかインドにまで来てたけど、どれだけ勉強しても、結局のところはわからなくて……ねえイリチ、どうしてなんだろ。え? どうして私にはわからないのかな、あなたには軽々とこなせることが、私にはできない。あなたと宜野湾で演奏してた頃の、あの感じが、いまだに掴めない。一〇じゅう代の頃には掴めてたあの感じから、どんどん遠ざかっていくから。


 そりゃー、簡単じゃないっすか。えっ。ちぬんちょっと右手、いいっすか、指、こう。こう……? そう、いち、っす。いち……で、あたしも、いちっす。いち。で、これ合わせたら、に、じゃないっすか。うん。いちといち合わせたら、にになるでしょ。うん。それっすよ。えっ。音楽も数学もそうでしょ、いちだけだったら、なんもはじまんないじゃないすか。いっこ音出しただけじゃ曲にならないすよ。にこめの音、拍があって、曲になっていくでしょ。あたし数学は全然わかんないすけど、いちだけだったらなんにもならないじゃないすか。あ……ああ、そう、だね。でしょ。だから、こうっす。いちといち合わせたらにになるっす。そしたらその先ができて、さんとかよんとかろくとかじゅうにとかになって、もっと面白くなるっす。色んなことができて、色んなのが出てきて、アガって、楽しくなるっす。そういうことじゃないっすか?


 ……そっか。でしょ。どうして私、こんな簡単なことに気づかなかったんだろう。いちたす、いち……そっか、独りでやらなくてもよかったんだ。そうっす。インドで習ってたときも、私の周りには色んな人がいたはずなのに、私が持ち帰ったのは、私のためだけのものだった。そうなんすか? かも、しれない……だから私は、どんなに勉強しても……いや、多分すけど、そういうことですらないすもん。えっ。だって、ちぬんあたしと初めて演奏したとき、わざわざ宮古から来てくれたじゃないすか。うん。あっ……そうか。そうす。そのとき、もう、にになってるじゃないすか。同い年でこんな巧いベーシストいるんだーって、あたしすごい嬉しかったすもん。でもちぬん、あのあとあんまり来なくなったからあ……あたしも上京前にもう一回くらいしたかったすよ。そうなの。そうす。あたしも上京したてでローディーとか楽器屋とか忙しくて、ぜんぜん帰れなかったすけど、かあちゃんから宮古の知念ちゃん東京の大学いったよおーて連絡があって、わあ会えるかなあて思ってたら色々大変そうで、たまに電話くらいしかできなくて。そう、だったん、だ。インド行くってきいたときはびっくりしたすけど、やっぱちぬんはすごいな、本気で勉強したいんだなあって。ふふっ、全部、あなたと演奏した時から、始まってたことなのにね。あははー。

 遠回りしちゃったなあ。苦しかったすか? 半分はそうだったかも。でも、あの遠回りも全部、ここに戻ってくるためだった、のかな。全部、準備されてた。そうそうそう、あたしもねえさんと、あねえさんってさんすけど、ねえさんと会ったときもそうだったすよ! たまたま設営のバイトしてて、そんとき知り合った人がまさかのキュウゾウで。あたしまさか毎日聴いてたラッパーとバイト先で会うことになるなんて、思いもしなかったすもん。ふふ、そうなんだ。それで組んで今日ここっすからねー、やっぱ最初から準備されてるんすよ! 遠回りもぜんぶ、悪くないっす! そう、だね。そーだちぬん、93うちにベーシストとして加入しません? えっ。ちぬんと組めたらあたし百人力っすよ、あと凄腕のドラマーも入れたら完璧だなー。そしたらもうヒップホップクルーつかバンドすけど、絶対イケるすもん! どうすか、あたしからねえさんにお願いするんで! ありがたい、けど、ごめん、今は無理かな。えー、ヒップホップじゃだめすか? そうじゃなくて。素晴らしいと思うよ、イリチの今いる場所は。でも、そこに加わるには、私がまだ足りてない。たりて? うん。もう一度、いちから、組み立てようと思う。散らかったものを整理して、作品にしようと思う。今度は一人じゃなくて、たくさんの誰かたちと共同で作業して、ひとつの音楽作品にする。それからじゃ……だめかな? サイコーじゃないっすか! ソロじゃなくてバンドってことすか? バンドでなくても、リズムやハーモニーは私以外のミュージシャンにお願いして、もし可能ならインドからゲストも呼んで……いいじゃないすかー! ちぬんの実力と知名度ならいけるっすよ、あたしも一曲くらいギター弾いていいすか? もちろん、あなたを呼ぶに相応しい曲が作れたらだけど。やったー! 言ったからにはやらなきゃだめすよ、約束っすよ! うん、約束。


 そーだ、今日まだ時間あるすか? え、何の予定もないけど、何? ベースあるすよね、じゃあ一緒にやりましょ、初めて一緒にやったあの曲。えっ。ドラムスなくてもじゅうぶん成立するすよ、ほら出して出して。あっ、あの曲……ずいぶん弾いてないけど、ちゃんと憶えてるかな。ちょーっと待ってえ、たしか、あったっす譜面! あはは、書き込みいっぱいだ。もしかして、あのジャムセッションで使ってた譜面? いつもスタジオの空き時間とかでおさらいしてるっす。ふふ、変わってないね。そうかもっすね。ふふふ。あははは。

 なつかしーなあー、この曲録ったときのジャコパトいくつだったんだろー。さあ。たしかメセニーがにじゅういち? のときっすから、みっつうえだから、にじゅうよんかなー。たぶん。もうすぐ私もそのとしだね。ちぬんならまだいけるじゃないすかー、だってメセニーじゅうはちんときから大学のセンセーだったんすよ、もうその時点で勝ち目ないっすよおー、天才ってやだなあー。ふふ、アンプ無いけど聞こえるかな。ふたりだけだから大丈夫っす。イリチ、もっとこっちに来てくれる。その、よく聞こえるように。いいすよ。じゃあ、カウントからのギター始まりで。いくっすよおー。ワン、ツー、




 煙草、一本ちょうだい。お珍しいな、はかるのほうからって。なんだか今日はやたらと頭を使ったからね。ほい。なんかあれらしいね、脳のシナプスをバチってさすの、アセチルコリン? それを活性化させるにはニコチンを外から入れるしかないらしいね。だから作家のひととかあんな煙草ばっか吸って……そんな話はどうでもいいの。なんだよ感じ悪いな。ねえ。なに。どうしてあなたは、そう、誰彼構わず助けるの。えっ。前もそうだったでしょう、あのANDYOURSONGのくぬぎくんに、ずいぶん親身な説教したとか。えっなんで知ってんの。この前焼肉行ったとき話してたでしょう。そうだっけ、あんとき酒飲みすぎて憶えてないなー。はっきり言うけど、悪い癖だよ。なにが。知りもしない他人に深入りして、重大な影響を及ぼしかねないレベルで関わるなんて。だって……それ、はかるがしてくれたことじゃん。独りでどうしようもなくなってる人がいたら、助けて、あげたいじゃん。それもだめなのかな。だめではないけど……心配になるから、いずれあなた自身もふかを負うんじゃないかって。ふかならもうじゅうぶんもらったろ。わかんないな、だからやっちゃうのかもしれないな。傷ついたから? まあ、昔のことだけどさ。ばれたら行かなきゃいけないって、いつかはかるも言ってたろ。そういう意味で言ったんじゃないよ。いや、同じだと思うな。もらったものは、返すしかない。音楽でも言葉でも。それでなにか動きそうなら、黙って座ってるのはナシだよ。


 されたことを返すしかない、か。自分がされたことを、他の誰かに。もちろんそれが、単なる傷つけあいに終わるかもしれないとしても。あるいは、誰かの血を止めるために傷をつけなきゃいけなくなるとしても。医者でもないのに、ね。そうだね。でもそういうことだよ、音と言葉を遣うってことは。その遣い手になる、ってことは。


 一筋縄じゃいかないなあ、音楽って。煙草、もう一本ちょうだい。おう。イリチ遅いね。いや、いいよ。ゆっくり話せばいい。こういう時間は必要だよ。そうだね。うーもう夜は冷えるなー。また冬が来るよ。うん。また、冬が。



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