04 鯰は生じゃ喰えないはずさ
三名様。こちらのテーブル席よろしいですか。あっ、すいません全席禁煙になりまして。はい。ご注文おきまっ、おきまりになりましたらおよびくださいませ。しつれいしま、あ。忙しそうだね。いや、そうでもないよ。て、か、いつからいたの。いま着いた。注文いいかな? うん。ウォッカとかは無いのかな。中華料理屋だよ、
はい、胡麻団子の注文ふたつからとなっております。はい。よっつで、あお持ち帰りですか。少々お待ち、あ。
えっと
お待たせ。うん、やっぱ日曜は忙しいみたいね。まあねー。あっ唐揚げもらったよ、帰ったらチンして食べよ。いいね、お酒ある? あるけど、んーさいきん
お帰り。ただいまー。あっ待って、まだお湯張ってないよ。いいよ今日はシャワーで。シャワーでって、風邪ひくよ。いいよわたしらふたりだし、ふたりで浴槽はいったらさ、ざばーってなるじゃん。え? もー
もー
ねえ
「絶不調」をミドルネームにしたいくらいだ。ラッパーとして定期的にステージに立つならいつかこういう日も来るのかな、とはなんとなく思っていた。でも、いくらなんでもこんなんあるか。肝心の九州大会当日の会場入り前に、しかも電車の中で、なんて。
とりあえずは漁火ちゃんの常備のロキソニンに救われた。が、たぶん女子トイレの便器のほうがわたしよりも良い血色してるんだろう。だだだ大丈夫すか刺されたんすか通り魔すかと漁火ちゃんも狼狽してたくらいだし。通り魔にでも逢ったんならベケットっぽくて格好もつくが、毎月の流血に苛まれてるこちとらには、今更この痛みに何の劇的さも見出せなかった。
しかしこれは。本当に。どういう応報だ。ここ数年間なかったレベルのじゃないか。どれくらいかというとラース・フォン・トリアーならまた人類絶滅系の映画を作る動機になりそうなくらい。ちくしょう、男どもはなんて呑気なんだ。何がセカイ系だこの野郎、こっちは毎月ナプキンまで新劇場版なんだよ。んでこの流血がなけりゃとっくに人類滅びてんだよ。わたしらのこれに比べればお前らの世界滅亡の妄想とかオモチャみたいな戦争とかなまっちょろいわ。と益体もない思考を頭蓋の中で転がしでもしないと一秒が数時間のようだ。ねえさん大丈夫すか、と耳元で聞こえる漁火ちゃんの声にさえ応える気力がなく、アイマスクがわりの濡れタオルの触感だけが助けだった。さっき駐車場ついたって言ってたんで、もうそろそろ、あ、きたっす。と、
楽屋にポットないのか? 一塁側の通路にケータリングがあるから、そこから取ってきて。ええと一塁側ってどっちだ、と前後不覚な
あー……大丈夫か。いまはどうかわからん、けど、ちょっとしたらよくなる、はず、けど、ちょっと今日ありえんくらい重いから、どうなるかはわからんけど。けどが多いな。仕方ないだろもー……と吐き捨てた自分の声がどうしようもなく捨て鉢に響き、遅れてうんざりさせられる。ので手元の生姜湯を一気に飲み下す。とりあえずあと一杯あるからな。ありがと。他なんか
ばたん、と無機質な扉の音。
あ。
すみません、起こしました。や、べつに。あれいま何時だ。時計……うわもう二時間経ってる。
ねえさん身体の加減どうすか? と漁火ちゃんが身を乗り出すので、あー、さっきよりは多少は……ていうか、え、だいぶよくなってないか。あの抉るような感じは……下腹にふれてみる、カイロの温みはそのままだけども、なんでだろ、いつも体調を崩した時のイヤな寝汗がまったく無い。あーけっこう気分良くなったかも……やっぱすか! よかったー、やっぱしてもらってよかったすよはかるん! まあ、ね……と、向こうで不審げに足を組んで座っている
あそうか、出場者ってことは競い合わなきゃいけないんだよな。わたしらの出番いつ? なんと大トリすよおー。うわー、有利なのか不利なのか。今回は対戦カード方式じゃないからね、他の出場者の内容による、としか言いようがない。でもこっからはさ、会場に集まった観客全員の投票になるわけじゃん。だとしたら、この会場内に自分のファン多く呼んだやつの勝ちってことにもなりかねないわけじゃん。主催側はその辺のフェアさとかどう考えてんのかな。考えてないでしょう、「自分のファンじゃない連中も持ってけなきゃ
よいっしょ、と上体を起こし、とりあえず軽い目眩以外には不調らしきものはなかった。ただ、まあ、この下腹の具合でステージ跳ね回れるか微妙だなー。ちょっと飲み物もらってくるよ。生姜湯? いや冷たいのがいい、もう一人で動けるから大丈夫だよ。言いながら、テーブルの上のパンフレットだけ持って立ち上がる。とりあえず一時間後にはここにいてね、他の出場者観ててもいいけれど。おう。
楽屋を出ると、さすがにもう始まってるだけあって観客の大歓声が響いていた。なんかのバンドかな。いま
はい。体調どうだ。まあ万全ではないけど、さっきよりはマシだよ、ありがと。おう。トリらしいな、かっこいいとこ見せろようちの生徒にも。え、え、連れて来てんの。三人な、ヒップホップ好きのやつらを。バカか。何がバカだ、せっかく得票率増やしてやってんのに。そもそもお前らが最初にバズったあれのこと、うちの生徒のせいで知ったんだぞ。まさか元カノってことまでバラしてないよね。言ってるけど。大バカ野郎だお前は。なんでだよ、自慢したくはなるだろ身近に有名人がいたら。有名人いうな、なんでそう俗っぽいかなー
あーもう、ファンなー。なんか照れくさいから今まで避けてきたけど、そうかわたしらにもファンくらいいるんだよな。そもそも漁火ちゃんも、もともとキュウゾウのファンのひとりだったわけだし、と益体もないことを考えながらコップ二杯分の緑茶を飲む。なんか腹に入れとくべきか。でも下手に重いの喰ってもな、チーズサンドビスケットくらいでいいか。あっおいしいこれ、はちみつ入ってる。そっかちょっと加えるだけで全体の味が変わるんだよな、音楽でも。わたしらの新曲どう受け取られるかなー。前のよりアグレッシブじゃないけど、でもワンループのファンクの良さがわかる観客ならビビッとくるはず、と信じたい。あの漁火ちゃんのギターリフもイルだし。そもそもファンが何を望んでるかなんて気にしてどうする、そんな器用じゃないだろ。とか考えながら楽屋に戻ると、なにやら
あねえさん、と
んー、と、ちょっとひっかかることがある。どうしたの。知念さんってさ、漁火ちゃんと同じ地元? 沖縄生まれって意味では同じすけど、あたしは本島でちぬんは
で、何。え? それを聞き出してどうするの。あなたらしくもなく、他人の詮索みたいなことしてるけど。いやそんなんじゃないよ、ただ知念さん、第一印象よりも随分複雑な人だなーと思ってさ。複雑。うまく言えないけど、話してるときもなんか幕を一枚隔てた感じっていうか……誰とでも気易く話せるあなたみたいなタイプのほうが珍しいの。うるさいなー。というかね、
そういえば、と漁火ちゃんが唐突に語尾を切る。なに。なんか、ちぬんえらい気にしてるみたいでした、南のほうの予選で言われたこと。言われたって誰に。対戦相手に。さっき聞いたんすけど、ちぬん予選では不戦勝だったらしいんすよ。ちぬんが先攻で、そのパフォーマンス見た対戦相手が棄権して。その時に言われた「同じ土俵で勝負できる音楽じゃない」って言葉が、いまだに気になってるらしいんす。え……? そんだけすごかったってことかな。かもっすけど、なんかそれだけじゃないっていうか……と、珍しく漁火ちゃんが言葉を詰まらせている。「同じ土俵で勝負できる音楽じゃない」、か。はい。ちぬん、今日のライブでその言葉にけりをつけられなかったら、また修行するつもりらしいす。え、また。ていうかけりをつけるって何。わからんすけど、ちぬんなりのケジメ、みたいなことなんすかね。
沈黙。
そろそろ出番だけど。えっ。彼女の。そっか。そうでした。観にいってみよう、か。そうすね。なら、行きましょうか。
二階席から見えるのはステージよりもむしろ客席のほうで、アリーナ席の客層がどんなもんかくらいは概観できる。席番号指定あるわけじゃないから、フェスみたいに客層入れ替わるんすね。だね。あの最前列のほうみんな知念さんのファンかな。でしょうね、見るからに後ろの方とは違うし。あのなんか……キラキラ光る玉のイルミネーションみたいなやつは、公式グッズなん? 彼女がファンに直接こうしろって呼びかけてるわけではないと思うけど……まあ現代的ではあるかもね、演者じゃなくファンの義務感でルックが決まる感じは。漁火ちゃん、さっきの公式チャンネルのやつ見して……そう、下のコメント欄のとこ。あー、さっき読んだときはこれどういう意味なんだろって思ったけど、なんかファンダムで共有されてるタームがあるのね……ハッシュタグ #知念チヌ下克上2019 って、なんだこれ。勝手に「下」にされたらたまったもんじゃないだろ。だから、言葉が雑な人らのコメントなんて読まないの。でもさ、知念さんがどういう層に受け入れられてるのか腑に落ちてきてさ……この「私も鬱で毎日生きづらさを感じてるんですけど、チヌちゃんの音楽に元気をもらってます!」ってコメントさ、いや元気をもらってるのは良いと思うけど、でも非定型精神病と鬱病は全く違うよね。そうすね。「チヌちゃんも闘病しながら音楽頑張ってるんだから僕も頑張ります」ってさ、知念さん今も通院してるの? いや、一度入院経験があるだけだったはずすけど。「鬱フェスのアーカイブ配信でファンになりました」……あれか、アーバンギャルドのやつか。そんな仕事も受けてるんだな……ほらもうしまいなさい、始まるよ。
暗転とともに、アリーナ席から歓声が上がる。ステージ中央に絞られたスポットライトから、胡座の状態でフレットレスベースを抱えた女性の姿が浮かび上がる。亜麻っぽい生地の五分袖シャツに、背中まで垂れた黒髪に、額には幾何学模様のチャームがついたヘッドバンド。やっぱステージ映えするなあ……なにしてるんだろ、あれ、チューニングかな。インド音楽の楽器は温度や湿度によって調律が揺らぐから、ステージ上で調弦するのも含めてパフォーマンスだって言ってた。そうなのか。でもあれベースじゃん……? ぽうんっ、というナチュラルハーモニクスの音に続いて、両手タッピングによるベースライン、というか、弦楽器と打楽器が渾然一体となったようなフレーズが奏でられる。なん拍子……七? だだっ広い会場にこんな繊細な音が繰り返し響くと、さすがに非現実感みたいなのを伴ってくる。七と八の複合ね。反復されるフレーズの拍を取りながら
なにあれ。
あれっていうか、なにあれら。
明らかに、ふたつあったよね……リズムのことだろ。そう、六弦ベースで鳴らされるハーモニーと、口で唄われるメロディのリズムが、明らかに分裂してた……ループのフレーズとも違ってたよな。というか、あのループを基底とした拍の分割が、ほとんど数秒ごとに変わっていってた、しかもベースとボーカルの両方で……ああそうか、基本が七たす八で合計
てことは、
インド音楽を基底として、
その上に西洋的なハーモニーを重ねて、
しかし奏でられるベースとボーカルは西洋基準の調律ではなくて、
さらに調律のみならずリズムまでもが常に分裂している。
「同じ土俵で闘える音楽じゃない」。たしかにね、こりゃ無理だわ。まず彼女はあんなにも矛盾した要素を詰め込んでる。矛盾をそのままに並び立たせる音楽をやってる。でも観衆は彼女の混淆した音楽性よりも「精神病を負いながら活動する美貌の女性ベーシスト」の物語に持ってかれる。喰い違ってる。彼女の音楽そのものの複雑さだけじゃなくて、それを受け取る観衆との間でも喰い違ってる。そりゃ無理だわ。こりゃ喰えないわ。知念チヌ、あの子、何重苦だ。音楽に傾けてきた情熱だけでも相当なものだろう、理論と実践の両方において。なのに、観衆にはそれが伝わらない。見栄えのいいイメージと俗耳に消費されやすい物語が先に立ってしまう。じゃあ、彼女は、自分が世界に捧げるために
あ。
「だって、ファンクって微分だろ?」
数学。えっ。知念さん、音楽のほかに数学にも執着してた、んだよね。そうすよ、高校の頃から。で、大学の理数科入って、イン哲行って、そっからインド修行、だったよね。そうす。
もしかして。
ファンクは微積分、か。なるほど
〔図1: https://www.dropbox.com/s/y4l03hduuci6t14/14fig1.png?dl=0 〕
つまりこうだよ、と紙の上にギターリフとビートとボーカルのリズムパターンを書き出す。全体を八分音符で換算すれば、さっき言ったビートとギターが一周するまでの総拍数は九六だろ。ええと、さんがろくでそれがよっつでよんかいループして……そうっすね。で、これをかける二して一九二拍。そこにわたしの七拍子取りのラップも同時進行するわけだから、四小節の六ループ進んで一六八拍消費した瞬間に……のこり二四拍すから、あ、あたしのギターのケツと一致するっす。そう! この残り二四拍をトップオブザヘッドでやって、全部のパートの拍が一致した瞬間にフックに入る。オケのほうはずっと同一のドラムスとベースのループだから、
〔図2: https://www.dropbox.com/s/y2rvcn5us4zdab0/14fig2.png?dl=0 〕
……つまり、この前ANDYOURSONGがやってた偶数ビートと奇数ラップのポリリズムを、より数学的にやるってことね? そういうこと。まあね、不可能ではないけど……
ひとつ訊いていい。なに。どうしてそこまでするの。知念さんのために、ってことか。と訊き返しても、
聞こえた、気がしたからだよ。何が。悲鳴が。私をちゃんと聴いてくれって悲鳴が。「同じ土俵で闘える音楽じゃない」、そう思われてきたんだろ彼女は。熱心なファンはいるみたいだけど、でもどう考えても喰い違って伝わってるだろ。あなただけは正しく理解できてる、ってわけ。
はあっ、と歎息。音楽で、ね。おう。さあ漁火ちゃん、いきなり変更でごめんだけど、しっかりこなせるってとこ見せてもらうぞ。もちろんっすよ! ねえさんだって途中でオチたらフォローできないっすよお。なめんなよー、こちとらリズム感以外は何もないんだ、ラッパーだからな。あはははは。わははははは。
つらいよな、自分と同じ土俵の上に、誰も来てくれないってのは。せっかく
同志よ、ミュージシャンよ。
待ってろ。今、そっちに行く。
パンツの中にヒアリがいる
タランテラ噛むから鳴るheel
最も人間的な部位
mo’ sweet jive on ya Nasty Booty
パンツの中にヒアリがいる
ガラガラヘビ踏み砕くheel
アステアの ass にジーンと痛む蹴り
ここまではいい。セカンドヴァース。次の小節の四拍後だ、精確にはここから倍取りだから八拍後。いいな
〔図3: https://www.dropbox.com/s/98ba0zr1jxdmqgu/14fig3.png?dl=0 〕
踊るには必要なのだケツが
月に一度は屍山血河
だが知ったことか再点火
友よ血義理の酒杯だ blood on blood
合った。合った。合った。
パンツの中にヒアリがいる
タランテラ噛むから鳴るheel
最も人間的な部位
mo’ sweet jive on ya Nasty Booty
パンツの中にヒアリがいる
ガラガラヘビ踏み砕くheel
アステアの ass にジーンと痛む蹴り
godspeed on ya Nasty Booty
あぶねー、オチるかと思ったー。おー、すげ、歓声。ちゃんと伝わったか。だよな、頭でバーっと揃うの気持ちいいもんな。
しんどかったー。いやー一瞬いまどこにいるんだろうって思ったすもん、ねーはかるん。いや、私はずっと同じコンピングの繰り返しだからむしろ退屈だったけど……あはは、でもあの緊張から解放される気持ちよさはんぱないなー。緊張と弛緩ね、あなたに一番似つかわしくない言葉。なんだそれー。そういうディシプリンとは程遠い音楽のはずだけど、ファンクって。だから意味を広げたんだよ、わたしらが。
で、いかなくていいんすか。えっ。ちぬんのとこ。楽屋すぐそこっすよ。そう、だね。まだいるかな。いなかったら追いかけるでしょう、最後まで責任持ちなさい。わかってるよ。じゃ二人とも荷物持って、忘れ物ない? よし。
あっ。と、ヘッドバンドを外して顔を洗ってるところらしかった。
本当に、おめでとうございます。二階席から見てましたけど、すごい演奏でした。ちぬんもすごかったすよー、あんなのできるようになってたんすかー! ふふ、練習したからね。ねえ、知念さん。はい。わたしらさ、知念さんのパフォーマンス見て、直前で変更したんだ。なんつうか、知念さんが独りでやってたことを、わたしらは三人でやったらいいんじゃないか、って。やっぱりそうだったんですか。わかった? はい、分裂させながらまた一つに戻る、コンセプトが同じでしたから。正直、どうだった。正直、ですか。うん、なんだパクりやがってこの野郎とか、なんでも言ってくれていいから。ふふっ、正直、正直ですね。うん。初めてだ、って思いました。えっ。初めて、初めて私と同じようなことを考えてる人に逢えた、というか……初めて、私のことをちゃんと聴いてくれた、ひとがいた、というか……ごめんなさい、気持ち悪いですよね。いやなんでだよ、そうしたかったんだよ。えっ。「同じ土俵で闘える音楽じゃない」、わけじゃない、ってことを、わかってほしかったんだ。
知ってたん、ですか。うん。イリチ。ごめんっす、言っちゃったー。ふふっ、と口笛のような苦笑が漏れる。正直、またやり直しかな、と思ってました。やり直し。目を伏せて頷く。私なりに、真剣に音楽をやってきたつもりだったんです。でも、どんなに頑張っても、なにか伝わってなくて、なにかずれていて……伝えようとすればするほど、なにも響かなくなっている、気がしていて……でも、そうじゃなかったんですね。ふうっ、と漏れた息でひとすじの髪が揺れる。
良い人たちと出逢えたね、イリチ。ほんとっすよー、そんで今日ちぬんにもまた逢えたすもんー! ふふっ。
ほんとうに、良い人たちだね。でしょー。イリチのまわりには、自然とああいう人たちが集まってくるんだよね。そうすかね。そうだよ、初めて会ったときから。私ね、羨ましかった。あなたは、音楽さえあれば、誰とでも仲良くなれちゃうから。そりゃーちぬんも同じじゃないすかー、だってあたしらが仲良くなったきっかけも音楽でしょ。違うよ。えっ。私もね、そうかもって思ってた。自分の気持ちがわからなくても、音楽を使えば伝わるんじゃないかって。でも、ずっと勉強するうちに、どんどんわからなくなったんだ。入院してた時期、っすか? うん。数学は子どもの頃から私の友達だった、数は怒ったり悲しんだりしないから。でも、ジャズのレコードを聴くようになって、音楽が好きになって……演奏も勉強していくと、実は音楽理論にも数学が深く関わってるんだ、って。そうっすね。そこから、どんどん、わからなくなって……音楽にも数学にも、私の気持ちは必要なのか不要なのか、もうわからなくて。いつのまにかインドにまで来てたけど、どれだけ勉強しても、結局のところはわからなくて……ねえイリチ、どうしてなんだろ。え? どうして私にはわからないのかな、あなたには軽々とこなせることが、私にはできない。あなたと宜野湾で演奏してた頃の、あの感じが、いまだに掴めない。
そりゃー、簡単じゃないっすか。えっ。ちぬんちょっと右手、いいっすか、指、こう。こう……? そう、いち、っす。いち……で、あたしも、いちっす。いち。で、これ合わせたら、に、じゃないっすか。うん。いちといち合わせたら、にになるでしょ。うん。それっすよ。えっ。音楽も数学もそうでしょ、いちだけだったら、なんもはじまんないじゃないすか。いっこ音出しただけじゃ曲にならないすよ。にこめの音、拍があって、曲になっていくでしょ。あたし数学は全然わかんないすけど、いちだけだったらなんにもならないじゃないすか。あ……ああ、そう、だね。でしょ。だから、こうっす。いちといち合わせたらにになるっす。そしたらその先ができて、さんとかよんとかろくとかじゅうにとかになって、もっと面白くなるっす。色んなことができて、色んなのが出てきて、アガって、楽しくなるっす。そういうことじゃないっすか?
……そっか。でしょ。どうして私、こんな簡単なことに気づかなかったんだろう。いちたす、いち……そっか、独りでやらなくてもよかったんだ。そうっす。インドで習ってたときも、私の周りには色んな人がいたはずなのに、私が持ち帰ったのは、私のためだけのものだった。そうなんすか? かも、しれない……だから私は、どんなに勉強しても……いや、多分すけど、そういうことですらないすもん。えっ。だって、ちぬんあたしと初めて演奏したとき、わざわざ宮古から来てくれたじゃないすか。うん。あっ……そうか。そうす。そのとき、もう、にになってるじゃないすか。同い年でこんな巧いベーシストいるんだーって、あたしすごい嬉しかったすもん。でもちぬん、あのあとあんまり来なくなったからあ……あたしも上京前にもう一回くらいしたかったすよ。そうなの。そうす。あたしも上京したてでローディーとか楽器屋とか忙しくて、ぜんぜん帰れなかったすけど、かあちゃんから宮古の知念ちゃん東京の大学いったよおーて連絡があって、わあ会えるかなあて思ってたら色々大変そうで、たまに電話くらいしかできなくて。そう、だったん、だ。インド行くってきいたときはびっくりしたすけど、やっぱちぬんはすごいな、本気で勉強したいんだなあって。ふふっ、全部、あなたと演奏した時から、始まってたことなのにね。あははー。
遠回りしちゃったなあ。苦しかったすか? 半分はそうだったかも。でも、あの遠回りも全部、ここに戻ってくるためだった、のかな。全部、準備されてた。そうそうそう、あたしもねえさんと、あねえさんって
そーだ、今日まだ時間あるすか? え、何の予定もないけど、何? ベースあるすよね、じゃあ一緒にやりましょ、初めて一緒にやったあの曲。えっ。ドラムスなくてもじゅうぶん成立するすよ、ほら出して出して。あっ、あの曲……ずいぶん弾いてないけど、ちゃんと憶えてるかな。ちょーっと待ってえ、たしか、あったっす譜面! あはは、書き込みいっぱいだ。もしかして、あのジャムセッションで使ってた譜面? いつもスタジオの空き時間とかでおさらいしてるっす。ふふ、変わってないね。そうかもっすね。ふふふ。あははは。
なつかしーなあー、この曲録ったときのジャコパトいくつだったんだろー。さあ。たしかメセニーがにじゅういち? のときっすから、みっつうえだから、にじゅうよんかなー。たぶん。もうすぐ私もその
煙草、一本ちょうだい。お珍しいな、
されたことを返すしかない、か。自分がされたことを、他の誰かに。もちろんそれが、単なる傷つけあいに終わるかもしれないとしても。あるいは、誰かの血を止めるために傷をつけなきゃいけなくなるとしても。医者でもないのに、ね。そうだね。でもそういうことだよ、音と言葉を遣うってことは。その遣い手になる、ってことは。
一筋縄じゃいかないなあ、音楽って。煙草、もう一本ちょうだい。おう。イリチ遅いね。いや、いいよ。ゆっくり話せばいい。こういう時間は必要だよ。そうだね。うーもう夜は冷えるなー。また冬が来るよ。うん。また、冬が。
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