13 Sensitive Obsessed Sister


 ロバート・プラントも唄っていたように、時として言葉はふたつの意味を持つ。

悪魔satan」には「聖性santa」が含まれているし、

破門anathema」には「憎男a hate man」が含まれている。

アイルランドIreland」は「現実の独立real ind.」だし、

sangre」は「再歌唱resang」なのだ。


 なのだから何か。だから、あたしたちはいつの間にか、同じ文字の並びからまったく別のことを読み取っているのかもしれない。母国語じゃないからわからないが、日本語にだってあるだろう。書いたはずもないことを書いている、読んだはずもないことを読んでいる。とすれば、言葉で何かを伝えようとしたとして、それはあらかじめ失敗を運命づけられているのかも。書き言葉ですらそうなのだから、話し言葉においては言うまでもない、文字通り言うまでもないことだ。頭の中で練ったはずの案文でさえ言い間違って、書き言葉にできないようなノイズが混じって、それでも伝わるでしょ、ねえわかるでしょと一方的な甘えを抱いてさえいる。そもそも言葉は、友情や愛情を伝えるための手段として向かないのかもしれない。

 それでも、言葉を使わなくてはならないとしたら、それは何故か。

「正しく言えた」でも「言い間違えた」でもない何かがあるとしたら、それは何か。




 で、何の用だ朝から。曇天とはいえ、Yonah艦長室の窓ガラスから差し込む朝陽は、電灯を点けずとも互いの顔を伺い知るに十分な光量を与えていた。いや、何の用ってこともないんだけど、ちょっと話したいなと思ってさ。部屋から持ってきた炭酸水を卓上に置き、眠たげに瞬きするマキの目を見る。痩せた? いや、体重計がないからわからんし、だいたい計ってどうする。船の長旅では体調管理は重要なんじゃないの。私が体調を壊したところでこの船は止まらん。だからといって自分の身体を気遣わなくていい理由にはならないだろう、と言ったとしてもうるさいだけだろうので、代わりに思い当たったことを訊いてみる。そもそもマキってさ、なんでこの船に乗ってるの。艦長だからだ。知ってるけど、それはドゥの旦那に命じられたからでしょ。抽斗ひきだしからタバコを取り出しながら頷いている。なんでマキだったのかな、客船任せられるやつなんていくらでもいたろ。Peterlooの職員で軍役経験があるのは私とおおうらくらいだし、何より日本語話者だからだろう。あのわけのわからん発明のおかげで、日本語が標準言語に設定されてしまったわけだから。まあそれはね、と思いながらも、早々に話題が尽きる。そんな世間話をしにきたのか。と一本目をふかしながら言うので、うん。とだけ答える。べつに人間どうしの対話は内容のある質疑応答でなくてはならないなんて法はないはずだ。そうか、とタバコを横咥えにしながらいつものように黙るので、あたしも黙る。世間には沈黙が気まずい人もいるらしいが、あたしは全然そんなことない。話すことがないなら黙ってたらいいし、話すことがあっても黙っていいはずだ。人と人との関係ってそういうもんじゃないか、でもミッシーの家族はずいぶんうるさかったな。家族か。家族らしい会話ってどんなものだろう、とくに朝の会話。新聞でもあれば、とくに興味もない一面記事をネタにそれらしい会話ができるのかな。それもいいな、あたし好みかもしれない。ただ声を聴きたいから話すってこともあるだろう、そのために供する話題はどうでもいいみたいな機微も。たとえばそれは、学校で一緒になった友達と……うまくいっていないのか。と唐突にマキが言う。えっ。あの一緒に組んでる子とだよ。とタバコをにじりながら言うので、ああ、いや……そうでもないんだけどね。と有耶無耶に返す。そうでもないってどっちだ。うまくいってないわけじゃないんだけど、うまくいってるわけでもない、っていうか。これ日本語になってる? まあな、言いたいことはわかる。と両手を椅子の脇に垂らしながらマキは言う。もう二回目の公演を終えたんだったか。うん、いま四位。その順位に不満でも。そりゃあ、奴らを引き摺り下ろすために来たんだからね……でもそれ以前に、の次にくるはずの言葉が見当たらない、ので黙ってしまう。なんだかわだかまりがある気がする、とかか。それとなく補ってくれたマキの言葉に、たぶん、そうなんだと思う。と継ぐ。頷きながら二本目を取り出し、なら、いまお前が話すべき相手は私じゃないだろう。部屋に帰ったらどうだ。と突き放すような言葉も、あたしには精一杯の気遣いのように聞こえた。うん……でも、ミッシー夜通しで作業してたから、昼過ぎまで寝かせてあげたいんだ。それまでずっとここにいるつもりか。できれば……だめかな? だめだと言下に謝絶できる人なら、そもそもこんな役職には就いてないだろう。好きにしろ、煙さえ気にならなければな。とだけ言って、椅子に深く座って脚を組むのだった。ありがとう。あたしも同じように座り、脚を組んでみる。

 何も言わなくていい、沈黙を埋めなくていいこの時間が好きで、それだけのためにマキに会いたくなる。今までは電話しかできなくて、何の用もないならもう切るぞ。と無愛想にピリオドを打たれていたけど、マキが艦長の任を命じられた今では、こうして直接対面できる。この贅沢な時間を過ごせるようになったこと、それだけであたしはドゥの旦那に感謝しなきゃいけない。

 でも、そう贅沢ばかりしてもいられない。あたしの仕事に備えなければ、いや、あたしたちの仕事か。ミッシーが目覚めたら、一週間後のステージの最終調整をしなければ。Innuendoに匹敵するどころか凌駕しうる二人だと証明するための、あたしたちにとっての大一番。




 うん、完璧だよヒメ! 闊達な声がトークバックを介し、耳元のヘッドフォンに伝達される。とりあえずメインボーカルだけで聴いてみる? ああ、頼む。最終コーラス部の四小節前から再生開始され、さっき唄ったばかりの自分の声が聞こえる。再生が止まり、どう? と尋ねる声に、ああ、いいと思う、音さえ割れてなければ。と返し、レベルメーターはずっと赤ついてないよ。よっし、じゃあボーカルトラックはこれで終わり。おつかれ! との声が切れる。あたしもヘッドフォンをはずし、防音扉を押し開く。

 コーヒーでいいよね? いや、今日はカフェイン控えたい。そっか、じゃあホットミルクかな。ありがとう、もらうよ。マグカップふたつを電子レンジに入れるミッシーに、とりあえず全部済んだな。と確認する。うん、ヴァルパライソ公演までの準備はね。しかし、あの難曲のレコーディングもワンテイクとは、さすがヒメだねえ! と笑いながら右手を差し出す、のであたしも差し出す、が、あのヒップホップヘッズ特有の手の合わせ方がどうしてもうまくできず、指と指をぶつけただけで終わってしまう。あはは、これだけは何度やってもできないねえ! うるさいな、よくわかんないんだよこれ……それより、ライブまでに済ませること、本当に何も忘れてないよな。抜かりないはずだよ、あとはライブ終了後の『Hell-Bent』の配信開始準備くらいかな。ミキシングはどれくらいで終わる? いつも通り、三日もありゃ十分だよ。そうか、それじゃあ次はステージ演出固めないとな……と話題を継ごうとすると、ミッシーが眠たげに目を擦るので、ちゃんと寝てるか? と訊いてみる。んあ、大丈夫よ。ただなんかわたしが寝てるあいだ時化てたのかな、起きたら枕がズレてて首痛くて。大丈夫か? こんなの不調のうちに入んないよ。電子レンジのベルが鳴り、中から二人ぶんのマグカップを取り出すミッシー。受け取り、カウチに座る。

 いきなりだけど。の前置きはどうしても必要と思われた。ん、どうした? いきなりだけど……これじゃ奴らに勝てないと思うんだ。敢えて短く切ると、奴らって、Innuendo? と心得顔で返す。ああ、もちろん練習はしてきた、楽曲も申し分ない。でも……なんだか、このままでは何度やっても奴らには届かない気がしてる。ヒメらしくもなく弱気じゃん。二回とも投票で四位だったのがそんなにこたえた? そうじゃなくて、二度、奴らのライブを目の当たりにして……やっぱりあたしらとは違うんだって。違うのは当然だよ、全然別の音楽やってるんだし。でも、ShamerockがInnuendoと同格に立つには、肝心の何かが抜けてる気がするんだ。うーん、肝心なねえ……ホットミルクの表面に凝固した膜をティースプーンでほぐしながら、それ、ヒメの個人的な気持ちの問題、じゃないかな? と、正面からあたしの目を見据えて言った。

 そうなのだろうな。結局、そうなのだろう。エリザベスの鼻っ面をし折る気満々で来たにも拘らず、あたしはまだ一矢もむくいていない。メキシコ公演では客層も手伝ってDefiantが一位だったが、次のペルー公演でInnuendoは悠々と一位の座をかっさらった。そしてあたしはといえば、いつも通りのパフォーマンスはできこそすれ、このツアーが始まって以来これといった手応えを得られないままだった。93はあの会心の新曲で一挙に名を挙げたというのに……と黙ったままでいると、なんか、人と比べちゃってない? とミッシーは継ぐ。ここまで図星をつかれては、それこそ押し黙るしかない。大丈夫だよ、ファンはこの一ヶ月ずっと熱心に応援してくれてる。いつものペースを見失いさえしなければ逆転はあるって。そうなのだろう、おそらくは。93だって焦慮に憑かれることなくいつものペースを保ったからこその結果だろう。この賭場では、忍耐を失った者が真っ先にける。それはわかる、わかってはいる、だが。

 ミッシーは──ミッシーは、最初から勝負する気が無いからそんなに落ち着いてられるんだろ。

 しまっ、た。なんてことを。シーラ、お前なぜ言う前に考えなかった。つの立たず飄々として常に余裕を失わないメリッサ・マッコイの存在こそ、お前にとって不可欠のいんだろう。その人に、お前は一体何を言った。

 そうかもね。それでも眉一つ釣り上げずミッシーは言った。わたし、あのエリザベスもウェンダも、どっちかといったら仲間だと思ってるもんね。仲間……そうだな、あのオープニングセレモニーの対面でさえ、ミッシーはいつもの調子を崩さなかった。だからといって、Shamerockがいつまでもこの順位でいいとは思わないよ。だから次のオープニングでぶっかます。そのための準備を、この一ヶ月ずっとしてきたんでしょ。ああ、これだ。これなんだな、あたしがミッシーと一緒にいて、ときどき堪え難く思うのは……あたしがどれだけ薄みっともない言行を見せても、ミッシーは微笑を湛えたままとりなしてくれる──好悪の感情すら見せずに。どうすればそんなことができるんだろう、ミッシーが茶飯事のようにこなせることは、あたしが常に仕損じることなんだ。

 うん……ごめん、余計なこと言ったな。立ち上がり、扉の前まで歩く。おーいヒメ、ミルクは。すぐに戻ってくる、そのまま置いててくれ。うん……今ミッシーがどんなおもちであたしの背中を見ているか、さえ、確かめる度胸がないのだ。


 そうだ、根性なしなんだ、あたしは。スコットランドに出てきたのだって、ミッシーの家族は勇気の証のように言ったけど、結局は不快感から逃れたかっただけ。故郷を捨てて家出したあたしよりも、醜聞をそのままにゴールウェイで生き続けている父の方が、よっぽど胆力がある……あ。と、爪先ばかり見ていたあたしの目が、前方から歩いてきていた人を認める。ヒメさん。シィグゥのヤスミン、か。キッチンからの帰りなのか、両手に蒸籠せいろを持って立っている。そっちも休憩中か。ええ、いま新曲の仕込みで。ずいぶん作るな、今までの二公演でもセットリスト変えてたろう。ええ、そうなんですけど……でも、次はもっと変えるかもしれません。照れたように笑っている。そうか……余計なお世話かもしれないが、そこまでするとコンセプトがぶれないか? しまった厚かましいことをまた、と遅れて悔やむと、ヤスミンはにっこりと笑い、ぶれなきゃいけないんです。今まさに、私たち自身を揺り動かしてる最中なんです。もっと別のやり方を見出さなきゃいけないってわかったから。と決然として応えた。あれ、こんなにハキハキと喋るやつだったか。あたしが呆気に取られてるうちに、ヤスミンは笑みをそのままに、この前のペルー公演は、私にとって納得のいくものではなくて。だから今、私とハンの関係そのものを洗い直してる最中なんです。この前の木曜なんか、お互いの嫌いなところを列挙していく作業から始めて。しんどかったし喧嘩みたいにもなりましたけど、その後やるべきことが見えてきたんです、視野が明瞭になったというか。と闊達に続けた。そうか……なんだか、数週間前とはずいぶん違うな。あっすいません、私ばかり話しちゃって……と過敏に恐縮するところは相変わらずだが、いやあでも、難しいですね、二人で何かをするのって。と笑うその姿は、何かを掴みつつある途上の清々しさを湛えているように見えた。ああ……ほんとに、な。じゃ、お互いに頑張ろう。あはい、お疲れ様です!




 じゃあミキシングはこれで確定で。ん、今までで一番いいな。トラックはクリアに聴こえるし、ボーカルは生々しさを失っていない。でしょー、録りのときから気ぃ遣ったんだからー。じゃあこれをエンジニアに送って、二四時間以内にマスタリングも終わるから、これでほんとに準備完了だね。ああ、ライブ以外は……な。まだ心配してんのヒメー? まあ、正直。大丈夫だって、頭ん中いっぱいになってるなら身体動かそ。そうだハンから聞いたんだけどさ、一番キャビンからデッキに出たとこがトレーニングにうってつけなんだってよ、体操とかランニングとか。いいよ、一番キャビンってInnuendoがいるとこだろ、あの辺には近寄りたくない。またそんなこと言うー。その回避しがちな癖直さないといつまで経っても届かないよ。なっ……回避なんかしてない。だいたいなんだ届かないって、やっぱり勝つつもりないんじゃないか。ヒメがこのままでい続けるならって話だよ、わたしが言いたいのはさ……あいつらも仲間だと思う、だろ。それは散々聞かされた。あたしが言いたいのは、競い合うやつらとそんな接しかたするのが間違いだってことだ。なんでそんな意固地かなーヒメは、もっといろんな人に心開きなって、わたしにもできるんだからヒメにもできる。それは、それは──ミッシーにはまともな家族がいたからだろ。




 えっと、どうしたの。深夜に呼び鈴が鳴るので何事かと思ってドアを開けば、そこにはシーラ・オサリヴァンが所在なさげに佇立していた。泊めてほしい、今夜だけでいいから。ええ……?


 ってことはつまりあれか、喧嘩別れってことか。とが軽率に言うので、別れってことはないでしょう、単に作業中の意見の相違。とただしてみる。いや、そういうわけでもないんだ。えっ。作業は滞りなく進んでるんだ、次のライブの準備も……ただその合間で、言っちゃいけないことばかり言っちゃって……つまり喧嘩でしょ? 喧嘩ですらないのかもしれない、あたしばかり後悔することが続いてたんだけど、もうあの部屋にはいられないって、こうして……出てきた。まさか海の上でも家出とは。まあ、泊めること自体は問題ないけれど。でも部屋すぐそこなのにねえ。心理的な距離が甚だしくなったから、もうあの部屋にはいられない、ってことね。念を押すように言うと、静かに頷いてくれた。

 じゃあヒメもいっしょにメシしましょ。いや、腹は減ってないから構わなくても……いいすよ今夜あたしが料理当番なんで。おおーまたなんか増えてる。イリチ海鮮丼 ver.3.0 っす! ヒメも、もし海鮮いけるならどうぞ。ああ、うん……ありがとう。

 すごいな、こんなイクラの使い方が……そうす、きれいに盛り付けるのどうしたらいいんだろーって悩んでたんすけど、いっそ具材ぶつ切りにして味醂と醤油ぶちまけたあとイクラ振ってみたら、なんかいなでサイケデリックな感じになったす。いなでサイケデリック……ふふっ、斬新すぎる形容ね、実際その通りだけど。でもこれいい滋養になるよ、レシピメモっとくべきだよ漁火ちゃん。やったー。ああ、あたしも美味しかったよ、ごちそうさま。

 じゃあ、話を聞きましょうか。と食器をかたしながら言うと、えっ、と目を丸くしている。話って、入ってすぐに話したじゃないか。あれが全部ってわけじゃないでしょう、まだ隠し立てがあるように思えた。せっかく泊まりに来たのなら、もっと胸襟を開いてくれてもいいんじゃない。と言うと、いや、93の時間を奪うことになるし……と逡巡するので、なんだよ聞かせろってのーとすかさずが肩を組む。こちとらそういうの大好物なんですよ、二〇台前半の思いうるさいなんてわたしらもー通り過ぎちゃったもんねえはかる? たかだか二七にじゅうなな歳がなに賢者ぶってるんだか。いいすよヒメ、あたしらも長めの休憩取るつもりだったし、話聞けるっす。と三人でカウチに腰掛けると、気持ちの整理がついたのか、ため息一つを置き、訥々と話し始めた。

 なんだか……ずっと一人でいるって気がするんだ。

 一人でいる、って? 教授キョウジュと心が通じてない、ってこと? とが訊くと、まさか、そんなわけない。とやけに強い語気で応える自分自身の声に驚いたのか、そうじゃなくて……と急に萎えた声色になる。そうじゃなくて、逆なんだ。逆。ああ……Innuendoに勝ちたいあまりに、あたしが焦って何か言うと、ミッシーはいつも受け止めて、そのあと正しい方向に導いてくれる。それはありがたいんだけど……と再び言葉に詰まったようなので、いつも教授キョウジュに導かれてばかりだから、対話というよりは諫め役を任せてしまっているように感じて、申し訳なさが募る、とか? と助け舟を出してみる。そう、まさにそんな感じなんだ。だから、ミッシーはとくに気にしてないんだとしても、あたしばかり孤独に感じる……というか。孤独、強い言葉が出てきたな。そしておそらく、この子にとっては偽らぬ感情。胸懐しているものを隠すのも曝け出すのも両方苦手なこの子にとって……と、いや、これはいったい誰のことだ。そうだシーラ・オサリヴァンのこと。しかし、私はそもそもこの子のことをそこまでよく知っていたか。あるいはまさか、自分自身の幼年時代をこの子に重ねて見ている、なんてこと。

 なにか見当違いの迂路に迷い出たようで、私から言葉を切り出すのは控えていると、それなんかあれに似てるな、とがだしぬけに言う。どれ。ちょーっと待ってて、と部屋の一角にあてがわれた本棚から一冊取り出し、カウチに戻る。これこれ、わたしが船に持ってきた数少ない蔵書のうちの一つ。『ツァラトゥストラかく語りき』河出文庫版の表紙を見せる。これのね、えーっとどこだっけ……あった、「大いなる魂たちに、大地は今もまだ開かれている。一人きりの孤独なものたち、二人きりの孤独なものたちに」。と読み上げると、二人きりの孤独なもの……? とさっそくヒメが喰いつく。この表現、何度か出てくるんだよね、「ふたりで住む隠者たち」みたいに。ふたりで隠者……? はかる、このドイツ語原文どうなってるんだっけ。 zweisame, あるいは zweisiedler だったはず。 einsiedler なら辞書に載ってるからわかりやすいんだよ、「隠者、世捨て人」だから。『Aqualang』のジャケットみたいなやつか。そう。でも zweisiedler だと意味が……いや、この本の中ではちゃんと脈絡ついてるんだよ。とは文庫本のページをめくりながら、あった、四九六ページ。「諸君の隣人とは誰だ。『隣人のために』行動することはあろう──しかし隣人のために生むことはない」、「諸君の愛のすべてがあるところに、つまり諸君の子どものそばに、君たちの徳のすべてもある。君たちの仕事、君たちの意志こそが、諸君の『もっとも近い隣人』だ」、と引用する。つまり、「二人きりの孤独なもの」って、自分の仕事を隣人として持ってる者ってことなんだよ。「諸君、創造する者よ。貴人たちよ。ひとは自分の子を孕むことしかできない」。この自分の子を孕む仕事を「もっとも近い隣人」として持ちながら生きてるんだから、それは zweisiedler, 「二人きりの孤独なもの」ってことになるでしょ。とが筋道立てると、そうか……そうだな、言葉の意味は通ってる。とヒメが頷く。これはたしか私が独文専攻の頃に酔余の長電話でに話したことだった気がするが、言わないでおく。で、それがヒメとどう繋がるの。と水を向けると、わたしが思うに、ヒメはまだ einsiedler なんじゃないの。「一人きりの孤独なもの」だから、教授キョウジュと一緒にいると別の孤独を感じる、みたいな。ほらだって、教授キョウジュってヒメと出会う前から音楽の仕事やってたんでしょ。と一息に述べられ、ああ、そう、そうだ……としきりに頷いている。つまりヒメはまだ「もっとも近い隣人」を持ってないから、すでに「二人きりの孤独なもの」である教授キョウジュと接してるとつらくなるんだよ。だから、ヒメも自分の仕事を持ったらいいんじゃないかな。Innuendoに勝ちたいってのは、それはヒメの目標ではあっても、仕事ではないでしょ。

 そう、か……誰に言うでもなく呟き、何を見るでもなく視線を泳がせている。そうだ、そうだよな……奴らに勝つのは、目標ではあっても仕事じゃ……そっか、こんな簡単なことにも気づかなかったのか。こんなことすらわからずに、あたしはミッシーの音楽の仕事を……と呻きながら立ち上がる、のを制する。待ちなさい。えっ。どこに行くつもり。どこって、今すぐミッシーに謝りに……あなたは本当に落ち着きがないね。とだけ言うと、また不意を突かれたような顔。いきなり出ていきなり帰っていきなり謝られたら、教授キョウジュとしてもなんのこっちゃでしょう。あなたが決めたことなんだから、今夜いっぱいはここで過ごしなさい。作業に追われてるわけでもないんでしょう? ない、けど……今さしあたって出ているように思える結論でも、翌朝には変わってしまいがちでしょう? 少なくともあなたは、そういうタイプだと思うけど。と、このいやに物わかりのいい言もまた誰に差し向けているのか訝しくなり、とにかく今夜はゆっくり眠りなさい、ベッドなら貸してあげるから。と早口で終える。おうわたしのベッド使っていいよ、今夜はカウチで寝るから。えっ、いやそんな……じゃあ三人のうち誰かと一緒に寝るすか? えっ、いやそれも……とくるくる表情を変えるヒメの顔が可笑しく、ふいに噴き出してしまう。そして私の顔を見て、ヒメのほうも意外そうなおもちで笑うのだった。


 ああ、一体どちらがどちらを見ているのか。この子を前にしていると、わからなくなることがある。単にアイルランドの血を同じくしているから、だけではないだろう。知りもしない相手の心裡を気安く窺うべきではない、とわかっていても、この子に対してはどうしても、妹のような、家族、のような……

 そのへんにしておけ、と自分の中の誰かが言う。その言は正しい。生まれ故郷を捨てて歌の道を選んだ彼女と、父母との因縁をずるずると引きずって時折悔恨の念が兆す程度の私とでは、辿ってきたみちが違うのだから。しかしこれから、この子が歳若さゆえの呻吟で歌声を鈍らせてしまいそうなら、砥石として自らを捧げるのが私の使命、でなくても、役目ではあるだろうと、隣のベッドで眠る無防備な横顔を見ながら、そう思った。




 お。

 おはよーていうかおかえりーヒメ! よく眠れたー? と言ってみる。あれ、返事がないな。見ると、一言目をどう切り出していいかわかりませんってな顔。どうしたの? と続けてみる。あの……と一呼吸置いて、ごめん、ミッシー。昨晩いきなり出ていった、のもそうだけど、色々ひどいこと言った……と眉をきゅっとするヒメ。ひどいって何が? と訊いてみると、えっ、とあべこべに不思議そうな顔を向けられる。だって色々言っちゃったろここ数日、ミッシーは勝つ気がないんだろとか……と大真面目な顔で言うので、ぶっ、と堪えきれず噴き出してしまう。ぶっ、はは、あっははははは! なん、なんだ、そんなおかしくないだろ! いやおかしいよ、だってヒメさあ、今までわたしがジョー姉やアニー姉にどんだけひどいこと言われて育ったと思ってるよ? と言うと、急にきょとんと黙り込むので、あんなん気にしてないよ。むしろわたし心配だったよ、ヒメのほうが思ってること言ってくれなくなるんじゃないかって。と笑ってみる。まさか、そんなことあるわけないだろ。じゃあおあいこさまじゃん? お互い意味のない心配して、遠回りな気遣いしちゃったってことで。まあ、そう……かな。と黙り込んでいる。あれ、まだ何かあるのかな。

 なあ、ミッシー。

 なに?

 こんなこと、すごく馬鹿らしく聞こえるかもしれないけど……言わせてほしい。

 なんでも言いなよ。

 あの……昨晩、93の部屋で色々話して、色々考えて。それで、あたしも自分の仕事を見つけなきゃって思ったんだ、ミッシーがプロとして音楽に携わってるように。あたしもシンガーとしてはプロかもしれないけど、ミッシーに頼ってばかりだから……いつか本当の意味で、これが自分の仕事だって言えることを見つけたい。今まで全く注意を払わなかったことを、今日からは見据えられるようにしたい。だから……いいかな?

 いいかなって、なにが?

 あたし、もう一度……ミッシーの友達になりたい。友達になって……いいかな?


 うーん、それはどうかなあ……

 えっ!?

 ヒメ、わたし思うんだけどさ。

 うん。

「友達になっていいかな」って会話が成立する二人はさ、すでに友達なんじゃないかな?


 すっ、と右手を差し出す。今度はうまくできるかなあ? と言うと、ヒメもおずおずと右手を差し出す。

 掌で一回叩き、手の甲で一回叩き、ぐっと握った拳を突き合わせる。

 そう。できたじゃーん! と拳を何度かこつこつ突き合わせていると、目の前の丈が急に低くなる。えっちょっとどうしたのヒメ!? 貧血!? だから野菜ばっかじゃダメだって、いや貧血じゃない……えーじゃあなに? あーもうはやく入ってホットミルク入れてあげるから。うん……あとさっきマスタリング音源届いたから。えっ!? あはは急に立ち直ったな、わたしもまだ聴いてないから一緒に聴こ。うん。あっちょっと待って、顔洗ってくる……なんで顔? あっなんだ、泣いてたのか。えっ泣いてたの? なんで?




 やられたねえ。やられたっすねえ。四位に落とされたのに、なんでそう清々しく言うの。いやはかるだってそうだろ、やられたーって顔してるよ。まあね……彼女たちなら、これくらいできて当然だと思ってたけどね。


 やっぱ、違うね。何が? なんというか、長く続けてる人たちは。シィグゥも結成時期はShamerockとそんな変わんないじゃん。そうじゃなくて、別々に歩んでた人たちが交わってできたグループはすごく強いな……って。93もShamerockも。うちらだってそうじゃーん。私は、数年前まで何もしてなかったから……じゃ、こっから取り返そう。うん。最下位からの再逆転、いかにもあたしら好みのシナリオじゃん? うん、早速やろう、次の準備。


 彼女らが唄うのを観たのは初めてか。ああ。なにか、特別な感慨があるものかな。どうかな……生憎、音楽とは縁遠い仕事をやってきたんでね、それはあなたも同じだろうてん。まあ、確かにな。

 なあてん。うん? かろうじて護ったとは言えるのだろうか、あの子の声は。言えるのだろうか、せめてあの子が声を上げる自由だけは護り得たと。これも傲慢だろうか、やに下がった自惚れにすぎないか。そんな問に答が出せるものか、私にも君にも。ただ、さしあたっては。さしあたっては、君の子は歌を喪っていない。としか私には言えない。私たち、だろ。そうだったな。

 さしあたっては、さしあたってはだ。どこまで行ってもまだ途中だ、続き続いて際限がない。生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥い。しかしそれでも、さしあたってはここまで来たのだ。消えるな、消えるな、つかの間のともし火。人の生涯は動き回る影ばかりではない。せめて私の命あるうちは、と、この謂すら自惚れと思ってくれるな。人ひとりがけみしうる時には限りがある。だから私の命あるうちは、そこにいてくれ。つかの間の燈し火よ、赫奕かくやくと燃えてあれ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る