第3部 下僕どもの大道

22 我ら啓典の民


 風がむ。かしぐ水平の線、天と海との間から、めるようにみっつめのそうおもてを剥く、のをている。だがなぜ見える。この甲板にはワタシひとりしかいない。いまワタシが視ているのと同じ情景を感覚できる人間が、眼ら耳らが捉えているものが本当に存在すると証し立てる人間が、他にいるとでも。そもそも誰に問うている。お前しかいないのだ、ワタシと発話できる限りのお前しか。そして視界には天と海。の間に、あの慕わしい、しかし今となっては苦味無しには相対することあたわない、姿が立っている。

 いいところまで来たね、。あの声だ、四年前の冬に起居をともにしたあの人の。しかしこの音声は、本当にワタシの鼓膜を打っているか。この脳髄のうちで生み出された声なのでは。と判じかねるところへ、も出来の良い子だったけど、あなたも同じくらい早かった。と、相も変わらず人らしからぬかおで笑う。どうする。ワタシがいらえてしまったら、ここで目にしている相手が存在することになってしまわないか。少なくとも、ここに在ることにワタシが同意してしまった、認めてしまった、ということには。違います、と、口にした拒絶が誰の何に差し向けられているかも定かでなく、頭蓋に反響する余韻が耳元の風巻きに撫でられる。違います、こんなはずではありませんでした。何に急かされてこんなことを言う。羞恥か、しかし何に纏わる。お前は、ワタシは、何に対して弁明しなければならないか、本当に弁えているのか。と、不意に熱が指先を灼く。いつの間にか尽きかけていたタバコの先が中指と親指の間に到り、忘れられていたほとぼりに急襲される。煙を立てるだけのもえぐいが落ち、が好んで吸う銘柄の香気が立ち昇る、に任せ、ワタシは眼球からの感覚を遮断する。なにも恥ずかしいことじゃないよ、。素敵なことじゃない、お母さんと同じ人を好きになるなんて。と、耳にこだまする声を拒む手立てなどありようもなく、違います、ワタシが恥じているのはそのことじゃない。と鼻腔が感覚する煙だけをよすがに発話する。じゃあなに。が……のような人がいると知っていたら、ワタシはもっと違っていたろうと思うのです。あはは、あなたらしくもなく言い訳がましいね。そもそもわたしがに引き合わせてあげたのに。わかっています、ただ……のような、音楽のためになら軽々と命を捨ててしまえる、そんな狂い方もあるのだと知っていたら、ワタシも……のようになれた、と? それはさすがに傲慢でしょう。あなたは音楽についてほとんど何も知らないのに、わたしのように。ええ、そうです。だから、ワタシたちどちらも……を求めたんでしょう。

 視覚を遮蔽したままの数往復の問答、を経ても、ねえ、と追手を緩めてくれない。いくらに焦がれてるといってもね、あなたのしたことが許されるわけじゃないよ。当たり前です、許されるなどと思っちゃいない……いえ、ワタシはあれが罪だとさえ思っていないのです。ほんとう? 今だってひどく悔いてるじゃない? と言う声に、待ってください、なぜアナタにそんなことがわかるんだ。と問い返す。だってわかるもの、が感じてることなら全部。は、はは、馬脚をあらわしたな。アナタは実在なんかしないんだ、ワタシの中にしかいない、ただの呵責の声ですよ。どうしてそんなことが言えるの? 現にさっき、あなたはわたしの姿を視たじゃない。それにしたって幻だ、ワタシが勝手に作り出した像にすぎない……あれあれ、それじゃ堂々巡りだよ。なぜあなたはわたしを視たり聴いたりしているの? それって結局、あなた自身の罪の意識がそうさせているのでしょう? 違う、と切った瞬間にりょうまぶたを見開いてしまう。眼下ではフィルターの先端で火の粉が死にかけていた。悪い子だね、のタバコとってきちゃうなんて。それ吸ったからといって、と同じになれるわけじゃないよ。わかっていますよ……でも、まだそれ吸ってるんだあ。なんだか嬉しい、わたしと出会ってからだもんね、その銘柄に変えたの。との言葉尻を捕らえて、は、じゃあがそれ以前に吸っていた銘柄の名前を言ってみてくださいよ。アナタが本当にアナタなら言えるはずだ。もし分からないなら、ワタシが聴いてるのは幻に過ぎないってことです。と並べ立てる。ねえ、どうしてそんなに自分を苦しめるの? どっちにしたって同じだよ、わたしが存在してもしなくても、あなたが悔いていてもいなくても。どっちにしたって、もうすぐあなたを迎えにいくから。と囁く声に身を起こされ、水平線の先に立っているあの姿に、ふたたび相対する。迎えに……わたしたちが何をしようとしていたのか、もう忘れたの? と笑う面相が宵闇の中で冴えている。GILAffeジラフなんてものは副産物にすぎない。わたしたちは何に近づこうとしていたの? 音、でしょう。音……そう、達が恵まれていて、わたしたちはどちらかというと見放されている、あの音。わたしとが協力したからこそ、ひとまずあそこまでは行けたんじゃない。でも……はっきり言います、ワタシはちっともわかりません、アナタが何を目論んでいるのか。おかしなことを言うね、、既に何度も訪れたんだよ。あなたがこの船に乗って、たちと行動を共にしてからね。倏忽、心臓が大きく脈打つ。何度も……ダブリン湾での笑みを向けられてから、何度となくワタシを打つようになった、あの動悸。だから言ったの、いいところまで来たね、って。ねえと一緒に手に入れたものを、大切に持っておいてね。あなたからあなたの肉体を取り去っても、その思い出は残る。待て、と投げた声は何も射止めず、甲板に虚しく響くのみだった。何を視ている。何も視ない。ただのひとりだけの夜だ、ワタシだけの……ふうっ、と溜息ひとつ、右掌で心臓のあたりを撫でてみる。拍の打ちが次第に緩やかになる、のを感じ、先ほどまで相対していたあの幻覚が退いてゆくのを確かめた。デッキチェアに寝そべるのすらものうく、甲板のうえに身を横たえる。無機質で冷たい感触、に唆されるように、かつてワタシの身体を通り過ぎていった無数の肢体てあしたちが、皮膚のうえに蘇るようだった。そうだ、かつてはいつもこうやって。しかし、ワタシがこよなくねがう人の手は、いつまでもこの身をではしないだろう。

 母さん、と、打ち祓ったはずの幻を呼び戻しかねないことを承知で、遥か六月の穹窿に打ち明ける。アナタがどんなにを愛そうと、知ったことじゃありません。アナタは単なる道具としてを求めただけ、そんなのは愛なんかじゃありません……こくっ、と飲み込む唾音が両耳を刺す。唇を開き、言う。ワタシは産みたいのです、の子を。ワタシがの子を孕んでみせる。アナタが何を目論んでいようと、知ったことじゃありません。アナタが迎えに来たとしても……ワタシととの子だけは、絶対に渡しません。

 ワタシだけが聴いているこの声は、誰の耳にふれることもなく、四大に散る。そうだ、誰が聴いたとしてどうなる。これはただの音だ、ワタシにのみ意味を成す、ただこの一つ身が狂い立てるだけの音。

 しかし、音……ワタシは何を聴いていたのだろう。尋常な筋道で言えば、まずこの世界があって、音がある……はずだ。が、まるであれは……音があった後で世界がある、とでも謂うように。誰かがあってその声があるのではなく、まず声があって誰かがある……

 When you wish upon a star, と、が選んでくれたあの歌を唄ってみる。考えてばかりでは解るはずもない。Makes no difference who you are. にできてワタシにできないこと、を、もっと別のやり方で起こすことができたら。そのとき、願いは、




 あはは、わたしらも子どもいたらこんな感じだったのかなー。と、笑いながら投げた言葉がきゅうぞうおもてに引っ付き、みるみるうちにあおみを加えていくのを見て、ごめんって、ただの例え話だってー。と慌てて引き剥がすと、周囲から教え子たちの甲高い声が上がる。いやーしかしみんな元気だな、変声期終えたばかりの男の子ってこんな声だっけ。それともやっぱ、この人数でモツ鍋屋の一階貸し切るのなんて初めてだろうからはしゃいでるのかな。みんなで学習塾の外側で過ごすアゲ感、ってのもあるだろうし。こんな数の子どもいたら面倒みきれんわ、とハイボールのグラスを傾けながら言うきゅうぞうに、えーでも塾では指導できてるわけでしょ、まえの年度の生徒たちも全員第一志望うかったらしいじゃん。と片手を挙げて店員を呼びながら返す。そんなんお前な、もとの親御さんが産んで育ててくれたからこその物種でな。その苦労と比べれば勉強のしかた教えるのなんか何でもないわ、と言いながらきゅうぞうは店員にグラスを返すので、もうひとつハイボールでいい? と訊くと、いや、烏龍茶。と生真面目に応えた。おいーまだ二杯目じゃん。一杯で十分だろ、お前と差し飲みならまだしもな……と言いながら座敷に集う教え子たちを一瞥すると、えーじゃあ先生まだ未練たらたらってことですか、と勘の良い子がすかさず茶々を入れるので、きゅうぞうは氷の入ったグラスでその子の頬をぐりぐりするのだった。うひぁーつめたい。あんま騒いでもあれだから、喰うもん喰ったらさっさと帰るぞ。あはは、じゃあわたし生もうひとつ。お前も飲みすぎるなよ、酔っぱらったとこ見られたら親御さんの心証に響くからな。二階貸切なんだから大丈夫っしょ、全部わたしのおごりだしー。と笑うと、だって世界一っすもんねー、城持ちっすもんねー、と若々しい声が咲く。そうだよー、きゅうぞう先生の元カノはリアルシットなハーコーラッパーなんだよー、と戯けてみせても実際照れくさく、店に入る前に何人かの生徒たちからCDにサイン求められたりとかリリックの数行に関する思い入れ話を開陳されたりとかした際には、さすがにちょっと気後れした。χορόςコロスのツアーでファンとの応対なんか何度も経験したにも拘らず、自分が生まれ育った国で義務教育年齢の子たちに情緒を向けられると、なんだかもうたまらなくなる。まさかこうしてさんに直接会えるなんて思ってなかったす! 塾長あざす! あざーす! うるせえ、と小鉢に出汁だしを足しながらきゅうぞうは言い、右目だけこちらへ向けて苦笑した、ように見えた。そうだこんどさん呼んで特別授業やりましょうよ! 何がそうだだよ、やるわけないだろ。えーでもいいじゃないですか、国語っていうか、文化的な教養のあれみたいな。どうですかさん? あー実際いけるかもよ、なんか日本語ラップの文法解説とかなら。おおー! やりましょうよ塾長! バカタレ、うちで教えるのは受験通過するための勉強だけだ。いやーでもいいかもよきゅうぞうこういうのも。たとえば飛葉飛火HIBAHIHIのリリックで頻繁に出てくるんだけどさ、違う言語で同じ意味のこと言うのよ、「フルオート、これ全自動」とか「生でロー」とか。でもね逆のパターンもあって、同じ言葉が全く逆の使い方になるの。『魔物道』だと「バカ」が真逆の意味で二回使われてて……おおー! こういうの! こういうのどうすか塾長? やるわけないだろ、あんないかがわしい歌詞を授業でなんか。ええーいいじゃん、今時の子ってもっとマセてるよー。とにかくうちの塾に持ち込むな、そういう講演なら母校とかでやれ。あー、でもχορόςで優勝したからって門司もじ中学からお呼びはかからないだろうね、校舎のなかで見つからずにタバコ吸う方法みたいなこと話しちゃうかもしれないし。お前らもこんなのにならないようちゃんと勉強しろよ。あはは、なんだよこんなのってー。逆に、一体どうしたらさんみたいになれますか? えー? ええとね、まず中学んときからヒップホップにドハマリしてね、そんで高校に入って少年院上がりのやつと友達になったらね……なんですかそれー。なんって本当そうなんだから仕方ないじゃんー。


 でもさー、実際なにがどうなるかわからないもんだよね。と、会計を済ませて暖簾をくぐり、きゅうぞうと何の気も無しに話す。あんたがこうして塾の経営うまくいってるのも、わたしがこうなったのも、何も狙ってこうなったわけじゃない。まあな、でもお前が出ていく前から決めてたっけな、独立して個人経営でやるってのは。たしかそうだったね、大手の塾じゃ生徒ひとりひとり指導できないからってね。ああ。でも今こんだけうまくいってるんだしさ、二号店も出したら? 店って、フランチャイズじゃないんだよ。それに無闇に裾野広げたくないんだ、金儲けでやってるわけじゃないんだし。きゅうぞうはやっぱ真面目だなー、と揶揄からかい混じりに顔を覗き込むと、今日初めて両眼を合わせて笑ってくれた、気がした。なぜかこっちが狼狽うろたえるようになり、いやーでもきゅうぞう先生、いくらわたしみたいな大物を逃したからってさ、いつまでもみさおてすることないよー。そろそろ新しい相手見つけなってー。と怒らせモードの軽口を放ってみる。大物って自分で言うな。あとその言葉そっくり返すわ、お前だって……と口籠る姿がへんにくらく映り、街灯の光源を窺いながら歩く。うちにバス停に到着していたことに気づき、ぼうと初夏の夜の空気を吸いながら踵でアスファルトをにじる。おーちょうど、あと三分後にきますよ。と生徒の一人が時刻表を前にして声を上げ、きゅうぞうは静かに頷く。じゃあ、僕らこれで帰るので……え、これでって何だよ、お前らも塾に自転車停めてるんだから行き先同じだろ。いやそういうのいいですよ、だってこれから……ねえ……うん、邪魔しちゃいけないと思いまして……と小声で慮る子たちを前にして噴き出すわたし、と渋面じゅうめん浮かべてむずかるきゅうぞう。ていうか明日休みでよくないですか塾長? いいわけねえだろ、月謝払ってるのお前らの親御さんだぞ。親に面倒見てもらってる間は選ぶ権利なんか無いんだ、そんな気遣いよりもっと勉強しろ。あははそんな怒んなよ、優しい子たちじゃん。でもありがと、わたしは方向逆だからタクシー拾って帰るよ。と言うと生徒たちの間から惜別の呻きと、ありがとうございましたごちそうさまでしたと衒いのない声が返る。手を振りながら横断歩道のほうへ向き直ると、後ろから靴音。信号機の前で立ち止まるわたしの左脇にきゅうぞうも纏わる。ふたりで信号機を見上げるうち、人目を忍ぶような声が漏れる。のことは、どうだった。一言で意は察せられ、ああ、結局は逢えなかったけどね……と呟きながら視線を合わせ、でも、一瞬だけは交わった。なんか、そんな気がしたんだ。うまくは言えないけど……あの頃から教わったことと、いろんな国から集まったやつらと一緒に成し遂げたこと、そのふたつが交わった、みたいな……と言い淀むわたし、の頬を見ながら、つまり、無駄じゃなかった、ってことか。と気遣うようなきゅうぞう。当たり前だよ、ていうか無駄にできることなんてそんなにない。あんたといたときも、といたときも。なにかがなにかのきっかけになってるんだよ。それがわかっただけで、意味はあったんじゃないかな。言うと同時に、信号が青に変わる。きゅうぞうは静かに頷き、じゃ、頑張れよ。これから東京なんだろ? と言うので、うん、来月にはあっちに移るけど、それまではしばらく北九きたきゅうにいるよ。明日は中学んときの同級生がやってるクルーのライブに出るし。へえ、クラブで? もちろん。先月ウェンブリーでやってたやつが北九きたきゅうのクラブでって、なんかすごい話だな……ええ普通じゃん、むしろ客の顔が見えるハコでらなくなったらMCとしておしまいだよ。そっか、プロっぽくなったな。まあねー。それまでずっと実家にいるし、母ちゃん父ちゃんにも久々に会いに行くよ、いろいろ心配かけちゃったけど、とりあえず音楽コンペで世界一にはなれました、ってさ。ふふっ、ほんと何がきっかけになるかわかんねえな。だよねー。ほんとは、俺もお前のご両親に挨拶したかったけどな……娘さんを幸せにできなくてすみませんでした、って? そういう憎まれ口叩けるうちは大丈夫だな。ははっ、と笑って視線を上げると、もう青信号が点滅していた。じゃあね、仕事頑張って。おう、お前もな。




 辛くてそしてかゞやく天の仕事、と、賢治の詩句が急に思い出されたのは、半年ぶりに帰った自らの部屋の書架を、まるで誰かの忘形見わすれがたみかのように遠く眺めたからだった。背表紙は誘う。かつて読んだはずの、読まなかったはずの字の連なりさえ脳裏に呼び起こす。毛羽立つはだえにふれた指の軋りが、何時何処いつどこで撫でたかも知れない項を髣髴とさせるように。

 長くけるからには相応の処置もしたはずだったが、やはり半年も人が生活していない部屋には独特の頽れが漂っていた。水を抜いておいたトイレのタンクからも、やや腐臭めいた水垢の気配が察せられる。マイナスドライバーで水流を戻し、ブラシと塩素系洗剤を取り便器の排水を確かめながら手早く洗浄を済ませ、ブレーカーを戻し電灯を点検するうちになぜ真っ先に便所掃除を済ませたのか遅れて訝しくなり、シャワールームとキッチンに一瞥だけくれて妙にそそくさとした挙措で両手を洗う次第となった。なぜ手指用の石鹸が備え付けられていないキッチンで手を洗おうとしたのか、と重なる疑義を糊塗するように食器用洗剤とスポンジでシンクも洗う。これならば手指も洗ったことになる、という合理化も、後手ごて後手ごてのこじつけめくのが免れない。

 思ったより少ないな、と書架を前にしてつぶやく、私よりもひとまわり背の低い後姿を眺めながら、ええ、とだけいらえて電灯をつける。学生の頃はもっとあったんだけど、引越すうちに捨てるものが増えちゃってね。とヒメの横顔を見ながら呟く。そうだ、あの頃はもっと多かったっけ。大阪の大学で独文を専攻していた頃、本読み用に立てる台も買って、辞書も何冊かあった。けっきょく院に入ることもなく福岡に戻って、傷心のたまさかに起居を共にすることにもなり、その後に上京し作詞家として生計を立てはじめた。その頃には学生時代の蔵書も多く手放し、本立ても譜面台と作曲編曲用のシンセサイザーに取って替わられていたが、未だに書架に鎮座しているこの、リルケのインゼル社版全集だけはどうも手放せなかった。しきりに読み直すこともないはずなのに、なぜだかこれだけは……なあ。と呼び止められ、書架へ向けて右腕を伸ばした姿勢がいきおいヒメの肩を抱くような塩梅になっていることに気づき、ごめん、何。といて腕を引っ込める次第となった。傍らの身体は静かに苦笑し、これ、と呟きながらひとつの背表紙を指差す。こんなのも持ってるんだな。あ……シャロナー改訂版聖書。ええ、まあね。なんでよりによってこれなんだ? カトリックでもないんだろ? と問われ、英訳ならなんでもよかったんだけど、ね。と答えになっていない返答。を受けた側は、ふうん、と釈然としない息とともに本を取り出してページをめくりはじめる。会ったこともない父が遺していった本だから、と事実を打ち明けたところで、やけに感傷的な雰囲気以外の何かは齎されなかったろう。

 ヒメに背を向け、冷蔵庫と換気扇と空調が異常なく作動するのを確かめ、そうだ買い出しに行かなくては、しかしからの冷蔵庫にいちから入れるのだから相当な量になるだろう、自動車も無いのに満足に搬入できるだろうか、やはり通販でまとめて注文するのが無難か、とすれば今日の食事は外食か近場のテイクアウトで済ませて……と思案するうちに、あ。目に留まった寝台べっどが案外の事実を通告した。なに、どうした。と本を戻して向き直るヒメに、ごめんなさい、忘れてた……と小声で応ずる。だから何が。いえ、寝具……ベッドもマットレスもひとつしかないの忘れてた。と素直に白状すると、なんだそんなことか、と静かに笑う。ごめん、すぐ準備するから、この辺ニトリあったっけ……いいよ、それでいい。えっ。そこで二人寝られるだろ、けっこう広いつくりだし、あたしもそのベッドで寝るよ。と事も無げに言うので、いや狭いよ、いくらあなただって……と狼狽うろたえるしかなくなる。わざわざ用意してくれなくてもいい、なんだったら床で寝るし。いやそれは……客人にそんなことさせられるわけないでしょう。あなた、教授キョウジュの家にいたときもそんなだったの。いや、別々に寝てたけど……でもはかるの部屋は一人暮らし用なんだから仕方ないだろ。と端的に言われ、なんだか手前の至らなさを突きつけられるようで、じゃあわかった、とりあえずもうひとつマットレス買わせて。とごうりの意地が滑稽に見えるのを承知で言い、相変わらず苦笑しているヒメの手を引いて玄関へ導く。城ができるまで一ヶ月もないんだから、そんな気ぃ遣わなくてもな。と後方から聞こえる声に、これは私の問題なの。と短く切った瞬間、そうだを住まわせたときもこんな感じだったっけ、いきなり布団がもうひとつ入用になって……きゅうぞうめ私に無駄な出費をと思ったけれど、のためには仕方なかった、というか……あの時はあの時で胸踊っていたのかもしれない、自分と寝食を共にしてくれる人が加わってくれて……と無闇な回顧の念がすべるのをおしとどめ、そうだせっかくだからこのまま昼食いきましょう、どこがいいかな。と背後を振り返る。べつにどこでも……東京に来てまでアイリッシュパブってこともないよね、いい具合のメキシコ料理出してくれる店があるから、そこにしましょうか。いいけどなんでメキシコ。これから盛夏だから肉喰べて元気つけて、と思って。そうだヒメ、せっかくだから美容室も行きましょう、予約入れてあげるから。私も半年くらい手入れしてないし、これから夏だしさっぱりしないと。いいけど……そうそう、銀座にアレキサンダー・マックイーンのメゾンがあるの。あなたにもきっと似合うはず、いくつか買ってあげる。はは……なんだかはかる、ミッシーんのお姉さんみたいだな。

 えっ。と、玄関の靴箱の前で硬直してしまう。何くれとなく面倒見てくれる感じがさ。でもあたしもはかるもひとりっ娘だから、ミッシーんのときよりも他人って感じがしないのかもな。と言いながら靴を履くヒメ、の銀色の旋毛つむじを眺めながら、ああ、そうなのかも、ね。と、後手ごて後手ごての返事を漏らす。先ほどまでの自分のはしゃぎが他人事のように感じられ、羞恥とも狼狽ともつかない情緒を持て余す。アレキサンダー・マックイーンのシューズに爪先を通しつつ、いつもは靴篦を使うのに今は踵を踏み潰してしまっていることに気づき、慌てて屈みこむ次第となる。そんな私の栗色の旋毛つむじを眺めながら、ヒメはきっと苦笑しているのだろう。どうもおかしい、かつての生活を同じように送るだけ、その連れ合いがひとり増えただけなのに。どうしてこうも浮き足立つ。靴紐を結び直し、上体を起こし、靴箱扉に備え付けの姿見に映えた、自分の風態なりを眺める。

 早く髪を切らなくては。そう思えた。




 きのうおのみちから連絡きたすけど、もうだいぶできあがってるみたいっすよ。はい、豊島区。教授キョウジュとはこっち来るタイミング合わせたんで、ちょうど完成した頃に着くはずっす。その頃にはヤスミンとイネスもホテル引き払ってこっち来るらしいんで。ヒメ? はかるんとこすよ。えーだってねえさんが言ったんじゃないすかー。あはは、まー早めの夏休みってことで。はい、ねえさんも。じゃあまた。おつかれっすー。

 城完成(予定)、教授キョウジュ到着(予定)、Innuendo到着(予定)、とカレンダーに貼る付箋が増えていく。χορός優勝した頃はまだ実感なかったけど、いよいよって感じ。あー、またみんなとツアーまわれるんだー。セットリストどうしよ、今のうちイネスと打ち合わせしとこうかな。チーフ、ご到着です。あ。インターンの子が防音扉を押し開く、ってことは。きたっすか! 立ち上がり、入口まで駆け寄る、と、あー! お久しぶり。待ってたすよーちぬん! うわっほんと久々じゃないすかー焼けたんじゃないすかー? と両手をとってぶんぶんしながら目の前の姿を眺める。ふふっ、今年はなんだか外出する機会が増えたからね。もう夏っすねー海いきたいなあー、あ、案内ありがと、もう大丈夫っすよ。とインターンの子に合図すると、重々しい音とともに防音扉が閉まる。

 改めてっすけど、アルバムの完成おめでとっす。ありがとう、半年もかかっちゃったけど。そんくらいかける価値あったっすよ、まさかあたし三曲も弾かせてもらえるなんて。ボーナストラックも入れたら四曲だけどね。あの曲かわいーから大好きっす、はやくみんなに聴いてもらいたいなー。じゃこっち、真ん中どうぞ。うん、座ったままでいいのかな? もちろん。じゃ、とりあえずプリセット作っといたんで、この曲から調整していきましょ。うん。

 ちぬんとχορόςの九州大会で再会して、そのとき約束したソロアルバムの制作、も滞りなく終わって、あとはマスタリングを残すだけ。やっぱすごいな、こんだけ緻密に作り込むなんて。ちぬんの作品にギターとかマスタリングで携われるなんて、あたしこの仕事続けててよかったー。と思ってるうちにワンコーラスぶんの再生が終わる。どうすか? うん、低音部はいい感じだけど、もっとサロードの高音弦がクリアに聞こえてほしい。と言うちぬんに合わせてEQを立ち上げ、あんまキンキンしないほうがいいと思ってたすけど、上げていいすか? とパラメータを操作する。うん、もう少しアタックおんが際立つくらいがいいよ、ミキシングでもそう意識したから。オッケーす、じゃあ弦楽器だけになるとこループするんで、ちょうどいいとこまで上がったら。うん、合図する。

 EQはこんな感じかな。そうすね、あとはコンプのオートメーション見ていきましょ。ごめんね、思ったより時間かかりそう。いやこれくらい普通すよ、とくにちぬんみたいに凝った音楽やる人なら。そうなんだ、私マスタリングに立ち会うのなんて初めてだから。ミキシングにも相当時間かけたらしいっすね。うん、ゲストで参加してくれた人たちの演奏もちゃんと聴かせたいから……あと、と唐突に切れた声の方を向き、あと? と訊いてみる。ちぬんは口籠もりながら、あと、ミキシングの作業してるときに、いきなり連絡があったから……あなたの、あの五月の。と眉を曇らせながら言う。あ。あれっすか。うん……「これで最期の演奏になるかも、もしよかったらちぬんのフォロワーにも拡散して」なんてメールがいきなり来て、検索したら大変な騒ぎになってて、私もう気が気じゃなくて……と言う声が次第にふるえを帯びはじめ、ご、ごめんっす、まさか作業の最中だったとは知らなくて。と焦ってなだめても、イリチがあの船と一緒に沈んじゃうかもしれないって思ったら、どうしたらいいかわからなくて、不安で不安で、また発作が出るかもって……と涙目で続ける。あーほんとごめんなさい、そういうつもりじゃなかったんすけど。それで寝込むことになって、その日の夜にイリチは無事だってわかっても、三日くらいずっと動悸が止まらなくて……とむせびながら人差指で涙を拭う様を見て、さすがにDAWの再生を停める。

 ちぬん、ほんと、ごめんなさい。イリチが謝るようなことじゃない……けど、なんていうか、さんはときどき常軌を逸することがあると思う……あ、ちぬんもやっぱそう思うすか? うん……いやーステージから落ちるのとかもあったし、あたしいつのまにか麻痺してたのかも。よく考えりゃ機材ごと船沈めるとか無茶苦茶っすよねー。機材は他にいくらでもある、けど、イリチは世界にひとりしかいないんだから。イリチみたいに弾ける人なんてどこにもいないんだから、もっと自分を大切にして、くれない、と困る……はい。ごめ、じゃなくて、ありがとっす。いや、ありがともちょっと違うすかね。と笑いながら言ってみても、ちぬんは眼を伏せたままで。あー……よし、じゃあ、ちぬん! と両手をとって正面から見据える。なに……? いっぱい心配かけちゃったから、今日は特別に、スーパー特別ちぬんタイムにするっす! スーパー特別ちぬんタイムって何だろう、よく考えないまま言っちゃった、と思いながら両眼を見つめていると、本当に、いいの……? と小声で返事が。はい。だって、まだ一時間ちょっとしか作業してないのに……今日はこれで十分すよ、それにずっと同じ音源聴いてると耳が慣れてきちゃうから、休憩入れたほうがいいっす。このスタジオはこれからインターンの子に使ってもらって、あたしらはちょっと出かけましょ。言うと、ちぬんの手がきゅっと小さく握り返し、頬にすこし微笑が戻るのがわかった。

 じゃー行きましょ、あたし鍵とか渡すんでちぬん先に。うん。渋谷ならどのへんがいいすかねー、もしかしたらインド映画の特集とかやってるかも。それもいいけど、今日はできるだけ眼や耳は使いたくないかな……あっそうすね、忘れてた。じゃあふたりでゆっくりできるとこ行きましょ、猫カフェとかどうすか? ごめんなさい、猫はかわいいと思うけど、私アレルギーがあるから……あーいやいいすよ、じゃあもっとツルツルした生き物……魚は? ちぬん魚すきっすよね? うん。じゃあ魚いっぱいいるとこ行きましょ、築地とか! 築地……? 私は行ったことないけど。あたしもないすけど、たぶん楽しいはずっす。昼でもやってるのかな? わからんすけど、とにかく出かけましょ。一階で待ってて、すぐ行くっすから。うん、待ってる。




 わかった、じゃあそのときには。マキも気をつけてね。うん、待ってる。

 ビデオ通話が終わり、ありがと、とこちらへ端末を返す。あなたもスマートフォンくらい持ったらいいのに。いや、ゴールウェイから家出してきて以来ずっとだし、今更持つのも性に合わないっていうか。とよくわからない理屈をこねるので、それにしても、あの人と話してる時はやけに子どもっぽくなるね。とくすぐってみると、頬を一瞬ぴくっと引きつらせ、仕方ないだろ、親代わりみたいなもんなんだから……と小さく漏らした。親代わり、か。自分の意志で親元を離れて、それまで抑えてきた子どもっぽさを見せられる相手がいるとしたら、確かにいわばしりマキしかいないのかもしれない。私にも同じくらい屈託なく接してくれたら……と無体にすべる想念を、何の連絡だったの? と直截な問いで誤魔化す。ヒメは数秒けて、決まったらしい、到着時期が。と糢糊な構文で言う。到着って、マキさんの? も、そうだが……と口籠ったのち、何に思い至ったのか、そうか、はかるたちはまだ知らなかったな。と目を見開く。もう一人来るんだよ。いや一人じゃない、二人……じゃない、もっとか。と自分のうちで算段をつけるような文言が続くので、誰が来るの? と助け舟を出してみる。ああ……ヒメは不承不承なおもちで、ゆっくりと視線を合わせながら口を開いた。アーイシャ・ウムァジジ。えっ。聴き慣れない名前を頭の中で文字化しながら、イラン出身のダンサー。彼女に安全な居場所を与える、ってのが、マキの次の仕事らしいんだ。との述懐を聞く。アーイシャ……名前からすると、ムスリム。とたどたどしく問うと、女性だから、ムスリマと呼ぶのが正確かな。とただされる。安全な場所っていうのは……その人が日本に来るってこと。ああ、あたしだけ六月の時点で訊いてたんだけどな……じつは、と咳き込むような呼気ひとつ置き、あたしと同じなんだ、アーイシャも。親代わりとして、Peterlooの保護下でマキの世話になった。と躊躇いがちに言う。その子にも、何か問題があったってこと。と探ってみると、まあ、あたしとは比べものにならないほど入り組んでるけどな……と、渋味のようなものを隠さずいらえた。

 アーイシャʿĀ’ishaウムァジジal-Umʿazīzī。たしかイランのイスファハーンってとこの出身で、幼い頃からクルアーンとハディースの読解、さらに数学と幾何学の才能を認められてたらしい。としはたしか、あたしのふたつかみっつ上かな……とヒメ当人にとってもおぼつかない口調で述べるので、会ったことはあるの。と問うと、一度だけな、ジュネーヴで。去年の冬にShamerockで小規模な欧州ツアーやったんだけど、チューリッヒでのライブついでにマキに会いに行ったんだ、ジュネーヴに滞在してるからと。そのときちょうど、イスラエルから脱出して身柄を保護されたばかりだった。と応えるので、イスラエルって、出身はイランでしょう。と差し挟むと、その間に色々あったんだよ。どこから始めるべきかな……と唇を噛み、まず、あの爆破事件については知ってるか。と切り出す。あの、っていうのは。やっぱり知らないか。イスラエルのテル=アヴィヴで、アーイシャがやってる「Aminadabアミナダブ」っていうコンテンポラリーダンスユニットの公演中に、会場で爆発が起こったんだよ。訥々と言うヒメを前にして、継ぐべき言葉が見つからない。去年の一一月だから、あたしらが来日公演やる直前だな。数十名の死傷者を出した爆破に巻き込まれて、アーイシャと行動を共にするムスリマも五人が犠牲になって、イスラエルを脱出しなきゃならなくなった。ここでは表現の自由もない上に命も危険に晒されるから、って。

 公演会場での爆破事件。もしニュースか何かで聞いていたとしても、記憶には刻まれていなかったかもしれない。アリアナ・グランデのマンチェスター公演をはじめとして、ここ数年で同様の事件は欧米のそこかしこで発生していたはずだから……と妙に言い訳がましく記憶を整理しながら、それが起こるまではイスラエルにいたってこと。と問うと、ヒメは頷き、その前にもいくつか悶着があったんだ。まず、アーイシャはイランからイスラエルに移ったんだが、そのどちらとも折り合いが悪かったらしい。と応える。もとは生まれ故郷のシーア派といざこざがあって、スンナ派に改宗してイスラエルに移ったらしいんだ。改宗。同じイスラームでも「改宗」というのだろうか、 convert がGILAffeジラフに翻訳された結果ならわからなくもないが、と想念を弄んでいると、そのとき既に数学と幾何学で学位を取って、同時にダンサーとしての活動も始めてたんだけど、「みだりに女性の肉体を見せびらかすべきではない」と周囲からバッシングを受けるようになったらしい。イランでスンナ派のムスリマってのも、異端視される要因の一つだったろう。仕方なくアーイシャが主催していたダンスカンパニーのムスリマ何人かとイスラエルに亡命するんだけど、そこでも別の軋轢があったらしい。イスラエル当局は既にダンサーとして有名だったアーイシャを「文化人」として歓迎したんだけど、だからといって彼女が抑圧的な政策を批判しないわけがなかった。抑圧って、つまりパレスティナに対する。と問うとヒメは頷き、そんな反体制的な「文化人」を排斥する動きも出てきて、ついには公演会場での爆破事件につながったと。やむなくイスラーム圏を離れてPeterlooを頼り、無国籍になってからは欧米の藝術振興基金の後押しで各国をまわっていたと。あたしが聞いてるのはそれくらいだ。

 ヒメから伝聞したプロフィールを、頭の中で筋道立ててみる。まずアーイシャ・ウムァジジは、生まれ故郷のイランにおいて少数派のスンナ派に改宗したことによって、すでに余所よそものだった。しかし、一般的なイスラームの理解においては、シーア派はキリスト教におけるプロテスタントのような──このような直接的な引き比べが許されるとして、だが──主流派に抵抗する分派として位置付けられるではないか。しかし彼女はスンナ派に改宗することで故郷の余所よそものとなった。そしてイスラエルに移っても、ダンサーとしての彼女は周囲との軋轢から逃れられない。そしてついにはイスラーム圏を離脱しなくてはならなかった、という──幾重もの意味での余所よそものだ。アーイシャは、それでもダンスは辞めてないの。と訊くと、もちろん、それを続けるために方々を渡り歩いてるからな。と当然の応えが返る。イスラームの内部における女性として、ダンスを表現の手段とする……さすがにこのあたりの事情については不勉強すぎて察しがつかない。しかし、イスラームの教えは女性の肉体どころか顔を凝視することさえ忌むはず。そのような文化圏でダンスをつくって見せる……一体、彼女は幾重の困難に囲繞されているのだろう。マイノリティと簡単に言うが、私のような外国籍の父親を持つだけの人間とは比べ者にもならない、まったき意味での少数派だ。そんな人が、この地上のどこかで永らえている。永らえるための場所を求めて、この国に来る……


 夕食を済ませ、何度か試すうちに上達したチキンカレーのレシピを仔細に修正し、ヒメがシャワールームに入ったあと洗濯機を回す。立ち上げたままのラップトップを見ると、右上にイリチからのメッセージが通知されている。クリックすると、「びっくりしたすよ、まさか地下鉄で一緒になるなんて。ちょっと検索したんすけど、93のはかるがShamerockのヒメと銀座デート、先週も見たし今日もいた、ってツイートいくつかあったすよ。もちょっと身バレしないように気ぃつかったほうが」の文末に戯けた顔文字。「余計なお世話。あなたこそデートで築地ってセンスはどうかと思う。知念さんのためにも都内のアクアリウムくらい見繕っときなさい」とだけ返信し、アプリを閉じる。続いて惰性でwebブラウザを立ち上げるも、何か音楽をかける気にもなれず、検索窓に「アーイシャ・ウムァジジ」とカタカナで打ち込む。日本語版ウィキペディアの単独記事こそ無かったが、日本語圏のニュースサイトの記事がいくつかヒットした。これは、去年の一二じゅうに月末……例の爆破事故があった数週間後、に書かれたもの。事件のあらましを報せる簡潔な記述に続き、アーイシャ本人のものと思しい発言の日本語訳が掲載されていた。このような暴力的な侵犯行為を前にしても私は表現に訴えることをやめない、という毅然たる断言に、イスラエル当局を非難する文言が続く。


「あなたがたが侵掠する以前に住まっていた人々を追い出しておきながら、その土地を約束の地と呼ぶのか。あなたがたは我々の身体の一部を切り取っておきながら、それでも強姦によって孕まされた子は産めというのか。

 この国がパレスティナの人々に行っているのは、恥ずべき暴力行為であり、他ならぬアブラハム宗教の聖典に対する冒涜である。そのような不正義を前にして沈黙することは、トーラーやクルアーンのいかなる恣意的歪曲によっても正当化することはできない。私はあなたがたを前にして何度でも言う、『この地を汚すことなかれ。おそらくは、この地、汝らの先にありし国人くにびとを吐き出したるごとくに、汝らも吐き出さん』。これはあなたがたの聖典に書いてあることだ。読み書くことについての挑戦ならいくらでも受けよう。しかし暴力による侵犯行為によっては、あなたがたは我々の信念を打ち砕くどころか、かえって聖典への正義の情を燃え立たすことしかできないのである。」


 この後、記事はアーイシャの発言に含まれているシオニズムへの攻撃、および「我々の身体の一部を切り取っておきながら」という文言で指弾されている女性割礼がイスラエルの地では公に行われていない事実などが広く非難を集めたと報せているが、門外者からしても重箱の隅をつつくような揚げ足取りとしか思えなかった。この記事で引用されている発言だけでも、アーイシャがシオニズムとイスラーム過激派のいずれにもくみすることなく、同様に批判を加えつつ同様に正義を見出そうとする人であることは明白だった。とくに、アブラハム宗教の聖典を引用しながら国民国家間で行われている暴力行為の非正当性をつまびらかにするときの熾烈さ。ここには、私のなれなかった人間の姿がある。自らが属する世界の宿痾を正面から見据え、それを定礎する聖典の読解自体を闘争の武器とする、真の意味で宗教的な人間の姿が。




 そういやあんた、ここに来るのは初めてかね。と椅子に座りながら問うおばあに、はい、とズラミートは立ったまま応ずる。夏でよかったかもしれんね。と落ち窪んだ眼窩から向けられた視線に、ええ、ドストエフスキーの小説で読んだときはペテルブルクの夏など具体的に摂氏何度なのか判じかねたものですが、来てみるとなかなか蒸し暑いのですね。と客人は普段よりいくぶん饒舌に調子を合わせる。何か飲む? 立ったままじゃなんだし。と脇から促すと、いや、いい。用件だけ済ませたらすぐ出よう。と躱される。

 ついに、逝ったかい、あいつも。はい。済まんかったね、参列できなくて……いえ、ペテルブルクからテル=アヴィヴまでは長路ですから……それに、祖母もあなたがご健在だと知って、なら大丈夫だと心安らかに逝けたようです。なら大丈夫、ねえ……訥々と弔いの辞を済ませる二人をどこか遠く眺める。ズラミートは屈み込み、キャリーケースから長方形の小箱を取り出す。遺品です、祖母の。ひとつあなたに届けるようにと。言いながら蓋を開ける姿に歩み寄り、わ、ペンダント。宝石? と手元を覗き込みながら言う。いや、ガラスだよ。ガラス。祖母は晩年、ずっとこれを造り続けていたんです。砕けたガラスの破片を磨いて、かどを取って、卵のようにまるくしたものを首飾りにする。遺品として膨大な数が残っていたのですが、あなたにも届けるようにと遺言されていまして。言いながらお婆の首にかけるズラミート、の手を撫でながら首元のものをいらうお婆。きれいだね、と誰へともなく漏らすが、ほとんど視力が無いお婆にあのガラスの透明な輝きが見えているのだろうか。あんたももらったのかい。いえ、私は……なんでだね、あたしによこして孫娘にはくれんとは、けちくさいやつだね。違います、一族の者にも配られたのですが……私は拒否したのです。またどうして。私は……祖母のものを、相続するわけにはいきませんから。

 短く切られた会話に沈黙が垂れる。あいつ、他になんか言ってなかったかね。特には……というか、私は母から縁を切られて長いですから、祖母についてもあずかり知ること少なくて。そうかい、しかし、葬式には呼んでもらえてよかったね。はい……と微笑するズラミートのおもてが覆い隠しているものを忖度すること自体が冒涜のようで、ただその横顔を見つめることしかできない。あんたの母さんも因果な姓のやつと結婚したね、パールムッター、なんて。ふふっ。しかしまたなんでガラスかね、あいつ金には困ってなかったろうし、宝石でも集めりゃよかったのに。と蹌踉よろぼう話題を向けるお婆に対しても、わかりませんが……祖母は数年間、ずっと同じことを口にしていたのだそうです。と明瞭に応える。「これからずっとガラスを磨いていようと思う。鉄は頑丈だが、酸化して錆びる。錆びた鉄の臭いときたら堪ったもんじゃない。しかしダイヤモンドはもっと悪い。あれはただの炭素じゃないか、酸素と化合して塵になるだけのものを、どうして大枚はたいて手に入れようと思うのか、私にはわからない」。故人の語調を真似ているのか、先ほどよりもゆっくりと低い声で話しながら、「だからガラスがよい。これは酸化せず留まり続けるだろう。砕けやすいこのものを、誰の手に触れても傷つけないように、まるく磨き続けようと思う。これが私の最後の仕事だ。」と結んだ。ふうん、とお婆は椅子に深く座り直す。一体どういう意味か、お解りになりますか。わからんね。一言で取り下げられるのを見て、ちょっとお婆それはないんじゃないの、と反射的に口走る私、を片手だけ挙げて制しながら、いえ、いいんです。故人の胸のうちなど、誰にも解りませんから……と引き取る。のを見て私も黙ってしまう。ありがとうね、わざわざここまで持ってきてくれて。はい、私もあなたにお会いできて光栄です。どんどん少なくなってくね、あのことを知る人間は……そう、ですね。ああやだやだ、どんどん悪くなってくよ。まーた始まったー、お婆、また戦争が始まるよーとか言うんでしょ。ちがうよ。えっ。ちょっと前までは思ってたけどね、もはやそういうのでもない……あれとは違うことが起こるよ。あれと同じくらい悪いことが、全く別のしかたで起こるんだよ。


 どういう意味だったんだろ、と空港へ向かうタクシーの中で漏らした問いが、おそらく、比喩で語っていたのだろう。鉄、ダイヤモンド、ガラス……と荘重なこわで解きほぐされる。いや、私はお婆の繰り言について訊いたのであってズラミートの祖母についてではないんだけど、と訂正するのも無粋なように思われて、酸化して錆びた鉄、は、収容所の記憶か。残忍さや暴力性、そういったもの。と五指を組んで正面を見据える人の聞き手に回る。ダイヤモンドは、金銭への執着、奢侈や華美などの虚飾……あるいは広義の偶像崇拝、か。うん、だとしたらガラスはなんだろ。ガラス……砕けやすく、人を傷つけるもの。しかしそれをまるく磨きさえすれば、透き通った光を放つようになる……言ったきり沈思するズラミートの脇から、自ら努めて寛容である、ってことかな。自分の身を削ってでも、みたいな。とやけに分別のいいことを言ってみる。そうかもしれない、が……やはりわからない。わかってはいけない、ような気がする。そっか。わかってはいけない。結局は、ズラミートの祖母が死の淵にいたるまでガラス玉を磨き続けていた、その事実こそがすべて。そしてこの孫娘は、その遺品すら相続しなかった。祖母や母が根を下ろした国の系譜に連なることさえ拒んだ、この孫娘は。ゾフィア。何。君とふたたび会えて、嬉しく思う。クラクフでの日々は、私の生涯で数少ない、歓びに満ちた思い出としてあるから……ははっ、お婆たちと比べたらまだ全然生きてないでしょ、これから良いこともいっぱいあるよ。そう、か。しかし日本かー、お互い初めてだね行くの。ああ。ゴキゲンなやつらばっか集まってるはずだから、きっと大丈夫だよ。ズラミートも、その相方さんも。そうか、そうならいいのだが。




 おー! つい感嘆の息が漏れる。ほんとにできちゃったんだ城! すご、新築みたいですね。同じタクシーで乗り合わせたイネスとヤスミンもはしゃぎを隠さない。長らく買い手がついていなかった三階建の物件、を買って大規模な改修を加えて完成した、これがわたしたちの城。まさか豊島区にこんな立派な建物が放置されてたとは。池袋みたいな浮ついた区域とも距離があるし、ここまで来る途中に見かけた住人たちも四〇歳代以上ばっかな感じで、わたしらがやってる音楽にも興味なさそうに見えた。結果として、渋谷か新宿よりも住まいやすい環境を得たのかもしれない。これもう入っちゃっていいの? あーまだ鍵もらってないから……えーとおのみち? 呼びかけると、エントランス前に懐かしい顔が投射される。おのみちですが。おーひさしぶり! お疲れだったねー全部改修作業任せちゃって。しかしありもんの物件買っておのみちに改修させてって、ドゥさんもケチなのか贅沢なのかわかんないよなー。とエントランスの銅っぽい色の門を眺めながら言うわたしらに、もう少々お待ちください、鍵を持ったわたくしが参りますので……と応じるうちにもう一人のおのみちが。向こう側に見える自動ドアを通過し、門の鍵をかいじょうする。はい、こちらからどうぞ。あは、あれだよおのみち、ビームで人間が出てきたり同じ顔したのが何人もいたりするの見られたらやばい噂立つかもだから、近隣住民の目には配慮しなきゃいけないよ。と言われましてもね、わたくしわたくしですので……ふふっ、みんなもう着いてるんですか? シーラ様とはかる様とイリチ様はお着きですが、他の方はまだ。そっか、じゃあ先に中見とこうよ。


 エントランスをくぐると、六、七歩くらい先にエレベーターがふたつ。右手側の部屋には防音扉が。スタジオだ! はい、Yonahに積んでいた機材をそのまま入れました。扉を押し開くと、確かに見慣れた感じのミキシングコンソールやレコーディングブースが。いいじゃんいいじゃんー。イリチ様のスタジオから機材や人員を調達するという話もありましたが、ひとまずこれで十分かと。だねー、渋谷に建てるんだったらそうしようと思ってたけど。そうだおのみちはかると漁火ちゃん呼んできてよ。はい、と言った瞬間に目の前の姿が解れる。スタジオを出てまっすぐ歩き続けると、突き当たりに観葉植物の鉢いくつかと自販機が。おー飲み物全部¥0。そりゃそうだわたしらの城だもんなー。こっち見てみろ、と呼ぶ声の方を向くと、なんそれ、卓球台? そう。あはは、なんでこんなとこに。これ、ハンが絶対ほしいって言ってたやつです。そっか、みんなでほしいもんのリクエスト出し合ったっけ。卓球台の向こうには、あれはたぶん緊急避難用の階段だろうか、そしてエレベーターの裏側に大きめの鉄扉が。なんか物資とかの搬入口かな。んーだだっ広くて地味な感じだけど、まあ後で絵とかタペストリーとか足せば……ねえさんー! おー漁火ちゃん。元気だったー? 相変わらずっすよおー、ねえさんも夏休みどうでしたかー? いやーのんびりしたよ、ひさぎとかと朝まで飲んだりね、久しぶりの実家楽しかったー。ふふっ、娘が世界一になって帰ってきて、さぞかし鼻が高かったでしょうね。はは、母ちゃんも父ちゃんもわたしの音楽全然わかんないって言うけどね。ていうかはかるヒメは? 来てるけど、いま三階にいるはず。内装を見ときたいから、って。そっか、わたしらも上見とこうよ。あたしらの部屋二階っすよー。おし、じゃ案内して。


 エレベーターから出て正面の部屋、そこにでっかく「93」のプレートが。おおー、豪勢な! はかるがカードキーを近づけると、ピピっと鳴って鍵が開く。お、ひと? そうね、キッチンとトイレとシャワールームが別れてる以外は。Yonahのキャビンでは広間と寝室とスタジオが分けられてたけど、これは……なんかすごいホテル然としてるというか。たしかにシステムキッチンほしいとは言ったけど、ここだけなんかむりやり備え付けたみたいな風情。そしてシャワールーム、あれ。なんか見た感じ綺麗ではあるけど……このゴテゴテした感じ、もしかして。おのみちおのみちですが。あのさ、この階って大浴場は無いの? ありません。ひとつ間取りを増やせば可能かと思われたのですが、排水路の都合で不可能でした。そっか、元々どの階にも無かったんだっけ。はい。で、おのみち、この城って買い手がついてなかった宿泊施設の物件を改修したって訊いたけど……そうですが。どの階にも大浴場が無い、ひとの部屋ばかりの物件、ってさ。ラブホだよね? と問うと、数秒置いて、主に日本において発達した性交を目的とするカップル向けの宿泊施設、という意味でしたら、その通りです。と律儀な返答が。だよね、やっぱり。部屋の間取り見てそうじゃないかと思ったんだよなあ……まずかったでしょうか。いやまあ、悪くはないよ。ただみんなこれからラブホの部屋で寝泊まりするのかあ……何その苦笑。いやあ、言うべきかどうか迷うじゃん。そうだはかるヒメ三階って言ったけど、あっちも同じ間取り? ええ、二階と三階はね。でもこのフロアで全員足りるじゃん、三階って誰が住むのかな。Peterlooの人らとか? いえ、マキ様やてん様のお部屋は一階です。そんな部屋あったっけ。救護室としてあてがわれている部屋をそのまま使う、と仰ってましたが。なんでそんなとこ……三階は、主にアーイシャ様のお連れ様が起居するフロアになるので、他の階とは分ける必要があったのだったそうです。

 誰。アーイシャ・ウムァジジ。えっと、それって誰。あーやっぱりねえさんも知らなかったすか。漁火ちゃんが送る視線を受けてはかるも頷く。聞きかじりの要約をしてもしょうがないから一言で済ませるけど、イラン出身のダンサー。その人が主催する団体が日本に滞在する、んだって。はかるらしくもないたどたどしい述懐。イラン……ヒメと同じように、故郷に居場所がなくなって、安全な場所を求めて日本へ、ってことらしいけど。ってことはPeterloo関連か。おのみちそのへん知らないの? わたくしはYonahに配属されて以降のことしか知りませんので、なんとも……ただ、六月にDyslexiconから通達がありましたので、ロンドン公演前にはもう予定が立っていたようです。そっか、で、わたしが城建てるって言い出したから、そこが滞在先としておあつらえ向きだと。そういうことっすよね。

 イランからの避難民、か。ってことはイスラームだよな、あっゾロアスター教もあるんだっけ。そんな人が元ラブホの物件に滞在しちゃっていいのかな……と思いを巡らすうちに、あなた、まさかのこと思い出してるんじゃないでしょうね。と不意をかれる。なんそれ関係ないじゃん。あいつも確かイラン出身でしょう、あなたなら例によって関係妄想めいたことを……なんだよステージ落ちたときの話かよ、もうあんなん無いって。と言いつつ、でもダブリンには確かにいたんだよな、もそう言ってたし、そういえばはかるまだのこと知らないんだよな……とまた口籠るわたしに不審げな眼差しが刺さる。そうだおのみちはどこ行ったの。と無理やりはかる以外のほうへ視線を向ける。お迎えに上がっております、アーイシャ様を。今日の夕方には着くとのことでしたが……そうなのか、もうすぐじゃん。マキさんとあともう一人は? マキ様はてん様と一緒に、ヘリコプター調達の準備を。なんそれ。あなたが欲しいって言ったんでしょう、ヘリコプター三機くらい屋上にって。えっあれ本気にしてくれたの? ドゥさんが全部叶えるって言ったんだから、本気にするしかないでしょう。手続きは昨日のうちに済ませたので、夕方には戻るとのことです。そっか、じゃあアーイシャ? が到着したときにまずいことがないように、三階の点検しとこうか、とくにキッチンとか。既にヒメがあらかた済ませてると思うけどね。あそっか、そのために行ってたのか。


 野菜、小麦、牛乳……こんな感じでいいのかな。まあ十分だろう、るものは着いた後から買い足せばいい。なんか業務スーパーでハラール食とかあるじゃん、ああいうのだめかな。だめではないが、ハラールだからといってバクバク喰っていいわけでもないからな。とくにアーイシャはそういうの厭うほうだと思うが。そうなんだ……ていうかヒメは会ったことあるの? 一度だけな。あ……ねえさん、着いたみたいっすよ。え。が門前に到着したようです、これからかいじょうしますが、よろしいでしょうか。あー、いいよねヒメ? ん、歓迎の挨拶はあたしがやろう。ちょっといいかなヒメ。なんだ。折角だから、私も立ち会いたい。これから一緒に暮らすのだし……いいかな? 許可を得ることでもないだろう、お前たちの城なんだし。ふたりはどうする? あたしも行くっす。うん、わたしも。


 自動ドアが開き、に先導されて幾人いくたりかの影が。六……人? これで全員なのかな、アーイシャが主催する団体、とか言ってたけど。一様にヒジャブを着用した人々のシルエットが、ガラス窓からの逆光でさらにくらくなる。その中の一人、を通り過ぎてこちらへ歩を進める姿が、室内の電灯によってデッサンを濃くする。この人か、夏木立のような深緑の瞳。アーイシャ・ウムァジジ。

 as-salāmu ʿalaykum. と、フロアにすずやかな声が響き渡る。のと裏腹に、えっとこれ、なんだっけ、どう応えるんだっけと数瞬の煩悶で背中に汗が滴る。ところにヒメは歩み出で、 wa ʿalaykumu s-salām と明瞭に返した。銀髪の小柄な姿と、暗色の衣装を纏った背の高い姿が、数歩の距離を挟んで相対する。既にお聞き及びのこととは思うが、アーイシャ・ウムァジジ以下六名、今日よりPeterlooの保護下において日本に滞在する。この度は施設を提供してくれた厚遇に感謝する。と淀みない日本語で述べられた挨拶に、遠路遥々よく来たな。迎える以上、客人の滞在に一切の不便が無いよう計らうことを約束する。これから何か問題事があったら、このシーラ・オサリヴァンに言ってくれ。とヒメも整然と返す。握手、するかと思われたが謎めいた沈黙が数秒あり、双方とも手を垂らしたまま佇立する。我ら啓典の民、互いに粗相なく過ごすことを誓おう。とヒメが言うと、アーイシャも黙礼でむくいた。

 なんだろう、今まで感じたことない緊張だな、と事の次第を眺めていると、唐突に空から騒音が。えっなに。音源がこの建物の真上で静止する。ははっ、同時でしたか。と笑う、の口ぶりから、瞬間的に意は察せられた。ヘリ、か。到着したのかマキさんも。口には出さず、アーイシャとヒメのほうへ向き直る。ふたりとも佇まいを崩さず、同じエレベーターの表示を見つめていた。三階から一階に下降し、ベルとともに停止する。扉が開き、ふたつの人影が歩み出る。

 as-salāmu ʿalaykum. 日本人女性からの挨拶に wa ʿalaykumu s-salām. と客人が返す。いわばしりマキはアーイシャとシーラを交互に見比べ、シーラ、応接の儀ご苦労だった。と短く言う。ヒメの頬にほのかな微笑が灯る、のを見届けて、マキはアーイシャのほうへ向き直る。案内しよう、「Aminadab」の皆様。この城は只今から、あなたがたの居場所だ。




 あなた、まるで除け者みたいだったね。そうだよー、わたしが建てた城なのにさー。と呻きながらベッドに倒れ込む。それにしてもヒメ、まともに応対できてたじゃない。まあね、なんか変な緊張感あったけど。啓典の民、か。同じ一神教の、ってことだよね。そうね。もしかしたらいがみあってるんじゃないかとも思ったけど、その辺は心配しなくていいのかな。良心的なイスラームならキリスト教徒に憎悪を向けはしないでしょう、ヒメも硬直的な原理主義には靡かない子だし。

 と、話してるうちに外からノックの音。はい。はかるかいじょうすると、ちょーっといいか、とイネスが歩み入る。どうしたの。はかるなんか聞いてないか、今日の記者会見のこと。記者……会見? 身を起こしてわたしも入口まで歩み寄る。ああ、さっきプレスから問い合わせの電話があったんだけど……それも複数。どんな? 本日の会場はそちらでよろしいでしょうか、開始時刻は何時頃でしょうか、とか。えっ、やる前提。A-Primeからは何も聞いてないの? あれはラテンアメリカツアーだけの運営だからな、管轄外のはず。ドゥさんからは何も? ええ、昼に一通メールが来たけど、記者会見どうこうは……それくらいこっちでやっといてってことじゃないの、あの人ならありそう。それよりはかる、今さっきすごいとこから電話かかってきたんだけど。すごいとこ、って? 東京オリンピック運営委員会、って言ってた。

 え。

 もしか、したら……ポケットからスマートフォンを取り出すはかる。この、κωμόςコーモスジャパンツアーの日程なんだけど。なんコーモスって。今回のツアータイトルじゃない、あるいは私たち一一じゅういち人のユニット名。こっちで決めた憶えないけどな……えと、第一公演が? 七月一八じゅうはち日の東京で、会場は、新国立競技場。え。って、あれじゃん。そう、東京オリンピックの……しかも一八じゅうはち日って、開会式じゃん。そう……って、ことは。

 入口で固まるわたしらのもとに、もうひとつ人影が加わる。ヒメ。あ……お前らはもう知ってたか。何、オリンピックがどうとか。言うと、ヒメは静かに頷く。さっきマキから聞いたんだが……あたしら、κωμόςコーモスって名前で、東京オリンピックの開会式に出なきゃいけないらしい。

 沈黙。

 なんで。なんでって、ドゥの旦那が決めたからだろ……今回の来日ツアーのお膳立ては全部任せたんだし。だからってオリンピックはねーわ!! いや、ありそうな話だよ……初めて空港で会った時、やたら熱っぽく話してたでしょう、ディオニュシア大祭を現代に蘇らせる、とか。あのとき言ってたことが全部本気なら、直近のオリンピックはおあつらえ向きの舞台でしょう。ちょっと待って、そもそも開会式ってあれでしょ、秋元康のなんかが出るんじゃないの? だったらしいが、「一時間くらいの枠を買った」って言ってたぞ。買った。まあ……明らかだものね、オリンピック運営が利権の世界だってことは。えええじゃあ本当に出なきゃいけないの!? 「準備は全部整えたから、あとは好きなようにやってねえ」とか言ってたから……そういうことだろうな。なんでいつも直前に連絡よこすんだよ!! まともな人じゃないってことはわかってたでしょう。わかってたけど、これは……どうするイネス? んーもう仕方ないから、うちらの公式サイトに会見の予定出すしかないか。あっちの管理はA-Primeがやってるから、パンゲアに連絡しとくよ。


 と、告知を出したはいいのだが、入場パス発行申請に並ぶ団体名があまりにもバラバラすぎて、一体何の目的で来るのかすら定かでない。ナタリーとかAbemaとかはわかるけど、この東京コンテンポラリーダンスフェスってのは何、わたしらのジャンルじゃないよな。見せてみろ、これは……アーイシャの取材じゃないか。え? Aminadabの公演があるんだよ、たしか一週間後。今日の夜に到着って連絡はしてるだろうから、それで来たんだろう。えっじゃあ……わたしらだけの記者会見じゃないってこと。イスラミックセンター・ジャパンみたいな名前もあるから、おそらくそうだろうな……どうしよはかる。どうって、合同記者会見にするしかないんじゃないの。もしアーイシャだけ個別の取材にしてほしいってことであれば、そうするべきだと思うけど。んー……ごめんヒメ、アーイシャに訊いてきてくんない、取材が入ってるんだけど、って。ああ。


 結局、全部いっぺんに済まそうって流れになり、わたし、はかる、イネス、そしてアーイシャの四人で三〇分間の会見に応じることになった。大舞台を前にして意気込みはどうですかとか、待望の日本公演ですねファンにメッセージをとか問われても、わたしらだってさっき知らされたからには通り一遍の答えしかしようがない。が、とある記者が突然、遅ればせながらさん、χορόςロンドン公演での優勝おめでとうございます。と慇懃に切り出した。あっこの人あれだ、『Limbo』のビデオ出したあたりから熱心に取材してくれてる人だ。ありがとうございます。ならびに、本日この城もめでたく完成したようで、祝賀の念を述べさせていただきます。まずはじめにですが、この城は「日本でいろんな表現をやりたい人たちの居場所になればいい」との展望で建てられたとのことですが。あっそうです、そういうコンセプトだったよねえはかる。ええ。最初は渋谷か新宿あたりに漁火ちゃんの、うちのギタリストの所属するスタジオと合併しようかなって話だったんですけど、あんま良い建物が見つかんなくて、それでここに決めたんです。と、今日の会見で初めて事務的でない返事ができた。なるほど。それでは、今回の……アーイシャさんの滞在先としての提供も、「居場所になればいい」という理念の一環でしょうか。と不意をくような問いに、どう答えるべきだろう、そもそもPeterlooの名前出していいのかな、その保護下でアーイシャは来日したってことになってるんだからいいか、あっでもこの人たちそもそもアーイシャについてどんだけ知ってるんだっけ、いやそもそもわたし自身もよく知らないじゃん、と案文を練りかねるうちに、もちろんその通りです、とはかるが答える。理不尽な暴力で表現の場を奪われるなど、あってはならないことです。私たちも彼女たちのために場所を提供できて光栄に思います。と、優等生な回答でひとまずことなきを得た。理不尽な暴力……? ごめんはかるわたしその件全然知らないんだけど、の視線を送ると、この場は取り繕っておきなさい、の眼差しが返った。

 じゃあ、次の方。と記者団に促し、挙がった手の中から適当なのを指差す。東京コンテンポラリーダンスフェスの運営です、あ、さっきの。アーイシャ・ウムァジジさんに質問です。まず今回、日本が滞在先に選ばれたことに驚いたファンも少なくないと思います。あなたの主催するAminadabは既に欧州の観客から高い評価を受けていますが、この城でχορός参加者と起居をともにするということで、もしかしたらコラボレーションでの作品発表もありうるのでは、と囁かれています。その可能性に関してはいかがですか? と、初めてアーイシャ個人への質問が向けられ、記者席にも若干の緊張が走る。万座が見つめる中、アーイシャが口を開く。ご期待を頂いているのは大変ありがたいのですが、その可能性はありません。Aminadabと彼女らの、χορόςと呼ばれる興業との間には著しい懸隔が存在しますので、コラボレーションの成立は質的に不可能です。との整然とした受け答えに、そうですか、わかりました。と記者は委縮したようになり、来週に控えているAminadabでの公演、楽しみにしております。と蛇尾な感じで質問を終えた。


 あーしんどかったー、なんて長い三〇分。おつかれー、とりあえずなんとかなったな。えらいとっちらかった会見だったけどねえ。そりゃ、別々の取材をいっぺんにだもんな。ヒメもおつかれ。ああ。アーイシャは? 夜の礼拝があるからと、もう三階に上がった。あ、礼拝。の設備もあるの? 設備って、イスラームの礼拝では儀式めいた道具なんか使わないからな。そうなの。ああ、イマームと人々が集まる部屋さえあれば、どこでもそこがモスクになる。イマーム……礼拝を執り仕切る人、ってこと。スンナ派の用法ではそうだな。それもアーイシャがやってるのか……いやーしかしGILAffeジラフさまさまだねえ、急な取材でもどうにかなった。え? アーイシャは入れてないぞ。え。あいつも、一緒に来たムスリマたちも、誰一人GILAffeジラフなんて入れてない。来る前にクルアーンの日本語訳を読んで、文法と発音をひととおり勉強してきたらしい。え、ひととおりであんな!? 他にもペルシア語とか中国語とか、インド・ヨーロッパ語族系の言語もほとんどできるはず。すげ……外国語訳のクルアーン読んだだけで? 亡命しながら表現活動やってるんだ、語学が達者なのは当然だろう。亡命……わたしそのへん全然なんだよ、はかるは知ってるの。ヒメから教えてもらった限りはね。まあ今日は夜も遅いし、明日からでいいだろう。打ち解けるには時間がいるさ。まあ、そう……かな。




 新しい枕の感触ってのは、どうも不思議だ。ああ、これからはここで暮らすんだなって、遅れて腑に落ちる感じ。改修したばかりの部屋の匂い、いつもの歯磨粉の舌触り。変わってるようで変わってない。こうしてまた始めるしかないんだ。

 おはよはかる。うん。漁火ちゃん寝てる? 先に出たみたいだよ、今日はずっと渋谷らしいから。あそっか、あっちのスタジオか。行き来しなきゃいけないから大変だなー……今日はわたしらセットリストの打ち合わせ? それは教授キョウジュハンが来てからのほうがいいって。それまではずっとオフでいいんじゃない。えーでもオリンピックだよお、相当練習しないと……あのロンドン公演から一ヶ月も経ってないのだし、焦ることでもないでしょう。InnuendoやDefiantがヘタ打つとも思えないし。エリザベスとウェンダはいつ来るんだろ。そのへんはおのみちが取り次ぐはずだから、心配しなくていい。

 ってことは、ほんとにただのオフなのか今日。ここ一ヶ月ずっとそんな感じだけど。あそうだ今日、姪浜めいのはまのわたしの部屋から私物が届くはず、蔵書とかの。とりあえず午前中はここにいないと……あっもうないわラッキーストライク。うっかりしてたな、飲み物は一階ここに自販機あるけどタバコは……あーこの辺で一番近いコンビニどこだろ。とか思いながら自動ドアの外に出ると、え。うわ。なんだこれ。エントランスの煉瓦造りの柱、わたしふたりぶんくらい上のとこに、ラッカースプレーで書かれたと思しい文字列が黒々と。

 TELLOLIST

 なにそれ。「テロリスト」って書こうとしたのかな。そんなLばっか使うのおかしいだろ、書く前に辞書くらい引けよ。どうしよ、おのみちおのみちですが、うわっ……うわって、やっぱ見てなかったの。はい、今日素体で門前に出たのは初めてで……これは、誰の仕業ですか。こっちが聞きたいよ、ちょっとおのみち、シンナーかなんか無い? 塗装で使ったものがたしか……すぐ持ってきて、脚立きゃたつも! はいっ。

 ちくしょーなんでこんな高いとこに、どうやって吹き付けたんだ、位置からしてあの……門のへりのとこ登ったのかな。わざわざ人目を忍んであんな……様。おう、脚立おさえといて。はい。あっダメだ全然……おのみちながのやつ無い? 雑巾挟むようなやつ。はいっ、取ってまいります。くそー早く消さなきゃなのに、こんなの見られたら……

 あ。

 アーイシャ。お出かけですか。と戯けて声をかけても、門前の彼女の視線は柱の落書きに釘付けになっている。どうしよ、わたしが書いたんじゃないよとか言うべきか。いやかえって逆効果だろ、彼女が来て初めての午前なのに、こんなの見られちゃって……と押し黙りながら脚立を降りるこちらへ、アーイシャが歩み寄ってくる。えっ、あのっ。目の前の脚立が奪われ、横倒しにされる。接地部のストッパーのようなものが押し上げられ、脚が伸ばされる。あっそこか、まだ伸びたのか。さらに接合部の留め金を外し、A字に折り曲がっていたものが直線の梯子のようになる。えらい慣れた手つき、あ、え。押さえておいてくれ。と一言だけ放り、雑巾とシンナーの容器をとり、上方の落書き目掛けて伸びた梯子に足をかけようとする。あっちょっ、いいよわたしがやるよ。と言うも虚しく、アーイシャの靴先が梯子にかかる。あーもう、こうなったら言われた通りにするしか。七月の午前の日差しを浴びて熱を帯びてきている金属、そこから伝わる振動を両手でぎょする。落ちないでよ。見上げて窺うと、アーイシャは左足の爪先を梯子の端にかけ、落書きのうえに雑巾を押し当てているところだった。器用だな、やっぱりダンサーの身体って一味違う。とか呑気に眺めていると、シンナーの容器からこぼれたものが石畳に滴る。ほんと落ちないでよ。言っても梯子の上の人はこちらを窺いもせず、黙々と動作を続けている。まだ塗料が固まりきっていなかったのか、落書きの痕跡はシンナーできれいに拭い取られていった。目的を遂げると、梯子を降りてくる振動が両手に伝わる。気をつけて。と呼びかけても返事はなく、アーイシャは危なげない挙措で地上の人となった。

 ほんとごめんね、見られる前に消しとくべきだったんだけど。なにか糊塗するような物言いでかえって気まずくなり、シンナー容器と雑巾を受け取る間にも所在が無い。アーイシャは脚立をふたたびふたつ折りにしながら、不憫だとは思わないか? と眼を伏せて言う。え? 誰かに対して憎悪の念を表明するとして、言葉の遣い方が間違っていては、憎悪すら正しく伝わらない。そのような怯えた言葉の遣い手たちのことを、不憫だとは思わないか? と脚立を横抱えにしながら、今度は両眼の視線を合わせて言う。あ、ああ、 TELLOLIST はないよねえ。あ、それこっち。と言いつつさっきおのみちが戻っていったほうへ先導する。そもそも「テロ」の語源はフランスだ。フランス革命後の、ロベスピエールの独裁政治に由来する。つまり我々イスラームに「テロリスト」の幻想を投影するなら、それは自らの血塗られた歴史の責任を外部に押し付けている、ということになる。と歩きながら筋道立てるアーイシャに、あはは、そうだね。と調子を合わせるも、ラ行の音素でLとRを混同するのはうちの国くらいのものであって、あれを書いたのは白人じゃなく日本人しかありえないんじゃないか……と思わざるを得ない。が言わない。昨日の記者会見にも、いかにもそういう錯誤を犯しそうな顔ぶれが何人か見られた。大方おおかたその手の輩の仕業だろう。そうなのかな……ごめんねアーイシャ。なぜ君が謝る? いや、見せたくないもん見せちゃって。うちにいたら安全って、思ってもらいたかったのに……と口籠るこちらへ、そのような心配は無用だ。と、歩みを止めて言う。え、だって、不安でしょ、こんな脅しみたいなの書かれて。不安? 怯えた言葉の遣い手を前にして、か? むしろ憐れだよ、あのように誤った言葉の遣い方に慣れてしまった人々は、我々の聖典に記された宝のような句の数々も理解できないのだろう、と思うとね。

 表情一つ変えず言い切るのを見ながらほうけたようになるわたしに、様。の声がかかる。あっおのみち、もう大丈夫だわ。これとこれと脚立だけ返しといて。と雑巾とシンナー容器を渡し、アーイシャも脚立を置く。はいっ。小走りで遠のくおのみちを見送り、わたしらも門前へ戻る。彼は男性か。ああ、まあそんな感じ。この城、にはおおうらてん氏しか男性はいない、と聞いていたのだが。うんそうなんだけど、一応あのおのみちもいるかな。あと、昨日あなたを迎えに行ったってのも、いちおう肉体的には男。と註釈すると、明らかに眉に厭悪のようなものが浮かぶ。なんでもよいが、それらの人々は三階には近づけないようにしてもらいたい。うん、言っとくよ。あとほんとにごめんねアーイシャ、二度とこんなこと無いように、今日からはずっと見張らせとくから。先ほども言ったが君が謝るようなことではない、この手のことは飽きるほど見てきた。あっ、やっぱ前にも同じようなことされたの。落書き消すの慣れてるな、と思ったけど。まあ、欧州をまわっていた頃に何度か。とくにフランスでは顕著だった、あの国はどうも慇懃無礼なのだ。とある新聞社の女性が「そのような真っ黒な頭巾を着けていて暑くないですか、不便なのではありませんか」と訊いてきたことがあった。はは……私はこう返したよ、「これは聖典に明記されている正統の衣装であり、優れて美しくこそあれ不便なことはひとつもありません。我々は我々の文化で育まれたものを着ているだけです。ところであなたはハイヒールを履いておられますが、そのように脚部への負担を強いる靴を履いていて不便ではありませんか?」と。

 門前まで至り、どう返したらいいのかわからず、とりあえず笑ってみる。けっこう言うんだねアーイシャ。何かおかしなことが? と、寸毫も眉を動かさず言うので、ならこういうことも笑いながら言うんだよな、アーイシャはずっと真顔だけど。ただ表情が違うけだけで根っこのところは近いのかも……と、目の前の女性と数年前の交際相手の記憶を擦り寄せてしまっていることに気づき、あっいや、そうだね、そうかも。と意味不明瞭なことを言い繕う羽目になる。のを一瞥しながら、アーイシャは背を向ける。あっ、外出? 鍵は持ってる? 言いながら門をかいじょうし、ああ。と短く答えるアーイシャの横に並ぶ。買い物か何か? ああ、正午の礼拝までには戻る。食料品の買い出しなら手伝うよ、ひとりじゃ大変でしょ。と言うと、君は何を? と短く問われる。ああ、わたしはタバコを……と言うと、目の前の人の肩が翻り、右目だけがこちらを向いている。あ、しまった。酒がまずいのは知ってたけど、タバコもなんだっけ。と固まるこちらへ、よい、君の手は借りない。と拒絶の言葉が放られる。

 あー、しくったあー。遠のく背中を見送りながら幾許かの後悔が胸を刺す。このばかー、ヒジャブ着けてるからってわけじゃないんだぞ。ほんとこれから気をつけないと、変に馴れ馴れしくならないように……でも。あの人の、目の前の不正に断固として立ち向かう姿勢、かっこいいな……いやいや、こういうのが馴れ馴れしいんだってのー。あーもうおのみち。はいっ。同じことが二度と起こらないように、これから毎日門番担当のおのみちを置いといて、最低でも一人。サーバにはそんな負担にならないでしょ。はい、そのようにいたします。うん、あと門前に監視カメラつけといたほうがいいな、暗視もできるやつ。かマキさんに発注してもらっといて。はい、そのように。


 あーいどうも、おつかれさまです。配送業者から段ボール箱を受け取り、エレベーターの前まで運ぶ。降りてくるのを待ちながら入口の方を向くと、あ。アーイシャ! 自動ドアを通過する姿に手を振ってみる。両手に買い物袋を提げていたので応じるわけがなかったが、こちらに視線を向けてはくれた。おかえり、荷物いっぱいだねー。ああ。茶葉とか、コーヒー? ああ。無味乾燥な会話を遮るようにベルが鳴り、床に置いた段ボール箱を持ち上げる。中に入り、肘で2と3のボタンを押す。エレベーターの中でふたりきりになり、気まずい沈黙が流れる。今から礼拝? ああ。じゃ、今から見学にいっていいかな? いや何言ってるんだわたしは、そんな気易く言っていいことなのか、と遅れて訝しくなり、いやっ、これから一緒の建物で暮らすからさ、ちゃんと理解したいと思って。と遁辞めいたことを並べる羽目になる。アーイシャはこちらに一瞥くれ、もちろん構わない。が、モスクの中は禁煙だ。と釘を刺す。あは、わかってるよ。じゃ、すぐに行くから。二階で降り、足早に部屋へ向かう。


 三階へ上がるエレベーターの中で、一人のヒジャブ姿の女性と一緒になる。なんか話しかけようかな、あの挨拶なんていうんだっけ、と思案してるうちにベルが鳴る。三階のフロアに出ると、扉が開け放たれている部屋が見えた。中を窺ってみると、既に室内にはアーイシャを筆頭にムスリマたちが集まっていた。どうしよ、なんか特別な作法とかあるのかな、とまごついていると、アーイシャが向こうから歩み寄ってくる。あの、はいって大丈夫? ああ、ただ礼拝の列には割り込まないように。言われるままに靴を脱ぎ、ムスリマ達の列を遠く眺めつつ絨毯に座する。さすがに余所よそものがひとり紛れ込んでは、女性たちも不審げにこちらを窺う。入口付近でふいに手持ち無沙汰になり、備え付けられていた本棚からなんとなく一冊取り出してみる。うわ、読めない。酷薄なまでに読めない。これがアラビア語、右から左に読むんだよな。見た感じ文字っていうよりむしろ、すごく綺麗な模様みたいな……いやいやそんなオリエンタリズム丸出しの逃げ方してどうする、聖典なんだぞこれは。クルアーンなのかハディースなのか、どっちなのかすらわからないけど……と渋面じゅうめんでページをめくるこちらをよそに、モスクの中に声が響く。両手を耳の高さまで上げて、あれは始めの挨拶かな。あれ……これ、アラビア語だよな、いま発話されてるのは。なのに、まったく作動しない、GILAffeジラフの翻訳機能が効いてない。なんでだ、今まで英語とかフランス語とかドイツ語とかで話しかけられたときはちゃんと日本語に訳されてたのに。まさかアラビア語だけ特別なんてこと……とか思ってる間にも礼拝は進み、朗唱を続ける人々の背中を凝視する。アッラーフアクバルって聞こえた、それはわかったけど、やっぱり日本語には訳されてない。なんだろう、GILAffeジラフの故障かな。いや、よく考えたらこんな猫型ロボットのひみつ道具みたいなのがまともに作動してること自体おかしいんだけど。でも、これは、前にもあったはず……そうだ、初めてハンと会った時。韓国語でラップしてるのはわかったけど、何を言ってるかは全然わからなかった。普段の会話はGILAffeジラフの標準語である日本語で済ませてたから気にならなかったけど、それでもハンヒメやイネスが母国語で唄ってる歌詞は、翻訳されては聞こえなかった……そうだ、なんで今更こんなことに気づくんだ。GILAffeジラフが翻訳できるのって話し声だけなんだ。歌声はなぜか無視される……ということは、これは。わたしがいま耳にしてるクルアーンの朗唱は、これも音楽なのか。少なくともGILAffeジラフはそう判別してる、ってことになる。

 あ、れ、もう終わり。なんだろう、時が飛んだのか。まさか居眠りしてたなんてこと。いや違う、聴き入ってるうちに終わったんだ、話し声のようにも歌声のようにも思われる、あの朗唱に。こん、にち、は。と、礼拝を終えて入口に戻ってきた人々を前にして、たどたどしい日本語で挨拶する。彼女らは微笑とともに、こんにちは。とにこやかに返してくれた。今のは日本語だよな、わたしに合わせて言ってくれた。じゃあ。皆さんが礼拝するのを見学させてもらっていました、ご迷惑ではありませんでしたか。と、これはアラビア語で言ってみる。GILAffeジラフの翻訳機能がちゃんと作動してるなら伝わるはずだ。わたしの唇はわたしも何を言ってるのかわからない音声を発話する。と、女性たちは驚いたような表情で口を開く。まさか、迷惑ではありませんでしたよ。それよりアラビア語話せるんですね、びっくりしました。と聞き取れた。わたしが耳にしている日本語の訳文と彼女らの唇の動きは、もちろん合致していない。彼女らのアラビア語をわたしの中のGILAffeジラフが勝手に処理してるだけだ。続けて、いえ、これはちょっとしたずるをしてるのであって、本当は外国語はぜんぜん話せないんです。と、今度はペルシア語で言ってみる。すると、彼女らの何人かは笑い声さえ上げて、そうなんですね、欧米の一部ではそういったものが流通していると聞いていましたけど。でも私たちは皆イランの出身ですけど、誰もがペルシア語を話せるわけではないんですよ。ええ、アーイシャみたいに語学の才能があったらいいんですけど。と、これも日本語で聞こえた。彼女らがアラビア語とペルシア語のどちらで話しているのかもわからないのに、わたしには日本語として聞こえる。彼女らの音声が外国語のはずだと判別できる根拠は、ひとえに唇の動きとわたしの聞いている訳文が一致していないという、ただ一点のみだけだ。

 どうしてだろう、どうして今更こんなこと疑問に思うんだろう。もちろん、今までは専らGILAffeジラフが入ってる人たちを相手にしていて、日本語だけを聞くことに疑問を持っていなかったから。でもGILAffeジラフは、なぜだか歌声は翻訳することができない。そしてクルアーンの朗唱は音楽に分類されている……と筋道立てるうちに、もうよろしいかな。と、アーイシャの左手が肩に置かれているのを発見する。あっ、うん。本は所定の位置に戻しておくように。とだけ言ってモスクを出るアーイシャに続き、女性たちも辞去する。あのっ、アーイシャ。と呼びかけると、こちらを振り返ってくれる。何か。あのっ、見学を許してくれてありがとう。もっと色々教えてくれないかな。わたし知りたいんだ、イスラームと音楽とか、ダンスのこととか。と散らかった構文で言うと、アーイシャは呼気ひとつ置き、よろしい。私も色々知りたかったところだ、君たちの国について。と応えた。初めて彼女の方から積極的になってくれたように思えて、ほんとう。と間抜けた声が出てしまう。ああ、今度は私の方から伺おう。この後時間があるかな? もちろん。では、二階で待っていたまえ。すぐ向かう。


 さて、と二階の共用キッチン前に備え付けの椅子に座りながら、私がいたイランともイスラエルとも、この国は因縁浅からぬ関係にある。それについて少し話したいのだが。と話題が切り出される。ああ、うん、いいよ。と答えるとアーイシャは咳払いひとつ置いて言う。君が日本人であるならば当然知っていると思うが、日本はおよそ一五じゅうご年前からヨルダン渓谷の「開発」に取り組んでいる。「平和と繁栄の回廊」、という名目でな。う、うん。この開発計画がいかなるものかというと、第二オスロ合意以降に細分化された西岸に、パレスティナ人に労働機会を与えるための農業団地を設置するというものだ。が実際は、当時の国境管理はイスラエルが行なっていたため、農業団地での産物はイスラエル側からの許可なしでは輸出することができなかった。つまり、入植地の経済を支持し、イスラエルの占領を強化することにしかならなかった。と並べられる事項を頭の中で整理しながら、うん。と頷くことしかできない。そして当時のオルメルト首相が自白しているのだが、この開発計画に携わったイスラエル人実業家は、日産自動車のビジネスパートナーだったそうだ。なんてことはない、最初から大企業との癒着による「開発」にすぎなかった。こうして君たち日本人が敷設してくれた迂回道路は、パレスティナ人にとっての移動時間の増加と燃料費の増大という恩恵をもたらしてくれた。まったく、大した「平和と繁栄の回廊」ではないかね。と、訥々とした事実の羅列からも静かな憤りが伝わってくる。うん、ごめん、それ、知らなかったよ。この事実を知ったときには、日本も米国やEUのような「白人」の一員に過ぎなかったのかと、大変落胆したのを覚えている。と短く結んだのち、先ほど図書館に足を運んでね、いくつか調べたのだが、と何枚かのコピー用紙を椅子の上に並べる。買い出しに行っただけじゃなかったのかと思うだけで口には出さず、いま君たちの国が何で知られているかというとこれだ、と指差される新聞記事のコピーを目で追う。一枚は英語の、もう一枚は日本語の。ああ、例の……医科大の。そう、とある医科大学の入学試験において、女性受験者の点数のみが不正に減点されていたという事実。もう二年前になるが、未だにこの理不尽な処遇を受けた者たちに謝罪や賠償が行われたという報道がない。どころか、この二年間に複数の大学で同様の事件が判明したそうではないか。新聞記事から目を離し、とりあえずアーイシャと目を合わせる。この記事を読んだ時には目を疑った、と懐からiPhoneを取り出しながら──あiPhone持ってるんだ──不正の調査を行う責を負っている省庁は、もう事態は改善したから再調査の必要は無いと発表しているそうだな。ここで訊きたいのだが、君たちは自らの政府の欺瞞的な態度を前にして何も思わないのか? と一直線に問いを向ける。えと、そりゃあおかしいと思うよ……と口ごもりながら言うと、ならばなぜ糾弾しない? 二年も前に起こった事だろう、再発の可能性があるどころか同種の実例が次々と明らかにされたにもかかわらず、君たちはこれらの不正に携わった者たちの責任の所在を明らかにしようと思わない? まさか、自分は医者志望では無いから関係ないとでも? これは君たちの憲法が保障している学問と職業選択の自由に対する明らかな侵犯、つまり違憲行為だろう。君たちは自らが則っている立憲主義が汚されているのを前にして、何も行動を起こさないのか? と、わたしよりもこの国の腐敗を慮っている異邦人の姿を前にして言葉を失い、そんなわたしの顔を見つめながらアーイシャも黙る。

 ……前もって調べておくことにしているのだ、その国を訪れる前には。と先程よりも明らかに消沈した声で言い、まずはOECDのデータに当たるのが一番早い、各国ごとの女性教員の比率だが、と液晶画面を繰り返しスワイプし、こんなに低い国は見たことがない、それも先進国で。私の生まれたイランでもここまで低いことはあり得なかった。と言いながらグラフの最低に位置しているJapanの文字列を指差す。うわあ、韓国との差……君たちはこうして、女性への差別が公然と許される国であることを世界中に公表され、あのような不正を前にしても何も行動を起こさない。以上の事実を踏まえると、こういうことにならないか。日本に住まう主権者である君たちは、エスタブリッシュメントによって公然と行われている差別を容認し、支持し、未来の人々にも同様のことが行われる体制を護持している、ということには。

 そう、だね。目を合わせることすらできず、椅子の上に広げられた新聞のコピーに目を落とす。そうだ、この半年間、わたしたちはいい調子で世界をアゲ続けてきたけど、その間ずっとこの島国は変わらなかったんだ。というよりむしろ、わたしたちが音楽以外のことは何もしなかったから変わらなかった。ようは無駄かこの歌と言葉は、と、こんならしくもない沈思は振り解き、ひとまず背を伸ばし、目の前の異邦人の双眸そうぼうを見据える。君たち自身もよく言うだろう、日本人は恥ずかしがり屋で自己主張をしない、控えめな民族だと。しかし私は不思議に思う、なぜそのように恥ずかしがり屋な国民が、書店や地下鉄や電気街にあれほど露骨な性的イメージの掲示を許しているのかと。男性も女性も同じだ、君たちは生きていて避けようもなく纏わってくる政治的事象をすべて見ないことにして、各々の性的ファンタジーを満たしてくれるものだけを歓迎しているのではないか。あの「アイドル」というのは一体何だ。歌唱も舞踏もあらゆる技術において著しく劣っている若人に熱狂して、あまつさえ偶像を意味する名で崇拝しているわけだろう。その一方で、芸能や表現に携わる内部者が政治的な意見を表明すると一転して悪罵や嘲笑を浴びせる。このように奇怪な精神は他のどの国でも見たことがない。教えてくれないか、なぜこのようになってしまったのか。私は理解したいのだ。と一瞬も視線を揺るがさず言われ、せめて誠実に応えなければと思うものの、うんいや、わたしもよくわかんないんだよね……そのへんとはちょっと違う分野でやってきたからさ。くらいの返事しかできない。

 君の音楽はもっと悪い。

 えっ。ヒップホップなどという、身を持ち崩した男性が淫猥で暴力的で文法的にも破綻している歌詞を捲し立てるだけの、あんな下劣な音楽に、まさか女性の身で参与するとは、あまつさえ自身で興行して収入さえ得ているとは! えっちょっと待てよ、いきなり何だよその典型的なステロタイプ! だいたい女がヒップホップやって何が悪いんだよ! 我々の聖典は教えている、男は女性的な行為を避けるべきであり、女は男の装いを真似てはならぬと。それはあんたらの世界の話だろ。ヒップホップだって色々あるんだよ、確かに暴力やセックスとは切っても切れないけど、でもそれだけじゃない。すんごい優れた詩人みたいなのもいるんだよ、しかもムスリムのラッパーだぞ、ラキム・アッラーとかTwiGyとか。ア、アッラー……!? 人の身でありながらアッラーの名を騙るとは……!! いやまあそれは、さすがにわたしも大胆な名前だとは思ってたけどさ。でも性別とかイメージとかで決めつけんな、あなただって言われたくないでしょ、イスラームの女がダンスなんか、とか。

 ふいに舌戦めいて荒くなった呼吸を、ひとまずなだめる。ダンスは、とアーイシャは静かに唇を開き、私にとってダンスは、アッラーを讃えるための手段だ。と告白のように言った。なんで……よくは知らないけど、ダンス続けてきたせいで色々ひどい目にも遭ったんでしょ。と薄く検索しただけの情報をたよりに言うと、知恵から遠ざけられた人々が如何なる誹謗を投げかけようと、知ったことではない。数学や幾何学と同じく、ダンスは私がアッラーを讃えるために磨いた手段なのだ。と口早に返される。え、数学。ああ。えっと、数学とか幾何学とかは学問であって、表現ではないでしょ。と質してみると、ダンスも表現ではない。と言下に切られる。

 たとえば、ヒマワリの種。えっ。知っての通り、ヒマワリの種は黄金比に従って配置されている。さらに雪の結晶には、緻密なフラクタル構造が含まれている。数学や幾何学で扱われる叡智は、すでに自然の中にあらわれているのだ。神秘は水や花や火や石や、もちろん我々人類も含めたアッラーの被造物のなかに、既にあらかじめ仕込まれている。天や地や風や星、すべての被造物に。と筋道立てられるのを前にして、星も……? と呆けた声が漏れてしまう。星もアッラーがつくったの? もちろん。驚くべきことなどあるだろうか、この世界を創造したもうたのはアッラーをおいて他にない。アッラーより優れた創造者など、原理的に存在し得ない。よって我々は、自らの卑小な意欲を働かせて表現などせず、ただ神秘を讃えさえすればよいのだ。数学も幾何学もダンスも、その手段のひとつにすぎない。アッラーのわざを称えるという、イスラームにとって最も枢要な奮闘努力ジハードの。




 散々言われちゃったよお、と呻きながらベッドに倒れ込む。まあね、私たちも長らくこの国から遠ざかってたけど、それくらい言われて当然でしょう。そうなんだよな、彼女が指摘したこと自体は何も間違っていない……ヒップホップに対する物言いは、さすがにカチンときたけど。チョコレートとカステラどっちがいい。えーとねカステラ、なにそれ長崎の? 違うよ、ヒメと銀座に行ったとき買ってきたの。おーありがと、お茶も。しかしねー今までいろんな外国人と会って話したけど、さすがにあんだけ言うやつはいなかったよ。まあね、ヒメ教授キョウジュも論戦仕掛けるようなタイプじゃないし。ね、訪れる国のことは必ず調べるって言ってたけど、あそこまで……どうしたの。いや、その辺が……似てるな、と思って。誰に。、に。

 言った瞬間、はかるの拳骨が眉間に押し当てられる。あ痛っ、やめてぐりぐりやめて。あれほど言ったでしょう、イラン出身だからって軽率に移入するなって。わかってるよお、だけど実際似てるんだよ、あのなんていうか、現実に存在する問題を見通す力、っていうかさ。もちろんアーイシャはと比べてユーモアなさすぎるけど、でもあいつがよく言ってた……「この世界は変えられる」ってイズムを、アーイシャからも感じるんだよ。

 言い終わるのを見て、はかるは黙して茶を啜る。変えられる、ね。うん。この世界を変えるために、危険を冒してまでダンスに取り組んでるのかな。それもちょっと違うみたいなんだよな、ダンスはあくまで手段で、表現ですらないって……と漏らすと、はかるも不審げにこちらを見つめる。たぶん、ムスリマとしての、特異な藝術観、てことなんだろうけど。付け加えても、はかるは釈然としない表情。ともあれ、あまり深入りしすぎないことね。あなたはいつだってお節介焼きすぎて自分が火傷するんだから。わかってるよお。




 おいーす、と今日も正午の三階に歩み入る。モスクのほうを見ると、ちょうどアーイシャが出てきたとこだった。おーい、と手を振りながら駆け寄り、アッサラーム・アライクム! と言ってみる。 wa ʿalaykumu s-salām. と返してくれた。えへへーこれ覚えたんだ。あ、ムスリム以外が言ってもいいんだっけ? もちろん、日常の挨拶であるからには。ところで、この階に何の用かな。なんだよーつんけんしないでよ、あの共用キッチンの冷蔵庫の点検。君が手ずからするようなことか……? だってこの階におのみち入れちゃだめなんでしょ、じゃあわたしらがやるしかないじゃん。集団食中毒とか出したらまずいんだよーぬしとして、と話してると、いきなりアーイシャがヒジャブを脱ぐ。えっ、うわ、それ、いいの? いいのとは。いや、外したとこ見ちゃって……禁忌なんじゃないの? 男性の目に触れたら問題だが、君なら気遣いはるまい。あっそうか、だから男性禁制なのか。と遅れて納得するこちらへ、今からワークショップなのだ、Aminadabの。と黒いインナーの袖をまくりながら言う。あ、ダンスの。ああ。ここにいる人たち全員メンバーなんだっけ。ダンスを研究する人員という意味ではメンバーだが、公演でパフォーマンスするのは私とズラミートのみ。へえ……わたし、そのズラミートさんと話したことあるかな。ここにはいない。えっ。諸用でテル=アヴィヴとペテルブルクを周っている、日本には今日到着するという話だ。あっそうなんだ、とアーイシャの相方さんのことすら知らずぬしづらしてた自分の不誠実さに思い至り、というかそれを見透かすような冷たい視線が向けられていることに気づき、じゃあえっと飲み物持ってくるよ、冷房きいてても汗かくっしょ? アーイシャふくめて六人だよね、下に自販機あるからさ。と演技めいて言うわたしに、添加物なしの水で頼む。と短く返す。おっけー。

 しかし、ヒジャブ着けてたときはしっくりこなかったけど、わたしよりちょっと背低いんだ。肌きれい、やっぱ食べてるものが違うからかな。しかし黒が似合うなあ、初めて見た時も思ったけど髪の黒さと眼の緑色が……おい。えっ。行くのか行かないのか。あっいや行くけど……ちょっとさ考えちゃって、どんなダンスやるんだろーって。と前より幾分下手になっている誤魔化し方に自分で呆れる、ところに、日本の暗黒舞踏、に少なからぬ影響を受けている。とアーイシャはすぐな眼で言った。えっ。イスファハーン大学にいたころ、映像アーカイヴに土方ひじかたたつみの作品があったのだ。そこで初めて暗黒舞踏というものを知って、私のスタイルに取り入れたいと思った。Aminadabもその探求の延長線上にある。そうなんだ、意外だね。意外? いや、イランの大学に暗黒舞踏の映像があるって。自然なことだろう、今や舞踏は世界的に知られている。とくに大野一雄は頻繁にイスラエルで公演を行なっていたろう、だから知名度が高いのだ。へえ。ってあれ、なんか昨日話したような口ぶりと違う気がする。乗ってくれてる、のかな。そもそも東北の舞踏家は西アジアと親和性が高い、と常々思っていた。土方も大野も及川廣信も北の出身だろう。あの人々が産み出したスタイル、踊る身体を屍体として把握することからヒントを得て、私も仕事を続けているのだ。へえ。わたし程度の知識では合いの手すら入れられないのが見え透いているので、視線を逸らさず聞くしかない。東北地方、とくに秋田には一度行ってみたいものだな……数年前の来日公演は福岡のみだったから。えっ福岡? ああ。わたしの出身だよ、福岡県北九州市! その市ではなかったが、たしかフリンジダンスというフェスで招聘を受けて、それが初めての来日公演だった。あーなんか毎年やってるやつでしょ、行ったことないけど広告で見たことはある。と話が長引く、けどアーイシャはまんざらでもないように見える、のはわたしの勝手な思い込みか。よかったら……来てみないか。えっ。三日後に神楽坂で行う、Aminadabの公演。ええ、良いの? 住居を提供してもらっているのだ、招待券くらいの返礼はすべきだろう。ほんとーありがと、楽しみにしてるよ! ああ。その前に水を。あっ忘れてた、いま持ってくる。ふふっ、と、あれ、笑ったの見るの初めてじゃん。小走りでエレベーターの前に至り、どうしてすぐ顔背けちゃったんだろ、もっと見ときたかったな、とかいう邪念が兆すのをどうしようもない。やめとけっての、女性だからといってじろじろ見ていいわけじゃないだろ。でも何でだろ、笑ってもらえただけでどうしてこんな嬉しいんだろ。




 ロシア語でないことはなんとなくわかる。が、一体何語で喋ってるのだろうさっきから。明日の夕方には到着だから迎えに来てよ、イリチ空いてないの? は東京の土地勘ない? じゃあはかるがいいや。航空便の詳細送っとくから、指定のゲートに来といてねー。と唐突にゾフィアから電話があり、連絡通り羽田空港国際便ターミナルで迎えたのはいいのだが、そこには彼女と一緒にもう一人……アーイシャのダンスパートナーを務める女性も同伴していた。ズラミートSulamithパールムッターPerlmutterと申します、滞在中はご不便をかけると思いますが、どうぞよろしく。と明瞭な日本語の発音を受け、あっはい、こくはかるです、よろしく。とこちらが気後れするようになり、ちょっとカタいよーもっと砕けた感じでいいんだって、よろしくねーみたいな。と傍らの人の肩を叩くゾフィアの陽気さを憮然と眺めることになった。よろしく。そうそんな感じ。はかる、よろしく……こんな感じで失礼はないか? あっはい、お気になさらず。話し言葉を聞く限りでは、どうやら彼女はGILAffeジラフの翻訳に頼っているわけではないらしい。アーイシャと同じく、前もって日本語を勉強してきたのか。などの類推も、地下鉄で豊島区へと向かう道中に聞き取れぬ言語で談笑する二人を脇に置いていては、つまびらかにできるわけがなかった。GILAffeジラフを入れているかイリチが迎えにあがっていれば、ここで会話に割って入ることもできたのだろうか。ズラミートと名乗った女性、灰色の髪を清しく切り揃えた彼女は、始終抑揚のない語調で対話を続けているが、ゾフィアが口角を上げて漏らす二言三言に不意をかれたように笑いだす仕草が、やけに打ち解けて見えた。


 おーここ? でかいねー! ええ、あなたはイネスと同じで二階でしょうけど、ズラミート、は三階のフロア。と言いながらかいじょうし、自動ドアを通り抜け、エレベーターの前まで到る。せっかくだから部屋の前まで行こうよ、とゾフィアは私に向けて日本語で言い、聞き取れぬ言語でズラミートに何か言い、頷きを受けたのちに3のボタンを押した。

 そういえば、三階の部屋の配置はよく知らない、アーイシャと同室なのだろうか、と逆にこちらが不案内のようになりフロアを歩き回っていると、我が友、と後方から声が。向き直ると、開け放たれた部屋の中からアーイシャ……だろう、か? ヒジャブを脱いだ姿を初めて見たせいもあり一瞬判断に迷ったが、 as-salāmu ʿalaykum. と一歩進んで言うズラミートの背中を見て分別がついた。 wa ʿalaykumu s-salām. 先程皆とワークショップを終えたところだ、夕の礼拝を終えたら早速ゲネプロに入ろう。と相変わらず沈着なおもちを崩さないアーイシャ、を前にしてズラミートは少し狼狽うろたえたように、先程とは異なった響きの言語で何事かを告げた。アーイシャはにわかに目を丸くし、一瞬眉を顰めたのちに、ここに滞在する以上は日本語に慣れておくのもいいだろう、私もここ数日で妙な話し相手ができて、日本語で話す癖がついてしまった。と言った。ズラミートは左目でこちらを窺ったのち、では、そうしよう。とだけ述べた。


 彼女も聖典の日本語訳で? エレベーターのドアが閉まるとともに傍らのゾフィアに言う。よくわかったね、日本語訳の聖書で覚えたって言ってたよ文法。アーイシャもそうだったと訊いていたから……しかし、そんな簡単に身につくなんて。そりゃー啓典の民は語学ができなきゃ務まんないしね。たしかに、ユダヤとイスラームの翻訳作業がなければヨーロッパ自体が成立しなかったわけだしね……あはは、何世紀前の話それ。聖書の文句と現代ヘブライ語とではだーいぶ隔たりあるんだよ。あ、やっぱりそうなの……このへんも色々あってね。シオニストが使う現代ヘブライ語と、私らアシュケナジムのイディッシュ語とでは、使い分け自体にも思想信条が絡んでくるのよ。あ、さっき話してたのイディッシュ語……いや、あれはポーランド語。あ、え……? ズラミートは私と同じクラクフの音楽院にいたからね、その頃のクセで。屈託なく笑うゾフィアの言葉に合いの手を打つようにベルが鳴り、ドアが開く。

 つまり、ずいぶん前からの知り合いってこと……ほんとにずいぶんだよ。だってうちの母さんたち、娘が生まれましたってポストカード、同じ年に送りあったらしいよ。え、親戚……ではないけど、精神的には似たようなもんかな。私とズラミートのお婆ちゃん、どちらも同じ収容所の生還者でね。と言う声を受けて足が止まる。ああ……ごめんなさい。なに謝ってるの、ただの事実だよ。ズラミートのお婆ちゃんは戦後イスラエルに行って、私のお婆はアメリカのニュージャージー州あたりに移民したんだけど、やっぱり祖国が恋しくなって、そこで出会ったポーランド移民と一緒にクラクフに帰って。それぞれ違う国で暮らしつつも文通を欠かしたことはなかったみたい。だから、私とズラミートは幼馴染みたいなもん。へえ、あなたの国籍はたしかロシアよね……うん、冷戦終わったあと曽祖父が住んでたペテルブルクに戻ったらしい。私はそこで産まれたから、ズラミートと初めて会ったのもクラクフに留学してからだった。と述べられ、いくつかの疑問が兆す。ので、思いつくままに訊いてみる。音楽院ってことは、彼女もミュージシャン志望だったの。いや、全然。えっ。チェロの演奏自体は幼い頃からしてたみたいだけど、あの留学は、なんていうか……護るため、っていうか。意味を取ることができず黙り込む私へ、本当はテル=アヴィヴの大学にいたんだけど、学籍ごと剥奪されちゃってね、ズラミート……と眉に暗いものを漂わせながら言う。剥奪、って。あいつ、在学中から親パレスティナ系の新聞に記者として携わってて、イスラエルの政策を非難する論説を多く発表してたんだよね。そのせいで奨学金が打ち切られて、それでもやめなかったからついに学校を追われて。そんなことが……でも、脅されたからって思考をげるようなやつじゃないからさ。このままだと自壊しかねないって心配したうちのお婆が、学費は出すからクラクフに行きなさい、うちの孫も今そこにいるから、って話になってね。とりあえずイスラエルに言論の自由がないのは明白だから、あの時点でああしとかないと本当にまずかったかも。あいつ、母親の強硬なシオニズムが受け容れられなくて、絶縁されるまでいったらしいし……

 いつの間にか二人とも立ち停まったまま黙っていることに気づき、ま、テル=アヴィヴに帰った後ああして相方さんが見つかってよかったよ。と何処か無理をして笑っているかのようなゾフィアを見つめる。どしたのはかる? いえ……ちょっと、気になってね。命を危険に曝してまで、いったい彼女が何を書いていたのか。と言うと、ああ、とポケットに手を突っ込み、たしか残ってるはず、webに掲載されたものは保存してるから、と言いながらスマートフォンの画面をスワイプし、色々あるけど、とくに印象深いのはこれかな……原文はイディッシュ語だけど、GILAffeジラフなら大丈夫だろう。と一呼吸おいて口を開く。「מוֹלֶדֶת」、これは「母なる祖国」って意味だけど……と注釈を加えながら、「『母なる祖国』なる概念はユダヤ教の伝統には属しておらず、西洋の国民国家という概念を受けて捏造された、きわめて近代の産物に過ぎない。レビ記にもあるとおり、メシアの降臨を待たずして聖地に回帰するなどという愚挙は、他ならぬ聖典の内容によって禁じられている。」と訥々と読み上げる。ちょっと飛ばすよ、「『イディット・ハ=アーレツ』とは、二〇世紀初頭以来、シオニズム教育の欠かせぬ一環として行われている自然観察ハイキングの名である。この「ידע」という動詞には、男性が女性を肉体的に『識る』という意味も含んでいる。彼らの『母なる祖国』とは、全幅の愛をもって受け入れてくれる女性であり、またそれは絶対に処女でなくてはならない。『母なる祖国』に先住の者などいてはならない、このようにしてシオニストたちはパレスティナのムスリムを、さらにシオニスト到来以前に啓典の民として手を取り合っていたユダヤ人の存在をも除去することを正当化したのだ。」

 なるほど、冷徹な筆致、なのだと思う。祖国への愛を駆り立てる民族主義的欺瞞と性的ファンタジーとの癒着、これは「美しい日本を取り戻す」とかいうイデオロギーでこの国においても膾炙している。小さく頷きながら続きが読まれるのを待っていると、ここは難しいんだけどね……と言いながら何度かスワイプを重ねたゾフィアは、ふたたび静かに話し始める。

「カフカの彷徨は」……えっ。何、別の記事。いや、さっきの記事の何段落か進んだとこ。ここが肝腎なんだ……「カフカの彷徨は、『母なる祖国』のファンタジーに耽溺するシオニストたちに決然として背を向ける。彼の日記から引用しよう──それは、逆転された荒地の旅のようなものだ、絶えず荒地へ近附いてゆきながら、『僕はまだカナンの地にいるのではないか』という子供っぽい希望を、(特に女性に関することで)抱いているのだ、だが、その間に、僕はとうの昔に荒地に入りこんでいるのだ。そしてこれは、彼処においてもやはり僕が誰よりもみじめな人間であるような時、また、人間には第三の土地などない以上カナンこそ唯一の約束の地﹅﹅﹅﹅として示されざるを得ないような時、何よりもそういう時に、絶望が生み出す幻に過ぎないのだ──ここで彼がカナンの地を女性に喩えていること、それを認めたうえで『約束の地』への愛を幻と喝破していることも含めて、我々の論旨にかなうものであろう。そして彼の『荒野』への彷徨は、国民国家という欺瞞のもとに排除と占領とを正当化するイスラエルの態度と比べて、いかに隔たっていることであろうか」。

 スマートフォンから目を離し、こちらを見つめる。ということは読み終わったのだろう。彷徨……そう、途中で飛ばしちゃったけど、カフカも一度はシオニズムに魅惑されたって事実に言及した上で、ズラミートは彼の彷徨にこそ現状からの打開策を見出してたらしいんだよね。それって……あっごめん着信だ、出るね。あ、うん。おーイネス、もう着いたよ。二階二階。と話しながら、右掌を縦にしてこちらへ申し訳なさげな視線を向ける。私も頷き、気にしないで、という風情で手を振る。そうだ彼女も着いたばかりなのだ、つい立ち話に興じてしまったが……しかし、ズラミート・パールムッター。彼女の思考と試行について知りたければ、イディッシュ語を勉強するしかない……そのような学殖など私にありようもない、が、もっと直截な手段ならある。彼女がここに来た理由……Aminadabの名で取り組んでいる作品、を観ることができたら。




 棚田みたいだ、備え付けの椅子が上の方までうわーって。満席でだいたい七〇人てとこか、こんな会場なんだなー。ダンスだから立って見るのかと思ってたけど、お行儀よく座って観るんだ。まあフェスによっても違うんだろうけど……あ。

 隣、いい。いやいいに決まってるけど、来てたんだ。ええ。今日なんか用事あるんじゃなかったの。あれは緊急でもない打ち合わせだったから、ずらしてもらった。そうなん……そうまでして来たかったんだ。まあ、ね……どうしても気になって。アーイシャ? もだけど、彼女、ズラミート・パールムッターのほうも。あ、会ったの。そういえば空港迎え行ったんだっけ。ええ。あなたも、三階にはずいぶん頻繁に出入りしてるらしいけど。まあね、さすがに家主だし……聞いた? え? 彼女らのプロフィール、大まかにでも。ああ、ヒメが知ってるのと、英語版ウィキペディアで読めるぶんはね……そう。はかる、なんかあったの。いえ……大したことじゃないんだけど。あの二人、共通してると思ってね。なにが? 私がなれなかった人の姿だ、って。え? 世界宗教の内部に属して、身内が抱えている問題と正面切って向き合っている、真の意味で宗教的な人。ああ……はかる、宗教史学の研究したかったんだよね。ええ、それも断念したし、そもそもクリスチャンですらない。そんな私の不徹底を一気に思い知らされた気がして、ね……せめて、彼女らの作品には向き合ってみよう、と思って。そっか。

 隣いいか。え? あっ。うおっヒメも来てたの。ああ、あんま騒ぐなよ……あと上演中もな、これはコンテンポラリーダンスなんだから。わかってるけど、教授キョウジュの迎え行くんじゃなかったの。もう少し遅れるらしい、最初のリハには間に合うと言ってたから、まあ大丈夫だろう。そうなんだ……ヒメはAminadabの公演観たことあるの。いや、映像しか……さすがに作品も観ずにあいつのことわかった気になるのも不誠実と思ってな。そっか、はかるもそれで来たんだってよ。へえ、なんだか意外……あっ。おっ、始まるぞ、携帯の電源は切れよ。わかってるって。出番いつだっけ? このプログラムの最後……




 満座に喝采が響いていた。前後列の観客に促されるようにして、わたしも立ち上がって拍手する。ダンスっていえばブレイクダンスくらいしか知らなかったけど、いま目にしたばかりのあれは、あれは。

 幾何学みたいだったね。やっぱり、はかるも思った。ええ、身体の使いかた自体が作図というか、息苦しいほどに抑制された動きがラストで解放されるまでの流れが……そう、そうだよ、そういうあれだよ。ふふっ、何も言えてないぞ。ヒメだって観てる間ちょくちょく呻いてたじゃん。それはそうだろ、あんなの一〇分以上も見せられて……はかるなんだっけあれ、人間車輪みたいなのあるじゃん、ルネサンスの。ウィトルウィウス? そう、あんな感じで人体の幾何学みたいなテーマなのかなと思ってたら……ええ、ダンス自体が線になって、決して輪にはならなくて。

 ダンスが神を讃える手段、しかも数学や幾何学と同列なんて、言われた時は全く理解できなかったけど。しかし彼女は、いや彼女らは、作品そのものでそれを証明している。アーイシャ、あなたは表現なんてする必要ないって言ってたけど、でもこれは、表現だよ。人がつくったもので人の心が動く、これは表現としか言いようがないよ。

 フロア中央に並び立ったアーイシャとズラミートが、ともに手を取り合って一礼する。場内の歓声も勢いを増す。そうだ、この公演も爆破されないなんて保障はどこにもなかったんだよな。あんな惨事が起こった後でも、彼女たちは自分の仕事を続けている。神を讃えるという仕事を──ということは。これは、祈りか。誰も理不尽に殺されないように、という希望をつなぐための。その手段が朗唱であってもダンスであっても、彼女にとっては同じ。

 ならば、絶対に護らなきゃいけない。彼女らが、いやどの国から来たどんな人であろうが、自由に生きていられる場を。今までは用意された航路に従って、それで広い世界を見たつもりになっていたけど。でも、この定まった土地でも同じことだ。学び取るだけでも不十分なんだ、あの人々がかろうじて持ちよった物を、護る人にならなきゃいけない。今のわたしにはそれができる、か。


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