第3部 下僕どもの大道
22 我ら啓典の民
風が
いいところまで来たね、
視覚を遮蔽したままの数往復の問答、を経ても、ねえ
母さん、と、打ち祓ったはずの幻を呼び戻しかねないことを承知で、遥か六月の穹窿に打ち明ける。アナタがどんなに
ワタシだけが聴いているこの声は、誰の耳にふれることもなく、四大に散る。そうだ、誰が聴いたとしてどうなる。これはただの音だ、ワタシにのみ意味を成す、ただこの一つ身が狂い立てるだけの音。
しかし、音……ワタシは何を聴いていたのだろう。尋常な筋道で言えば、まずこの世界があって、音がある……はずだ。が、まるであれは……音があった後で世界がある、とでも謂うように。誰かがあってその声があるのではなく、まず声があって誰かがある……
When you wish upon a star, と、
あはは、わたしらも子どもいたらこんな感じだったのかなー。と、笑いながら投げた言葉が
でもさー、実際なにがどうなるかわからないもんだよね。と、会計を済ませて暖簾をくぐり、
辛くてそしてかゞやく天の仕事、と、賢治の詩句が急に思い出されたのは、半年ぶりに帰った自らの部屋の書架を、まるで誰かの
長く
思ったより少ないな、と書架を前にしてつぶやく、私よりもひとまわり背の低い後姿を眺めながら、ええ、とだけ
えっ。と、玄関の靴箱の前で硬直してしまう。何くれとなく面倒見てくれる感じがさ。でもあたしも
早く髪を切らなくては。そう思えた。
きのう
城完成(予定)、
改めてっすけど、アルバムの完成おめでとっす。ありがとう、半年もかかっちゃったけど。そんくらいかける価値あったっすよ、まさかあたし三曲も弾かせてもらえるなんて。ボーナストラックも入れたら四曲だけどね。あの曲かわいーから大好きっす、はやくみんなに聴いてもらいたいなー。じゃこっち、真ん中どうぞ。うん、座ったままでいいのかな? もちろん。じゃ、とりあえずプリセット作っといたんで、この曲から調整していきましょ。うん。
ちぬんとχορόςの九州大会で再会して、そのとき約束したソロアルバムの制作、も滞りなく終わって、あとはマスタリングを残すだけ。やっぱすごいな、こんだけ緻密に作り込むなんて。ちぬんの作品にギターとかマスタリングで携われるなんて、あたしこの仕事続けててよかったー。と思ってるうちにワンコーラスぶんの再生が終わる。どうすか? うん、低音部はいい感じだけど、もっとサロードの高音弦がクリアに聞こえてほしい。と言うちぬんに合わせてEQを立ち上げ、あんまキンキンしないほうがいいと思ってたすけど、上げていいすか? とパラメータを操作する。うん、もう少しアタック
EQはこんな感じかな。そうすね、あとはコンプのオートメーション見ていきましょ。ごめんね、思ったより時間かかりそう。いやこれくらい普通すよ、とくにちぬんみたいに凝った音楽やる人なら。そうなんだ、私マスタリングに立ち会うのなんて初めてだから。ミキシングにも相当時間かけたらしいっすね。うん、ゲストで参加してくれた人たちの演奏もちゃんと聴かせたいから……あと、と唐突に切れた声の方を向き、あと? と訊いてみる。ちぬんは口籠もりながら、あと、ミキシングの作業してるときに、いきなり連絡があったから……あなたの、あの五月の。と眉を曇らせながら言う。あ。あれっすか。うん……「これで最期の演奏になるかも、もしよかったらちぬんのフォロワーにも拡散して」なんてメールがいきなり来て、検索したら大変な騒ぎになってて、私もう気が気じゃなくて……と言う声が次第に
ちぬん、ほんと、ごめんなさい。イリチが謝るようなことじゃない……けど、なんていうか、
じゃー行きましょ、あたし鍵とか渡すんでちぬん先に。うん。渋谷ならどのへんがいいすかねー、もしかしたらインド映画の特集とかやってるかも。それもいいけど、今日はできるだけ眼や耳は使いたくないかな……あっそうすね、忘れてた。じゃあふたりでゆっくりできるとこ行きましょ、猫カフェとかどうすか? ごめんなさい、猫はかわいいと思うけど、私アレルギーがあるから……あーいやいいすよ、じゃあもっとツルツルした生き物……魚は? ちぬん魚すきっすよね? うん。じゃあ魚いっぱいいるとこ行きましょ、築地とか! 築地……? 私は行ったことないけど。あたしもないすけど、たぶん楽しいはずっす。昼でもやってるのかな? わからんすけど、とにかく出かけましょ。一階で待ってて、すぐ行くっすから。うん、待ってる。
わかった、じゃあそのときには。マキも気をつけてね。うん、待ってる。
ビデオ通話が終わり、ありがと、とこちらへ端末を返す。あなたもスマートフォンくらい持ったらいいのに。いや、ゴールウェイから家出してきて以来ずっとだし、今更持つのも性に合わないっていうか。とよくわからない理屈をこねるので、それにしても、あの人と話してる時はやけに子どもっぽくなるね。とくすぐってみると、頬を一瞬ぴくっと引きつらせ、仕方ないだろ、親代わりみたいなもんなんだから……と小さく漏らした。親代わり、か。自分の意志で親元を離れて、それまで抑えてきた子どもっぽさを見せられる相手がいるとしたら、確かに
公演会場での爆破事件。もしニュースか何かで聞いていたとしても、記憶には刻まれていなかったかもしれない。アリアナ・グランデのマンチェスター公演をはじめとして、ここ数年で同様の事件は欧米のそこかしこで発生していたはずだから……と妙に言い訳がましく記憶を整理しながら、それが起こるまではイスラエルにいたってこと。と問うと、
夕食を済ませ、何度か試すうちに上達したチキンカレーのレシピを仔細に修正し、
「あなたがたが侵掠する以前に住まっていた人々を追い出しておきながら、その土地を約束の地と呼ぶのか。あなたがたは我々の身体の一部を切り取っておきながら、それでも強姦によって孕まされた子は産めというのか。
この国がパレスティナの人々に行っているのは、恥ずべき暴力行為であり、他ならぬアブラハム宗教の聖典に対する冒涜である。そのような不正義を前にして沈黙することは、トーラーやクルアーンのいかなる恣意的歪曲によっても正当化することはできない。私はあなたがたを前にして何度でも言う、『この地を汚すことなかれ。おそらくは、この地、汝らの先にありし
この後、記事はアーイシャの発言に含まれているシオニズムへの攻撃、および「我々の身体の一部を切り取っておきながら」という文言で指弾されている女性割礼がイスラエルの地では公に行われていない事実などが広く非難を集めたと報せているが、門外者からしても重箱の隅をつつくような揚げ足取りとしか思えなかった。この記事で引用されている発言だけでも、アーイシャがシオニズムとイスラーム過激派のいずれにも
そういやあんた、ここに来るのは初めてかね。と椅子に座りながら問うお
ついに、逝ったかい、あいつも。はい。済まんかったね、参列できなくて……いえ、ペテルブルクからテル=アヴィヴまでは長路ですから……それに、祖母もあなたがご健在だと知って、なら大丈夫だと心安らかに逝けたようです。なら大丈夫、ねえ……訥々と弔いの辞を済ませる二人をどこか遠く眺める。ズラミートは屈み込み、キャリーケースから長方形の小箱を取り出す。遺品です、祖母の。ひとつあなたに届けるようにと。言いながら蓋を開ける姿に歩み寄り、わ、ペンダント。宝石? と手元を覗き込みながら言う。いや、ガラスだよ。ガラス。祖母は晩年、ずっとこれを造り続けていたんです。砕けたガラスの破片を磨いて、
短く切られた会話に沈黙が垂れる。あいつ、他になんか言ってなかったかね。特には……というか、私は母から縁を切られて長いですから、祖母についても
どういう意味だったんだろ、と空港へ向かうタクシーの中で漏らした問いが、おそらく、比喩で語っていたのだろう。鉄、ダイヤモンド、ガラス……と荘重な
おー! つい感嘆の息が漏れる。ほんとにできちゃったんだ城! すご、新築みたいですね。同じタクシーで乗り合わせたイネスとヤスミンも
エントランスをくぐると、六、七歩くらい先にエレベーターがふたつ。右手側の部屋には防音扉が。スタジオだ! はい、Yonahに積んでいた機材をそのまま入れました。扉を押し開くと、確かに見慣れた感じのミキシングコンソールやレコーディングブースが。いいじゃんいいじゃんー。イリチ様のスタジオから機材や人員を調達するという話もありましたが、ひとまずこれで十分かと。だねー、渋谷に建てるんだったらそうしようと思ってたけど。そうだ
エレベーターから出て正面の部屋、そこにでっかく「93」のプレートが。おおー、豪勢な!
誰。アーイシャ・ウムァジジ。えっと、それって誰。あーやっぱりねえさんも知らなかったすか。漁火ちゃんが送る視線を受けて
イランからの避難民、か。ってことはイスラームだよな、あっゾロアスター教もあるんだっけ。そんな人が元ラブホの物件に滞在しちゃっていいのかな……と思いを巡らすうちに、あなた、まさか
野菜、小麦、牛乳……こんな感じでいいのかな。まあ十分だろう、
自動ドアが開き、
as-salāmu ʿalaykum. と、フロアに
なんだろう、今まで感じたことない緊張だな、と事の次第を眺めていると、唐突に空から騒音が。えっなに。音源がこの建物の真上で静止する。ははっ、同時でしたか。と笑う
as-salāmu ʿalaykum. 日本人女性からの挨拶に wa ʿalaykumu s-salām. と客人が返す。
あなた、まるで除け者みたいだったね。そうだよー、わたしが建てた城なのにさー。と呻きながらベッドに倒れ込む。それにしても
と、話してるうちに外からノックの音。はい。
え。
もしか、したら……ポケットからスマートフォンを取り出す
入口で固まるわたしらのもとに、もうひとつ人影が加わる。
沈黙。
なんで。なんでって、
と、告知を出したはいいのだが、入場パス発行申請に並ぶ団体名があまりにもバラバラすぎて、一体何の目的で来るのかすら定かでない。ナタリーとかAbemaとかはわかるけど、この東京コンテンポラリーダンスフェスってのは何、わたしらのジャンルじゃないよな。見せてみろ、これは……アーイシャの取材じゃないか。え? Aminadabの公演があるんだよ、たしか一週間後。今日の夜に到着って連絡はしてるだろうから、それで来たんだろう。えっじゃあ……わたしらだけの記者会見じゃないってこと。イスラミックセンター・ジャパンみたいな名前もあるから、おそらくそうだろうな……どうしよ
結局、全部いっぺんに済まそうって流れになり、わたし、
じゃあ、次の方。と記者団に促し、挙がった手の中から適当なのを指差す。東京コンテンポラリーダンスフェスの運営です、あ、さっきの。アーイシャ・ウムァジジさんに質問です。まず今回、日本が滞在先に選ばれたことに驚いたファンも少なくないと思います。あなたの主催するAminadabは既に欧州の観客から高い評価を受けていますが、この城でχορός参加者と起居をともにするということで、もしかしたらコラボレーションでの作品発表もありうるのでは、と囁かれています。その可能性に関してはいかがですか? と、初めてアーイシャ個人への質問が向けられ、記者席にも若干の緊張が走る。万座が見つめる中、アーイシャが口を開く。ご期待を頂いているのは大変ありがたいのですが、その可能性はありません。Aminadabと彼女らの、χορόςと呼ばれる興業との間には著しい懸隔が存在しますので、コラボレーションの成立は質的に不可能です。との整然とした受け答えに、そうですか、わかりました。と記者は委縮したようになり、来週に控えているAminadabでの公演、楽しみにしております。と蛇尾な感じで質問を終えた。
あーしんどかったー、なんて長い三〇分。おつかれー、とりあえずなんとかなったな。えらいとっちらかった会見だったけどねえ。そりゃ、別々の取材をいっぺんにだもんな。
新しい枕の感触ってのは、どうも不思議だ。ああ、これからはここで暮らすんだなって、遅れて腑に落ちる感じ。改修したばかりの部屋の匂い、いつもの歯磨粉の舌触り。変わってるようで変わってない。こうしてまた始めるしかないんだ。
おはよ
ってことは、ほんとにただのオフなのか今日。ここ一ヶ月ずっとそんな感じだけど。あそうだ今日、
TELLOLIST
なにそれ。「テロリスト」って書こうとしたのかな。そんなLばっか使うのおかしいだろ、書く前に辞書くらい引けよ。どうしよ、
ちくしょーなんでこんな高いとこに、どうやって吹き付けたんだ、位置からしてあの……門の
あ。
アーイシャ。お出かけですか。と戯けて声をかけても、門前の彼女の視線は柱の落書きに釘付けになっている。どうしよ、わたしが書いたんじゃないよとか言うべきか。いやかえって逆効果だろ、彼女が来て初めての午前なのに、こんなの見られちゃって……と押し黙りながら脚立を降りるこちらへ、アーイシャが歩み寄ってくる。えっ、あのっ。目の前の脚立が奪われ、横倒しにされる。接地部のストッパーのようなものが押し上げられ、脚が伸ばされる。あっそこか、まだ伸びたのか。さらに接合部の留め金を外し、A字に折り曲がっていたものが直線の梯子のようになる。えらい慣れた手つき、あ、え。押さえておいてくれ。と一言だけ放り、雑巾とシンナーの容器をとり、上方の落書き目掛けて伸びた梯子に足をかけようとする。あっちょっ、いいよわたしがやるよ。と言うも虚しく、アーイシャの靴先が梯子にかかる。あーもう、こうなったら言われた通りにするしか。七月の午前の日差しを浴びて熱を帯びてきている金属、そこから伝わる振動を両手で
ほんとごめんね、見られる前に消しとくべきだったんだけど。なにか糊塗するような物言いでかえって気まずくなり、シンナー容器と雑巾を受け取る間にも所在が無い。アーイシャは脚立をふたたび
表情一つ変えず言い切るのを見ながら
門前まで至り、どう返したらいいのかわからず、とりあえず笑ってみる。けっこう言うんだねアーイシャ。何かおかしなことが? と、寸毫も眉を動かさず言うので、
あー、しくったあー。遠のく背中を見送りながら幾許かの後悔が胸を刺す。
あーいどうも、おつかれさまです。配送業者から段ボール箱を受け取り、エレベーターの前まで運ぶ。降りてくるのを待ちながら入口の方を向くと、あ。アーイシャ! 自動ドアを通過する姿に手を振ってみる。両手に買い物袋を提げていたので応じるわけがなかったが、こちらに視線を向けてはくれた。おかえり、荷物いっぱいだねー。ああ。茶葉とか、コーヒー? ああ。無味乾燥な会話を遮るようにベルが鳴り、床に置いた段ボール箱を持ち上げる。中に入り、肘で2と3のボタンを押す。エレベーターの中でふたりきりになり、気まずい沈黙が流れる。今から礼拝? ああ。じゃ、今から見学にいっていいかな? いや何言ってるんだわたしは、そんな気易く言っていいことなのか、と遅れて訝しくなり、いやっ、これから一緒の建物で暮らすからさ、ちゃんと理解したいと思って。と遁辞めいたことを並べる羽目になる。アーイシャはこちらに一瞥くれ、もちろん構わない。が、モスクの中は禁煙だ。と釘を刺す。あは、わかってるよ。じゃ、すぐに行くから。二階で降り、足早に部屋へ向かう。
三階へ上がるエレベーターの中で、一人のヒジャブ姿の女性と一緒になる。なんか話しかけようかな、あの挨拶なんていうんだっけ、と思案してるうちにベルが鳴る。三階のフロアに出ると、扉が開け放たれている部屋が見えた。中を窺ってみると、既に室内にはアーイシャを筆頭にムスリマたちが集まっていた。どうしよ、なんか特別な作法とかあるのかな、とまごついていると、アーイシャが向こうから歩み寄ってくる。あの、
あ、れ、もう終わり。なんだろう、時が飛んだのか。まさか居眠りしてたなんてこと。いや違う、聴き入ってるうちに終わったんだ、話し声のようにも歌声のようにも思われる、あの朗唱に。こん、にち、は。と、礼拝を終えて入口に戻ってきた人々を前にして、たどたどしい日本語で挨拶する。彼女らは微笑とともに、こんにちは。とにこやかに返してくれた。今のは日本語だよな、わたしに合わせて言ってくれた。じゃあ。皆さんが礼拝するのを見学させてもらっていました、ご迷惑ではありませんでしたか。と、これはアラビア語で言ってみる。
どうしてだろう、どうして今更こんなこと疑問に思うんだろう。もちろん、今までは専ら
さて、と二階の共用キッチン前に備え付けの椅子に座りながら、私がいたイランともイスラエルとも、この国は因縁浅からぬ関係にある。それについて少し話したいのだが。と話題が切り出される。ああ、うん、いいよ。と答えるとアーイシャは咳払いひとつ置いて言う。君が日本人であるならば当然知っていると思うが、日本はおよそ
……前もって調べておくことにしているのだ、その国を訪れる前には。と先程よりも明らかに消沈した声で言い、まずはOECDのデータに当たるのが一番早い、各国ごとの女性教員の比率だが、と液晶画面を繰り返しスワイプし、こんなに低い国は見たことがない、それも先進国で。私の生まれたイランでもここまで低いことはあり得なかった。と言いながらグラフの最低に位置しているJapanの文字列を指差す。うわあ、韓国との差……君たちはこうして、女性への差別が公然と許される国であることを世界中に公表され、あのような不正を前にしても何も行動を起こさない。以上の事実を踏まえると、こういうことにならないか。日本に住まう主権者である君たちは、エスタブリッシュメントによって公然と行われている差別を容認し、支持し、未来の人々にも同様のことが行われる体制を護持している、ということには。
そう、だね。目を合わせることすらできず、椅子の上に広げられた新聞のコピーに目を落とす。そうだ、この半年間、わたしたちはいい調子で世界をアゲ続けてきたけど、その間ずっとこの島国は変わらなかったんだ。というよりむしろ、わたしたちが音楽以外のことは何もしなかったから変わらなかった。ようは無駄かこの歌と言葉は、と、こんならしくもない沈思は振り解き、ひとまず背を伸ばし、目の前の異邦人の
君の音楽はもっと悪い。
えっ。ヒップホップなどという、身を持ち崩した男性が淫猥で暴力的で文法的にも破綻している歌詞を捲し立てるだけの、あんな下劣な音楽に、まさか女性の身で参与するとは、あまつさえ自身で興行して収入さえ得ているとは! えっちょっと待てよ、いきなり何だよその典型的なステロタイプ! だいたい女がヒップホップやって何が悪いんだよ! 我々の聖典は教えている、男は女性的な行為を避けるべきであり、女は男の装いを真似てはならぬと。それはあんたらの世界の話だろ。ヒップホップだって色々あるんだよ、確かに暴力やセックスとは切っても切れないけど、でもそれだけじゃない。すんごい優れた詩人みたいなのもいるんだよ、しかもムスリムのラッパーだぞ、ラキム・アッラーとかTwiGyとか。ア、アッラー……!? 人の身でありながらアッラーの名を騙るとは……!! いやまあそれは、さすがにわたしも大胆な名前だとは思ってたけどさ。でも性別とかイメージとかで決めつけんな、あなただって言われたくないでしょ、イスラームの女がダンスなんか、とか。
ふいに舌戦めいて荒くなった呼吸を、ひとまず
たとえば、ヒマワリの種。えっ。知っての通り、ヒマワリの種は黄金比に従って配置されている。さらに雪の結晶には、緻密なフラクタル構造が含まれている。数学や幾何学で扱われる叡智は、すでに自然の中にあらわれているのだ。神秘は水や花や火や石や、もちろん我々人類も含めたアッラーの被造物のなかに、既にあらかじめ仕込まれている。天や地や風や星、すべての被造物に。と筋道立てられるのを前にして、星も……? と呆けた声が漏れてしまう。星もアッラーが
散々言われちゃったよお、と呻きながらベッドに倒れ込む。まあね、私たちも長らくこの国から遠ざかってたけど、それくらい言われて当然でしょう。そうなんだよな、彼女が指摘したこと自体は何も間違っていない……ヒップホップに対する物言いは、さすがにカチンときたけど。チョコレートとカステラどっちがいい。えーとねカステラ、なにそれ長崎の? 違うよ、
言った瞬間、
言い終わるのを見て、
おいーす、と今日も正午の三階に歩み入る。モスクのほうを見ると、ちょうどアーイシャが出てきたとこだった。おーい、と手を振りながら駆け寄り、アッサラーム・アライクム! と言ってみる。 wa ʿalaykumu s-salām. と返してくれた。えへへーこれ覚えたんだ。あ、ムスリム以外が言ってもいいんだっけ? もちろん、日常の挨拶であるからには。ところで、この階に何の用かな。なんだよーつんけんしないでよ、あの共用キッチンの冷蔵庫の点検。君が手ずからするようなことか……? だってこの階に
しかし、ヒジャブ着けてたときはしっくりこなかったけど、わたしよりちょっと背低いんだ。肌きれい、やっぱ食べてるものが違うからかな。しかし黒が似合うなあ、初めて見た時も思ったけど髪の黒さと眼の緑色が……おい。えっ。行くのか行かないのか。あっいや行くけど……ちょっとさ考えちゃって、どんなダンスやるんだろーって。と前より幾分下手になっている誤魔化し方に自分で呆れる、ところに、日本の暗黒舞踏、に少なからぬ影響を受けている。とアーイシャは
ロシア語でないことはなんとなくわかる。が、一体何語で喋ってるのだろうさっきから。明日の夕方には到着だから迎えに来てよ、イリチ空いてないの?
おーここ? でかいねー! ええ、あなたはイネスと同じで二階でしょうけど、ズラミート、は三階のフロア。と言いながら
そういえば、三階の部屋の配置はよく知らない、アーイシャと同室なのだろうか、と逆にこちらが不案内のようになりフロアを歩き回っていると、我が友、と後方から声が。向き直ると、開け放たれた部屋の中からアーイシャ……だろう、か? ヒジャブを脱いだ姿を初めて見たせいもあり一瞬判断に迷ったが、 as-salāmu ʿalaykum. と一歩進んで言うズラミートの背中を見て分別がついた。 wa ʿalaykumu s-salām. 先程皆とワークショップを終えたところだ、夕の礼拝を終えたら早速ゲネプロに入ろう。と相変わらず沈着な
彼女も聖典の日本語訳で? エレベーターのドアが閉まるとともに傍らのゾフィアに言う。よくわかったね、日本語訳の聖書で覚えたって言ってたよ文法。アーイシャもそうだったと訊いていたから……しかし、そんな簡単に身につくなんて。そりゃー啓典の民は語学ができなきゃ務まんないしね。たしかに、ユダヤとイスラームの翻訳作業がなければヨーロッパ自体が成立しなかったわけだしね……あはは、何世紀前の話それ。聖書の文句と現代ヘブライ語とではだーいぶ隔たりあるんだよ。あ、やっぱりそうなの……このへんも色々あってね。シオニストが使う現代ヘブライ語と、私らアシュケナジムのイディッシュ語とでは、使い分け自体にも思想信条が絡んでくるのよ。あ、さっき話してたのイディッシュ語……いや、あれはポーランド語。あ、え……? ズラミートは私と同じクラクフの音楽院にいたからね、その頃のクセで。屈託なく笑うゾフィアの言葉に合いの手を打つようにベルが鳴り、ドアが開く。
つまり、ずいぶん前からの知り合いってこと……ほんとにずいぶんだよ。だってうちの母さんたち、娘が生まれましたってポストカード、同じ年に送りあったらしいよ。え、親戚……ではないけど、精神的には似たようなもんかな。私とズラミートのお婆ちゃん、どちらも同じ収容所の生還者でね。と言う声を受けて足が止まる。ああ……ごめんなさい。なに謝ってるの、ただの事実だよ。ズラミートのお婆ちゃんは戦後イスラエルに行って、私のお婆はアメリカのニュージャージー州あたりに移民したんだけど、やっぱり祖国が恋しくなって、そこで出会ったポーランド移民と一緒にクラクフに帰って。それぞれ違う国で暮らしつつも文通を欠かしたことはなかったみたい。だから、私とズラミートは幼馴染みたいなもん。へえ、あなたの国籍はたしかロシアよね……うん、冷戦終わったあと曽祖父が住んでたペテルブルクに戻ったらしい。私はそこで産まれたから、ズラミートと初めて会ったのもクラクフに留学してからだった。と述べられ、いくつかの疑問が兆す。ので、思いつくままに訊いてみる。音楽院ってことは、彼女もミュージシャン志望だったの。いや、全然。えっ。チェロの演奏自体は幼い頃からしてたみたいだけど、あの留学は、なんていうか……護るため、っていうか。意味を取ることができず黙り込む私へ、本当はテル=アヴィヴの大学にいたんだけど、学籍ごと剥奪されちゃってね、ズラミート……と眉に暗いものを漂わせながら言う。剥奪、って。あいつ、在学中から親パレスティナ系の新聞に記者として携わってて、イスラエルの政策を非難する論説を多く発表してたんだよね。そのせいで奨学金が打ち切られて、それでもやめなかったからついに学校を追われて。そんなことが……でも、脅されたからって思考を
いつの間にか二人とも立ち停まったまま黙っていることに気づき、ま、テル=アヴィヴに帰った後ああして相方さんが見つかってよかったよ。と何処か無理をして笑っているかのようなゾフィアを見つめる。どしたの
なるほど、冷徹な筆致、なのだと思う。祖国への愛を駆り立てる民族主義的欺瞞と性的ファンタジーとの癒着、これは「美しい日本を取り戻す」とかいうイデオロギーでこの国においても膾炙している。小さく頷きながら続きが読まれるのを待っていると、ここは難しいんだけどね……と言いながら何度かスワイプを重ねたゾフィアは、ふたたび静かに話し始める。
「カフカの彷徨は」……えっ。何、別の記事。いや、さっきの記事の何段落か進んだとこ。ここが肝腎なんだ……「カフカの彷徨は、『母なる祖国』のファンタジーに耽溺するシオニストたちに決然として背を向ける。彼の日記から引用しよう──それは、逆転された荒地の旅のようなものだ、絶えず荒地へ近附いてゆきながら、『僕はまだカナンの地にいるのではないか』という子供っぽい希望を、(特に女性に関することで)抱いているのだ、だが、その間に、僕はとうの昔に荒地に入りこんでいるのだ。そしてこれは、彼処においてもやはり僕が誰よりもみじめな人間であるような時、また、人間には第三の土地などない以上カナンこそ唯一の
スマートフォンから目を離し、こちらを見つめる。ということは読み終わったのだろう。彷徨……そう、途中で飛ばしちゃったけど、カフカも一度はシオニズムに魅惑されたって事実に言及した上で、ズラミートは彼の彷徨にこそ現状からの打開策を見出してたらしいんだよね。それって……あっごめん着信だ、出るね。あ、うん。おーイネス、もう着いたよ。二階二階。と話しながら、右掌を縦にしてこちらへ申し訳なさげな視線を向ける。私も頷き、気にしないで、という風情で手を振る。そうだ彼女も着いたばかりなのだ、つい立ち話に興じてしまったが……しかし、ズラミート・パールムッター。彼女の思考と試行について知りたければ、イディッシュ語を勉強するしかない……そのような学殖など私にありようもない、が、もっと直截な手段ならある。彼女がここに来た理由……Aminadabの名で取り組んでいる作品、を観ることができたら。
棚田みたいだ、備え付けの椅子が上の方までうわーって。満席でだいたい七〇人てとこか、こんな会場なんだなー。ダンスだから立って見るのかと思ってたけど、お行儀よく座って観るんだ。まあフェスによっても違うんだろうけど……あ。
隣、いい。いやいいに決まってるけど、来てたんだ。ええ。今日なんか用事あるんじゃなかったの。あれは緊急でもない打ち合わせだったから、ずらしてもらった。そうなん……そうまでして来たかったんだ。まあ、ね……どうしても気になって。アーイシャ? もだけど、彼女、ズラミート・パールムッターのほうも。あ、会ったの。そういえば空港迎え行ったんだっけ。ええ。あなたも、三階にはずいぶん頻繁に出入りしてるらしいけど。まあね、さすがに家主だし……聞いた? え? 彼女らのプロフィール、大まかにでも。ああ、
隣いいか。え? あっ。うおっ
満座に喝采が響いていた。前後列の観客に促されるようにして、わたしも立ち上がって拍手する。ダンスっていえばブレイクダンスくらいしか知らなかったけど、いま目にしたばかりのあれは、あれは。
幾何学みたいだったね。やっぱり、
ダンスが神を讃える手段、しかも数学や幾何学と同列なんて、言われた時は全く理解できなかったけど。しかし彼女は、いや彼女らは、作品そのものでそれを証明している。アーイシャ、あなたは表現なんてする必要ないって言ってたけど、でもこれは、表現だよ。人が
フロア中央に並び立ったアーイシャとズラミートが、ともに手を取り合って一礼する。場内の歓声も勢いを増す。そうだ、この公演も爆破されないなんて保障はどこにもなかったんだよな。あんな惨事が起こった後でも、彼女たちは自分の仕事を続けている。神を讃えるという仕事を──ということは。これは、祈りか。誰も理不尽に殺されないように、という希望をつなぐための。その手段が朗唱であってもダンスであっても、彼女にとっては同じ。
ならば、絶対に護らなきゃいけない。彼女らが、いやどの国から来たどんな人であろうが、自由に生きていられる場を。今までは用意された航路に従って、それで広い世界を見たつもりになっていたけど。でも、この定まった土地でも同じことだ。学び取るだけでも不十分なんだ、あの人々がかろうじて持ちよった物を、護る人にならなきゃいけない。今のわたしにはそれができる、か。
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