06 再出立


 四七へ

 あなたに手紙を書くのも、この名前を使うのも、もう最後になるね。名残を惜しむ気がないわけでは無いけれど、じゅうぶん役目を終えたと言えるでしょう。あなたもわたしも、お互いにね。

 あなたはひとりでもやっていけるはずなので、いくつか簡単な事項を書いておくのみとします。まず、あなたがGILAffe完成のために敢えてしてくれた献身に感謝します。あなたなしでは、わたしは人体実験のために多くの人間を犠牲にするような、一昔前のマッドサイエンティストめいた真似をしなければならなかったかも。その必要なしに完成にこぎつけることができたのも、あなたがその一つ身に実験の役を負ってくれたことに依ります。忍耐と辛抱をありがとう。

 次に、これは実際に会ってみればわかることだけれど、九三は初対面での印象よりもはるかに鋭敏な知性を備えた人間です。悟性、のほうが正確かな。決して甘く見ないように。常に過大評価しておくくらいが適切でしょう。もうひとり國分測さんという、とても繊細で可憐な女性がともにいるはずですが、わたしは彼女のことをとても高く買っています。正直なところ、九三も彼女無しでは何者でもなかったもしれません。常に九三と測さんが知性・感性ともに良好に交通している状態を保っておくこと。そうすれば、あなたもすぐにわかってくるでしょう。そこで何が起こりうるのか、自分は何をすべきなのか、が。


 さて、長ったらしい手紙は読むに苦ですし、なにより眠くなってきたので、このへんで畳みます。既に伝えた通り、わたしはこれから別の名前で相も変わらず仕事に励みます。また別の名前になる、誰も知らない何者かに成り果ててしまうこの感じは四七、あなたならわかってくれるでしょう。かといって、今さら情緒に纏綿するような趣味も、わたしたちには無いはずですね。もっと(九三が謂っていた通りにこの概念を理解できたかどうかは疑われるのですが)ファンキーに仕事を続けなければなりません。四七も身体には気をつけてね。といってもあなたは頑丈な子だから、何も心配いらないでしょうけどね。もう会うこともないでしょう、し、また新たな名前で逢うことになるでしょう。杜さんや岩走のお嬢さんにも、よろしく伝えておいてね。それでは、これで最後になる署名を、あなたに贈ります。


百済不二良




 身体がうるさい。のかも、しれない。なんだこれ、こんな感じだったっけ。これ、ほんとにわたしのなのか。っていう夢を見ていた、のか。いやちがう、確かにこれは現実。でも現実ってなんだ。わたしはふだん使わない言葉だ。現実を見ろ現実を見ろと居丈高にものを言うくせに、自分はといえば体制順応で現状追認な言葉を糊のようにひっつけることしかできない奴ら。現実を知っているせかいをれいてつににんしきしているりありすとであるとキャラ設定してるくせに、せいぜい自分の爺ちゃん世代までの遠近感しかなくて、ひどい手合ではその程度のことすら知らなくて、とりあえず自分が生まれついた土地の柵が錆びていないか、夜明けから日没まで気にしている奴ら。柵がなきゃ眠れないのか。誰か襲ってくるかもしれないと不安か。なら怒りを掴み出せ。呪いではなく。耳を澄ませて怒りを聴くんだ。耳さえ澄ませれば、何だって聴く事が可能だ。香りも味も怒りも恐怖さえも。耳に瞼は無い。耳に夜は来ない。耳を塞いだまま誰かを嘲け笑う事を、いつ、誰に、なんで教わった? 襲われたからか? 敵に? だったら自分が敵になれば良い。敵になるんだ。マイク・タイソンの……マイク? あれあのマイクどこやったっけ。そもそもここ何処。ステージじゃない、よな。うわ白い。マジ白い。白くて柔らかくて薬くさい。って、ことは。

 起きたね、と声がする。はかる、いやまだ起きてないよ。ちょっとこれ、なんかすげえ重い。ていうかってる、気がする。目は覚ましたけどまだ起きてないよ、と声に出そうとしてもうまくいかない。のを察したのか、隣る両腕がわたしの腿と背に差し込まれ、座位に移るのを助けてくれた。ありがと。よかった、声は出るみたいだ。と安堵しても、目の前の顔貌かおから渋味が去る気配はなかった。他に何か言うことは。えと、えーとね、ごめんあまり憶えてな……うわっ点滴。いま気付いた。久しぶりだなー点滴。ちょうどあれか、三年ぶりか。と自分の左手首を見つめていると、やけに素肌の和毛にこげがささくれてあぶらじみてるというか、風呂入ってないからかな。何日くらい……何日くらい!? 三日間。とはかるが即答する。あれから三日間ずっと寝込んでて、今日は水曜日。そんなにか、だからこんなはらのあたりが軽く感じるのか。うわっそのあいだ排泄とかどうしてたんだろう、あんときのピザとかどうやって外に出てったんだろう、まさか三日間そのまんまてことはないよな。そうだあのときワイン飲んだせい……ではないよな、別に……あんだけ躍起になっての事ばっか考えてたのって……そんであのしょうもないニセモノ相手にあれだけムキになったのって……そういえば。大会どうなった。それは心配しなくていい。言いながらはかるも丸椅子に座る。あなたがステージから転落したあと、もう決勝どうこうじゃないって流れになってね。中部代表の人らが、いやあたいへんなことになっちゃいましたけどとりあえず気持ち落ち着けてくださいとか言いながら予定変更してアコースティックの曲やってね、観客もなんかありがとうございますみたいな空気になってね、それ以降の人らも軒並み意気が下がっちゃって、運営の評価基準に達しているのは東京のキュウゾウと福岡のキュウゾウと中部のひとらだけになって、それで投票の結果93うち、というかあなたが勝った。そうなの。えっじゃあほぼキュウゾウだけで終わったんじゃん、よく暴動とか起きなかったな。まあ、あの決勝自体がキュウゾウVSキュウゾウのカードで耳目を集めていたわけだしね。お望み通りキュウゾウどうしのバトルがあって、片方が失禁して片方がステージから転落して担架で運ばれるまでの顛末があったわけだから、見世物としては上等だったんでしょう。見世物……グラディエーター扱いか……またバズったのかなあAbemaとかナタリーとかで……それはもちろん、朝のワイドショーでも報道されてたくらいだから。えっじゃあ映像で残ってんの。χορόςの公式チャンネルに、当日のうちにね。既に八百万回は再生されてるよ。うわあー、と病衣に顔を埋めるしかなくなる。

 あのとき止めておけば、なんて言わないよ。と、自責でも難詰でもない声色ではかるが言う。観客も、ニセモノも、あなたも、あの状況を纏めるにはああするしかなかったんでしょう。うん……でもやりすぎたな、そもそも何言ったかよく憶えてない……取り憑かれてた、というか。ほんとにそんな感じだったよ。ねえ、思い出せるかどうかわからないけど、あの落ちた瞬間……うん、足を踏み外してとか、つい向こう側に行きすぎてとか、そういうのじゃなかった。落ちたから気を失ったんじゃない。気を失ってから、落ちた。やっぱり。映像で確認する限り、そうとしか見えなかったから。脳の検査とかしなきゃいけないのかな……退院のためにはたぶんね。ただ、一本も折れてなかったのは奇跡的だって言ってた。え、骨? マジでこれ折れてないの? カメラを走行させるところに落下して脇腹を強打したみたいだけど、骨折や頭部への打撲は無いらしいって。呼吸はちゃんとできる? まあ、左脇腹がすごい攣ってるけど……こうして話せるくらいには。そう、と言いながら立ち上がるはかる。じゃあ、ここからは医者の仕事。諸々の検査があるはずだけど、それで問題なければ明朝には退院できるはず。撮影は予定通り行うからね。撮影、レントゲンとかの? 何言ってるの、決勝の翌週の木曜日って言ったでしょう。あ、あ、そーだった!『Limbo』のミュージックビデオ撮影、やべもう明日か。じゃ、予定通り一五時に大塚のDeepaでね。衣装も手配してるから、遅れないように。えっちょっと、待ってよ、と続けるのを躊躇う。そうだな、言う権利ないよな。せめてもっと気遣ってよとか言ってもな、ボコボコにしたのはわたしのほうだし。そうだあのニセモノなんか言ってなかった? と遁辞のような話題を放る。あの翌日、すぐに謝罪のメールらしきものをしてきたよ、イリチのホームページに。なんで、あっサウンドクラウド停まってるからか。そう、「ごめんなさいふざけていましたもうしませんゆるしてください」くらいの内容しかない長文をね。読む? いやいい、遠慮しとく。本人は直接会って謝りたいらしいけど。いいよもう、謝るくらいなら最初からやるな、とだけ返しといて。わかった。先の話だけど、サウンドクラウド停められたなら公式ホームページくらいあったほうがいいよ、あれ以来イリチと私のほうに直接メンションが来てうんざりしてる。ごめ……えっメンションてどんな。あなたたちをニセモノ呼ばわりしてすみませんでしたとか、楽曲聴いてます好きです応援してますとか、あとは決勝を終えての取材アポとか。うわー、一気にアーティストって感じだな。そもそもホンモノかどうか疑われてたわけだからね。わかったよ、とりあえず時間あるからその辺全部チェックしとく。なに言ってるの、あなたのキャリーバッグは病院預かりだよ、携帯電話も服も全部。あっそうか、うわーじゃあなんもできないじゃん、と言い終わる前に、はかるの端末に着信。イリチだ、出るね。いいよ。ていうか緊急治療室って携帯いいのかな……もしもし、いま病院。うん、起きたよ。死んでない。まあね、脈拍もあったしね。あとはまあ、脳とか色々調べられるんでしょうけど、私たちが心配するような事じゃない。ひでえ言い方だな、事実だけど。うん、そっちは。もう終わったの? うん、わかった、替わるね。はい、と端末が渡される。もしもし漁火ちゃん? ねえさん生きてたすかー! あはは、おかげさまでっていうかね。ほんとびびったすよおー、あの高さから落ちてぐんにゃりしたまま運び出されて、もーあの夜寝らんなかったすよおー。あはは、ごめんね心配かけて。えーっと明日撮影だよね、たぶん行けるはずだから。『Limbo』のすよね? それのレコーディングいま終わったんすよ、ANDYOURSONGさんの! あっそうか、今回ボーカルの質感も全部揃えたいから、前日入りで漁火ちゃんのスタジオで録るんだっけか。そうす、でも始めて一五じゅうご分でもう終わったんすよ? くぬぎさんのヴァースはワンテイクでオッケーで、ハクさんは一二じゅうにテイクくらい試したんすけど結局最初のが一番良くて、あとはガヤ入れまで全部終わったす。まじか、かなわねーなーワンテイク主義者。あとはひさぎさんのカッティングとねえさんのヴァースだけすけど、いけそうすか? あ、そうだわたしのラップだけ録ってないんだ! そうす、とりあえず明日の撮影のリップシンクにはラフミックス持ってくすけど、ねえさんのは無理ぽそうすね。そうだねー……ほんとごめん、前もって録っときゃよかったあ……いやいいんすよ、うちのスタジオで録ろうって言ったのあたしすもん。じゃ、とりあえず明日の撮影までご無事で。うん、ちゃんと喰っとくよ、やばいよな撮影当日ミイラみたいな顔だったら。あははー、じゃ、はかるんに電話を。うん、返すよ。もしもし、ええ。じゃあミックスだけ向こうに送っておいて。そうね。じゃあ、あとはよろしく。通話が終わる。

 沈黙。

 また、死に損なったね。憐むでもなぐさめるでもない声だった。そう、だね。あれもたしか一一月、の終わり、だったか。ええ、忘れもしない。まさかあの三年後にこんななるとはなー、やっぱなんかあるな一一月。と少し戯けて言ってみても、はかるおもちは揺らがなかった。結局は同じだよ。えっ、何が。自分を殺そうとしても、他人を殺そうとしても。わかったでしょう、結局あなたがやったのは、ただ鏡を砕いただけ。何を殺したわけでもなく、ただ傷ついただけ。うん……そうだよな。ていうかそんな歌詞あったよな『Hotel California』で。「どんなにナイフを振り上げようと、獣を殺すことができない」…… “the beast” だから、獣じゃなくて悪魔ね。悪魔か。改めて左脇腹の病衣をまくってみる。うわー痣になってる、骨盤の上のとこ打ったんだな、消えるかなーこれ。あなたは憑かれてるよ。悪魔とかじゃなく、にね。に……やっぱり、そう思う。もちろん。はかるの瞼が窮屈に歪む、のが見える。正直、辛かった。もう忘れたかと思ってたから。キュウゾウとしてリリックを書き続けることは、あなたにとって喪の作業なんだと思ってたから。実際そうだよ。そうだったけど、完全に葬り去るってのは、さすがに、無理だよ。愛してた、から? 言われて、否定できるわけがなく、小さく頷く。しかなくなる。本当はさ、わたしも思ってたんだよ。が関係なかったらどうしようって。わたしの勝手な思い込みかもって。実際、そうなんだと思うよ……でもさ、もしかしたら、わたしがキュウゾウとして唄ったことを、が聴いてくれてるかもしれない、届くかもしれない、って思ったらさ、欲が出てきた、っていうのかな……欲だね、欲だよ、それは欲。あれほど私に戒めてくれたのに、権力欲まみれになるのは危ないって。ほんとそうだよな、はかるには偉そうに言っといてさ……でもさ、言い訳だけど、権力欲とはちょっと違うんだよ。なにが違うの、認められたい聴いてほしい届いてほしいって、それは──違うよ。どんなに愚かしく聞こえようとも、これだけは譲るわけにはいかない。はかる双眸そうぼうを見上げて言う。恋だったよ。どうしようもなかったんだよ、これだけは。ただ見てほしいって、聴いてほしいって、振り向いて帰ってきてまた触れてほしいって、それだけなんだよ。

 沈黙。どうしようもないな。恋って、自分で言ってどうする。でも言うしかないんだ、終わったことを恋だったと呼べるのは、当事者しかいないから。だから笑って。思うさま嘲笑あざわらって。そうしたらいい、そうしてほしい。ほとんど救いなんだよ、はかる。馬鹿なことを馬鹿なことだと言ってくれる人がいるってのは、馬鹿なことをやらかした当人にとっては。

 じゃあ。えっ、なんもなしかよ。ちょっとはかる。とりあえず明日、一時間前には電話よこしなさい。おいーせめてばかじゃないのくらい言ってよー。言わない。もう過保護にはしない、って決めたからね。と切ったあと、瞳がすこし揺らいで見えたのは気のせいだろうか。そうだ忘れてた、と両眼を瞑ったまま、鞄から無骨なビニール袋が取り出される。なに。病院にひとりきりじゃ暇だと思って。とりあえずこれでも読んで頭を冷やしなさい。本、かな、とりあえず受け取るしかない。じゃあね。うん、ありがと……ほんとごめん、心配かけて。あなたはあなたの心配だけしてなさい。自覚してね、93キュウゾウはχορόςの日本代表として上がった。この病院から出たら、もう今までと同じではいられないよ。


 ばたん、と扉の音。もう今までと同じでは、そうだな。今まではあのニセキュウゾウがストッパーになってた、でもわたしがキュウゾウだとわかれば、もう同じではいられないか。じゃあ、今までのわたしは鏡の前で踊ってただけか、ただ自分の鏡像を前にして……いや、そうじゃない。だってキュウゾウを通して漁火ちゃんやくぬぎくんや知念さんにも逢えたんだ。これはただの、ひとりよがりの舞踏じゃない。たとえどんなに滑稽に見えたとしても……ああもう、うだうだ考えてどうする。いま何時、一六時か。ナースコールしたほうがいいのかな。まあいいや、向こうから来るだろ。とりあえず食欲も沸かないし、そうだはかるなに持ってきたんだろ。ビニール袋の中のものを取り出してみる。

『十字架のヨハネ研究』鶴岡賀雄著。なんでだよ。なんでこのチョイスだよ。一晩で読むには厚いし、入院してる友人に宗教学の差し入れってどういうことだよ。しかもこれ国立国会図書館のだ、わざわざ借りて持ってきたのかな。わたしが目覚めるまで待って、目覚めるのを信じて、わざわざこれを……

 となると、読まずにおけないのが人情である。十字架のヨハネ、ちゃんと読んだことないなー。はかるが話してるのなんとなく聞いたっけ、それともだっけ。この鶴岡さんって、たしかはかるが高校卒業後の進路決めるときに、すごい熱心に読んでた……と想念を遊ばせながらページをめくっても、あまり意味がとれそうにない。いや関心はあるけど、一七世紀ごろのスペインの神秘主義、じゃない神秘家、の研究論文となるとなー。読み進めても、案の定ページの上を視線がすべるようになり──めがすべるって表現ほんときらいだな、よく言うけどさ読んでいてめがすべりましたもっと文章に気をつけるべきだと思いますとかさ、Amazonとかのレビュワーがえらそうにさ。なにがすべるだよ、視線に摩擦があってたまるか。あるか。あるのかな、凡庸な比喩だけど、燃えるような眼差し、とかさ。視線に摩擦ってあるのかな。実際、誰かに見つめられるだけで体温が上がるとかそういう──だめだやっぱり、ぜんぜん読めてない。不案内のまま二〇〇ページ過ぎまで来てしまった。これじゃ本に失礼だろ、と思いながらも紙のおもてから眼が離せずにいると、いきなり論旨が飛躍をみせた。


〈非永続性〉そしてこの突然に生じた接触は、永続することなく、やがて終わる。触覚一般はともかく、接触・触れ(toque)という把握は、上述のように一時的な感覚である。しかるに、この触覚の一時性は、触覚一般に伴う身体運動性とあいまって、優れて距離を開き措定する感覚と言えるだろう。ここで言う距離とは、それまで触れていた対象が、いまは私が触れてはいない別の場所に存続しているがゆえに成立する空間である。接触は、触れるときも触れられるときもほとんどつねに、触れていたものが離れることによって開かれる距離空間を動く運動感覚を潜在的に伴うように思われるのである。


 思われるのである。躊躇とともに断言するような不思議な結び。そこから論旨はふたたび、ほのかな熱をもって膨らみはじめる。


 とすれば、接触は、空間概念一般ではないにしても、少なくとも自分がその一端にいて、そこを動く具体的空間を開く。そして何かに触れ(られ)ることと、その何かが離れたことによって開かれた、主体とその何かとの──私とあなたとの──「間」の空間は、そこを対象が言わば連続的に動いて離れていった空間であるから、主体もまたそこを動き、通過し、移行していくことが可能なはずである。その意味でこれは、ある超越的視点から思念される等方等質のユークリッド空間──延長としての物の空間──ではなくして、触れられたものと触れて離れていったものがその中にいる、両者を極とする一種の志向性に貫かれた磁場のような空間である。それは、両者を隔てると同時に、ある緊密な関係性の中に結ぶ。かくて、接触として語られる神秘体験とは、神と魂との間にこうした極性を帯びた時空の隔たりが定立・設定されること、そのこと自体である。接触が合一の「部分だ」と言われるのは、こうした意味であろう。


 私とあなたとの「間」の空間、触れられたものと触れて離れていったもの、ある緊密な関係性。なんだかすごいな、宗教学の論文ってこんなのかな。いや多分、この人の美文が為せる業だよな、美文って一言で済ませていいのかわからないけど。それにしても──接触は、触れるときも触れられるときもほとんどつねに、触れていたものが離れることによって開かれる距離空間を動く運動感覚を潜在的に伴うように思われるのである──なんか、わかる気するな。いや、気だけじゃいけないんだろうけど。なぜだか、この段落ばかり何度も読んでしまうな──触れられたものと触れて離れていったものがその中にいる、両者を極とする一種の志向性に貫かれた磁場のような空間──これって、わたしとのことか。違うよ、この論文では神秘家と神との関係。都合よくごっちゃにするな。でも、ヨハネはひとりの神秘家として神に恋をした。一神教の神って、ほんとはそういうのじゃないはずなのに。いやキリスト教はちょっと違うのか。ユダヤ教とイスラームでは神は眼に視えないけど、キリスト教では絵に描くことができる。眼で、視線で欲望することが。えっでもモーゼも神は見てるんだっけ。ヨブもだっけ。このへんもっとに訊いとけばよかったな。それとも、訊いたのに忘れただけか。そうだわたしはすぐに忘れる、はずなのに思い出す。夢の中だけじゃなく、日常のちょっとした瞬間にも。あの幻聴だってそういうことだったのか──それまで触れていた対象が、いまは私が触れてはいない別の場所に存続しているがゆえに成立する空間──


 ぱたん、と紙々がぶつかる音。やめよう。考えすぎだ、慣れないところをうろうろと……でもはかる。たぶん、これ持ってきたのは正解だったよ。ずっと離れたままだろう、わたしとは。そうだ、いまが変わらずに生きているかどうかもわからないのに、わたしはこんなに焦がれている。過去につけられたものが、今も変わらず、それどころか今のほうがひどく疼いている──こういうものがあなたを〈本物〉へ近付ける助けをするはず。だからたくさん持っておいてね。あなたからあなたの肉体を取り去っても、この思い出は残る──

 これは試練なのか。たぶんそうだろう。でなければ先に進めない。またこうして帰ってきたんだ、馬鹿なことやらかした患者として、しかし三年前とは確かに違う迂路を通って。繰り返しだけど、繰り返しじゃない。反復は時間の順序とは関係ないって、こういうことか。進んだと思えば帰ってくる。でも、この身体に残った痕たちが、確かに本当だと気付かせる、起こった事すべては幻ではないのだと。

 何も収穫が得られなかったとしても。愛とともに迎えてくれる腕がなかったとしても。それでも続けなきゃいけない。なぜ? 癒したいから? たぶん違う。そもそも癒しなんか望んでない。ただ喰らって、砕けるだけ。本当にそうか。それはなんか、かっこよすぎないか。もっとなにかあるんじゃないか、どうしようもなく平凡で、だからこそやめられない理由が。

 わからない。わかるもんか。ひとりで考えたってわからないよ。とにかく始めよう、また始めるんだ。どこまでいっても続きしかない、誰かが踏んだ土地をまた行くしかない。最先いやさき最後いやはてもなく、誰かがやめたことを続けるしかない。とりあえず今夜は休もう、また明日歩くために。今までそうしてきたように、立って歩けば解決する。とにかくやり直そう、といた頃にたぎっていたもの、いやそれどころか、に逢う前からずっとあったはずの何かを、掴み取ってやり直そう。掴み取ってやり直すんだ。




 せっかくれたんだしやっぱ映したいからあ、あとではかるんとも相談して……あーねえさんー! おはようございまーす。おはよっすー、無事だったすかーえっ痩せたんじゃないすかー? いやあ寝てるだけでもけっこう体力使うんだなあって、でも喰ってきたし検査も問題なかったから大丈夫よ。バリウムとか飲んだすか? 人間ドッグじゃないんだよ。あ人間ドックか。人間ドッグ、の江戸川乱歩感すごいよね。あはは。人間椅子も人間ドッグも椅子! 犬! って感じするよね。人間ドッグとゴム人間だったらゴム人間のほうがまだ人間って感じするよね。なんの話だよ。と、奥のメイク室から低い声が聞こえる。おーくぬぎくん、 ハクさんも! 死んでなかったらどうしようかと思ったぞ。いやー心配かけちゃって、え? 死んでなかったらどうしようかと思ったぞ。なんだそれ逆だろ。逆じゃねえよ、あんな落ち方したら死ぬだろ普通。ほんとねー自分でも不思議、脳の血管くらい切れたかと思ったけどね。リアルタイムで見ててびっくりしましたよお、ご無事で何よりです。と相変わらず穏やかなハクさんの声。ありがとー。もう二人ともメイク終わったのね? つかくぬぎくんスーツ似合わねー、成人式以来でしょそんなん着るの。行ってねえし持ってねえよ。と雑談めいて賑わう入口付近に、さらにふたつの影が加わる。あっ。あー知念さん! うわーそれ超いい、漁火ちゃんとおそろいだ! そうすよー、楽器が目立つようにシャープにしてもらったやつー。お久しぶりです、あの、大丈夫でしたか? いや大丈夫ではなかったけど、まあ、大丈夫じゃないのは慣れてるよ。ふふっ、笑っちゃいけないんでしょうけど、わかる気がします。おう、あしにはなんか言うことないんか。あーひさぎ? なんかバーカンぽいね、『シャイニング』の幽霊バーのひとがそんなの着てたよね。らすぞさん。なんだよ褒めてんじゃん。まーお前らのはかるうてくれたんやけ、大事に着たるけどな。そっかANDYOURSONGには前もって採寸して送っといたんだっけ。クラブダンサーとやるイベントで回したとき着てみたけどな、こういうのも悪かないな。へー。くぬぎなんかこれ着て寝よったが。え。「撮影前にある程度身体に馴染ませたほうがいい」って言われたし、じゃあ寝巻きがわりにするかって。「着崩す」ってそういう意味じゃねーよ。だって新品の革ジャン馴染ませるために着て寝るやついるだろ。くぬぎくんばかだなー。お前にだけは言われたくねえ。そうだねえさん、あたしとちぬんだけジャケットなしでいいすか? なんで? これなんすけどおー、と右腕袖元のボタンを外してまくる漁火ちゃん。おー、かっけー! タトゥーだ。肘から掌にかけて、筆文字のような起伏に富んだ流線のデザインが黒々と象嵌ぞうがんされている。手の甲にはなにか陰陽っぽい紋章、肘の関節あたりには漢字のように見える線の連なりが踊っていた。これなに、なまず? そうす、KATFISHすからー。へんつくりが生き物みたいに見えるね、すげえいいじゃん。あざすー。はいちぬんも見せて見せて。え。言われて、そそくさと腕をまくる知念さん。おーこっちもなまず? そうす、同じように右腕のタトゥーすけど、デザインしてもらった人が違うんす。あたしのは丸屋九兵衛さんていうPファンクの導師みたいな人にお願いして、ちぬんのはアポカリプトっていうタトゥーカンパニーの彫師さんに。知念さんのはやっぱヒンドゥーっぽいね。はい。同じように鯰のへんつくりがデフォルメされているが、こちらは線の太さは一定で模様も幾何学的、墨の色映えにも特徴がある。そうすよ、今回お願いした彫師さん福岡生まれで、しかも旅先のインドでタトゥーと出会ったって人で、これえにしだなー間違いないなーって思って、迷わず決めたっす。へー、同じコンセプトでこれだけ違うって面白いね……ていうかなんで鯰なの。え? 漁火ちゃんはステージネームがKATFISHだからわかるけど、知念さんも鯰なの。だってこの字、ちぬんとあたしの苗字がどっちも入ってるじゃないすかー。あっ魚と念……そういうことね。ソウルメイトってことっすよおー! ねーちぬん。ふふ。あとこれからは音楽だけでやっていくぞーって表明か。もちろんっす! そーだなんか訊いた話すけど、熊本の温泉で、タトゥーと一緒に入るのは怖いから、くまモンシール貼った奴なら入れてやってもいいとかぬかしてるらしいじゃないすか。あれエグいよなー、「みなさんと一緒に温泉に入れて嬉しいです」とか書いてあるんでしょ? 私は無害ですって証明を外見的に強制する側のがよっぽど怖いわ、ダビデの星とか知らねーのかよ! って思ったわ。ヤバいすよねー。ほんと、不勉強で無感覚な人間だけが生きやすい時代になってるよなー、ってごめん、なんの話だっけ。そうそう、あたしら撮影までに間に合わせようねってタトゥー入れたんすけど、でも今回の衣装長袖じゃないすか。まあね、スーツだもんね。隠れちゃうんでジャケットなしで腕まくりじゃだめかなーって思って。あたしら楽器持ちますし、そっちのほうが映えると思うす。だめすかね? いやいいと思うよ、てか今回のプロデュースははかるだし……と言い終わる前に、メイク室から人影が歩み出てくる。あ。一五じゅうご分前、ね。もう地下鉄の乗換で迷わなかった? いやもう流石に慣れるよ、と言いながら、目の前のダークスーツ姿を眺める。やっぱスタイル良いんだよなあ、まー黒が映えること。これはなんだろ、オーバーオールデザインとでも言えばいいのか。パンツからベストまでの質感・色感が統一されていて、その上に襟元を大きくとったジャケットが。その生地なんていうの。ベルベット。肩幅だけ広くとって腰から下はボディラインが際立つようにしたけど、まあ標準的なスリーピースだよ。でも靴はアレキサンダー・マックイーンなのな、マックイーン好きだなあはかる。あっそうだわたし靴とかそのへんまで気が回らなかったけど。こっちで全部揃えてるから問題ない。しかし、改めて目の前の女性の、とくにいつもと違ってシニョンでまとめたいなな襟足などを見ていると、ちょっと蕩けそうになる。はかるやっぱイケメンだなあ、ねえ漁火ちゃん。すよねー。ゲイ用語の由来に忠実な意味でのイケメンだよな。なにそれ。どうですかハクさん、ひとりの女性として。いやあもう、とっても素敵で。おいなんだそれ、とくぬぎくんが血相変えておらぶ。大丈夫だよくぬぎくん、はかるは惚れられても自分からは行かないからねえ……残酷なんだよねそこもねえ……なんの話。ほら、スタイリスト待ってるから早く行きなさい、終わってないのあなただけだよ。あそうだった、行ってきます。そうだはかるんあたしらふたりのジャケットなんすけどー、


 髪型どうしましょうか? えーと自然にしてくれたらいいんですけど、はかると並ぶわけだから、わたしは襟元まで髪が垂れてたほうがいいかな、そのほうが差が際立つかも。いいですねー。ご存知かわからないですけど、わたし三日くらい病院で寝込んでてそのまま来ちゃったんで、なんか傷んでる毛先あったらカットしといてください。わかりました。あれですよね、χορόςの決勝で。あーやっぱり知ってますか。私ヒップホップよくわからないんですけど、うわーすごい世界だなーって思いました。いや全部のヒップホップがああではないですよ! もっとピースフルなやつもいっぱいあるんで。はは、いやーでもあのこくさんと一緒に活動してるわけでしょう。はい。すごいですよね、私あんな綺麗な人といたら一日もたないかも。もたないってなんですか。なんか緊張ていうか、自分のいたたまれなさというか。ああなんか、わかりますよ。氷の彫刻みたいだもんなーはかるは。さっきもメイクしながらずっと汗かいちゃって、大丈夫かなあ本当に触れていいのかなあとか思いながら。ははは、逆にわたしは大雑把に扱ってくれていいですよ。あはは。


 おまたせ。おー、キマってるじゃないすかー! おそらくはかるのと同じコンセプトのダークスーツ、だけど、わたしのはベストの採寸が若干広く取られてる気がする。逆にジャケットの肩幅はぴったりめなのかな。似合っとうやん。へえ、そんなのもいけるんだな。えへへありがと、でもはかると並んだらどう見えるかなー。横立ってみてくださいよ、とスマートフォンを向けながら漁火ちゃんが言う。こう? もうちょっと明るいとこ、そのへんで。促されるままに並び立つわたしとはかる。シャッター音。こんな感じす。おーさまになってる、けど、やっぱはかるの方がボディラインの綺麗さが際立つなー。そう意識して採寸したからね。えーズルじゃんそれ。あなたは不摂生だから、シャープめにデザインしても合わないと思ったの。せっかくだから今回の衣装コンセプトとか教えてくださいよプロデューサー。ええとね、まずイリチと知念さんのは、モノクロームのギンガムチェックで揃えたスキニーフィット。ふたりは楽器が主役だということを前提にして、照明にも馴染むようにした。これ好きっすー。まあ今回はジャケット無しにしたから、ベストの装飾品に予算かけてもよかったけどね……くぬぎくんとハクさんのは、それぞれ色が異なるタータンのショールラペル。ジャケットはウールでラペルはサテンだけど、ハクさんの紺のタータンがレザーっぽく見えたのは嬉しい誤算だった。いいよねこれ、あんま見ない質感だよね。どうも、この体格で似合いのスーツ着られるなんて思ってなくて。今はラージサイズのテーラードもいろんなバリエーションがありますよ。ひさぎさんのはふたりと同じコンセプトのまま、ラペルをピークドにしてボトムをシャープに。いいよ似合ってるよそれ。なん半笑いで言いよんか。で私とは、シンプルなスリーピースのダークスーツで、違いは肩から腰回りのレンジとシャツくらいかな。わたしのシャツの生地なんていうのこれ。レーヨン。これ気に入ったなー、照明映えするよねたぶん。よくわかったね、黒に混じると色がつぶれて見えかねないと思って。ステージで着ても良さそうだなー。なんかさ、こうしてみんなで服の話できるの楽しいね。初めてのビデオで妥協しちゃいけないと思ったからね。あそうか、わたしら公式の映像として出すのはこれが初めてか。気合入れなきゃなーせっかく客演も豪華にしたんだし。お前のレコーディングだけまだ終わってないしな。ごめんって、言わないでってそれー。じゃあそろそろ段取りしようか、まずパフォーマンスシーンのファーストテイク。照明テストしたらもう始めようと思うけど、いい? いいよ、やってみよう。


 おーなんか緊張したー。なんでだよ、ライブのときもそんなかよ。いやステージとは別の緊張ていうか、いま撮られてるんだなーて意識がさ。撮られてるって意識は捨てたほうがいい、そしたら自然に映るよ。ていうかこのミックス初めて聴いたけどすげえな、くぬぎくんのヴァース聴きながらもってかれかけたわ。事前に聴いとけっての。


 あはは、今のズームアップからの決めポーズよかったんじゃん。見てみる? うん、こっから……あはは、いいじゃんいいじゃん、ミュージックビデオっぽいよ。はかるも二番のサビ前でこういうのやりなよ。いや……ダサく見えないかな。こういうのはやっとくのがいいんだよー。


 うーん、なんか合わないな。だから、こんなカットにテイク費やさなくていいって。いやこういうのに神が宿るんだってば、なんだろ、もっとこう煽る感じじゃなくてさ、あるじゃん、片眉だけ吊り上げて挑発するみたいなの、映画とかで。ああ……それをやればいいの? そうそう、きっとはかるに合うよ。いいっすよ、やってみましょ。ごめんなさいねこんなテイクに時間かけて。よかよ、お前らの作品やけ、納得いくまでせんな。


 おーあははは、これだよこれ! きたっすね、ブラピっぽい! ブラピっぽいは褒め言葉かな。よーしこれで全体の流れ見えたよ、あとはさアウトロあたりの、スーパースローモーションっぽくうわーって動く感じのやつ、そういうの撮ろう! ほんと感覚だけで作ってんなー。フロウしてるって言えよー。あとあたしとちぬんの両手タッピングのとこ、さっきのテイクとは別に手元ズームで撮っといてもいいすか? いいよもちろん、編集の時どっち使うか決めよう。




 おーもう一五分前、だいじょうぶ撮り忘れとかない? とフッテージにかじりつくを見ながら、このビデオ制作はリハビリとして最適だったかもしれない、と思う。誰かによって撮影された映像と鏡像は違う。前者は誰かの視点から覗き込まれた自分の姿だが、後者は左右逆層である。前者が他者から欲望された姿とすれば、後者は自分で欲望した姿、とでもなろうか。セルフィーまみれのこの世紀においては、そんな単純かつ重要な違いにすら鈍麻しがちだ。他者の欲望と自分の欲望とを取り違えたために微温な荒廃に陥った「作家」ならいくらでもいる。とにかくには、キュウゾウには、そんなありふれた蹉跌をなぞらせるわけにはいかない。これもまた過保護と笑われるだろうか。笑いたければ笑えばいい。の、焦慮に満ちた賑わいに背を向けしかし俗世に交わりつつ詞を書くことをやめなかった彼女の忍耐がなければ、いま私やイリチがこうして集っている状況自体が有り得なかったのだから。

 あの花を枯らすつもりはない。いつかは手折たおられるだろう、朽ちて倒れるだろう、あの不羈も。しかし永遠に存立するものへの憧れなど権力欲でしかない。どうせ枯れるとか永遠に咲いていてほしいとか、そんな情緒はすべてどうでもいい。ただ私は、このひとときにくんじた花に寄り添えたことを誇りに思う。ともすれば香りは、そこにあったものを書いて残して再現することすらできないという意味において、音よりも果敢はかないかもしれないのだから。しかし少なくとも私は知っている、ここに咲いたこの花は、同じ時代をともにしたどの花々よりも香り高いことを。そして、容易くは倒れも手折られもしないであろうことを。


 よーしはかるそろそろ撤収でえす。と言いながらキャリーバッグを転がしてくる。ふふっ、途中からあなたがプロデューサーみたいになってたね。いやー楽しくてさあ、こんな感じに見えるんだーとか。わかるよ、私たちは映像媒体には無頓着なまま活動してきたからね。ビデオが出来上がったら今までとは違う、真っ当なバズり方するんじゃないかな。今までがちょっと異常だったからなー。そのためには完成させないと、あなたのパートのレコーディングを。あーそれなんだけどさはかる、というの声を着信音が遮る。ちょっとごめん、あ、ドゥさん。え? 電話番号知ってたんだ。出場登録は私の電話番号にしたでしょう、というか数日前からかかってきてたんだよ。そうなん、出なよ。と促されるままに受話ボタンを押す。

 はい、こくです。はかるちゃあん? まだちゃん死んでる感じい? いえ、今朝退院しましたよ。今、ビデオの収録で都内のスタジオにいるところです。あらーほんとう? じゃあちゃんそこにいるー? いたら替わってくれない? と上がる語尾を聴きながら、端末をに手渡す。え? 替わってって、ドゥさんが。あなたに用事じゃないかな。なんだろ、はい。はいです。あはは、三日間死んでましたけど大丈夫でしたー。どうも。はあ。あ、福岡、ですか? わたしらが? スケジュール的にはたぶん、はい。もちろんです。あーじゃあ、こっちから連絡しますんで、この番号でいいんですよね? はい。わっかりました、どうもー。

 何だった? え、なにはかるこの話聞いてんじゃないの。何度か電話があったけど、が目覚めてからじゃないと誘えないとか何とかで、内容は報されてなかったよ。決勝後の段取り? まあそれに近いんだけど、その前に93わたしらに誘いがあって。出演の? うん、いまなんか日本でX-TRAINってツアーリング企画やってるらしいじゃん。ああ、χορόςの傍流企画みたいなやつね、たしか一昨日東京公演だったかな。そうそれ。なんか新幹線で東名阪まわって福岡でツアーファイナルらしいんだけど、その福岡公演に93わたしらがゲスト出演してほしいって。へえ……何日いつ? ちょうど一二月一日。スケジュールさえあえば段取りはつけるって話だったけど、はかる大丈夫? まあ、いくつか打ち合わせの日程ずらせば大丈夫かな。漁火ちゃーん、一二月一日に福岡でライブ決まったっぽいんだけど行けそう? ついたちすか、えーと、その日ミックスの作業だけなんでMacBook持ってけたら大丈夫っす! おし、出られそうだね。じゃ、あとでわたしから ドゥさんに電話しとく。X-TRAINっていったっけ? そう。たしか、いま来日してるのはSIUN代表のはず。あースコットランドとアイルランドの。そう。私も詳しくは追ってないけど、面白いんじゃないかな。ちょうど私たちも最初のミュージックビデオ出すタイミングだし、相乗効果になれば……あーそれだけどさはかる。なに。わたしのぶんのレコーディング仕上げたい気持ちは山々なんだけど、今日これから福岡に帰っていいかな、新幹線で。いいかなってあなたの判断でしょう。仕事か何か? うん、ほんとは日曜の夜に決勝の結果が決まり次第、翌日に帰って会社に話つけるつもりだったんだけど……音楽に専念するので、って? うん……やっぱこういうのはちゃんとしとかないと。あなたらしくもなく常識的だね。ははは、いやーこれでわたしもはかるに続いて失業か。音楽が本職になった、って言うべきでしょう。どうか、な。あとはかる昨日のあれ、と言いながらキャリーバッグからビニール袋が取り出される。ありがと。全部読んだの? まさか。でも……助けになったよ。整理がついた気がする、もうがいようがいまいが関係ないんだって。聞いてても聞いてなくても、届かなくてもいいやって。そう……ならよかった。じゃ、これからすぐ東京駅行かなきゃだから。ごめーん漁火ちゃん、わたし急用で福岡帰るわ! レコーディングは今月以内に終わらすから今日はごめん! いいすよ、あとでラフミックス送っとくっす! ありがとー、じゃANDYOURSONGも、ごめんね今日長くいられなくて。なんや、これからスタジオで編集がてら打ち上げぞ。うーわたしのぶんまで楽しんで! じゃね知念さんも。はい、道中お気をつけて。

 撮影機材が撤収される慌ただしさの中、もそそくさとスタジオを辞去する。もうこんな時間か。じゃはかるん、ビデオの編集作業はそっちに任せますんで。ええ。このあとスタジオで朝までコースっすけど、はかるんも来ます? いや、今日はちょっと用事があってね。はかるんもすか。まあね……じゃ、そっちは任せたよ。ういっす、おつかれっす。




 遅刻なんてありえない人だから、もう来ちゃうと思うけど、ああどうしようかなちゃんと話せるかな、わ。お待たせ。いや待ってないです、と反射的に応じた相手が本当に待ち人なのかも疑わしいまま、目を釘付けられるしかなくなる。くぎづけられるっておかしいか。でも本当にそうなのだから仕方ない。こく先輩……ですよね? そうだけど、どうしたの、二ヶ月でそんなに変わった? 変わり、ましたよ。だってそのスーツ。ああ……これね。と苦笑しながら左耳の髪を掻き上げている。さっき撮影があったから、せっかくだからこのままでいいかと思ったんだけれど。まずいかな? いえ全然、むしろよすぎてまずいというか、撮影、ですか。ええ、年内に出す新曲の。うあっミュージックビデオですか、すごそう。まあね、その辺の話も中でしましょうか。言われながら、目の前の銀杏いちょう色の暖簾がかきわけられる。中へ、いざなわれる。

 新宿御苑前駅から数分歩き、公園が見えた先を右折したところ。そこにこく先輩が選んでくれた寿司屋が。東京で一番の店だから覚悟しておくように、という諧謔味のある一文から想像していた通りの、和風ながら均整の取れた暖色系の店構えで、通された個室の雰囲気だけですでに圧倒されていた。おまかせのコースなんだけど、いいよね。アレルギーとかは? いえっ、ありません。じゃあ先に飲み物だけ決めましょうか。えっと、わたしは先輩にあわせるので。下戸だっけ? いえ、ものによりますけど。そう、じゃあまず「鍋島」でいいかな。芋ですか。いや米麹だから、匂いは気にならないと思うけど。じゃあそれで。先輩にまかせっぱなしのまま、最初の握りと酒瓶が配膳される。先輩いつもこんな店で飲んでるんですか。まさか、ひとりでは来ないよ。仕事で知り合った人とたまに、といってもここに誘いたいと思えた人なんてほとんどいなかったけどね。って、ことは、わたしは誘ってもいいと思われたってこと。テストを通過した的な。と失火のように沸いた雑念が、金がなくて普段良いもの食べてないミュージシャンを連れてね、何度か来たかな。という言葉によって鎮火される。ですよねー……さあ、あなたには今から本当の寿司の味を知ってもらうから。うわあ、なんか見た目からもう……いいんですか。どうぞ。と促されるままに、赤身の一貫を口に運ぶ。

 うわ。なん、ですかこれ。でしょう。わたしの舌が溶けたのかと思ったが、いやまだ確かについている。どうしたの。いや、あの、なくなっちゃったかと思いまして。なにが。舌が……とおぼつかない発音で答えると、ふふっ、とくしゃみのような笑みが漏れた。大袈裟だね。おおげさじゃないですよ、だってたべものでこんな感触はじめてで。わかるよ、別次元だもんね。なにか誇らしげな微笑とともにグラスを呷る先輩。その仕草さえも絵になるなあと見惚れていると、はい、と酒瓶の先がわたしのグラスに向けられる。あっいいですよ、自分でしますよ。よくない、年長者からの酌は受けなさい。はい、と慌てて応じる姿勢となり、グラスと瓶がぶつかる音を聴く。口に合わなかったら言って、二本目は別のを頼むから。はい。けっこうく感じなんだな先輩。こういうところやっぱり九州人っぽい、と益体もない考えを遊ばせながら一口目を啜る。あっ、意外と甘い感じですね。でしょう。わたし、飲み会で無理やり飲まされた芋焼酎でもうだめになっちゃったので、こんな日本酒もあるなんて知りませんでした。よかった、じゃあ乾杯。はい。あ、乾杯する前に飲んじゃった。でも先輩のが先だしな。もしかして、乾杯する前にちゃんと同じ酒飲めるか確かめてたのかな。みたいなことを考えるうちに、すこしだけど胸の高鳴りも収まってきた。単に酔いのせいかも、しれない。

 で、あなたの作詞業だけれど。と、唐突に話題が切り出される。はいっ。日の目を見た作品数が増えたのはいいことだけれど、質的に一貫性を欠いてるね。アニメ映画主題歌からアイドルソングから公共広告機構モノまで、って。はい……会社が回してきたものを手当たり次第に、って印象を受けるけど、違う? はい、そのとおりです。悪いことだとは思わないけどね……と語尾を保留してグラスを飲み干す。悪いことだとは思わないけど、クライアントと意思の疎通は取れてるのかな。とくにアニメ映画のあれ、原作とも映画用脚本とも関係ない内容だったけど。はい、あの……実はあれ作詞コンペに出してたのが拾われて、とりあえず間に合わせで使われたんです。やっぱりね、とグラスに酒を注ぎながら、いいけれど、あなたが点数を増やしたのは自分の実力を示したかったからでしょう。そういう時こそチャンスなんじゃないかな、「これとは別に映画用に書き下ろします」くらい食い下がってもよかった気がする。と、こちらの心裡を赤剥けにするようなことを言う。はい……おっしゃる通りです、実はわたしあの作品の原作も何も知らないまま出して……監督もそうだったらしいね、雑誌の映画評に書いてあった。酷評でしたか。まあね。そうだよなあと思いつつグラスで口を塞ぐ。その監督と同じくらい、あなたも不実だったってことだよ。上の人間が誠実さをもって取り組んでない現場なら、そもそも近寄るべきじゃないと思う……なんて、職業作詞家から降りた私が言っても説得力ないけどね。いえっ、まさにそれです、それが聞きたかったんです。社の中にいると、まるでこのルーチンをやっていくことが目的のように思えてくるから……その外にいる人の意見を聞きたかったんです。ほたての握りを口に運びながら先輩が頷く。ひとつだけ助言があるとしたらね、と静かに話し始める、のを聞いている。たとえば、メジャーの仕事を受ける。自分の作品の受け手が増える。そしたら称賛も多く集める。けどね、と一呼吸ののち、たぶん、見抜かれてるんだと思うよ。と重石おもいしのような一言が置かれる。ああ、この程度でいいと思ったのか、あっち側の流儀ならこれでいいってことになるんだろうな、でも自分はああなるわけにはいかないな、って、ちゃんと見抜いてる受け手は沢山いるんだと思うよ、ただ可視化されないだけで。あなたが受け取る称賛は、見抜いて立ち去っていった人々の声を差し引いた総量である、ことを、自覚しておいたほうがいいかもね。ああ、まさに思っていた通りのことを言われてしまった。エゴサで傷つくとかそんなことじゃなくて、なにかヒステリックにさえ思える称賛に纏わっているものを、一発で言い当てられてしまった。そう、なん、です……もちろん、すべての人に届く作品なんて無いと思うんです、限られた人々に届けるしか。でも、批判するよりも、むしろ称賛する声のほうが無理をしているというか、疲弊している、というか……何度か静かに頷く先輩。疲れてるよ。みんな疲れてる。美学的にも政治的にも疲弊して、「コンテンツ」とかいうもので無理に軽躁状態を保って日々を凌ぐことに慣れすぎてる。はい。先輩が会社やめたのって、それに関与したくないから、っていうのもあったんですよね……もちろん。自分が作詞家だと思ってた仕事はエクスタシーのプッシャーと変わらないんだ、と判ったからね。でもそれよりも……と、またグラスが飲み干される。やっぱ早いなあ。口元をハンカチで拭きながら、数秒の沈黙を挟んで、また静かに話し始める。

 そうじゃないところで書いてる、人もいる、ってことを、知ってしまったから。先輩らしくもない、途切れ途切れの構文。商業的じゃない場で、ですか。即座に首が横に振られる。メジャーかマイナーかなんて関係ない。どんな環境に身を置いていても、これだけはやらない、あっち側には絶対に行かないって禁欲をもってつくってる、そういう人たちがいる……と知ってしまったから。会社に入る前からそうだった、仕事で詞を書いている自分とは違う何かに取り憑かれている人たちがいて、たぶんその境界は越えられないんだって気付いたことが、悔しかった、のかな。と、いつのまにかわたしが述懐の聞き手に回っている。ごめんなさい、私のことばかり話してもね。いえ、こういう機会でもなければ聞けないので……どうぞ続けてください。苦笑のようなものを浮かべながら、逡巡なのか、グラスを持ったままくるくると小さく回している。ことっ、と置かれる音ののち、ゆっくりと唇が開かれる。

 が、まさにそういう人だったから。こちらを見据える視線が揺らがない。揺らいで、くれない。あの子が、いつのまにか、そういう人になっていたから……もう逃げるわけにはいかないと思ってね。あのラッパーさん、先輩の、高校の頃からのお友達ですよね。小さく頷く。本当にばかな子でね。どうしてそんなことするかな、あちこち見当違いのところに行っては帰ってくるなって思ってたら、いつのまにか、私が絶対になれないものになっていた。それが悔しかった、以上に、嬉しくて。うれしい、うれしいって何だろう。自分のできないことをしてくれる、ってことがですか。もちろんそれもだけど……そう思い焦がれるだけなのも、ちょっと違うと思ってね。頰の半分だけ笑っているような顔。私も一緒に行くべきだ、と思った。この子は私とは別格だ、と悔しがるだけでは微温ぬるすぎる。この子は私のできないことをやってくれる、と喜ぶだけでも微温ぬるすぎる。私も同行すべきだと思った。もしかしたら、私が仮初かりそめに作詞を始めたのも、この道に交わるためだったのかも、って。だから捨てた。にっこり、と形容して差し支えない顔で笑っている。今まで積んだものを全部捨てた。それでもなお私の中に湧き出てくるものがあるか、確かめようと思って。無体むたいだけどたのしかったよ、今までと違うやりかたを試すのは。自分のなかを、もはや自分とは言えないもので埋めていくのは。

 ああ、と詠嘆が漏れそうになる、のをこらえる。この顔なんだな、わたしが絶対に見ることができないのは。93きゅうぞう、あのクルーに場所を得た先輩が、創作や演奏のさなかで噴きこぼすもの、それがこの顔なんだろうな。憑き物が、落ちたみたいですね。と、半年間のつきあいしかないくせに知ったようなことを言う。のも、今は許されると思った。もっと厄介なものに憑かれた、とも言えるんでしょうけどね。ふふっ、あははは。と、初めて双方大笑いとなった。

 とにかく、作品で証明し続けるしかないよ。はい。どんな道を通ろうとも、その過程で、自分が世界に捧げたものを残し続けるしかない。世界に、ですか。そう、結局これが一番適切な言い方でしょう。誰かに認められたいでは権力欲になってしまう。誰に届いてもいい、誰にも届かなくてもいい、ただ自分はこれをつくらずにはいられなかった、そんな何かを起こし続けるしかない。何か。何かとしか言いようがないよ。偉そうに語ってるけど、私もまだ理解できてない、これが一体何なのか……でも、はちゃんと掴めてる、と思う。はきっと、誰よりもうまく起こすことができる。だから一緒に行くと決めたし、だから──好きになっちゃったんだよ。


 かなわないなあ。わかってたけどさ。でも先輩にはきっとわからないんだろうな、わたしなんかでは到底及ばない、だからこそ焦がれてる人を前にして、その人が焦がれてる相手のことを一方的に聞かされるなんて。これがどれほど残酷で、え難くて、そして甘やかなことなのか。あなたのあこがれは、千の絹糸よりも優しいやりかたでわたしを鞭打ってくれる。あ、この一節いいな。歌詞に使おうかな。いやないだろう、いくらなんでも個人的すぎるだろう。わたしみたいなのがいきなり鞭打ってとか言ったら、一体どうしたんだってなるだろう。大体なんだ千の絹糸って、凡庸すぎる。響きもなんか揖保乃いぼのいとみたいだ。やめよう、慣れないことはやめよう。今日はただ、こうして場をもうけてくれた先輩の言葉を、思うさま浴びて帰ったらいい。

 さ、私の話はもう終わり。何か聞かせなさい、浮いた話の一つでもないの? ないですよお、もう毎日仕事ばかりで。のわりにツイッターからは離れないね。えっ、見てるんですか。いや、勘で言っただけ。う。あんなところで言葉を垂れ流したって消耗するばかりだよ。うう……まあ、告知リツイートくらいしか使ってませんけど……なんかもう疲れちゃって。疲れないわけがないよ、あんな読み書きもままならない幼児たちがいっぱしの顔するためだけの社交クラブで。はい、もうネット上になんやかんや書くのも疲れちゃったので、最近ノートをつけるようになったんです。ノート。誰に見せるわけでもないんですけど、訳詞をしてみようと思って。ほかの人が書いた詞を自分なりにかみくだいてみれば、何か得られる気がして……それで、いま英語詞の翻訳ノートをつくってるんです。

 それは、それは──いいと思う。と、今日初めて見せる表情で先輩が言う。母国語だけにしがみついてる作詞家なんて話にならないよ。自分の生まれ持った言語に対する違和感は、物を書くうえで絶対に必要だと思う。歌詞の翻訳はその感性を鍛えるのに最適だと思うよ。やっぱりそうですか! じつは、今日持ってきてるんですけど。と浮かれて鞄の中から一冊取り出す、のを見て先輩が苦笑する。誰に見せるでもない、って言ったでしょう。ですけど、ですけどお、やっぱり先輩には聞いてほしくて。読んでほしい、じゃなくて? はい、最近わたし、自分の作詞以外でも、物を書くときは常に声に出してから文字にするようにしてるんです。正しいと思う。大江健三郎も同じことを言ってた。そうなんですか! なので、私が訳した詞を読むのを、ちょっと聞いてほしいなって……だめですか? と見え透いた躊躇を置くわたしに、先輩はお酌で応える。聞かせて。はい。ぐいっと一口含み、うわーどれにしようとページをめくる。うん、一番自信あるのはこれかな。と、飲み込む。プリファブ・スプラウトの『Appetite』なんですけど。わたしが投げた曲名を、先輩は絶句とともに受け取り、数瞬の沈黙ののち、あの曲は、あの曲は──本当に素晴らしいよ。と陶然として応えた。イントロに入ってる三拍子のパートが、繰り返し挟まれるんだよね。ある意味、ビートルズの『We Can Work It Out』を逆さにした発想とも言える……でも、あの曲はパディじゃなきゃ作れない。何よりあのシンセの音色おんしょく。信じられない、あれが八〇年代半ばに作られたなんて。もっと古びて陳腐に聴こえそうなものなのに……はい。なんてきらきらした眼で話すんだろう、酔いのせいもあるのかな。先輩があのエッセイで取り扱ってたアーティストだったのでベスト盤を聴いてみたんですけど、この曲が特に気に入って。うまく訳せてるかどうかわからないんですけど……聞かせて。はい。えっと、初めはこんな感じで……


 ど、う、ですか。いいと思う。ほんとですか! 明らかな誤訳が二、三箇所あったのを除けば、曲の雰囲気もうまく出せてると思う。う、やっぱありましたかあ。大したことじゃない、どういう誤訳がありうるかを知りたければ、自分で誤訳をしてみるしかない。誰だって、その一線は越えなきゃいけないの。少なくとも、この訳者はだめだのこの誤訳はひどいだのAmazonレビューに書き散らして心得顔こころえかおしてる自称読書家とは、あなたは別のほうへ行ったんだよ。そのことは保証する。ありがとう、ございます。他には? えっと、とりあえず今日はこのくらいで……何それ、あなたが聞いてほしいって言ったのに。いやあでも、じゅうぶんです。わたし、これだけは続けようと思います。訳詞をやってるときだけは、自分の小さな世界とは別の、外のほうに繋がってる気がするから。そうだね、その感覚は大事。続けなさい、たとえ金にならなくても、仕事にならなくても。ただひたすら、埋まっているかさえわからない化石を採掘するように、地層をひとつひとつくしけずるように。くしけずる……? その表現いいですね、メモしていいですか。誰に許可を求めてるの、言葉は誰のものでもないよ。そうでした。ふふっ。あははは。


 そうか、音楽する方法はひとつじゃない。別の唄い方、別の繋げ方があるはずなんだ。すくなくとも今日、わたしは先輩と同じ曲で繋がることができた。それだけでじゅうぶんだろう。それを大切にしよう。持って帰って、植えて、枯れないように育てよう。そうすればきっと実るかもしれない、わたしよりもおおきな何かが。

 さ、話しすぎて箸が止まっちゃったね。もう何貫か頼みましょうか。いいんですか。金の心配なんてしなくていいの。何か季節のものをいくつか、と、新政あらまさの「No.6」を。まだ飲むんですかあ。あなたは無理しなくていいよ、私ひとりでもけるから。わかりましたよお、つきあいますよお。




 じゃ、このボーカルトラック基準でねえさんのも混ぜようと思うっす。ん、こんなもんでよかろ。よしもっかい頭から聴こーぜでかい音でー。さっきからそればっかやなさん。だってよーこういうのってスタジオじゃなきゃできねーじゃん、姉貴いつもヘッドホンでやれって言うし。でかいスピーカー鳴らせん家で悪かったな。いいすよじゃあみんなで聴きましょー。おい起きろ伯、俺らの曲だぞ俺らのー。もう寝かしたれや。あはは、くぬぎさんビール一本もらっていいすか。おう、おつかれっしたーエンジニア様。あざすー。いやあでも、これだけ集まってひとりも下戸いないってすごいすね。まあミュージシャンでヒップホッパーだからな。にしても、こげん好き放題飲んでてよかと? 今夜はあたしがチーフすから、機材さえ壊さなければ何やってもいいすよ。やべーだろなあの卓に酒こぼしたら。たぶんくぬぎさん臓器ぜんぶ売ることになるすよ。うわーもう近寄らねえ。あはは、ちぬんポテトもらっていいすか? うん、もう残り少ないけど。そうすね、あたしコンビニで買ってこようかな。いや宅配だよ宅配、スタジオで宅配ピザってのに意味があるんだよ。なんえらそうに言いよんか、おごりで喰いよるくせに。あはは、じゃまた好きなの頼んでくださーい。

 な、改めて見てもよか? え? そん刺青。ああこれすか、どうぞ、撮ってもいいすよ。おーやっぱ迫力あるな。痛くありませんでした、入れるとき? いやー初めての感覚だったんで痛くはないんすよ、でも二回目からは慣れてきて痛み感じるらしいすねー。みんなそう言うよな。そっちのもよか、知念の? あ、はい、どうぞ。トライバル、っち言えばよかとかな。そうですね、こういう模様が得意な彫師さんで。でもなんか、同じテーマのタトゥー入れるってすげえよな。香港映画みたいっしょー? 義兄弟の契りみたいなー。いや、それよりも、ストレートに恋人だろ。えっ? えっじゃねえよ、お互いの名前を身体に彫りあうってことは、それはもうそういうことだろ。えっ、いやあたしらそんなんじゃないっすよ、ねえちぬん……うん。え。出、出たーノンケ特有の無神経さ! おいチヌ、だっけ? 隠さずに言っていいんだぞ! なん言いよんかさん、出しゃばんな。だってよー。いや、違いますよ、私もそういうつもりで彫ったんじゃないですけど……でも、イリチがタトゥー入れようって言ってくれて嬉しかったし、はっきり違うと言われると寂しい、というか……あ、ごめんっす、そういうことだったんすね。友情だよ友情。くぬぎ、先走りすぎだよ。無神経なのお前やろバカタレ。わかったよ、わかったから蹴んなよー。

 でもなんか、不思議ですよね。なんが? χορόςで出会った人たちと、こうやって同じ曲で作業してるって。ま、ぜんぶのせいやけどな。せいって? なんかバラバラのもんを一纏めにする、みたいなことばっかしとろ、あいつ。たしかに、93うちの結成経緯がそんな感じすもん。ほんとおかしいやつだよなー。ふふっ、でも良い人ですよ。私のときも、ね。そうす、今度ちぬんが自分のアルバム作るきっかけになったのも、ねえさんとやったからすもんね。へー、なんやいろんな女スケコマシような。ち、違いますよ。ハクもあいつにあっさりやられてたもんな。くぬぎだって似たようなもんだろお。俺はやられてねーわバカ。あはは、あたしはファンカデリックのTシャツ着てるの見てひとめぼれだったすもん。なんやそれ。あーそういえば言ってなかったすね、じゃあ長くなるかもっすけど……




 じゃあ今夜の主役にいー、乾杯の音頭とってもらいましょうー! さあさん、東京から福岡に帰ってきたらもう職場の送別会が準備されてた気分はどうですか? いやあー、もうカンザスじゃないんだなていうか、キャプテンアメリカみたいな感じです! ほんと何言ってるかわかんねえな。ええー? 実際、あたしたちの間でもさんって「いい人なんだろうけど何言ってるかわからない人」でしたよ。なにそれー、褒められてんだかディスられてんだかー。もうわかったからはやく。さっさと飲ませろー。あい、じゃあわたくしりゅうの失業を祝しましてー、かんぱーい!!


 まさかうちからヒップホップスターが生まれるとはねえ。いやスターとかそんなんじゃないすよ。まあ、あの日集合に遅れて三〇さんじゅう万持って帰ってきた時点で、全部決まってたのかもな。あはは、あれもう伝説ですよねー。そうそう聞いてくださいよ、あのとき古市さんにすごい良いこと言われたんすよー。えっなになに? えーとね、あのおー、もう忘れましたけどおー。殺すかあいつ。あははははは、頭打って忘れたんすかさん。いや頭は打ってないんだって、でもほら、あるじゃないすかねえ良い話すぎて逆に忘れちゃうみたいなねえ? うるせえ、もう喋るな。ははは、はいさんもう黙っててください! 代わりに古市チーフ、新たな道を歩みだすさんにメッセージどうぞ! 頑張れよ。ええーそれだけすかあ? まあ、二年間で一人も死傷者出さなかったのだけは褒めてやる。え、うんうんって、みんな一致の感想なんすか? さん明らかに余所見しながら運転してましたもんねえ。まあ、次の曲のヴァースとか、思いついたの忘れないうちに書いとかなきゃとか、考えてたかなあ……やっぱり。もうあれにヒヤヒヤしなくていいと思うと清々するわ、精々頑張れよ。あ踏んでる、清々と精々で踏んでる。ラッパーぽいすね。もしかしてわたし古市さんに影響与えちゃいましたか。もうほんとに一生黙ってろお前は。あっはは、でもほんとお世話になりました古市さん。してねえ。いやあの予選のときすよ、楽屋入りのとき来てくれて緊張ほぐしてくれて、実際かなり助かったす。そんなことしてたんですか古市さんー! してねえ。またまたしらばっくれちゃってー、あーみなさん勘違いしないでそんなんじゃないすからねえ、わたし古市さんの娘くらいとしはなれてますからねえ。お前よりちょっと下だよ。え。え、古市さん本当に娘いるんですか。知らないんすかさん、うわー地雷踏んだー。えっなに。ずいぶん前に離婚して、親権向こうで、それ以来会ってねえよ。あーそうだったんすかー。でもねえ古市さんイケますよお人生再出発! 見た目もイケてますよねえスチュワート・コープランドみたいですよねえ実際? どうすかこん中で古市さんと一緒になってもいいって人、わたしが最後に見つけとくんで! マジでいませんかどなたか、男性も大歓迎です! ほんとに殺すかあいつ。ぶっははははははは!!


 あーあの、ほんとに、ありがとござしたあ、おせわになりましたあ。がんばれよーキュウゾウ。よー日本代表。あざす、あの、わたし、ほんとに、世界変えようと思うんで。おーなんかでかいこと言いだしたぞ。いやね、わたしの大好きなトゥパックってラッパーがね、こう言ってたんすよ、「俺は世界を変えることはできないだろう、でも俺に影響された奴が世界を変えるはずだ」って。で、その奴ってのがわたしなんすよ、だから、わたしがんばります! だからの使い方がすげえな。あはははは。じゃもう解散で。えー二次会ないんすか。あのな俺たちは明日も仕事なの。あーそうでした、みなさんありがとござしたほんとに……じゃーなー。おつかれー。

 あー……いくらなんでも病み上がりで調子こきすぎたな、あたまいてー。あの、さん。んう、あー解体班の……どうしたの、終電ないの? や、あの、会社の飲み会なんでからかわれるだろうと思って言わなかったんですけど……あたしさんの、ていうかキュウゾウのファンで……これ。あ、うわーなつかしいそのCD-R! はい、一年前にDARAHA BEATSで買ったんです。ほんと少量だけおろさせてもらったやつだよ。そうです、ネットですごいフィメールラッパーいるって話題になってて、なんか福岡在住らしいって聞いて。でもまさか、自分と同じ職場にいるなんて思いもしませんでした。あはは漁火ちゃんパターンだな、ありがとー。もうその時期の曲はやらないと思うけど、ちゃんと誰かに届いてたなんて嬉しいよ。はい、あの、せっかくなんでタグ打ってもらえますか。タグ打つって、ヒップホップマナーだな。あはは。いいよ、昔からヒップホップ好きなの? 高校の頃からかなー。リル・キムとかローリンとかばっか聴いてましたけど、ヒップホップやってるのってやっぱ男ばっかじゃないですか。まあねえ。だから93キュウゾウが出てきたときすごい嬉しくて、ここから何か変わるかもしれないって思って……だから、さっきさんが言ってたこと、不可能じゃないと思います。え。世界を変えるって。ああ……うわあーありがとう、ほんと嬉しいよ。はいこれ。うわーかっこいい。密かにサインの練習してたっていうね、はずかしー。あはは。じゃあ、音楽がんばってください! 応援してますんで。うぃっす、ありがとう! がんばるよー!


 いやあ、あるんだなこういうことも。たまんないな、どうしよこれ酔っぱらいの幻だったら。朝になって全部消えてたら……よう。よう、おっなんだフリースタイルか、やだよわたしもうバトルはしな、あ、古市さん。相当飲んだな。いやまあいつものことじゃないすか、それよりすいませんでしたいろいろ失礼なこといって……それもいつものことだな。ほれ。え、万札。あ、タクシー停めてくれたんすか。ほら、さっさと帰れ酔っ払い。あ、いいんすかこれ、おつりかえすの後日で。いらねえ、とっとけ。え、ちょっとお、ちゃんとお別れ言わせてくださいよお。めんどくせえな、お別れってわけでもねえだろ……あのな。え、なんですか。言ったろ、娘がいて、もう会ってないって。はい。でもな、何年か前に向こうからLINEで申請が来て、たまに連絡取ってんだよ。え、そうなんすか。でな、LINEのプロフィールで、なんか好きな曲登録する機能あるだろ。LINEのサブスクみたいなやつすね、あるらしいすね。それが? うちの娘のな、お前らの曲だったよ。じゃあな。

 ばたん、と外からドアが閉まる。えー、えー、そこで閉めるかあ。なんて不器用な人なんだ、まあ知ってたけど。どちらまで。あっすいません姪浜めいのはま駅まで。はい。

 いろんなことがあった。痛かったし、辛かったし、死にかけたし、でも、全部の傷がわたしを強くした、はず。トゥパックも言ってたな、 “That which doesn't kill me can only make me stronger.” これニーチェの引用らしいけど、ドイツ語原文ではどうなってるのかな。こんどはかるに訊けばいいか。

 また続けよう。続きを始めるしかない。、もう金輪際、あなたとの思い出に頼るのはやめにするよ。あなたに届かなかったとしても、それでも他の誰かには届いてしまう。誰かの生をすら具体的に変えてしまう。不思議だな、不思議な劫罰だな。それでもわたしは、この仕事を続けると決めた。もしかしたら、あなたと会う前から始まっていたのかもしれない。それどころか、今までの生のすべてが下準備だったのかもしれない。それならば、まだ手に取るべき多くの武器がある、まだ負うべき多くの傷がある、まだ耕すべき多くの畑がある。それなら何度でも、何度でもこの夜に帰ってくるだろう。また掴み取ってやり直そう。掴み取ってやり直すんだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る