χορός

試金

第1部 九天不可測

01 糾歌前夜


 そんなことをして何になる、という例の言葉が、襲いかかってきそうになる、のを、ころす。お前はそいつにさわれないよ。けるのには慣れてるんだ。これでもう何千回目。何万回目でもいいんだけど。しかしこう何度も来られてはたまらない。り慣れたからといって血の匂いがるわけじゃない。漁師は慣れるのだろうか。釣り上げたまぐろだのかじきだのをぶちころすあの一挙に、慣れなんてものが垂れるんだろうか。マタギは慣れるか。猟師は。理容師は。なまものを切るのはどうしてこうもものういか。おのれの身を切るわけでもないのに。まったく、めしを調ととのえる度にこんなことばっか考えていてはたま……らない。でも腐る卵だけが溜まる。無精卵は二度死のうとしている。冷蔵され殺された無精卵が、消費期限とかいう人類が勝手に定めた余命のせいで、いま二度目の死を迎えようとしている。それはいかにも不憫なので今日中に使う。ベーコンとアスパラといっしょにフライパンの上のにえとする。魚を喰うのはいいんだ、やつらには感情がないから。とは『Nevermind』の最後に入ってる曲の歌詞だったはずだが、なら鶏肉を喰うのもいい。鶏卵も、もちろん野菜も。人間を喰うのはよくない。やつらには感情があるから。なら感情がない人間なら喰ってもいい。無精卵が食用に供されるのはひよこにならないからだ。生産性がないから。じゃあ、何も産まない人間も喰われて仕方ない。わたしのように。とか遊ばせてるうちにいつのまにかベーコンエッグが出来上がっている。これが魔法じゃないとしたら驚くべきことだ。熱とすこしの油だけで楕円のものがひらぺったく形容かたちをとどめるなんて。別のものになれるなんて。

 そんなんでく昼までつな。うるせえよ。といらえても、相手はない。そもそもそこにいない男の、何年も前の言葉が、なぜ今さら冴えるか。知ったことじゃない。人間の器官はしょうもないんだ。頼みもしないのに忘れてしまったことを、忘れたかったことを返してくる。燃費がいいってことだよわたしゃ、とよせばいいのに二投目を放り、そもそも昼じゃねえし、夜勤だし今日。との三投目が、快音とともにキャッチャーミットにはまる。のを、感じる。そうだよもう夜。今日はお前といたあの日じゃない。あの遮光カーテンのくらみで幾度となく迎えた朝でも。だからもうアウトだ退場しろお前は。しょうもない。女の喫煙をうざがる男なんてほんとしょうもない。しかも副流煙がやだとかじゃなくて単にガンが心配だからやめろだなんて、なんだ、なんでこうどうでもいいことばかり思い出すか。アウトだって言ったろ。退場。

 飲酒運転で殺された人はいっぱいいる。しかし喫煙運転で殺された人は有史以来いままで一人もいない。だから喫煙は飲酒よりも善良で健康的で公序良俗にかなったへきである。かくてこの定理は証明された。こんな簡単なことさえわからないやつらがいるんだ。なーにが電子タバコだか。ニコチン摂りたくないならタバコ吸うな。ふとりたくないならコーラ飲むな。死にたくないなら産まれてくるな。ひよっこめ。ニコチンどころかイッコチンにすら値しないタマナシめ。竿すらないのにタマナシとはこれいかに。ニコチンならボールは四つてことになるか。ならばアウトでなく出塁。フォアボールを四回やったら一点加点。スコアボードが音を立てる。加チン。カチンの森事件。これよくないな。口に出したらまずいやつだな。「ジョークを言った時に自分以外の人は笑ってない、みたいな状況が好き」って、東欧のラッパーが言ってたな。あのムックどこやったっけ。全部読んだっけ。

 醤油派か塩胡椒派かなんてしゃあしい問答を繰り広げるやつらが未だにいるが、疑いの余地なくブラックペッパーが正解である。そもそも卵は味をつけて喰うものじゃない。カラーひよこじゃあるまいし。プラスチック製の食器をスポンジでこする音はひよこのさえずりに似て……いない。まだ耳が醒めていないか。かけるか何か。いや、そんな時間はない。それよりらなければ、まだ一向にかたがつく気配が無いのだから。しかし何から始めたらいい、一体なにを録りたいのかもわからないのに。何を唄いたいのかさえ。たい、というのがそもそも間違っているか。そうだそもそもわたしはこれを一度もやりたいと思えたことがない。ならなんでやろうとしている。なんでラップトップの電源をつけた。そのまま天気予報でも見て数分間すごせばいい。あるいはニュースのコメント欄に何か知ったふうなことを書き散らすのでも。それを誰が責めるだろうか。だがおまえが今しようとしていることは、責められるべきことではないか。頼まれもしないのに、自分の言葉をって残すなんて。それを電脳の騒擾に投げるなんて。誰かに届くと、本当に信じているのか。どうせ、ただでさえきりのない聞き手のいないさえずりのひとつとして没して終わりではないか。どうせ、っていうこの言葉だいきらいだな。自分を低く見積もって、そのくせ何もしないことに居直っていやがる。いや、何もしないことよりが悪い。その何もしないは、いつか誰かの声をあっさつするのだから。この時代の声は、誇りを失くした者どもが投棄した防音材の山で遮られている。これはいい詞かもしれないな。録ろうかな。そうだ、たしか卵のパックも防音材として使えるんだよな。このふたつくっつくかな、なんかこうぐさっときて、笑える感じに。


 mic check 1, 2. Yes yes y'all, and you don't stop. Keep on y'all, and you don't stop. MC93 in da place 2 B.


 キュウゾウ。それはわたしの名前じゃない。わたし以外の、どこかの誰かの名前だ。この名前で出すのはわたしのものじゃない。わたしの栄誉はそこにない。それでいい、それでこそいい。誰かに届くとは限らない。しかしきっと別のものにはなってくれる、ついにわたしのものだとは言えなくなって、顔も名前すらも失って。


 わたしの言葉は誰のものでもない。誰が言ったのでもいいんだ。もちろん、あなたでも。あなたが一体どこの誰をさすのかさえ、わからなくても。誰の言葉でもいい。本当に大事なことは、誰が言ったっていいはずなんだ。いつの時代のどこの偉人たちの名言集だとか、くそくらえだ。そんなものを集めて何になる。私は何も言わない、誰が言ってもいいこと以外は。こうしてまた始められる、誰かが偶然にやめたことの続きを。続きを始める。始めよう。




変転の詩 (The song NEVER remains the same)

 第30回 執筆:こくはかる


 当時三四歳の大江健三郎は、『なぜ詩ではなく小説を書くか』と題された随筆において、「詩の言葉の能力の不在によって、ついに詩とはならなかったもの」を「あらためて小説の言葉によってとらえなおすことをめざして様ざまな努力をした」ことについて語っている。引用しよう、「小説を読みおえたあと、閉じられた本は、落花生の殻の堆積のごときものである。ところが詩は、真にそれを読んだ者にとっては言葉の実質と機能がそのままひとかたまりの錘となって、肉体=魂のうちにしっかりくいこんでしまうのである。そこで、詩には、読みおえるということがない。いったん人間が詩に遭遇すると、その出会いはつねに進行中である」。

 端的に詩を「燃えるトゲ」にたとえる大江はしかし、彼岸に存ずる対象として憧れるのでも、此岸に属する道具として玩弄するのでもない。どちらの態度も彼は採らない。小説家たる大江は宣する、「この内なるトゲを、外部のものとすべく小説の言葉にとらえなおしたいと考えるのが小説制作の操作である」。もっともそれは、「小説の言葉と詩の言葉の癒着を意味しない」。彼にとってふたつの言葉は〈狂気〉に抗すべく紡がれるものであり、「肉体=魂の死にあたって、内在化された詩がその人間の唯一の支えであるとすれば、魂の死である狂気にたちむかうための支えもまた、その狂気の接近を恐怖と苦痛とともに見すえている者にとって、かれの内部の錘、あるいは燃えるトゲたる、詩にほかならないはずではあるまいか?」と反問しさえするのだ。

 まことに、驚嘆すべき洞察である。問いの立て方自体が非凡であるのはもちろんのこと、小説の言葉に安らぐことへの峻拒をもって「魂の死である狂気にたちむかうための支え」として詩を位置づけるとは。このエッセイが西暦にして一九六九年、まさに七年前にキューバ危機をけみしたばかりの時期に書かれたことはもちろん偶然ではない。歴史的・政治的な狂気に対抗するための詩。これを五〇年後の現在に生きる我々自身の問題として引き受けることが不可能であるとするのは、それは地理的・歴史的に限定された言語を自明視した書き手ども、つまるところ市場原理を前提としたコピーライティングなどを何か価値ある仕事だと思い込むことができてしまった幸福な働きアリくらいのものだろう。我々が作詞家と呼ぶ職業の中には、資本家のために「ツバサ広げて」だの「トビラ開いて」だの「キミを守りたい」だのの定型句を挿げ替えて制作した歌詞なるものを奉納することで生計を立てている、言葉を搾取され迷妄を錯視し酩酊によりビルの屋上から落死したほうが世のためだと言える人々も大勢いるのだから。ふたたび大江の言葉を銘記しよう、「いったん人間が詩に遭遇すると、その出会いはつねに進行中である」。そう、言葉を固着し膠着させる者は詩人ではない。作詞家ですらない。チクタクチクタクと拍を打ち続けるだけならメトロノームで充分だ、ということは演奏家なら誰でも知っている。しかしわれらの業界では、無味乾燥な定型句を打ち続けるだけの者がさも一人前かのように錯誤されているのだ。言おう、音楽を言葉で窒息させるだけの仕事など、作詞と呼べはしない。音楽に敬意を払いもせずに言葉を押し付けて収入を得ている者など、詐欺師と同じだ。


 こくさん、今回も飛ばしてますねえ。詩と詞の区別がずーっと曖昧なまま進むのと、前半引用ばっかで後半は啖呵だけぶつけて終わるってのが、彼女らしいよね。ははは。井出さん読みました? 読んでない。なんでです? もういい加減、読まなくてもわかるから。どうせ僕らみたいなのがこっぴどくやられてるんだろう。あはは。ぼくら、なのかはわかりませんけど。しかしまあ、どうなんだろうね、あのけんかいさ。優れためいの人だってことは、わかるんだけどねえ。若さゆえの、とか言いたくはないけど。若くはないでしょう、私のいっこ上ですよ。二〇代が若くないとか言われたら困るよ。じゃなきゃ「若手作家」がいなくなる。で、僕みたいなのについた箔の価値もなくなる。あはは、逆にですか。しかし、社内報の連載とはいえ、ここまで好き勝手書かせてもらえるのは一つの甘やかされでもあるってのを、本人には解ってもらいたいよね。でもこれ、書籍化の話も出てるみたいですよ。まじ? ええ、出版部の噂で。へえ。そこまでねえ……うん。どうしました? いや、実際ね……実際、彼女は作詞業あっちじゃなくてコラム書きこっちが本業なんじゃないかって思う時あるよ。どういう? ほらたとえば、モリッシーってデビュー前はバンドじゃなくて雑誌に投稿ばかりしてたじゃん。今度その頃の伝記映画やるらしいじゃん。知りませんけど。そうか。いいんだけど。でまあ、つまりさ。はい。言いたいのはさ……結局、だプロじゃないってことなんだよ、彼女。


 お送りしたデモは。「お送りした」はおかしいだろう。自分の行為に美化語を使ってどうする。せめて「お送り致しました」「お送り申し上げました」だ。はい、拝聴しました。いかがでした。実務的な面でひとつよろしいですか。仮歌はありましたが、オケはこれから手直しが入りますか。いえ、あれで完成形です。なるほど。それ以外は特には。そうですか、では詞のコンセプトについて、なにかご不明な点などありますか。企画書には目を通しました。そのうえでいくつか質問が。どうぞ。この「とろ~りさらさわ触感」というのは、どのような意味ですか。ええと、そのままの意味です。そのままとは。あの、あくまでキャッチコピーというか。これ自体に大した意味はないですよ。キャッチコピーにこそ意味がなくてはならないと思うのですが。差支えなければ、このコピーライティングを担当された方のお名前を教えていただけますか。真意を問い合わせたいので。でなければ、作詞家としてもイメージが掴めかねます。あのね、こくさん。そこまでしていただかなくてもね、たった九〇秒の曲ですから……九〇秒。音楽でひとりの人間の生を変えるには充分すぎる時間だ。それだけの時間を占有して、広告屋おまえらは一体何を垂れ流してる。大した意味もないと知りながら、次から次へと、一体何に許されて。わかりました。よろしいですか。はい。ではですね、企画書には書き漏らしていたことですが、今回のはですね、弊社のイメージを刷新する新機軸を打ち出すということでですね、かたくるしい、無味乾燥なと言いますかね、ああいったパッケージではなくてですね、もっとフェミニンな感じにしたくてですね。ですねが多い。官僚か。はい。CMのイメージもそういうふうにということで話が進んどるのでですね、ぜひとも歌詞のほうもこう、母性的な感じにしていただきたいと。母性的。とは、具体的には。牛乳石鹸ということでですね、女性にもお児さんの肌にも優しいと。そういうのを押し出したいのでですね、こう優しい……わかりますか。わかりかねています。ええとですね、つまりですね、女性らしくしていただきたいと。女性らしく。はい、いやあの、詞のほうをですよ。わかっています。初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。大筋は把握しました。大丈夫ですか。はい。初稿を三日以内に送付いたしますので、以降、ブラッシュアップを経て完納ということでよろしいですか。はい、ぜひともそうして頂きたく。では。よろしくお願いいたします。はい。


 しし詞々ししで出来ている。神とはロゴス、つまり合理性。物事の存在の根拠を成す、ことつかさだ。使い方一つで身を切る。どころか、誰かの生を具体的に破壊しさえする。それなのに。

 母性的。優しい。女性らしく。

 こんなに言葉が雑な奴らのために、私は言葉を使わなくちゃいけないのか。




 ごめんバイトくん四人くらいもらっていい? おーあのさ、あそこのさ、一九番ゲートの階段の上のとこあるでしょ? そうそう。あっこにイントレ建てるからさ、先にこの台車のジャッキ全部並べといてほしい。ジャッキって何ですか? えーとね、あーそこの君きのうもいたよね? はい。じゃあ君あと三人連れてね、あっこに。通路に並べていいからそうそう。よろしく。


 だってほら、日本で初めて野球場でのコンサートやったのって西城秀樹じゃんね。さいじょうひできって誰ですか? えっ知らない? 聴いたことない? うわー、世代だなあ。さんも私ととしかわらないでしょ。だっけ。「だっけ」はおかしいでしょきゅうじゅうさん年生まれなのに。そっか。まあアレだよ、自分が生まれる前のことにもアンテナ立ってるかどーかつう話ですよ。おー、さすが正社員は言うこと違いますねえ。いやそれ関係ないから。でさあ、そのYMCAのカバーがまあ見事に脱政治化されてんのよ。もともとゲイの寄り合いの歌なのにさ、関係ないことにしてやがんの。だからこの機会にさ、供養つか当てつけつーか、試しにレインボーパレードででもかけてみたら本来の意味でアガると思うんだよね。れいんぼーぱれーどって何ですか?


 エイムズのバイトさーん。全部で一七じゅうしち人? だよね。はーいじゃあ一時間休憩なんで、各自お弁当ひとつずつもらってくださーい。お茶とジュースはあっちにあるので。弁当ガラはかならず所定の場所に。あと、ちゃんとフタに輪ゴムかけて棄ててくださいね。


 コンサートがあるたびに人工芝養生ようじょうしなきゃってのも、難儀な話だよなあ。もともと音楽するための場所じゃないからな。でもべつに芝あってもいいじゃんね。なんかな、聖域みたいな意識があるのかな。土俵に女が足を踏み入れるなんて、みたいな国だもんな。それは関係ないか。あるか。あの、と。ちょっといいですか。はい。やべっわたしトイレの場所とか言い忘れたか。どうしました。あの、さっきフォークリフトの運転しとらした人ですよね。そうですよ。バイト中ずっと気になってたんすけど……そのTシャツ。はい。あ、これ? 自分で自分の胸を指差す。ファンカデリックの『Maggot Brain』。ですよね。ですよね! うわーっ、あたしこれ着てるひと初めて見ました! えっ、やあ、だってこの仕事服装自由だし、と何を言い訳めいたことをわたしは。ですけど、だいたいスタッフさんって会社のロゴ入りワイシャツとか前にあったイベントの記念Tシャツとかじゃないですか。まあね。そん中でそれ着てる人すごく目立ってるつーか。わあファンカデリックのTシャツ着とらすって、あたしずっと見てたすもん。あはは、そうなんだ。わたしあんま詳しくないんだけど。詳しくないのにTシャツ持ってるんすか? いやこれは、彼氏がさ。うわ、言っちゃった。元カレからもらったやつでさ。へえ、彼氏さんどんな人でしたか? どうもとつよしみたいな感じでした? いや。こういち寄り? そんなキレイなわけない、どっちかつうと関ジャニ寄り。しょうもない奴だったよ。いや違うよ、関ジャニがしょうもないって言ってんじゃないよ。解ってるすよ、ははは。ていうか珍しいね、若い女の子がそんな音楽好きって。ええ珍しくないすよ、だってJBの討論集とかMJの裁判記録とかジョージ・クリントンの自伝とか訳してるのって、全部おなじ女の人っすよ? そうなんだ。ファンカデリックね……なんだっけ、ヴァンヘイレンみたいな名前の。ヘイゼル? そうそう、その人のギターがすごいんだってね。エディ・ヘイゼル。あの人は、あの人は──えっ。何。もしかして、泣いてる。あの人は、もっと生きるべきでしたよ。わたしが泣かしたんじゃないよな。いやあ、でも、ちょっと、早すぎたなあ。もし生きてたら、もっといい感じの仕事してたはずなんすよ。うん、そう、なんだ。だってそれのタイトル曲う、とゴム手袋を着けたままの左手で左目をぐしぐし拭いながら、右手でわたしの胸を指差す。その曲のソロ、クリントン御大おんたいが、レコーディングの直前に「今お母さんが死んだと思って、そのつもりで弾け」って言ったんすよ。ヘイゼル毎回スタジオに送り迎えしてもらうほどのお母さんっ子だったのに。御大ひどいじゃないすかあ……やることが……そうだったんだ。いや、わたしに泣かれてもな。すげえ名演だって言われてるし、実際あたしもそう思うすけど、でもね、いま生きてたら、もっと良くなってたはずすもん。うん。はあー、と大きな溜息。よっぽど好きなんだね。好きつうか、大事なんす。そう。すんませんいきなり話しかけちゃって、どうしても気になったんで。はは。お弁当どうぞ。あ忘れてた、喰わなきゃっすね。なんかこの話一晩中ひとばんじゅうできそうで。はははは。やっぱこのバイトって音楽好きな人が来るんだね。そう、かも、っすね。なんだろうその。それじゃ。あ、お弁当ありがとっす。うん。いや、それ会社が買ったやつだから。あはは、そうでした。




 電話くらい寄越よこしなよ。したけど。着いてから、来るの前提で、ってのやめてって言ってんだよ。メールで充分だと思ったし、そもそも電話で話すの嫌いでしょう。まあ、耳痛くなるしね。でも夜勤明けでシャワー浴びてさあ寝ようってときに会って話したい三〇分でいいからって言われるのよりマシだっての。何飲む。コーヒー。あ午後ティーの無糖のやつしか無いわ、これでいい。いいけど。露骨にいやそうな顔すんな。わかるよ、午前に飲むの抵抗あるんだろ。いいじゃん、休みの日くらいカフェイン控えなよ。

 湯呑ゆのみもうひとつある。あー、歯ブラシ立てのマグカップならある、けど、あれたぶんきたないよ。ペットボトルから直接飲みな。ひとりぶんの食器しかないとはね。誰かのぶんの食器があったらどうするよ。誰かと同棲でもしてたら安心した。特には。ただあなたの最近の暮らしぶりなら、それくらい所帯しょたいみててもおかしくないと思っただけ。づかいなのかあげつらいなのかわからないんだ、この人の文句は。まあ相変わらずで安心したねお互いに。あなたは変わったけどね。ははは、髪型がっすか。ええ。それ、似合ってない。こういうことを、笑いもせずに言う。へえへえ、わたしゃ最初からはかるさまとは頭の出来が違いますでよう。作詞家先生には、連日ヘルメットをかぶって仕事する女の頭のかたちなんて、わからないんでしょうけどよう。こういうおどけ方を嫌う人だ。そういうおどけ方は嫌い。ほらね。

 本題。なに。さっさと本題入ろうよ、電話で話す時みたいに。ねむいんですーこっちはー。すう、と一呼吸置きながら、右手の薬指で顎筋をつうとなぞっている。あっめんどくさい話になるきざしだ、とはさすがに直感でわかる。

 あなたのね、作ったもの──このあなたというのは、りゅうではなくて、キュウゾウとして置き換えるべきかな。そうだね。キュウゾウの作ったものについて話すには、あなたに直接云うしかない。そうだね。そしてあなたには、キュウゾウがいつのまにか収穫していたものを持ち帰ってもらう必要がある。と、いきなりの難詰なんきつ口調くちょうと云われた内容との奇妙な乖離に、みぎまぶたふるえる。

 率直に訊くけど。、あなた気付いてないの。ここ数ヶ月で作った曲のなかで、何が起こってるか。きづいてって何に。相変わらずドープだなあとは思ってますよ。そういうことじゃなくて。あのね──大きくとって一年前としましょうか。あの時期に出していた曲、贔屓目にも練習というかリハビリとしか呼びようのなかった作品とは──はは、言うね。格が違ってきてるってこと。そりゃどうも。、真面目に聞く気がないのならもう帰る。こういうとき急に子供っぽくなるんだ。勝手に来て勝手に帰る、悪いことだとは思いませんよ、とはさすがに、言いませんよ。聞くから。と短く言うと、右手の薬指で顎筋をつうとなぞる例の癖、からの一挙動で、ペットボトルの内容物が一気にのみくだされる。ふう、の一呼吸が散ると、いちもんにこちらを見据えて言う。


 、あなたはばれたんだよ。ばれた人間は、かなきゃいけない。


 とっぴょうしが、なさすぎるよ。笑わずに言えたことをほめてやりたい。よばれたって誰に。いかなきゃいけないって何処にさ。それにあれを作ったのはキュウゾウであって、わたしじゃない。持ち帰ってもらう必要があるってさっき言ったでしょう。その言い方もわかんねえんだよ。なんで普通に言わない。と、やってしまった。これは、言っちゃいけないことなのに。普通に言え、わかりやすく説明しろ、という類の、分別顔ふんべつがお下げて実は無神経なだけの言葉に、際限無しに傷つけられてきた人だ。だから、言われると急にむずかる。それは、やめて。それは見せないで。ごめん、言い直す。普通に言わなくていい。いいけど、何を責められてるのかわかんない。責めてない。持ち帰れってのは責めでしょ。引き受けるべき、って意味。同じ意味だよ。少し違うはず。そうかな。

 なだめは効いたようで、とりあえず湯呑みに冷茶をこぽこぽと注ぎながら、いたたまれない沈黙をぼかそうとする。著作家の伝記を読んでるとね、とまた別の角度から切り込むつもりらしい。ある時期に、その作家が終生しゅうせいまでのスタイルをものにした、スイッチが入った、って瞬間が、かならず記述されてるものなの。そうなの。たとえばベケットの──なんて書いてあったっけ──そう、「書くことの狂熱」。ああ、二次大戦直後だっけ。レジスタンスやってたんだよね確か。こくと頷いて続ける。あなたにも、それが来たんじゃないのかな。らしくもない弱気な語尾。「唄うことの狂熱」のようなものが、確かに、数ヶ月前の楽曲から兆してきてる。音楽的に分析でもできたらいいんだけど……でもあれは、そうとでも謂わなければ説明できない。そうだね、説明できない。違ってきてたのは自分でもわかってたよ。とは、言わない。ばれたってそういうこと。こくと頷いた、のち、なぜか微笑しながら続ける。私はばれなかったよ。こんな笑い方は初めて見たな。私には来なかったものが、あなたには来た。ちょっと意味わかんないな。どう考えても逆でしょ。そちら売れっ子の作詞家先生、かたやフォークリフト運転士ですよ。職業がなんだっていうの。いきなり微笑がなげうたれ、裸形らぎょうのなにかがかれる。、あなたが人知れず書いてきた詞に比べれば、私が書いたものなんか──クソにも劣る。こういう云い方はしない人だ。躊躇もあったろう。でも、云った。適切な表現だったからだろう。それクライアントに失礼でしょ。私はあの人たちが望んでるものを提供してるだけ。職業的義務は果たしてる。はは。クソは金で金はクソってか。いいよ今時フロイトとか。

 ふう、と一息。どう応えるべきかな。うん、やっぱこう言うしかないな。買いかぶりすぎだよ。買いかぶりっていうのは適切かもね。私はあなたの、一切金にならない詞を褒めてるわけだから。ぶははは、いきなり言葉尻おっかけまわすな。でもそういうこと、逆転してるの、ここでは、あなたのと──わかったわかった。嬉しいよ、すごいって言ってくれるのは。でもさ、それとさ、はかるが仕事で作ってる詞がクソに思えるのとはさ、関係ないって。ある。ないってー……

 私は具体的に市場価値のことを言ってるの。もしね、私が書いてるような詞が見向きもされなくなって、あなたのような詞ばかりが価値を持つようになったら、どうする。そんな日は永遠に来ないから安心していい。これは仮定の話だから何を言ってもいい。ああもう、これだからな。こういう癖がある人だ。自分の価値を減殺するために無闇に仮定法を使う。悪い癖、とは言えない。しかしそれは一種の押し売りじゃないか、自分を下げるために相手を上げるなんて。あまつさえ、自分しか持ってない才能を相手に見出してあなたは私より優れているなんて言うんだからたまらない。

 じゃあ。お互いの饒舌をまずもだす、ことから始める、べきだと思う。お望み通り、仮定の話をしようか。呼吸が止まる。目の前で見据えていたはずの双眸そうぼうが、いつのまにか隣にきている。もしね、はかるが言った通り、わたしの──キュウゾウの詞がすごい価値を持つようになったとしてもさ。こくと頷く。すぐに何も書けなくなるよ。隣のりょうまぶたが見開かれる。次は、もう書けなくなるよ……他人の思惑を考えるようになるよ。緊張に耐えられなくなって、でも強烈な光にさらされて、権力欲まみれになってさ。だって、こうして仮定で話すことさえ権力欲だよ。自分の作ったものに価値があったら、なかったら、とかさ。わたしは、そういうのはもう、いい。


 沈黙。

 もう書けない、って思ったの。語調が急に変わるのは、今日何度目かだな。もう書くわけにはいかないって思ったの、今まで通りには。作詞家やめるってこと。正確には違う。でも今まで通りの書き方を今すぐやめなきゃいけない、って、あなたの詞を読んでたら……キュウゾウのね。キュウゾウは──は、なぜ書くの。答えられる。答えは知ってる。でも、たぶん、それを口にできるほど、わたしは強くない。

 その「なぜ」をしなよ。と、代わりの遁辞を投げながら、側頭をぺしと叩くだけにする。行き詰まってるのはわかったよ。とりあえず一日まともに休みなって。これから三日間いるんでしょ。わたしも明後日休みだからさ、その時ちゃんと話そう。夜勤明けの頭で応えられるのはこれだけ。こく、と頷こうとする顎の軌道が、曖昧にれていく。頰にいたたまれなさの影がさす。ごめんなさい、は言わせない。空になったペットボトルで頬をぐりぐりするの儀である。ほい、今日はもうさっさと帰れーい。こちとら七時間後に出勤じゃーい。うん。宿どこ? 地行浜じぎょうはま。珍しいね。博多駅まわりのビジネスホテル埋まってた? いや、とくに博多に用は無いし、どのみち電車一本だし……もしかしてヒルトン? そう。あじゃあ、わたしが入ってる現場と近いよ。たしか良いホテルだよね泊まったことないけど。そうでもない。そっか。そう。

 この時間帯なら大通りよりも区役所通りのほうがタクシー拾いやすいから、と大雑把に道筋を示し、見送る。がたん、とドアの音が妙に重く感じる、のを、疲れのせいに、する。ぬるくなった湯呑みの内容物を喉に流し、ベッドに倒れ込む。


 あ、ひとつ大事なこと言い忘れたな。もう書くわけにはいかないって思った、今まで通りには、ってさ。それだよ、はかる。わたしもそうだった。のことがあってしばらくのあいだ、まさにあんたが助けてくれてたあのあいだ──わたしもずっとそうだったんだ、もう今まで通りには──




 まず、基本的なことから確認するね。近代小説の始まりを告げた『ドン・キホーテ』。あの小説は明らかに騎士道物語のパロディとして書かれてる。παρω の δια、並行する言葉として。知っての通り、セルバンテスは騎士道物語に引導を渡すためにあれを書いた。金輪際あんな馬鹿らしいものに惹かれる人がいなくなるように、って。でも、セルバンテスは明らかに騎士を愛してたよね。そう。貶めて嘲笑して突き放したはずの騎士に対して、それでも隠しようのない何かがほとばしるところ。そこがあの本の一番の読み所。だから「私はこの本の作者じゃありません、市場で買ったものを翻訳してもらっただけです」なんて無茶を言い出さなきゃいけなかった。セルバンテスは、愛してやまないものを、殺そうとしたんだよね。殺したくてたまらないものを、愛さなきゃいけなかった。そう。その結果として新しい子供たちが出来てしまった。小説の読み書きを万人に開放する、近代小説という名の、恐るべき子供たちが。

 そもそも、騎士道小説の源流である宮廷愛amour courtois。この「愛」がアラビア起源だってことはもう知ってるね。一二世紀あたりの南仏なんふつだっけ。トゥルバドゥール、女性への高貴な「愛」をうたう吟唱詩人があらわれて。そう、トゥルバドゥールの語源がそもそもオック語。 trobar, 喜びや悲しみにより心が動かされること。その語源はアラビア語の tariba で、その関連名詞である tarab は、喜びをもたらす芸能、とくに音楽を意味する。歌だ。そう。リュートを奏でながら貴婦人への愛を吟唱するトゥルバドゥール。西欧において初めて、女性を美の対象とする「愛」があらわれたの。ギリシアの「エロス」はそもそも少年愛で、女性は相手にされていない。トゥルバドゥールの「愛」を準備するには、バレンシア、カタルーニャ、ラングドック、プロヴァンス、ロンバルディア、つまりイスラームとひとつになっていた時期のロマンス語圏が必要だった。アルビジョア十字軍があれだけ殺しまくったのって、これを恐れたんでしょ。そう。イスラームによって花開き始めていた新たな「愛」の力が怖かったから。カタリ派だって、アラビアからの影響とピレネー山脈における土俗信仰が融合していた。そんな「異端」は絶対に殺し尽くされなくてはならなかった。

 そうして南仏におけるトゥルバドゥールの事跡は灰燼に帰したけど、文体は死ぬことなく残った。一三世紀、ムルシア生まれのイブン・アラビーという名のスーフィーが、女性への愛を唄ったの。抒情詩集『渇望の解釈者』、神と現象界をつなぐ普遍的知性’aqlへの愛。このスーフィーから決定的な影響を受けたのが、ダンテ・アリギエーリ。一四世紀に彼が書いた『神曲』は、明らかにイスラーム思想家の影響下にある。そもそもダンテがベアトリーチェに導かれて昇天する場面は、ムハンマドの昇天伝説を記した『ミーラージュ』と同じ。つまりトゥルバドゥールの「愛」は、一四世紀にイタリア清新体せいしんたいの詩人に引き継がれた。

 ちょっと寄り道しましょうか。そもそもなぜダンテは『神曲』をトスカーナ方言で書いたと思う? 帝国の真正なる言語、ラテン語で書くこともできたはずなのに。彼はラテン一神教の栄光をうたっていた。しかし、自分の作品は俗語で書いた。結果としてローマは後に世俗国家として分裂してしまうことになる。つまりダンテは愛する世界を自分自身の言葉で引き裂いた。なんだか、すごく似てるね。セルバンテスと。

 話を戻しましょうか。まあね、西欧人でも日本人でも、イスラームとユダヤを都合よく無視したうえでヨーロッパこそがギリシア=ローマの正当な後継者だって前提で話を進めてる人間って、だいたい馬鹿だよ。九世紀から一二世紀にかけての大翻訳活動がなければ、ギリシア=ローマの叡智は伝えられることなく潰えていた。一二世紀までのヨーロッパ共通語ってアラビア語だったんだから。そしてさっき言ったように、南仏はアラビアとの特異的な混淆地点として、トゥルバドゥールの「愛」を産み育てた。ダンテに着想をもたらし、セルバンテスに憎悪をすら抱かせたあの「愛」を。そして「愛」を伝えるための手段は歌だった。

 だからね、歴史的に考えて、小説の文体の基礎をなすのは散文よりもむしろ、歌だってことになる。詩ではいけないし、かといって完全な歌になってしまうことも許されないという、謎の闘いが始まったの。謎って言っちゃっていいの。謎だよ。こればかりは合理的に説明がつかない。だって、小説って未だに体系的な学問の対象にされたことがないんだよ。そりゃそうだよ、体系的な学問てのは一八世紀以降のゲルマンだけの自家薬籠だもの。かわいそうなヘーゲル。彼がなぜあれほど詩を、歌を、小説を、つまり藝術を侮蔑したか、わかるでしょ。怖かったんだよ。それは彼の体系の果てにあるはずのゲルマン的国家とは無縁のものだから。混ざっちゃってるんだから、ラテンだけじゃない、イスラームとユダヤの血までもが。トゥルバドゥールの歌がそこに鳴り響いたら、ヨーロッパなるものがそもそも混血だったってことがばれちゃうんだから。だからあれほどまでに詩を、歌を、小説を、侮蔑した。

 ジョイスはこのことを完璧に理解してたよ。彼が最初に出した詩集の名前を思い出してみればいい。最後に出したあの小説の名前も。あんなに音楽してた作家っていないんだよ。小説は詩歌と無縁ではありえなくて、しかし詩歌そのものであることもできない、そんな背中合わせの苦闘のありさまを一番よく解ってた人だった。そのうえで彼は書いた。何を。神話から逆算された人々の卑小な営みを、そして世界史を。ダンテとヴィーコの影響から出発した、しかし彼らの昇天にも循環にもらない別の軌道の、歓びと字酔じよいの世界史を。

 まとめようか。ダンテ、セルバンテス、ジョイス。新たな文学の形態が生まれるとき、そこには必ず新たな世界が生まれている。歴史的にも、政治的にも。そして小説の文体とはとりもなおさず歌であり、その響もしは現体制の維持者たちに恐怖をもたらし、ついには殺し殺される、血みどろの戦争さえも引き起こしうる。南仏のトゥルバドゥールたちがアルビジョア十字軍に虐殺されたように。

 だからね、。今あるこの世界なんて、歌ひとつで簡単に覆っちゃうんだよ。世界は言葉で出来ている、出来てしまっている。じゃあ、世界を変える言葉の力は、二一世紀の今ではすっかり喪われてしまいましたなんて、そんなこと誰が言い切れる? 新たな世界を生むための新たな小説、それは在りうる。書きうるし、書かれるべき。

 は、それを書こうとしてるの。書こうっていうより、もう書いてる。でも独りで書くわけじゃない。文体は、個人で担えるものじゃないから。わたしだけじゃ足りない。、あなたを含めても、まだ足りないのだけど。それでもわたしは起こしてみせる。ふるい世界を反故紙にする、新たな世界を劃然かくぜんと書き付ける、今までの一切を恥じ入らせる思考と想像のスタイル・ウォーズを。あいことの戦争。まいおとの戦争。次の世界大戦は、当然そうなるべき。だし、してみせる。


 そうだった。いつもこうだった。熱に浮かされたようなことを、しかし異様に実証的な歴史的事実とともに、老婆が編み針でひとつひとつ毛糸を織り上げるようにして。と話してると、詩句verseの語源は転回vertereであることの意味がわかる気がした。彼女の存在自体が、ひとつの、いやひとつではない、一点を指すおかしな力に導かれてきた違う土地からの言葉たちのようだった。彼女のしし詞々ししだった。

 だから、わたしは、振り落とされたんだな。ついていけなかった。結局のところ、わたし自身は歌にはなれなかったから。覚悟が足りなかったんだよ。そうだ、思えばあのときあんな問いを投げた時点で、すでに運命は決まってたんだ。


 理論の、ていうか、理屈の話はわかったよ。でもさ、がいま言ったようなことを、具体的にどうするのか知りたい。そんな野放図もない世界をさ、どうやって実現させるっての。


 あの問いに彼女がぶつけた答えの意味を、わたしは未だに理解できない。そもそも答えですらなかったから。質問文に質問文で答えるのは反則だ。しかし、これは誰の言葉だったか──「答えから問いを生み出しうる者だけが、藝術家と呼ばれるに値する」。そうだ、は、まさにその通りの人物だった。


『桃太郎』って、凄い小説だと思わない?




 あとは台車まとめて全部入口に逃がしといて。トラック来たら、チラシ折りのバイトくん半分動かして出してもらうから。あーい。

 ねむいなー。だからってカフェインに頼りたくないしな。うわ、コカコーラもエナジードリンク出したのか。ガラナ入りコーラて。なんかみんな必死だなー、あ、すいません。ぶつかっただけ、だよね。あれ? 見憶えが。この子、昨日の。ファンカデリックの。

 ねえさん! ねえさん? 今日も入ってたんすね! いやー、良かったす! うん、仕事だからね。きみも今日まで? きみとか言っちゃった。だって名前知らないしな。でもこの子、なんか昨日よりシュッとしてるというか。タオル巻いてたときは気づかなかったけど、ショートカットボブで前髪アシメなんだな。あれなんでチーク塗ってるんだろう。VANSのスキニーはまあいいにしても、Supremeのジップパーカーって設営バイトに着てくるにはちょっと勿体なくないか。そして首にはシルバーチェーンとステージパス……ステー、ジ、パス? そうす、あたし今日は出るんすよ! 出る? ライブに? そうす、ステージ向かってかみのギターピット、っても客席からは直接見えないんすけどね。衣装替えの繋ぎのインストでちょっと映してもらえるくらい。そこでギター弾いてるっす。あなたが? え、今日るのK-POPグループだよね? そう、いや、あの人たちマジにミュージシャンなんすよ! ツアーで周る国ごとに、現地のミュージシャンを起用してるんす。毎回同じじゃ意味ないからって。だから普通のK-POPならしないくらいバンド隊に予算使ってるんすよ。そうなん。珍しいよね、大体ツアー通して固定だよねこういうのって。そうなんすよお。あたし楽器屋の教室でセンセーもやってるんすけど、そのツテでオーディションの誘いがあって、行ってみたら受かって出てくれって。そんで全国回って、今日ツアーファイナルなんす。だから絶対成功させたいんすよ! そうなんだ……て、え、ツアー帯同してない時はバイトで設営入ってたってこと? そうす。そうすじゃなくて。あの、楽器やってる人にとって手指って一番大事な資本でしょ? こんな怪我しやすいバイトやっちゃだめでしょ? それよく言われるっす。よく言われるんだ。ってことは聞く耳持たないんだ。いやでも、日払いだからあ。と、何か弁明めいた口調で言う。シフト組んでがっつり入る感じでもないからあ、と思って。そんなに金無いの? いやあ、それ話が逆で、稼いだぶん全部つぎ込んじゃうんすよ。稼いだの使いきるのが前提なんす。なんでいくらあっても同じなんす。そうなんだ。理屈になってない理屈だが、たぶん彼女にしかぎょし得ない何かがあるのだろう、こちらとしては微温ぬるく頷くしかない。いやーでも、一ヶ月かけて全国回っても、ファンカデリックのTシャツ着てたひとなんてねえさんくらいすもん。ちゃんと挨拶しときたくて。こういうとき「ライブやるんで観にきてください」ってチケット渡せたらかっこいいんすけどね、既に会場いますもんね。はははは、たしかに。いやあ、Pファンク好きなんだなーと思ってたらまさかミュージシャンだなんて。こっちこそ、スタッフさんにPファンクなひとがおらしたんでアガっちゃって。さすが福岡だなつーか。橘慶太の母親を生んだ土地だなつーか。ごめんあんま詳しくないや。えー!? w-inds. は今が全盛期すよ!? と、誰の新譜がやばいどの曲がやばいやっぱケンパーが起こした弦楽器機材界のイノベーションはものすごくて云々のとりとめもない雑談が数分間つづき、このツアーファイナル撮影入ってるんで、ソフト出たらねえさんに送るすよ。あ名刺あるんでどうぞ。と端正にPP加工されたカードを受け取る次第になった。あとでこっちに連絡先送ってもらえたらうれしっす。おーご丁寧にどうも。六〇年代サイケデリック調のデザインにLINEのidとメールアドレスの記載、その上に大きく「漁火いさりびイリチ guitarist, composer, arranger」の名乗りがある。えへへ、名字もPファンクなのかって感じでしょ。え? だって、漁火いさりびって Flashlight っすよ? あ、そういうこと。今日はねえ、セトリに一曲泣きのギターソロが入ってるんで、もうヘイゼル降ろすつもりで弾かせてもらうっすよ! あははは。でもあれだよ、ライブ映像あるあるだけど、長すぎるとカットされちゃうよ。ぶははははは! さすがに一〇分以上は弾かんすよ!

 と、挨拶のような雑談のようなれあいだった。開演まであと二時間か。しかし、きのう日払いの設営バイトできょうステージの上とはね。フリーランスのミュージシャンってそんな感じなのかな。いや、きっと彼女が極端すぎるだけだな。漁火いさりびちゃんか。演奏、聴けたら、な。


 あの、古市ふるいちさん。おう。一階アリーナ? の入口案内のポジション、開演してからの話ですけど、わたしがやってていいですか。ふう、と電子タバコ特有の香気が吐き出される。正社員なのに、か? はい。バイトの仕事だろ。ですけど、終演まで解体班うちらすることないし、どーせ一三じゅうさん時間シフトのあと一時間仮眠でまた七時間みたいなバイトばっか入れてるでしょ? 休憩させたほうがいいですよお。ほら、以前トイレから戻ったらぜんぜん違う席に通されたってクレームもあったし。あったけか。はい。IQOSでんしたばこにひをつけるやつに新しいカートリッジが挿入される。ちょっとの沈黙。ペンライトあるか。もちろん。そしたらな、二階席かみのL番ゲート。あそこ客の出入り多いからお前がやっとけ。二階席ですか。悪いか。いえ全然。わっかりましたあ。ありがとございますう。


 おつかれーっす。えとね君ね、休憩行っていいよ。え? いいのいいの二回めで。キョードーの人の指示ですって言えばいいから。こういうのはね、上手にサボんなきゃいけないの。はい。ういっす。通路あっちね。


 開演前のこの感じって何だろうね。とくに興味あるグループでもないのにな。そわそわしてるうちにこう、そう、こーやって始まるんだよね。さあ仕事だぞ漁火ちゃん、こっからは見えないけど。て、うわ。いきなりこんなんか。キック割れまくってんじゃん。お。おお、オールドスクールだねえ。かっけー。ファーサイドっぽい。ああ、やっぱ掛け合いやってくれるクルーって最高だな。 Yes yes y'all, あはは。そこ客に唄わすんかい。


 えー、こんなRケリーっぽい独唱バラードもやるんだ。レベルたっか。いまヒップホップとR&Bが一番よくできる国だとは聞いてたけど、ここまでかあ。お、あ、これ漁火ちゃんじゃんね。うはははは、弾くねえ。安直かもしれないけど、オリアンティっぽい。うめー。これ原曲にあるパートなのかな。気になる。


 あはい、いま二階です。いや、はい。はい戻りますんで。んーアンコールまでは無理だったか。君、そこの。うんもう少ししたらお客さん出てくるからドアお願いね。トイレ退席のひとの案内もね、よろしく。ちくしょー、音だけだってのにかーっこよかったなー。これは漁火ちゃんグッジョブだろー。撤収前に挨拶する時間あるかな。あるわけないな。メールで言うしかないかー。今から案文練っとこ。




件名:ねえさんです。


どうもどうも。覚えてるかな、先日名刺いただいたキョードーのリュウです。ライブ、おつかれさまでした!無事終わってよかったね。音漏れしか聞こえなかったけど、えらいかっこよかったです。映像できたら送ってくれるって話だったけど、ようつべであのグループの曲いくつか聴いてみたら思った以上によくて、もう普通に買おうかな。

きのうは音楽業界でやっていけてる人のお話聞けてうれしかったです。やっぱりかっこいいね。わたしもう20年くらい前のヒップホップしか聴いてなくて、最近の音楽にはすっかり疎くなっちゃったんで、なんかイイのあったら教えてね。

それじゃあ。


追伸:ほんと手指の事故には気をつけてね。わたしの友達にも交通事故に遭って演奏できなくなったドラマーとか、いるから。




件名:Re:ねえさんです。


メールありがとうございます!

うっかり名前すらきき忘れてたってことにいま気づきました(ू˃̣̣̣̣̣̣︿˂̣̣̣̣̣̣ ू)リュウねえさんもおつかれさまです。音漏れだとしても演奏聴いてもらえてうれしいです( *ˊᵕˋ)✩‧₊˚


きのうは打ち上げで飲みすぎちゃって、さっき起きたんですけど、あんなに音楽のことばっか考えてる人たちの仕事に携われてよかったなーってほんとに思います。これから博多の専門学校でクリニック仕事ですけど、あたしもあれくらい力を与えられたらいいなー。


リュウねえさんヒップホップお好きなんですね。日本のヒップホップもいけますか?もしご存知だったら恥ずかしいんですけど、キュウゾウって名前知ってます?まだあんま有名じゃないトラックメイカーでラッパーなんですけど、ヤバいですよ!あたし、さいきん移動中いつもこれ聴いてます。サウンドクラウドのアドレス貼っときますね。ねえさん絶対これ好きですよ!




 さん食べないんですか? あーごめん、今日のケータリング、にしん入ってるでしょ。あれ食べるとじんましん出ちゃうんだよね。けたらよくないですか? いや、同じ食器に盛られてるだけでさ、ちょっともう。だからわたしのは大丈夫。二個ほしいバイトくんいたらあげていいよ。うん。搬入口集合ね。おっけー。


 喫煙所で吸いたくない日ってのは、どうしてこう定期的に来るかね。人ぎらいなわけないんだけどな。めしどうしよう。たしかいま松屋並盛二九〇円じゃなかったっけ。いつまでだっけ。そもそも近くにあったかな。

 お。何。人だかり。オクトーバーフェス、には早すぎるよな。中洲ジャズ? へー、今年から百道浜ももちはま会場もできたんだ。もう中洲関係ないじゃん。観覧無料の音楽フェスがやたら裾野広げはじめるのって、なんかやな予感すんなー。

 出演:オバラゴーハラバンド。知らないな。オバラとゴーハラどっちが名字でどっちが名前なんだろ。どっちもか。ホール&オーツ的な。デュラン・デュラン的な。違うか。て、え、何これ。ステージ、しか、ないじゃん。えっ、あれがオバラゴーハラバンド? デュオなの? ジャ、ズ……? フォークじゃんか。うわーぬるい拍手。えっステージ降りちゃったよ。おわり? おつかれーよかったよって、何それ。ありがとございましたあ。さあ次の挑戦者あ、いらっしゃいませんかあ。なんだこれは。はーいあたし! あたし行くっすー。あ。れ。ねえ漁さん火じゃなちゃいんすじゃかーん!! 何してんの。あ今日もサポート? 出るの? いや違うすけど、ねえさん今日この会場の設営すか? 違うけど。飯屋さがしてたらここに来ちゃって、とか言うのは流石に憚られる。タバコ休憩すか。うん、まあね。外でしか吸いたくないときあるじゃん。そすか。あたし吸わないんでわからんすけど。そうだ折角なんで観てってくださいよ、いまオープンマイクやってるんすよ。オープンマイク? 自由参加ステージ、ってことだよね。そうす。なんとかバンドが出るってタイムテーブルにはあるけど。その予定だったらしいすけど、なんかバンマスの人が空港でしょっぴかれたらしくて。なんで。大麻所持で。マジか。なんで知ってるの。じつはあたしあのバンドのドラマーと知り合いで、その縁で観に来たんすけど、来たらしょぼーんとしてて、そんで経緯訊いたっす。で、結局バンドに支払われる予定だったギャラが丸々浮いて、代演お願いしようにも前の出演者みんなハネてて、これもうどうしようもないってんで、こうなったらオープンマイクで終演予定時刻までやって、この場に集まった観客の人気投票で一位になった出演者やつにギャラ全額渡す。てことになったっす。賞金付。っす。今までの挑戦者どれくらい。さっきので七組目くらいっすかね。ギャラ全額っていくら。パニックになったらあれなんでって理由で公表されてないっす。いくらなんでも雑すぎない運営!? 運営もハッパ吸ってんじゃない!? 可能性あるっすね。でも優勝したらゲンナマすよおー。あたし生まれが沖縄なんで、せっかくなんで一週間オフにして九州観光と帰郷同時にやるつもりだったんすけど、これで旅費全部まかなえるかもしんないじゃないすかー。つことで行ってくるっす。ちょっ、ええ。行くっても楽器どうすんのさ。あバンドの人ら、のセットそのまま使えんの? ふとっぱらだなー。うわーこの335さんさんご使っていいんすか! いいけど折らないでよお。あー普段ストラトばっか使ってるから折っちゃうかもしんないすね。はははは、投げても壊れないってか。あはははは。かるいなー。スタジオ気分か。実際リハーサルスタジオみたいなステージだ、ドラムキットとギターと五弦ベースとキーボード二機と、マイク、もある、な。えー!? あたしひとりでってことすか!? だって最低でもビートは欲しいじゃないすかあ。え、日隈ひぐまさん叩いてくれないんすか? いいじゃないすかせっかくだしー、とせっつかれてるドラマーが漁火ちゃんの知り合いのようで、セッション相手としてステージに上がることをやんわりと辞退している。そもそも賞金付オープンマイクが挙行されるきっかけになったバンドの一員が参加するのはフェアじゃないとの判断らしい。まあ、常識的だ。もーねえさんだめっす、みんないけずやわあ。関西の人なの。違うっすけど、いけずっすわあ。あたし独りでステージ上がったことないしい。そうだろね、弾き語りでコードまで全部自分で面倒見て、って感じじゃないもんね。でもこんだけ人集まってるんだからドラマーくらいいるよ、探してみたら……と振り返ったら、いた。ドラマーじゃなく、見知った顔が。

 ビートならあるじゃない。なんでいんの。いつからいたの。とこっちが問う前から、地行浜じぎょうはまだって言ったでしょう。と先制の答え。宿から歩いて数分、そこで観覧無料のフェスやってたら、そりゃ行くでしょう。まあ、そうか。こくはかるらしい物言いではある。でもビートならあるって何。どういう意味。わたし叩けないよ。との、たぶん白々しく聞こえてるんだろう物言いが、右手の挙動だけで制される。SoundCloudのアプリが立ち上がった液晶タッチパネル。そこには 93 のアイコン。見覚えがありすぎる。ビートならここから流せばいい。さっき、ジャミロクワイのオフボーカル流しながら唄ってる子がいた。カラオケの域を出てなかったけどね。ただつまり、イヤホンジャックからステレオのオケは流せるってこと。あのー、誰すか? 物怖じしない子だなやっぱり。えとね、音楽の仕事やってる……やつ。腐れ縁の。説明になってないと思いつつそれくらいしか言えないんだから仕方ない。ねえさんのお友達すか! あそれキュウゾウのトラックすか。それ、に、乗せるんすか? いいっすね! ヒップホップっぽい! じゃあたし、やるなら最近上がった#58_Dmってやつがいいっす。悪くないと思う。やりましょうか、あのカーツウェル使っていいのね? あ、ねえさんの友達さんもるんすか? え。いやちょっと待って、譜面無いよ、書けって言われても無理よ。問題ない。七〇ななじゅっ回は聴いたから憶えてる。あなたも問題ないでしょう? おっす! 一発モノのファンク大得意っす。ですって。さあ、さっさと準備なさい。え、え、ねえさんもやるんすか!? 歌!? もちろん。ちょっと。ちょっとじゃない。この曲の使い方は、あなたが一番よくわかってるでしょう。

 使い方。どうすれば。やるのか。やるのか? たしかにわたしが作った曲だ。構造は心得てる……けども。これはキュウゾウの曲だろう、そこに乗る詞は、わたしのものじゃない。そんなものを公の場でやっていいのか。オープンマイクだとしてもそれは──いや、逆か。わたしものじゃないから、好きにやっていい。わたしのものじゃないなら、それは──


 漁火ちゃん。はい! ギターでね、『Hit It and Quit It』のリフをね……Dmディーマイナーキーにスライドして、テンポはトラックにあわせて、ずっとループしててほしい。八小節単位で回すから所々でインプロは入れていいけど……できる? 呑み込めた、ようで、もう心得顔だった。一晩中いけるっす! よし。あのーはかるさ、インスト版では抜いたフックの声ネタ、の音符のフォローお願い。わかってる。ハモンドでいい? いいね。あとフックのコンピングがたぶん平板すぎるから、オブリをいい感じに。言われなくても。あそうだ漁火ちゃん、コードははかるが維持するから、リフ以外で動くときは基本的に五、六弦の単音でやって。ほとんどベーシストみたいな気持ちでさ。ソロ回すときは合図するから、そんときはもうガーッと上のほうに。オッケーす!

 お、準備整いましたか? それでは八組目の挑戦者! お名前をお願いします! と、ふいの大音声だいおんじょう。名前。お名前は何ですか! えと、そんなんるのか。漁火ちゃんどうする。はかる、なんかないか。気の利いたのないか。どうでもいいか。「何とでも呼びやがれ」です! ははははは! 素晴らしい! それでは何とでも呼びやがれバンド、準備はよろしいですか! 持ち時間は五分以内でお願いします! 観客のみなさんも目を離さずに! それでは──


 ふしぎだな。わたしの部屋の中でしか鳴ってなかった音楽が、こんなところで。いや、違うか。それは常に、起こっているか。誰かのイヤホンの中で、ラップトップの上で、あるいは音源すら無くても鼻歌で──そうだ、この曲のヴァースはこう始まる──It goes 1, 2, 3, 4,


 


 あ。やば終わりかた決めてなかった、と思った瞬間にはかるの右手が停止ボタンをタップし、左手が鍵盤をグリッサンドする。器用だな。それっぽく終われた。と、あ、いや、いまここで佇んでいるわたしは誰だ。誰だった。誰になっていた。


 あれなんの曲? シャザムしても出てこない。ファンク? ヒップホップ? 直接訊いたら。キュウゾウでしょ。の、カバーでしょ。でも声似すぎじゃん? 本、人? 無いだろ。えっ男でしょキュウゾウって。どう聴いても違うだろ。そもそもサンクラのプロフィールに female って書いてあったろ。うそ? 書いてないよ。キュウゾウの曲のリミックス勝手に上げてるアカウントでしょそれ。そうだっけ。なんかる前にやたら細かく指示出してたじゃん。ただのコピバンならあそこまでやる? さあ。えっあれ? あれなの? え、じゃあ。マジで。


 ねえさん、キュウゾウだったんすか……?

 これ、歓声か。そうか。ステージに立ったら、こう、なるのか。やっちゃったのか。漁火ちゃんと目を合わせられない、から、いきおいはかるのほうを向く形になる。、あなた気づいてないの。ここ数ヶ月で作った曲のなかで、何が起こってるか。ほらね、とでも言いたげな目で微笑している。何が起こってるか、わかったでしょう。

 そういうことか。はかる、あんたが言ってたのって。うわあ。、これ、もしかしてあれなのかな。あの時できなかったことが、いつのまにか、できるようになってた。

 お前、誰だ。

 客席から。誰かの声だ。問われて然るべき当たり前の。そうか、君も、他の誰であってもいい者としてここに来たんだな。わたしとおなじように。誰であってもいい。そうだな。そうあっては、答えないわけにはいかない。

 MC93 in da house.




 休憩時間中に何やってんだお前。すいません。いや、休憩時間中だからいいじゃないですか。よくねえよ。撤収作業前にひとステージ終えてくるスタッフがどこにいる。はい。そうですよね。

 一五じゅうご分ほど集合時間を超過したのはまあいいにしても、いやよくないにしても、さすがに迂闊すぎた。ねえさんキュウゾウだったんすかあ、なんで黙ってたんすかあ、とはしゃぐ漁火ちゃんさえなせず、観客の中の数人からもなんだだれだなぜだどこからだどうなんだと審問官めいた詰められかたを。しかしそれを差し引いても、得々と結果発表まで残って九〇きゅうじゅう万円の賞金を三分割して持って帰るまでとは、調子こきすぎたとしか言いようがない。

 ところで、ほんとにお前なのかこれ。ポリカーボネート製のスマートフォンケース、の中の画面に、インスタグラムの動画が明滅している。画角は揺れまくり音声は割れまくりの動画でも、その映像が何時いつ何処どこの誰らの何をとらえているかは明白だった。ちくしょう、ライターでもペンライトでもなくスマートフォンを掲げるようになった観客どもめ。シェアリング時代の申し子どもめ。

 ああ、バズってるくさい、ですか。バズってるって何だ。わだいになってる的な。この「いいね」ってのの数からしたら相当なんじゃねえのか。そうですね、いっぱいついてますね。まさか撮られてるとは思ってなくて。客席見えてなかったのか。まあ……わたし集中しすぎると周りが見えなくなるつうか……知ってるよ。フォークリフトの運転見てりゃわかる。そんなに事故りそうな運転してますか。まあな。普段からな。

 で、どうなりますかわたし。クビですか。しねえけどよ。そんかし、ひとつ訊きたいことがある。はい、どうぞ。っんー、と、電子タバコのカートリッジを灰皿に沈めながらもだす。この人にはよくあることだ、けど、なんか初めてだなこういう顔はお前に限らずよ、はい。歌、をやってる奴ら全員の話なんだけどよ……奇妙な前置き。お前らが、こう、唄ってることは、本当に信じてるから唄ってるのか? ああ、古市さんあなたそんなことを考える人だったのか。いやむしろ、極端すぎるほどの実務家だからこその問いなのか。どう答えればいい。古市さん煙草一本もらえますか。えよ。それにお前電子じゃねえだろ。そうでした。どうしよう、間がもたないな。もたせなくていいのか。ここは、もう、フロウするしか。

 本当にとか言われても困ります。初めはこんな感じ、このまま。だって、歌にした時点で、それはもうわたしの言葉じゃないです。責任持たなくていいってことか。違います。誰かを傷つけるかもしれない、ひどい勘違いをさせてしまうかもしれない、って意味では責任は持たなくちゃいけない。でも、わたしが持ちたくないと思ってるのは、責任じゃなくて著作権のほうなんです。ますますわからないって顔。知るもんか。叩き込む。つくってて──書いてて、唄ってて、これは絶対にわたしがつくったものじゃないな、こんなことできるはずがないな、もうわたしのものとは言えないな、って瞬間が、必ずあるものなんです。みんながみんなそうかは知りませんけど、少なくともわたしにはあります。ふん、それで。だから、だから──唄ってしまったということは信じてないってことだし、でも信じてなきゃ唄いようがないってことです。弾切れ。沈黙。飛躍かな。飛躍してるよなこれ。唄いようがないってことです、これに対して、なぜって問われたら、もう答えられないな。幸いにして、古市さんはそれ以上詰めはしなかった。わっかんねえ。ぐーっと伸びをしながら。すいません、ふふっ。何笑ってんだお前。すいません、ふっ、ふふ。いやあ、ばかなことやったなと思って。そうだな。ばかだな。はい。ふうっ。からになったカートリッジの箱をぐしゃりと潰して、喫煙所まわりにゴミ箱がないことを認めたら、そそくさとポケットにしまう。紙のゴミを自販機横のゴミ箱にとか、そういうことができない人だ。まあ、わかったよ。お前のやってることが、別に会社の迷惑にはならねえってことは。だから、どうでもいい。はい。ほどほどにしろよ、煙草と同じにな。はい。合格、かな。すくなくとも失格ではないよな。あの、古市さん。まだ何かあんのか。いえ、あのですね。さっき三〇万さんじゅうまん入ったんで、この後みんなで焼肉とか行きません?




 そんなんだから金貯まんねえんだろ、って言われた。まあね。おん。確かね、五六ごじゅうろく。そうだね。ただ、酒のいきおいで古市さんもう還暦近いんですからあて言ったら、ころされかけたね。ぶははは。だって、かっこよく歳取れたほうがいいに決まってんじゃんねー。わたしら世代の男とかねえどうしようもないよ。エゴサばっかしやがって、通信会社ごときに首輪つけられちゃってさあ。ずーっと文句言ってるくせにずーっとびくびくしてんの。魂抜かれてんだよ。うん。なに急に。ああ、まあ、順調だよ。いや、心配とかされてもさ。もう充分してもらったし。あれもう何年前だっけ。いや、いい、数えなくていい。やめろやめろやめろもーおーん。はいはい。ん。フォロワー? 増えたよ。そんなん大したことないよ。DMもなんかスパムまがいのやつばっかだし。コメントはまあ、嬉しいけどさ。そうそう、去年上げたトラックにこっそり入れてたダズ・バンドのネタ、あれ気付いてくれた人いたよ。ははははは。ヘッズって感じだよね。返そうかと思ったもんコメント。あははは。まあそんな感じで。続けるよ、もちろん。うん、また連絡する。そうそう、漁火ちゃんにメールアドレス教えていい? スカイプのidならいい、ってどういう理屈だよ。そういうとこ用心深いよね無駄に。むだだよ。直したがいいよ。オッケー。LINEとかよくわかんないから後で適宜やって。適宜、って、なんか使いたくなるよね。ははは。うるせえ。うん。じゃあね。


 明日の一八じゅうはち時の便で帰りか。飯くらいはできるよね。電力会社が腐ってるのと空港の飯屋が不味いのは理由が同じ、なぜならそこではそいつから買うしかなくて既得権益化して新陳代謝の余地がなくなるから、ていうけど、あの親子丼のテナント美味いんだよねけっこう。チェイサーのグラスがやたらきれいなのも、こう、いいんだよな。

 しかしまー、あー、一日休み前夜のひとり飲みってのはどうしてこう至福かねー。チルだねー。自由の勝利。飲もうぜガンガン。仕事のメール返しは明日でいいよね。あもうからだブルックリンラガー。ブルックリンラガー、がからだー。うわーもう金麦しかねえ。ヤンハスでも聴くか。聴かねえよ。ベタすぎるだろ。そうだ先週届いたジュラシック5のデラックスエディションのやつ、あれたしかライブDVD入ってたはず。観よう。いやあしかし、未開封のAmazon包装が溜まってるとやたらなまけものになった気分に、お、電話。画面に【着信:きゅうぞう】の文字。

 うわあ。

 こういう時、ビデオ通話機能付じゃない機種ガラケー使ってて本当によかったと思う。

【受話】。

 お前だろ。お前あれだろ。平田だろお前。プロレスネタ通じる生徒がいなくて寂しくって電話かけてきたんですか先生。違うわ。お前、インスタでえらい出回ってる動画のやつ、あれお前だろ。知ーりーまーせん。どこかの誰かが撮って上げた映像の責任なんかわたし取ーれーまーせん。なーに知らばっくれようか俺の名前勝手に使いよってからに。お前の名前、じゃ、ねーよ! わたしのって二文字とう読みしたらキュウゾウになるってだけだろ国語の授業れい点かお前。それを湯桶読みとは呼ばんだろ国語の授業れい点かお前。だいたいですね今わたしがなにやってようがあなたと一体なんの関係がありましょうかねえ先生。その先生って呼ぶのやめろマジで。なーんもう、なんなん、なんのための電話なんこれ。なんってお前な。夕方の講義終えてめし食ってたら生徒がこれおもしろいですよって見せてきた動画にお前が映ってたから心臓止まるかと思ったわ。こっちの気持ちも考えろ。そっちの気持ちなんか知らんわじゅくこうは作者の気持ちでも考えてろバーカ。もういい加減おとなしくなったかと思ったらあんなバズりかたしやがって、何がしたいんだコラ、紙面を、紙面を飾るなコラ。プロレスネタやめろよしょうもねえ。そんなだからフられた女に数年ぶりに電話かけて一方的に説教するようなザマなんだよ。あんなのフったって言えるかお前、イカれ女がイカれ女にほだされやがって。がイカれてたのは認めるけどわたしは違うから。その証拠にカタギだ今は。

 はあっ、と携帯電話越しに嘆息たんそくが伝わる。不毛な詰りあいに嫌気がさしたのだろう。いや、それはこっちもなのだが。物別れになった男との数年越しの喧嘩とかほんとに御免蒙りたいのだが。音楽やってるのか。やってるのかていうか、見たからわかるでしょ。やってるし、やるしかなかったんだよ、賞金出てたし。と言いつつ、たぶんそれだけじゃなかったよなわたしを急き立ててたのは、とか思う。その金で焼肉も喰えたしうまかったよ。あんたも塾やってんなら焼肉にくらい連れてってあげなよ生徒さんを。そしたら人望あります感出るよ。一体何のアドバイスだこれは。続けるのか。音楽? ああ。続けるつうか、ずっと続けてたらああなったわけ。だけ。有名になりたかったから出たんじゃないのか? んなわけないでしょ。そもそもオーディションとかじゃないよオープンマイクだよあれ。キャプションに書いてあったでしょ。そんな詳細は無かった。なんか【衝撃】ラップバトルシーンに突如現れた激ヤバ女クルー とか、そういう。やっぱどうしようもねえなSNSの雑さは。

 ふうっ、とまた溜息。とりあえず、元気そうだな。うん。どっちがどっちを気遣ってんだか。まあ、あれとつるんでた頃より声も明るくなったし……よかったよ。心配してなかったと言ったら、嘘になるよ正直。重いよ急に。そしてどんだけ深いんだよ傷が。言っとくけど、と別れたからってあんたとヨリ戻す確率はゼロだからね? ふうっ、とこれは憤怒の息吹だな確実に。余計なこと言わなきゃいけない選手権の常勝かお前は? はいそうです先生。ふはははそんなん付き合ってた頃からわかってたことだろ久々に思い出したか。ずーっと心配しすぎてそれすら忘れてたかゴメンな。しかしまあ今日怒れるくらいには元気になれてよかったなあ。言ってやった言ってやった今度はこっちから。

 このふうっ、はたぶん呆れなんだろうな。それでいいよ。お互いに呆れて突き放しあえるくらいが。ところでこれ、何だっけ。何の話なんだっけ。

 でもさ。何。お前がどんな音楽やってるにしてもさ。うん。歌詞、「まえ三ヶ月さんかげつぶんあたい散弾銃さんだんじゅう凄惨せいさんサンタ・サングレ青酸せいさんカリ入りサイダー」はえよ。ぶっ。だいたい誰が聞き取れるんだよこれ。お前が聞き取れてるじゃねえかよ。あほか俺はさっきサウンド? クラウド? で音源聴いたからだよ、ライブの観客は歌詞カード持ってねえぞ。何のどういう心配だよ保護者づらか。うるせえ。穏当な歌詞ってなんだよトイレの神様とかか。あれサービスエリアのうどん屋で流れてきたときはスピーカーにどんぶり投擲とうてきしようかと思ったわ。テロだろ歌詞の。あーもう余計なお世話。親には毎日感謝してるよ。ウォーレンGの『Dear Mama』って名曲があるからそれでも聴いとけ。あれトゥパックだっけどっちだっけ。どっちもだったかもしれない。とにかくよく知りもせんジャンルに口出すな。もう切るから。切るよ。またかけてきたら次は裁判所だよ。刑事? 民事? かの、どっちかだよ。わかったか。おう。なに……その、最後の一言が、余計なんだよいつも。


 通話時間9:48。うわ、そんなに話したか。こんなグダグダな長電話したの久しぶりだな。はかると話すときも、まあ要件しか言わないもんな。あんま弱み見せても、ってこともあるし。うわなんだこの感傷は。中学生日記か。似合わねー、とし甲斐がいもねー、もうやめ。くそーいきなし電話なんかしやがって。アホからかかってきたアホな電話のこと誰かに愚痴りてー。漁火ちゃんにかけてみようかな。あ、あの名刺に電話番号なかったわ。LINEって確か通話もできるんだっけ。そもそもそんなアプリ対応の機種じゃありませーん。ガラケー最高ー。あっメール来てるわ。漁火ちゃんからだ。




件名:なるはやで


おつかれさまです。

ねえさん調子どうですか?特定されたり身バレしたりしてますか?あたしは福岡旅行の先々で特定されまくってます!ただ、あれのおかげで新規のレコーディング仕事が8件くらい来たので、結果的にはおいしかったです♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪あと、賞金の30万はローンの支払いに消えました。


で、今日なんですが、天神のヤマハの教室に遊び行ったんですけど、そこで知り合った人がいまして。名刺もらったんですけど、どうもあたしとねえさんとこくぶさんと直接話したいってことらしいんですよ。とりあえず名刺の写メつけときます。知ってます?有名なひとなのかな?あたしは稼げそうな話なら乗るつもりですけど、ねえさんとこくぶさんの意向教えてくれたらありがたいです。




 つまりね、以上のことを踏まえてね、僕はディオニュシア大祭を政治的制度として、今の日本に復活させたいと思ってるの!

 と、聞き取れた。聞き取れたが意味はまったくわからない。言葉遣いが乱雑なわけじゃない、発音も明瞭としている、表情もにこやかで友好的に話す人の言っていることがまったく理解できないという事態は、率直に言って怖い。

 そうですか。と、こちらとしては言うしかなくなる。どうしようかはかる。さっきからコーヒーカップに口つけてばっかだけどなんか言ってよ。ちょっと漁火ちゃんこの人連れてきたのは君なんだしさ、という意を察してくれたのか、ああ、わかるっす! バトルってことっすよね! いま Rap of China とか Show Me The Money とか、すげえ流行ってますもんね! と、明らかに見当違いの導線を引き始める。ヒップホップならねえさんのほうが詳しいじゃないすか! と、デッドボールに近いパスが放られる。ええと、わたしそれ系の番組あんま好きじゃなくて……とお茶を濁すと、また目の前の男性の口から饒舌の濁流が堰を切る。バトルっちゃあバトルなんだけど、人と人とのバトルじゃないの。僕の言いたいのは、作品どうしのバトりあい、誰が強いとかカッコいいとかじゃあなくてどんな優れた作品を産むことができたかを競い合う闘いって感じかなあ。




RyuDaMadafaka の発言:

とりあえず検索したけど、Dyslexiconって会社の、今度できる日本支社?の代表取締役らしいよ。なんの会社かねこれ。


xxISRBxx の発言:

著作権管理? とはちょっと違う、なんかのデータの取り扱い、みたいなこと言ってました。


HakaruK の発言:

 著作権じゃなくて、世界中の楽曲に関するデータベースの入力と管理を単独で行ってる会社。創業はシンガポールだったかな。


RyuDaMadafaka の発言:

おーあs


RyuDaMadafaka の発言:

おーさすが業界人。


HakaruK の発言:

 名前くらいは聞いたことあるでしょう? 半年くらい前に、 Dyslexicon の製作した MWM ってデータベースが Spotify に売却されたってニュースになってたでしょう。米国ドル換算で15億、だったかな。


xxISRBxx の発言:

MWMってどういうシステムですか?


HakaruK の発言:

 システムというか、流通している音源すべてのパーソナルデータ網羅を目的とするデータベース。たとえば、著作権保護のみを担う ASCAP のデータベースには作詞・作曲・編曲者名の記録義務しかないけど、 MWM にはレコーディングに参加したミュージシャン、レコーディング・ミキシング・マスタリングに参与したエンジニア、サンプリングソースの権利保持者、サンプリングソースのサンプリングソースの権利保持者、サンプリングソースのサンプリングソースの楽曲のレコーディングで使用されたとされている機材の品番、さらにはそれらの楽曲に対して起こされた過去の訴訟まで、無限の項目がある。つまり制作過程とか法的処理とかゴシップとか、著作権以外の情報もメタデータとして収容されるデータベースってこと。


xxISRBxx の発言:

それがなんでSpotifyni


xxISRBxx の発言:

なんでSpotifyに売れたんですか?


HakaruK の発言:

 ブラウジング効果を導入して聴取スタイル自体の刷新を図った、というのが大方の意見。


xxISRBxx の発言:

ええと、ブラウジング効果って。


HakaruK の発言:

 複数の書架を漫然と渉猟していた利用者が、主に偶然によって、自分では思いもかけなかった資料に行き着くこと。図書館学用語。サブスクリプションで音楽を聴く行為自体が、検索検索また検索で、とっくにマンネリだったでしょう。そのアクセスの様式自体を刷新するためにうってつけのデータベースが、 MWM という名前で既にあったってわけ。そりゃ買うでしょう。


RyuDaMadafaka の発言:

つまりあれか。ハプニングを起きやすくしたってことか。


HakaruK の発言:

 簡単に言えばそう。


xxISRBxx の発言:

じゃあ、音源管理を職種とするIT企業、って見ていいわけですよね?まともなかいしゃ?


HakaruK の発言:

 音源管理というか、ほとんど文献学に近いけどね。企業としてはまともと見ていいと思う。というか、悪評の立ちようがないものねこんな業種。


RyuDaMadafaka の発言:

なんでその代表取締役が天神にいたんだろうねえ。


HakaruK の発言:

 むしろ東京で会うよりも至当でしょう。福岡は東京より大陸や半島に近いのだし。もし東南アジアから東アジアの市場に取り入りたいなら、その玄関口は地理的に福岡ということになるでしょう。空港から市街地にも近いしね。


RyuDaMadafaka の発言:

東インド会社みたいじゃん。


HakaruK の発言:

 それは長崎。


xxISRBxx の発言:

まとめていいですか?じゃ、面白そうだしとりあえず会ってみるってことでいいですか?場所と時間はこっちで指定していいらしいんで。国府さん、明日のろくじに出発ですよね?そのにさんじかんまえに空港の店で落ち合う、ってことでいいですか?


HakaruK の発言:

 PM4時頃なら問題ないと思う。あと「國分」。


RyuDaMadafaka の発言:

わたしもそれでいいよ。あしたまた連絡とろうか。ま、あんま期待せずにゆるく行こうよ。よっぽどヤバそうな人がきたら通報すればいいんだしさ。




 果たしてヤバそうな人が来たのだが、その質は通報して済むような安易なものではなかった。

 名前はもう考えてあるの! χορόςコロス。穏やかじゃないっすねえ。そっちの殺すじゃないよ、 koros のほう。ギリシア語? ギリシアというか、アッティカ悲劇の用語ね。そう、みんなさ、ひげきって日本語で言うとかなしいなーつらいなーってそういう劇だと思っちゃうんだけど、原義はぜんぜん違うの。「山羊の歌」ですよね。そうそうそう。みんな『オイディプス王』とかちゃんと読んだことある? あれね、いわゆる物語なんかではぜんぜんないの。歌なのよ。登場人物を狂わせるのも嘆かせるのも昂らせるのも、ぜんぶ歌の力なの。今で言うような気の利いた脚本とかストーリーテリングの力なんて、カケラもないのよ。『バッカイ』でも、途中でペンテウスのキャラがいきなり変わりますよね。そうなのー。もうあなた話はやいわあー、やっぱりあたしの目に狂いなかったわあー。急に一人称が変わったな。つまりね、ディオニュシア大祭ってのは、ギリシアにおいては政治的行事だったの、呑気なお楽しみではなかったのよ。つまりって何。いま異様に話が飛躍したな。それは初期のニーチェが展開していた論旨ですね。そう、あたし今そのへんを全部省略して話してるから、わかりづらかったらごめんねえ。と、わたしと漁火ちゃんのほうを見て言う。いつのまにかはかるが司会進行役みたいになっているが、任せたいと思う。コロスは単なる役者じゃない、舞台装置でもないの。設定されている場所と時間さえも超えてしまって、唄い踊る。だから、その力が今の政治的制度の中で無力だなんて、誰も言い切れないでしょってことなの。だからの使い方が怖い。今あるこの世界なんて、歌ひとつで簡単に覆っちゃうんだから。えっ。むしろ、そのコロスの力を抑圧してしまっているからこそ、今の政治的制度はこれほどまでにざまもなく腐敗してるとも言えるんじゃないかしら。なるほど、一理ありますね。民主制とか簡単に言うけどさあ、ギリシア人の民主制っていまの民主主義とはなんの関係もないからねえ。ポリスの統治、デモスのクラティアが民主制の源泉だけど、でもあの人たちって投票で代表者を決めたりしないよ。むしろ集団の投票で追放したりするんだもん。陶片追放オストラキスモス。そう。投票での多数決が民主主義の原則というのはローマから接収された考えであって、元をたどればインノケンティウス三世が打ち立てたココンンククラーラーヴェヴェなでのすよね。ハモった。ついにハモっちゃった。つまりよォ、俺たちが民主制の本質だと思ってるものなんて、起源たるギリシアとはなんの関係もねえ。だからなんで今オールドスクールのディオニュシア大祭に回帰しちゃいけないんだ、って思わねえか? 論調によって一人称が変わるんだな。ようやく慣れてきた。古代ギリシア人がディオニュシア大祭でやってたように、新たな歌が生まれるとき、そこには必ず新たな世界が生まれるはずだろ。えっ。ちょっとまってそれ、さっきもあったけど。

 なるほど。私としては一通り飲み込めました。ふたりは? キラーパスやめろ心臓に悪い。あたしもだいたいわかったす! アガるほうが絶対イイし、そのアガりをもう社会の? 政治の? ほうまで持っていきたいってことっすよね? 正確には、歌や踊りがそもそも社会的で政治的なものなんであって、そうじゃないと考えるのはやめようぜってことよ。それを大々的に打ち出すイベントを、世界規模でいま開催中ってこと。なるほどお。いまの会話だけだとふつうの音楽人みたいだな。ねえさんいかがっすか? え。わかるだろォーッ? わかります、わかりますけども、そのχορόςコロス? ってイベントもたいへんけっこうなんですけども、そのためにわたしたちに何をやってほしいかがいまいち解らないっていうか……つくってほしいんだよ。何を。もちろん作品を。インスタのあれを見て、あんたらが俺たちと同じ理想を共有してるってことを確信したぜ。そういうのを自己肥大と言います。SoundCloudのほうも全曲聴いたけど、楽曲のストックなら無限にあるんだろ? だからよ、χορόςコロスに参加する日本人アーティストの第一弾として、あんたらをリクルートする。詳しくはこれを読んでくれ、すまんなまだ日本語訳ができてないんだが、χορόςコロスの企画概要。これを読んで異存が無いようなら、書き下ろしの楽曲を指定のアップローダに送ってくれ。それをもって我々のリクルート承諾の意思表明と見なす。いいな。よろしくな!


 どう思う? ちがい。キチガイっすねえ。頭のおかしい人が無駄に金持っちゃって、誰も止めなくなったパターンっすね。だよねえ、断ろうか。えー、やんないんすか? だって、いくらなんでも滅茶苦茶だよ話が。そうかな、筋は通っていると思ったけど。筋の通り方が狂ってんだよ。でも、陽気すよ。狂気だけど陽気っす。あたし人間はバイブスで判断すべきだと思ってるんで、それで言えばあのひと合格っすよ! ええー。だって、そもそもこの名刺さあ、

 杜 琴璽

 なんて読むんだよお。「もり きんじ」すかねえ。日本人名ではないでしょう。中文か、あるいはサンスクリット語源の東南アジア系言語に無理やり漢字の音を当てたか。そもそも名刺渡したらふつう名乗るよなあ。ふつうの人ではなかったすよ。まあね、単に狂ってる人なら簡単なんだけどなあ。だってIT企業の日本支社の代表取締役っすよ。それで問題なくやれてるわけでしょ。うーん。少なくとも、今この国で起業だベンチャーだグローバルだと息巻いてるタイプの人間と比べたら、胡散臭さは微弱なくらいだったけどね。そうかあ? これに参加して、たとえ肝心のイベント運営が大失敗したところで、私たちに累が及ぶことは無いわけでしょう? 契約上。いや、まだそれ読んでないけど……。

 ていうかさ。

 なんか、流れで、これからわたしたち三人が同じクルーとしてやっていくみたいな感じになってるけど。

 そうでしょう。

 そうっすよ。

 いいのかよ。わたしが独りで勝手にやってただけだよ、MC93として。批評的にも興行的にも成功なんて目指してないよ。そんなノリのやつに乗っかっていいのかよ。

 愚問。何日か前に話したばかりでしょう。もう同じではいられない、って。

 沈黙。

 泥舟どろぶね、だよ。

 しゅう、でしょう。

 同じことだよ。

 でも、私は乗るって決めた。いつまでもここに留まっていられるわけがないんだから。そのために会いに来たんだから。乗るでしょう? あなたも。

 もちろんっす! デカいことできそーなのがアガるし、なによりぜにの匂いがするっす!

 沈黙。

 あなたはどうなの。

 どうなの、っていうか。いやね──いいんだけど、面白いと思うけど。ひとつだけ、気になることがある。

 何。

 似過ぎてるんだよ。あの人が言ってたこと、数年前にから聞いたことに、似過ぎてる。

 沈黙。

 ふじらって、誰すか。

 沈黙。

 だからね、。今あるこの世界なんて、歌ひとつで簡単に覆っちゃうんだよ。世界は言葉で出来ている、出来てしまっている。

 憶えてたとはね。

 忘れられるもんじゃないしねえ。

 歌と言葉にかけられている抑圧を解放して、この世界を覆す。確かに似てるかも。だからといってね、あのもりって人との件が関係あるなんて、そんな証拠はどこにもないでしょう。? あいつは関係ないよ! あーいーつーさあーなんか昨日だしぬけに電話してきやがって、キュウゾウって俺の名前勝手に使ったろとかわけのわかん──そっちじゃなくて。え? さっきもらった名刺、を日本語読みしただけ。あ、そっちか。ええ。やべ恥ずかしい。いいから。漁火ちゃんごめんねわけわかんないよね。いや、いいっすよ。

 沈黙。

 と別れたのって。ポーランド。でしょう。シンガポールにあるこの会社とは離れすぎてる。関係ないはず。あいつに地理的な遠さなんか通用するかよ。むしろ、こう考えるべきじゃないかな。あいつが撒き散らした思想が、数年経って、世界中に蔓延はびこってる。まあ、いかにもあいつのやりそうなこと。それに、巻き込まれようとしてる。Dyslexiconて会社も。杜って人も。はかるも。漁火ちゃんも。わたしも。


 ああ。これか。この状態か。。今なら意味がわかる気がするよ。

『桃太郎』って、凄い小説だと思わない?

 そうだね。ようやくあの言葉の意味がわかったよ。歩いてたらついてくる、ってわけだ。きびだんご持って歩いてさえいたら、家来はついてくる。てことは、わたしら今から鬼をりにいくのか。、あなたを桃太郎に喩えるならそうなる。それとも家来どもが謀叛むほん起こしてくびきか。裏で世界を操っていた女を止めるためにほう馳せ巡って、最後にはコーカサス山で対峙しなきゃいけないのか。それはないな。ダサい映画にされそう。それよりもね、。わたし思うんだよ。『ドン・キホーテ』と比べて『桃太郎』が不憫だったのは、退治すべき相手が、本当に存在してしまっていたことだって。殺すべき誰かを必要とする戦争なんて、大した戦争じゃないよ。あなただって、そういうことが言いたかったんでしょ。あいことの戦争。まいおとの戦争。

 



 ねえ、りゅうって姓はね、奄美あまみ由来の姓。一七世紀にね、島津が奄美群島を服属させたでしょ。あの後、島津の殿様が「新田開発で手柄を立てたら奄美出身でも郷士格を与えてやろう」って言いだしてね、それで本当に手柄を立てたのが佐文仁さぶんに為辰ためたつ。島津はこれを認めて「田畑」姓を与えたけど、藩士と差別化するために奄美出身者を一字姓にした。なぜ一字姓かというと、当時の薩摩は中国との交易が無くて、既に冊封さくほう関係にあった琉球を足がかりにする必要があったから。その流れで奄美でも良人ゆかっちゅを擬したからが出てきて、その中の一つが「りゅう」姓。

 つまりあなたに刻印されている姓は、かつて九州南部から奄美・琉球にかけての地帯で、東シナ海・太平洋の両方にひらけた文化の混淆が在ったことを示しているの。そのことを忘れないでね。島津による琉球への侵入は西暦でいえば一六〇九年、クロムウェルのアイルランド侵略と同時期。そして二次大戦以降のアイルランドで何が持ち上がったか、さらに今スコットランドで何が企てられているか、その反動としてイングランドで何が起こっているか。この島国の状況と引き比べて、具体的に考えてみたらいい。そうすればわかるはず、この島には雑多な血がいっぱい混ざっていて、正当で高貴な血統なんてひとつもなくて、そんな正しさ尊さを振り回すやつらが設えた統治なんて、いくらでも覆しようがあるってことが。




変転の詩 (The song NEVER remains the same)

 最終回 執筆:こくはかる


 皆さんこんにちは。突然ですが本コラム、今回で最終回となりました。もちろん上層部の判断などではなく、私本人から直接お願いしてこのような運びとなりました。せっかくの機会ですので、今までを振り返りつつ、いつもよりざっくばらんな感じで書いてみたいと思います。

 まず事務的な告知から。本コラムがスモール出版様から書籍化されることになりました。といっても私は、書籍化に際しての作業には一切携わりません。つまりゲラを直す気もなく、既出の原稿をどのように編集しどのように掲載するかも全て編集部に一任するということです。何をいい加減なと思われるかもしれませんが、印税の受取先も私個人ではなくMME本社の口座にする条件で契約したとまでバラしてしまえば、おそらくそしられることもないでしょう。そうです、つまり私は書籍の売上に関して印税を受け取らないし、受け取るつもりもないということです。もし何かの間違いで大ヒットを納めたなら、その収入はMMEアーティストマネジメント部の予算に充てられるべきでしょう。近頃なにやら、端倪たんげいすべからざる才能のジャズミュージシャンが運営する社内レーベルから質の高い新人の作品が多数輩出されていたにも拘らず、その社内レーベルが満足な説明もなしに突如閉鎖されるなどの不可解な事件も、仄聞するようになっていましたから。

 随分ぶっちゃけるなとお思いでしょうし、あるいはここまでの文面で既にお察しの方もおられるでしょう。ですので、もう直截に書きます。私、こくはかるは、今月をもちましてMMEを退社させていただきます。もちろんこの事由に関しましても一身上の決断により、本社の判断などは一切関係がありません。これから先はフリーランスの作詞家あるいは作編曲家として活動いたします。こくはかるという本名の名義を使用するかどうかについてはまだ検討中ですが、再び皆様のお耳にかかる機会があればと思います。

 本コラムの連載中には、多数の反響を頂戴いたしました。社内の同業者から手厳しい意見を寄せられることは少なくありませんでしたし、回し読みで本コラムに目を通していただいた社外の読者から好意的な賛辞を寄せられることも、また少なくありませんでした。私の貧しい筆業には不相応な光栄であったと、今更ながらそう思います。

 その過程で、私は社内外の同業者(つまり作詞家)の幾人いくたりかを名指しで批判しましたし、最近では名を伏せこそすれ、特定の人物や作品を糾弾することも回を増すごとに多くなっておりました。しかし我が身を省みましても、本コラムで槍玉に挙げたすべてのものごとについて、私は謝罪の必要を感じません。

 が、ひとつだけ申し開きを述べたいことがございます。実は本コラムには、読者諸賢の皆々様でさえ指摘してくださらなかった、致命的な欠陥がございました。数々の「凡庸な職業作詞家」を、寸鉄人を刺す勢いで糾弾してもなお、私の書き方にはまだ不徹底があったのです。何か。

 それは、本コラムで批判される「凡庸な職業作詞家」の中には決してこくはかるが含まれることがなかった、という、まさにそのことなのです。

 私本人もまた、本コラムで厳しく批判されてきたような、定型句ばかりでAメロBメロサビを埋め、それによって金銭を得ることを自明視していた「凡庸な職業作詞家」であったにも拘らず、ひとりこくはかるだけは一度も批判されたことがなかった。そのような書き方、いや逃げ方をしてしまっていたと気付き、私は今更ながら悶死せんばかりの羞恥を覚えました。同業者を批難しておきながら、自分自身の怯懦だけは我が身可愛さで免罪してしまっていたとは。

 ですので、ケジメをつけようと思います。これから私は、今までのこくはかるを、「凡庸な職業作詞家」でしかなかったあの女を徹底的に殺すことから始めます。私がTVコマーシャルや地方自治体タイアップやアイドルソングなどの形態でいくつもの害毒を垂れ流してきた罪を、これからあがなおうと思います。今までのこくはかるとは別の、もっと別の書き方を見出すために。

 果たしてそのようなことが(道義的にも技術的にも)成しうるのか、どうせ自堕落な袋小路に陥って終わりではないか、など様々な疑義がございましょうし、他ならぬ私自身のうちにもあります。しかしすべては、時間と作品が証明することでしょう。幸いなことに、旅は独りで続けるものではありません。もっと別のものに成るための方途を、勇敢な連れ合いたちと、ともに探してゆこうと思います。

 それでは、長いような短いような間でしたが、ご愛読ありがとうございました。最後は私ごときの言葉ではなく、二〇世紀最大の詩人と呼びうる一人である彼の言葉を引いて、結びに代えたいと思います。


「そしてそれから またも立ち去ること 手から手をふり切って

 癒えた傷口を新たに引き裂くように

 そして立ち去ること どこへ? 不確かなところへ

 あらゆる行為の背後にあって 庭か壁なんぞのように

 無関心に立っている書き割りにも似た

 無縁な暖かい国の中へ はるかに遠く

 立ち去ること なぜに? それは衝動から そのさがから

 焦燥しょうそうから ばくとした期待から

 無分別から 無知から


 これら一切をわが身に引き受け

 なぜとも知らずに ただひとり静かに死んでゆくため

 捉えたものを たぶんむなしく落ちるにまかせるだろう


 これが 一つのあらたな人生のかどなのだろうか」



 

 夜。おれひとり目覚めている。

 という『悟浄歎異』ラストシーンの書き出しは、何度読んでも天才的だと思う。できるならこういう感じで目覚めていたいものだと思わさる。そうだ、この短編もの薦めで読んだのだった。中島敦には未だに適切な賛辞が与えられていない、日本語の鍛錬には漢文体の習熟が必要条件であることを彼ほどに理解していた小説家はいなかった、って言ってたっけ。こんな言い方ではなかったっけ。

 けっきょく中島敦は、「わが西遊記」を書き上げることなく逝った。完成していたとしたら、どんな本になってたろうな。『ファウスト』とも『ツァラトゥストラ』とも別のものになっていたはずだ。昇天はもちろんのこと、没落さえも志向しない、非体系的な、ひたすらに平々凡々な。

 また夜だ。煙草一箱と1Rワンルームバルコニー、ふたつの長方形が区画する自由。さらに麦茶とBluetoothスピーカーでもあれば、これ以上のいこいはない。なんという単純な救い。もう夏も終わろうというのに、今年もこうして取り残されている。置き去りにされたあの旅路での、グダニスクの路上の肌理きめの触りは、今も忘れない。忘れられるわけがない。

 わたしは追うだろうか。追おうと考えたことさえあるだろうか。まさか。追いつけるわけがない。あんな実在さえ疑わしい、おぞましいやかましいかしましい、傍迷惑で喧嘩腰な磁気嵐のような女には。

 追わないよ。わたしの旅は、そのためじゃない。わたしが新たに始めるのは、辿り着くためなんかじゃない。追う者は追われる者に勝る、追われる者は追う者を待たぬ。なら、どこにいたって同じか。最初から動かない方がマシか。違うね。それは違う。煙はそんなこと考えない。ただ吐き出されては消えていく。どうせ消えるから、って話でさえない。だって煙はくゆりつづけるから。煙がこの地上から消え去るには、それはつまり酸素がなくならなきゃいけなくて、かなり難儀な話だ。ってことは、当分は続くだろう。煙はくゆりつづける。続き続ける。


 。あなたはわたしをつくった人だ。話し言葉も、書き言葉も、読んできた本も、酒や煙草の趣味でさえも、わたしの中には隠しようもないほどにあなたのきずがある。無いとしたら音楽の趣味くらいか。そっか、だから私は音楽をはじめたのかな。あなたの持っていないものを、せめて返すために。

 じゃあつくるよ。。あなたが思いもしないものを、こっから返してやる。あなたが何を企んでいようと、まさかはかるや漁火ちゃんの存在までもが、計画されていたわけがないのだから。文体は、個人で担えるものじゃないから。わたしたちはもしかしたら、お互いを隔てあう卓の下で、こっそりと手を握り合っているのかもしれない。


この夜だけは。

この夜だけは。

この夜だけは。

俺は譲れやしねえ、この夜だけは。


 あなたが絶対に聴いたことのない曲だなこれは。そういうものを持っている、そういうものばかり持っている。渡せたらいいなとこいねがうものばかり、果たせなかったなとくちしむものばかりだ。それでもまだ、また、わたしはあなたに捧げるものをつくるつもりだ。いつやるのかって問われたら、すでにはじまってるって答えてやる。あなたに置き去りにされたその日から、MC93になるまでの道行みちゆきが、いつのまにかはじまっていたように。また夜だ。まだ夜だ。


ただこれだけは。

この夜だけは。

譲れないさ、ここが在りさえすれば。

俺たち唯一の身の置きどこ


この夜だけは。

この夜だけは。


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