2-3. あんぱんに日本茶は譲れない

「はい?」

「君はお客様が来たから一瞬だけ席を外しただけだよ、不可抗力だ。そもそも私がここにいるべきだったのに、すまなかった」

「ええと……今度は何で類さんが謝るんですか」


 話の矛先が違う方向に行ってしまっている。律が慌てて顔を上げると、律の頭の上から手をどかした類が困ったように自分の頭をかいていた。


「いやー、ちょっと罪悪感が、ね」

「罪悪感?」

「ああいや、なんでもないんだよ。私個人の話で」

「……そうですか」

 何が何だかさっぱり訳が分からないが、類はこれ以上説明する気がなさそうだ。類は普段いい加減なように見えて、実は一度決めたことは結構頑として譲らない。

 これ以上の説明を求めても無駄だと察した律は、それ以上追求しない道を選び、折よく沸騰した湯を急須に注ぎ込んだ。急須や土瓶に茶葉を入れて上から湯を注ぐ飲み方『淹茶だしちゃ』である。


「うんうん、やっぱりあんぱんには日本茶。そこは譲れないよね」

 湯呑みに注がれていく鮮やかな緑色の茶を眺めながら類が頷き、カウンターの上に先ほど自分が置いた風呂敷包みを紐解いた。


「それ、あの有名店のあんぱんじゃないですか!」

 律は思わず歓声を上げる。


 明治維新後は西洋文化が急速に流入し、パンも少しずつ普及し始めていたが、ある時天皇が召し上がったことで一躍、大衆の間であんパンが親しまれるようになった。西洋の食べ物であったパンが日本独自の菓子パンとして庶民に定着し、文明開化を代表する食べ物になったのである。


『文明開化』という言葉が流行り出した明治の初期の流行語に「文明開化の7つ道具」というものがあったのだが、その内訳は「新聞社」、「郵便」、「瓦斯ガス灯」、「蒸気船」、「写真絵」、「軽気球」、「岡蒸気」――そしてのちに、「あんぱん」もその中に加えられるようになったという。


 類が風呂敷から出してきたのは、その代表格ともいえるほど有名店のあんぱんだった。


 普通のイースト菌を使ったパンではなく、米と水、そしてこうじからできた酒種を使った生地に、和菓子になくてはならないあんこが包まれている、その斬新さと格別な美味しさは有名だ。


「君の分も買ってあるよ」

「い、いいんですか!?」

「もちろん」

「ありがとうございます! 代金のお支払い、今でもいいですか?」

 口の中にしっとりとした生地の甘いあんぱんの味が広がるのを思い出しながら、律は思わず前のめりにそう言った。ささやかな贅沢、という程度に値は張るが、その価値は余りある。あの美味しさには抗えない。

 思わず足取りも軽くなるというものだ。


「……君は全く」

「はい?」

 何やら呟いた類を見上げようとする律の前にあんぱんを三つ乗せた風呂敷を広げ、類はお盆に茶の入った湯呑みを三つ、ひょいと乗せて歩き出した。


「あんぱんとお皿、よろしくね。お茶は任せといて」

「え、あの、類さん」

 まだ話は途中だ。律が慌てて呼びかけると、彼はぴたりと足を止め、ややあってから

肩越しに振り返った。

「分かった分かった」

 根負けしたような声だった。

「代金はいつも通りお給金からさっ引いておくから今じゃなくていいよ、安心してお食べ。じゃ、あとは頼んだ」

 類はそれだけ言って、颯爽と遠ざかっていく。

「いやいつも後払いだと申し訳なさが凄いんですが……」

 実はこの前の紅茶だって、かすていらだって、ショートケーキだって、そうやって話をかわされている。前借りした借金のようで、なんとなく心が落ち着かなくて嫌なのに、と律は心の中でぼやいた。

 が。それは律の個人的な気持ちであって、今は変に蒸し返す時ではない。律は慌てて風呂敷包みを抱え、チェストから素早く三人分の小皿を取り出して類の後を追った。


 類が席に湯呑みを置くよりも早く三人分の皿とあんぱんをテーブルの上にセッティングし、類の持つお盆から湯呑みを取って置いていく。何とか間に合った、と心の中で胸をなでおろしながら律は空になったお盆を類から受け取った。


「律さんは本当に仕事が早いですね」

「だろう? 私の自慢の助手だから」

「いやあの、そもそも全部わた……自分の仕事なので。類さん自らお茶運ばせてしまってすみません」

 律はお盆を手にぺこりと頭を垂れる。そんな律と類を見比べ、常盤氏は唇に笑みを浮かべた。

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