1-19. 杯を交わす意味

 千代嬢が不思議そうに首を傾げる。

「葉月様の留学先はイギリス。『蛍』の原曲が生み出されたのは、スコットランドです。彼は原曲の歌詞も知っているのかもしれません」

 類が懐から世界地図を出し、人差し指で該当の地域を指さした。


「原曲の歌詞……って、『蛍』とは違うんですか?」

「うん、全くと言っていいほど違うね」

 律の質問に類はこくりと頷いた。


「原曲のスコットランド民謡は『オールド・ラング・サイン』と言ってね。『懐かしい思い出』と言った意味の曲名なんだ。歌詞も全く別れの歌じゃなく、昔馴染みの人物との再会を喜び、思い出に浸りながら"乾杯"――『杯を交わそう』と謳う歌詞なのだよ。むしろ、再会して昔を懐かしむ歌なのさ」

 つらつらと律に向かって説明した後、類は千代嬢の方に顔を向けた。


「さて、ここで考えていただきたい。原曲では友情に『杯を交わそう』となっていますが、"日本では"思いの通じ合う男女の間で『杯を交わす』ことは、何を意味しますか?」


「えっ……」

 千代嬢は落ち着かない様子で、視線をしばらく宙に彷徨わせた。言葉に詰まった様子の彼女に、類は穏やかな調子で言葉を重ねる。


「ああ、ここでも『三』という数字は重要かもしれませんね」

 それって、と律は思わず声を上げかけた。ちらりと千代嬢の様子を見ると、彼女も律と同じ考えに至ったらしい。無言のまま頬を赤く染め、固まっている。

「まさかあの、ええと……」

 口ごもる千代嬢。それはそうだろう、と律は思いながら恐る恐る口を挟む。


「『三三九度の杯』、ですか?」

 『杯を交わす』という言葉には、日本では大きく二つの意味がある。一つは、文字通り「杯を手に一緒に酒を飲むことや酒席で酒を注いだり注がれたりすること」の意味。


 もう一つは、「重要な約束を守るために、杯を交わして酒を飲むこと」の意味。三三九度もその一つだ。


 神前結婚で夫婦固めの儀式として行われる儀式。夫婦になる男女が、大中小の『三』つの杯で御神酒おみきをくみ交わす――それが、『三三九度の杯』である。


 このオルゴールを男性から女性に贈った意味を考えてみた上で、原曲の『杯を交わそう』と謳う歌詞と日本語のもつ特別な意味を組み合わせて考えると、その特別な「杯」を交わそうという意味になるのでは……そう、類は言っているのだ。


「律くんが答えてどうするのさ。君はすぐ正解を出してしまうんだもの、つまらないね」

 類がわざとらしくため息をつく。


「類さんはもう少し乙女心を理解してください」

 当事者が自分から『まさか結婚式の儀式ですか』なんて突っ込んだことを言えるわけがないだろう。千代嬢のように慎ましやかな女性なら尚更だ。


 そして、それが意識している相手に関わることなら、なおのこと。


「結論から言うと、何もご不安になることは無いということです。むしろ逆に手の込んだアプローチでしたね」

 ごほんと咳払いをしながら、律が話の矛先を元に戻した。


「あの……私、何と言ったらよいか」

 不安げに部屋に入ってきた時の様子から一転、千代嬢は狼狽たように顔を赤くしている。


「良いも何も、嬉しいなら素直に嬉しい、で良いと思いますよ。私の予想ですが、葉月様はそのうち今回のオルゴールについて、きっとそこに込めた意味を説明するはずです。その時、ご自分が今回の件でどう感じたか素直にお話しなさってみてください」

 類が微笑みながら言った言葉に、千代嬢の目が揺れた。


「私がどう感じたか、ですか」

「はい。今回のように、はっきり言わないと真意が伝わらないこともありますから」

 千代嬢は深く一度頷き、緊張の糸が切れたかのように突然大きなため息をついた。


「……ええ。確かに、そうですわね。私も素直にならなければ。びっくりしましたわ、しばらく便りもこないと心配していたらこれですもの……。そうですわ!」

 呟いたかと思うと、彼女は最後の語気を強めてものすごい勢いで立ち上がる。前に座っていた律は思わずびくりと体を震わせた。


「こうなったらじっとしてなんていられません! 手紙を書かなければ、ああでも私が現地に行った方が……!」

 そう言い募る千代嬢。律は目を瞬かせ、類はにこにこと満面の笑みで立ち上がった。


「そうですね、善は急げと言いますし。急いだ方がいいでしょう」

「すみません、東雲様に小早川様、あの……本当に何とお礼を言ったらよいか」

 千代嬢が我に返ったように、落ち着いた仕草で綺麗な礼をする。

「いいえ、私も得るものがあったので有難いのですよ。ぜひ、これからも東雲呉服店ともどもご贔屓に」


「勿論ですわ。今回お世話になった件、皆様にもお話ししなければ」

 最後の『今後ともご贔屓に』の箇所で類の商売人味を感じ、上手いなと律は心の中で唸った。なるほど、こうして信用を積み重ねていけば、さらに着実に堅強なお得意様がつながっていく。


 そんな世知辛さに思いを馳せている律の前で、類が机の上からひょいとオルゴールを手に取った。

「では乃木様、お預かりしていたこちらをお返しします」

「本当にありがとうございました」

 深々とお辞儀をしながら、大切そうな眼差しでオルゴールを受け取る千代嬢。そんな彼女に、類が笑いかけた。


「そのオルゴール……ではなく、『ミュージカルボックス』を、どうかお大事に」

「……はい」

 千代嬢ははっとした表情をしてから顔を真っ赤にし、消え入るような声で頷いて部屋を出て行った。

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